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奈良の2大コスモスの名所、斑鳩町と藤原宮跡のコスモス、今年も行くことが出来た。(斑鳩町、法起寺五重塔とコスモス)(藤原宮跡、畝傍山とコスモス)11月4日、久々にリュウちゃんの住んでいる斑鳩(いかるが)の里のコスモス見物に出掛けてみました。ブログでは、過去に何回か斑鳩の里のコスモスのブログをアップしたことがあります。以前は、法隆寺の西側にある「藤の木古墳」の周辺や、「斑鳩三塔」の一つ、「法輪寺」の傍にもコスモス畑があったのですが、数年ほど前から「藤の木古墳」や「法輪寺」周辺のコスモス畑は、次々と稲田や宅地に代わってしまい、現在では、「法起寺(ほうきじ、ほっきじ)」周辺と、新たに「コスモスの名所」としてオープンした「中宮寺跡地」の2か所のみが、「斑鳩の里のコスモスの名所」となってしまったのです。今は亡き「藤の木古墳」と「法輪寺」周辺のコスモスが懐かしい!(「藤の木古墳」とコスモス、2016年撮影)(「法輪寺」とコスモス、2016年撮影)なので、今回の「斑鳩町コスモス巡り」は、いきなり「法起寺周辺のコスモス」から始まります。「法起寺」周辺のコスモスも、以前と比べると、作付面積が1/3位に減ってしまった。「法起寺周辺のコスモス」と云えば、本ブログ冒頭の写真のように、国宝の「法起寺三重塔」とコスモスのコラボです。毎年、斑鳩町の「秋の観光ポスター」には、必ずこの図柄が使われるのです。斑鳩の里の秋のシンボル、「法起寺三重塔」とコスモスのコラボ、久々に撮ることが出来た。「藤の木古墳」、「法輪寺周辺」に代わって、斑鳩の里の新しいコスモスの名所に躍り出たのが、「中宮寺跡地」のコスモス」です。「中宮寺跡地」は、「法起寺」から県道を500m程、南に行った所にあります。「中宮寺跡地」???「中宮寺」は法隆寺夢殿の裏手に在る!「跡地」って、何なのだろう???<「中宮寺跡地」について>(中宮寺弥勒菩薩)本尊の「木造菩薩半跏像(弥勒菩薩)」(国宝)で知られる「中宮寺」は、現在は法隆寺東院の「夢殿」の裏手にありますが、江戸時代以前は、現在の場所から500m離れた「跡地」にあったのだそうです。「跡地」の発掘調査は昭和30年代から始められ、2018年(平成30年)、「中宮寺跡史跡公園」として整備されました。発掘調査の結果、以前の「中宮寺」には、「三重塔」が存在していたことが判った。現在は、「斑鳩三塔」だが、江戸時代以前は「斑鳩四塔」だったのだ!整備された「中宮寺跡史跡公園」の周辺には、コスモスが植えられ、「法起寺三重塔」と並ぶ「斑鳩町のコスモス名所」となったのです。本日のコスモス、やや盛りを過ぎて、しかも11月2日の強風で、かなり倒れていたが、天候に恵まれて、まずまずの写真が撮れた。<藤原宮跡のコスモス>11月8日、今回もリュウちゃん一人で、「藤原宮跡」のコスモスを観に行ってきました。午前9時過ぎ、家を出発、電車を乗り継いで、近鉄「畝傍御陵前駅」に着いたのだ午前11時ジャスト、当初の予定通り、駅前の「餃子の王将」に入り、早い昼食、プファ~、ビールが旨い!定番の「餃子」、「エビチリ」、少量だけど、ビールのツマミにはこれで充分なのだ。駅前から、「藤原宮跡」までは徒歩15分位です。「餃子の王将」から徒歩5分の所に、「本薬師寺跡地」があります。この辺りから、この地特有の古代のアトムモフィア(雰囲気)が濃厚になってくる。「藤原宮跡」が見えてきました。まだコスモスは咲き残っているかな?コスモスが見えてきました。良かった!まだコスモスは咲き残っていた!<「藤原宮跡」について>「藤原宮跡」は、持統天皇8年(694年)に造営された「藤原京」の跡地です。「藤原京」は、古代中国の「唐」の都を参考にして作られた日本初の本格的な「都」です。和銅3年(710年)に「平城京」に遷都されるまで、16年間に渡り、「日本の首都」だった場所なのです。「畝傍山」、「耳成(みみなし)山」、「(天の)香久山」の、所謂「大和三山」のトライアングルの中心部に宮殿が築かれ、その壮麗さは、後の「平城京」、「平安京」を上回ったと推定されています。(「藤原京」復元図)コスモス畑に入ります。例に拠りまして、背景の「大和三山」とコスモスというコンセプトで写真を撮りましたので、本ブログも、そのコンセプトに従って写真をアップします。<畝傍山とコスモス>大和三山の中では、「藤原宮跡」から一番遠くにある山です。「畝傍山の背後に霞んでいる山並みは、右から、「二上山(にじょうざん)」、「葛城山」、「金剛山」です。<耳成山とコスモス>「耳成山」は、「藤原京」の宮殿の背後にある山です。持統天皇が宮殿の玉座に座った場合、完全に「背後の山」となり、玉座から見ることは出来なかった筈の山ですね。「耳成山」の遥か背後に、710年に造営された「平城京」があるのです。<天の香久山とコスモス>「天の香久山」は、百人一首の持統天皇の和歌で有名になった山です。この山の右側の道は「明日香村」に続いています。背後の山は、「大化の改新」で中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足が談じ合った「談山神社」のある「多武峰(とうのみね)」なのです。本来だったら、「藤原宮跡」から3キロ東にある「安倍文珠院」まで歩いて「コスモス迷路」を観に行くのですが、足の調子が悪いので、今回は諦めました。足の具合が悪いため、行動半径が狭くなってしまったが、今年も奈良のコスモスの2大名所を歩くことが出来た。少々満足。<藤原宮跡、世界遺産に登録か?>10月15日に更新した「明日香路の彼岸花2024(2)」のラストに、<明日香村と隣接する藤原宮跡、世界遺産に登録申請>というトピックスを書きました。順調に行けば、今回、コスモス見物に訪れた「藤原宮跡」も、2年後に世界遺産に登録される筈です。そうなると観光客が激増して、「藤原宮跡」独特の「古代のアトモスフィア」が失われてしまう恐れがある。痛し痒しなのだ!
2024年11月26日
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ここは「魔の山」だ!(ドイツ人カストロプの言葉) 「風立ちぬ」予告編http://www.youtube.com/watch?v=lKsauOY2EAo 前回のブログで、リュウちゃんがこの映画から受けた印象を幾つかのキーワードとして挙げ、その内、(1)「空を飛ぶ夢」、(2)「純愛」について書いてみましたが、、今回のブログでは、あと二つのキーワードについて書いてみます。 (3)トーマス・マン「魔の山」この映画の中盤、堀越二郎が里見菜穂子と再会する軽井沢のホテルには、カストルプというドイツ人が滞在していて、二郎は彼と仲良くなります。カストルプは何度も、このホテルを「魔の山」だといいます。 この「魔の山」とは、明らかにドイツのノーベル文学賞作家・トーマス・マンが1924年に発表した小説「魔の山」を指しています。 「魔の山」のあらすじは、「ドイツ人の青年が結核の療養の為、スイスのアルプス山脈の麓にあるダボスのサナトリウムで7年を過ごす。この長期療養期間中に彼は第1次世界大戦直前のヨーロッパの縮図を構成しているような様々な人物に出逢い、成長していく」、というものですが、 この「魔の山」の主人公の青年の名前は、ハンス・カストロプなのです。 「魔の山」の作家・トーマス・マンは、第1次世界大戦後のワイマール憲法下の共和制を支持しましたが、ヒトラー率いるナチスが台頭すると、その危険性を訴え、ヒトラーが政権を握るとスイスに亡命、その後アメリカに移住してからも、ドイツからの亡命者を支援し続けたそうです。当時の日本の小説家と違って、狭い文学の枠に捉われず、政治的発言も大いにやった作家だったようです。 小節「風立ちぬ」の著者・堀辰雄は、1930年代、肺結核療養中にヨーロッパの先端文学を読み漁ったようなので、きっと、その読書歴の中に「魔の山」も入っていた可能性は充分にあります。 映画「風立ちぬ」の中で、カストロプのエピソードはかなり特異な感じがします。恐らく、実在した堀越二郎・堀辰雄のエピソードにも、カストロプのエピソードは出てこない筈です。とすれば、これは完全に宮崎駿のオリジナル創作ということになります。 宮崎駿は何故、カストロプのエピソードをこの映画に挿入したのか? リュウちゃんは改憲に突き進む安倍政権に対する警告の意味で、敢えてこのエピソードを挿入したと推測しますが、皆様の意見は如何でしょうか? (4)喫煙実際の堀越二郎はどうだったのか、よく判りませんが、この映画の中の堀越二郎は、かなりのへビースモーカーです。学生時代から喫煙していて、他の幾つかのシーンでも、美味しそうに煙草を燻らす場面が随所に出て来ます。煙草の煙がフヮンと空中に広がる印象的なシーンが幾つかありました。 リュウちゃんが特に印象に残った喫煙シーンは以下の2つです。(1) 軽井沢のホテル、二郎の横の席にドイツ人カストロプが座り、「ドイツの煙草もこれ1本で終り」と二郎に話しかけますが、二郎は「日本の煙草は如何ですか」と、持っていた日本の煙草(銘柄「チェリー」)を勧めるシーン。(2) 上司の家の離れで新婚生活を続ける二郎夫妻、多忙の為、遅く帰宅した二郎は、寝ている菜穂子の手を繋いで仕事を続ける。二郎「煙草が吸いたくなったので手を離すよ」、菜穂子「いいからそのまま吸って」、二郎は寝ている菜穂子の手を繋いだままで、煙草を吸う。 特に(2)の、寝ている菜穂子と手を繋いだ儘で喫煙するシーンに、皆様は違和感を感じられたのではないでしょうか? 二郎と同じ喫煙者であるリュウちゃんも、さすがにこのシーンは少し違和感を覚えました。 しかし、これらの違和感は、物語が昭和10年頃の話であるのに、今日の喫煙パッシングのモラルの目で見た違和感ではなかったかとリュウちゃんは考えています。当時の男性の喫煙率は80%を超えていて、喫煙はひとつの文化だったのですね。皇室には明治時代から「恩賜のたばこ」があり、戦前は戦争で功を挙げた軍人に天皇から下賜されていました。戦後になってからも、叙勲者や園遊会の出席者、皇室の来賓などに、おみやげや謝礼品として使用されていましたが、嫌煙運動の高まりを受けて、2006年(平成18年)に廃止されたそうです。 黒澤明や小津安二郎などの映画を観ますと、大抵の男は喫煙します。このことを見ても、昭和の時代、喫煙は文化の一つとして定着していたことが覗えるのです。 もう一つ云いますと、宮崎駿自身が相当なへビースモーカーで、彼のアニメに出て来る男達は喫煙者が多いのですね。「風立ちぬ」の堀越二郎は、さまざまな点で宮崎駿の「分身」と云える人物造形になっているので、ヘビースモーカーに設定されたのだと思います。 「風立ちぬ」の堀越二郎と同じように、宮崎駿の分身として人物造形された例として、1992年公開の「紅の豚」の主人公、「ポルコ・ロッソ」があります。 「紅の豚」予告編http://www.youtube.com/watch?v=bYpEmPCNOpY ポルコ・ロッソも大のヘビースモーカー、「紅の豚」も「風立ちぬ」と同じく、原案は月刊誌「モデルグラフィックス」に掲載されたものだったそうです。主人公は、かってイタリア空軍のエースパイロットだったのですが、戦争に嫌気がさして、魔法で豚に変身し、空中海賊相手の賞金稼ぎに転身したという設定です。 「飛行機は好きだけど、人を殺す戦争は嫌だ」という宮崎駿の「風立ちぬ」のメッセージの原点が、「紅の豚」だったのですね。 「紅の豚」のポルコ・ロッソ、「風立ちぬ」の堀越二郎、宮崎駿に共通する点は、「愛煙家で飛行機が好きだが戦争は嫌い」ということです。リュウちゃんも愛煙家の一人として、宮崎駿のメッセージには全面的に共感出来たのです。 次回(最終回)は、「風立ちぬ」の音楽について書いてみたいと思っています。 (以下、宮崎駿の新作「風立ちぬ」を観る(4)に続きます)
2013年08月06日
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ああ!我が心に甦る青春の清純歌前回のブログで、久々に「北上夜曲」を聴き、俄かにこの頃リュウちゃんが好きだった歌謡曲を聴いてみたくなりました。今回は「我が青春の歌謡曲(1)」と致しまして、最近では滅多にお目にかからない清純派女性歌手の清純歌謡曲を紹介したいと思います。先ず、吉永小百合さん、昭和20年3月生まれ、リュウちゃんより一歳年上です。「寒い朝」:小百合ちゃんの記念すべきデビュー曲です。昭和37年5月発売、リュウちゃん、高校1年の時でした。「伊豆の踊子」:昭和38年の映画(共演:高橋英樹)の主題歌「恋の歓び」:この歌には、かなりハマりました。「愛と死のテーマ」:昭和39年の映画「愛と死をみつめて」の主題歌。同じテーマの歌では、青山和子さんのの曲が有名ですが、リュウちゃんは断然、小百合ちゃん派なのです。「天満橋から」:歌謡曲ではなく、抒情歌ですね、小百合ちゃんの関西弁の歌詞もいいですね。「奈良の春日野」:「天満橋から」のB面曲、今や、奈良のテーマソング(笑)「哀愁のアムステルダム」:昭和41年の映画「風車のある街」主題歌、リュウちゃんの最愛の曲です。小百合ちゃんのデビュー当時より少し前、リュウちゃんにとって最大のアイドル歌手だった藤本二三代さんです。リュウちゃん、長らくレコードを探していましたが、You-Tubeで一挙に聴けるようになりました!「夢見る乙女」花の大理石(マーブル)通り花の十九よさようなら好きな人神楽坂浮子「十九の春」:この歌、リュウちゃんのカラオケのレパートリー曲なんですよ!菊地章子「春の舞妓」:これもリュウちゃんの大好きな歌です。最近、行きつけのカラオケ店に行きましたところ、ママからこの歌をリクエストされました。ナレーションを若尾文子さんが担当しています。高石かつ枝は昭和37年、「愛染かつら」の再映画化に際し、コロムビアが映画のヒロインと同名の歌手のオーディションに合格し、主題歌「旅の夜風」でデビュー「旅の夜風」:元祖・霧島昇とのデュエットです。リュウちゃんは勿論、霧島さんのファンなのです。「純情の丘」:オリジナルは二葉あき子、宝塚調の歌で、リュウちゃんのお気に入りの一曲です。「林檎の花咲く町」:彼女のオリジナルの代表曲です。スリーグレイセス「山のロザリア」:元はロシア民謡、歌声喫茶全盛時代の大ヒット曲、フォークソングのハシリのような曲です。リュウちゃんの元祖アイドル歌手だった藤本二三代さんは平成13年、大動脈乖離で逝去、享年63歳、合掌.
2010年11月17日
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♪~京都嵯峨野に吹く風は~♪フォーク・デュオ「たんぽぽ」の名歌「嵯峨野さやさや」に誘われて嵯峨野巡りリュウちゃんは今、地元の斑鳩町の公民館で「歌声サークル」で歌の指導をしています。サークルの名称は「新生フィオーレ・イカルガーナ」、通称「フィオーレ」です。 カラオケではなく、ピアノ伴奏付きでマイクを使わずに唱歌・童謡・歌曲・歌謡曲・フォークソングなどを毎回10曲程度、「丁寧に歌う」ことをモットーにしています。毎年3月には「公民館祭り」に出演、ステージの上で4~5曲を披露します。「公民館祭りで歌う歌」は毎年12月に会員にアンケートを募り選出することにしています。昨年のアンケートでは、九州大学の山男の歌である「坊がつる讃歌」がダントツの1位だったのです。<「坊がつる讃歌」~芹 洋子>(ミヤマキリシマの咲く「坊がつる」) 今年の12月に集計したアンケートの結果は以下のようになりました。(1位)「嵯峨野さやさや」(2位)「ばあやたずねて」(海沼実の童謡)、<「ばあやたずねて」~島倉千代子> (3位)「花の街」(団伊久磨の歌曲)<「花の街」~鮫島有美子>(4位)「青春の城下町」(梶光夫の歌謡曲><「青春の城下町」~梶光夫> (5位)「雪のお地蔵さん」(海沼実作曲の童謡)<「雪のお地蔵さん」~川田孝子> う~ん、今年もいい歌が揃った!さて、1位になった「嵯峨野さやさや」です。先ず、この歌のYou-Tubeを聴いて下さい。 <「嵯峨野さやさや」~詞:伊藤アキラ、曲:小林亜星、歌:たんぽぽ>⤴ここをクリックこの歌は、姉妹フォーク・デュオ「たんぽぽ」の昭和50年発売のデビュー曲です。メインボーカル:宮村保志子、ギター:宮村三代の2人組です。(アルバム「スプリング・ハズ・カム」のジャケット)ちょっと昭和46年に「恋人もいないのに」でデビューした女性フォーク・デュオ「シモンズ」によく似ていますね。(シモンズ) <「恋人もいないのに」~シモンズ>「嵯峨野さやさや」の歌詞は4番までありまして、1番では、浄土宗のお寺「直指庵(じきしあん)」、2番では松尾芭蕉の弟子・向井去来の別荘だった「落柿舎(らくししゃ)」、3番では、苔の寺として知られている尼寺「祇王寺」が謳われます。よし、「嵯峨野さやさや」の歌詞に沿って嵯峨野を散策してみよう。という訳で、11月の末に、京都の嵯峨野・嵐山を散策して来ました。<歌詞1番:直指庵(じきしあん)>♪~京都嵯峨野の直指庵旅のノートに恋の文字どれも私によく似てる~♪(この写真はネットからお借りしました) <直指庵HP>「直指庵」は江戸時代の1646年(正保3年)に独照性円が没蹤庵を建てたのに始まるのだそうです。。名前の由来は独昭禅師が黄檗禅の正統さを「直指伝心」することを旨としたことによるようです。現在の建物は明治22年に再建されたものです。「嵯峨野さやさや」の歌詞にある「旅のノート」とは、昭和30年頃から始められた本堂にある「思い出草ノート」のことです。直指庵に訪れた人達はこのノートに徒然に文章を書く、このノートは現在では5000冊を越えているのだそうです。<歌詞2番:落柿舎(らくししゃ)>♪~雨の落柿舎たんぼ道藪の茶店で書く手紙きのう別れた あの人に~♪(この写真はネットからお借りしました)<「落柿舎」HP>「落柿舎」は松尾芭蕉の弟子で元禄時代の俳人・向井去来(きょらい)が営んだ草庵です。「落柿舎」という名称は、ある日、周囲の柿の実が一夜にして全部落ちてしまったという由来から来ているようです。師匠の松尾芭蕉も3回に渡りこの草庵に滞在し、ここで「嵯峨日記」を著しました。柿主や 梢はちかき嵐山~去来<歌詞3番:祇王寺(ぎおうじ)>♪~朝の祗王寺苔の道心変わりをした人を責める涙がぬらすのか~♪以下は「祇王寺」に因む「祇王寺祇王桜」です。(祇王寺祇王桜)「祇王寺」は、平清盛の寵愛を受けた白拍子(歌や舞を披露する芸妓)の「祇王」が、清盛の怒りに触れて、出家したと伝えられる尼寺です。「嵯峨野さやさや」の歌詞にある「♪~心変わりをした人を責める涙がぬらすのか~♪」は、この伝説を念頭に置いているとリュウちゃんは思いました。萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いづれか秋に あはで果つべき~祇王<歌詞4番・常寂光寺・二尊院>♪~京都嵯峨野に吹く風は愛の言葉を笹舟にのせて心にしみとおる~♪「嵯峨野さやさや」の4番の歌詞は、特定の場所は出てこないのですが、リュウちゃんは勝手に「常寂光寺」と「二尊院」の2寺に治定しました。11月に嵯峨野・嵐山を散策した際の実際の散策順路は以下のようだったのです。JR「嵯峨嵐山駅」~「天龍寺」前~「落柿舎」~「常寂光寺」~「二尊院」~「祇王寺」~「直指庵」~「天龍寺」~「渡月橋」(嵐山)~JR「嵯峨嵐山駅」、つまり、「落柿舎」から「祇王寺」への行程の途中に、「常寂光寺」と「二尊院」があるのです。<常寂光寺(じょうじゃっこうじ)>(この写真はネットからお借りしました)「常寂光寺」は、安土桃山時代末の慶長元年(1596年)に日蓮宗大本山本圀寺十六世日禎が隠棲の地として建立されました。百人一首で詠まれる小倉山の中腹の斜面にあって境内からは嵯峨野を一望でき、境内の庭園には200余本のカエデが植えられており、秋は全山紅葉に包まれます。その常寂光土のような風情から寺号がつけられたとされています。 <二尊院>(この写真はネットからお借りしました) <「二尊院」HP>「二尊院」は平安時代初期の承和年間(834–847年)、嵯峨天皇の勅により円仁(慈覚大師)が建立したと伝えられる天台宗の古刹です。山号は「小倉山(おぐらやま)」、その名の通り、小倉山の麓に建立されています。境内には、百人一首ゆかりの藤原定家が営んだ「時雨亭」跡地があります。また、この寺も「紅葉の名所」なのです。小倉山峰のもみじ葉心あれば今ひとたびのみゆき待たなむ~貞信公(百人一首26番)<番外:天龍寺・嵐山>午前10時、JR「嵯峨嵐山駅」出発、天龍寺の門前を右折し、「落柿舎」~「常寂光寺」~「二尊院」~「祇王寺」と順調に巡りました。ここまでは観光客も多く、観光客の行列についていけば自動的に行けたのですが、「祇王寺」から「直指庵」までは殆ど観光客もいない田舎道、方向音痴のリュウちゃん、案の定、迷ってしまいました(トホホ!)結局、「祇王寺」を出てから「直指庵」に着くまで、通常だったら徒歩30分の所、1時間半も掛ってしまったのです(またまたトホホ!なのです)で、「直指庵」を出たのが午後2時頃、お腹が空いた!で、「直指庵」の近くの農産物無人販売所のベンチで遅い昼食、プファ~、ビールが旨い!初冬の風が心地よい!で、スタート地点の「天龍寺」に着いたのが午後3時、既に太陽は嵐山の彼方に沈んでしまい、夕闇が迫ってきました。<天龍寺>天龍寺は京都五山の筆頭とされる古刹です。創建は室町時代の康永4年(1345年)、足利尊氏が「かたき」であった後醍醐天皇の菩提を弔う寺院として建立された臨済宗天龍寺派大本山の寺院です。 <天龍寺HP>天龍寺は勿論、紅葉の名所です。リュウちゃんも大勢の観光客と一緒に天龍寺に入り、紅葉見物をしました。境内のススキも美しい!<桂川・渡月橋> 天龍寺を出て、渡月橋のある桂川(上流は大堰川)の岸辺に出ました。既に陽は対岸の「嵐山」の後ろに沈み、辺りは夕暮れ時です。ここは「保津川下り」の終着点、乗合船がひっきりなしに到着します。リュウちゃんのバカチョンデジカメではすっかり「日暮れ」ですが、現在は午後4時ちょっと前、渡月橋の上はいつまでも混雑が続いていました。ここでリュウちゃんの素朴な疑問を一席、 天龍寺のある場所は「嵐山地区」なのか?それとも「嵯峨野地区」なのか?天龍寺の住所は、「京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68」です。この住所で考えますと、天龍寺は「嵯峨野地区」だと思われますが、「嵐山地区」随一の観光スポットでもあります。「嵯峨野地区」と「嵐山地区」はダブっているのか?ここで「嵐山」のウィキペディアの記述を以下に貼り付けます。<「嵐山」は本来地名としては西京区(桂川の右岸)を指し、左岸は右京区嵯峨であるが、観光案内等では嵯峨地区を含めた渡月橋(とげつきょう)周辺全域を一まとめに嵐山と称することが多い>そうだったのか!疑問が解けた!「天龍寺」のある場所は正式には「嵯峨野地区」、しかし、「嵐山」という観光スポットの中心部にあるため、ここは「嵐山の名刹」とされている」、ということなのですね。天龍寺、嵐山も「嵯峨野さやさや」の4番の歌詞に含まれるのだ!再度、たんぽぽの「嵯峨野さやさや」のYou-Tubeを下記に貼り付けます。<「嵯峨野さやさや」~たんぽぽ>⤴ここをクリック 「嵯峨野さやさや」は、岩崎宏美もステージで歌っています。<「嵯峨野さやさや」~岩崎宏美>姉妹フォークデュオ「たんぽぽ」は、昭和50年に「嵯峨野さやさや」でデビューしましたが、シングル盤13枚、アルバム6枚を残してデュオ結成後、僅か6年後の昭和56年に引退してしまいました。現在の所、CDは全て廃盤、楽譜も全く市販されていないのです(リュウちゃん、「フィオーレ」で「嵯峨野さやさや」を採り上げるに際し、京都のレコード・楽器楽譜店で、楽譜とCDを探したのいですが、全くゼロ回答だったのです。仕方がないので、上記You-Tubeを聴いて採譜し、楽譜を作成したのです)あれだけ美しい「嵯峨野さやさや」、きっと「たんぽぽ」の歌には他にも素敵な曲がある筈だ。と思い、You-Tubeで出来る限り「たんぽぽ」の曲を探してみました。結果、以下の曲を見つけることが出来ました。(1)<初恋少女>(1)<初恋少女>(2)<ひとり歩き>(2)<ひとり歩き>唯一、彼女達のステージが見られるYou-Tubeです。この歌、作曲者は「嵯峨野さやさや」と同じ小林亜星なのです。(3)<縦縞のシャツを着て>(3)<縦縞のシャツを着て>この歌、作詞作曲が小椋 佳なのだ!(4)<ダルマおとし+小さな白いページ>(4)<ダルマおとし+小さな白いページ>ファースト・アルバム「小さな波紋」に収録されたアルバム曲です。(5)<スカボロー・フェア>(5)<スカボロー・フェア>サイモン&ガーファンクルがレコーディングして世界的に有名になったイギリスのトラディッショナルソングです。アルバム「過ぎし日の想い出」に収録されました。う~ん、「たんぽぽ」の歌、正にメルヘンの世界、皆素晴らしい!リードボーカルの宮村保志子さんの透明で澄んだソプラノ、素晴らしい!来年3月の「公民館祭り」、頑張るぞ!
2019年12月19日
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今年の「稲渕案山子コンテスト」、最優秀賞に選ばれた「キキとジジ」秀逸な作品だ!(前回のブログの続きです)「石舞台」の麓を見下ろすレストランで昼食を終えて、午後1時に次の目的地である「稲渕棚田」に向かいました。レストランから「稲渕棚田」までは、徒歩30分の上り坂、無事、辿り着けますことやら?以下は、「石舞台」から「稲渕棚田」への道筋で撮った写真です。「石舞台」より標高の高い所は、彼岸花が少ない。開花はこれからなのかな?午後1時30分、「稲渕棚田」に到着、「稲渕棚田」の見物(みもの)は、「第29回案山子コンテスト」です。今年はどんなユニークな案山子に出逢えるのかな?棚田の入口に、巨木を使ったオブジエがあります。オブジエの下の白い彼岸花、今年も見ることが出来た!小滝のある橋の下を潜ると、そこから約500mに渡り、「案山子ロード」が続きます。さて、ここからは、「案山子ロード」に展示されていたユニークな案山子を幾つか紹介してみます。今年も30点ほどの案山子が出展され、作品にはタイトルと制作者の名前が書かれているのですが、全ての作品を紹介出来るスペースはありませんので、好感を持てた案山子を10点ほど紹介いたします。稲渕地区の「案山子ロード」、すっかり、秋の風物詩になった。<六地蔵に見守られる><「のこたん」withエッフェル塔><はすときいと僕の旅><マリンと遊ぶ><イナブレイキンかかし><朱雀><明日香より愛を込めて><外で遊ぼう><燕の親子><今年のジャンボ案山子>「案山子ロード」には、毎年、体長3~5mほどの「ジャンボ案山子」が展示されます。今年のジャンボ案山子は、「御陣乗太鼓」です。「御陣乗太鼓」???はて、何じゃらほい?<「御陣乗太鼓」とは>「御陣乗太鼓」は石川県輪島市名舟町に伝わる伝統芸能で、お面を被った人々が陣太鼓を打ち鳴らしながら勇壮に舞い、名舟大祭の一部として行われる日本遺産構成文化財です。越後の上杉謙信は、1576年以来能登へ攻め入って、翌年に名舟村をも攻撃したが、村人は鍬や鎌など以外は武器は持たなかったので、古老の知恵を借りて、樹皮のお面と海藻の頭髪で仮装して、太鼓を打ち鳴らして夜襲をかけて、上杉軍を退散させたという。村人たちは名舟沖48kmにある舳倉島奥津比咩神社の大祭に御陣乗太鼓の舞いを奉納するようになった(以上、ウィキペディアからの引用です)今年の案山子コンテストは、年初の「能登大震災」と、秋の「大水害」に対し、復興の祈りを込めてエールを送ることが主要テーマになっていましたので、「御陣乗太鼓」をジャンボ案山子に仕立てたのでしょうが、一般の人にとっては殆ど理解出来ない案山子になってしまったとリュウちゃんには思われました。これまでリュウちゃんが見た一番お気に入りのジャンボ案山子は、2021年の「大谷翔平」案山子なのです。大谷翔平選手のポストシーズン、ますます期待が高まる!(大谷翔平ジャンボ案山子)案山子ロードの終着点に、明日香村では唯一、黄色い彼岸花(鍾馗水仙)が咲く土手があります。期待が高まる!今年も開花が見られるかな?土手に近づいたところ、アチャ~、まだ「蕾膨らむ」だ!ちょっと早過ぎた。土手の上は、明日香村の「白い彼岸花の名所」の一つです。白い彼岸花も、まだ咲き始め、ちょっと淋しい。<今年の最優秀賞案山子「キキとジジ」>「案山子ロード」の終着点に展示されていた案山子です。ご承知のように、この案山子は、宮崎アニメ「魔女の宅急便」の主人公、13歳の少女の魔女「キキ」と、相棒の黒猫「ジジ」を案山子に仕立てた作品です。丁寧に仕上げられたチャーミングな案山子!アップで撮っても魅力ある表情!リュウちゃん、すっかりこの作品に魅了されてしまった!アニメで主題歌として使われたユーミンの、「ルージュの伝言」が口に出てくる。<「ルージュの伝言」:松任谷由実(?)>午後3時、稲渕棚田を後にして、帰路に就きました。ここからはずっと下り坂、少し足どりが軽い。帰路の彼岸花の見所は、「橘寺」周辺です。「橘寺」に近づくと、民家の傍の稲田の畔に彼岸花が目に付くようになってきました。「橘寺」の下の道筋に、馬の顔の形をした切り株があります。この切り株、「馬の顔」の形は単なる偶然なのか?<「橘寺」周辺の彼岸花>午後3時半、「橘寺」の前に到着、「橘寺」の前には、「聖徳太子御誕生所」という石碑が建っています。「橘寺」の周辺は、明日香村でも屈指の彼岸花の見所なのです(本日は、まだ桜に例えれば「五分咲き」くらいでしたが、、)かって聖徳太子も見たかも知れない「橘寺」周辺の彼岸花、古代の息吹を濃厚に感じるスポットなのだ。<「亀石」付近の彼岸花>「橘寺」から、「亀石」に向かいます。歩く方向の左側の高い土手の上の彼岸花、「見上げる彼岸花」なのだ!「亀石」に到着、楽しみにしていた」亀石」の下の彼岸花、今回は見ることが出来なかった。ちょっと残念(早過ぎたのかな?)<天武・持統陵>「亀石」から500m位、坂を下りた所に、「天武・持統陵」があります。陵の周辺に彼岸花は咲いていませんでしたが、コスモスが若干、開花していました。<高松塚古墳の近くの彼岸花>「天武・持統陵」の石段の下の道を下りますと、前方左手に「高松塚古墳」があるのですが、「高松塚古墳」に行くのには、一山越えなくてはならす、小1時間ほど掛かってしまいますので、残念ですが今年も「高松塚古墳」行きは諦めたのです。以下の写真は、今回の明日香村の彼岸花巡りの、「ラストの彼岸花」です。午後4時過ぎ、今回の散策の終着点である「近鉄飛鳥(あすか)駅」に到着。午前9時30分に「近鉄橿原神宮前」を出発してから、途中、昼食休憩を除き、ほぼ6時間、歩きっぱなしの旅でした。足の痛みも途中で忘れてしまうほどの、充実した一人旅になった(かな?)<特報><明日香村の遺跡と、隣接する藤原宮跡、世界遺産に登録申請>2024年9月9日、世界遺産への登録を目指して文化庁の審議会は、奈良県明日香村などの飛鳥時代の遺跡「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」について、国内の候補として、推薦することを決めました。今後、政府は9月末までに暫定版の推薦書をユネスコに提出し、ユネスコの諮問機関による事前審査を経て、早ければ2年後の2026年に世界遺産委員会で登録されるかどうかが決まります。明日香村で、世界遺産に登録申請された主な文化財には、「飛鳥寺跡地」、「石舞台古墳」、「橘寺境内」、「天武・持統陵」、「高松塚古墳」、「キトラ古墳」などが含まれています。いわば、「明日香村の、ほぼ全村が世界遺産になる」ということです。明日香村が世界遺産になったら、外国人の客が殺到して、現在の「静かな明日香村」は損なわれてしまいそうだ。「静かな明日香村」は来年で終わり、来年は「静かな明日香村」最後の年、また、あすかビールと古代米おにぎりでプファ~、ビールが旨い!とやってみたい!
2024年10月15日
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「錦の里」と称される奈良屈指の紅葉の名所「正暦寺」、久々の正暦寺の紅葉狩り、11月24日(金)、9年ぶりに奈良市内屈指の紅葉の名所である「正暦寺(しょうりゃくじ)」に一人で行ってきました。9年ぶりの「正暦寺」、綺麗な紅葉を観ることが出来るかな?「正暦寺」は奈良市内にあるとはいえ、JR奈良駅から車で25分も掛かる「僻地」にあります。以前は1日数本の公共交通のバスが運行していたのですが、数年前、バスが廃止になってしまい、現在では文字通り「陸の孤島」となってしまいました。でも。紅葉のシーズンには、臨時バスの運行があるというので、臨時バスに乗ることを前提にして、朝9時30分、法隆寺の家を出発、午前10時、JR奈良駅前の観光案内所に到着、ここで、改めて「正暦寺」に行く最善の方法を問い合わせましたところ、臨時バスは土・日のみの運行です。平日は公共交通で、「正暦寺」に行く方法はありません、とのこと、アチャ~!平日の「正暦寺」は、完全に「陸の孤島」だ!しょうがない、タクシーで行くしか方法が無い。ということで、奈良駅からタクシーを奮発し、「正暦寺」に着いたのが午前10時30分。奈良駅から「正暦寺」まで、タクシー代が4010円も掛かってしまった!さて、「正暦寺」です。最初の紅葉は、入口にある「日本清酒発祥之地」の石碑の横にあります。(※)「正暦寺」は何故、「日本清酒発祥之地」と呼ばれるようになったのか?「うま酒、三輪の山」と云われますように、日本の酒造りの発祥の地は、正暦寺の約10キロ位南にある「大神(おおみわ)神社」だとされています。但し、古代から大神神社で造られていた酒は、所謂「濁り酒」でしたが、室町時代に正暦寺が開発した酒は、「南都諸白(なんともろはく)」(「麹米」と「掛け米」(蒸米)の両方に精白米を用いる製法)と呼ばれる製法で、この製法が現在の清酒の製法とほぼ同じであることから、正暦寺が「清酒発祥の地」と呼ばれるようになったようです。「正暦寺の紅葉」の最初の見所は、残存している唯一の塔頭である「福寿院客殿」から見る「借景庭園」です。この庭園からの紅葉の眺め、京都の名庭園の紅葉に匹敵するが、残念ながら「客殿」からの撮影は禁止!!??なので、以下にネットからお借りした写真を2枚貼り付けます。こんな素敵な庭園が撮影禁止、何故、撮影禁止なのか?意味不明だ。「客殿」の外に出ます。「本堂」へ登っていく参道脇の紅葉とイチョウが、「借景庭園」の「借景」された場所なのです。「借景」された場所の紅葉とイチョウ、なかなか見事なのだ!参道を辿り、「本堂」に登って行きます。「本堂」への登り坂の途中に、2基の「十三重石塔」と、正暦寺で亡くなった僧侶の墓石群があります。「十三重石塔」と墓石群と紅葉のコラボ、正暦寺ならではの景観なのだ!「本堂」に登って来ました。「本堂」前の紅葉の景観、「談山神社」のように、深山の紅葉なのだ!「本堂」を出て、その先にある「龍神平(りゅうじんだいら)」に向かいました。「龍神平」の眼下は、「福寿院」だ!「借景の地」のイチョウも紅葉も、眼下にあるのだ!もうお昼時、さて、昼食をどこで摂ろうか?どうやって奈良に帰ろうか?「正暦寺」の近所には、休憩所が一か所だけ在るのですが、ここは「喫茶」だけで、食事は出来ません。「酒」と名が付く飲み物も、「甘酒」しか置いてないのです。「清酒発祥の地」であるにも関わらず、「甘酒」しか置いていない!こりゃ、参った!!!しょうがない、歩いて奈良駅に帰ろう。帰路の途中で、食べ物屋に出逢えるかも知れないし、奈良市に行くバス停も見つかるかも知れない?12時ジャスト、下山開始、ススキや柿の木のある田舎道を、ひたすらテクテクと西に向かって歩いたのです。しかし、食べ物屋は一軒も見つからない!午後1時20分、ひたすら歩くこと1時間20分、やっと、JR万葉まほろば線の「帯解(おびとけ)駅」に到着、この駅からJR奈良駅は、<「帯解駅」~「京終(きょうばて)駅」~「奈良駅」>と、僅か2駅なのですが、何しろ超ローカル線なので、次の奈良行まで30分待ち、しょうがない、待ち時間を利用して、「帯解寺」を見物しよう。平安時代に創建された「帯解寺」は、安産・子授けの寺として信仰を集めていまして、美智子皇太后、雅子皇后を始めとする皇族の方々も、この寺で安産祈願を行ったのだそうです。午後2時過ぎ、やっとJR奈良駅に到着、早速、駅前の「餃子の王将」に入り、「餃子」と「レバニラ炒め」、それと、生ビール(2本)を注文し、遅い昼食、プファ~、ビールが旨い!定番の「餃子」と「レバニラ炒め」、空腹の五臓六腑に沁みこんでいくのだ!遅い昼食を終えて「餃子の王将」を出たのが午後3時ちょっと前、本来なら、ここから歩いて奈良公園を一周する所ですが、今回は時間がないので、「大仏殿」の周辺に限定して行ってみることにしました。市内循環バスに乗り、「氷室神社前」で下車、氷室神社のイチョウ、美しい!「南大門」を潜って、「大仏殿」の前の「鏡池」に出ます。おお!「鏡池」周辺の紅葉、絶好の見頃だ!「鏡池」から、「大仏殿」の裏手に周ります。「大仏殿」の裏手に「大仏池」があります。「大仏池」の周りのイチョウの黄金の絨毯、今年も観ることが出来て、気分はハッピーなのだ!
2023年12月27日
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春日大社「萬葉植物園」の「藤園」、ここは「藤の花の迷宮」なのだ!ゴールデンウィーク、奈良人は必ず春日大社の藤を観に行きます!?リュウちゃんも奈良人の端くれの一人としまして、毎年GWには奈良公園に藤見物に行くのですが、毎年、少しづつ不満を残すのです。その不満とは?広大な奈良公園の多種多様な藤は、それぞれ「見頃」も違う。1日だけでは全ての藤の「見頃」を堪能出来ない。なので今年は、全ての藤の「見頃」を堪能し、極めるために、3日に渡り、藤見物に行くぞ!という訳で、4月30日、5月3日、5月6日の3日間、奈良公園に足を運びました。散策ルートは以下です(3日間共、ほぼ同じルートを歩きました)JR奈良駅~興福寺~奈良国立博物館~飛火野~萬葉植物園~春日若宮神社~春日大社~東大寺南大門~JR奈良駅因みに、★4月30日:萬葉植物園の「藤園」は、「早咲きの藤が咲き始め」、周辺の「山藤」は、「咲き始め」★5月3日:萬葉植物園の「藤園」は、「見頃」、周囲の山藤は「一部見頃」、★5月6日:萬葉植物園の「藤園」は、「見頃」、周囲の山藤は「ほぼ見頃」でした。今回、ブログでUPする写真は、以上の3日間の散策で撮ったものをミックスしたものです。では、散策ルートに沿って、順に奈良公園の藤を観ていきましょう。<興福寺・南円堂前の藤>興福寺の入り口、南円堂には2つの藤棚があります。いずれの藤棚も、花房はいつも短いのですが、朱塗りのお堂とのコントラストが美しいですね。<国立博物館前の藤棚>ここの藤棚もなかなか見事です。藤棚の下にベンチがあり、憩いの場所なのです。<飛火野の藤棚>奈良公園の中には、多くの藤棚がありますが、その中でも、ここの藤棚が一番見応えがあります。藤棚の横に、奈良公園のシンボルツリー「飛火野の大クス」があります。<飛火野の奥の山藤の自生地>春日大社の神域、「春日山原始林」には、至る所に巨大な山藤が自生しています。ここは、春日山原始林の始まる所で、数本の巨大な山藤が自生する「自生山藤の始点」というべき場所です。リュウちゃん、今回初めてここを訪れたのですが、花付きが少なく、少し残念でした。ちょっと早かったのかな?それとも、遅過ぎた?<春日大社神苑「萬葉植物園」・臥龍のイチイガシ>奈良公園の藤の名所、「萬葉植物園」に入ります。ここの「藤の園」に入る前に、例に拠りまして、野外の能舞台の背後にある「臥龍のイチイガシに挨拶、池の周りのツツジが満開でした。この巨木にも巨大な山藤が纏いついているのですが、今年は3回共、殆ど山藤は咲いていませんでした(残念!)<萬葉植物園の「藤の園」>いよいよ奈良公園の藤の第一の見所、萬葉植物園の「藤の園」に入ります。20種類200本の藤が「立ち木造り」と「棚造り」の混交で植えられていています。ここは「藤の迷路」であり、「藤の楽園」なのだ!植物園の入場口で貰ったチラシには、以下のように「藤の種類」が書かれていました。★麝香(じゃこう)藤、★甲比丹(かぴたん)藤、★白甲比丹藤、★昭和紅(べに)藤、★岡山一歳(いっさい)藤、★緋(ひ)ちりめん藤、★口紅藤、★新紅藤、★長崎一歳藤、★黒龍藤、★八重黒龍藤、★九尺藤、★本紅(べに)藤、★白野田藤、★海老茶藤、★野田長(のだなが)藤、 他 全20種類、ありゃ?全20種類と書いておきながら、具体名は16種類しか書いてない、何でやねん???(ちょっと不親切)よし、書いてない他の4種類も見つけるぞ!という訳で、3日間に渡って撮った藤の写真を以下に紹介します。無事、無事、全20種類をUP出来ますことやら?(1)「麝香藤」「麝香」に似た強い香りの白藤です。(2)「甲比丹藤」「カピタン」とは、ポルトガル語で「船長」、英語では「キャプテン」です。花房が短く美しいところから「花美短」、転じて「甲比丹」と命名されたようです。 (3)「白甲比丹藤」(4)「昭和紅藤」アケボノフジの改良種で、フジ属中最も紅色の濃い品種(5)「岡山一歳藤」カピタンの色変わり品種、「一歳藤」とは、「野田藤」の系統の藤で、植えたその年から花をつける藤のようです。鉢植えに最適な品種だそうです。(6)「緋ちりめん藤」ヤマフジ系統のピンクの藤、かなり珍しい品種のようです。(7)「口紅藤」ノダフジ系統の藤、白い花に薄紅色の覆輪が入っています。(8)「新紅藤」美しいピンク色の藤、「本紅藤」・「新紅藤」・「海老茶藤」の3種は「アカバナフジ」と総称されています。(9)「長崎一歳藤」最も花付きが良く、育てやすい品種なのだそうです。(10)「黒龍藤」野田一歳系の藤、濃い紫色の藤です。丈夫で育てやすい藤のようです。(11)「八重黒龍藤」濃い紫色の藤、珍しい八重の藤です。蕾の時は葡萄に似た花房でした。(12)「九尺藤」九尺藤の名称は、花房が長く九尺(2メートル70センチ強)にも伸びるところから来ているようです。房の長い藤は、この品種が多いようです。春日大社の「砂ずりの藤」もこの系統なのかな?(13)「本紅藤」アカバナフジの園芸種です。蕾の時は紅色で、開花に伴い、淡紅色になります。(14)「白野田藤」ノダフジ系統の純白な藤です。(15)「海老茶藤」アカバナフジ系統、色は薄赤紫、やや房の長い品種です。(16)「野田長藤」ノダフジ系統、房の長さが1メートル近くなるところから、この名が付けられたようです。以上、16種が今年のチラシに掲載されていました。以下は掲載されていない藤です。(17)「白花支那藤」支那藤はその名の通り、中国東北部原産の藤です。昭和10年頃、日本に渡来した藤です。この藤は支那藤の変種の一つです。(18)「山の神の藤」この藤は恐らく「名所藤」で、富士吉田市の「山神社」の境内にある国指定の天然記念物「山の神の藤」を株分けしたもののようです。種類としましては自生する野田藤のようです。(19)「春日大社・砂ずりの藤」春日大社の境内にある樹齢800年の「砂ずりの藤」を株分けした「名所藤」です。本家の「砂ずりの藤」は近年、衰えが見えてきましたが、こちらの「分家」は元気溌剌のようです。(20)「山藤」「山藤」は春日大社の周辺にいっぱい自生しています。リュウちゃんが奈良公園の藤に魅せられる理由の一つが、奈良公園の春日山原始林が「山藤の迷宮」だからなのです。「萬葉植物園」の「藤の園」の外側に「山藤の標本木」を発見!以下は「藤の園」の周囲にある自生の「山藤」です。「藤の園」の山藤、実は一番の「見所」なのだ!<金龍神社の山藤>「萬葉植物園」を後にして、春日大社に向かいました。春日大社に入る前に、いつものようにちょっと寄り道、春日若宮神社の隣にある「金龍神社」の鳥居の上に「山藤」を発見!この山藤もなかなか素晴らしい!<春日若宮神社の「八房藤」>「金龍神社」の隣に、「春日若宮おん祭」で奈良市民には親しい春日大社の摂社の雄、「春日若宮神社」があります。この神社の本殿前の左横に山藤の銘木「八房藤」があります。「八房藤」の前に、以下のような説明文が書かれた「立て札」が立てられていました。「八房藤」も花が少ない、残念!いよいよ「南門」から「春日大社」に入ります。<春日大社本殿手前の山藤>この山藤、現在のところ、リュウちゃんイチオシの山藤です!<砂ずりの藤>以前、この藤の花房は2メートル近くに伸び、地上の砂に達する程の勢いがあったところから、この名が付けられたようです。樹齢800年超となり、近年は花房の長さも最長1メートルくらいになってしまっています。現在では萬葉植物園の「藤の園」にある上記(19)の株分け藤のほうが勢いがありますね。下の写真は「砂ずりの藤」の裏手にある「慶賀門」です。朱色の門と「砂ずりの藤」のコントラストが美しい!<「慶賀門」下の参道上を横切る山藤>この山藤もリュウちゃんお薦めの古木です。<南大門近くの藤棚>ここはリュウちゃんの「藤紀行」の終着点です。背後に見える若草山が素敵ですね。3日間に渡る奈良公園・春日大社の藤行脚で「奈良公園の藤を極めよう」と思ったのですが、今回も到底、「極め」には至りませんでした。奈良公園の藤は奥が深い!リュウちゃんいとっては、いつまでも「迷宮」なのだ!今回は3日共、午後から出掛けましたので、ビールは家に帰ってから飲みました。従いまして、プファ~、ビールが旨い!は今回は「お預け」です(苦笑)
2017年05月20日
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「大和民俗公園」の蝋梅、やっと一部開花「馬見丘陵公園」の蝋梅を堪能した数日後、こちらもリュウちゃんの家から比較的近い場所にある「大和民俗公園」に蝋梅を観に行って来ました。「大和民俗公園」はリュウちゃんの住んでいる斑鳩町の隣町、大和郡山市の「矢田丘陵」の麓にあります。総面積26,6ヘクタール(前回のブログの「馬見丘陵公園」の約半分の面積です)、園内には、昔の農機具などを展示している「大和民俗博物館」を中心に、古民家15棟を移築した、文字通り「民俗」公園なのです。下の図は、公園の全貌です。園内を一周する小道は全長2,1キロ、近隣の住民の恰好の「憩いの場」になっているのです。2月初旬、リュウちゃんの家から愛用のママチャリで行って見ました。リュウちゃんの家から公園までは、ママチャリで約30分、ママチャリサイクリングには適度な距離なのだ。昼食の後、公園に直行、午後1時、公園着、上記の「図」の「県立民俗博物館」の下の辺りに、140本の梅が植えられている「みんぱく梅林」があり、その周辺に約20本の「蝋梅」が植えられています。あれ?時期的には満開の筈だが、満開の蝋梅はたったの一本のみ、今年に「大寒波」の影響なのかな?以下、この公園の蝋梅の写真を出来るだけ貼り付けます。う~ん、ちょっと残念!全部満開になれば、かなり壮観だろうな?蝋梅のある「みんぱく梅林」を起点に、園内を一周しました。この時期、咲いているのは「赤い山茶花」ばかり、でも、花の無い冬季の山茶花には、心和むのだ!おっ!真冬に柿の実がまだ付いている、さすが,柿の名所、奈良だ(苦笑)<「大和文華館」の蝋梅>「大和民俗公園」の蝋梅が物足りなかったので、数日後、奈良市の郊外にある私立美術館「大和文華館」に行ってみました。小山の上に建てられている「文華館」の周辺は「文華苑」として自然庭園として整備されていまして、奈良県屈指の花のスポットなのです。下の図は、「文華苑の花MAP」です。蝋梅は梅園の前と、小山の山頂にある「文華館本館」の手前の小径に計20本位あります。下の写真の左手が「梅林」、小径を隔てた右手に蝋梅があるのですが、ありゃ、まだ蝋梅は「咲き始」めなのだ!ここの蝋梅は「黄色い蝋梅」よりも「白い蝋梅」が多いようです。白い蝋梅、蝋梅の原種である「和蝋梅」なのかな?「梅林」の梅は、全く開花していませんでしたが、「梅の小径」にある梅は一部開花が始まっていました。今年は梅の開花も遅い!「大和民俗公園」、「大和文華館」、2か所共、まだ蝋梅は「咲き始め」で、少し残念でした。こうなると、益々モ燃えてくるリュウちゃん、よし、更に「蝋梅求め」の旅をしてみよう!と心に誓ったのでした。
2018年02月12日
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寅さんシリーズ2作「続・男はつらいよ」のマドンナは、テレビドラマ版でもマドンナだった佐藤オリエさんだった。(マドンナ・坪内夏子さん=佐藤オリエ)<「続・男はつらいよ」作品データ>(データ)★公開日:昭和44年11月15日、★併映:「喜劇・よさこい旅行」(主演:フランキー堺)、★観客動員数: 489000人、★配給収入:1億1000万円、★キネマ旬報ベストテン第9位、寅さん29歳(この作品では38歳?)歳、満男0歳、リュウちゃん22歳、<「続・男はつらいよ」予告編>ここをクリック(以下同様)⤴<吉川孝昭氏・本編完全版> 昭和44年8月27日に公開された第1作「男はつらいよ」が大変好評でしたので、すぐに第2作「続・男はつらいよ」が製作され、昭和44年11月15日に公開されました。第1作公開から僅か75日後の第2作公開、現在では考えられないハイペースだ!しかも、驚くべきことに、渥美清は、シリーズ第1作と第2作の公開の間の昭和44年10月1日に森崎 東(もりさき・あずま)の監督デビュー作「喜劇・女は度胸」に準主演(ほとんど主演)しているのです。<「喜劇・女は度胸」予告編>この映画、渥美清演じる勉ちゃん(桃山勉吉)は、寅さん以上にバイタリティがあり、しかも寅さんと違って「助平マルダシ人間」であるダンプの運ちゃん、渥美清の怪演によって、見事なドライ喜劇に仕上がっていました。尚、この映画で、さくらさんを演じた倍賞千恵子の実妹、倍賞美津子と渥美 清が初共演を果たしたのです。以後、倍賞美津子は森崎 東監督の作品に多数出演、5歳年上の姉・千恵子が山田洋次に多数出演したような地位を森崎監督作品で得たのです。 「続・男はつらいよ」のマドンナ・坪内夏子さんはテレビドラマ版「男はつらいよ」のマドンナ・坪内冬子さんと同じ設定です。寅さんの葛飾商業の英語教師だった坪内散歩先生(東野英治郎・とうのえいじろう)の一人娘で、弦楽四重奏団のチェリストという設定、第1作の坪内冬子さんと同じく寅さんの幼馴染という設定です。寅さんが散歩先生と20年ぶりに会った時、寅さんは先生に、寅「時に、あのハナッタレお嬢ちゃん元気ですか?」とぶしつけな質問をしますが、その時、帰って来た夏子さんを見て、昔の「ハナッタレお譲さん」が美しい女性に変貌しているのを観てビックリ!、一遍に惚れてしまうのです。「幼馴染マドンナ」は、第1作、第2作と連続しましたが、その後、第10作「寅次郎夢枕」で八千草 薫様演じる「志村千代」さんも「幼馴染マドンナ」なのですね。柴又は美人の名産地なのかな?坪内夏子さんを演じた佐藤オリエは昭和18年生まれ、第1作のマドンナ・坪内冬子さんを演じた光本幸子と同い年で、出演時には26歳でした。彼女も光本さんと同じ演劇畑の人で、「劇団俳優座」に所属していました。(※)「劇団俳優座」:文学座、劇団民藝と並び、日本を代表する新劇団の一つ、昭和19年、小沢栄太郎、千田是也、東野英治郎、東山千悦子ら10人によって設立、所属していた著名な俳優としましては、男優では木村 功、田中邦衛、仲代達也、平(ひら)幹二郎、井川比佐志、加藤 剛(ごう)、中村敦夫、山本 圭(けい)原田芳雄、阿藤 快(あとう かい)、津坂匡章(まさあき、後の秋野太作=シリーズで寅さんの舎弟・登を演じました)、古谷一行など、女優では杉山とく子、菅井きん、野村昭子、市原悦子、河内桃子、栗原小巻、など錚々たる俳優を輩出しました(上記俳優中、寅さんシリーズに出演した俳優は「赤字」で表示しています)佐藤オリエは昭和41年にフジテレビで放送されたドラマ「若者たち」で長女「佐藤オリエ」役でテレビ・デビュー、これ一作で人気女優になりました。「佐藤オリエ」は本名なのですが、本名をそのまま役名にしたのです。よほど期待されてのデビューだったようですね。佐藤オリエは、本名を役名にして成功した稀有な女優さんなのだ!(「若者たち」の佐藤オリエ)<映画「若者たち」~オリエ、恋人と再会> <ストーリー><巻頭(プレリュード)=夢のシーン>(夢のシーン)「続・男はつらいよ」で、後のシリーズで定番となった「冒頭の夢のシーン」が初めて登場します。この「夢のシーン」の冒頭は、予告編にも収録されていますので、以下の予告編で確認して下さいね。<再掲、「続・男はつらいよ」予告編> このシーンの台詞を書き起こします。寅「もしやあなたはお菊さんと申しませんか? この顔に見覚えがございませんか? 今を去る38年前、雪の降る寒い夜、玉のような男の子をお産みなすったはずだ。」(※)「続・男はつらいよ」では、寅さんは、昭和6年生まれ、38歳という設定になっています。寅「おっかさんの倅(せがれ)、寅次郎でござんす。 おっかさ~ん、、、、」でも、夢の中の「おっかさん」は何も答えないのです。(※)この「夢のシーン」で寅さんの生みの母親の名前が「お菊さん」だと分かります。このシーンで、「おっかさん」を演じたのは往年の名女優・風見章子(あきこ)でした。彼女はこの映画出演当時48歳、渥美 清より7歳年上でしか過ぎません。7歳年上の風見章子が寅さんの「瞼(まぶた)の母」を演じる、かなり「老け役」なのだ!(19歳の時の風見章子)(※)リュウちゃんが風見章子を映画で観たのは、昭和25年公開の今井 正監督の反戦映画の名作「また逢う日まで」だけなのです(勿論、ビデオで観たのです)。亡くなった長兄の嫁として軍国一家の中で虐げられる女性を静かに演じていまして、ヒロインの久我美子と共にリュウちゃんの胸に刻まれたのでした。「続・男はつらいよ」は、この冒頭の夢のシーンにもありますように、生き別れになっている「生みの母」を探すという、「瞼の母」がテーマなのです。戯曲「瞼の母」は、昭和5年、「股旅物の始祖」として知られる大衆作家・長谷川 伸(しん)によって執筆されました。「瞼の母」の主人公は、寅さんと同じように生き別れになっている母親を探して股旅暮らしをしている博徒の番場の忠太郎、この戯曲は3回映画化され、最近では演歌としても人気のテーマになっていまして、天童よしみ「母恋鴉」、中村美津子「瞼の母」、島津亜矢「瞼の母」、氷川きよし「番場の忠太郎」などがヒットしました。しかし、「懐メロ」リュウちゃんが一番好きな歌は、股旅物歌謡曲のスペシャリストだった橋 幸夫の昭和38年に発売したシングル盤「お祭り小僧」のB面曲「瞼の母」なのです。<橋 幸夫「瞼の母」> 長谷川 伸の股旅物は、他に「沓掛時次郎」、「中山七里」、「関の弥太っぺ」などがありますが、橋 幸夫は、上記3作品をそのままタイトルにした歌があるのです。「沓掛時次郎」で思い出すのは、昭和37年から始まった藤田まこと主演の大人気テレビ時代劇コメディ「てなもんや三度笠」で、主演の藤田まことの役名は、「あんかけの時次郎」だったのですね。これ、「沓掛時次郎」のモジリです。以下に昭和42年に放送された第293話「鳴海の別離」の動画を貼り付けます、「続・男はつらいよ」、「新・男はつらいよ」でも怪演を見せた財津一郎もレギュラーで出演していました。 <「てなもんや三度笠」第293話「鳴海の別離」><第1幕:寅さんの柴又帰郷>第1作から2ヶ月後、寅さんは3回目の帰郷をします。今回も「矢切りの渡し」を渡って江戸川堤からの帰郷、「とらや」に入り、おいちゃん達に顔を背けたまま、客席に座って新しい女店員にビールを注文、前回の柴又出奔は、坪内冬子さんに手痛い失恋をした直後でしたので、やはり堂々と帰郷するのは気後れがするのですね、寅さんにとりましては常に「とらや」の敷居は高いのです。この時の「とらや」の居間には、おいちゃん、おばちゃん、さくらさん、そして赤ん坊の満男がいます。寅さんにビールを運んだおばちゃん、すぐに寅さんだと気づきますが、寅さんからおばちゃんに声をかけます。 寅「おばtりゃん、寅だよ、見忘れたか?そうだろうなあ~無理やねえよ」おばちゃん「嫌だよ~何言ってんだよ」「ちょっとちょっと大変だよ、寅さんだよ」「何だよう、そんなとこに座っちゃってビールなんか注文しちゃってさあ」おいちゃん「寅さん!」寅「おいちゃん!達者でいたかい、しばらく見ねえうちに随分歳とったなあ、月日の経つのは早いものよ、あれかな何年経ったっけ?」おいちゃん、「何年って、おまえ、まだ1年も経っちゃいねえよ」こうして寅さんは無事、「とらや」の身内として迎え入れられます。(寅さん、満男と対面)(※)ここで大きな矛盾を発見、映画の公開日から考えますと、寅さんは前回の出奔から僅か2ヶ月後の帰郷、おいちゃんの口調では1年も経っていない帰郷なのに、赤ん坊の満男君は見た所、生後6ヶ月くらいに成長しています。前回の出奔はさくらさんが新婚旅行から帰って来た直後ですから、満男君の成長ぶりを考えますと、少なくとも1年4ヶ月は経っていなければならないという勘定になる筈です。しかし、このような矛盾は一端、棚に上げて話を進めて行きます。でも、寅さんはすぐ旅にでようとします。寅「止めねえでくれよ、ゆっくりしたいのは山々だけど、実のことを言うと俺は旅の途中よ、、、」おいちゃん「とにかくな、奥で茶一杯、それくらいならいいだろう」寅「それがいけねえんだよ、一杯が二杯になり三杯に・・団子が出るかまた茶を飲むかそのうち酒になるじゃねえか俺は、、 一杯や二杯じゃすまねえぜ、気がついた頃にゃ、お銚子がずらりと並ぶ。さあ、もう腰が上がんねえ。 いっそのこと、泊まっていくか、カラスカーァと鳴いて朝になる。おはよう! 団子が出るか、酒を頼むよ、さあ、俺は旅に出れなくなっちまうじゃねえか」(※)このセリフ、リュウちゃんも身に覚えがあります。サラリーマン時代、宵の口からビールを飲み始めると、もう止まらない!、途中、カラオケを挟んで朝までビール飲み放題、気が付いた時にはビール大瓶10本くらい飲んでしまったことも数知れず、仕事上で付き合っていた東京帝大数学科を卒業した音楽評論家のM氏も大のビール党、箱根にあるM氏の別荘に徹夜麻雀をしに行く時は、M氏とリュウちゃんの飲み分として、ビール大瓶20本購入して行くのですが、徹夜明けの午前6時頃には、M氏と2人で全部飲み尽くしてしまったのです。70歳を過ぎた最近でも、昼間のカラオケでビール中瓶3本、夕方、家でレギュラー缶ビール2缶、夜は飲み屋で中瓶3本なんてこともしょっちゅうなのです(苦笑)寅さんのこの気持ち、よく分かる!このセリフと同じ事態は、この後、すぐに起こります。また、第32作「口笛を吹く寅次郎」(マドンナ:竹下景子)でも、同じセリフが出てくるのです。<寅さん、逍遥し、散歩先生の家に至る>おいちゃん達と別れた寅さんは、近所を逍遥(ぶらぶらと散歩)します。口づさむ歌は、<チンガラホケキョーの唄>(※)この歌の冒頭の台詞、「デコ坊、帰ろうか」の「デコ坊」は、第8作「寅次郎恋唄」のマドンナ・六波羅貴子(池内淳子)の一人息子に寅さんが付けた愛称です。なので上記の動画は第8作で使われた音源なのですね。この歌は作詞:関沢新一、作曲:不詳、となっていますが、関沢新一は、舟木一夫の「学園広場」、「銭形平次」、「空ひばり「柔」、都はるみ「涙の連絡船」、などの作詞で有名な作詞家です。この詞、「男はつらいよ」のために書いたのかな?「チンガラホケキョー」ほ意味は、「チンガラ」は百舌鳥(モズ)、「ホケキョー」は「ウグイス」とされる説が有力ですが、謎に満ちています。古来から各地で歌い継がれている「いちりとらい」という「てまり歌」があります。<手毬唄「いちりとらい」>上記の歌詞は以下です。♪~いちりとらい らいとらいとせ~ ひんがらほけきょ~ ゆめのくに~♪上記動画では「ひんがらほけきょ~」となっていますが、殆どは「チンガラホケキョ~」と謳われているようです。リュウちゃんの考証はここまで。寅さんが逍遥していますと、前方から子供達が斉唱する英語の歌・「漕げ漕げボート」が聞こえてきます。この歌は、寅さんの少年時代の英語の教師だった「坪内散歩」先生の家から聞こえてきたのです。坪内先生、自宅で英語塾をやっているようだ。<Row Row Row Your Boat(漕げ漕げボート)> (※)「漕げ漕げボート」はアメリカ民謡です。英詞及び訳詞は以下です。Row, row, row your boat 漕ごう、漕ごう、ボートを漕ごう。Gently down the stream 下流にむかって、ゆっくりと。 errily, merrily, merrily, merrily 楽しく、愉快に、Life is but a dream 人生は夢でしかないのだこの歌、リュウちゃんは中学1年生の時、「歌で英語を学ぼう」と思ってレコードを買ったのですが、結局、英語はモノになりませんでした(トホホ!)。この詞のラスト、「Life is but a dream(人生は夢)」は寅さんシリーズの結末を暗示しているとリュウちゃんは思っているのです。<寅さん、マドンナに出逢う>寅さん、散歩先生の自宅に訪問、寅「おひさしぶりでござんす」「アッシのこの顔に見覚えありませんか?…無理もねえ、20年何年も前の昔のことでござんすからねえ、葛飾商業で先生に英語を習っていた車 寅次郎ですよ。ほれ、勉強をひとつもしねえで、先生にブンなぐられて悔しいってんで、先生のところのハナッタレ娘をいじめていた不良の寅ですよ、忘れちゃったかな~、俺のことを」散歩先生「いいや!忘れとらん、覚えとるよ」、、、寅「時に、あのハナッタレ嬢ちゃん、元気ですか?」散歩先生「ほうれ、そこに立っとる」寅さんが後ろを振り向くと、そこにはチェロを抱えた美しい夏子さんが立っていました。散歩先生「夏子、誰だか分かるか?」夏子「もし、、、人違いだったらごめんなさいね、寅次郎さんじゃない?」寅「ふぇい」(寅さん、夏子さんの美しさにビックリしてしまい、「はい」と返事するべきところをしどろもどろになってしまったのです)夏子「本当!、アハ、嫌だ、寅ちゃん、アッ八ッハッハ」(爆笑)ということで、寅さんは2人目のマドンナに巡り合ったのです。それから散歩先生の居間で談笑、寅さん、当初はお茶を一杯飲んで帰る予定だったのですが、その内にお茶が2杯になり3杯になり、その内、酒が出てお調銚子が2本3本4本、、気が付いた時にはテーブルの上にお銚子がスラ~~リと並んでしまいました。(※)散歩先生を演じた東野英治郎(とうのえいじろう)は、映画では戦前から小津安二郎、木下恵介。黒澤 明などの作品に多数出演した個性派バイプレーヤーとして有名な俳優です。テレビ版「男はつらいよ」にも、映画と同じ役で出演しました。一般的には、昭和44年に放送が開始されたTBSの時代劇「水戸黄門」で、初代「水戸黄門」を演じた俳優として有名ですね。昭和19年に小沢栄太郎、千田是也などと共に「劇団俳優座」を創設、舞台俳優としても重鎮の一人だったのです。マドンナ・坪内夏子さんを演じた佐藤オリエもこの劇団の出身者で、佐藤オリエから見れば「雲の上の大先輩」なのですね。<寅さん、胃痙攣で入院>寅さん、散歩先生と談笑中に猛烈な腹痛(胃痙攣)を起こし、救急車で近くの病院に運ばれます。救急車には夏子さんが付き添いとして同乗します。寅さんにとりましてはマドンナの付き添いは嬉しかった筈なのですが、実はこれが寅さんの不運の始まり、夏子さんはこの病院で後に恋人になる藤村医師(山崎 努)に出逢ってしまうのです。寅さんは結果的に夏子さんと藤村医師の「月下氷人(縁結びの神)」になってしまうのですね。結末が分かってから観ると、このシーンは悲しい!<寅さん、病院で啖呵売>胃痙攣はすぐに回復、元気になった寅さんは、病室で「啖呵売」を披露、患者は大爆笑、<寅さん、病院で啖呵売>→ここをクリック寅さんが啖呵売を実演ている隣のベッドに、盲腸の手術をしたばかりの患者(財津一郎=特別出演)が寝ています。寅さんの啖呵売が余りに面白いので笑ってしまうのですが、笑うと手術したばかりの盲腸がキリキリ痛む。患者「ふぁ~~~」寅「何だい、どうしたんだい え~、大丈夫かい?」患者「笑わせねえでくれ、俺、昨日盲腸切ったばかりなんだ」(財津一郎の患者)(※)財津一郎は第4作「新・男はつらいよ」でも泥棒役で怪演を見せてくれます。昭和37年~43年にかけて、藤田まこと主演の吉本テレビコメディ「てなもんや三度笠」にレギュラーとして出演、「非っ常にキビシ〜ッ!」、「〜してチョウダィ!」の奇声ギャグで一世を風靡しました。最近はタケモトピアノのCM、「ピアノ売ってョウダィ!」が有名ですね。<財津一郎、タケモトピアノCM>(タケモトピアノCMの財津一郎)余談ですが、千葉に住んでいるリュウちゃんの孫姫4姉妹はタケモトピアノのCM育ちなのです。お母さん(リュウちゃんの娘)がいつも車の中でこのCMを流しているのです。藤村医師「どうしました?」患者「あ、先生、助けて下さい、この人が笑わせるもんで、、、」藤村医師「少し大人しくしなさい、ここを何処だと思ってるんだ!」寅「どこだと思っているって、おまえさん、何処へ勤めているんだい、火葬場じゃねえだろう」藤村医師、寅さんを睨む。寅「てめえだな!俺の横っ面張りあがったのは!、、、おっ?てめえ、さしづめインテリだな! あっ、そうか、そのインテリが暴力を振るったわけだ。へー、田へしたもんだよかえるのションベン、見上げたもんだよ屋根屋のふんどしときたもんだ」藤村「僕が医者じゃなかったら、表へ出ろと、言いたいところだ」寅「君は僕に喧嘩を売ろうと言うのか、よーし、それがいやしくも患者に対する医者の態度か!」そこへ夏子さんが花束を持って見舞いに来ます。夏子「寅ちゃん、具合どう?」寅さん、夏子さんをみるやいなやベッドに潜り込んで、寅「いえ、まだちょっと、、」寅さん、マドンナのいない時はやけに威勢がいいのですが、マドンナが現れるや否や「お利口さん」に豹変してしまうのです。その後、藤村医師と夏子さんが話し合いをします。藤村「考えてみれば、あなたのほうも被害ですね、、、、」(※)このシーン、正に寅さんが「月下氷人」になった瞬間です。やはり夏子さんは「さしずめインテリ」が好きだったのですね。その後、多分、藤村医師から交際を申し込み、2人はデートを重ねていきます。 何も知らない寅さん、本当に「三枚目」なのだ!その後、寅さんは無断で病院を抜け出し、舎弟の登(津坂匡章を誘って飲み屋でクダを巻きます。<寅さん、無銭飲食で逮捕される>舎弟の登とい楽しく飲み屋でクダを巻く寅さん、いざ勘定を払う段になりますと、2人共、財布の中は空ッポ、それで無銭飲食で逮捕されてしまいます。<寅さん、無銭飲食で逮捕される>さくらさんが留置場に駆けつけ、警察に誤り、飲み屋の飲食費を支払いましたので、寅さんは「ブタ箱」に一泊しただけで釈放されるのですが、きまりの悪い寅さんは、またまた柴又を出奔してしまうのです(第1幕、終り)<第2幕:寅さん、京都でマドンナに出逢う>第1幕から1ヶ月後。散歩先生と夏子さんは京都に旅をします。清水寺、哲学の道、嵐山の渡月橋、渡月橋には、散歩先生を宿に残し、夏子さん1人で見物したのです。(渡月橋)渡月橋の橋の畔で、寅さんは「啖呵売」ならぬ、「人相占い」をやっています。何と、寅さんの「サクラ」(おとり、偽の客)として、源ちゃん(佐藤蛾次郎)が京都に来ていた!何時の間に源ちゃんは寅さんの舎弟になったのか???摩訶不思議???<寅さんの口上>「当たるも八卦当たらぬも八卦、人の運命などというものは誰にもわからない、そこに人生の悩みがあります・・・・さてみなさん、こうやってここで話をしております。チョンガーの身の上のこの私も何時如何なる時、絶世の美人とバッタリ出逢うということも、、、」寅さんの目の前に、夏子さん登場、寅「お嬢さん!」寅さんの口上通り、「絶世の美女とバッタリ出逢った」のです。夏子さん「寅ちゃんの運勢判断でも分からないの?」<「男はつらいよ」~マドンナ(1~4)~1分21秒~2分34秒> 寅さん、夏子さん、源ちゃん、渡月橋の見える「甘い物店」で談笑、寅さんと夏子さんは、「みつまめ」か「おしるこ」(?)を食べるのですが、源ちゃんは「お茶」だけ、源ちゃん、ちょっと可哀想ですね。さて、勘定の段になり、寅さんは夏子さんの分も「おごる」ということで、源ちゃんに「勘定してきてくれ」と財布を投げますが、この財布には500円札1枚しか入っていません。それを見た夏子さん、結局、寅さんの分も支払うことになります。<500円ギャグ>このシーンで、以後、頻繁に使われた「500円ギャグ」が初登場します。寅さんの財布には、いつも500円札1枚しか入っていない!寅さんは郵便局や銀行に預金も無い筈、どうやって生活しているのだろう?寅さんが現実の人物であれば、これでは生活が出来ないですね。しかし寅さんはスクリーンの中の夢の存在、例え全財産が、たったの500円であろうと、スクリーンの中では立派に生活出来ていくのです。<賀茂川の畔の料理店で、散歩先生、夏子さん、寅さん、源ちゃんの4人でスキヤキを食べる>散歩先生「何で正業に就かんのだ!おまえには額に汗して労働することの尊さが分からんのか!?」寅「よく分かっています」散歩先生「それでは正業に就きなさい。おまえには人並み以上と人並みに近い頭を持っとるんだ、まともな仕事の一つや二つ、無い訳はないだろう、えっ、どうなんだ、寅」寅「へえ、この間も別府で旅館の番頭をやっている友達から、一緒にやらねえか、なんて、、」散歩先生「ふ~ん、そりゃ結構じゃないか、何でそこへ行かないんだ?何で京都にぐずぐずしているんだ?」寅「へぇ、京都におふくろが居るらしいんでね」夏子さん「生きてたの!お母さんが!?」寅「でも、俺のこと捨てたおふくろだからね…、むこうで会いたがってるかどうか…」夏子さん「でも、血を分けた親子なんでしょ?」寅「お互い顔を見会わせて、ハア、あなたがお母ァかい?そんなとこだよね、先生」散歩先生「ネヴァーネヴァー!、それは絶対に違うぞ!、寅、これは大事なことだからよく聞けよ、「老病死別」といってな、人間には四つの悲しみがある、その中で最も悲しいのは死だぞ。おまえのおふくろもいつかは死ぬ、いつかは、、その時になったらどうする?死んでしまったら遅いんだぞ! その時になって、あ~ぁ、一度でもいい、生みのおふくろの顔を見ておけば良かったと後悔しても、取り返しがつかんのだ、、、さっ、逢いに行け、生きてるうちに」ということで、寅さんは夏子さんと2人で、「瞼の母」を訪ねていくことになります。(※)「夏子さんの優しさ」→このシーンでも源ちゃんはスキヤキにありつけず、一人所在無げに賀茂川を眺めています。そこで夏子さんが手招きして、源ちゃんにスキヤキを分けてあげます。源ちゃん、嬉しそうにスキヤキをガツガツ食べるのです。このシーンで源ちゃんも夏子さんに惚れてしまった!夏子さんは厳格な倫理観を持っている散歩先生に育てられ、誰にでも分け隔てなく愛情を注ぐことが出来る明るく、聡明で活発な美しい娘に成長したのですね。寅さんや源ちゃんが惚れてしまうのも「むべなるかな」ですね。<寅さん、夏子さんと2人で母親に逢いに行く>寅さんと夏子さんは、寅さんの母親を訪ねて、母親が勤めているという祇園の毘沙門町の「グランドホテル」に行きます。「グランドホテル」の近くで、割烹着を着た上品な女性に出逢います。夏子さん「ちょっとお尋ねします、グランドホテルってこの辺ですか?」女性「へえ、うちどすが、、」夏子さん「おばさん、グランドホテルの、、」女性「へえ、グランドホテルのものどす」「グランドホテル」は、ラブホテルなのでした。(※)この上品な女性、「お澄」さんを演じているのは風見章子、この映画の冒頭の夢のシーンで「瞼の母」として登場した女性です。しかも以前、東京で暮らしていたことがあるとのこと、ひょっとして、この女性が俺のおふくろさん!?寅さんは、そう思ってしまうのですが、それが勘違いであることは、グランドホテルに入ってすぐに分かるのです。寅さんと実の母、「お菊」さんとの対面シーンは以下の動画を見て下さい。 <寅さん、母親に逢う>→ここをクリック上の動画の渥美 清とミヤコ蝶々の啖呵の応酬、凄い迫力ですね!正に関東と関西を代表する2人のコメディアンの壮絶な啖呵バトル、関西人リュウちゃんの感じでも、このバトルは互角だったのです。(※)「ミヤコ蝶々」ミヤコ蝶々は関西を代表する女性コメディアンの一人です。南都雄二と夫婦漫才コンビは、一世を風靡しました。昭和38年から始まったテレビ版トーク番組「夫婦善哉」は全国のキー局で放送され、絶大な人気を博し、ミヤコ蝶々は一気にお茶の間の人気者になりました。(ミヤコ蝶々と南都雄二)また、映画にも多数出演、「男はつらいよ」第1作の前年(昭和43年)に公開された山田洋次監督・なべおさみ主演のコメディ「吹けば飛ぶよな男だが」にも、ソープランドの経営者役で山田組初出演を果たしました(今回のラブホテルの経営者とよく似た設定ですね)。尚、「吹けば飛ぶよな男だが」は、寅さんを小ぶりにしたようなチンピラのサブ(なべおさみ)が頭の弱い少女・花子(緑 魔子)と関わる物語です。頭の弱い少女・花子!この設定、シリーズ第7作「奮闘編」と同じだ!<「吹けば飛ぶよな男だが」予告編> ミヤコ蝶々の「お菊さん」は、昭和46年公開の「奮闘編」にも登場しますが、それ以降は登場しないのです。寅さん、おふくろさんを忘れてしまったのかな?<寅さん、京都の旅館で泣く>かくて寅さんと「瞼の母」のお菊さんとの対面は最悪の結果に終わり、寅さんと夏子さんは泣きながら散歩先生の待つ旅館に戻ります。<寅さん、京都の旅館で泣く> 失意の寅さん、泣きながら散歩先生と酒を酌み交わします。散歩先生「俺が悪かった。俺が無理に勧めなければ、こんな悲しい目に遭わずに済んだんだ」寅「泣きたいよ先生、俺は」散歩先生「泣け、泣け、心から泣け、、、実に、、この世は悲しいなぁ」夏子さん「ねえ寅ちゃん、今晩ここに泊まって、明日私達と一緒に東京へ帰りましょう」寅「お嬢さん、心の張りを無くしちまったおいらに、帰えって行くとこなんかある訳無えじゃないか、ハッハッハ」(※)このセリフ、かなり格好つけていますが、その直後、寅さんはズッコケて、庭に落ちてしまいます。寅「あっ、落っこっちゃった」散歩先生、憮然として「おかしくない」(※)寅さんの愁嘆ぶりは、ちょっとイカサマですね。寅さん以上に、本当に愁嘆している夏子さんの気を引くために大げさに嘆いているとしか思えません。このシーンでも、夏子さんの優しさが際立っていたとリュウちゃんは感じたのです。(第2幕・終)<第3幕、寅さんの柴又帰郷と失恋><柴又への帰還>で、冬子さん親子、寅さん、源ちゃんの4人は柴又に帰還します。帰還した直後でも寅さんは泣いている、じゃあ、帰還の車中でもずっと泣いていたのか?寅さんの異常な「甘えっ子」ぶりが、気に掛りました。<寅さん、散歩先生の家で酒を飲み交わす>散歩先生、かなり酩酊して「こら!、渡世人!フーテンの寅公!、お前は実にバカだなぁ、おまえを退学させた校長のタヌキもバカだが、そのタヌキをぶん殴ったおまえはもっともっとバカだぞ!」寅「へ!すいません」、、先生!もっと叱って下さい」散歩先生「ようし、お前のようなバカは幾ら叱っても叱り足りん、だだ、しかしだ!、俺が我慢ならんことは、おまえなんかより少し頭がいいばっかりにおまえなんかの何倍もの悪いことをするやつが、うじゃうじゃいることだ。こいつは許せん!実に許せんバカモノどもだ!」(※)「寅さんシリーズ」には、本当の意味での「悪人」は殆ど出て来ません。唯一の例外は第17作「寅次郎夕焼け小焼け」に登場する詐欺師の鬼頭(佐野浅夫)です。あいつには今でもリュウちゃんはムカついているのです!散歩先生、散々悪態をついたあと、コテンと寝てしまいます。寝てしまった散歩先生に、衣類を掛ける夏子さんと寅さん、思わず顔と身体が接近して、ドギマギする寅さん、、、深夜の散歩先生の玄関先、夏子さんは寅さんを見送ります。夏子さん「本当はね、お父さん寅ちゃんとお酒飲むの、とっても嬉しいのよ、またいらしてね」深夜にマドンナと2人っきり、寅さんにとりましては、いい雰囲気が漂います。このシーンで寅さんは決定的に夏子さんに惚れてしまうのです。(※)このシーン、第1作で、マドンナの冬子さんと寅さんが2回目のデートの後、深夜に題経寺まで冬子さんを送るシーンと同じですね、寅さんが「マドンナは俺に気がある!」と悲しい勘違いをした瞬間です、第1作では冬子さんを見送った後で、「喧嘩辰」を朗々と歌うのですが、第2作では、「お味噌な~ら花マルキ、おかあさ~ん、とくらぁ!」と叫ぶのです。<夏子さんの演奏会と寅さんの易断の売(バイ)の同時進行>夏子さん、喫茶店で藤村医師とデートします。この日は夏子さん達の弦楽四重奏団の演奏会当日、演奏会の会場のすぐ近くの喫茶店でのデートなのです。藤村医師と夏子さんの恋愛、いつの間に進んでいたのだろう?喫茶店に流れるBGMは、ハイドンの<弦楽四重奏曲第67番「ひばり」>です。<ハイドン・ひばり>(※)寅さんシリーズでは、クラシック音楽が全部で40曲以上も使われましたが、このシーンはシリーズで初めてクラシック音楽が使われた「記念すべき(?)」シーンなのです。夜になり、夏子さんは小さな演奏会場で、弦楽四重奏団のチェリストとして演奏会に臨みます。客席には、勿論、藤村医師も来ているのです。演奏会が開幕、演奏される曲はベートーベンの「弦楽四重奏曲第6番・作品18番の6」です。<ベートーベン:「弦楽四重奏曲第6番第1楽章>夏子さんが演奏会に臨んでいる同時刻、寅さんは「俄か易者」をやっています。今回も源ちゃんが「サクラ」として登場、売(バイ)が終わり、寅さんと源ちゃんはラーメン屋に入り、ラーメンを食べます。源「せっかくお嬢さんから切符もらったんだからよ、音楽会行きやぁよかったんだ」寅「ばかやろう!、ああいうところはオレたちの出入りするところじゃないんだよ」演奏会は進んでいきます。寅さんと源ちゃんの会話の続き、源「あのお嬢さん結婚したら、いい奥さんになるだるだろうな」寅「ばかやろう、当たり前じゃねえか」源「あなた、おつかれになった?ご飯にするそれともお風呂?ねえ、今日ご馳走作っちゃったのよ。何だと思う?、当ててごらんなさい・・・・・ラーメンよ」寅「ばかやろう!あのお嬢さんがラーメンなんか作るかい!、てめえの考えは貧しいからいけねえよ」源「じゃあ、何作るんだよ?」寅「決まってるじゃねえか!、スパゲッチィよ」再び演奏会のシーン、客席から夏子さんを見詰める藤村医師の大きく開いた目!(※)恐らく、この演奏会の日までに夏子さんと藤村医師は何回もデートを重ねて結婚の約束をしていた筈です。そうとは知らずに、夏子さんとの新婚生活を夢見る寅さん(と源ちゃん)、う~ん、このシーンは残酷だ!<散歩先生の死>演奏会から数日後、夏子さんは「とらや」に訪れます。夏子さん「実はね、父がちょっと来て下さいって」寅「ほ~う、先生が、そうですか?」夏子さん「何か折り入って相談事があるらしいんだけど」寅さん、散歩先生の家に行きます。散歩先生「実はな、うなぎが食いたい、天然の、ナチュラルなうなぎが、」で、寅さんと源ちゃん、江戸川にうなぎを釣りに出掛けます。暫くして、夏子さんが応援に駆け付けます。夏子さん「寅ちゃん、夕べ、お父さんに叱られちゃった、、、あたし寅さんのお母さんのことひどい人だって言ったら、急に怒り出して<子供が可愛くない親がどこにいる、子供を捨てるにはそれだけの辛い事情があったはずだ。他人のおまえが生意気な口をはさむんじゃない>」って、、、父もね、お母さんの顔知らないのよ…、父が二つか三つのときに死んだの」寅「先生も生みのおふくろさんの顔知らねえんですか?」・・・・夏子さん「さあ、帰りましょう、寒くなってきたわ」寅「へぇ、お先にどうぞ、あっしゃまだ先生の、、」夏子4さん「もう、いいんだったら、じゃあ、こうしたら、丸甚さんとこいって生きたうなぎ買うのよ。そいで、今江戸川で釣ってきましたって、、、」寅「そんなこと知ってるんだったらどうしてはやくそれを教えてくれなかったんですよ!、江戸川のうなぎのツラと浜名湖のうなぎのツラ見分けつかねえもんなあ!」(※)「丸甚」は「川甚」のこと、天然のうなぎが激減している現在はどうか分かりませんが、昭和44年当時は江戸川には豊富に天然うなぎが生息していた筈で、一流の川魚料理専門店である「川甚」では、浜松の養殖うなぎではなく、江戸川で獲れた天然うなぎを使っていた筈ですね。リュウちゃんが子供の頃、住んでいた三重県伊勢市二見ヶ浦の川にも豊富に天然うなぎが生息していて、うなぎ獲りのプロが何人もいて、川から獲った天然うなぎを二見の旅館に買い上げてもらっていました。その経験から考えますと、当時の「川甚」は絶対に天然うなぎを使っていた筈です! 多分、寅さんもガキの頃には、江戸川でうなぎを釣った経験があったのではないでしょうか、ということで、このシーン、ちょっと疑問を感じましたが、この映画では印象に残るシーンの一つだったのです。寅さん達が引き上げようとした直後、源ちゃん「引いてる引いてる!、うなぎだ!」うなぎが釣れた!歓喜爆発!寅さん、勇躍、散歩先生の家にうなぎを持って帰るのですが、散歩先生は椅子に座ったまま、こと切れていたのです。<散歩先生の葬儀>寅さんは散歩先生の葬儀を一人で仕切ります。その段取りの手際良さ!そこへ、藤村医師が弔問に現れます。寅「あっ? 何だあんたか! 市民病院の先生だろう、義理堅い人だな~、、、しかし、ここがよく判ったね~」で、寅さん、夏子さんに報告、寅「お嬢さん、珍しい人が来ましたよ」じっと藤村医師を見詰める夏子さん、夏子さん、自分の部屋のピアノの前で泣きます。そこへ藤村医師が入って来て、夏子さんと抱擁、藤村「学会をどうしても抜けられなくて、遅くなってゴメン、、結局、僕のことは?」夏子さん「言ったわ、3日前にそれとなく、、、」藤村「そしたら?」夏子さん「お前の選んだ男ならなんにも言わんて」そこへ寅さんが入って来ます。ガ~~~~ン!絵に描いたような突然の大失恋!寅「お譲さん、お棺が出ますよ、出棺ですよ」寅さん、火葬場に行くために手配された車に乗りますが、その車には、先に藤村医師と夏子さんが乗っていたのでした。ガ~~~~ン!失恋のダメ押し!寅さんは失恋の痛手で、柴又を出奔してしまうのです。<フィナーレ>夏子さんと藤村は新婚旅行で京都に来ています。夏子さんのモノローグ「そうなのよ、お父さん、私今京都にいるの、つとむさんとふたりでね、、、そしてね、とってもびっくりするような、お父さんにどうしても聞かせてあげたいことに出会ったのよ。寅ちゃんがいたの」寅さん、京都の三条大橋の畔で、母親のお菊さんと2人でいるところを夏子さんが偶然、見かけます。菊「寅、もう行くで」寅「細かいの(小銭のこと)、ちょっとくれよ」菊「あつかましいな~、もう何べんもこの子は」寅「いいじゃねえかよ、親子の間柄で、ホラ、ホラ」菊「勝手なこと言うな!金の話はまた別じゃ」寅「しみったれてんなぁ、全く、よぉ、お母ちゃん」と会話しながら、三条大橋を渡って行きます。夏子さんの最後のモノローグ「お父さん、寅ちゃんは、お母さんに会っていたのよ。そうなのよ、やっぱりそうだったのよ。お父さんがどんな顔をするか見てみたいわ、、、でも、そのお父さんはもう、、居ないのね、、」三条大橋の下の加茂川の流れのアップで「終」お芝居の「瞼の母」の番場の忠太郎は、結局は母親のおはまと名乗り合わないまま、旅に出てしまうのですが、寅さん版「瞼の母」は、一応ハッピーエンドでおわりました。寅さんにとっては、失恋のほうが痛手だったのかな?今回、改めて「続・男はつらいよ」をDVDで観ましたが、夏子さんは素敵なマドンナだったのですね!リュウちゃん、遅まきながら、佐藤オリエさんのファンになってしまいました。
2020年03月30日
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白楽天の「長恨歌」を題材にした上村松園の「楊貴妃」、艶めかしいが気品溢れる名作だ!(上村松園「楊貴妃」:大正11年)10月14日、奈良市の郊外にある「松伯美術館」に行ってきました。「松伯美術館」は、女性として初めて文化勲章を受賞した「美人画」の画家・上村松園と息子の上村松篁(しょうこう)、孫の上村淳之(あつし)の三代に渡る日本画作家の作品のコレクションを集めた私立の美術館です。「松伯美術館」は平成6年(1994年)、松園の息子の松篁、孫の淳之から寄贈された作品をコレクションの基礎として、近畿日本鉄道の名誉会長であった佐伯勇氏の広大な邸宅敷地に開設されました。「松伯美術館」の館名の「松」は上村松園の「松」、「伯」は佐伯勇の「伯」のようだ。<「松伯美術館」のHP>→ここをクリック リュウちゃん、中学校3年生の美術の教科書に掲載されていた上村松園の絵を観て、いっぺんに魅かれてしまったのです。何と瑞々しく上品な美人画なのだろう!以来、松園の実物の美人画をじっくり鑑賞したいと思っていたのですが、その機会は中々無く、奈良に住居を構えてから奈良市に「松伯美術館」が在ることを知り、やっと松園の実物の美人画に出逢うことが出来たのです。ということで、女房殿の運転する車の助手席に乗って何度か「松伯美術館」に行ったことがありますが、今回は公共交通を使って、一人で出掛けたという次第です。リュウちゃんの家から「松伯美術館」までの行程は以下です。(JR法隆寺)~(JR王寺)-乗り換えー(近鉄王寺)~(近鉄生駒)~(近鉄学園前)-徒歩30分―「松伯美術館」。近鉄「学園前駅」から北に向かって20分程歩きますと、左手に大きな池(大渕池)が見えてます。池の畔にある白亜の建物が「松伯美術館」なのです。今回は「裏口」から「松伯美術館」に入りました。入場は正面入り口からです。今回は、「上村松園・上村松篁・上村淳之展「魂の継承 ~受け継がれる心~」(10月3日~ 11月29日)という展覧会を開催していたのですが、正面入り口には展覧会のポスターは貼ってありませんでした。 館内に入り、やっと展覧会のポスターに出逢いました。今回の展覧会では、松園の大作は冒頭に挙げた「楊貴妃」と、後述する「花がたみ」の2点だけだったのですが、リュウちゃん、この2点の前で「釘づけ」になってしまいました。 それでは改めまして、「楊貴妃」と「花かがり」を紹介させて頂きます。尚、「松伯美術館」の館内は残念ながら撮影禁止でしたので、「図」は全てネットからお借りしました。<「楊貴妃」(再掲)>「楊貴妃」は、大正11年、松園47歳の時の円熟した作品です。題材となった「楊貴妃」(719年~756年)は、中国・「唐」の第9代皇帝・玄宗の寵愛を受けた皇妃で、玄宗皇帝が余りに深く楊貴妃を寵愛し過ぎ、ために国務を疎かにして「国を傾けた」ところから「傾国の美女」と呼ばれる女性です。21歳の時に玄宗皇帝に見初められ、26歳の時に「貴妃」になりました。松園の「楊貴妃」は、唐代の詩人・白居易(白楽天:772年~846年)が、楊貴妃の死後の50年後の806年に作られた全部で120句ある長編の漢詩「長恨歌(ちょうごんか)」の「第5句~第8句」に基いています。(長恨歌第5句~第8句)(原文)春寒賜浴華清池 温泉水滑洗凝脂 侍児扶起嬌無力 始是新承恩沢時 雲鬢花顔金歩揺 芙蓉帳暖度春宵(現代語訳)(楊貴妃は)春まだ寒い頃、華清池の温泉を賜った。温泉の水は滑らかで、きめ細かな白い肌を洗う。侍女が助け起こすと、なまめかしく力がない。こうして初めて皇帝の寵愛を受けたのである。雲のように柔らかな髪、花のような顔、歩くと揺れる黄金や珠玉で作られたかんざし、芙蓉の花を縫い込めた寝台の帳は暖かく、春の宵を過ごす。以下に大正12年に「京都日出新聞」に掲載された松園の「芙蓉の花にも似た美しい楊貴妃を」という記事を貼り付けます。<芙蓉の花にも似た美しい楊貴妃を(上村松園)>帝展の方も大分出品しなかったので今年は思い立って……それも近頃取りかかったばかりで明日辺りから墨を当てようかというところなのです。画題は〈楊貴妃〉それもあの湯上りの美しい肌を柔らかな羅(うすもの)に包んで勾欄(てすり)に凭れながら夢殿の花園を望んで見ると言った構図で、尤も湯上りと言いますと何だか意気に、そうしてやや下品な様に聞こえますがそうではなく極気品の高いものにして全体羅の中に玉の様な肩先から白い胸の辺り少し湯上りのぽっと紅潮した皮膚が見えて居ると言った風で……傍には侍女が一人います。 詩集はかなり繙(ひもと)きましたが白楽天のは殊に愛誦して居りましたし中でもこの長恨歌には深い懐かしみを持って居りました。何時か一度はそれを描いてみたいと思って居りましたが、この夏大阪で開かれた展覧会に楊貴妃の半身を描いたのが今度全身の絵として出品する事になったのです。大きさは二枚折の少し大きな位で絹地を用います。 楊貴妃の服装についてはこの間中博物館へ通っていろいろ古い参考品を出して頂いて見て来ました。日本で申せば天平から奈良朝、あの時代の衣装や調度建築の様式で行く考えです。猶詩には春寒とありますがこれは夏の時候に改めるつもりです(大正12年)<花かがり>大正4年、松園40歳の時の作品です。題材は世阿弥の作と云われている謡曲「花筐(はながたみ)」に登場する狂女「照日の前」、 以下に謡曲「花筐」の内容を紹介します。「春の越前国・味真野。皇位を継ぐため都へ向かった大迹皇子(をほどのおおきみ、後の第26代・継体天皇)は使者を最愛の女性・照日の前の元に遣わす。使者は照日の前に皇子からの絶縁の文と愛用の花筐(花籠)を届け、悲嘆にくれた照日の前はそれらを抱いて故郷へ帰っていく。 秋の大和国・玉穂(磐余玉穂宮:継体天皇が遷都した所で現在の奈良県桜井市池之内付近にあったとされる)。帝(継体天皇)は臣下とともに紅葉狩りに向かうが、そこへ皇子を慕うあまり都へとやってきた照日の前と遭遇する。帝の行列を汚す狂女として官人に花筐を打ち落とされた照日の前は花筐の由来を語り、漢の武帝の后・李夫人の曲舞を舞う。花筐を見た帝はそれがかつて自ら与えたもので狂女が照日の前であると気づき、再び照日の前を召し出して都へと帰っていく」「松伯美術館」のHPには、この作品について以下のような解説文があしたので、下記に貼り付けます。◎松園が「乱心」に挑んだ名作芸術家たちが人間の個性や内面といったテーマを重視した大正時代、女性像を得意とした松園が、季節や日常の情緒といったものを超えて、女性の内面の深淵を表現しようと挑んだのが、この「花がたみ」です。松園40歳の時の作品で、第9回文部省美術展覧会(文展)で2等賞を受賞しました。世阿弥作とされる謡曲「花筐」に取材し、縦2メートルを超える絹本の大作に描かれているのは、ヒロインの「照日の前(てるひのまえ)」です。音もなく散り行く紅葉のなか、花かごを手にたたずむ女性の表情や肢体には、どこか尋常ならざるものがあります。愛する人をひたすら追い求め、乱心を装う照日の前。その狂気を、雅(みやび)な風情で描き出そうとしたのです。装いの乱れ、どこかうつろな眼差し、あてどのなし仕草など、繊細な筆致が照日の前の内面を見事にものがたり、美しい衣装や季節の彩りが、その深い悲哀をいっそう際立たせています。松園は華麗な衣装や凄味のある美しさをたたえた能面に取材しながら、この主題を絵画として結実させたのです。<上村松園の年譜と主な作品>上村松園って、どんな画家だったのだろう?どんな人だったのだろう?中学3年生の美術の教科書に掲載された上村松園の美人画に感銘を受けたリュウちゃんですが、今回の「楊貴妃」、「花かがり」を観るまで、殆ど松園につきましては、「無知」だったと知りました。ここでは、改めて上村松園の年譜を辿り、主要作品を観ることにより、リュウちゃんの感銘の軌跡を辿ってみたいと思います。(創作する上村松園)★1875年(明治8年) - 京都の下京区四条通御幸町の葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれる。★1887年(明治20年、) - 京都府画学校(現:京都市立芸術大学)に入学、四条派の鈴木松年に師事。(※)この時、松園僅か12歳、よほど才能があり、早熟だったようです。★1890年(明治23年) - 第3回内国勧業博覧会に「四季美人図」を出品、一等褒状受賞(この絵を、来日中のヴィクトリア女王の三男アーサー王子が購入し話題となった)。(※)この時、松園僅か14歳、やはり早熟の天才だったのですね。<明治25年の「四季美人図」>松園は少なくとも3作の「四季美人図」を残していますが、これは16歳の時に描いた2作目の四季美人図」です。まだ「美人画」という印象は薄いですね。 <「明治25年「清少納言」>「枕草子」第299段の<「清少納言よ、香炉峰の雪、いかならむ」と仰せらるれば、御格子あげさせて、御簾を高くあげたれば、わらわせ給う>を題材にしています。 ★1895年(明治28年) - 竹内栖鳳(せいほう)に師事(※)この時、松園20歳、竹内栖鳳は近代日本画の先駆者の一人で、京都画壇を代表する画家です(第1回文化勲章受章者)、★1902年(明治35年) - 長男・信太郎(松篁)が誕生。父親は最初の師の松年だったとされるも、未婚の母となった松園は多くを語っていない。(※)上村松園は強い女性ですね!女性の社会進出を嫌った明治時代、「女のくせに」と男性画家から強い嫉妬と憎しみが渦巻く中で、第一線の画家としての生涯を貫き通した孤高の女流画家だったのです。彼女は晩年、自身の生涯を振り返り、自分の生涯は「戦場の軍人と同じ血みどろの戦いでした」と述懐したようですが、長男の上村松篁をシングルマザーとして出産した時も「世間との血みどろの戦い」だったのでしょうね。<大正2年「蛍」>この図は美人が蚊帳を吊りかけて居る処へ夕風に吹き込まれてフイと螢が飛び込んだのを、フト見つけた処です(松園)★1914年(大正3年) - 間之町竹屋町に画室竣工。初世金剛巌に謡曲を習い始める。<大正7年「焔」(ほのお)」>「源氏物語」の「葵の巻」に登場する、嫉妬の余り、生霊となって源氏の愛する女君たちに仇を成す女性・六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)を描いた作品です。松園言うところの「数多くある絵のうち、たった一枚の凄艶な絵」なのです。 ★1934年(昭和9年) - 母・仲子死去。松園は生まれる2ヶ月前に父を亡くしました。母の仲子は女手一つで松園姉妹を育てたのだそうです。明治時代、女性が画家になることは、世間では認められないことだったのですが,母の仲子は松園のよき理解者で、常に画業に勤しむ松園を励まし続けたのだそうです。松園はその著書『青眉抄』で母を追憶して「私は母のおかげで、生活の苦労を感じずに絵を生命とも杖ともして、それと闘えたのであった。私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである」と述べています。母・仲子の死後、松園は母を思慕する作品を何点か残しています。以下、それらの作品を何点か挙げて見ます。<昭和9年「母子」>第十五回帝国美術院展覧会出品作品、この作品は、亡くなった母・仲子を追慕した最初の作品です。母の口元が黒いのは、「お歯黒」、眉を剃る習慣も明治初期まであったようです(重要文化財) <昭和9年「青眉(せいび)」>「青眉」とは、眉毛を剃って、眉が青々とした様のことです。明治初期まで、女性は結婚すると眉を剃り、「青眉」になったのです。この作品も、母への思慕を投影しているようです。 <昭和16年「夕暮」>夕暮れ時、若い母が陽の光を頼りにして、障子を開けて針に糸を通す、昔には何処にでも見られたありふれた光景ですが、気品のある作品です。松園が幼い頃に見た母・仲子の想い出に繋がる作品ですね。<昭和18年「晩秋」>母親が縁側で破れた障子の穴を直しているという、これも、昔はよく見られたありふれた光景ですね。母親の凛とした姿は見事ですね。きっと松園の母・仲子もこんなたたずまいの女性だったのではないでしょうか。 <昭和11年「序の舞」>松園の代表作の一つです。若い女性の凛とした舞姿、この絵のモデルは松園の息子・松篁の妻なのだそうです(重要文化財) 尚、宮尾登美子の昭和57年の小説「序の舞」は上村松園をモデルにしたフィクションのようです(リュウちゃんは未読です)<昭和12年「雪月花」>貞明皇后(大正天皇の皇后)の御用命を受けて以降,完成まで実に20年以上を要した,女流画家・上村の畢生の力作である。画題は,雪,月,花にこと寄せた平安期の宮廷での雅やかな女性風俗であり,それぞれ『枕草子』,『源氏物語』,そしておそらくは『伊勢物語』等に想を得たと思われる優美な情景が,端正な画面構成と美しい色彩布置により表されている(宮内庁の解説文) <昭和13年「砧(きぬた)」>砧(きぬた)は、洗濯した布を生乾きの状態で台にのせ、棒や槌でたたいて柔らかくしたり、皺をのばすための道具。また、この道具を用いた布打ちの作業のことです。松園の作品は、世阿弥の作とされる謡曲「砧」に由来しています。<昭和15年「春芳(しゅんぽう)」>咲き始めた梅の花と若い女性、優雅で清潔な作品です。 ★1941年(昭和16年) - 帝国芸術院会員。★1944年(昭和19年)7月1日 - 帝室技芸員★1945年(昭和20年) - 奈良平城の唳禽荘(れいきんそう)に疎開。(※)「唳禽荘」、風変りな名前ですね。「唳」は訓読みで「なく」、意味は鶴や雁などが「鳴く」ことです。「禽」の意味は「鳥・鳥類」、なので「唳禽」の意味は「鳥が鳴く」ということになります。「唳禽荘」は「松伯美術館」から直線距離で約2キロの奈良市山陵町にあり、1万坪の広大な敷地には、1600羽の野鳥が松園の孫の日本画家・上村淳之氏によって飼育されているそうです。(「唳禽荘」:この写真は「なんば美術手帖」さんのブログからお借りしました)京都生まれの松園の美術館が何故、奈良にあるのか?という疑問はこれでほぼ解消、松園~松篁~淳之の「母・息子・孫」の三代の日本画家は、昭和20年から奈良人だったのだ!★1948年(昭和23年) - 文化勲章受章(女性として初)。★1949年(昭和24年) - 死去。従四位に叙される。享年74。<昭和16年「晴日」>晴れた日。若い女性が布の洗い張りをしているという、これも昭和20年代までは日常的に見られた光景です。 この洗い張りをする女性の顔立ち、柔らかな目線、この作品こそ、リュウちゃんが中学校の教科書で惹きつけられた作品だったのだ!!
2020年10月19日
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息子を取り違えられた二組の夫婦血の繋がり、一緒に生活した時間、どちらが大切なのか? 是枝裕和監督が、この映画を着想したのは、以下のような経緯があったようです(以下、リュウちゃんの前回のブログで貼り付けた「対談」の一部を抜粋します) (河瀬直美)それに今の自分の家族で、子どもが「お父さん何してるんだろうな、きょう日曜日だけどなあ」とか、今日思ってないんですか?それは大丈夫ですか?(是枝裕和)それはあったよ~娘が3歳だったかな。結構長期で九州のロケだったから、長期に家を空けて、久しぶりに戻ったら、お互いに緊張しちゃって、部屋の隅と隅で、どういう声を掛けたらいいんだろうか分かんなくて、ようやく馴染んだなと思って、翌日、仕事に行くときに「また来てね」って言われた。ほんとに言うんだ、これギャグじゃないんだと思って、よくそういう冗談を聞いた記憶があるんだけど、ほんとに言われっちまったなあと思って、これはまずい、と思って、自分とこの子をつないでるものってのは、こっちが意識してるよりももっと何か、娘の方では、いない間に切れてるなと思った。 父親と子どもをつないでるのは、いったい何なんだろうか。血のつながりに頼ってていいんだろうか、それともやっぱり共有される時間というのが大事なんだろうか、っていうのは切実な問いとして、それからあって、それだから、今度の『そして父になる』という、血なのか時間なのかとどっちか選ばなくっちゃいけない父親というのは、そのへんの自分の自問自答から生まれている映画ではあるので、、、 上記、「是枝×河瀬対談」で是枝監督が語っているように、「そして父になる」は、産院で息子を取り違えられた二組の夫婦と子供たちのドラマです。福山雅治×尾野真千子演じるエリート・サラリーマン夫婦、都心の高級マンションに住み、息子に自分のようなエリートになって欲しいと期待していますが、普段は仕事の忙しさにかまけて、息子と親しく接する機会を殆ど持っていません。 リリー・フランキー×真木よう子演じる、もう一組の夫婦は、群馬で小さな電気店を営む「庶民」です。この夫の職場は、家庭でもある電気店なので、彼はいつも子供と一緒に生活しています、お風呂に入るのも子供達と一緒、子供達を自由奔放に育てている、「いいオヤジ」なのです。 この二組の対照的な夫婦の間に、同じ病院で出産した「赤ちゃん取り違え事件」が持ち上がります。 6年も自分の子供として育てた息子が、実は他人の子供だった! 映画は、息子の「取り違え」が発覚したところから始まり、二組の夫婦の葛藤、子供達の葛藤をきめ細かく描いて行きます。結局、お互いの子供を交換し、実の父母の所に戻す結論になりますが、その過程で、いきなり交換するのではなく、お互いの家に交換ホームスティさせ、段々と子供達に慣れさせ、納得させて行く、この過程がこの映画の「見所」だとリュウちゃんは思いました。 この映画のエンドロールには、参考文献として、奥野修司著「ねじれた絆~赤ちゃん取り違え事件の十七年」という本が挙げられています、この本は、1977年に沖縄で起きた「赤ちゃん取り違え事件」を、その後日談まで克明に追跡したノンフィクションですが、あくまでもこの映画の参考文献であり、「原作」とも、「原案」とも違うようです。 ★ グレン・グールドの弾くバッハ「ゴルトベルク変奏曲」の「アリア」、http://www.youtube.com/watch?v=N2YMSt3yfko 「そして父になる」でリュウちゃんがビックリしたのは、映画音楽として上記グールドの弾くバッハの「ゴルトベルク変奏曲」の冒頭の「アリア」が3回に渡って使われていたことでした。 これ、どんな意味があるのだ? 「ゴルトベルク変奏曲」を使った映画としては、1991年公開の「羊たちの沈黙」を初めとして、幾つかの映画で使われた人気曲ですが、激しいアクションを伴う映画に使われるのが常でした。 是枝監督は、或るインタビューで、以下のように語っています。 (是枝)グールドは、20年くらい前、テレビのドキュメンタリーで一度使ったことがあって、それ以降、何枚か買って持っていたんです。今回、ピアノ曲をいろいろ当ててみた中で、いちばんしっくりくるのがグールドだった。ただ、最初は本物は使えないということだったので、「グールドみたいな音」にしようと思っていたんですけど(笑)、結果的に許可が下りたので良かったですね。 「ゴルトベルク変奏曲」は始めと終りに「アリア」があり、その間を30の変奏曲の計32曲で構成されている音楽です。「アリア」は、日常的な音楽といいますか、ある腫、混沌とした音楽です。最後の「アリア」は、また最初の「アリア」に戻り、未来永劫に続いて行く、、、この映画の主人公達も、子供達も、あの映画のラストで全てが解決された訳でなく、ドラマは未来に続いて行く、、、 、「ゴルトベルク変奏曲」のアリア」をこの映画で3回も使ったのは、このような意味があったのではないかと、リュウちゃんは勝手な妄想をしたのですが、皆様はどう考えられるのでしょうか? 最後に、リュウちゃんのブログ友達で、小説家、イラストレーターでもある花村美葉さんの素敵なブログを紹介させて頂きます。http://plaza.rakuten.co.jp/mitamitamita501/diary/201310040001/ 彼女はこのブログで以下のように言っています。 「そして、父になる」を観てきました! わたしここ数年、映画を観て涙が出るって事なかったのですが、この映画にはとても感動しました・・・・。暫く、余韻が冷めやらず・・・思わず拍手してしまいそうになりました・・・。 皆さま、秀逸なこの映画、観て損は無し! です!
2013年10月23日
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