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2009.12.17
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カテゴリ: 新宿区


新宿通りに面した四谷区民センターの建物の脇に、「都旧跡 四谷大木戸跡」と刻まれた碑が立っています。大木戸の前身は、家康の江戸入府にさきがけて、小田原北条氏の攻撃に参加していた内藤清成が、後の甲州街道と鎌倉街道が交差した現在の新宿2丁目付近に構えていた櫓(やぐら)であり、八王子城の北条氏残党の動きに備えたものでしたが、元和2年(1616)にこの櫓は廃止され、四谷大木戸にその役目を譲ることとなりました。この年は豊臣氏滅亡の翌年にあたり、大木戸は西国の豊臣残党から江戸を守ることを主な目的としていました。

江戸へ入る街道筋で大木戸が設けられたのは、表玄関となる東海道の高輪とこの四谷のみです。地形的には、北側の饅頭谷と呼ばれた湿地帯と南側の渋谷川の渓谷に挟まれ、守りの要として最適の条件が整っていました。街道の両側には石垣が築かれ、通行には手形を要し、午前6時から午後6時までを通行時間として、夜間の通行は原則として禁じられました。しかし、天下泰平の江戸の社会に、こうした関所は次第に無用のものとなり、寛政4年(1792)に大木戸は廃止され、明治9年には交通の障害となっていた石垣も撤去されました。

大木戸跡の碑と隣接して、高さ5メートル弱にも及ぶ大きな水道碑記と呼ばれる石碑があります。ここには玉川上水開削の歴史などが刻まれていますが、これはこの場所に玉川上水の水番所があったことに由来しています。武蔵野台地に開削された水路を四谷大木戸まで導かれた玉川上水は、承応3年(1654)に完成。大木戸から先は地下の暗渠となって江戸市中に配水されました。この大木戸の暗渠入口に置かれたのが水番所で、水量の調節やゴミの除去が行われていました。四谷区民センターの建物に、東京都水道局新宿営業所が入っているのも、この水番所との縁といえるのでしょうか。

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最終更新日  2009.12.22 00:17:16
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