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「全国水の郷100選」に選ばれ、「水の都」と呼ばれるのが岐阜県大垣市です。かつての大垣城も随所に水路を巡らせ、水城のような様相だったと思います。大垣城縄張図現在も大垣市内にはいくつもの水路が流れており、かつての城下が偲ばれました。大垣城の北側、龍ノ口門付近の水門川この水門川が外堀の役目を果たしていました。現在の大垣城は、二の丸と本丸の跡が大垣公園として整備されています。二の丸跡この日は「十万石まつり」が行われ、大垣駅からの大通りではパレードが行われていました。二の丸跡に建つ常葉神社歴代大垣藩主を祀った神社で、この日は法被姿の人たちが祈願を行っていました。戦前まで大垣城の本丸には天守や櫓が残っていましたが、太平洋戦争の空襲によって消失しています。本丸城郭図丑寅櫓の隅櫓空襲で焼失しましたが、鉄筋コンクリートで再建されました。丑寅櫓に続く東門元々は外堀の柳口にあった門を移築したものです。丑寅(北東)の他に、戌亥(北西)にも隅櫓が建っていました。戌亥櫓戌亥櫓の脇には水の手門の跡が残っていました。水の手門跡戌亥櫓から丑寅櫓に続く本丸北側の土塀土塀の前面道路も、かつての水堀だったと思われます。本丸へは西門を通って入りました。それらしい造りの櫓門ですが、縄張図を見る限りここに門はなかったはずです。本丸に入ると、石垣が残っていました。辰巳櫓の櫓台でしょうか。東埋門跡天守(外観復元)大垣市のすぐ西隣りは関ヶ原町で、伊吹山や鈴鹿山脈のその先は畿内です。京都や奈良に住んでいる時、伊吹山や関ヶ原は一つの心理的な境界で、その先の大垣は遠国のような感じがしていました。今回は東から大垣に来たのですが、なじみの土地に近づきつつも、遠くへ来た感があるのが不思議です。現地の解説板によると、大垣城は竹腰尚綱が1500年(明応9年)に創建したとも、宮川安定が1535年(天文4年)に築城したとも言われています。(いずれにしても、初めて聞く名前です)1583年には池田恒興が豊臣秀吉の命によって15万石で入城し、池田恒興が小牧・長久手の戦いで戦死すると、その子池田輝政が入城しています。(池田恒興・輝政など、ようやく知った名前が出てきました)その後1600年の関ヶ原の戦いでは、西軍の石田三成が大垣城を本拠地としました。しかしながら西軍は関ヶ原へと撤退したため、大垣城は取り残される格好となり、東軍の前に落城しています。1635年には戸田氏鉄が大垣藩10万石で入城し、以後明治維新まで戸田氏の居城となりました。二の丸にある戸田氏鉄像戸田氏と言えば田原城の戸田康光、今川義元の人質として駿府に送られる竹千代(のちの徳川家康)を、裏切って織田信秀(信長の父)の下へ送った人物です。よく調べると、戸田氏鉄は同じ戸田氏でも嫡流ではなく、支流だそうです。それでも戸田康光の裏切りにより、幼少の徳川家康は兄貴分の織田信長と懇意になりました。今川義元が桶狭間の戦いで討死した後の歴史を振り返った時、徳川家康にしてみれば大手柄だったかも知れません。日本城郭協会「続日本100名城」
2017/10/25
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金華山の稜線に沿って登城道を行くと、岐阜城の天守が見えてきました。1956年(昭和31年)に鉄筋コンクリートで建てられた模擬天守です。金華山山麓にあった織田信長の居館「千畳敷」には三層四階建ての天守が建っていたようですが、山頂の天守については詳細がわかっていません。それでも天守台を見ると、野面積みの古い石積みとなっているため、何らかの建物はあったのかも知れません。天守台模擬天守の最上階に登ると、岐阜市内だけでなく濃尾平野が一望できました。犬山城の方向小牧山城の方向長良川その向こうには北アルプス連峰が見渡せました。金華山の山頂から眺めていると、織田信長が「天下」を意識したのもわかるような気がします。岐阜城の歴史は古く、13世紀の初めに鎌倉幕府の政所令であった二階堂行政が、ここに砦を築いたのが始まりと言われています。二階堂氏の子孫はここを居城とし、稲葉氏と改称したことから、稲葉山城と呼ばれるようになりました。そして稲葉山城と言えば「美濃のマムシ」斉藤道三、その斉藤道三が油売りから美濃一国を治めた話は「国盗り物語」などで有名ですが、前半生は道三の父である長井新左衛門尉の話であり、後半生が斉藤道三の話だと言われています。斎藤道三像斉藤道三は娘の濃姫を織田信長に嫁がせましたが、これは友好な結婚ではなく、まさに道三が尾張に送り込んだ刺客そのもので、道三は濃姫に「婿の寝首を掻いて来い」と命じたと言われています。しかしながら斉藤道三と織田信長は互いに実力を認め合い、お互いを信頼するようになりました。信長が最初に設けたとされる「楽市・楽座」も、すでに斉藤道三が城下町で行っていたものを信長が真似たと言われています。また有名な桶狭間の戦いでも、信長は道三の戦法を参考にしたそうです。しかしながら斉藤道三は、1557年に息子斉藤義龍に攻められ、討死してしまいました。そして1567年、織田信長が義龍の息子である斉藤龍興を追放して、ついに稲葉山城を手に入れました。信長は稲葉山城を岐阜城と改め、天下統一への第一歩を踏み出しています。信長が「天下布武」の印を使い始めたのも、この岐阜城でした。1592年には、豊臣秀吉が信長の孫である織田秀信城主としましたが、織田秀信は関ヶ原の戦いで西軍につき、福島正則に攻められて岐阜城も落城しました。日本城郭協会「日本100名城」国盗り物語(一~四) 合本版【電子書籍】[ 司馬遼太郎 ]
2017/10/24
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金華山の山麓から山頂への登城道はいくつかあり、かつても登城道として使われていた道です。山麓の織田信長居館が岐阜城ならば、金華山は戦国時代の斎藤道三の稲葉山城でしょうか。登城道には砦などの遺構が残っているようなのですが、今回は登城道ではなく文明の利器、ロープウェーで金華山山頂を目指しました。ロープウェーの駅から山頂までの間にも、戦国の稲葉山城や岐阜城の遺構が残っています。天下第一の門織田信長の偉業を称えて、後世になって建てられたものです。実際の門は少し先にあったようで、虎口の跡が残っていました。一ノ門跡登城道の途中には、この城の歴代城主たちの解説板が並んでいました。岐阜城と言えば織田信長ですが、やはり稲葉山城と言えば斎藤道三でしょうか。織田信長夫人の濃姫は斎藤道三の娘であり、織田信長にとって斎藤道三は義父にあたります。濃姫が織田信長に嫁ぐにあたり、父斎藤道三は「夫の寝首を掻いてこい」と命じたとか。登城道の途中には、かつての稲葉山城を偲ばせる戦国城郭の遺構がありました。馬場の曲輪跡堀切跡本丸直下、登城道の裏手には戦国時代の井戸があり、今も水を湛えていました。織田信長の父である織田信秀は、斎藤道三の稲葉山城を攻めたものの、大敗に終わっています。織田信長の時代にあって、斎藤道三の孫である斎藤龍興の稲葉山城を攻めましたが、失敗に終わりました。そして1567年の稲葉山城の戦いでついに落城させましたが、この時に功を上げたのが木下藤吉郎、後の豊臣秀吉です。木下藤吉郎は僅か7名で稲葉山城に潜入し、薪小屋に火を放って手柄を上げました。この時に腰に付けていた瓢箪が後の馬印となり、岐阜城の登城道脇は「千成瓢箪発祥の地」とされています。千成瓢箪発祥の地金華山の山頂へ続く登城道には、さらに二ノ門がありました。二ノ門斎藤道三と織田信長が並び評されるあたり、まさに天下の城かも知れません。
2017/10/23
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岐阜市内を見下ろす金華山は、「美濃のマムシ」斎藤道三の稲葉山城のあった場所であり、織田信長が「天下布武」を号令した岐阜城のあった場所でもあります。現在は金華山の山麓に、織田信長の居館跡が発掘復元されています。居館入口にある冠木門当時の居館入口はもう少し西側にあったそうで、現在は「板垣退助遭難の地」として、板垣退助像が建っています。元は神道中教院のあった場所で、1882年(明治15年)に自由党の党首板垣退助が暴漢に襲われた場所です。その時の「板垣死すとも自由は死せず」は、よく知られている言葉かと思います。岐阜公園の敷地内には、山内一豊と千代夫人婚礼の地の碑が残っていました。前回2008年に岐阜城を訪れた時はまだ新しい碑だったので、大河ドラマ「功名が辻」の放映に合わせて建てられたものだと思います。板垣退助にしても山内一豊にしても、今年の夏に訪れたばかりの高知城とは、何かと縁があります。織田信長の居館は「千畳敷」と呼ばれ、岐阜城を訪れたポルトガル人宣教師ルイス=フロイスは、その時の様子を「日本史」に著わしています。フロイスの「日本史」によると、三層四階建ての御殿風の天守閣が建っており、その内部は金箔と絵画で飾られた壮麗なものだったようです。そうなると岐阜城には、安土城よりも前に天守が建てられていたことになります。千畳敷の復元図庭園には池があり、泉水が巡らされていたそうです。居館の石囲い跡通路跡発掘調査では、織田信長時代の遺構に加えて、斎藤道三の時代の遺構も発見されていました。斎藤道三時代の石積み金華山へ向かうロープウェーから見ると、今も発掘復元が行われていました。いつか織田信長の千畳敷が復元される日が来るでしょうか。
2017/10/22
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松阪城の搦手方向には、かつて御城番屋敷が並んでいました。裏門から出たところには、江戸時代末期に造られた土蔵が現存しています。土蔵(現存)隠居丸から移築されたもので、松阪城で唯一現存する建物です。再び大手口に戻り、大手門通りから旧参宮街道(伊勢街道)の方へと歩いてみました。大手門通り大手門跡の碑が建っています。蒲生氏郷は近江商人を城下に招き入れ、楽市楽座を設けました。松阪が商都として発展するのは、この蒲生氏郷の商業政策によるものです。参宮街道との交差点には、松阪出身の三井高利の屋敷があり、現在は「三井家発祥の地」となっています。三井家発祥の地大手筋と参宮街道の分岐碑があります。そして三井越後屋と言えば、ライオン像です。
2017/05/18
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松阪城の本丸は二段に分かれており、本丸(上段)と本丸(下段)の名前が付いています。本丸には隅櫓が建っていたようで、助左衛門御門から本丸に入ると、櫓台が残っていました。月見櫓跡櫓台に建っている碑は梶井基次郎の文学碑で、松阪滞在中の生活を描いた「城のある町にて」の一文が書かれています。梶井基次郎作品は「檸檬」をかじったくらいで、「城のある町にて」は初めて知りました。月見櫓から見た城下梶井基次郎もこの光景を眺めていたでしょうか。本丸下段その先に櫓台のようなものがありますが、実は天守台です。本丸下段から上段へ上がるには一つの桝形門を通る必要があるのですが、その脇にはショートカットできる石段があったりしました。これが本丸(上段)への虎口です。本丸上段の「金の間櫓」跡天守台内側から見ると櫓台と変わらないというか、むしろショボい感じがします。ところで松阪城表門からの登城ルートとしては、・表門→二の丸→本丸・表門→きたい丸→本丸・表門→本丸の3ルートがあります。きたい丸の曲輪を経由すると、本丸の石垣を見ながらの登城となりました。本丸敵見櫓を下から見たところ切込み接ぎの隅石に打込み接ぎとは、なんともコミカルですが、崩れた石垣を後世になって積み直したそうです。きたい丸から見た本丸石垣「お見事」の一言に尽きます。本丸を跡にすると、中御門から裏門の搦手口へと向かって行きました。中御門(本丸方向より)搦手口の裏門の桝形大手口の表門から裏門へと、ようやく松阪城を脱出できた思いです。この後は伊勢街道を取り込む城下へと降りて行きました。日本城郭協会「日本100名城」
2017/05/17
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戦国の世から時代が下るにつれ、城郭の機能も変化していきますが、松阪城はその象徴のような城かも知れません。表門の城跡碑現地の縄張図を見ると、東側に大手口と南側に搦手口があるようです。搦手の南東側に回ってみると、打込み接ぎの見事な高石垣が残っていました。二の丸の南側の石垣江戸時代になって積まれた石垣ですが、なんだかこの先が楽しみになってきました。。再び表門に戻って「入城」すると、目の前には本丸(下段)の高石垣が立ちはだかっています。同じ伊勢国の城郭ですが、この高石垣を積んだのは藤堂高虎ではなく、蒲生氏郷です。普通は表門をくぐると二の丸とか帯曲輪を通って本丸に行く感じですが、松阪城では本丸へ直登するもルートもありました。表門から入って右に曲がると本丸への直登で、途中には助左衛門御門と遠見櫓の櫓台があります。遠見櫓の櫓台こちらは野面積みとなっており、蒲生氏郷の時代に築かれたものと思われます。本丸下段の虎口、助左衛門御門の跡野面積みながら、隅石は算木積みでしっかり積まれており、思わず立ち止まって見とれてしまいました。助左衛門御門の桝形この先がいきなり本丸です。一方で二の丸を経由するルートでは、搦手口から本丸に入る形となります。いずれにしても、本丸の石垣を見上げながらの入城でした。二の丸から見た本丸石垣本丸直下、月見櫓の石垣二の丸には陣屋があったようで、なぜか「徳川陣屋」の名前が付けられていました。蒲生氏郷が会津若松に移封となった後、松阪城は紀州藩の直轄となり、その紀州徳川家の陣屋が置かれていたそうです。徳川陣屋跡は藤棚となっていて、ちょうどGWだったこともあって、下がり藤が見事でした。さらに二の丸からは本丸に行く途中には「隠居丸」という曲輪があって、二の丸から隠居丸へは「裏門」、すなわち搦手門を通って入ることになります。裏門跡この先に隠居丸があります。隠居丸の跡には松阪出身の本居宣長の旧宅が移築されていました。なんだか複雑な縄張のようですが、実は一気にショートカットできる登城ルートもあったりして、このあたりは蒲生氏郷のセンスなのかも知れません。久々に見ごたえのある城跡に来たように思います。日本城郭協会「日本100名城」
2017/05/16
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♪ようこそここへ 津ッ津、津ッ津♪ということで、遠州浜松や三州長篠を慌ただしく駆け巡った後は尾張名古屋で1泊し、2日目は伊勢の津へとやってきました。津といえば、「伊勢は津で持つ 津は伊勢で持つ 尾張名古屋は城で持つ」と言われます。一説には「石は津で持つ 津で持つ石は 尾張名古屋の城が待つ」が正しいそうで、名古屋城の天下普請の時、津から石垣石が運ばれたと言われています。その石垣石を運んだのが、加藤清正と並び評される築城の名手、藤堂高虎です。津城本丸にある藤堂高虎像元々の築城主は織田信包でしたが、縄張りの大改修を行ったのが藤堂高虎です。伊勢街道を城下に引き込む形で城下町も改修され、旧街道に面した西側には武家屋敷が並んでいたようです。縄張り図。右側が北になっています。かつての二の丸跡は、市役所の敷地と公園になっていました。かつての水堀の名残でしょうか。本丸西側には内堀が残っており、大手口と思われる虎口には土橋の名残があります。内堀西之丸の虎口跡西之丸は日本庭園として整備されていますが、1820年に第10代藩主藤堂高兌によって創設された藩校「有造館」の門が移設現存しています。入徳門有造館の講堂正門だったそうで、「大学は諸学徳に入る門なり」に由来し、徳に入る門として作法は厳格だったようです。現在は日本庭園となった西之丸には、番所や倉庫が置かれていました。旧西之丸西之丸から本丸へ至る虎口は西鉄門と呼ばれ、かつて本丸の石垣上には隅櫓が上げられていました。西鉄門跡本丸石垣見事な打込み接ぎの石垣です。本丸の西側には内堀が残り、一部は藤堂高虎を祀る高山神社の境内となっていました。高山神社内堀跡月見櫓の石垣本丸には天守が建っていたようで、天守台が残っていました。本丸の東側が搦め手のようで、埋門の跡が残っています。東鉄門跡隅櫓のようなものが建っていますが、後世になって建てられたもので、場所も本来と違う「模擬櫓」です。本来の丑寅櫓跡史実と違うものが建てられたのは残念な限りですが、搦め手の東側の石垣は大手よりも高く積まれており、藤堂高虎の築城術を垣間見たように思います。日本城郭協会「続日本100名城」
2017/05/15
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揖斐川・長良川・木曽川の木曽三川の河口にある三重県桑名市、ここを訪れた理由は2つあり、その1つが桑名城です。桑名城跡は九華公園として整備されており、公園の一角には見覚えのある鹿角の脇立兜がありました。本多平八郎忠勝の銅像大数珠を袈裟懸けにして、後ろには名槍「蜻蛉切」が控えています。本多忠勝の銅像があるのは、岡崎城と桑名城だけでしょうか。岡崎の本多忠勝像その風貌は銅像からは窺い知ることはできませんが、実はこんな感じです。大多喜城(千葉県立博物館大多喜分室)にてこの肖像画は複数残されていますが、いずれも本人が納得して描かせたものなので、デフォルメではありません。数々の武勇伝を残し、主君の徳川家康のみならず織田信長や豊臣秀吉も賞賛する本多忠勝ですが、桑名城はその本多忠勝の築城によるものです。桑名城の古城図揖斐川の水路を利用した水城で、各曲輪が浮島のように独立しています。幕末の戊辰戦争で桑名藩は旧幕府方についたため、戊辰戦争後に桑名城は官軍によって破却され、桑名城跡残っているのは当時の曲輪の跡だけです。九華公園図三の丸虎口跡ここが大手口だったのでしょうか。桑名城の石垣は明治政府によって取り壊され、四日市港建設の際に防波堤として転用されました。曲輪の跡は後世になって積まれた石積で囲まれており、もはや当時の石垣を見ることはありません。三の丸の外堀二の丸堀跡二の丸跡には公園管理事務所があり、そこの入口にわずかに当時のものと思われる石垣がありました。枯れ木も山の賑わいでしょうか。桑名城の築城当時、大小合わせて50の櫓が建ち並んでいましたが、現在となってはその面影すらありませんでした。本丸から見た二の丸跡本丸から見た西の丸跡当時は石垣も高く詰まれ、曲輪の間には深い堀が巡らされていたことと思います。本丸には天守も建てられていましたが、現在は公園広場となっていました。揖斐川の流れる北側に回ると、船着場のあった付近に当時の石垣が残っていました。江戸時代には東海道桑名宿の宿場町があり、「七里の渡し」の西側の発着点でもあったところです。船着場の近く、旧東海道に面した北大手門跡北大手門の枡形跡本多忠勝の桑名城を見てみたいという念願かなって、桑名に来ることができました。残念ながらその城郭を見ることは出来ませんでしたが、縄張りを見る限りでは築城主のような武骨一辺倒な印象はありませんでした。徳川家康が本多忠勝を桑名に配したのは、東海道を抑えることが目的だったのでしょうが、彦根の井伊直政と併せて桑名に本多忠勝がいること自体がプレゼンスだったのかも知れません。(桑名城の築城にあたっては、その井伊直政も普請を手伝ったそうです)家臣団の住む西の丸と本丸の間が近く、また本丸も城下からすぐ近くにあるといった感じで、むしろ親しさと優しい印象を受けたほどです。徳川家康の三河家臣団を絵に描いたように武骨な本多忠勝ですが、上総大多喜も含め城下町の町割りには定評があり、インフラの整備など善政を行ったと言われています。徳川家康の家臣として50回以上に及ぶ前線での出陣の中で、本多忠勝はかすり傷ひとつ負わなかったと言われています。徳川家康が武田信玄に大敗北を喫した三方ヶ原の戦いでは、その前哨戦である一言坂の戦いにおいて、本多忠勝の奮戦によって徳川軍は窮地を脱し、武田軍からは次のような落首が書かれました。「家康に過ぎたるものは二つあり 唐のかしらに本多平八」その本多忠勝ですが、隠居後のある日に小刀でうっかり怪我をした時、自分の最期を悟ったと言います。そしてその数日後に桑名でその生涯を終えました。戦国時代の桑名には地方豪族が割拠しており、現在の桑名城のある場所には、伊藤武左衛門の東城がありました。織田信長が桑名地方を平定すると、織田信長方の滝川一益の支配下となり、東城は廃城となっています。豊臣秀吉の時代になると一柳直盛が城郭を築き、その時に伊勢神戸城の天守を移築しました。その天守は神戸櫓として、近世桑名城にも残されていたようです。本丸の南西にある神戸櫓跡1601年の関ケ原の戦い後、上総大多喜から本多忠勝が桑名に移封となり、近世城郭を築城するとともに、「慶長の町割り」と呼ばれる城下町の整備と河川工事などを行っています。第2代藩主本多忠政の時に姫路に移封になると、以後は代々松平氏が桑名藩主となりましたが、幕末の藩主松平定敬は会津藩松平容保の弟であったため、桑名藩は戊辰戦争において幕府方に付くこととなりました。鳥羽伏見の戦いにおいては桑名城を無血開城し、新政府軍は本丸にあった辰巳櫓を焼却することで、開城の証しとしたそうです。辰巳櫓跡櫓台の上に大砲がありますが、なぜここにあるかは不明だそうです。
2012/08/06
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大阪から名古屋方面へのルートとしては、京都・滋賀・岐阜を通る東海道の他に、奈良・三重を通る奈良街道・伊賀街道の「伊賀越え」のルートがあります。(本能寺の変の時、徳川家康が堺から岡崎への脱出ルートに使ったのもこの伊賀越えでした)その伊賀越えの要衝にあるのが伊賀上野城です。伊賀上野城跡碑いきなり忍者の格好をした人がいたので驚きでしたが、さらに忍者が2人寄ってきて、何やら話し始めました。どうやら道を探しているようなので、「忍者でも道に迷うことがあるのか」と不思議に思ったのですが、伊賀市内には観光用に忍者の衣装をレンタルするお店があるようです。伊賀上野城の本丸には三層の天守があり、その天守から別名「白鳳城」と呼ばれています。正式な名称は「伊賀文化産業城」、すなわち復興天守(模擬天守)です。これまで史実に基づかない模擬天守に対しては否定的な立場にありましたが、この伊賀文化産業城は個人の私財を投じて建てられたこともあり、あまり文句も言えません。この大天守と小天守は、昭和10年に伊賀上野(伊賀市)出身の衆議院議員川崎克氏の私財によって木造で建設され、「攻防策戦の城は滅ぶ時あるも、文化産業の城は人類生活のあらん限り不滅である」と、伊賀産業文化城と名付けられました。伊賀上野城は戦国時代の1585年、大和郡山から伊賀に移封となった筒井定次(筒井順慶の養子)によって築城されました。本丸の東側、一段と高い場所に筒井氏の時代の城跡が残っています。筒井氏時代の本丸上野城の縄張りは判然としないのですが、筒井定次は豊臣秀吉配下にあって、伊賀越えの要衝にある上野城を大坂城の防衛ラインとして縄張りを行ったようです。筒井定次は関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍で参戦したものの、江戸時代になった1608年に改易となり、筒井家もここで滅亡しています。筒井氏の後、伊予宇和島から入封して来たのが藤堂高虎です。築城の名手藤堂高虎は、伊賀上野城の大改修を行い、縄張りも大坂城の防衛から、大坂城攻めを目的としたものに変えました。伊賀上野城の西側の防御を特に固め、高さ30mもの高石垣を築いています。本丸から見た内堀と高石垣ビルの10階屋上から下を見ているような感じです。直線的に立ち上がる隅石が藤堂流築城術で、日本一の高さとされて来ましたが、大坂城の石垣の方がわずかに高いとのことでした。(大阪夏の陣の後に天下普請で築かれた大坂城の石垣も、藤堂高虎の普請によるものです)それでも1人の大名によって築かれた石垣としては、伊賀上野城が日本一ではないでしょうか。伊賀上野城一帯は上野公園として整備されており、「伊賀文化産業城」の他にも、伊賀にゆかりの建物があります。忍者博物館伊賀上野城を訪れるのは2回目なのですが、前回は目的地の明かされないミステリー列車での旅行だったので、計らずも伊賀上野を訪れることになりました。もう30年も前の話なので、城跡については覚えていませんが、忍者屋敷のことは覚えています。さらに伊賀出身の人と言えば松尾芭蕉の「俳聖殿」こちらも伊賀文化産業城と同じく、川崎克氏によって建設されたものです。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2012/08/05
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中仙道の加納宿は加納城の城下町として栄え、歌川広重の浮世絵にも加納城が描かれています。歌川広重「木曽街道六十九次 加納」加納城の北東側からの図だと思いますが、二ノ丸の石垣と御三階櫓が描かれています。その加納城の跡は公園として整備されており、現在は本丸を囲む石垣が残っていました。岐阜近郊の山で採石される「チャート岩」を使い、野面積みで築かれています。本丸本丸の周囲は土塁で囲まれていました。本丸土塁さらに本丸の周囲には水堀があったようで、周囲の広場にその面影が残っていました。本丸周囲の水堀だけでなく、加納城の東側と南側を荒田川が流れ、天然の要害となっていたようです。さらに西側には長刀堀が巡らされ、水城のような感じだったと思います。西側の長刀堀跡加納城は関ヶ原の戦い後の1601年に築城されました。築城主は徳川家康の娘婿で、山家三方衆として長篠城の籠城戦を戦い抜いた奥平信昌です。本丸には天守は築かれず、広重の浮世絵にも描かれた御三階櫓が建てられていました。御三階櫓は岐阜城の天守を移築したと伝えられていますが、1723年の火災によって焼失してしまいました。関連の記事中仙道加納宿→こちら岐阜城→こちら
2010/04/01
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中仙道六十九次の53番目の宿場町は、岐阜市の加納宿です。旧街道らしい一直線の道が延びており、道幅にも旧中仙道の面影が残っていました。加納宿本陣付近の旧中仙道しかしながら沿道の風景はすっかり変わってしまい、住宅地の中に建つ碑だけが旧街道の跡を示していました。西問屋跡脇本陣跡こちらの脇本陣跡にはタワーマンションが建つようです。すっかり住宅地になってしまった加納宿ですが、それでも旧街道らしく、沿道には神社や寺院が建ち並んでいました。その1つが加納城の守護神として建てられた加納天満宮です。加納天満宮の表参道以前は9台の山車があったのですが、空襲のために1台を除いて焼失してしまいました。社殿も空襲で焼失したため、現在の拝殿は戦後になって再建されたものです。加納宿は岐阜市の南側にあって加納城の城下町でもありましたが、元々の岐阜の中心部は岐阜城(稲葉山城)の城下町として栄えました。岐阜の名付け親であり、繁栄を築き上げたのはこの方です。岐阜駅前の織田信長像
2010/03/31
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