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週末は小岩に集結。小岩満喫。まずはこれ。『大衆江戸芝居』は突っ込みどころ満載で、歌舞伎に通じるところ濃くありながら歌舞伎とは違う道と客を野太いかそけさで掬いながら救いながら生き延びている感じが逆にとてもよかった。ファンがしっかりついていて、掛け声なども面白き。観衆はうはうは酒飲んで飯食ってムームームー。人の呼吸と汗が劇場に満つ。「人から借りた刃ならば雑魚は峰打ち主は刃先三寸にて打ちしとめたるその心映えや見事」というようななんてことのない(なんてことなくはないか)台詞が急に胸に入ってきたりする。民衆となんだろうか表現とはなんだろうか芸能とはなんだろうか生きるとはなんだろうか複数の眼で観ているとそれぞれの眼のつけどころがちがうのもまたよくて(特にこらー瑠璃子どこ見てんのよっ!ったくH淑女なんだから)役者の台上衣更(半裸サービス)の手際の流麗や、何万回も合わせたであろう太刀の計算ずくあたりまえだが心情のほとんどは「台詞」にしなければ伝わらぬ舞台で物語の進行上、ありえないくらいの意地悪さと身変わりで繰り出される状況の刹那、台詞、幕間のBGMの妙なロック、すべてがおもしろかった~。(それは絶対みんなのおかげ)(ひとりならきっとこのような大衆にわたしは紛れこめなかった)それから風呂を廻って茹であがり、われらもムームーな大蛸になってビールとおしんこかっくらいプハープハプハーこんな幸せがあっていいものか。★日が暮れれば駅前を歩いて。島すし。「この照りがいいねと君が言ったから3月30日は島すし記念日」「明日葉の天麩羅」と「とこぶし煮」あしたお肌トゥルトゥルになりそうよーーーっ!『白子にレモンをかける手の図』 BY 繭トン以前殿方に「食べものにレモンを絞るその手がすてきだね」と褒められた自慢の絞りである。ほんとうにほれぼれする綺麗さである。しかし変に局所的に人を褒める殿方だったらしいのでその恋はどうやら成就しなかったようである。★花冷えの一日を熱くしてくれたみんなありがとう。小雪ビューティーに貰った出張土産インドネシアの首飾りをかけたまま眠る。どうか(たまには)妖艶な夢が見られますように。そうだ「生き仏」や「辺境に宿る宗教」「体の中からださない話」なんかで盛り上がったけど、次回はもっと色香のある話も是非お願いねみなさま。みんな大好き! 変態万歳!(え?)
2013年03月30日
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旅から戻ったらいきなり飲み会の連続。おりしもこちらの花は満開。いいぞいいぞいいぞ。笑って飲んで騒いであらゆることを忘れろ。しかし旅から戻ったらポストに新しい曲の楽譜がてんこ盛りに届けられていてとうてい譜読が間に合わない。いきなり早起きしてオタマジャクシと格闘。老眼走りはじめた目に楽譜の小ささがツライ。しょぼしょーぼ。そろそろ眼鏡か。そして早起きしても読んでも読んでも譜読がぜんぜん間に合わない。新しい曲はどうもかなりよい曲であるらしい未だ捕まえることができないでいるが、良い曲であることだけはわかる。ぐげげげ「飲み」と「読み」が混じり合って進まず(いや「飲み」は進む。コラ)日常が戻ってきたか、いや、まだだ。★この月が終わる。この三月はとてもあわあわとぞくぞくとみちみちと素晴しく要素の満ちたひと月であった。書ききれないことや描ききれないことがたくさん起きたが、知らなかったこと知らされなかったこともたくさんあった。たとえば大切で仕方なかった昔仲間の死去を一年たってから偶然知らされたり、知らないうちに仲間うちの大きな会合から外されていたりもした。しかしそれも必定。時は流れているの。むかしのようにはいかぬ。同じ気持ちなど、ないさ。わたしがあなたをすきだったのとおなじくらいあなたはわたしをすきじゃなかった。しかしそんなことはどうでもよくなるくらいにこの三月はたくさんの人に逢えた。ひとだけではなく、場所。空気。とき。笑顔。涙。生きてきて幸せだと思い、もっとよれよれになっても生きていこうと願った。ともだちとなつかしいまちもあるいた。なつかしいみせにもはいった。わらったわらった。なつかしいがっこうなつかしいべんきょうなつかしいきょうしつなつかしいせんせい。なつかしいことばなつかしいかおなつかしいみち。かわったかわった。もうおなじものなどどこにもないのにどうしてなつかしい?わたしたちはかわりながらつづいている。つづいている。なにかがひかり、なにかがこわれ、なにかがもろく、なにかがつよく。みんな、ありがとう!また、今度は、夏。 (きっとすぐさ)★それから旅に出たりもして、なんだか気分はとても自由。日常に縛られながらそのことが有難く思えるくらい自由。あたしの自由って不自由なものなんだなひとりっきりじゃ自由になれない。おかしいよねおかしいのさ。さびしいのさいつも。さびしくてしかたないの。★さて飲み会をこなしながら桜を見上げTOKYOの女友達と湯に入り芝居を見たり又飲んで飲んだくれこの月が終わるだろう。歌も歌わなきゃ。ドラムもブッ叩かなきゃ。ああそうだ参考資料にと打楽器師匠からDVDも貰っていてそれを昨日やっと見た。いろんなドラマーバンドのNYCライヴ盤。おおおおおおおおおおおおおおお・・・・・スティーヴガッド。わたしへ鳥肌をおくりつけるドラムは彼の音だけ。ドラムはただぶったたいてリズムキープするだけのリズム楽器じゃない。あたたかい。うれしい。それはよろこび。音楽だ音楽だそれはそれだけで音楽だ。泣けるほど★世界はいいなあ目標になるものがこんなにたくさんある。気づけぬものもうんとあり気づいたところできっと手など届かぬうちに死ぬんだがうまれてよかったね。よかったね!
2013年03月28日
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ふ~らふら。笑カモメのシャッターチャンスなんか、こんなもん。旅先で髪を切り、たいへんなことに!たくさん風に吹かれて、帰ろう。
2013年03月27日
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子どもが朝早く出る日だと昨夜急に言うので今朝は必要以上に早起きしてしまい朝ご飯やお弁当を作り余った時間でまた菓子など焼く。それしかすることないのかよと。林檎ケーキ。そろそろその実の在庫も尽きてきた。いいさ春なんだから。★歌の新譜をまたいただき譜読みラッシュの季節であるが、初対面の楽譜というのはいいね。新鮮だ。しかしまたわたくしの要望は聞き入れられず(ルネッ~サンス!)現代日本人作家の楽曲になってしまった。とほほ選曲に指導者の意図が見える。そのことが少し、つらい。この選曲は「ボリューム」と「経験値」と「血」で唄えという示唆だ。ルネサンスを人前で歌える力をわたくしたちはもう(なのか。まだ、なのか)有していないのであろうか。血にないものが、もう歌えないのか。★ふてくされていてもしかたないので、ドラムで気分転換。ヤホー練習時の備忘メモなど。BD(ベースドラム・バスドラ)を叩くフットペダルを踏む右足の位置が前過ぎ。叩いているうちに前にずれていってしまうということもあるし、そもそも前過ぎ。それでは音量も正確な打点も期待できないので注意。意識して改善していかないとなおせないだろう。比してハイハットペダルを踏む左足が後ろすぎ。クローズが利かずとてもだらしない演奏。セッティングの椅子の位置から注意しなくてはならない。しかしドラムを始めたときには「両手両足で違うことをする」なんてこと自分には絶対無理だと思ったが、(今でも苦手には違いないが)なせば案外なんとかなるものだと、すこし光が射してきた。どうせド素人なのだ。とにかく楽しさ重視で続けていきたい。バンドのライヴはメンバーが皆超忙しそうで駄目かもしれない。そもそもライヴのレベルにいついけるのかわからぬ。しかし腐っている暇はないね。続けるのは自分の為だ。自分の健康と楽しみのため。そして万一声がかかったらどこへでもよろこんで行く。★311。あの揺れのときわたしはちょうど車を運転していて交差点の信号待ちで停止していた。その信号と周囲の電柱があり得ない振幅で揺れはじめ、周囲の歩行者たちが悲鳴を上げて地にしゃがみこんだ。ハンドルががくがくして車が弾んでいるようだった。しかしこのままだと周囲の電柱と建物が倒れてきて最悪つぶされるだろうと思い、交差点斜めにあった食堂の大きめな平地駐車場の真中まで車をぶっ飛ばして停めた。波打つ地面を走ったのはあれがはじめてだ。そのあと家族にいそいで電話をしたがまるで繋がらなかった。★鶯が鳴いている。本物だろうか。
2013年03月11日
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今日も地元のコンサート。今日は他の合唱団体さん幾つかチームとのコラボであったので歌う側も聴く側もたのしいステージになったかなと思う。いや歌う側は実際は楽しいだけではないけれどもそんなのあたりまえで少なくとも聴く側へは楽しさを伝えねばならなかった。他の団体と歌うと学ぶことが多い。「歌う」ってなにかなといつもそのことの意味を考えさせられる。たとえばコンクールなどで上位を狙っていくような団体と、地元で楽しく歌ってアンチエイジング! というような団と、しかし前者の音楽が必ずしもお客様にまっすぐ届くとは限らない。多少きっとうまいけれど、つまんないね。とか苦しそうだね。とか、音楽の源はやはり人生の謳歌だわね、とかそれに素人の歌なんていずれそれほど違いはしないんだ。そういう狭い振幅の中で、どれだけめぐり会えた音楽を愛せるだろう。どうしたら死ぬために生まれてきたこの狭い日々を我々は愛でることができるだろう。考えながら歌っていたらまた指導者に 「こら。また心がここにないよ」と言われる。本末転倒である。しかもわたくしけっこうなポーカーフェイスのはずなのに、おかしいな?★今日老熟年チームが歌っていて心にいちばん響いた歌。懐メロ、なのかな。違うかもしれない。季節がめぐるみたいに、歌もいつもあたらしい。季節はずれもなんのその。いいの。秋に聴いたらもっと沁みちゃうじゃない。もう一度めぐり逢いたい。そう思える人に逢えた人生なら、幸せだったよね? 「冬が来る前に」 坂の細い道を 夏の雨にうたれ 言葉さがし続けて 別れた二人 小麦色に焼けた肌は 色もあせて 黄昏わたし一人 海を見るの 冬が来る前に もう一度あの人とめぐり逢いたい 秋の風が吹いて 街はコスモス色 あなたからの便り風にきくの 落ち葉つもる道は 夏の思い出道 今日もわたし一人 バスを待つの 冬が来る前に もう一度あの人とめぐり逢いたい もう一度あの人とめぐり逢いたい めぐり逢いたい★今見ているテレビドラマは『カラマーゾフの兄弟』これは、いい。映像もすばらしいし、役者もすばらしいぜ。音楽も特によくて、昨日は『亡き王女の為のパヴァーヌ』が使われていた(大好き)。ローリングストーンズも、いい。だけど親殺しってのはたまらないね。子どもが自分らしく生きるために親を殺すのは精神論か比喩だけにしてほしい。原作も読みたくなってきたぜ。この人生でまだ読んだことがない。外国文学は割とその翻訳調が苦手だしロシアの登場人物名がたぶん鬼門だ。だが、読みたくなってきたぜ。未来の地図にそれを、置く。★写真はチーズケーキの表面。亀裂がかわいく入り、かわいいなと思う。(かわいいい?)★さて明日からまたあたらしい週が始まる。がんばろう。明日は3・11
2013年03月10日
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いけないいけない。花粉症かもしれないくしゃみが止まらない。そういえば昨日の電車の中で、「鼻水」と「くしゃみ」が車両の中のわりとたくさんの人の中からこぼれまくり、その出てくる音のリズムがポルカのようであった。鼻水とくしゃみのポルカ。弱音リズムが鼻水で強拍がくしゃみ。★伊勢丹新宿店で開かれている 『1000 MUG marche』 に寄ってきた。100人の作り手によるひとり10個ずつ、ぜんぶちがう1000個のマグカップが一同に揃い並べられているという企画。こういうの大好物である。だいたい夢に出てきますよね1000個のマグカップが。先週からの開催であったし、伊勢丹あたり新宿あたりの盛りと人波を思えば訪れた時にはもうぜんぜん1000個はもちろん残っていなくて(即売しているので)コーナーは割と思ったよりも品数が寂しげではあったけれどもう花粉だの黄砂だのが混じりこんで充血した目を皿に充血させる勢いでマグカップに食いつくわたくし。カップというのはもともとプリミティブですてきな入れものの形だと思うがそこにつかみどころがついているマグカップはほんとうにかわいらしいしバランスのとりにくさや対称でない造形、使い勝手のことを考えると作り手にとっては非常におもしろい存在なんだろうなあーと思う。しかもこのような展示、開始即日売り切れてしまったものも多いらしいが(追加入荷は無しで売り切り完売だそう。ぜんぶが一点もの)出品した10個がまだひとつも売れていない作家さんもいる。少し迷ったけれど一つに決めて買う。何も入っていないときからチョコレートの味のしそうなカップ。おいしそう~それだけじゃなくて形もしっかり計算されている非常なうつくしさ。内部にも丁寧な仕事。茶渋が残っていても絶対わからないね。作家は桑田智香子さんというかた。子どもも一つを選び 「これにする」 というが、一目見てぎょっとする。凄いセレクトだ。(親子でもこんなに趣味が違うとは)(すてき。楽しい)しかしそれはでかすぎてあまりにも実用的でなくしかも重すぎて液体を入れたら片手で持ちあがらないかもしれない。本人も少しそれを思い一回り小さいものを最終的には選んでいたけれどそれでもそれはとても大きく重いものであることに変わりはないくらいだ。その作家さんのマグはそういうことでまだ一つも売れていず10個きっちり揃ってそこにあったのをうちの子がはじめて選んで買ったのであった。そのまま子どもとは新宿で別れて、深夜に帰宅してその荷からとかれたそれをみたらまあなんてすてきなこと。子どもは大層気に入り 「トルネードカップ」 と名付けていた。作家は池田麻人さんという。
2013年03月10日
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寒いのか暑いのかわからぬ今日このごろ。今日などは日中車を出したら車外気温メーター(というのがある)が24度を示していた。おそるべし。歩いている人たちが次々に上着を脱ぎだす。しかしマスクは着けたまま。このような光景が春に向かってゆく日本の普通の景色になるのであろうか。梅が満開だ。3月11日が、近づく。★夕飯は「ニョッキ」にした。じゃが芋を茹でてマッシュし、粉チーズや小麦粉を混ぜて練り茹でたもの。すこし生地がゆるかったなぁ。ほろにがい仕上がり。ほうれん草と大蒜とアンチョビのソース。★いただいた新曲がとても難しく、とても好きだ。楽譜見て目が点。変拍子が大好きだと豪語していたがここまで変拍子だと殆ど燃える。ゴゴゴゴゴ初見でどこまで歌えるか仲間と勝負。ウワハ! 変態な音楽すぎて笑うしかない。あらためて握りしめ覗きこむ楽譜。リズムは3・3・2・2・3・2・3・2ああ、5拍子の不安定。踊り出したくなる。笑いながら。もつれる足で。今は教会で奏でられる割とクラシカルな曲が楽しくて仕方ないが、いつかははっきりと「THE」の付くようなゴスペルを歌おう。BEATを刻まずにBEATを感じられるような。脳が感知できないBEATに身体が勝手に反応していくような。カ ・ イ ・ カ ・ ン。 (古いです) (というか元ネタわかってもらえるだろうか)ミュージック、ミュージック!世の中にはどうしてこんなにたくさんの音楽があるんだ。どうして世界はこれほど知らない音楽を隠している。どうして人類にはこんなものが必要なんだろう。ミュージック、ミュージック!
2013年03月08日
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稽古から戻り家でも茶を点ててみる。茶碗の中から縁まで緑滴を飛ばす雑っぷり。その勢いを自身で笑いながらいただく。笑いながら静かな気持ちになりながら、いただく。<覚書>師匠宅の稽古で使われた棗は『老松の割蓋』茶芍の銘は『春水』であった。とにかく割蓋の扱いが難しい。棗の全体的な形は平たくて、そこに薄く掛かりながら乗っている蓋が真中から番で二つに割れているのである。(十戒かよと)その蓋を割りながら茶を汲み出すのだ。蓋の開いて天の見える陽側から半分。蓋に隠れて光の射さぬ陰側から半分。時間がかかったけれど綺麗にできたので師匠が 「よくできました。わたしが若いころは力が入りすぎたせいね」「よく蓋がぶっとんでしまったのよ」などとおっしゃり、その口調に私がぶっとんでしまった。家で点てた茶は祇園辻利のもの。くせがなく、とてもおいしい。ミルクを入れて抹茶オーレにしてもおいしい。★街に出たついでに久しぶりに洋服を買う。もはや売り場は春の色。そのごく隅に押しやられながら寄せ集め売られているセールの冬物。たいそうな特売でも売れ残った品々のなんとも肩身の狭そうなこと。そのなかに一枚、きれいな紫のスカートを見つけた。ウールの素材でもなく、薄手の軽いシフォン素材でなぜこれが冬物セールに?と思い店員さんにお聞きすると「実は、それは、昨年の晩夏ものなんですよ~」などとおっしゃる。そうなのか。晩夏から今まで売れずに残っていたのか。しみじみと試着するとけっこうかわいかったので(自分で言う言う)それを買うことにした。きっと目にしたときから買おうと思っていた。季節を思うのはとても好き。だが流行ものなんかいらない。残りものには福があるだろう。どうせ季節は巡ってくるのである。
2013年03月08日
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ビスコッティ。を焼く。いそがしいようなときほどそんなことがしたくなる。友人が言った。それは現実逃避なんじゃないかって。そうだ。このような行為でそれができるのなら案外幸せである。粉やバターや卵やオーヴンとべたどろどかすか向き合っているうちにいつのまにか仕上がりを頬張って憂さを忘れている。ビスコッティはほんとうはイタリアではかなりカチカチに固いビスケットなのだけれどこちとらの大和弱歯が負けちゃ困るからメレンゲを加えて歯ごたえをやさしくした。テーブルワインに浸してみたりして伊太利気分。安いわ~。ビスコッティを焼くときの、生地をのべんと伸ばして海鼠みたいな蒲鉾みたいな形にするのが面白くて好き。その海鼠蒲鉾をまず高音で焼いてから切って並べて低温で焼きあげる。その作業もたのしくて、こんなに焼いちゃった! ★師匠が階段落ちで骨折なさったため休みになっていた茶の稽古が今日再開。シンプルな薄茶であったのに自分でもハタと思うほど手順が抜けてしまう。ちゃんと体に所作が入っていない証拠であるし入っていたとしてそれは儚く、このような短い間に霧のように抜けてしまう自由な泡だ。気をひきしめて参ろう参ろう。お軸は 「桃花千歳春」ところで師匠は骨折はだいぶ良くなられたのだが(稽古は椅子に座っていらっしゃったけれど)今度は補聴器が壊れてしまったということで、今日の稽古は茶室にあるまじきデカイ声をみんなが張り上げる場になってしまった。★春。憂さを吹き払い、笑え。笑って踏み出せ。
2013年03月06日
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いい天気。鼻がむずむずずずる。←むずむずする。東京都の合唱コンクール、春こん。賞状とトロフィー貰いましたぜっ! ヒューヒューしかしすごいね、われら。←自慢。しかし。しかし・・・。どうしても素直に喜べない。やり切っていないこの隔靴掻痒感。グハー(私がやり切ったらそれは「やらかし」ってことになる←ありがち。可能性高いが)(ほんとうは「やり切っ」ちゃそれは音楽にとってよくない出来事なのかもしれないが)満足できてないっ! 評価いただいたことは大層うれしい。それは確かだけれど、ぜんぜん、ぜんぜん満足できていません。悔しくて悔しくて、寂しい。次回は結果はどうあれリベンジ、絶対リベンジ。しかし響きの良い大きなホールで歌うのは、それだけでたいへん大きな幸せでこんな快楽を続けていたらほんとうに無駄に長生きできてしまいそうである。白髪を長く伸ばしぶるんぶるん振り回しながら歌ったらどうだろうか。(歌舞伎か)★今回他の団体の曲もたくさん聴けて殊にあらためて「ルネサンスはいいなあ~」とほんのり初恋を思い出す初々しい心の紅潮を得たのがとてもうれしい収穫。ほんとうにルネサンスはいいなあ~。いいなあ~。ルネサンスの男性部門で明大グリークラブがなんと4チームも出場していたのが出色。(抽選なのになぜか4チーム連続の出演順! 奇跡のプログラムと言われている)どのチームも真摯な演奏で聴きごたえたっぷりであったが特にその名はどうよと思われていた 『めいぐりーぱみゅぱみゅ』 が素晴しかった。少人数で輪になって互いの肉声の波長を聴きながら調整し歌うそのスタイル。ノンビブラートでまっすぐに響き合うポリフォニー。鳥肌。ああ、この瞬間。ルネサンス。わたしもわたしも、うたいたいうたいたい。うたいたいうたいたい。日本人の歌う宗教音楽は、追い求めて遠く近く。どうしてもそれは「神への捧げもの」というよりは「音楽そのものが神」というような表現になりがちだと思っている。賛否あると思うが私はそれでよいと思っている。神は天井にオワスのではなく、今ここに。
2013年03月03日
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絵描きは楽し~。いや絵描きじゃなくて今回は色塗り。今は材料が整うのを待っている状態。脳内でだけ出来上がり図が立ちあがっているのがややもどかしくて、しかしこういう時間がとても楽しい。現実にそれを出現させてゆく過程もたのしいのだが。(思うものと出てくるもののギャップに苦しんだりもする)。緻密な職人系の父親(おそろしい帆船の模型を木のパ-ツから作り上げるのが趣味)(どでかい投網の端から端まで丹念に補修するのも趣味)(コレクションの日本刀の手入れも趣味)ポンポンポンポン(藁から藁草履を編み、竹やぶから竹トンボ、森の蔓から籠)(革から財布や靴まで手縫いで作ってしまうのも趣味)の遺伝子をわたしも確実に引き継いでいるなあとは思うけれど、てんで大雑把で陽気なだけの母親の遺伝子も強く混ざっているのでわたしの創作能力はどうにも中途半端な感じでは、ある。でも、ものづくりは、すてき。時が飛ぶように過ぎてゆく。きっと父親もそうであったか。★明日は合唱コンクール。どきどき、わくわく。コンクールは祭りやコンサートと違い実のところあまりお客様がいないので(有料ですし)、「客席は南瓜南瓜茄子茄子胡瓜胡瓜、アーメン」 などと唱えなくても大丈夫なのである。晴れますように。一枚招待券余って持ってますがどなたか・・・って今頃遅いか。(会場は第一生命ホール)★春だ。まだこの世にないもの、動き出せ。
2013年03月01日
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