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長くファッションの世界で仕事してきたので私は政治家との接点はほとんどありませんでした。偉い人との面会は超苦手なので良かったんですが、前職官民投資ファンド社長時代は業務上どうしても政治家との面談が必要、たくさんの国会議員や大臣と面会しました。クールジャパンを推進するために国会の承認を経て設立された会社ですから当時の与党自民党、公明党と法案を賛成した民主党の3党の関係議員にご挨拶や説明、党本部や議員会館にもよくお邪魔しました。国会議員の中には私たち民間人に対して優しい目線で接してくださる方もいれば、正直言って上から目線で高圧的な態度の方もいらっしゃいました。優しい目線の政治家という点でいまも印象に残っている方は、当時自民党政調会長だった高市早苗さんと初代クールジャパン戦略担当大臣だった稲田朋美さんです。クールジャパン機構発足時、私たちは伝統的な折り紙に新会社の概要を印刷、かわいい折り紙セットを皆さんに配りました。高市さんに折り紙セット数部差し上げたら「いただけるんですか」とまるで少女がご褒美もらったときのように目を輝かせて受け取ってくださいました。稲田さんを大臣室に訪ねたときはソファ横のテーブルに雑誌装苑が置いてあったので「大臣は装苑をお読みなのですか」と尋ねたら、「(ファッション業界の)社長がいらっしゃるので読みました」。嬉しいじゃないですか。このとき稲田さんが身につけていたソマルタの網タイツは福井県鯖江市(稲田さんの選挙区)の工場が生産していると説明したら、とんでもなく大喜びでした。お二人とも自民党の中では右寄り保守派と聞いていたので怖そうな女性政治家と覚悟して出かけましたが、面談ではそんな感じは微塵も感じさせませんでした。高市さんは、私の息子が大変お世話になった目白デザイン専門学校(現在は目白ファッション&アートカレッジ)小嶋禮子校長が東京の母親代わり。どういう経緯でいつ頃からそうだったのかは存じませんが、人格者の小嶋先生があれこれお世話した方ですから上から目線のお偉いさん(結構こういう政治家多いです)ではないはず。娘のような高市さんが日本政治史上初めて女性総理大臣に就任されたのですから、小嶋先生はあの世できっと喜んでいらっしゃるでしょう。先日の国会委員会での高市総理の台湾有事に関する「存立危機事態」発言、歴代総理大臣が決してストレートには発言してこなかったことをはっきり答弁されました。これに中国政府はすぐ態度を硬化させました。在大阪中国総領事のSNSでの発言に始まり、中国人の訪日旅行や留学自粛勧告、日本アニメ映画の中国内上映停止、日本産水産物の輸入禁止と連日緊張はエスカレートしています。1年前現地で開催されたセミナーそして、来週私が講師を務める予定だった江蘇省蘇州市でのセミナー、上海市でのミナペルホネン皆川明さん出版記念イベントも主催者の判断で中止になってしまいました。すでにセミナー投影資料を送り、中国語に翻訳してもらい、上海、杭州、蘇州で活躍しているデザイナーや新興アパレル企業経営者が多数参加を申し込んでくれていたので残念です。政治家の発言から重大な外交問題へと発展、中国人の訪日旅行や留学不可、アニメや映画など日本コンテンツ上映不可、日本産品輸入禁止が発令され、この先もさらに日中経済を揺るがす追加発令が出そうな空気があり、ここ数年中国ファッション業界人と親密に交流してきた私にはほんとに悔しいこと。この事態に対してSNSでは一般日本人がヒートアップ、「中国人インバウンド客が減少するから静かになる」、「中国インバウンド消費は必要ない」、「日本産品の中国向け輸出はいらない」などといった書き込みが増えました。これらを目にするにつけ悲しい思いでいっぱいです。私の渡航がキャンセルになったことはどうでもいいことですが、やっと輸出が再開されそうだった日本の漁業関係者、フライトや宿泊キャンセル多発の国内観光事業者、インバウンド需要でコロナ禍の負けを取り戻しつつあった全国の小売事業者、また現在中国駐在してビジネスしている日本人や現地の日本食レストランなど痛い目にあう人は相当な数でしょう。さらに為替軌道修正したかったところこの問題でますます円安になって物価上昇が止まらないかもしれません。それを「ざまあみろ」論調でSNSに書き込む日本人が少なくないことが残念でなりません。中国にしろ韓国にしろ日本は隣国各国ともっと仲良く友好関係を保つべきでしょうし、世界の人々から「訪問したい国」として見てもらいたいと思うのですが....。セミナー開催予定だった蘇州近郊陽澄湖私が議長していたCFD東京ファッションデザイナー協議会は韓国ファッション業界に色々アドバイスし、韓国で「ソウル・ファッションウイーク」が始まりました。そのオープニングイベントで壇上に上がった私は韓国業界首脳を前にはっきり申し上げました。「日本と韓国は近くて遠い国、お互いの努力で距離を縮めませんか」と。スピーチから席に戻ったら業界大先輩に「太田くん、際どいこと言うね」と笑われました。ファッションを通じて国際交流できればとCFDを立ち上げたのですから、私の役割はその遂行です。が、各国の関係者とは正直に話し合い距離を縮めるのが一番と信じてストレートに際どい挨拶をしました。政治外交の専門家ではないので私にはよくわかりませんが、日中両国政府が1日も早く和解して正常な文化経済交流に戻ることを期待したいです。
2025.11.20

CFD東京ファッションデザイナー協議会設立した頃、「舐めない、媚びない、嘘つかない」をCFDスタッフに求めていたので自分が偉い人に媚びることはありませんでした。自分が思ったこと感じたことは遠慮せずどんな相手にもはっきりモノを言う、それが経済界の大物であろうが有名なデザイナーであろうがサシで会うときは遠慮しません。ただ面談や会食相手の部下らが同席する場合はプライドを傷つけないよう配慮してきたつもりです。年長者と初対面で「あなたが仰っていることはおかしい」あるいは「あなたは間違っています」とストレートに申し上げたら二度と会わなくなった方はいますが、ありがたいことに面談以降ずっとかわいがってくださった方は少なくありません。苦言に耳を傾けてくれたありがたいお一人がワールド創業者の畑崎廣敏さんです。ワールド創業者畑崎廣敏さん確かCFD設立して3ヶ月後のパリコレ時だったと思います。香港ファッション業界で大活躍していた佐々木力さん(通称リッキー)からヴァンドーム広場近くのホテルロッティに呼び出され、ロビーバーで深夜までサシ飲みしました。リッキーはワールドに香港の自社に出資してもらい、同時にワールドの取締役を務めていました。話題はその数ヶ月前ワールドがデビューさせた新人デザイナーMくんのコレクションでした。Mくんのデビューコレクションはとっても贅沢。装飾にたっぷりお金をかけたステージと客席、コレクションの点数はビッグネーム並みに多く、そのほとんどは先染め別注素材が大半、普通の新人デビューとは様相が違いました。しかも都内にオープンした路面店は立派、ショップの床には白い石を粉にしたパウダーが敷き詰め、ショップを出てきたお客様の白い足跡が目立ちました(これ、近所迷惑なんです)。大手企業の資金力をイヤというほど見せつけたショップ、そんな印象でした。リッキーに言いました。「こんなことやってたらデザイナー企業でアシスタントデザイナーをしている若者たちが浮き足立つ。資金力でMくんを甘やかすと日本のファッション業界全体にも絶対に良くないこと。やめて欲しい」と。するとリッキーも同じ思いだったようで、「近いうち畑崎さんと会う機会をセットするから直接言ってやってよ」と言われました。そののちリッキーは畑崎社長に「CFDが東京コレクションの大型テントを建てるのに苦労してるみたいだから相談に乗ってあげてください」と私との面談をセット、畑崎さんはホテルオークラ本館ロビーにお一人で現れました。お付きが同席なら遠慮したでしょうが、サシだったのでパリでリッキーに言ったことをストレートにぶつけました。「地方の中小企業のドラ息子がポルシェを買ってくれと言い出したら、父親はどう対応しますか。贅沢言うな、国産大衆車なら買ってやると言いませんか。あなたがMくんにやっていることは息子にポルシェでなくロールスロイスを買い与えてるのと同じ、世間は笑いますよ」。そして「日本のファッション業界のためにも若手デザイナーに贅沢させないでください」と付け加えました。恐らく私からテント建設費用協賛のお願いでもされるのかなという思いで畑崎社長はオークラにいらっしゃったでしょうが、若手デザイナーに贅沢させていることを糾弾されてびっくりなさったはず。でも表情はニコニコ、「この話をうちのTくん(のちの社長)に話してくれませんか」と言われました。滅多にお会いすることのないカリスマ経営者、言いたいことはここで全部言っておこうとワールドが買収したフランスデザイナー「シャンタルトーマス」のこと、ワールドが支援してその年の春にパリコレデビューした「ジンアベ」(阿部尋一デザイナー)のことにも触れました。ワールド支援でデビューしたジンアベシャンタルトーマスは当時経営的に厳しく現地で出資者を探していたブランド。なかなかいい条件の話がなく、最終的にワールドが出資して傘下におさめました。ところがフランスの一部メディアはまるでフランスのクリエーションを日本企業がお金で買い叩いたみたいなイヤな記事を書きました。当時はまだブランド買収がいまほど頻繁ではなかったからでしょうが、買い手がないから買ってあげた日本企業がフランスメディアにチクリと批判される、残念な話です。だからメディアに広告を出稿する「宣伝」ではなく、これから海外ではもっと「広報」に力を入れるべきではないでしょうかと申し上げました。パリコレデビューした阿部尋一さんも同じ。長く有力ブランドのウンガロでアシスタントデザイナーを務めてきた苦労人を日本の大手アパレルが支援するのは素晴らしいことなんです。このプロジェクトもメディアへの広告出稿ではなく広報に力を入れるべきではないでしょうか、と。「これまで会社をもっと大きくしたいと思ってやってきました。これは間違っていますか」と最後におっしゃったので、「経営者として当然のこと、間違っているとは思いません」と答えてその場は別れました。その後幹部のTさん、そして別途デザイナーの Mくんとも会食する機会があり、新人デザイナーブランドらしい活動をしてくださいとお願いしました。次のシーズン、Mくんは大規模ショー形式ではなく路面直営店でのインスタレーション発表でした。このときびっくりしたのはマスコミ関係者から「(ショーでなく)こんなのがコレクション発表と言うのか」とお叱りを受けました。私は「どこが悪いんですか。新人らしくて爽やかじゃないですか」と反論。当時のマスコミの中にはランウェイ形式のファッションショーしか認めないという間違った考えの方が少なくなかった。これが若手の「ブランドごっこ」急増の側面でもあります。CFD事務局長の青二才から協力要請があると聞いて出かけたホテルロビー面談で一方的に批判される想定外の展開でしたが、それ以降畑崎さんは私を排除せず私の意見に耳を傾けてくださいました。その一例があるデザイナーへの支援でした。とあるCFDメンバー企業がそれまで支援してきたアパレル企業と決裂、ブランド整理を余儀なくされたとき、私は相談を受けました。そこで私は畑崎社長に「会社が解散でもブランドがなくなっても構いません。デザイナー本人が創作活動だけ続けられる環境を整えていただけませんか」とお願いしました。後日ワールドの幹部に聞いたら、役員のほとんどはこの話に猛反対だったようですが、畑崎さんは私からの頼みだからと引き受け、剛腕常務を担当につけてブランドを一旦整理した上でデザイナーの創作活動を支援してくださったのです。ありがたい方です。40年以上も続くタケオキクチ基幹ブランドの1つアンタイトルワールドは菊池武夫さんとの「タケオキクチ」をメンズの基幹ブランドに育て、デザイナーとの協業で「アンタイトル」「オゾック」「インディヴィ」など次々市場投入して大きく育て、低迷する大手アパレルの中では成長を続けています。畑崎さんが引退したあと後継者たちが創業者の思いをしっかり継承してきたからでしょう。これまで多くのファッション流通業のリーダーとお付き合いがありましたが、初対面の苦言に耳を傾けそのあともイヤな顔せずお付き合いしてくださった畑崎さんは記憶に残る経営者です。
2025.11.18

1970年代ファッションの主役がそれまでの一部富裕層向けオートクチュールから一般人でも頑張ればなんとか手が届くプレタポルテに移って以来、ファッションの新しい解釈やブランドが発信する新しいスタイルを伝えてくれたのは世界各地にあった流行先取りファッション専門店、いまで言うセレクトショップでした。パリ、ミラノ、ロンドン、ニューヨークなどデザイナーコレクション発表拠点やボストン、ロサンゼルス、シカゴなど米国主要大都市には規模の大小はあったものの革新的コレクションブランドや面白い新進デザイナー商品を多数扱うショップが必ず存在し、知名度のない新ブランドを目の肥えたお客様に紹介していました。BARNEY'S NEW YORK7番街本店(1981年当時)私が過ごしたマンハッタンには、大型婦人服専門店で新人デザイナー発掘と育成に定評あったインキュベートストアHENRI BENDELをはじめ、元々はボリューム紳士服店だったBARNEY'S NEW YORK(ジョルジオアルマーニを最初に米国独占販売)、その宿敵で小型ショップをアッパーウエスト地区に数軒開いていたCHARIVARI、個性の強い女性ブランドばかり扱っていたDIANE BやIF、アクの強いメンズブランドを集積していたCAMOUFLAGEなど、ウインドーショッピングだけでも十分楽しめるお店がたくさんありました。同時期高級ブランド商品を揃える百貨店も強い個性のデザイナーブランド商品の扱いをシーズン追うごとに増やし、ショップ・イン・ショップ形式の小型ブティックを館内にどんどん増設。NEIMAN MARCUS(傘下にBERGDORF GOODMAN)、SAKS FIFTH AVENUEやBLOOMINGDALE'Sのみならず、ボリュームイメージの強かったMACY'Sや顧客満足経営のNORDSTROMまでもがアバンギャルド系ブランドを集積するセレクトコーナーを設置するようになりました。ところが百貨店内ブランドショップの大型化、個々のブランド直営店の路面あるいはショッピングモール出店の急増もあってか、ファッション市場を牽引してきた革新的セレクトショップは残念ながら次々と姿を消しました。新しいブランドを消費者に繋いだ前述ニューヨークのセレクトショップのほとんどは生き残っていません。またその後ミートマーケット地区再開発に先鞭をつけたジェフリーでさえ大手百貨店傘下に入ってのち結局は閉店しました。この流れはパリ、ロンドンなど米国以外でも同じ。世界各国からのパリコレ出張者にとって必見ショップとも言うべきコレットもすごく流行っていたものの残念ながら閉店してしまいました。たくさんのブランドを集積するセレクトショップのバイヤーや百貨店セレクトゾーン担当バイヤーの目に留まれば、資金力のない経験の浅いデザイナーブランドだって店頭に商品を出してもらえました。が、こうしたセレクトショップが姿を消すと(ネット通販を除いて)短期間ポップアップ展開または自前で直営店舗を構えるしか道はありません。だからプレタポルテ黎明期に比べると近年の新進デザイナーは厳しい業界環境と言わざるを得ません。刺激をもらえるセレクトショップが世界各都市で姿を消している中、次世代デザイナーのインキュベーションを担い、トンがったデザイナー商品を意欲的に導入しているショップの最右翼はDOVER STREET MARKET(以下DSM)ではないでしょうか。あくまで個人的見解ですが、いま服屋さんで最も面白い店はコムデギャルソンが運営するこの大型店。銀座店は売り場面積もたっぷり、とにかくお店に足を踏み入れると欲しいものがいっぱいあって目移りします。かつてBARNEY'S NEW YORKが7番街西17丁目で1店舗のみ営業していた1980年代前半、店内に足を踏み入れると欲しいものが各フロアにいっぱいでワクワク、自分で支出をセーブしないとすぐクレジットカード難民になりそうでした。また、BARNEY'Sの靴バイヤーが独立して故郷ジョージア州アトランタに開店したのちニューヨークのミートマーケット地区(当時はファッションストアは1店もない肉卸売りの市場のような区画)に大型セレクトを開いたJEFFREYも同じ、バッグ、靴、ニット、コート、ジャケットなど目移りしっぱなし、ショッピングが楽しくて興奮したものです。こうした来店客にワクワク興奮を与える品揃えと店の構成、これが本来のセレクトショップの役割だったと思いますが、いまそんな刺激を与えてくれる店はほとんどなくなり唯一無二の存在がDSMだと思います。コムデギャルソンの川久保玲さんは毎シーズン我々をびっくりさせるクリエーションを発表する唯一無二なクリエイターですが、同時にワクワクショッピングを提供する稀有なリテーラーでもあります。服つくりのクリエーションと小売店ビジネスの両方とも世界一級の二刀流、昨今のニュースに例えるならば投げて三振打ってホームラン量産の大谷翔平のようなあり得ないことをやっている人です。世界を見回しても、クリエーションするブランドデザイナーには必ずクリエーションを受け止めてビジネス化するマネジメント人間がパートナーーとして存在します。古くはイヴサンローラン、ケンゾー、ジャンポールゴルティエ、カルバンクライン、ダナキャランなど、有能なビジネスパートナーが傍らにいてデザイナーを守り、その存在は業界内で有名でした。これがごく普通のブランドビジネスの姿、しかしコムデギャルソンは特例なんです。今日DSMギンザに立ち寄りました、土曜日の昼下がりですから買い物客でいっぱい、特に海外からのお客様が半端なく多かった。私はここのスニーカーのチョイスが好きで新しいスニーカーを探しに行ったのですが、服に目移り、あれもこれも欲しくなりました。もう40年以上コムデギャルソンを愛用しているのでコムデギャルソン系に目移りするのは当然なんでしょうが、DSMがセレクトしたコムデギャルソン以外のブランドの商品にも気になるものがたくさんありました。もしここに長時間滞在したら翌月のクレジットカード支払いはとんでもない金額になってしまうでしょうね。ブランド服は「必需品」ではありません。なくても生活に困ることはないでしょう。が、新しいクリエーションやニュアンスがほかと違う刺激的な服に出会うとどうしても買いたくなる、自分の手のうちに入れたら幸せになる「必欲品」なんです。これをいろんなブランドから集め、より魅力的に編集し、カッコよく陳列して買い物客の欲求を満たすのが本来セレクトショップの存在意義。今日1点私の必欲品を見つけ、改めてワクワクするショッピングを実感しました。DSMギンザはやっぱり楽しい大型セレクトショップ。これが本来のファッションビジネスです。
2025.11.15

この写真は新宿南口甲州街道からちょっと入ったところにある大衆居酒屋三是。文化服装学院で毎週講義をしていた時代、文化から徒歩数分のこの居酒屋に学生やクラス担任の先生たちとよく立ち寄りましたが、昨夕約10年ぶりにお邪魔しました。同行者は大学のサークル活動でファッション研究しているグループでした。先月の毎日ファッション大賞授賞式で早稲田大学繊維研究会の学生さんらと立ち話、機会があったら皆さんとお話しする場を作りましょうということに。幹事役の杉田美侑さん(早稲田大学)のほかは明治、青山学院、獨協など他の大学に通っている学生さんでした。この学校の枠を超えた集まり、自分が大学時代に作った学生ファッションマーケティング集団F.I.U.と同じ、だから懐かしさがこみ上げ午後11時半までお付き合いしました。明治大学3年生のとき、明治の大先輩で有名アパレル企業の顧問もされていたN先生から、「キミを最後の鞄持ちにしてあげる。私についてきて(顧問先企業の)企画、生産、営業など一通り全部経験してはどうだ」というお話がありました。オヤジの考えで大学卒業したらロンドンのサビルローに紳士服修行に行くつもりだったので、学生時代に一通り経験できるのはありがたい、と最初は思いました。この業界重鎮N先生の提案を当時服飾評論家の第一人者星野醍醐郎先生に話したら、ガツンと叱られました。「学生は学生らしくファッションを真面目に勉強してください。仕事は卒業してからいくらでもできるじゃないですか」と猛反対。N先生のお話はありがたいけれど、私は星野先生の言葉を真摯に受け止めN先生にお断りました。「学生は学生らしくファッションを真面目に勉強しなさい」、星野先生のアドバイスに対してどういう行動を取ろうかとあれこれ考え、学校の枠を超えた専門学校生ではない一般学生のファッション研究サークルを作ってみんなで意見交換してみようといろんな学生に呼びかけてF.I.U.を立ち上げたのです。そして週に一度程度みんなで集まって意見交換、時には星野先生や男子専科編集長志村敏さんらをゲストスピーカーにお願いしていろんなことを教えていただきました。ファッションのことというよりも主にものの見方、多面的に物事を見ることが重要と教わりました。そうこうするうちに大手繊維会社ユニチカ(東京五輪女子バレーボール金メダルのニチボー貝塚などが合併した会社)から依頼があってF.I.U.は若者マーケティング調査で協力することに。年に数回分厚いアンケート用紙に答えてもらい、数百部の回答をユニチカの大型コンピューターに入力、出力データを受け取ってこちらが原稿化、まるで大手広告代理店マーケティング部のような作業でした。調査結果の半分は社内企画開発用の資料にマル秘、あとの半分は広報を通じて業界に対してマーケットの変化予測を発表。主宰者の私はマーケティング部責任者と共に年に数回合同記者会見、さらに切り口を変えた原稿をいろんなメディアに寄稿しました。業界新聞に寄せた原稿「ポストデニムはブルーデニム」には大手ジーンズメーカーが広告出稿してくれ、新聞社から大変喜ばれたこともありました。この頃、私は米国業界からの情報としてマーチャンダイジングという仕事がある、その片鱗はハワイ州ホノルル郊外のショッピングセンターでも体感できると知り、オヤジの同業テーラー業界でマーチャンダイジングやマーケティングを指導している方のハワイ研修ツアーにF.I.U.の仲間と一緒に参加、連日ショッピングモールを視察しました。これがわが人生の大きなターニングポイントになったのです。修業に行くはずだったサビルロウ家業テーラーを継がせるため息子のロンドン修行を計画していたオヤジは学生時代に2回ヨーロッパ視察に出してくれ、パリやロンドンの有名店を視察する機会がありました。中には昭和天皇が注文したサビルローの老舗テーラーで天皇個人の型紙を見せてもらったこともありました。これはこれで貴重な経験でした。しかしながら、ホノルル郊外のショッピングモールのダイナミックな商品陳列は強烈なインパクト、私の気持ちは卒業後ロンドン修行ではなくニューヨークでマーチャンダイジングを修得したいにガラリ変わってしまいました。パリ、ミラノ、ロンドンで目にした商品は洋服といいバッグ、シューズといいホンモノ高級品、ファッショナブルで十分魅力的でした。一方ホノルルのモール内大型店に並ぶのはリーズナブルな化合繊スーツ、合成皮革のバッグや靴は一般大衆向け、ファッショナブルではありませんがその陳列のダイナミズムに惚れ惚れ、ロンドン修行はやめようかなと考えるようになったのです。そして大学卒業直前、メディアからいただく原稿料で思い切ってニューヨーク視察を計画、建国200年に沸くニューヨークに出かけました。この視察のあと業界新聞に15回連載「ブルーミングデールズの周辺」を寄稿、業界でちょっとした話題になったのです。当時三越本店次長・広報部長(のちにプランタン百貨店社長やプロ野球ダイエーホークス球団社長)から「この記事を書いた記者と会いたい」と編集部に連絡あり、私は学生ということを隠して若手記者のような顔をして面会、ニューヨーク事情をお話する場面もありました。エキサイティングな百貨店だったブルーミングデールズもうこのとき私はロンドン修行に出かける気持ちは完全に失せ、家業テーラーを継承せずに卒業したらニューヨークに渡ってマーチャンダイジングを理論でなく身体で覚え、将来はマーチャンダイジングで食っていこうと決めていました。この頃すでにたくさん原稿を書いていたのでニューチョークでは執筆で生計を立て、マーチャンダイジングを修得したら帰国という人生プランを描きました。オヤジの構想を蹴ってニューヨークに渡り、帰国してずっとマーチャンダイジングを指導してきた原点は学生サークルF.I.U.の活動だったのです。大先輩からいろんな教えをいただき成長した私、今度は私が後進を育てる番、それが私塾「月曜会」を開講になり、それを事例にI.F.I.ビジネススクール設立に奔走した理由です。昨日の学生さんたちとの居酒屋交流(その前段は喫茶店会議室で2時間お話)も大先輩たちにから受けた恩恵に応えるためでした。もちろんこれまでも多くの若者を指導してきました。毎週講座を担当したファッション専門学校は数校、I.F.I.ビジネススクールではコースディレクターとして後進指導、一般大学の特別講義もたくさん担当。勤務したブランド企業や百貨店では毎週若手社員に売り場の見方やマーチャンダイジングを教えてきましたから、若者に教えることは大袈裟に言えばわがライフワークなんです。昨日長時間付き合ってくれた学生さんたち、いずれ日本のファッション業界を背負ってくれることを期待しています。みなさん、頑張ってください。
2025.11.14
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