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小牧山城の大手口から山頂の本丸へ、さらには山麓の東側から北側へと回って来て、なかなか見どころの多い城郭だと思いました。遺構もさることながら、織田信長が築城し、徳川家康が豊臣秀吉との戦いで陣を置いた小牧山は、歴史のターニングポイントでもあったように思います。小牧山城は1563年、織田信長が清須城から本拠地を移すために築いた城です。小牧山城天守から見た清須城の方向織田信長が清須から本拠地を移すにあたり、小牧山が本命だったのですが、辺鄙な場所だったので家臣団の反発を予想していたと言います。そこで小牧山よりさらに辺鄙な場所への移転を持ち出したところ、当然ながら家臣団は反発しました。そこで「ならば小牧山ではどうか」と言ったところ、「小牧山の方がまだまし」と家臣団も賛成したと言います。(織田信長らしからぬエピソードだとは思いますが)ところで織田信長は、元来の那古野城→清須城→小牧山城→岐阜城→安土城と、生涯で4度も本拠地を変えています。(本能寺の変がなければ、安土城の次は大阪だったとされています)小牧山城天守から見た金華山(岐阜城(稲葉山城))本拠地を変えることはもちろん、旧国名でいうと尾張→美濃→近江→(摂津)と変わるのは、当時の戦国大名としては異例のことだったと思います。現代風に考えるならば、本社を移転することすら一大事なのに、さらには日本から海外各地を転々とするようなものでしょうか。個人的にどの時代の日本史でも「コメの歴史」、すなわち稲作に依存した歴史だと考えると、あらゆることが腑に落ちてくると思っています。古来よりコメそのものが給料であり税金であり、流通貨幣でもありました。(日本史で登場するあらゆるヒエラルキーも、ここで納得できるかと思います)大名の財力も「石高」すなわち「いくらコメを作れるか」で決まっており、コメを作り出す父祖伝来の地を守ることは当然のことかと思います。戦国大名も常に合戦をしていたわけでなく、配下の兵も普段は農業に従事しているため、合戦もやむなく農閑期に行われていました。その農業経済を最初に商工業経済へと移したのが、織田信長だったではないでしょうか。農業経済から脱却することで、農閑期以外にも軍を持つことができ、いつでも合戦ができる常備軍を持つことができました。そう考えると、いち早く「コメの経済」から脱却すべく、小牧山城の城下町に計画的な商工業都市を造ったのも納得できる話です。(後の岐阜や安土の商工業城下町、楽市・楽座につながる原型がここにあったと思います)話を小牧山城に戻すと、織田信長が岐阜城へ移ってしまったため、廃城となっていました。そして1584年、織田信雄・徳川家康連合軍VS豊臣秀吉軍の「小牧・長久手の戦い」で、この小牧山城に目を付けて陣を置いたのが徳川家康です。そして徳川家康と豊臣秀吉が唯一合戦を行った舞台でもあります。徳川家康が局地戦で勝利したものの、織田信雄の単独和睦により、「判定負け」といったところでしょうか。小牧山天守から見た長久手方面日本城郭協会「続日本100名城」
2017/10/30
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本丸の天守を降りた後は、小牧山の東側から北側へと回ってみました。大手や城下町とは反対側になる場所ですが、発掘調査の結果武家屋敷が置かれていたことが判明しました。特に東側の山麓は広く削平されており、空堀を隔てて曲輪の跡が残っています。東側の帯曲輪小牧山城を築城した織田信長の居館もここにあったとされています。織田信長居館跡なるほどよく見れば、この辺りの曲輪だけ方形になっていました。東側の土塁織田信長の時代にこの土塁はなかったとされ、小牧・長久手の戦いの時に徳川家康が築いたものと思われます。搦手口も南側の大手や城下町と正反対の北側にありました。水堀の外堀が築かれ、土塁の傾斜も急な感じがします。搦手方向の土塁搦手虎口跡小牧・長久手の戦いで、豊臣秀吉軍は小牧山の北にある犬山城に陣取ったため、徳川家康は搦手に敵を受けていたことになります。
2017/10/29
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名鉄岐阜から各務原線に乗って終点犬山で降りた後、さらに犬山からは名鉄小牧線で名古屋市内を目指しました。名鉄小牧線の小牧駅を最寄りとするのが小牧山で、かつては小牧山城が築かれていました。犬山城天守から見た小牧山小牧山とは言え標高は85.6mしかなく、山というよりは丘といった感じです。岐阜城から見た小牧山それでも濃尾平野でさらに独立峰となれば、築城するには高度以上の価値がある地形です。実際に戦国時代の1584年、豊臣秀吉軍VS織田信勝・徳川家康連合軍の「小牧・長久手の戦い」で、徳川家康はまずこの小牧山に陣地を敷きました。小牧山城縄張図搦手にあった案内板ですが、小牧山城の縄張がよくわかりました。小牧城跡は小牧山公園として整備されており、小牧駅に最も近い南東側には、小牧・長久手の時に徳川家康が築いた空堀と土塁が残っています。南側の空堀南側の土塁城郭には築城主の性格が出ると思っていますが、小牧山城の縄張を見る限り、用心深さと慎重さを感じました。かつての大手口に回ってみると、土塁も一層高くなっている気がします。大手付近の土塁甲州武田氏が滅亡した後、徳川家康は旧武田氏の家臣を召し抱え、軍制も武田流に変更したとされています。築城でも武田流の築城術を真似たならば、大手口には丸馬出くらいはあったかも知れません。大手口の登城道大手から斜面を登っていくと、腰曲輪と土塁が何重にも張り巡らされていました。腰曲輪跡現在遊具が置かれている広場は、「桜の馬場」の名前が付いていたようです。桜の馬場の腰曲輪跡桜の馬場に続く土塁山麓から頂上の本丸まで、腰曲輪と土塁が交互に続く感じです。本丸直下の腰曲輪本丸には石垣が残っており、発掘調査の結果、織田信長の築城時に築かれたものと判明しました。石積みの技術としては初期の古い技術で、野面積みもさることながら、石垣も高く積めなかったようです。発掘調査で出土した裏込石山頂の本丸には、天守の形をした「小牧歴史館」が建っています。小牧歴史館史実に基づかない鉄筋コンクリート造りの模擬天守ですが、個人の私財によって建てられたものです。天守の最上階に登って南側の大手方向を見渡すと、かつての城下町を望むことができました。織田信長が整備した小牧山城の城下町は、商工業都市として発展し、その後の楽市楽座の原型があったとされています。
2017/10/28
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国宝5天守の中でも、犬山城の天守は最も古い天守とされています。(現地解説板より)確かに望楼型の古いタイプの天守ではあります。天守が現存する城郭は、犬山城も含めて12城しかありません。(その他は弘前城・丸岡城・松本城・彦根城・姫路城・松江城・備中松山城・丸亀城・伊予松山城・宇和島城・高知城で、犬山城を含めて松本城・彦根城・姫路城。松江城の5天守が国宝に指定されています)天守から見た本丸天守以外の建造物は明治の廃城令で取り壊されたため、現存するものではありません。天守内部上段の間破風(はふ)唐破風を城内から見るのも、現存天守ならではかも知れません。長良川今度は犬山城から岐阜城のある金華山を眺めてみました。岐阜城(稲葉山城)のある金華山犬山城の築城は1537年のことで、織田信長の叔父にあたる織田信康によって築城されました。1584年の小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉が12万の大軍を率いて犬山城に入城し、小牧山に陣を置く徳川家康と対峙しています。犬山城天守から見た小牧山城それにしても手前の「あゆ釜めし」の看板の方が気になります。江戸時代に入った1617年に成瀬正成が城主になってからは、明治になるまで代々成瀬氏が城主を務めました。廃藩置県になっても成瀬氏の個人所有となっており、平成16年まで成瀬氏が城主でした。日本城郭協会「日本100名城」
2017/10/27
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大垣から名古屋へ戻る時、JR東海道線で真っすぐ帰るのが普通かと思います。今回はJR岐阜駅でわざわざ名鉄に乗り換え、さらには名鉄各務原線という、我ながら奇特なルートを利用しました。向かった先は各務原線の終点、犬山です。岐阜城天守から見た犬山城名鉄を犬山駅で降り、犬山城へ向かう途中には、かつての城下町を偲ばせる街並みが残っていました。寺内町の街並み城下町の東に寺院が配され、城下町の防御の役目も果たしていたようです。大手町の街並み三の丸の大手門があった場所ここからが丸の内、城内となります。三の丸から本丸へ続く道を行くと、針綱神社と三光稲荷神社の鳥居が見えてきました。三光稲荷神社の参道本丸は丘陵部にあるため、神社の階段も登城道になります。神社の裏手には、戦国城郭を思わせるような空堀の跡も残っていました。空堀跡矢来門跡本丸虎口には「本丸門」が建っていますが、犬山城の櫓や門は明治6年の廃城令によって取り壊されたため、後世になって復興されたものです。本丸門当時は「鉄門」と呼ばれる門が建っていました。櫓や門は残っていないものの、犬山城には貴重な天守が残っています。現存12天守の1つであり、国宝5天守の1つでもあります。
2017/10/26
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歴史に「もしも」や「たられば」は禁物ですが、「もしも長篠・設楽原合戦の時に武田信玄が存命だったならば…」そもそも歴史上にこの合戦はなかったかと思います。織田信長も畏れる武田信玄に決戦を挑むことはなかったでしょうし、武田信玄も織田信長が出てきたと知れば、待ちぼうけを食わせてさっさと引き上げたことでしょう。武田信玄亡き後、織田信長は最強の甲州武田軍との決戦を挑み、武田勝頼も長篠城の籠城戦から織田信長との決戦を主張していました。長篠城の北方、医王寺山にある武田勝頼本陣設楽原での武田勝頼陣地付近一方で武田信玄の時代からの重臣たちは、織田信長との決戦回避を主張していました。それでも軍議で決戦が決まると、馬場信春・内藤昌豊・山県昌景・土屋昌次の名立たる武将たちは、馬場信春の陣所である大通寺に集まり、井戸の水で水杯を酌み交わし、決死を誓ったといいます。その水杯の井戸が、大通寺の裏手に残っていました。織田信長が大規模な鉄砲隊を組織していることを武田軍が知っていたかどうかはわかりませんが、いずれにしても最強の武田軍が壊滅してしまうほど、斬新な戦法だったかと思います。武田信玄時代からの重臣たちは、この設楽原がまさに最期の場所となりました。内藤昌豊墓所山県昌景墓所それにしても設楽原でチョイチョイ見かけるこの「いろはかるた」、何気にえげつないことがさらりと書かれています。甘利信康墓所土屋昌次は馬防柵まで取りついていたようで、「土屋昌次 柵にとりつき 大音声」のいろはかるたがありました。敗色濃厚となった時、武田勝頼を逃すために、最も難しい殿軍を務めたのが馬場信春でした。これまで数々の城跡や史跡で名前を聞いてきた名将馬場信春の最期の地は、鳥居強右衛門の墓所に近い長篠城の南側にあります。設楽原古戦場に建つ馬防柵の説明版には、こう書かれています。「織田・徳川連合軍にとっては、勝利を呼ぶ重要な布石であり、逆に武田軍にとっては、勝利を阻む痛恨のしがらみとなったのである」現地にある屏風絵図
2017/05/07
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戦いの舞台は長篠城の攻防戦から、設楽原の決戦へと移ってきました。鳥居強右衛門がまさに命を懸けて岡崎城に着いた時、すでに徳川家康の援軍8千も岡崎に到着しており、織田信長も自ら3万の大軍を率いて岡崎に到着していました。長篠城の救出という局地戦から、歴史を変える大決戦への転換点となったのが、この設楽原です。連吾川を挟んで西側(画像左側)に織田・徳川連合軍、東側(右側)に武田勝頼軍1万5千の布陣です。徳川家康が本陣を置いた弾正山の近く、陣頭指揮を執った八剣山の陣所には、「長篠設楽原決戦場」の碑が、ひっそりと建っていました。徳川家康からすると、この戦いは娘婿である奥平信昌の長篠城を救出するための援軍だったかと思います。その徳川家康の援軍である織田信長の本陣は、徳川家康の本陣から北へ約2km、茶臼山にあったようです。設楽原から見た茶臼山の方向織田信長にしてみると、これまで恐れていた武田信玄亡き後もなお最強を誇る武田軍との間で、雌雄を決するための出陣だったかと思います。そして織田信長の敷いた布陣と戦法は、合戦のありかたまで変えてしまったと思います。復元された馬防柵かつて馬防柵が置かれた織田・徳川軍の陣地に目を凝らすと、削平地と土塁のような跡が見られました。土塁と馬防柵による野戦築城に鉄砲の一斉射撃。この前例のない戦法に着想するだけではなく、当時最強の甲州武田軍との決戦で実践するあたり、改めて織田信長には畏敬を感じます。それでも織田信長にも不安はありました。設楽原に布陣したところで、果たして武田勝頼が長篠城の包囲を解いて決戦を挑んでくるかどうかです。岡崎城での軍評定の時、徳川四天王の一人である酒井忠次は織田信長に一つのアイデアを進言しました。それは長篠城を包囲する武田軍の砦の一つ、鳶ヶ巣山を夜間に背後から急襲し、武田軍を設楽原に誘き出すという妙案です。長篠城から見た鳶ヶ巣山ところが軍評定の中で織田信長はこの案を一蹴してしまい、徳川家康にしても酒井忠次にしても面目丸つぶれと言ったところでしょうか。実はこれは織田信長の本心ではなく、敵方の間者に漏れるのを恐れて、あえて軍評定では一蹴したものでした。軍議の後にすぐさまこの案を採用すると、酒井忠次は500丁の鉄砲隊と共に、鳶ヶ巣山の砦へと急行しました。鳶ヶ巣山には、その当時の砦跡が残っています。武田軍の背後を急襲すると共に、長篠城の救出戦まで実行したのが酒井忠次隊です。ところで鳶ヶ巣山の砦跡には「天正杉」と呼ばれる倒木があり、樹齢は300年を超えていることから、この合戦の当時には現存していたとされています。酒井忠次によって背後を衝かれた武田軍は、織田・徳川連合軍の待つ設楽原へと押し出される形となりました。そして設楽原では徳川家康配下の大久保忠世・忠佐の大久保兄弟が囮となり、馬防柵の外に出たり内に入ったりしながら、武田軍を誘きよせるための陽動作戦を展開していました。徳川軍の馬防柵織田軍と違って、出入口が設けられています。徳川家康にしてみれば、娘婿の守る長篠城を救出するために自身の援軍8千では、到底武田軍1万5千に立ち向かえなかったことでしょう。織田信長の援軍3万によって救われた戦いにあって、酒井忠次と大久保兄弟の功績で借りを返した感じでしょうか。これまで小説等で見聞してきた長篠設楽原の戦いですが、実際にその場所に立ってみてみると、初めて当事者それそれの思いがわかるような気がしました。以下司馬遼太郎さんの「功名が辻」の一節より「柵外を見よ。 武田の騎馬隊が、押し太鼓を天地にひびかせながら、寄せてくるのである。 多くは、 武田の赤備え と称せられる朱具足である。 赤い津波が、伊右衛門(山内一豊)らの陣にひたひたと寄せて来る。」馬防柵の内側に立つと、武田軍の陣地は目と鼻の先のように思え、その恐怖がわかるような気がします。歴史の知る通り、この戦いは織田・徳川連合軍の圧勝に終わりますが、山岡荘八さんは「徳川家康」の中で、この戦いについて次のように述べています。「いかに駿足の騎馬武者に対しても、鉄砲さえあれば足軽の集団でこと足りるという、戦術上、思想上の一大革命がなしとげられた」「かつては一粒選りの大将勇士らを必要とし、そのために高禄を惜しまなかったのが、今では鉄砲さえあればよく・・・」まさに歴史を変えた一戦だったと言えるでしょう。それにしても後の歴史を考えると、設楽原に集結した織田信長軍の陣地には、錚々たる面々が並んでいます。織田信長、織田信忠、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、羽柴秀吉、佐久間信盛、滝川一益、佐々成政、前田利家、稲葉一鉄・・・徳川軍も含め、この人たちと同じ場所にいるというだけで、感慨深いものがありました。徳川家康 颶風の巻 7 / 山岡荘八 著 - 講談社功名が辻(1)新装版 [ 司馬遼太郎 ]価格:648円(税込、送料無料) (2017/5/9時点)
2017/05/06
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これまで数々の城跡を訪ねてきましたが、実戦を経験している城郭はそれほど多くはありません。しかも激しい籠城戦を勝ち抜いた城郭となれば、数えるほどでしょうか。長篠城も激しい籠城戦を勝ち抜いた城郭の一つで、ましてや相手は当時最強と言われた甲州武田軍で、武田勝頼自らが率いる大軍です。井伊谷のある奥浜名から国境を越え、その長篠城のある奥三河へとやってきました。(クルマで30分ほどの距離です)長篠城は、寒狭川と宇連川が合流するY字型の場所に造られています。寒狭川と宇連川の深い渓谷は天然の要害となっており、城の外側から眺めて見ると、その様子がよくわかります。寒狭川(左)と宇連川(右)が合流する中央部に長篠城があります。現在の長篠城は二の丸と本丸の一部が残っており、北側の大手口の方へ回ってみました。北側はさほど堅固な印象はなく、「よくぞこの城であの籠城戦を戦い抜いた」という感じです。縄張図(地図の下側が北になっています)倉屋敷のあった巴城曲輪のあたりは、住宅の敷地になっていました。巴城曲輪跡二の丸跡には史跡保存館があり、GWとあってお祭りみたいなのがあるようでした。二の丸から本丸へと向かう間には、空堀と土塁の跡が残っていました。空堀跡土塁跡本丸跡あれほど激しい籠城戦を戦い抜いた本丸にしては、いかにも華奢な感じがします。本丸跡の碑の横には、皮肉なことに甲州武田軍の軍旗が掲げられていました。色違いで、風の影響で向こうを向いていますが、孫子「兵法」の一節「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山」と確かに風林火山の旗印です。さらに本丸に並ぶ軍旗を見ると、武田軍の名立たる武将のものが、綺羅星のごとく翻っていました。武田勝頼自ら率いる軍勢で長篠城を落とせなかったばかりか、その後で武田軍を襲う悲劇を考えると、皮肉もいいところだと思います。長篠城のある奥三河は、三河・遠江進出を図る武田氏と、それを防ぐ徳川家康との攻防ラインでもありました。長篠城主であった奥平信昌は「山家三方衆」と呼ばれた奥三河の豪族で、当初は武田氏に属していましたが、武田信玄亡き後に徳川方に寝返っていました。奥平氏の寝返りと共に、長篠城も徳川家康が武田氏からの奪還に成功しましたが、戦国時代にあっては敵方から寝返った武将は、敵方に対する先鋒を命じられるのが常です。奥平信昌も武田氏の信濃国との最前線にある長篠城の城主となり、今度は武田氏からの攻撃に備えていました。武田勝頼としては、信濃から三河へ進出するにあたって、長篠城は是非とも取り返したい城です。さらに徳川家康に寝返った奥平信昌が城主とあっては、なおさら長篠城の奪還に意欲を燃やしていました。そして1574年、武田勝頼は自ら15,000人の大軍を率いて長篠城を包囲しました。「城攻め3倍の法則」と言って、城の守備兵の3倍の兵力で攻めれば落城すると言われています。長篠城の籠城戦では、城の守備方500人に対し、攻め手は15,000人の大軍でした。長篠城は実に30倍の兵力で攻め込まれており、これではどんな難攻不落の城であっても、間違いなく陥落することでしょう。しかも相手は当時最強と言われた武田勝頼率いる甲州軍で、武田信玄亡き後とは言え、まだまだ最強の力を誇っていました。長篠城本丸から見ると、武田軍が包囲陣を置いた山々が目と鼻の先に見えます。実は10年近く前にも長篠城を訪れたことがあり、新東名高速が完成した以外、何も変わっていませんでした。当時と同じく、この山々に武田軍の軍旗が翻っていたと思うと、ぞっとする気がします。長篠城のすぐ北側には、武田信豊・馬場信春・小山田昌行が陣を置いた大通寺山があります。大通寺大通寺から見ると、長篠城はすぐ目と鼻の先にありました。その距離もさることながら、敵将の名前を聞いただけで戦意を喪失しそうです。総大将の武田勝頼の本陣も、長篠城から北へ約1kmの医王寺にありました。医王寺背後の丘陵部に物見櫓が復元されています。このように周囲を隙間なく武田勝頼軍に包囲された長篠城では、城主奥平信昌以下500人の城兵や一般人が必死の防戦を行っていました。奥平信昌としては、降伏・開城はもちろんですが、落城させて武田勝頼を三河に進出させることも許されない状況です。城主奥平信昌は徳川家康の援軍を信じて、常に城内を鼓舞しながら戦っていたといいます。武田軍も兵糧倉を火で落とした上、周囲の川には網を張って城兵の脱出を防ぐという、徹底した兵糧攻めを行いました。激しい攻防戦が続き、兵糧もあと4,5日となったところで、岡崎城にいる徳川家康に援軍を求める使者に立ったのが鳥居強右衛門です。敵の包囲を逃れて城を脱出するには、川を泳いで渡る必要があり、一雑兵でありましたが、水泳が得意な鳥居強右衛門は、自らこの大役を買って出ました。長篠城を出た鳥居強右衛門は、武田軍の包囲をうまく逃れ、寒狭川から豊川を約6km泳いで対岸に辿り着きました。川から上がると、500人の城兵の運命を背負い、徳川家康のいる岡崎城目指して山中を駆けて行きました。(長篠城から岡崎城までは直線でも50km以上もあります)無事鳥居強右衛門が岡崎城に着いた時には、すでに織田信長も自ら援軍を率いて岡崎城に到着していました。「翌日に援軍を出す」という話を聞いた強右衛門は、家康からの休息の勧めを断って、再び城兵の待つ長篠城を目指して駆け始めました。しかしながら長篠城をすぐ目の前にして、強右衛門は武田軍に捕まってしまいました。武田軍からは、「長篠の城兵に向かって『援軍は来ない、開城せよ』と言えば、命を助けて知行をやる」との条件が出されました。鳥居強右衛門はこの申し出に素直に応じ、城兵に呼びかけるべく長篠城近くに立たされました。そして鳥居強右衛門は長篠城に向かってこう叫びました。「城中の方々、強右衛門でござる。お味方衆、ご安心されよ。織田信長公岡崎にご着陣、援軍到着は近いぞ。守りを固められよ」それを聞いた長篠城内からは喚声が沸き起こりました。当然ながら武田軍は激怒し、強右衛門を引きずっていき、長篠城対岸に磔にしました。その鳥居強右衛門が磔にされた場所が、今も残っています。木々に隠れていますが、ここに立つと寒狭川を挟んで長篠城はすぐ目の前です。喜びに沸く長篠城の様子は、強右衛門の目にはっきりと浮かんだことだと思います。鳥居強右衛門が磔にされる様子は城内からもよく見え、城主奥平信昌以下全員が涙を落とたそうですが、一方の鳥居強右衛門は、磔にされる時も微笑を浮かべていたそうです。その勇気に感激した武田方の落合左平次が、その最期の姿を旗印にしようと書き写しています。本丸に立つ落合左平次の旗印その鳥居強右衛門の墓所は長篠城の南の新昌寺にあります。新昌寺鳥居強右衛門、享年36歳。その勇気ある行動を称え、430年後の今、静かに合掌しておりました。長篠城の強さは天然の要害にあるのではなく、城主奥平信昌と鳥居強右衛門を初めとする500人の城兵によるものです。そして翌日に織田・徳川連合軍38,000人の援軍が到着し、長篠城は解放されると同時に、戦いの舞台は歴史に名を残す設楽原へと移っていきました。(財)日本城郭協会「日本100名城」徳川家康 颶風の巻 7 / 山岡荘八 著 - 講談社
2017/05/05
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天下の趨勢を決定する場面によく登場してくるのが清洲城です。織田信長が桶狭間の戦いの時に本拠地としていたのが清洲城ならば、織田信長亡き後、豊臣秀吉が「清洲会議」で天下の主導権を握ったのが清洲城で、関ヶ原の戦いの直前に、徳川家康方の東軍が集結したのも清洲城でした。そんな歴史の大舞台に登場する清洲城なので、清洲駅前には大々的に案内板や幟が立っているのかと思っていたら、意外と地味なので拍子抜けしてしまいます。清洲城跡は「清洲城古城跡公園」・「清洲公園」として整備されており、公園内には小高い丘陵部があって、傍らに城跡碑がひっそりと建っていました。「清洲古城趾」の碑小高い丘陵部は古墳のような感じですが、実は本丸の土塁跡だそうです。土塁の頂上部には祠があって、織田信長が祀られています。祠の横には、「右大臣織田信長公古城跡」の城跡碑と「清洲城霊碑」と書かれた顕彰碑が建っていました。「右大臣織田信長公古城跡」碑「清洲城霊碑」文久2年(1862年)と記されており、おそらく織田信長と清洲城のことが書かれているのでしょうが、すべて漢文なのでちゃんと読んでいません。本丸の背後を流れる五条川の護岸工事の時、石垣が発掘されたようですが、その石垣を見逃してしまいました。また、名古屋城の御深井丸に建つ北西櫓は、清洲城の天守の部材を移築または転用したものとされていますが、こちらも見ていませんでした。したがって、確認できた遺構と言えば、この本丸土塁の一部だけです。背後を流れる五条川の方に行ってみると、様子が一変してきました。おそるおそる近づいてみると、表門の脇にはご丁寧に「信長塀」が復元されていました。信長塀は桶狭間の戦いで勝利した織田信長が、その御礼として熱田神宮に寄進したものです。熱田神宮にある本物の信長塀(2009年8月)現在の天守はもちろん後世になって建てられたもので、清須町(当時)の町制100周年を記念して、平成元年に完成したものです。史実でも清洲城には天守が建っていましたが、外観や規模の詳細は不明のため、推測で建てられた復興天守です。華頭窓を備えた望楼型天守で、下見板張りの外壁に野面積みの石垣と、桃山時代を思わせる良識的な復興天守だと思います。清洲城の歴史は古く、足利政権の尾張国守護であった斯波義重が、1405年に築いたのが始まりとされています。築城当時は守護所である下津城(稲沢市)の別郭でしたが、1476年に下津城が焼失してからは清洲城が尾張の守護所となりました。この頃は尾張国守護代であった織田氏が力を持つようになり、その織田氏も内紛で分裂していたため、清洲城は清洲織田氏の本拠となっていました。清洲織田氏の当主は織田信友でしたが、織田信友が尾張国守護である斯波義統を殺害すると、1555年には那古野城(名古屋城)の織田信長が織田信友を討って、清洲城を本拠地としています。清洲公園にある織田信長像織田信長が清洲城から出陣した1560年の桶狭間の戦いについて、小和田哲男先生は「織田信長は清洲城での籠城も考えただろうが、清洲では籠城に不向きだったのではないか」と指摘しています。天守望楼から眺めた清洲城の遠景手前を流れる五条川の向こう側が城跡で、東海道新幹線・東海道本線を挟んだ右側が本丸、左側が二の丸となります実際に辺り一面の平野が広がっており、要害となるのは川だけなので、大軍を前にした籠城戦には耐えられないかも知れません。織田信長が本能寺の変で討死すると次男織田信雄が城主となり、さらには豊臣秀次(秀吉の甥)、福島正則と、錚々たる面々が城主に名前を連ねています。関ヶ原の戦いでは、福島正則らの東軍が集結したのは清洲城で、清洲城から石田三成方の大垣城目指して出陣していきました。関ヶ原の戦い後は、徳川家康の九男徳川義直が城主であった1610年に、徳川家康は清洲城から名古屋城へ拠点を移す「清洲越し」を指示しました。天守望楼から見た名古屋市内清洲越しの時に詠まれた歌があり、「思いがけない名古屋ができて 花の清洲は野となろう」と言われました。この清洲越しによって清洲城は廃城となりましたが、石垣・橋・武家屋敷などの建材は名古屋城の築城に利用されたそうです。
2015/09/17
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名古屋城の本丸には、東・南・北の3ヵ所に虎口があります。うち南側の虎口が大手口で、表門が現存しています。本丸表二之門(現存、国指定重要文化財)表門の先には枡形が残っており、城郭のセオリー通り右へ曲がる縄張りになっていました。ここでも枡形正面の石垣に鏡石が積まれています。名古屋城では本丸御殿の復元工事が進められており、工事用の囲いのために本丸表門から天守と小天守を見ることはできませんでした。本丸御殿の復元完了と公開は平成30年となる予定で、復元された玄関と表書院が部分的に公開されています。ここで一旦本丸を出て、再び二の丸に戻って行きました。本丸の内堀に沿って南から東側へと回る時、本丸の南東隅櫓の横を通る格好になります。名古屋城だけではありませんが、櫓や天守は曲輪の外から見るに限りますし、なおかつ斜め45度が最も美しいのではないでしょうか。本丸の東側にも枡形虎口「本丸東一之門」があり、薬医門形式の表門は二の丸の東二之門を移築したものです。本丸東虎口の「旧二之丸東二之門」(移築現存、国指定重要文化財)本丸東一之門の枡形内部にある鏡石は、「清正石」の名前が付けられた、名古屋城最大の石垣石です。枡形内部東一之門の鏡石「清正石」築城の名手である加藤清正は、もちろん名古屋城の縄張りや石積みに関わっていたのですが、実はこの本丸東一之門の担当は黒田長政です。「清正石」ではなく「長政石」となるのが本当ですが、名古屋城最大の石垣石の命名に対しては、やはり築城の名手に軍配があがるようです。(加藤清正の築城術は、この後の天守台などで見せつけられることに)本丸東一之門には入母屋造りの渡櫓が現存していたそうですが、昭和20年の空襲により焼失してしまったようです。それでも石垣だけはしっかり残っていて、隅石の積み方が見事です。矢穴が残っているので現存石垣だと思いますが、ここを担当した黒田長政の築城術にも関心です。算木積みの隅石など、福岡城よりも進化しているように見えるのは気のせいでしょうか本丸の東門は搦め手だったようですが、枡形虎口を抜けた瞬間に天守が目の前にあり、本丸御殿も裏側(すなわち奥)の方に出ていました。復元中の本丸御殿史実に忠実に復元されているのですが、やはり搦め手口とあって、いきなり御勝手口からお邪魔した感じです。このアングルでの天守、個人的には今ひとつです。数ある天守の中でも現存天守は12城しかなく、それ以外は復元天守・復興天守・模擬天守に分類されています。名古屋城の天守は復元天守、昭和20年の空襲で焼失するまで天守が残っていたので、史実や写真に基づいて復元されたものです。ちなみに天守が建っていた史実はあrものの、外観の資料に乏しいため、推測で建てられたものが復興天守で、西日本によく見られます。また、天守があった史実を確認できないにも関わらず、後世になって建ててしまったものが模擬天守で、東日本に多いかと思います。名古屋城の天守内部へは入らずに、天守の横を素通りして、北側の不明門から本丸を後にすることにしました。埋形式門の不明門本丸の北西側には「御深井丸」の曲輪があって、こちらから天守を見ると天守台の石垣の様子がよくわかります。名古屋城の天守台を築いた人こそ加藤清正で、高さ20mの天守台石垣には「清正流」とも呼ばれる扇の勾配が見られます。そして隅石に目を凝らしてみると、「加藤肥後守」の刻印がわずかに読み取れました。石垣用の巨石を運ぶ時は、加藤清正自らが石の上に乗って、石曳きの音頭をとっていたそうです。二の丸にある「加藤清正公石曳き像」名古屋城天守(北西側から見たところ)大天守と小天守の間にある「剣塀」さらに本丸の内堀沿いを巡り、西の丸へと入って行きました。御深井丸と西の丸の間が外堀が入江のように入り組んでおり、「鵜の首」と呼ばれています。本丸の南西側には「西南隅櫓」があって、こちらも現存する隅櫓です。西南隅櫓(現存、国指定重要文化財)西の丸から見た本丸大手馬出現在の名古屋城には、二の丸の東側と西の丸の南側にそれぞれ入口があり、同時に料金所が置かれています。西の丸の「正門」には江戸城から移築された櫓門があったのですが、太平洋戦争で焼失してしまったため、後に再建されました。正門の虎口跡西の丸の外堀さすがは天下普請の名古屋城は、縄張りや普請などにさまざまな意匠が凝らしてあり、「尾張名古屋は城でもつ」の言葉通りだと思います。それにしても残念なのは、戦火によって天守などを焼失してしまったことです。もしも天守が現存していたならば、国宝はもとより世界文化遺産に登録されていたことでしょう。関連の記事名古屋城(尾張国)~その1 二之丸→こちら清洲城→こちら
2015/09/16
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「伊勢は津で持つ 津は伊勢で持つ 尾張名古屋は城で持つ」とは言いますが、実際に名古屋城を訪れると、「尾張名古屋は城で持つ」を実感します。現在名古屋城への入口は2か所ありますが、地下鉄名城線の市役所前駅に近い東側の虎口跡から二の丸へと入って行きました。二の丸東側の外堀堀の中央に土塁らしきものがあり、二重堀となっていました虎口の跡には枡形が残っており、「東鉄門」と呼ばれた表門は、現在本丸の門として移築されています。「旧二之丸東二之門」(現存、国指定重要文化財)枡形虎口を抜けると二の丸の曲輪跡が広がっており、曲輪の南側には大相撲名古屋場所でおなじみの愛知県体育館が建っています。名古屋城の二の丸の虎口は東西に2か所あって、二の丸の西側にも虎口の跡がありました。二之丸大手二之門(現存、国指定重要文化財)あまり人通りのない地味な門構えですが、名前からすると西側のこちらが二の丸の大手口だったようです。枡形枡形内部には「鏡石」があって、「笑積み」の石積みも見られました。さすがは天下普請の城郭とあって、随所に意匠がこらされています。枡形の先は二の丸の曲輪跡で、やはり愛知県体育館が建っています。先ほどの東側虎口とは反対側で、体育館の向こう側に東虎口の石垣が見えていました。二の丸の途中には「東門」が設けられており、ここから先は有料(500円)となります。天守や櫓で入場料を払うのはよくある話ですが、ここでは二の丸の虎口で入場料を払います。やはり「尾張名古屋は城で持つ」でしょうか。「東門」(料金所)を過ぎた先には、二の丸の曲輪が広がっていて、本丸の東南隅櫓がはるかに見通せました。近世名古屋城の二の丸は、今川氏や織田氏の戦国城郭、「那古野城」の城跡に比定されています。庭園として整備された名古屋城の二の丸北側の一角には、「那古野城」の碑が建っていました。二の丸からは本丸へと入って行きましたが、「尾張名古屋は城で持つ」の言葉通り、二の丸だけでも十分見応えがありました。名古屋城ガイドマップ→こちら
2015/09/15
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桶狭間の戦いにおいて、今川義元軍の中で孤軍奮闘したとも言えるのが鳴海城です。織田信長軍の猛攻にも耐え抜き、最後まで鳴海城は落城することはありませんでした。この時に鳴海城を守っていたのは猛将で名高い岡部元信で、鳴海城を守り抜いた上に、今川義元の首級をもらい受けるほどの奮闘ぶりでした。その鳴海城は東海道の鳴海宿を見下ろす小高い丘陵にあり、鳴海城の鎮守であった天神社に鳴海城址の碑が建っています。天神社「尾張誌」によると、南北に75間(約140m)、東西に34間(約60m)あり、四方を堀で囲まれていたそうです。また、本丸の他に二の丸・三の丸があり、それぞれの曲輪も堀で囲まれていたようです。鳴海宿の東海道沿いには、鳴海城の廃材を利用して建てられた東福院の山門が残っていました。鳴海城は別名根小屋城とも呼ばれ、応永年間(1394年~1427年)に足利義満配下の安原宗範によって築城されました。戦国時代に入ると織田信秀の支配下となり、山口教継が城主となったのですが、織田信長の代になって山口教継が今川義元に寝返ったため、今川義元の支配下へと変わっていきました。その後は今川義元方の岡部元信が鳴海城に入り、織田信長は鳴海城を包囲するために、丹下砦・善照寺砦・中島砦を築いています。織田信長も落城させることができなかった鳴海城ですが、桶狭間の戦いにおいては、今川義元の首級を渡すことを条件に、岡部元信が鳴海城の開城に応じ、ついに織田信長の支配下となりました。桶狭間の戦い後は佐久間信盛・正勝が城主となり、1590年に廃城となっています。関連の記事桶狭間の戦い(2009年8月)→こちら東海道~鳴海宿→こちら
2010/09/04
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東海道池鯉鮒宿の本陣から少し京都寄りに行った場所、旧街道がかぎ型に曲がる先に知立城跡があります。現在は公園となっており、城址碑が建っているだけで、城郭の遺構は全く残っていませんでした。さもありなん。知立城は、知立神社の神主であった永見氏の居館でした。平安時代末期には北面の武士として、13代永見貞春の時には保元・平治の乱に従軍した記録があり、以後29代永見貞英まで続いた家系です。桶狭間の戦いの時に知立城は落城しましたが、それまでは中世の武家居館と同じく、方形の一重堀で囲まれていたのかも知れません。天正年間(1573年~1593年)には、刈谷城主水野忠重(徳川家康の生母である於大の方の弟)が、織田信長を饗応するために約3,000坪の土地を整備しました。江戸時代に入った寛永年間(1624年~1643年)には、将軍上洛用に御殿の増築が行われました。城址にあった古絵図を見ると、江戸時代の御殿の様子が描かれていました。絵図を見る限りでは、周囲を塗籠の土塀で囲み、背後には空堀が巡らされていたようです。さらに知立城の向こうには知立神社が描かれており、多宝塔が建っているのがわかります。知立神社の多宝塔ローカルな城郭でありながら、将軍のための御殿が建てられるなど、相応のステイタスがあったようです。しかしながら1699年の地震によって、御殿そのものも倒壊してしまいました。関連の記事東海道~池鯉鮒宿→こちら
2010/09/02
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岡崎城は徳川家康が生誕した場所であり、江戸時代には岡崎が「神君出生の地」とされ、岡崎城主となることが栄誉とされてきました。その岡崎城は、現在岡崎公園として整備され、公園入口には大手門が復元されています。大手門から先は二の丸の曲輪があったのですが、完全に公園の敷地となっていました。それでも徳川家康ゆかりの地とあって、城内には徳川家康の像が建っています。二の丸にある徳川家康像さすがは岡崎と言った感じですが、他に徳川家康像のあるお城と言えば、駿府城や浜松城くらいでしょうか。さらには家康の「しかみ像」までありました。三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗北を喫した時、生涯の戒めとするべく、帰還直後の浜松城で描かせた絵が基になっています。(岡崎城よりも浜松城に建てた方がよさそうな気がしますが)徳川家康ばかりでなく、三河武士団にとっても岡崎城はゆかりの深い場所です。岡崎城内には「三河武士のやかた家康館」が建っており、三河武士について詳しく紹介されていました。そして三河武士と言えば、この人が代表格でしょうか。鹿角の前立兜に名槍「蜻蛉切」、本多平八郎忠勝です。(岡崎城そのものとはあまり縁がないとは思いますが)二の丸は完全に公園の敷地になっていますが、それでも本丸の方へ向かうと、城郭の様相を呈してきました。本丸の空堀と石垣打込み接ぎの石垣ですが、徳川家康の時代に築かれたものではないかも知れません。そして本丸には天守が建てられています。下見板張りと塗籠が入り混じっており、あまり統一感がないのですが、明治になって破却されたものを、古写真を基に昭和34年に外観復元したそうです。岡崎城は西を流れる伊賀川と南を流れる乙川の合流点にあり、搦め手方向にあたる本丸背後には二本の川が流れています。搦め手方向は急斜面となっており、この辺りは石垣も高くなっており、戦国城郭の名残がありました。本丸と川岸の間には腰曲輪が置かれ、その腰曲輪の1つに徳川家康の産湯に使った井戸が残っていました。岡崎には「五万石」という歌があり、「五万石でも岡崎さまは、お城下に船が着く」という歌詞だそうです。乙川の川岸には、その船着き場の跡があります。徳川家康と三河武士にとっては、ルーツとなる岡崎は特別な場所だったのかも知れません。岡崎城は1531年に徳川家康の祖父松平清康が築城し、徳川家康は1542年に岡崎城で生まれました。しかしながら三河は弱小国であったため、家康はすぐに駿河の今川家へ人質に出され、家康が岡崎に戻ってきたのは、桶狭間の戦いが終わった19歳の時でした。1570年になると家康は本拠地を浜松城に移し、長男信康を岡崎の城主としたのですが、その松平信康は1579年に織田信長の命により自刃させられました。信康亡き後は石川数正や本多重次(作左衛門)などの重臣が、城代を努めています。1590年に豊臣秀吉によって小田原の北条氏が滅ぼされると、徳川家康は関東に移封させられ、江戸城に本拠を移しました。岡崎城には秀吉の家臣田中吉政が入城し、その田中吉政が、岡崎城の整備・拡張を行いました。徳川家康が天下をとって幕府を開設した後は、再び徳川譜代の大名が入城し、「神君出生の地」を守り続けていました。(財)日本城郭協会「日本100名城」関連の記事東海道~岡崎宿→こちら
2010/08/31
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旧東海道の吉田宿は吉田城の城下町としても栄えた宿場町で、吉田城の大手門は東海道に面した場所にありました。吉田城大手門跡静岡県湖西市の本興寺の山門は、吉田城の大手門を移築したものだと言われていますが、ここにあったのかどうかは不明です。本興寺の山門吉田城は豊川の流れを後背に持ち、本丸から三の丸まで半輪郭式の縄張りで、各曲輪の周囲には空堀が巡らされていたようです。三の丸の周囲には土塁が残っていましたが、堀跡は道路に変わっていました。三の丸より内側は「豊橋公園」となっており、三の丸の虎口が公園の入口となっています。虎口の右手には太鼓櫓があったようです。三の丸と二の丸は完全に公園の敷地となっており、わずかに土塁の跡が残っている程度でした。三の丸二の丸の到着櫓跡二の丸の土塁二の丸御殿跡完全に公園に変わってしまったのかと思っていたら、本丸方向の木々の間に石垣が見えていました。本丸に近づいてみると、周囲には石垣と空堀の跡が残っていました。本丸虎口見た本丸の曲輪。本丸の四隅にはそれぞれ隅櫓が建っていたようですが、現在は北西の「鉄(くろがね)櫓」が復元されていました。鉄櫓本丸の復元模型三の丸や二の丸は土塁で囲まれた戦国時代の城郭でしたが、本丸は総石垣で囲まれた近世城郭になっていました。おそらく本丸は池田輝政の時代に造られたものだと思います。隅櫓跡搦め手の虎口跡本丸の背後に回ってみると、豊川が湾曲するように流れており、本丸石垣の下にも腰曲輪の跡がありました。豊川腰曲輪跡櫓が建っていたようですが、背後にも厳重に備えていた感じがします。吉田城は戦国時代初期の1505年に牧野古白によって築城されました。東三河の交通の要衝にあったため、戦国時代の中期になると、今川氏・徳川氏・武田氏の間で激しい争奪戦が展開されました。1546年には、当時の城主であった戸田宣成が今川氏を離反したため、今川義元が太原雪斎を率いて吉田城を攻略しました。以後吉田城は今川氏の支配下にあったのですが、1560年に今川義元が桶狭間の戦いで討死すると、1565年に徳川家康が吉田城を攻め落とし、以後は徳川氏の支配となりました。(この時に吉田城の城代となったのは、徳川四天王の1人である酒井忠次です)1571年には、駿河・遠江に侵攻してきた武田信玄によって攻撃されますが、酒井忠次の籠城戦によって吉田城は守られました。徳川家康が関東に移封となった後、1590年に池田輝政が吉田城に入城しました。池田輝政は城郭の拡張と城下町の整備を行ったのですが、関ヶ原の戦い後の1601年に姫路城へ移封となったため、城郭の拡張・整備は未完成のまま、明治維新を迎えています。
2010/05/09
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桶狭間古戦場の後に訪れた所は、松平元康(徳川家康)の「大高城の兵糧入れ」で有名な大高城です。大高城跡碑大高城は少し小高い丘陵にありますが、城と言うよりは砦と言った方がいいかも知れないほどの簡素なお城です。大高城図丘陵の地形を活かして、曲輪が張り巡らされている感じでした。腰曲輪本丸を中心に曲輪群があるのですが、1つ1つの曲輪が大きいのには驚きました。こちらは公園が出来るほどです。そして本丸には祠が立っており、特段土塁や空堀が巡らされているわけでもありません。本丸跡戦国時代初期の山城といった感じで、至ってシンプルな印象を受けました。それでも大高城は今川義元の最前線にあり、敵対する織田信長の勢力圏はすぐ目と鼻の先にあります。やはりここに兵糧を入れたのは、権現様の力なのでしょうか。大高城の築城年代は明らかではありませんが、戦国時代の15世紀半ばには、今川義元方の水野忠氏が居城としていました。しかしながら水野氏が今川方から織田側に寝返ったことで、今川方に攻められて落城し、以後は今川方の鵜殿長照が入っています。1560年の桶狭間の戦いでは、今川方の先鋒を務めた松平元康(徳川家康)が、戦いの最前線である大高城に兵糧を入れることに成功し、「大高城の兵糧入れ」として知られることとなりました。大高城には松平元康がそのまま入城したのですが、やがて今川義元が討ち取られると、大高城を離れ、ようやく父祖伝来の岡崎城への帰還を果たしています。もしも徳川家康が天下人にならなかったら、歴史のかなたに忘れ去られていたのかも知れません。関連の記事桶狭間の戦い→こちら
2009/08/27
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桶狭間の戦いは「日本三大奇襲戦」の1つに数えられています。ちなみに日本三大奇襲戦とは1.桶狭間の戦い…織田信長2,000VS今川義元25,0002.河越夜戦…北条氏康8,000VS古河公方と山内・扇谷上杉連合軍80,0003.厳島の戦い…毛利元就3,500VS陶晴賢27,000いずれも10倍の敵を前にした大劣勢からの勝利です。織田信長・北条氏康・毛利元就それぞれの作戦が功を奏した戦いでもあり、これらの戦い以降、織田信長は天下を掌握し、北条氏康は関東の最大勢力に、毛利元就は西日本の最大勢力へとのし上がって行きました。さらにこれらの戦いで共通しているのは、周到に練り上げられた作戦と数少ないチャンスを逃さなかった勇気と決断力だと思います。織田信長が乾坤一擲の勝利を手にした桶狭間の戦いですが、実は桶狭間の戦いの位置をめぐっては諸説があります。愛知県豊明市には桶狭間古戦場の碑があり、桶狭間の戦いの伝説地とされています。下に小さく「伝説地」と書かれた桶狭間古戦場の碑現在は公園として整備されています。今川義元が戦死したことを示す最も古い碑「七石表」1771年に建てられたもので、「今川上総介義元戦死所」と書かれています。(確か織田信長も後に上総介だったような)今川義元の墓所桶狭間古戦場のすぐそばの小高い場所には、高徳院というお寺があります。高徳院山門境内には碑が建っており、ここが今川義元の本陣跡とされています。今川義元本陣跡の碑1560年、今川義元は駿府を出て尾張を目指して進軍して行きました。その数は25,000の大軍です。今川軍の中には、当時は人質として駿府にいた松平元康(徳川家康)もいました。松平元康たちを先鋒とする今川軍は、次々と織田軍の砦に襲いかかり、歴史に名高い戦いの火蓋が切って落されました。一方の織田信長は、わずかな従者のみを連れて清洲城を出発、熱田神宮に織田軍を集結させると、今川義元の本陣目指して進軍して行きました。突然の豪雨が降って戦いには不利な状況となったのですが、雨が上がると織田信長軍は一気に今川義元本陣に襲い掛かりました。数では圧倒的に有利な今川軍でしたが、戦力を分散させていたことやもあり、急襲を受けて大混乱となります。その混戦の中で今川義元は討ち取られ、織田信長は意気揚々と清洲城に凱旋して行きました。結果として織田信長の大勝利に終わったのですが、数の上では圧倒的に劣勢な状況です。織田信長は今川義元本陣の位置を逐一報告させ、その場所を常に把握していました。桶狭間の戦いは、織田信長の知略が光った戦いであり、単なる局地戦での勝利ではなく、「天下布武」の第一歩だったのかも知れません。
2009/08/26
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八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の三種の神器のうち、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)すなわち「草薙剣」をご神体としているのが熱田神宮です。一度は訪れたいと思っていたのですが、現在は皇紀1900年の記念事業として、本宮や神楽殿などが造営工事中でした。今年の10月に竣工予定だそうです。あの向こうに草薙剣があるのか…天叢雲剣(草薙剣)は、素盞鳴尊(すさのおのみこと)がヤマタノオロチを退治した時、オロチの尾から出てきたものだとされています。天叢雲剣はスサノオノミコトから天照大神に渡され、天照大神のご神体として伊勢神宮に祀られていました。その後日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が伊勢神宮でこの剣を受け取り、東征の途中に駿河で草を薙ぎ払って戦火を逃れたことから、「草薙剣」と呼ばれいます。ご神体の草薙剣は誰も見ることができないため、果たしてどんなものか全くわかりません。熱田神宮と言えば、織田信長の桶狭間の戦いです。桶狭間の戦いに出陣する時、信長軍を熱田神宮に集結させ、信長が願文を奏して戦勝を祈願しました。桶狭間の戦いで戦勝した御礼として織田信長が寄進した塀が、熱田神宮の境内に残っています。信長塀清洲城にも同じものが移築されています。せっかくなので宝物殿も見てみることにしました。入口にはビックリするような太刀が展示してあります。朝倉氏の家臣、真柄十郎の太郎太刀。長さ2.2m、重さ4.5kgもあるそうです。実際に姉川合戦の図には大太刀を振るう真柄十郎の姿が描かれており、実戦にも使われたものだと思われます。その他にも武将たちが奉納した数々の太刀や、国宝・重文級の展示がずらりと並んでいました。
2009/08/24
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