1
秋晴れの藤原宮跡300万本のコスモス、天に向かって咲き誇る。今年もコスモスの季節がやってきました。春は桜、秋はコスモス(秋桜)リュウちゃん、秋になると、コスモス好きの血が騒ぐのです。今年は何処へコスモスを観に行こうか?例によりまして、「関西のコスモスの名所」を改めてネット検索しました。http://hananomeisyo.sakura.ne.jp/cosumos-kansai.htm上記サイトで、「奈良県のコスモスの名所」に掲載されているのは、以下の5か所です。(1) 般若寺、(2)安倍文殊院、(3)斑鳩の里・法起寺周辺、(4)藤原宮跡、(5)飛鳥・甘樫丘地区、あれ、昨年は確か(1)~(3)までしかこのサイトに掲載されていなかった筈だぞ? しかも(4)には30000平方mの敷地に300万本ものコスモスが咲いているとある。よし、先ずは藤原宮跡のコスモスを見に行こう!改めて藤原宮跡周辺に地図を見ましたところ、宮跡の北側を東西に走っている道路が、ほぼ直線的に「安倍文殊院」に繋がっています。藤原宮跡から安倍文殊院までは「コスモス街道」になっているようです。なので今日の遠足は、とりあえず、この「コスモス街道」を歩いてみようという計画でした。という訳で、今回はリュウちゃん単独行で藤原旧跡に行って見ることにしました。勿論、女房殿お手製のおにぎり弁当と必携の缶ビール(2缶)持参です。天候絶佳、快晴の秋晴れ、楽しい遠足になりそうだ!午前8時半、法隆寺出発、午前10時、遠足の起点の近鉄「畝傍御陵前」下車、「畝傍御陵前」駅から藤原宮跡の方向に10分ほど歩きましたところ、突然視界が開け、本薬師寺跡に出ました。おお、こんな所に本薬師寺跡があったのだ!8月の初めにハスの花を見に来た時には「咲き始め」だったホテイアオイ、まだ満開だ!本薬師寺跡から15分位歩いた所に、お目当ての藤原宮跡のコスモスが見えて来ました。コスモスと古代ゆかりの山々、快晴の青空、リュウちゃん、大感激!例によりまして、大和三山を見上げてみました。(1) 畝傍山背後に霞んでいる山は「一目100万本のツツジ」で有名な葛城山です。(2) 天の香久山背後の山並みは「竜門山地」、この山地の中程に、古代、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が蘇我氏討伐を「談合」したとされる「多武峰(とうのみね)」があります。(3) 耳成山(みみなしやま)コスモスの咲いている所のロケーションからは、耳成山は見え辛らいのです。リュウちゃんが訪れた時点では、まだ「南ゾーン」(上記写真で、ススキのある所)のコスモスの丈は小さく、「咲き始め」でしたので、この分では10月末までコスモスが楽しめそうでした。暫く藤原宮跡のコスモスを楽しみ、「安倍文殊院」に向かい「コスモス街道」を歩きました。約40分で「安倍文殊院」に到着、本当に一直線の道だ!方向音痴のリュウちゃんでも、簡単に着いた(苦笑)「安倍文殊院」は、大化の改新の頃、時の左大臣として登用された安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)によって建立され、建立から300年後には、日本の陰陽道(おんみょうどう)の祖とされる安倍晴明がここで修行したとされています。http://www.abemonjuin.or.jp/ここの名物、「コスモス迷路」には、30種6万本の背丈の高いコスモスが植えられています。比較的珍しい「黄色いコスモス」がいっぱい見られるのも、ここの魅力だとリュウちゃんは思っています。「コスモス迷路」の入り口に、数鉢の珍しい「チョコレートコスモス」の小さな花が咲いていました。チョコレートの匂いがするチョコレート色のコスモス、摩訶不思議!「安倍文殊院」を出たのが午前11時半、どこで昼食にしようか?ビールを飲もうか(苦笑)そうだ!昨年と同じように「山の辺の道」を辿ってみよう。(以下、「奈良のコスモス街道(2)~山の辺の道」に続きます)
2015年10月16日
閲覧総数 432
2
今日は、リュウちゃんです。今回は、3回目のブログでお約束した橋 幸夫の特集です。ひばりちゃんの時と同じように、先ずリュウちゃんがカラオケで歌ったことのある歌(☆印)、カラオケで歌った事はないけれど、好きな歌(☆印)をズーっと挙げてみます。★潮来笠、★伊太郎旅唄、☆あれが岬の灯だ、☆君恋い波止場、★おけさ唄えば、☆逢いたいぜ、☆喧嘩富士、★木曾ぶし三度笠、☆新三ひとり旅、★磯ぶし源太、☆若い素顔、★南海の美少年、★花の白虎隊、☆わが生涯は火の如く、☆故郷の花はいつでも紅い、★沓掛時次郎、☆すっとび仁義、☆明日を呼ぶ港、☆東京の美少年、☆俺ら次郎長、☆北海の暴れん坊、☆花の兄弟、☆風の三度笠、★江梨子、☆悲恋の若武者、☆悲しき天使、☆慕情のワルツ、★中山七里、★若いやつ、☆美少年忠臣蔵、☆おぼろ月夜の三度笠、☆成田の花太郎、★いつでも夢を、☆あした逢う人、☆すずらん娘、☆花の折鶴笠、★舞妓はん、☆北海の流氷、☆新博多どんたく、☆若い東京の屋根の下、☆夜のブルース、☆お祭り小僧、☆瞼の母、☆箱根山、☆東京ギター、☆薩南健児の歌、★白い制服、☆芸魂、☆通天閣の灯、★お譲吉三、☆関の弥太っぺ、☆若い歌声、☆ 月夜の渡り鳥、☆赤いブラウス、☆白井権八、☆ああ特別攻撃隊、☆花の舞妓はん、☆そこは青い空だった、☆わすられぬ人、☆青いセーター、☆孤剣、★恋をするなら、☆孤独のブルース、☆ゼッケンNo,1スタートだ、☆君のひたいに光る汗、☆CHE CHE CHE、☆愛をこめて、☆さすらい者、☆恋のインターチェンジ、☆花の仁義、☆愛のしあわせ、☆すっ飛び野郎、☆さわらびの丘、☆あの娘と僕、☆涙の小窓。☆月の舞妓はん、☆ぜったい好きだぜ、☆あなたをつれて、☆残侠小唄、☆あんこはお嫁に、★雨の中の二人、☆夢みる港、☆あの娘は街へ、☆今日子、★霧氷、☆シンガポールの夜は更けて、☆佐久の鯉太郎、☆乙女川、☆京都・神戸・銀座、★子連れ狼、フー!★印が19曲、☆印が71曲、全部で90曲。以前のブログで書いたように、「潮来笠」「故郷の花はいつでも紅い」(以前のブログでは。「故郷の花はいつでも赤い」と書きましたが、これは間違いです。すいませんでした)をラジオで聴いて衝撃を受けたのが中学二年の時、橋さんのデビューは17歳、この時、リュウちゃんは14歳ですから、橋さんは3歳年上ということになります。この頃リュウちゃんの耳に入ってきた歌は、若原一郎とか、曽根史郎とか、三浦 洸一とか、フランク永井とか、松尾和子とか、松山恵子とか、鈴三重子とか、、とにかく、リュウちゃんにとっては、皆、おじさん、おばさん歌手ばかり、橋さんの登場によって、やっと同年代の、同じ青春の悩みを歌える歌手が出てきたなーという感慨を持ちました。でも、田舎の貧乏少年だったリュウちゃん、レコードを買う金はあろう筈がありません。もっぱら、テレビで、名司会者、玉置宏さん司会の「ロッテ歌のアルバム」などで橋さんの歌を聴いていました。大学に入り、やっと少し小遣いに余裕が出来たので、その頃発売されていたソノシート盤を買って、橋さんの歌を楽しんでいたのです。橋さんの歌の何処にそんなに惹かれたのか?と考えますと、やはり先ほどもお話したように、同年代の悩める青春を歌った歌に強く共感したことだと思いますが、何と言っても、橋さんの節回しの絶妙さにイカれてしまったのです。「舞妓はん」を例に挙げて、節回しの絶妙さを、少し話してみます。この曲の最初の歌詞は「花のかんざし重たげに」です。音符だと、「ミーミーレーミファミファーミードミドシーラーシー」となりますが、橋さんの歌唱では「ミーミファミレーミミファミミファーミードードミドシドシラーシー」と聴こえます。本当はもっと細かく、絶えず音が変化します。また、随所にある音から別の音に移行する際に、一気に移行するのではなく、連続的に移行する(ポルタメント)とか、同じリズムの中で、歌唱の部分のみ、ある音を延ばしたり縮めたりする(ルバート)とか、この辺は全て節回しの範疇に入るのですが、これが、橋さんの場合、まさに天才としかいいようのないほど、絶妙なのです。節回しが絶妙だと思った歌手は、橋さんの他には、ひばりちゃんだけなのです。クラシックの歌と違い、歌謡曲は節回しが命であると考えているリュウちゃんは、やはり橋さんとひばりちゃんが、歌謡曲史上、最高の歌手であると考える所以なのです。何と上手いのだろう!何と悲しいのだろう!橋さんの歌で、最初に強く惹かれたのが、マイナーコードの時代物です。「潮来笠」のB面の「伊太郎旅唄」、「木曾ぶし三度笠」のB面の「新三ひとり旅」、「風の三度笠(!!!)、「月夜の渡り鳥」、それと、往年の挿絵画家、伊藤彦造の絵を思わせるような悲壮感に満ちた美少年物、「南海の美少年」、「花の白虎隊」、「悲恋の若武者」、「美少年忠臣蔵」、「孤剣」、「美少年物」は、橋さんの所属していたビクター・レコードの十八番(おはこ)、美少年(青年)歌手としては、「哀愁の町に霧が降る」の山田真二、「湖愁」の松島アキラ(美少年じゃないか?)、「美しい十代」の三田明、「霧の中の少女」の久保浩などがいます(リュウちゃん、これらの唄はすべてカラオケのレパートリーなんです)これ、ビクター専属の大作詞家、佐伯孝夫さんの趣味なのかな?戦前から昭和30年代くらいにかけて、芝居や映画で評判になった時代劇を、一番多く歌にしたのも、橋さんとひばりちゃんです。橋さんのそのような曲を挙げてみます。「木曾ぶし三度笠」、「「南海の美少年」、「花の白虎隊」、「沓掛時次郎」、「俺ら次郎長」、「中山ヒ里」、「悲恋の若武者」、「美少年忠臣蔵」、「瞼の母」、「お嬢吉三」、「関の弥太っぺ」、「白井権八」、ついでに、ひばりちゃんの、そのような曲を挙げておきます。「牛若丸」、「月形半平太の唄」、「八百屋お七」、「お夏清十郎」、「娘道成寺」、「恋の曽根崎」、「お染久松」、「雪之丞変化」、「江戸の闇太郎」、「菊五郎格子」、「おかる道ゆき」、「御存じ弁天小僧」、「お島千太郎」、「蛇姫様」現代物でも、当初デビュー曲に予定されていたといわれる「君恋い波止場」を始め、山中みゆきとのデュエット曲、「若い素顔」(この曲、若いボクサーと、その妹がテーマ、橋さんも元ボクサー志望、思い入れの強い歌唱なのです)、それと、「江梨子」などの純愛物、なかでも、トリコロール三部作、「白い制服」、「赤いブラウス」、「青いセーター」がいい!、「白い制服」は、特にリュウちゃんお気に入りの曲、今でもカラオケでよく歌っています。この曲は、戦前、コロムビアから発売された「愛染かつら」だとか、戦後ビクターから発売された「月よりの使者」の流れをくむ作品です。また、「舞妓はん」三部作、「舞妓はん」、「花の舞妓はん」、「月の舞妓はん」、これ、「祇園小唄」の流れをくむ京都の情緒を色濃く音楽にした純愛物です。映画では、かの「男はつらいよ」の寅さんの妹、さくらさん役で有名な倍賞千恵子さんが舞妓役を演じていましたね。リュウちゃん、最近、特に「花の舞妓はん」を歌いたくてしょうがないのです、もう一つだけ挙げますと、橋さんと吉永小百合ちゃんのデュエット曲です。大ヒット曲「いつでも夢を」を皮切りに、「若い東京の屋根の下」、「若い歌声」、「そこは青い空だった」、「愛のしあわせ」、「夢みる港」、「あの娘は街へ」の7曲があります。いずれも、いい曲なのです。まだ書きたい事がいっぱいあるのですが、この辺で止めます。元、大阪市内のレコード店の店長で、リュウちゃんより少し年上の友人にミカモさんという人がいます。この方は大のエルヴィス・プレスリーファンなのですが、橋さんの大ファンでもあります。橋さんの数ある曲の中で、秘蔵の曲は何か?という点に関して、期せずしてミカモさんとリュウちゃんの意見が一致したのです。その曲は、「風の三度笠」と「芸魂」なのです。橋さんの曲は、ひばりちゃんに比べて、カラオケ化されている曲が非常に少ないのが残念でなりません。御三家の一人、舟木一夫さんに比べても、非常に少ないのです。カラオケメーカーさん、橋さんの曲のカラオケ化を宜しくお願い致します。終わりに、菅家利和様、若しよろしければ、リュウちゃんの持っている「橋幸夫大全集」(CD6枚組、120曲入り)を差し上げたいのですが、どうやって連絡すればいいのやら?
2009年06月27日
閲覧総数 844
3
初秋の明日香村、やっと散策することが出来た。(「石舞台古墳」、国の特別史跡)9月23日(秋分の日)、約3か月ぶりにリュウちゃん独りで「花行脚」をして来ました。6月中旬から9月中旬まで、約3か月に渡り、延々と続いた「猛暑日」の為、外出は近所のスーパーに買い物に行く以外、殆んどエアコンの効いた家の中に籠っていたのです。秋分の日、やっと最高気温が30℃を下回った、よし、明日香村に彼岸花を観に行こう!本日の「旅程」は以下です。「近鉄橿原神宮前駅」(出発)~「甘樫の丘」~「飛鳥寺」~「石舞台古墳」~「橘寺」~「亀石」~「天武・持統陵」~「近鉄飛鳥駅」(到着)左足の不具合で、ヨロヨロ歩きのリュウちゃん、無事に「飛鳥駅」まで辿り着けます事やら?朝8時30分に家を出発、10時少し前に「近鉄橿原神宮前駅」に到着。駅の構内に下の写真のような横断幕が掲げられていました。祝「飛鳥・藤原の宮都」、世界遺産国内推薦決定、今年の1月28日、「飛鳥・藤原の宮都」が「世界文化遺産」としてユネスコに推薦されました。順調に行けば、来年(2026年)の夏頃に正式に「世界文化遺産」として登録される予定です。この経緯や、登録される具体的な「文化財」につきましては、下記のサイトをクリックしてご覧下さいね。「飛鳥・藤原-古代日本の宮都と遺跡群」ウキペディア>午前10時ジャスト、「近鉄樫原神宮前駅」を出発、明日香路の彼岸花咲いているのかな?駅から徒歩10分の所にある「孝元天皇陵」に到着、「孝元天皇陵」の土手の彼岸花、まだ半分「蕾」だが、「咲き始め」だ。―<閑話>彼岸花の開花条件―彼岸花は秋分の日が近づくと、いつの間にか開花している花なのですが、開花するためには、1日の最低気温が20℃前後に下がることが必要条件なのだそうです。今年は9月中旬まで最低気温が25℃前後の「熱帯夜」が続いていましたので、やっと「秋分の日」直前に開花し始めたようです。―閑話休題―「孝元天皇陵」から10分ほど歩いた所に「明日香村」の標識が建っていました。ここまでは橿原市、ここからは明日香村。明日香村に入ってから、田んぼの畔道に咲いている彼岸花が急に目に付くようになりました。やはり、まだ咲き始め、花の量が少ない。<小墾田宮(おはりだのみや)推定地>推古天皇の宮跡とされるエリアです。一直線に延びる彼岸花の列が美しい!「甘樫の丘」の麓の畑に咲いていた花です。この花、両方共、ムクゲなのかな?「甘樫の丘」の麓から、「飛鳥川」に架けられている橋を渡った処に、<道の駅「あすか夢の楽市」>があります。入口にキバナコスモスが咲いていた。「あすか夢の楽市」の横手にある「飛鳥水落(あすかみずおち)遺跡」です。この遺跡は西暦660年、当時皇太子だった中大兄皇子(後の天智天皇)が日本で初めて作った「漏刻(水時計)」なのです。<「飛鳥寺」の裏手の彼岸花>「飛鳥水落遺跡」から、「飛鳥寺」の裏手の田園地帯に入ります。ここの彼岸花、まだ「3~5分咲き」くらいだ。<入鹿首塚>「飛鳥寺」の裏手にある五輪塔です。伝説では、この五輪塔は、西暦645年におこった「乙巳(いっし)の変」で、中大兄皇子(後の天智天皇)に刎ねられた蘇我入鹿(曽我氏の最後の最高権力者)の首が落ちた場所に建てられたのだそうです。(談山神社所蔵『多武峰縁起絵巻』より「乙巳の変」)「入鹿首塚」の周りは、コスモス、キバナコスモスが咲いている。<飛鳥寺(あすかでら)>いつものように裏手から「飛鳥寺」に入ります。狭い「飛鳥寺」の境内には、酔芙蓉、百日紅、桔梗などが咲いていた。<「飛鳥寺」について>「飛鳥寺」は、6世紀末頃に、蘇我馬子によって建立されたとされる日本最初の仏教寺院です。現在では、「小さいお寺」ですが、創建当時は下図のような「大寺院」だったようです。(創建時の「飛鳥寺」の模型)本尊の「飛鳥大仏」は、西暦609年に鞍作 止利(くらつくり の とり、または止利仏師)によって造立された日本最初は大仏像です。像高2,75m、約150年後に作られた「奈良の大仏」とは比較にならない「小さな大仏」なのです。尚、「飛鳥大仏」は本堂に安置されていますが、撮影は自由なのです。(飛鳥大仏)<石舞台」へ>正午少し前、「飛鳥寺」を後にして、「石舞台」に向かいました。案の定、左足がフラフラ、ヨロヨロと石舞台へ歩く。我ながらちょっとみっともない。杖を持ってくれば良かったのかな?「石舞台」への道筋にも、少しですが彼岸花を見ることが出来ました。道脇の民家の前に咲いていた花、この花、何という花なのだろう?午後0時30分、やっとのことで「石舞台古墳」に到着、ありゃ、石舞台古墳の上の土手の白い彼岸花、まだ「蕾膨らむ」だ(残念!)(※)白い彼岸花は、赤い彼岸花より一週間位、開花が遅いようです。<「石舞台古墳」について>6世紀に築造された石室古墳です。石室の周囲にあった「墳丘」の土が何故か取り除かれ、石室が剥き出しになっている特異な古墳なのです。石室は30個の巨大な花崗岩で造られていて、総重量は2300トンもあるのだそうです。被葬者としては、この時代の最高権力者だった「蘇我馬子」説が有力ですが、まだ定説は無いようです。「石舞台」の周辺に咲いている萩の花、「見頃」のようだ。午後1時ジャスト、いつものように石舞台古墳の周辺の草原を見下ろすレストランのテラス席に陣取り、「古代米カレー」と、クラフトビール「奥大和」を3本注文し、遅い昼食、プファ~、「奥大和」と古代米カレーが旨い!クラフト黒ビール「奥大和」、小瓶なのに一本1100円もした!ちょっと痛い(苦笑)<「橘寺」へ>襲い昼食を終え、次の目的地である「橘寺(たちばなでら)」に向かいます。「石舞台」までは、ずっと「登り坂」、「石舞台」からは、ずっと「下り坂」、「奥大和」を3本飲んだのに、ヨロヨロ歩きは変わらない、やっぱり「杖」が要るようだ。下の写真は、飛鳥川の川原に咲く彼岸花です。飛鳥川の畔の樫の木(?)です。根本のキノコ、サルノコシカケなのかな?途中の道端に、可憐なサマーポエンセチアが咲いていた!「橘寺」の下の道筋の、馬の形をした切り株、今や、明日香路の風物詩の一つになっている!「橘寺」を見上げる道に辿り着きました、ここの稲田の彼岸花、明日香村屈指の彼岸花の「見所」なのだ。「橘寺」に入ります。境内は「芙蓉」が「見頃」を迎えていた。この花、何という名前の花なのだろう?境内にある謎の石像物「二面石」です。<「橘寺」について>この地は元は欽明天皇の別宮「橘の宮」があり、聖徳太子(厩戸皇子)の生誕地とされています。西暦606年、推古天皇の命により、聖徳太子が「橘の宮」を「橘寺」に改めたとされています。法隆寺や四天王寺などと共に、「聖徳太子建立七大寺」の一つとされています。境内に聖徳太子の愛馬「黒駒」の像が建てられています。聖徳太子は「黒駒」に跨って、ここから約20キロ離れた「法隆寺」に「通勤」した他、全国を駆け回ったと云われています。<「亀石」へ>「橘寺」を出て、「亀石」に向かいます。この道も彼岸花の「見所」なのだが、今日はまだ「開花始め」、ちょっと残念。<亀石>「橘寺」から約10分で、明日香村のシンボルといえる謎の石像物「亀石」に到着。やはり「亀石」の下に彼岸花は生えていない(残念!)もう消えてしまったのかな?下の写真は、8年前に同じルートを散策した時に撮った写真です。8年前には「亀石」の下に、いっぱい彼岸花が咲いていたのに、今では消えてしまった?もう時は巻き戻すことは出来ないのだろうか?(2017年の亀石の下の彼岸花)<「飛鳥駅」へ>いよいよ今年の「明日香村彼岸花紀行」も終盤です。「亀石」から「近鉄飛鳥駅」まで、以前だったら20分位で歩けたのですが、左足の具合が悪い為、フラフラ、ヨロヨロと歩いたのでした。<天武・持統陵>本来なら、陵の前まで登るのですが、今回は登ることえお諦め、陵の下から写真を撮ったのです。陵の下の農家の庭先に咲いていた小さな赤い花、この花、千日紅(せんにちこう)のようです。午後3時、やっとの思いで無事に「近鉄飛鳥(あすか)駅」に辿り着きました。「近鉄橿原神宮前駅」から「近鉄飛鳥駅」まで約6キロ程度の道程なのに、フラフラになってしまった(情けなや~)来年からは、「石舞台」までバス行こうかな?
2025年10月14日
閲覧総数 34
4
16歳のひばりちゃん、この年は、「マドロス歌謡」元年だったのだ!(マドロス姿のひばりちゃん)(まえがき)今回はひばりちゃんの16歳の時に発売された楽曲について書いてみます。16の時の歌は、昭和28年5月29日から昭和29年5月28日の間に発売された歌です。具体的には「唄祭り八百八丁<78番>」ら「母恋い扇<107番>」までの29曲です。(洋楽事始めの年・民謡事始めの年)上記、29曲は、リュウちゃんが持っている35枚組の「美空ひばり大全集」に収録されている曲数なのですが、ひばりちゃんは16歳の時から「洋楽」のレコーディングを開始しました。昭和28年6月1日発売の「上海/エル・チョクロ」を皮切りに、16歳の時だけでも、「アゲイン」、「チャルメラそば屋」、「ゆうべはどうしたの」、「ンゴに二人を」、「スターダスト」、「ジングルベル」と、計8曲の「洋楽」をリリースしています。ひばりちゃんの「洋楽」は、オリジナルの英語などの歌詞に、一部に日本語の訳詞を入れたスタイルでロ幾音されています。一例として、以下に「ジングルベル」の動画を貼り付けます。<美空ひばり「ジングルベル」>→ここをクリック(以下同様)また、この年には、初の民謡として、「会津磐梯山」と「茶切節(ちゃっきりぶし)」の2曲を発売しました。<美空ひばり「茶切節」>民謡といいましても、「茶切節」は、昭和2年に(詞):北原白秋、(曲):町田佳声(かしょう)のコンビによって作られた「新民謡」なのです。昭和6年、鶯芸者の「市丸(いちまる)」の歌唱でビクターからレコードが発売され、大ヒットしました。<市丸「茶切節」>(市丸)「会津磐梯山」は、「茶切節」とは違って、古くからあった「古民謡」なのですが、こちらもビクターの鶯芸者であった「勝太郎」の歌唱によるレコードで全国的にヒットしました。ひばりちゃんの民謡は、コロムビアのライバルだったビクターの市丸、勝太郎への挑戦だったのか?という次第で、16歳のひばりちゃんは、邦楽29曲、洋楽8曲、民謡2曲の計39曲のレコードを発売することになりました。16歳の時に公開された映画も、全て主演作で、9作品が公開されています。1年間で主演した映画が9本!レコーディングした歌が39曲!これじゃ、高校に通っている暇が無い!さて、楽曲に入ります。(34)<78番>「唄祭り八百八丁」<唄祭り八百八丁>★発売日:昭和28年6月1日、★作詞・西條八十、作曲:万城目 正、★映画「ひばり捕物帳 唄祭り八百八丁」主題歌、★カラオケあり、★評点:A<映画「ひばり捕物帳 唄祭り八百八丁」、51分バーション>この歌、「お祭りマンボ」に続くひばりちゃんの「お祭りソング」第2弾なのですが、言葉の「切れ味」が小気味よく、リュウちゃんも大好きな歌なのです。リュウちゃんと同年配の近所のカラオケ店のオバサン曰く。「お母さんが好きだった歌」、オバサンのお母さんと云えば、生きていれば今年100歳!リュウちゃん、まだまだ青二才なのだ!(35)<番外>「上海」<上海>★発売日:昭和28年6月1日、★作詞:B.Hilliard|M.Delugg、日本語詞:奥山靉(あい)、★カラオケ無し、★評点:A、ひばりちゃんの初めてのジャズ(洋楽)のレコーディングです(この歌は35枚組の「美空ひばり大全集」には収録されていませんので、<番外>となります)この歌は、アメリカの人気女優で歌手のドリス・ディが昭和26年に29歳の時にリリースしました.(ドリス・ディ)<ドリス・ディ「上海>以下の冒頭の英語の歌詞を挙げてみます。♪~Who's gonna kiss me?Who's gonna thrill me?Who's gonna hold me tight tonight?Why did I tell you I was goin' to Shanghai?I wanna be with you tonight.Why did I holler I was goin' to Shanghai?~♪この冒頭の部分、ひばりちゃんの歌唱と、ドリス・ディの歌唱を聴き比べてみて下さい。どちらがドリス・ディで、どちらがひばりちゃんか、、英語の部分だけ聴いた限りでは、区別がつかない!リュウちゃんは英会話が全く出来ない人間ですが、以前、知人の英語ペラペラのジャズ評論家に、ひばりちゃんの「上海」の英語について問い合わせたことがあります。知人曰く。「<上海>のひばりの英語は、ネイティブの英語のように聞こえる」とのことでした。英会話が出来なかったひばりちゃんが、ネイティブと同じ発音で歌える!奇蹟だ!おそらく、ひばりちゃんは、ドリス・ディの「上海」を繰り返し聴き、耳でこの歌を完全に自分のものにしてしまったのでしょうね。美空ひばりオフィシャルサイトによりますと、ひばりちゃんは3歳の時に、小倉百人一首を殆ど暗記してしまったようですが、このエピソードも、ひばりちゃんの「異常ともいえる耳の良さ」を示しています。ひばりちゃんの「上海」のB面曲は、スペイン語の「エル・チョクロ」で、この歌もひばりちゃんは後半でスペイン語で歌っています。こちらは確認していないのですが、おそらく、スペイン人が聴いたとすれば、ネイティブなスペイン語だと思うのではないかと思っています。<美空ひばり「エル・チョクロ」>ひばりちゃんの洋楽ネイティブの歌手と遜色のない仕上がりなのだ!(36)<84番>「チャルメラそば屋」<チャルメラそば屋>★発売日:昭和28年8月10日、★作詞作曲:ボビー・ノートン、日本語訳詞:奥山靉、★カラオケ無し、★評点:A、35枚組の「美空ひばり大全集」に収録された唯一の洋楽曲です。邦楽オリジナル曲オンリーの筈の「大全集」に、何故、1曲け洋楽曲が収録されたのか?実はリュウちゃん、今の今まで、てっきりボビーノートンはアメリカの著名なカントリー・シンガーで、「ャルメラそば屋(Soba Song)」もアメリカで録音され、日本も聴かれるようになった歌だと思っていたのですが、下記のボビー・ノートンの「チャルメラそば屋」の動画を見ました所、このレコードのレード番号が「JL-47番」であることが分かりました。<ボビー・ノートン「チャルメラそば屋」オリジナル>「LJL-47」番!この「JL」は、当時の日本コロムビアの、主として邦人アーティストが「洋楽」を吹き込む時に使われた記号なのだ!因みに、ひばりちゃんの「上海」以前のレコード番号は、全て<A-○○番>というレコード番号になっています。例えば、デビュー曲の「河童ブギウギ」は、「A-570」番、「唄祭り八百八丁」は「A-1696」番、といった具合です。ひばりちゃん初の「JL」曲は上述の「上海」で、レコード番号は「JL-41」番なのです。このことからから考えますと、恐らくボビー・ノートンは、当時、日本に滞在していたアメリカ人で、何らかの機会に、日本コロムビアで「チャルメラそば屋」をレコーディングし、それが、ひばりちゃんの「洋楽」にピッタリだということで、ひばりちゃんの「洋楽第2作目」の曲として採り上げられたのではないかとリュウちゃんは推測するのです。それにしても、ひばりちゃんの謳い回しは、お見事!ですね。(37)<85番>「山葡萄実る頃」(映画「山を守る兄弟」、北上弥太郎と美空ひばり)<山葡萄実る頃>★発売日:昭和28年9月15日、★作詞:西條八十、作曲:米山正夫、★映画「山を守る兄弟」主題歌、★カラオケ:一時あり、★評点:A、<映画「山を守る兄弟」62分版>♪~あ~~~~~~甲斐は山国 笛の音がふもとにひゞく 秋祭り雲は流れる 夕日は落ちる山の葡萄も赤くなる~♪清新な抒情歌です。おそらく、この歌は、後年、美空ひばりもステージで歌うことは無く、ひばりファンにも注目されることも無く、歴史の中に埋もれてしまった「幻の名曲」なのですね。勿論、リュウちゃんも「大全集」で初めて聴いた曲です。聴いた当初の印象は薄かったのですが、何回も聴く内に、歌の良さがジワジワと胸に迫って来たのです。レーザーディスクの時代、カラオケがあり、近所のカラオケ店で一度だけ歌ってみたことがありますが、やはり胸が締め付けられるような感動を覚えたのです。リュウちゃんにとっては、「山葡萄実る頃」は、「津軽のふるさと」を上回る感動の抒情歌なのだ!(38)<88番>「可愛いティティナ」<可愛いティティナ>★発売日:昭和28年12月10日、★作詞・作曲:米山正夫、★カラオケ無し、★評点:B、このレコードは「洋楽」として、「JL-69」番というレコード番号で発売されましたが、米山正夫の作詞作曲で、ひばりちゃんのオリジナル曲なのです。タイトルの「可愛いティティナ」、はて、「ティティナ」という名前、どこから来たのだろう?昭和13年、日本でチャップリンの名作「モダン・タイムス」が公開されました。この映画の中で、チャップリンは、「ティティナ」という意味不明な歌を自らの肉声で披露しました。<チャップリン「モダン・タイムス」より、「ティティナ」>チャップリンの「ティティナ」、リュウちゃん、今の今まで、てっきりチャップリン自らが作詞作曲したオリジナル曲だと思い込んでいたのですが、実はこの曲は大正11年(1922年)、ロシア系フランス人の作曲家、レオ・ダニダーフによって作曲された「フランスの流行歌」だったのですね。この歌は「モダン・タイムス」公開以前にかなり流行したようで、日本では「羽衣(はごろも)歌子」という歌手によって、昭和6年にレコーディングされました。<羽衣歌子「ティティナ」、昭和6年発売>また、昭和28年には、生田恵子という歌手の「東京ティティナ」という、歌詞のみを替えた「ティティナ」のレコードがビクターから発売されました。(生田恵子)<生田恵子「東京ティティナ」>ひばりちゃんの「可愛いティティナ」は、オリジナルの「ティティナ」とは全く違う、米山正夫のオリジナル曲です。ちょっとロシア民謡の「カチューシャ」などを思い起こす歌ですね。(40)<89番>「ただ何となく」<ただ何となく>★発売日:昭和28年12月10日、★作詞・作曲:米山正夫、★「可愛いティティナ」のB面曲、★カラオケ無し、★評点:A、「可愛いティティナ」のB面曲です。タイトルのように、何気ない歌ですが、エレガントで、リュウちゃんにとりましては好ましい歌なのです。(41)<92番>「楽しい日曜日」<楽しい日曜日>★発売日:昭和29年1月15日、★作詞:松坂直美、作曲:万城目 正、★映画「お譲さん社長」挿入歌、★カラオケ無し、★評点:A、<映画「お譲さん社長」1時間1分バージョン>上掲の映画「お譲さん社長」の中で、映画のストーリーとは全く関係のない歌として歌われます(上掲の映画の7分40秒から歌が始まります)1番の歌詞は以下です。♪~みどりのそよ風甘く うちつれ道ゆく人の 軽い足どりも なぜかしら夢さそう 楽し日曜 嬉し日曜 さあさ行こうよランララ~ 山越え野越え~~♪昭和♪20年代、日本の公官庁や大企業では、週休1日半(半ドン)が当たり前でした。公官庁や大企業で、「完全週休2日制」が定着したのは、昭和55年以降なのです。それだけに週に一度の日曜日は、サラリーマンにとりましては、週休2日制になった現代よりも遥かに「貴重な休日」だったのですね。上掲の歌詞には、「貴重な休日」の楽しさが、よく表現されていると思います。しかし、歌詞の楽しさとは裏腹に、メロディは短調で付けられていて、何やら物悲しい感じです。「貴重な休日」の翌日には、厳しい仕事の月曜日、月曜日のことを考えると、憂鬱になる。ということを、このメロディは表現していると、リュウちゃんは思っているのです。この歌詞は、藤山一郎の「丘を越えて」を思い起こす部分があります。<藤山一郎「丘を越えて」>「丘を越えて」は底抜けに明るい歌ですが、ひばりちゃんの「楽しい日曜日」は陰影の濃い、少しメランコリックな歌です。でもリュウちゃんは、断然、「楽しい日曜日」が好きなのです!(42)<94番>「ひよどり草紙」(映画「ひよどり草紙」の中村錦之助と美空ひばり)<ひよどり草紙>★発売日:昭和29年1月20日、★作詞:西條八十、作曲:万城目 正、★映画「ひよどり草紙」主題歌、★カラオケ無し、★評点・B、<映画「ひよどり草紙」、55分バージョン>かって「東映チャンバラ映画」の若手スターとして絶大な人気を誇った中村錦之助(後の萬家錦之助)の映画デビュー作です。中村錦之助は昭和7年生まれ、ひばりちゃんより5歳年上で、映画出演時には21歳の青年でした。歌舞伎界の御曹司で、4歳から歌舞伎の舞台に立っていましたが、なにしろ四男坊だったので、当時は歌舞伎で主役級の役者になることは至難の業だったようで、人気がありながら端役に甘んじていました。そこに美空ひばりの新芸術プロダクションから映画出演のオファーを受け、歌舞伎界から映画界に転出、「ひよどり草紙」が映画出演第1昨となり、この映画は松竹で配給されました。リュウちゃんも幼い頃は中村錦之助のチャンバラ映画の大ファンだったのですが、リュウちゃんが錦ちゃんのチャンバラ映画を初めて観たのは,「ひよどり草紙」の10か月後に公開された東映の「紅孔雀(第1部)」だったのです。中村錦之助は、ずっと東映の大スターだと思っていたが、デビュー映画は松竹だったのだ!中村錦之助は、昭和29年2月10日封切りの松竹映画「ひよどり草紙」で映画デビューの後、同年3月24日封切りの新東宝映画「花吹雪御存じ七人男」に出演、その後、東映に移籍し、同年4月27日には、早くも東映デビュー作で、中村錦之助の出世作となった「笛吹童子第1部どくろの旗」に主演しています。<映画「笛吹童子完結編・満月城の凱歌」>尚、中村錦之助は、デビューした昭和29年だけで、何と!、18本もの映画に主演、一挙に人気スターになり、東映の救世主になりました。(43)<95番>「鳥笛吹けば」<鳥笛吹けば>★発売日:昭和29年1月20日、★作詞:西條八十、作曲:万城目 正、★映画「ひよどり草紙」主題歌、★カラオケ無し、★評点・S、映画「ひよどり草紙」のラストシーンで1番だけ歌われる挿入歌であり、歌の「ひよどり草紙」のB面曲です。この歌、「涙の白桔梗<46番>」に続く、リュウちゃんの最高評点の歌なのだ!この歌も、35枚組の「美空ひばり大全集で初めて聴いた歌です。以下に歌詞を全部書いてみます。♪~1、 可愛い小鳥を呼ぶように 君呼ぶ笛があったなら面影おぼろな若衆まげ 赤い灯りの江戸恋しピロローピロロー ピロロロピロロ~<(※)2、3番も繰り返し>2、 青葉若葉の峠道 しぐれに濡れる街道で鳴らせば心も泣けてくる なぜか寂しい笛の唄3、 君を思って旅をゆく わたしも小鳩 流れ鳥落葉松林を吹く風に 雪の信濃路 陽が落ちる~♪リュウちゃんがこの歌を何故、最高評点にしたのかをちょっと書いてみます。一番の理由は、歌詞の一語一語まで丁寧に歌ったアーティキュレーションの見事さです。例えば、1番の冒頭の♪~可愛い小鳥を呼ぶように~♪の「小鳥」の歌唱表現です。音譜では「小鳥」は「ラードーシ」となっていますが、「ラ」音から「ド」の音に3度高く移行する時に、ファルセット(裏声)のようにスムースに、気持ちよく移行します。次の「シ」音は、単なる「シ」音ではなく、「シドシ」と、軽い「節回し」を入れて、「小鳥」という僅か3音の「詞」を見事に表現するのです。もう一つ例を挙げます。3番の後半の♪~落葉松林を吹く風に~♪の部分です。ここの部分は音符では「シシーラシ―ドシラーシミーレーミーファラー♯ソミー」となりますが、「落葉松林を」の部分の音符「シシーラシ―ドシラーシミー」を、しかりと格調高く歌うことによって、この落葉松林の存在感がくっきりと浮かび上がります。また「吹く風に」の部分は、音符では「レーミーファラー♯ソミー」ですが、ひばりちゃんは「風に」を「ファラー♯ソラ♯ソミー」と、軽い節回しを入れることによって、臨場感あふれる「風」を見事に表現するのです。ちょっと突飛な比較になりますが、「鳥笛吹けば」のひがりちゃんの「風」は、シューベルトの名歌曲「ズライカ1」の巻き起こる東風を思い起こします。♪~Was bedeutet die Bewegung?Bringt der Ost mir frohe Kunde?~♪この風のそよぎは何を告げようとしているのでしょう?東風がうれしい便りを運んできてくれたのでしょうか?<シューベルト「ズライカ1」D,720、(歌)キャスリーン・バトル>この歌のひばりちゃんのアーティキュレーションの凄さを挙げると、きりがありませんので、この辺で止めますが、ひばりちゃんの「鳥笛吹けば」は、聴けば聴く程に歌の世界が胸に迫って来て心打たれれる名歌なのだ!と、リュウちゃんは思っているのです。皆様も騙されたと思って、この歌を歌詞を参照しながら、10回ほど聴いてみて下さい。きっと、「涙ウルウル」になること、請け合いですよ。(44)<98番>「伊豆の踊り子」<伊豆の踊子>★発売日:昭和29年3月20日、★作詞作曲:木下忠司、★映画「伊豆の踊子」主題歌、★カラオケあり、★評点:A、<映画「伊豆の踊子」、59分バージョン>映画「伊豆の踊子」はひばりちゃん初の「文芸映画」です。これまでの映画と違って、一女優として、川端康成原作の「踊り子の薫(かおる)」をシリアスに演じています。この映画の音楽を担当したのは、「二十四の瞳」、「喜びも悲しみも幾年月」なで知られる木下恵介監督の実弟で、木下監督の映画の大半の映画音楽を担当した木下忠司、「伊豆の踊子」では、映画音楽と共に、上記2曲の主題歌の作詞作曲も担当しているのです。ひばりちゃんの主題歌「伊豆の踊子」は、映画の中では、伴奏を使わずに、鼻歌という感じで朴訥に歌われます。以下に歌詞を書いてみます。♪~三宅出るとき 誰が来て泣いた 石のよな手で親様が まめに暮らせと ほろほろ泣いた 椿ほろほろ散っていた 江島生島別れていても 心逢う島(大島)燃ゆる島 おらが親様離れていても 今度逢うときゃ花も咲く~♪普段のひばりちゃんの歌謡曲とは違い、哀切極まりない民謡調の抒情的な歌曲です。リュウちゃんもこの歌はカラオケでよく歌うのですが、「♪~心逢う島(大島)燃ゆる島~♪」の部分で「涙ウルウル」になってしまうのです。(45)<99番>「いでゆの里」<いでゆの里>★発売日:昭和29年3月20日、★作詞作曲:木下忠司、★映画「伊豆の踊子」主題歌、★カラオケ無し、★評点:A、映画では、この歌のメロディが通奏低音のように常に場画れています。A面の「伊豆の踊子」よりも、もっと哀切極まりない抒情歌です。以下の歌詞により、踊り子の一行が辿った道を紹介するという趣向になっています。♪~南(みなみ)風吹きゃいで湯の里に 赤い椿の花が咲く 椿赤けりゃ桂の恋も 燃えて修善寺湯の煙 湯ケ野湯ヶ島峠の下で 逢うに逢われぬしぐれ雨 万二万三は天城の峰よ 沖の七島見てござる 天城越えれば下田ノ港 オ吉恋しと千鳥鳴く~♪松本清張の初期の傑作短編「天城越え」、この歌詞からタイトルを考えたのか?石川さゆりの「天城越え」も同じなのか?尚、この映画で主人公の「私(一高生)」を演じた石濱 朗(いしはま あきら)は、ひばりちゃんより2歳年上の2枚目俳優で、「ひばりの初恋の人」なのです。結婚寸前までいった仲だったようですが、結局は失恋に終わったようです。(石濱 朗)(46)<104番>「ひばりのマドロスさん」<ひばりのマドロスさん>★発売日:昭和29年5月15日、★作詞:石本美由紀、作曲:上原げんと、★カラオケあり、★評点:A(47)<105番>「さよなら波止場」<さよなら波止場>★発売日:昭和29年5月15日、★作詞:石本美由紀、作曲:上原げんと、★「ひばりのマドロスさん」のB面曲、★カラオケ無し、評点;特A、ひばりちゃん初の「マドロス歌謡」です。「マドロス」とは、オランダ語で「船乗り」のことで、「マドロスさん」とは「船乗りさん」という意味になります。またマドロスさんとは「外国航路の船乗りさん」で、決して「国内航路の船乗りさん」ではないようです。「マドロス歌謡」というジャンルは、リュウちゃんが俄か調べした限りでは、昭和14年発売の<岡 晴夫「港シャンソン」>が「最初のものではないかと思われます。<岡 晴夫「港シャンソン」>(マドロス姿の岡 晴夫)考えてみますと、戦前には外国航路の船乗りさんと云えば、軍艦に乗り込む海軍の水兵さんが殆どという時代で、客船などは殆ど運航していない時代でしたので、歌謡曲でも「マドロスもの」は一つのジャンルとして成立しえない時代だったのですね。戦後、マドロス歌謡は、やはり岡 晴夫の「憧れのハワイ航路」で一挙に花が開きました。以下に、戦後の「マドロス歌謡」を幾つか挙げてみます。岡 晴夫「雨の波止場」、「マドロスの唄」、「憧れのブルーハワイ」、小畑 実:「アメリカ通いの白い船」、「船乗りシャンソン」、田端義夫:「ロマンス航路」、「肩で風きるマドロスさん」、藤島 桓夫「初めて来た港」、「帰りの港」、、、、以上挙げた歌は、皆、男性歌手による「男歌」です。でも、ひばりちゃんの「マドロス歌謡」は、女性が憧れる「素敵な男性のマドロスさん」という視点で歌詞が書かれています。以下にひばりちゃんの「マドロス歌謡」を、出来るだけ挙げてみます。「ひばりのマドロスさん<104番>」、「さよなら波止場<105番>」、「あの日の船はもう来ない<132番>」、「君はマドロス海つばめ<178番>」、「港は別れてゆくところ<179番>」、「波止場だよお父つぁん<186番>」、「港町十三番地<195番>」、「浜っ子マドロス<198番>」、「波止場小僧<202番>」、「青い海原<206番>」、「港町さようなら<208番>」、「ご機嫌ようマドロスさん<220番>」、「パパの故郷<221番>」、「三味線マドロス<222番>」、「白いランチで十四ノット<234番>」、「若い海若い船<<252番>」、「波止場へ行こうよ<253番>」、「初恋マドロス<278番>」、「哀愁波止場<280番>」、「ひばりの船長さん<281番>」、「鼻歌マドロス<293番>」、「小さな波止場町<294番>」、「波止場の道を歩こうよ<331番>」、「こよい港に降る雨は<332番>」「お久しぶりねマドロスさん<345番>」、「港は心のふるさと<346番>」、フ~、26曲もあった!リュウちゃんはカラオケでひばりちゃんの「マドロスもの」をまとめて歌う時には、必ず「ひばりのマドロスさん」から歌い始めます。上原げんとの軽快なメロディ海の匂いが濃厚なマドロス歌謡、ひばりちゃんの歌は、益々、冴え渡るのだ!
2022年02月20日
閲覧総数 956
5
こんにちは、リュウちゃんです。今回は歌謡曲の黄金時代(2)といたしまして、三橋美智也、春日八郎と同時代の男性歌手についてお話したいと思います。これらは、いずれもリュウちゃんが幼・小学校時代に、ラジオや近所の兄ちゃんの家のレコード(もちろん、SP盤)で聴いた歌です。カラオケ時代が幕を開けて、まず最初にリュウちゃんが歌おうと思った歌が、このような昭和20年代後半から30年代前半の歌の数々だったのです。青木光一の歌は、三橋美智也、春日八郎の歌と並んで、カラオケ幕開け当初から現在に至るまで、ずっと歌っている歌なのです。特に「柿の木坂の家」は、リュウちゃんにとって、三橋美智也の「お下げと花と地蔵さんと」と並ぶ、ふるさと歌謡曲の二大名曲なのです。歌詞(石本美由起)は以下のようなものです。春には柿の花が咲き秋には柿の実が熟れる柿の木坂のあの娘の家よ思い出すなアふるさとのヨ乗り合いバスの悲しい別れリュウちゃん、この歌を歌う時には、中間部の「思い出すなア」で、ため息をつくように声を落とし、しみじみと歌う、最後の「悲しい別れ」の部分では、各言葉を充分に伸ばし、伴奏のリズムにとらわれず、決然と歌うように心がけています。「男の友情」は、かなり後から覚えた歌です、一番の歌詞(高野公男)は以下のようなものです。昨夜(ゆんべ)も君の夢見たよなんの変わりもないだろね東京恋しやいけぬ身は背伸びして見る遠い空段々畑のぐみの実もあの日のままにうるんだぜ作詞の高野公男は、大作曲家、船村徹の、春日八ちゃんの「別れの一本杉」以来の盟友、この詞は、26歳で肺結核で国立水戸病院で亡くなった高野の遺品のメモの中にあったそうです。船村は、この詞にメロディを付け、青木光一がレコーディングしましたが、その後、この歌は、船村の高野公男に対するレクイエムとして、船村のスペシャル番組の最後に必ず自らのギター伴奏で歌うようになりました。歌謡曲史上、最も美しい友情の絆が結晶した歌として、まさに不滅の名歌となったと、リュウちゃんは考えています。それにしても青木光一さん、現在83歳になりますが、本当にお元気ですね、先般のテレビ東京系の石本美由起追悼番組の最後に「柿の木坂の家」を歌ったのですが、声の張りと艶は往年のままでした。青木光一は、昭和20年~24年までシベリア抑留、昭和25年、「若い嵐」でコロムビアからデビュー、★小島通いの郵便船、★早く帰ってコ」(船村徹のコロムビア・デビュー曲)、★男の友情、★僕は流しの運転手、★柿の木坂の家、★月のおけさ船、☆ぐみの木峠、☆ふるさと列車、☆港の乾杯、☆青春パソドブルコロムビアの「光一さん」と比べると、ビクターの「洸一さん」は会社のカラーに合わせてか、都会的ですね、田舎者のリュウちゃんとしては、「光一さん」のほうが体質に合ってはいますが、「洸一さん」の「踊子」は好きな歌で、今でもよく歌います、この歌は、川端康成の短編小説「伊豆の踊子」からイメージされた曲だと思われます。「伊豆の踊子」は、戦後5回映画化されました。ヒロインの踊子には、美空ひばり、鰐淵晴子、吉永小百合、内藤洋子、山口百恵、ですが、この内、主題歌があるのは、美空ひばり、吉永小百合、それと百恵ちゃんです。歌の格調の高さでは、ひばりちゃんが群を抜いていると思っています。三浦 洸一は、昭和28年、「さすらいの恋唄」でビクターからデビュー。★落葉しぐれ、★弁天小僧、★東京の人、★踊子、☆郵便船が来たとヨー、☆街燈、☆ああダムの町、藤島桓夫さんの歌は、「お月さん今晩は」と「月の法善寺横町」がリュウちゃんの二大オハコ曲、最近、アルバムを聴いてみましたが、ほとんどの曲が聴いた記憶があるのには我ながら驚きました。リュウちゃんの少年時代の記憶は、まだまだ埋もれている部分が多いのだなと思います。藤島 桓夫は、昭和25年、「ああ東京へ汽車は行く」でデビュー☆初めて来た港、★帰りの港、★お月さん今晩は、★アンコなぜ泣く、☆村の駐在所、☆さよなら港、☆流し舟唄、☆凧々あがれ、★月の法善寺横町、☆若い元気なお相撲さん、鶴田浩二さんの歌で、リュウちゃんが最初にカラオケで歌ったのは、確か「街のサンドイッチマン」だったと思います。股旅物の「弥太郎笠」は、橋幸夫さんの企画アルバムで感激してから、よく歌うようになり、最近のリュウちゃんは、鶴田さんの歌といえば、先ず「弥太郎笠」なのです。「花の小次郎」もいい歌で、常々、歌いたいなと思っているのですが、まだ映像カラオケでお目にかかった事がありません、残念です。コロムビアで美空ひばりちゃんと2曲のデュエット曲があります。「頬よせて」は、ひばりちゃんの項で挙げましたので、以下の鶴田さんのリストでは、もう一曲を挙げておきます、「夢の花かげ」です。鶴田浩二は、昭和27年、「男の夜曲」で歌手デビュー、☆夢の花かげ、☆ハワイの夜、★赤と黒のブルース、★街のサンドイッチマン、★好きだった、★弥太郎笠、☆花の小次郎、★傷だらけの人生、曽根さんの「若いお巡りさん」を作詞した井田誠一氏は八王子市出身、リュウちゃんが東京勤務時代によく足を運んだ高尾山山頂のお寺の中に歌碑が建てられています。真言宗智山派大本山高尾山薬王院有喜寺という、長く厳めしい名前の寺院の境内に建てられている歌碑は、何だか場違いな感じもしますが、当時、それほどこの歌が大ヒットした証(あかし)なのでしょうね。曽根史朗は昭和29年、「雪之丞変化の唄」で、ポリドールからデビュー★若いお巡りさん、白根一男もリュウちゃんにとっては、少年時代の、おぼろげな記憶の中にある歌手です。「次男坊鴉」は、かなり早い段階から、よく歌っていました。その時にも、代表作「はたちの詩集」を歌いたいなと常々考えていまして、何度か挑戦しましたが、未だに満足に歌えた記憶がありません。中間部の台詞(白根さんも、この台詞は早口過ぎて、あまり上手くはありませんが)はさておき、リュウちゃんにとっては、岡晴夫の「逢いたかったぜ」と並ぶ二大難曲なのです何故なのかな?「母恋椿」は、つい最近、初めて歌いました。この歌、白根一男さん本人の作曲なのです。森進一の「おふくろさん」と違って、母に対する追慕の情がストレートに伝わってくる、いい曲です。森昌子の「おかあさん」に近い歌だと思っています。白根一男は、昭和28年、「夜霧の酒場」でデビュー、★はたちの詩集、★次男坊鴉、☆君恋いギター、★母恋椿、☆青春は雲の彼方に、☆浜松ブルース、少し天邪鬼な気(け)のあるリュウちゃん、津村謙も、誰もが歌う「上海帰りのリル」よりも、「流れの旅路」が一番のお気に入りの曲です。この曲も幼児期に聴いて、メロディは知っていましたが、鶴田さんの「弥太郎笠」と同じく、橋幸夫さんの企画アルバムを聴いてから、すっかりハマったのです(橋さんは、この意味でも、凄い歌手だったのです)また、「東京の椿姫」は、このブログによく出て来ます渋谷警察裏のカラオケ酒場「季味」のママ、キミちゃんから教えてもらいました。このキミちゃん、以前は某・大手証券会社のシニア・アナリストをやっていたという女性で、歌の勉強も相当なもので、リュウちゃんも教えられる事が多いのです。これまでキミちゃんに教えてもらった歌を挙げますと、菅原都々子「憧れは馬車に乗って」、奈良光枝「白いランプの灯る道」、岡本敦郎「自転車旅行」、藤島 桓夫「さよなら港」、若原一郎「山陰の道」などがすぐ浮かびます。その代わりにリュウちゃんからは、ひばりちゃんの「唄祭り八百八丁」や「急行青森行き」や「江戸の闇太郎」などを教えてあげたのです。最近、津村さんの「全曲集」のCDを入手して聴きましたが、彼の声は生前、「ビロードの声」と云われていたそうで、美しく、柔らかい声ですね、この「全曲集」で、「月夜の笛」を聴いた時は、少し感動しました。リュウちゃんの幼・少年時代の埋もれていた懐かしい記憶が、また一つ明らかになったのです。歌のタイトルも忘れていましたが、歌を聴いた途端、幼年時代にタイムスリップしたのです。いやー、歌って凄い!ですね。津村謙は、昭和26年に発表した「上海帰りのリルが大ヒット、★流れの旅路、★上海帰りのリル、★東京の椿姫、☆緑の牧場、☆夜汽車の女、☆流れの踊子、☆リルを探してくれないか、★待ちましょう、☆紅椿の歌、★あなたと共に、☆月夜の笛、岡本敦郎さんの歌は、リュウちゃんが20代の頃には、「白い花の咲く頃」一辺倒でした。40代のある日、NHKラジオで、古関裕而の作曲した歌の特集番組があり、そこで放送された「花のいのいは」という歌にシビれてしまったのです。この歌は、岸恵子=佐田啓二主演の映画「君の名は」の第3部の挿入歌のようで、岸恵子さんの歌声が聞ける唯一のものです。この歌も映像カラオケに入ることは、当分期待薄ですね。岡本敦郎は昭和21年、ラジオ歌謡の「朝はどこから」でデビュー★自転車旅行、★白い花の咲く頃、★あこがれの郵便馬車、★高原列車は行く、★ピレネエの山の男、☆花のいのちは(岸恵子とデュエット)今回は、前回の三橋美智也。春日八郎に続き、「歌謡曲の黄金時代」の男性歌手を取り上げましたが、次回は、「歌謡曲の黄金時代(3)」といたしまして、島倉千代子さんをはじめとする女性歌手を取り上げたいと思っていますので、乞う、ご期待です。今回の★☆今回追加分★33曲、☆26曲これまでの累計★297曲、☆275曲、計573曲です。
2009年08月30日
閲覧総数 571
6
日本最北端の地・宗谷岬、やっと辿り着いた!(前回のブログの続きです)6月24日は、利尻島の北東部にある「鴛泊港(おしどまりこう)」の入口にあるホテルに宿泊、翌日の25日(旅行最終日)は、午前8時出発のクルーズ船に乗り、再び稚内市に渡って猿払村、稚内市北部を観光し、夕方に稚内空港から神戸空港に戻るというスケジュールです。25日早朝、ホテルの前の港へ出て、利尻富士、ホテルの横手にある「ぺシ岬」を撮影、25日の天候はほぼ快晴、最高気温22℃、絶好の行楽日和だ!「ぺシ岬」です。標高90mの岩山、頂上には灯台がありますので、別名「灯台山」、また、その四角い形から、別名「ゴリラ岩」とも呼ばれています。「ぺシ岬」の頂上は、利尻島屈指のビュースポットです。ホテルから頂上までは約1時間程で往復出来るのですが、足の調子が悪い為、登頂は断念、以下にネットからお借りした頂上の写真を貼り付けます。ホテルの傍に咲いていた花です。<再び稚内へ>午前8時、鴛泊港に停泊しているクルーズ船に乗り込み、稚内に戻ります。さらば「ぺシ岬」、さらば利尻富士、さらば利尻島。稚内港で、再びチャーターバスに乗り、今回のツアー最後の観光に向かいます。以下の地図は「稚内北部観光地図」です。本日のメインの観光地は、上掲の地図の一番上にある「宗谷岬」です。御承知のように、「宗谷岬」は「日本最北端の地」なのです。<道の駅さるふつ公園>稚内港を出発したチャーターバスは、直接、宗谷岬には向かわず、稚内市の東側にあるオホーツク海に面した「猿払村(さるふつむら)」にある「道の駅さるふつ公園」で昼食を摂るために立ち寄りました。「猿払村」は「日本最北の村」であり、奈良県の戸津川村に次いで日本で2番目に面積の広い村なのです。総面積は590平方キロメートル、「東京23区」の総面積が619平方キロメートルですから、「猿払村」は「東京23区」に匹敵する面積をもっている自治体なのですね。また、猿払村は、日本有数の天然ほたて貝の水揚げ地なのです。午前11時、「道の駅さるふつ公園」の中にある「ホテルさるふつ」に到着、ホテルのレストランで、宗谷牛の焼肉ランチの昼食。プファ~、ビールが旨い!宗谷牛の焼肉も旨い!しかし、天然ほたて貝がメニューに無い。ちょっと残念。「さるふつ公園」の平原には、「稚内公園」と同じように、アルメリア(ハマカンザシ)が咲いていました。下の写真のキクに似た花、ピレオギクなのかな?それとも、ハマギク?<宗谷岬へ>「さるふつ公園」を後にしてチャーターバスは、30分程オホーツク海の沿岸道路を走り、正午頃に、「宗谷岬」に到着しました。遂に日本最北の地に辿り着いた。感無量だ。樺太が「島」であることを発見した江戸時代の探検家・間宮林蔵像もこの地に相応しい。ここにも「アルメリア」が咲いていた。<宗谷岬について>★「宗谷岬」は北緯45度31分22秒のところにある「日本最北の地」です。★建てられている三角形の「日本最北の地の石碑」は、北極星をモチーフにしています。石碑の高さは、ここの緯度に因み、4,53mです。円形の台座は「平和と協調」を表現しているのだそうです。★現在の石碑は2代目で、昭和43年に建立されました。<「宗谷岬」の歌碑>岬の先端に、以下のような歌碑が建てられています。(宗谷岬」の歌碑)この歌碑に刻まれている歌は、演歌の巨匠・船村徹が、昭和47年に発表したフォークソング「宗谷岬」です。作詞は稚内で歯科技工士をしていたアマチュア作詞家の吉田 弘。発売された当初は、まったくヒットしなかったのですが、昭和51年、NHKの「みんなのうた」で、男女2人のフォークグループ「ダ・カーポ」が歌ったところ、これが大ヒットとなり、現在では、フォークソングの定番曲として、愛唱される曲になったのです。「宗谷岬」の1番の歌詞は以下です。歌詞の下にダ・カーポが歌った「宗谷岬」の動画を貼り付けますので、興味のある方はクリックしてご覧くださいね。♪~流氷とけて 春風吹いて ハマナス咲いて カモメも啼いて遥か沖ゆく 外国船の 煙もうれし 宗谷の岬流氷とけて 春風吹いて ハマナス揺れる 宗谷の岬~♪<「宗谷岬」:歌唱:ダ・カーポ>「宗谷岬」のラストショット、女房殿、宗谷岬で吠える!女房殿、あい変わらず元気溌剌なのだ!<宗谷岬公園>「宗谷岬」を後にしたチャーターバスは、岬を見下ろす高台にある「宗谷岬公園」に立ち寄りました。広大な平原の中に、幾つかのモニュメントが建てられています。<祈りの塔>昭和58年(1983年)に「宗谷岬」の沖合で発生したソ連空軍による「大韓航空機撃墜事件」の遺族の皆様によって建立された「慰霊塔」です。塔の高さは、19,83m、事件の起きた1983年に因んだ高さなのです。<世界平和の鐘>昭和63年(1988年)建立、世界平和を願う81か国の人々から寄贈されたコインやメダルで鋳造された「鐘」です。重さ365kg、高さ60cmです。<子育て平和の鐘>「世界平和の鐘」の手前の建立された「小さな鐘」です。稚内市民による10円玉募金で集められた資金150万円と、世界各国から寄せられたコインやメダルを基に、「世界平和の鐘」と同じ昭和63年に建立されました。<宗谷丘陵>「宗谷岬公園」の南部に広がる大丘陵です。見渡す限り、どこまでも続く大丘陵、ここは、正に北海道を代表する絶景スポットだ!点在する牧場には、宗谷黒牛が放牧されている。宗谷丘陵には、57基もの風力発電の風車が林立している。(※)実際の旅行では、この風車は地上から見ることが出来ませんでしたので、上の2枚の写真はネットからお借りしました。<宗谷丘陵について>「宗谷丘陵」は、2万~1万年前に起こった地球最後の氷河期「ウルム氷河期」に氷河の周辺で、大地が溶けたり凍結したりを繰り返しながら生まれた「波状丘陵」です。「宗谷丘陵の周氷河地形」として北海道遺産にも登録されています。草原となった波状丘陵は1500ヘクタールの宗谷岬牧場として宗谷黒牛やホルスタイン牛が放牧されているのです。<白い道(白い貝殻の道)>いよいよ今回の旅行の最後の見学場所、「白い道」に到着しました。「白い道」は、宗谷丘陵の海側の約3キロの細い道一面に、ホタテ貝の白い貝殻を敷き詰めた道です。平成23年から造成が行われましたが、現在では、「インスタ映えする」と話題を呼んで、稚内屈指の観光スポットになっているのだそうです。クラブツーリズムの一行は、3キロの「白い道」を往復したのですが、リュウちゃんは足が痛い為、残念ながら途中でリタイアしました。若しリタイアしなかったら、以下のような光景が見られたかも知れませんね(ちょっと残念だったのです)(「白い道」の到達点の光景、この写真はネットからお借りしました)午後3時過ぎ、稚内空港に到着、いよいよ帰路につきます。下の写真は、搭乗した飛行機の離陸直後に撮った写真です。地上には、宗谷丘陵の風車の林立が見えた!ここの57基の風車で稚内市の6割の電力を賄っているようだ。ということは、同じような風車が10000基もあれば、原発の稼働が無くても、北海道全土の電力需要を充分賄えることになる。先ずは広大で美しい北海道から原発をゼロにして、美しい北海道を守って欲しいものだ!
2025年08月02日
閲覧総数 51
7
3年ぶりに訪れた「平和のバラ園」、140種6000本のバラ、今、満開!5月23日、3年ぶりに大阪府吹田市にある「万博記念公園」の「平和のバラ園」に行って来ました。現在、大阪市此花区舞洲(まいしま)で、「大阪・関西万博」が開催されていますが、高齢者でスマホも持っていないアナログ人間のリュウちゃん、今回の「万博」には行くつもりがありません。その理由は以下です。★高齢になり、足が衰えて、人混みが苦手になった。人気のパビリオンに入場するためにの「待ち時間」が耐えられない。★会場内では、「現金払い」が出来ない。スマホも持っていないアナログ人間のリュウちゃん、会場内では食事も摂れないし、何も買うことが出来ない。★どうしても見たい展示物が全く無い。★近々、発生するとされる「南海トラフ大地震」が怖い。若し開催中に「南海トラフ大地震」が発生したら、大津波で会場は悲惨なことになりそうだ。君子、危うきに近寄らず、かくて、高齢者リュウちゃんは、「舞洲万博」には行かず、55年前に万博が開催された吹田市の「万博記念公園」に足を運ぶことに決めたのです。午前9時過ぎ、家を出発、午前11時、「千里中央駅」に到着、早速、和食店に入り、少し早い昼食、プファ~、ビールが旨い!3年ぶりに訪れる「万博記念公園」の「平和のバラ園」、どんなバラに巡り合えるのだろう?期待が膨らむ!午後1時、「万博記念公園」に到着、5月16日に重要文化財に指定された「太陽の塔」がお出迎え、塔の高さ約70メートル、基底部の直径約20メートル、腕の長さ約25メートル、建設されて55年も経つのに、今だに凄い威容だ!「平和のバラ園」は「太陽の塔」の後ろ側にあります。「入場口」からバラ園までは徒歩5分、午後1時過ぎにバラ園に入場しました。「平和のバラ園」は、大きなバラのアーチから始まる。アーチを潜ると、すぐに「バラの楽園」に入るのだ。さて、ここからは、例によりまして、この日撮りましたバラの品種を紹介致します。先ずは、華麗なアーチを飾る「つるバラ」から紹介していきます。(1)<ピエール・ドゥ・ロンサール>(作出国)フランス、(作出者)メイアン、(作出年)1985年、(2)<ジャスミーナ>(作出国)ドイツ、(作出者)コルデス、(作出年)2005年(3)<ギスレーヌ・ドゥ・フェリゴンド>(作出国)フランス、(作出者)トラバー、(作出年)1916年(4)<マジックメイディランド>(作出国)フランス、(作出者)メイアン、(作出年)1994年(5)<ポンポネッラ>(作出国)ドイツ、(作出者)コルデス、(作出年)2005年、(6)<ヴァイオレット>(作出国)?、(作出者)ビュフォン、(作出年)1945年以前(7)<フィリスバイド>(作出国)イギリス、(作出者)バイド、(作出年)1923年、(8)<モーゼル>(作出国)ドイツ、(作出者)ランベルト、(作出年)1920年、<京阪園芸ローズガーデン>このバラ園には、大阪府枚方(ひらかた)市に本社を置く「京阪園芸」で作出されたバラのコーナーがあります。(「京阪園芸」のバラのコーナー)ここには、「京阪園芸」で作出されたバラが20種類くらい植えられているのですが、残念ながら、もう花期が過ぎてしまったようで、以下の4種類しか撮影出来なかったのです。尚、(12)<藤娘>の作出者・小山内 健氏は、現在、「京阪園芸」を代表するバラ作出家で、「京阪園芸のローズソムリエ」と呼ばれています。(9)<伏見>(作出国)日本、(作出者)京阪園芸、(作出年)1987年、(10)<鞍馬>(作出国)日本、(作出者)京阪園芸、(作出年)1977年、(11)<白川>(作出国)日本、(作出者)京阪園芸、(作出年)1995年、(12)<藤娘>(作出国)日本、(作出者)小山内健、(作出年)1999年、ーーー(13)<ユーロピアーナ>(作出国)オランダ、(作出者)デルイタ―、(作出年)1963年、(14)<サラトガ>(作出国)アメリカ、(作出者)ベルナー、(作出年)1963年、(15)<サングリア>(作出国)フランス、(作出者)メイアン、(作出年)1966年、(16)<ニナウェイブル>(作出国)デンマーク、(作出者)ポールセン、(作出年)1962年、(17)<フィデリオ>(作出国)フランス、(作出者)メイアン、(作出年)1964年、(18)<アンネの思い出>(作出国)ベルギー、(作出者)デルフォルゲ、(作出年)1960年、(19)<ブルームーン>(作出国)ドイツ、(作出者)タンタウ、(作出年)1964年、(20)<ゴールデンセプター>(作出国)オランダ、(作出者)フェルシューレン、(作出年)1950年、(21)<レッドデビル>(作出国)イギリス、(作出者)ディクソン、(作出年)1967年、(22)<タウンクライアー>(作出国)アメリカ、(作出者)バイラム、(作出年)1958年、(23)<コンフェデレーション>(作出国)カナダ、(作出者)ゴリック、(作出年)1964年、(24)<天津乙女>(作出国)日本、(作出者)寺西菊雄、(作出年)1960年、寺西菊雄氏は「伊丹ローズガーデン」の主唱者だったバラ作出家です。(25)<アメリカンヘリテージ>(作出国)アメリカ、(作出者)ラマーツ、(作出年)1965年、(26)<クイーン・エリザベス>(作出国)アメリカ、(作出者)ラマーツ、(作出年)1964年、(27)<ノルディア>(作出国)イギリス、(作出者)ポールセン、(作出年)1967年、(28)<フラワーガール>(作出国)イギリス、(作出者)ディクソン、(作出年)1964年、(29)<プリンセス・ミチコ>(作出国)イギリス、(作出者)ディクソン、(作出年)1966年、(30)<ドナルド・プライア>(作出国)アメリカ、(作出者)プライア、(作出年)1939年、<小山内 健作出ローズガーデン>「京阪園芸」のローズソムリエ、小山内 健氏作出のバラのコーナーです。(31)<フィネス>★2017年(32)<だんじり囃2002>★2002年、(33)<トロピカル・シャーベット>★2003年(34)<アップルシード>★2000年、(35)<アッサンブラージュ>★2018年、(38)<ミルキーウェイ>★2004年、ーーー(39)<鏡花>(作出国)日本、(作出者)今井清(京阪園芸)、(作出年)2017年、(40)<アイスバーグ>(作出国)ドイツ、(作出者)コルデス、(作出年)1958年、(41)<真夜>(作出国)日本、(作出者)河合伸志、(作出年)2010年、(42)<岳の夢>(作出国)ドイツ、(作出者)コルデス、(作出年)2011年、(43)<ヨハネパウロ2世>(作出国)アメリカ、(作出者)ザリー、(作出年)2007年、(44)<ジルドゥブリサック>(作出国)フランス、(作出者)ドリュ、(作出年)2012年、(45)<恋結び>(作出国)日本、(作出者)竹内俊介、(作出年)2017年、(46)<ビバリー>(作出国)ドイツ、(作出者)コルデス、(作出年)1999年、(47)<ゴールドバニー>(作出国)フランス(作出者)メイアン、(作出年)1977年、(48)<ㇾヨン・ドゥ・ソレイユ>(作出国)フランス、(作出者)メイアン、(作出年)2015年、(49)<あおい>(作出国)日本、(作出者)國枝啓司、(作出年)2008年、(50)<夜来香(イエライシャン)>(作出国)日本、(作出者)青木宏達、(作出年)2013年、バラではない、本物の「夜来香」の花の画像は以下です。(「夜来香(トンキンカズラ)」の花)「夜来香」と云えば、歌好き人間のリュウちゃん、昭和19年に李香蘭(山口淑子)がレコーディングした歌を思い出します。この歌もリュウちゃんのカラオケのレパートリーなのです。<「夜来香」:唄:李香蘭(山口淑子)><李香蘭(山口淑子)>フ~、今回はやっと50種類のバラを紹介することが出来ました。バラの花は正に「千変万化(花)」ですね!帰路、公園の入口にあるエキスポシティの日本一の「大観覧車(オオサカホイール)」に初めて乗ってみました。天辺の高さ123m、「太陽の塔」が眼下に見下ろせるのだ!以下、「2025年関西のバラ園巡り(2)」に続きます。
2025年06月06日
閲覧総数 90
8
神話の鳥・白鳳のハートマークの尾羽に胸キュン!現代ポップアートの先駆「老松白鳳図」、遂に登場!(「動植綵絵」25番、「老松白鳳図」の尾羽の部分図)これまで2回に渡り紹介してきました伊藤若冲の「動植綵絵」も、いよいよ今回でラストになります。これまでリュウちゃんも殆ど無知だった若冲の「動植綵絵」ですが、このブログ作成に悪戦苦闘することにより、おぼろげではありますが、若冲の魅力の一端を垣間見することが出来たと思っています。例によりまして個々の図には、リュウちゃんの素人丸出しの下手な説明文を付けていますが、若冲をよくお知りの方は無視して下さいね。 -----{伊藤若冲「動植綵絵」全30幅その3}(21)「薔薇小禽図 (ばら しょうきんず)」→明和2年(1765年)頃の作、紅、うす紅、白の3種のバラの図に小鳥1羽、画面右上の斑点のある黒い塊は苔むした岩なのでしょうか?、江戸時代以前の日本画でバラの図は珍しいですね。(22)「牡丹小禽図(ぼたん しょうきんず)」→明和2年(1765年)頃の作、(21)の「薔薇小禽図」と一対をなす図と考えられています。両作共、花の中に小鳥が埋まってしまっていて、よく見ないのと小鳥が何羽いるのか、すぐに確認出来ないですね。こちらの図には2羽の小鳥が描かれています。(23)「池辺群虫図(ちへん ぐんちゅうず)」→明和2年(1765年)頃の作、水辺に実った瓢箪の周りに群れる蛙、蛇、蝶、トンボなど、この図には60匹もの小動物が描かれています。リュウちゃん、この図から「鳥獣戯画」を連想しました。(24)「貝甲図 (ばいこうず)」→明和2年(1765年)頃の作、「動植綵絵」初めての「海の図」、サンゴ、巻貝、2枚貝、、、いったい、何種の貝が描かれているのか、まるで博物学の精密画のようなリアルな貝類は、標本を見て描かれたのか? 江戸時代に描かれた図とは思えないようなリアルな図ですね。ここから「第3期」にはいります。これまでの「第2期」の作品は、宝暦11年(1761年)頃 - 明和2年(1765年)頃に制作されましたが、「第3期」の作品は、明和2年(1765年)頃 - 明和3年(1766年)頃に制作された作品です。(25)「老松白鳳図(ろうしょう はくほうず)」→中国神話に出てくる伝説上の鳥「鳳凰(ほうおう)」、この作品は「動植綵絵」を代表する大傑作だとリュウちゃんは思っています。若冲には「鳳凰」を描いた図が「老松白鳳図」を含め、少なくても4幅あります(「日出鳳凰図(にっしゅつ ほうおうず)」、「旭日鳳凰図(きょくじつ ほうおうず)」、2対から成る「孔雀鳳凰図」の一つ「鳳凰図」、そして「老松白鳳図」です)以下に「老松白鳳図」に先行する2幅を紹介します。★「日出鳳凰図」→「旭日」を背に華麗に飛翔する鳳凰を描いた「吉祥画」です(制作年代不明、ボストン美術館蔵)★「旭日鳳凰図」→若冲が画業に専念するようになった40歳の時に完成した作品、1つがいの鳳凰の尾羽は既にハート型になっています。さて、(25)の「老松白鳳図」です。「動植綵絵」シリーズ4作目にして最後の「老松図」であると共に、シリーズ8作目にして最後の「白い羽の鳥の図」、「動植綵絵」で追い求めた2つのテーマの集大成のような図だとリュウちゃんには思われました。鳳凰の白い羽は下塗りした金泥の効果で、見事に輝いています。羽の先端のハート型、この造形感覚は現代のポップアートそのものですね!手塚治虫の漫画に「火の鳥」という作品があります。「火の鳥」はエジプト神話に出てきますフェニックス(不死鳥)で、中国神話の「鳳凰」とは違うのですが、手塚治虫さんは「火の鳥」のキャラ(以下の図)を描くに当り、若冲の「老松白鳳図」を参考にしたのではないかとリュウちゃんは妄想しているのです(苦笑)(26)「芦雁図(ろがんず)」→凍てついた水面に真っ逆さまに落ちるような1羽の雁、画面上部いっぱいに描かれた「落雁」が不安と異様な感銘を観る者にもたらす図です。この「不安感」は、若冲が後継者としていた末弟の宗寂が急逝したことに関係があるとする説があるようです。(27)「群魚図(蛸)(ぐんぎょず たこ)」→マダコを含む16種類の海の魚が画面左下に向かって一直線に泳ぐ図です。海の魚の描写は、魚類図鑑のように正確、若冲が生まれ育った京都の錦市場の魚店で陳列されていた本物を見て描いたのかも知れませんね。上から2番目の魚は「鰹(カツオ)」ですが、腹に特有の横縞があります。このカツオの横縞は死んですぐ現れるもので、遊泳しているカツオにはこの縞が無いのだそうです(現代でも遊泳しているカツオを見る機会は稀ですので、この「間違い」は致し方ないですね)(28)「群魚図(鯛)(ぐんぎょず たい)」→(27)と一対をなす図、こちらは「鯛」が一番大きく描かれているので便宜上「群魚図(鯛)」と命名されたようです。(29)「菊花流水図 (きくか りゅうすいず)」→S字型に配置された流氷を背に、咲き誇る白菊の「若冲ホワイト」が印象に残ります。紅い菊の花の周りに遊ぶ小鳥たちは少し印象が薄いですね。これは「動植綵絵」第3期の特徴のようです。白い菊の花と画面下の突き出た岩が若冲の「男色」を暗示しているという説がありますが、どうなのでしょうか?(30)「紅葉小禽図(こうよう しょうきんず)」→第1回目に紹介しました(4)の「秋塘群雀図」と並ぶ2作目の「秋の図」、紅葉の枝にとまっている2羽の小鳥は、秋に南方に渡っていく「オオルリ」です。下のオオルリがとまっている紅葉の枝が「円い輪」になっているのが面白いですね、こんな枝、実際にあるのかな?以上で3回に分けて紹介させていただきました伊藤若冲「動植綵絵」は終わりです。永年憧れていました若冲の「動植綵絵」、今年の7月17日に京都・相国寺境内にある「承天閣美術館」の「生誕300年記念・伊藤若冲展」で一挙に観ることが出来ました。このブログを書き終える今、リュウちゃんの「動植綵絵」ベスト3は以下です。(1位)→(25)の「老松白鳳図」、(2位)→(20)の「群鶏図」(3位)→(9)の「老松孔雀図」3位以下の順位はその日の気分によって左右されそうですが、1位、2位は多分、永久に不動だと思っています。皆様のベスト3は如何でしょうか?このブログの最後に、最初にはりつけた「相国寺・承天閣美術館」での「若冲展」のポスターを再掲します。会場の「相国寺・承天閣美術館」へのアクセスは、京都市営地下鉄「今出川」駅下車徒歩8分です。尚、この「若冲展」は2016年12月1日(日)まで年中無休で開催されています。複製品ということもあり、殆ど待ち時間無しで入場出来ますので、興味を持たれた方はぜひ行ってみて下さいね。伊藤若冲の30幅の「動植綵絵」最高です!
2016年08月20日
閲覧総数 3358
9
ああ、リュウちゃんの永遠のマドンナ八千草 薫様が逝ってしまいました。リュウちゃんの「思春期」も終わりました。2019年10月24日、八千草 薫様が膵臓癌のためにお亡くなりになりました。享年88歳、年齢を重ねられても、何時までも娘時代と変わりないほんわかとした雰囲気と声を保ち続けていた稀有な女優さんでした。リュウちゃんが初めて薫様を観たのは、昭和36年にNHKで放映された単発テレビドラマ「三四郎」でした。このドラマは、夏目漱石の「三四郎」をドラマ化したもので、主人公の小川三四郎を石濱 朗(いしはまあきら)、三四郎のマドンナ・里見 美禰子を薫様が演じていました。何という美しい女性なのだ!何という上品な女性なのだ!何という可憐な女性なのだ!小川三四郎のマドンナは、このドラマ一発でリュウちゃんの「永遠のマドンナ」になったのです。このドラマ放送時に、薫様は30歳、リュウちゃんより15歳年上だったのです。残念ながらこのドラマの画像は、ネットにはありませんでしたので、後年リュウちゃんが衛星放送からコピーした1955年の映画「夏目漱石の三四郎」(中川信夫監督、山田真二主演)のテレビ画面から撮影した写真を以下に貼り付けます(綺麗に撮れませんでした。薫様には申し訳ない次第です)<映画「宮本武蔵」>八千草 薫様の代表作といえば、やはり1954年~1956年にかけて製作された稲垣 浩監督の「宮本武蔵三部作」です。この映画で薫様は、三船敏郎扮する武蔵をひたすら恋慕う「お通さん」を熱演されました。薫様芳紀23歳~25歳の時の名作です。尚、この映画の第1作は第28回アカデミー賞名誉賞(最優秀外国語映画)受賞しました。この映画の薫様の美しさは、以下の「予告編」でも十分に分かりますね。<映画「宮本武蔵」予告編> この映画が公開された時、リュウちゃんは8歳~10歳、小学校3年生~5年生でした。当時リュウちゃんは故郷の田舎の集落に毎月1回だけ来る「巡回映画」にハマていたのですが、ここで上映されるのは、大抵、東映のチャンバラ映画が殆どで、格調高い東宝映画は全くといっていい程、上映されませんでした。当時、ちょっとマセていたリュウちゃんは、主役の中村錦之助や東千代之助よりも、高千穂ひづるや桜町弘子、大川恵子などの「お姫様女優」により魅かれたのです。薫様の「お通さん」にお逢いしたのは、もっと先の話、だったのです。以下にネットから拾いました「お通さん」の画像を幾つか貼り付けます。<映画「旅はそよ風」>巨匠・稲垣 浩が「宮本武蔵」の1年前に製作したコメディ時代劇。この映画、リュウちゃんは未見なのですが、You-Tubeに以下の映像を見つけました。<映画「旅はそよ風」トレーラー>唄う薫様、素敵だ!薫様は元タカラジェンヌなので、当然、歌も歌える筈ですね。後出する映画「蝶々夫人」では、アリア「ある晴れた日に」を参考のために吹き込み、それを製作地のイタリアに送ったのだそうです。リュウちゃんは以前、「薫様の歌のレコード」をちょっと探したことがありましたが、残念ながらなかなか見つけることが出来ませんでした。でも、1曲だけ発見したのです!その歌は、1997年に日本コロムビアから発売された「SP盤復刻による日本映画主題歌集(11)戦後編(1953~1954)」というCDの10曲目に収録されていました。歌のタイトルは「旅はそよ風」映画に主演した大谷友右衛門とのデュエット曲だったのです。残念ながらYou-TubeにはUPされていませんでしたので、ここに貼り付けることは出来ませんが、興味のある方は上記CDをお買い求め下さいね。<映画「蝶々夫人」> (この写真は再掲)1954年公開、プッチーニの有名なオペラ「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」をそのまま映画にした日本・イタリアの合作映画で、撮影はイタリアの著名な「チネチッタ・スタジオ」で撮影され、薫様もこの映画の撮影のため、ローマに長期滞在しました。監督は「カルタゴ」、「ポンペイ最後の日」などで有名なカルミネ・ガローネでした。オペラ「マダム・バタフライ」を欧米の歌手で上演する場合、着物の着付けや日本の家屋などのセットがメチャクチャで、歌はともかく、日本人がこのオペラを観る場合、殆どはこの着物の着付けやセットのメチャクチャさに気を奪われて素直に楽しめない、という状況がありましたので、この映画は、そのあたりを正すために、薫様を蝶々夫人を演じてもらったという企画意図があったようです。尚、薫様はタカラジェンヌとして歌を歌う経験があったとはいえ、このタイトルロールを歌いきることは不可能と判断されたのか、薫様の歌うシーンはイタリアのソプラノ歌手・オリエッタ・モスクッチによって吹き替えられました。リュウちゃんがこの映画を観たのは、ごく最近です。衛星放送で放映されたものをDVDで録画して、やっと観るこのが出来ました(この時に上述の「三四郎」と「若い瞳」も録画することが出来ました)。以下に、テレビから撮った「蝶々夫人」の写真を何枚か貼り付けます(綺麗に撮れませんでした。薫様には申し訳ない次第です)リュウちゃんの映画の感想と致しましては、「薫様は期待通りの美しさだったが、吹き替えたモスクッチの「歌」と可憐な薫様とが全くシンクロせず、映画としてはガッカリ、声が細くても、アリアだけでも薫様本人が歌って欲しかった」です。(余談)チネチッタ・スタジオで「蝶々夫人」が製作される2年前、このスタジオではオードリー・ヘプッバーン主演の「ローマの休日」が製作されました。(オードリー・ヘプバーン)オードリー・ヘプバーンは昭和4年生まれ、薫様より2歳年上です。薫様がチネチッタで「蝶々夫人」を撮影した時の年齢は23歳頃、ということはヘプバーンがチネチッタで「ローマの休日を撮影した時の年齢も、23歳頃ということになりますね。リュウちゃんは高校生の時に劇場で「ローマの休日」を観て、一遍にヘプバーンのファンになりました。。この頃は薫様とヘプバーンはリュウちゃんの「2大ディーバ(女神)」だったのです。丸顔、つぶらな瞳、絵に描いたような清純無垢の容姿、若い頃の薫様とヘプバーンはよく似ている!<映画「男はつらいよ~寅次郎夢枕」>昭和47年に公開された「寅さんシリーズ」第10作目の映画です。薫様はこの映画で、マドンナの「お千代さん」を演じました。映画公開時に薫様は41歳。結果、歴代最年長のマドンナとなりました(第18作、「寅次郎純情詩集」のマドンナ、京マチ子は薫様より7歳年上なのですが、この映画は単一のマドンナではなく、壇ふみ演じる雅子先生との2人マドンナだったのです) <映画「男はつらいよ~寅次郎夢枕」トレーラー>例によりましてネットからお借りしました写真を貼り付けます。リュウちゃんは「寅さんの大ファン」で、この時期、公開された9作品は全て劇場で複数回観ていたのですが、憧れの薫様がマドンナを演じるとあって、勇んで公開初日にこの映画を観に行きました。この映画、劇場のスクリーンで初めて薫様にお目にかかった記念すべき映画になりました。「お千代」さんは寅さんの幼馴染、離婚して、「とらや」の向かいで美容院(寅に言わせれば「パーマネント屋」)を営む中年女性、小学生の息子がいるのですが、親権は相手方に渡っていて滅多に会えない、たまに息子が訪ねて来ても会える時間はほんの少し、会ったあと、涙をボロボロこぼして美容院に帰ってきますが、寅たちがそれを慰める、といったシーンが印象に残りました。役柄の上か、ちょっとやつれたメーキャップでの映画出演だったのですが、それでも歴代マドンナの中では「最高ランクの美女」なのでした。今年の年末、「男はつらいよ~お帰り寅さん」という新作が公開されます。 <男はつらいよ~お帰り寅さん」予告映像>山田洋次監督によれば、「お千代さん」もこの映画に登場するとのこと、寅さん大ファンのリュウちゃん、今から大期待して封切りを待っているのです。(余談)リュウちゃんに長女が生まれた時、薫さまの本名をそのまま平仮名にして命名しました。また長男が生まれた時には、「お千代さん」の息子の役名をそのまま命名したのです。<映画「田園に死す」>昭和49年に公開された寺山修司原作・脚本・監督による前衛映画です。 <映画「田園に死す」予告編>薫様はこの映画で、人妻「化鳥(けちょう)」を演じています。化鳥である薫様は、主人公の少年と「駆け落ち」するのですが、途中、別の男と「情死」してしまうのです。「化鳥」とは、「怪しい鳥」、「不気味な鳥」の意ですが、この映画の「化鳥」は泉鏡花の小説「化鳥」に登場する「羽の生えた美しいおねえさん」の意味だと思われます。狂人のような人ばかり登場するこの映画で、薫様の演じた「化鳥」は、正に一服の清涼剤、掃き溜めに鶴、のような感じがしました。<映画「ディア・ドクター」>2009年に公開された西川美和監督の映画、笑福亭鶴瓶の初めての主演映画、この映画は大変評判になり、同年のキネマ旬報の日本映画ベスト1位、日本アカデミー賞で10部門受賞など、数々の映画賞に輝きました。薫様はこの時78歳、薫様もこの映画で、毎日映画コンクールで助演女優賞をはじめ、数々の賞を受賞しました。<映画「ディア・ドクター」予告編>この映画で薫様は、映画の舞台となった小さな村で一人暮らしをしている未亡人、鳥飼かづ子を演じました。かづ子が鶴瓶ドクターの診察を自宅で受けるシーンで、リュウちゃんはウルウルしてしまいました。あのやんごとなき薫様がこともあろうに鶴瓶ドクターに胸をはだけて診察を受ける、何ということだ!薫様は、実年齢相応の未亡人を演じていたのですが、リュウちゃんは年零を超越した上品で清潔な女性の「色気」を感じてしまい、ために診察シーンでウルウル・ウロウロしてしまったのです。薫様の上品で清潔な色気は永遠に不滅なのだ!薫様の経歴を見ますと、「映画人」というよりは「テレビ人」なのですね。リュウちゃんは、テレビドラマは殆ど観ない人間なので、残念ながら薫様の出演したテレビドラマについては語る資格がありませんので、全て割愛いたします。<エッセイ「優しい時間」>1999年11月に発売された薫様の初のエッセイ集です。宝塚時代のこと、「蝶々夫人」の撮影で、イタリアに行った時のこと、夫の谷口千吉監督との山歩きのこと、愛犬のこと、、などを淡々と綴った50編のエッセイ集です。リュウちゃん、このエッセイ集は発売直後に購入し、今でも愛読しているのです。<朗読CD「きりんのなみだ」>2003年に発売した朗読CDです。このCDはリュウちゃんの在籍していたレコード会社から発売され、しかもこのCDをプロデュースしたのがリュウちゃんの一年先輩の畏友アッちゃんだったのです!薫様はこのCDのプロモートのため、一日だけ銀座の山野楽器本店の店頭でサイン会をされたのです。その時リュウちゃんは制作とは別のセクションに在籍していたのですが、デスクワークをホッぽり出して、サイン会を観に出掛けたのです。初めてお逢いした薫様、スクリーンと同じように清楚で可愛い女性でした!リュウちゃん、大感激!尚、サイン会の前にアッちゃんにお願いして、前出の「優しい時間」の表紙の裏に薫様の直筆サインを頂きました。この直筆サイン本、今ではリュウちゃんの「最高のお宝」なのです!薫様が歌っているCMを発見!下記の「皇潤 数え唄」です(映像は「田園に死す」から薫様の出演シーンをピックアップして使っています。やはり薫様の化鳥は美しい!)<皇潤 数え唄(皇潤CM)> 薫様の歌はひたすら優しい!リュウちゃんも「皇潤」飲んでみようかな?
2019年11月04日
閲覧総数 1197
10
昭和44年8月27日公開の記念すべき第1作、最初のマドンナは光本幸子さんだったのだ!(最初のマドンナ・坪内冬子さん~光本幸子) <始めに>本ブログを書くに当り、様々なネット記事を参考にさせて頂きましたが、特に、現在、葛飾柴又の帝釈天の前に住居兼アトリエをかまえて絵を描き続けておられる洋画家の吉川孝昭氏が平成15年に開設したホームページ「男はつらいよ・覚え書きノート」には本当にお世話になりました。(朝日新聞デジタル版に掲載された吉川孝昭氏) <吉川孝昭「男はつらいよ・覚え書きノート」トップページ> →ここをクリック上記HPの中に、<男はつらいよ 全48作「本編完全版」>というコーナーがあります。このコーナーは各作品を脚本に基き、詳細に語ったもので、吉川氏はこのコーナーにおいて、サイレント映画の「活動写真弁士」のような役割を果たされています。本ブログでは、各作品の冒頭に、吉川氏の各作品の「完全版」をリンクします。尚、リュウちゃんのブログに使う映画の場面の写真の殆ども、このコーナーからお借りしたことを申し添えておきます。<第1作「男はつらいよ」> <予告編>→ここをクリック。<吉川孝昭氏・本編完全版>ここをクリック⤴(データ)★公開日:昭和44年8月27日、★併映:「喜劇 深夜族」(渡辺祐介監督、主演:伴 淳三郎)、★観客動員数:526000人、★配給収入:1億1000万円、★キネマ旬報ベストテン第6位、寅さん29歳、さくら25歳、満男0歳、リュウちゃん22歳、(注1)寅さん、さくらさんの年齢につきましては、後述する<寅さんの年齢考>に基いています。(注2)「配給収入」とは:映画の興業では、「興行収入」と「配給収入」の2つの収入が表示されます。「興行収入」とは、文字通りその映画を観た人が支払った入場料金の総額です。「興行収入」の40~50%が上映劇場の「劇場収入」となり、残りの50~60%が製作・配給会社が「配給収入」として受け取ることになります。上記「男はつらいよ」第1作を例に挙げますと、興業収入=観客動員数(526000人)×入場料金(当時、大人一人450円、子供は約半額)となり大人料金のみで計算しますと、興行収入は2億2670万円となり、公表されている「配給収入」は、興行収入の約49%ということになります。<初代マドンナ、坪内冬子さん=光本幸子>記念すべき(?)、寅さんの最初のマドンナ(=失恋相手)です。柴又帝釈天題経寺の御前様(笠 智衆)の一人娘、寅さんの幼馴染、幼い頃、寅さんは彼女を「出目金」というあだ名を付けていましたが、成長した冬子さんは、幼時のあだ名とは反対に「小っちゃい目」の女性ですね。冬子さんは第1作では、ずっと和服での出演(その後、第7作「奮闘編」、第46作「寅次郎の縁談」でも和服で冬子さんを演じました)、これはちょっと不思議で、かなり現実離れしているなとリュウちゃんは後から思ったのですが、映画を観ている時には違和感は全く感じなかったのです。冬子さんを演じた光本幸子(みつもとさちこ)は、この映画公開時点で26歳、さくらさんを演じた倍賞千恵子より2歳年下です。幼年より舞踊家の六代目藤間勘十郎に師事、「男はつらいよ」に出演した頃には日本舞踊・藤間流の名取りとして「藤間勘十紫」という名前を持っていました(洋服よりも着物が似合う訳ですね)、また、小学生の時、初代・水谷八重子の目に留まり「新派」に入団、「男はつらいよ」第1作のクレジットには「冬子・光本幸子(新派)」と書かれています。(注)「新派」とは、明治時代から始まった演劇の一派で、「旧派」である歌舞伎に対し、新しい演劇のことを指す言葉であり演劇集団を指す言葉です。(「新派」の主な演目)★「婦系図」、「滝の白糸」(泉 鏡花)、★「不如帰」(徳富蘆花)、★「金色夜叉」(尾崎紅葉)、★「明治一代女」(川口松太郎)、など、今でこそ「男はつらいよ」のマドンナを演じた女優は、「歴史に残る映画女優」という地位が確立していますが、第1作製作当時には「ヤクザのマドンナ」なんて、誰も引き受ける映画女優は居なかったそうです。しかし、新派の光本幸子は松竹のオファーを快諾、かくして記念すべきマドンナ第1号といなり、映画史にその名を留めることになりました。因みに光本幸子は、これが映画初出演なのでした。また、光本幸子は、「清元節」の名取りでもあり、「 清元栄美幸」という名前を持っています。清元節は、三味線音楽の一つですが、語るような歌も入ります。光本幸子がレコーディングした歌謡曲を以下に挙げます。<「恋のお江戸の歌げんか」~歌・光本幸子&舟木一夫> 光本幸子さんの歌、ちょっと色っぽい!<ストーリー>(巻頭1)白黒映像と寅さんのナレーションで映画は始まります。<「男はつらいよ」~第1作オープニング>→ここをクリック、以下同様、このナレーションは重要です。寅さんの生い立ちや係累などが全てこのナレーションで語られます。以下、全文を文字起こしします。「桜が咲いております。懐かしい葛飾の桜が今年も咲いております。思い起こせば20年前、つまらねえことでおやじと大喧嘩、頭を血の出るほどブン殴られて、そのままプイと家をおん出て、もう一生帰らねえ覚悟でおりましたものの、花の咲くころになると決まって思い出すのは故郷のこと。ガキの時分、ハナタレ仲間を相手に暴れまわった水元公園や江戸川の土手や帝釈様の境内のことでございました。風の便りにふた親も秀才の兄貴も死んじまって、今、たった一人の妹だけが生きていることは知っておりましたが、どうしても帰る気になれず、今日の今日までこうしてご無沙汰に打ち過ぎてしまいました。今、江戸川の土手に立って生まれ故郷を眺めておりますと、何やらこの胸の奥がポッポと火照って来るような気がいたします。そうです。私の生まれ故郷と申しますのは、葛飾の柴又でございます」ナレーションの後、メインタイトルが画面いっぱいに表示されます。(巻頭2)寅さん登場 メインタイトルの後、最初のシーンとして江戸川の土手に座っている寅さんが初めて映し出されますこのシーンで、以後の作品でお馴染みになるナレーションが流れます。 わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します。このシーンの寅さんの服装に注目!いつも寅さんは縞の入ったダブルの背広の下には上下のダボシャツと腹巻、雪駄履きがノーマルな服装なのですが、初登場のシーンではダボシャツならぬワイシャツ、しかもネクタイ着用、履物も雪駄ではなく革靴を履いている!この時の服装は、寅さんが20年ぶりに故郷・葛飾柴又に帰って来た時の「正装」のようです。寅さんはきっと、この「正装」で故郷に帰れば、おいちゃん、おばちゃんなどに「立派な紳士」に見える筈だと思っていたのでしょうね。しかし、「テキヤの地(じ)」は正装で隠せるものではなく、すぐバレてしまうのです。冒頭で寅さんがホールイン寸前のゴルフボールを拾い上げて、プレーヤーにひょいと投げ返すシーンがあります。映画が公開された昭和44年当時は、日本でゴルフブームが絶頂に近くなった頃で、ネクタイを締めている紳士であれば、例えプレーしたことが無くても、ルールは殆どの人が知っていた筈です(リュウちゃんもプレーはしませんでしたが、大体のルールは知っていました) 一見、紳士に見える寅さんがゴルフのルールを全く知らなかった!このシーン一発で、寅さんが「似非紳士」だと分かるのです。リュウちゃん、このシーンを観て、「これは素晴らしい喜劇になる!」と確信したのでした。(題経寺の御前様との再会)柴又では折から「庚申の祭」、寅さんは纏を見事に操り、粋な姿を披露します。このシーン、まるで美空ひばりの「喧嘩纏」ですね。♪~纏持ちだよあの兄さんは 肩で風切る勇み肌~♪<美空ひばり「喧嘩纏」> そこへ題経寺の段上から御前様登場。(御前様)寅「御前様!御前様でしょ! おひさしゅうござんす。あっしですよ!寅ですよ!車平造のせがれの寅でござんす!ほれ、あのー、庭先に入り込んじゃトンボ取して御前様に怒鳴られた不良の寅でござんす」御前様「あー、覚えとる覚えとる」(「とらや」での20年ぶりのおいちゃん、おばちゃん、妹さくらとの再会)寅さんの仁義風の挨拶、近所の「御一統様」への挨拶に続き、妹さくらさんの話題になります。寅「ところで、ナニはまだかい?」おばちゃん「さくらちゃんかい?今日は残業なんだよ」寅「へえ、残業なんかやってんの?近所の、紡績の女工でもやってんのか?おいちゃん「とんでもねえ、さくらはキーパンチャだぜ」寅「キーパン???なるほどねえ???」(※)キーパンチャーとは、コンピューターで処理するためのデータをキー操作によりパンチングし、入力作業する仕事に従事する人のことです。日本でも、昭和30年頃からキーパンチャーが増え始め、昭和40年代には高校を卒業した女性の花形の職業だったようです。この時代、「キーパンチャー」という職業は普通の大人であれば誰でも知っていました。でも、寅さんは知らなかったのです。このシーン、冒頭のホールイン寸前のゴルフボールを拾い上げ、ボールを投げ返すシーンと同じように、「寅さん、ズレてる!」と思わせるシーンでした。(さくらさん登場)そんな話をしているうちに、さくらさんが帰って来ます。さくらさん、美しい!(さくらさん登場)おばちゃん「さくらちゃん、お帰り」寅「さくら!」さくら「ただいま」寅「さくら!」「おまえ、ホントにさくらかい?」「ほらほらほら俺だよ、この顔に見覚えねえのかい?」さくら「ねえ、この人、誰なの?」おばちゃん「やだよ、まだわかんないのかい」おいちゃん「よく見ろよ!」寅「いいんだ、いいんだ、無理はねえ。 五つや六つのちっちゃいガキの頃にほっぽりだして それっきりだ、フッ、親はなくても子は育つっていうが、 でかくなりやがった」さくら「お兄・・・ちゃん?」寅「そうよ! お兄ちゃんよ!」20年ぶりの寅さんとさくらさんの再会シーンは感動的でしたね。でも、その後、寅さんは「ションベンしてくらあ~」と言って、すぐ横にトイレがあるにも拘わらず、裏の庭で立小便をします。これもカタギの人間では考えられない行為です。立小便をしながら、寅さんは、♪~泣~く~な~妹よ~妹~よ~泣くな~♪と歌を大声で歌います。この歌、昭和12年にディック・ミネの歌唱で発売された「人生の並木道」という歌謡曲です(詞:佐藤惣之助、曲:古賀政男) <ディック・ミネ「人生の並木道」>1番の歌詞は以下です。♪~泣くな妹よ 妹よ泣くな泣けば幼い二人して故郷を捨てた甲斐がない~♪歌詞では、「妹と2人で故郷を捨てた」となっていますが、寅さんの場合は、「引き留める妹を振り切って1人で故郷柴又を捨てた」のですね。寅さんの心の中では、放浪中、ずっと妹さくらちゃんのことを不憫に思っていたので、この歌はさくらちゃんの「応援歌」のような歌としていつも口づさんでいたのかも知れません。数ある古賀政男の歌の中でも、名曲中の名曲の一つだと思っています。話は変わりますが、「男はつらいよ」第1作が公開された1年前の昭和43年にビクターレコードから<影を慕いて/森 進一>という12曲入りのLPレコードが発売されました。このレコードには、コロムビア専属の大作曲家・古賀政男の名曲12曲が収録されています。「人生の並木道」はB面の最初に収められていて、当時、このアルバムの中でもピカイチの「絶唱」と評されました。昭和44年にビクターレコードに入社したリュウちゃん、このLPを買って愛聴しました。中でも「人生の並木道」は涙ウルウルで聴いたのです。以下に昭和43年に森 進一がステージで歌ったYou-Tubeを貼り付けます。<森 進一「人生の並木道」>(さくらさんのお見合い)このシーンも抱腹絶倒なのですが、写真のみ2枚掲載し、詳細は省きます。この「お見合い」は寅さんのせいで「大失敗に終わったのです。(寅さんの仁義)寅さんの商売は、街頭に茣蓙を敷き、その上に様々な商品を並べて、威勢のいい「啖呵売」の口上で物を売る「テキ屋」(香具師)です。テキ屋はヤクザの組織の末端にあり、寅さんもヤクザの末端の一人です。この映画では、地元のテキ屋の親分に仁義を切るシーンが出てきます。このシーン、当時、数多く製作された東映の任侠映画を彷彿させます。以下、上掲のシーンで寅さんが切った「口上」を書いてみます。「わたくし、生まれも育ちも東京葛飾柴又です。姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します。皆様ともどもネオン、ジャンズ高鳴る大東京に仮の住居まかりあります。不思議な縁持ちましてたったひとりの妹のために粉骨砕身、バイに励もうと思っております。西に行きましても東に行きましても、とかく土地土地のおあにいさん、おあねえさんに御厄介かけがちなる若造でござんす。以後見苦しき面体お見知りおかれまして、恐惶(向後)万端引き立って、よろしくお頼み申します」寅さんが地元のテキ屋の親分に仁義を切るシーンは、全48作品の内、これ1回だけなのです。第1作の前半では、寅さんはかなり濃厚に「ヤクザ」の雰囲気を持っていましたが、第1作の後半~第2作以降ではこの雰囲気はどんどん薄れて行くのです。(舎弟・登登場)<寅さんと舎弟・登(津坂匡章)>ここで寅さんが初めて本業の香具師(やし)の啖呵売をします。<寅さんの啖呵売>(寅さんの大喧嘩と柴又出奔)寅さんはさくらさんの「お見合い」の失敗をおいちゃん達になじられて、柴又を出奔してしまいます。このシーンも下記の動画でお楽しみ下さいね。<寅さんの大喧嘩と柴又出奔> (マドンナ登場)寅さんが、おいちゃん、おばちゃん、さくらさんと大喧嘩して柴又を出奔して一か月後、帝釈天の御前様のお嬢さん、坪内冬子さんから「とらや」に速達が届きます。そこには寅さんの消息が書かれていました。(冬子さんの速達のナレーション)「前略皆様、お元気ですか、奈良滞在も3ヶ月近くなりますが、ようやく健康も回復し、迎えに来た父と共に帰郷をすることとなりました。ところが今日、父を案内しての見物の途中、珍しい人に偶然会い、びっくりしました。今思い出すと、なんだか可笑しくなってしまいます」冬子さんは奈良で3ヶ月、病気療養をしていましたが、健康を回復し、父の御前様と奈良ホテルに泊まり、奈良観光をしていました。最初に行ったのは斑鳩町の「法起寺」(ほっきじ)と「法隆寺」、(法隆寺西大門のシーン)(法隆寺西大門) 「男はつらいよ」の最初のロケ地は、リュウちゃんの家から徒歩4分の法隆寺西大門だったのだ!寅さんファンとして、ちょっと感激!(寅さんとマドンナの出会い)御前様と冬子さんは、東大寺二月堂の舞台で休憩しています。そこへ外国人夫婦を連れた寅さん登場、寅さんが御前様に気付き、挨拶をします。寅「あ!御前様!こりゃ、どうもどうも!いや、どうもお久しぶりでございました。あの節はどうもお世話様になりまして、ヘヘ…、また、なんです?、こんなところへ?民情視察ですか?」(二月堂、寅と御前様)寅さん、御前様の横に座っている冬子さんを見て、寅「あ…、どうも御前様、なかなかスミに置けませんね。こんな綺麗な方とお楽しみを…、それじゃ、わたくし…」御前様「バカ!娘だ!ほら、忘れたのか?おまえが出目金とあだ名をつけてよくいじめとった冬子だ!」寅「はあ~、出目金!」冬子「ええ、覚えてるわ。寅ちゃんでしょ。 ちっとも変わらない、おんなじ顔」ここから奈良公園の「浮見堂」での御前様の「バターギャグ」までは以下の動画の1分21秒までをご覧ください。 <「男はつらいよ」~マドンナ(1~4):0秒~1分21秒>(※)御前様のバターギャグは秀逸でした。この「ギャグ」は普通のアチャラカ喜劇のギャグと違い、御前様は大真面目で、写真を撮られる時には、「バター」と言って口を開けるものだと勘違いしていたのですね。この「勘違い」が、映画を観る「常識人」にとりましては「ギャグ」だと勘違いして大爆笑になりました。「常識人」ではない寅さんも、この「勘違い」は分からなかったのです。このギャグは、さくらさんの結婚式で早速、寅さんによって使われます。また、第9作「柴又慕情」でも、吉永小百合演じる歌子ちゃん達と仲良くなるきっかけになったのが、このギャグだったのです。御前様の「バターギャグ」が出た奈良公園の浮見堂は、リュウちゃんのブログでもよく出てきます。以下、以前のブログでアップした「浮見堂」の写真を1枚貼り付けます。(浮見堂) 奈良公園の浮見堂、御前様のバターギャグで不滅になったのだ!(寅さんの柴又帰還) 結局、寅さんは御前様・冬子さんと一緒に柴又に帰還します。やっぱり寅さんは冬子さんに一目惚れ!?(博の愛の告白)「とらや」の裏の印刷工場に勤めている諏訪 博(前田 吟)は、秘かにさくらさんを愛しているのですが、寅「あいつは大学出のサラリーマンと結婚させるんだい。手前らみたいなナッパ服の職工には高嶺の花だい!分かったか!わかったらこのへんウロウロウロウロするなよ!嫁入り前の娘がいるんだから、帰れよッ!」と暴言を吐くので、寅さんと対決します。(屋形船の中で寅さんと博の対決)寅「オウ!文句あんのか!!」博「大学も出てない職工にはさくらさんを嫁にやれないって言うのか!!」寅「おう、当たり前よ!文句あんだったら腕で来るか!」博「じゃあ聞くけどな」寅「なんだい!」博「あんた大学出か?」寅「?」博「もし、仮にあんたに好きな人がいて、その人の兄さんがお前は大学出じゃないから妹はやれないって言ったらあんたどうする?」寅「なになに?俺に好きな人が居て、その人に兄さんが?バカやロウ、いるわけないじゃないか!冗談言うない!」この対決の会話は秀逸ですね。寅さんの「いるわけないじゃないか!」は、勿論、冬子さんには兄さんがいない一人娘であることを念頭に置いた発言です。ここでも寅さんは冬子さんに惚れていることを暗に告白しているのです。、、、、寅「じゃあ、てめえ、(さくらに)惚れてねえって言うのか?」博「いえ、惚れています」寅「じゃあどうなんだよ!ええっ? はっきりしろよっ!お前」博「ですからその親兄弟も居ないも同然だし、大学も出ていないから…」寅「おい、こら、青年、お前大学は出ないと嫁はもらえないってのか?ああ、そうかい手前はそういう主義か」先程まで「大学も出てりないナッパ服の職工には、さくらは嫁にやれない」と言っていた寅さんが、コロっと変わって「こら、青年、お前大学は出ないと嫁はもらえないってのか?」と180度違った発言をする、この辺の「いいかげんさ」が寅さんの「困った点」でもあり、「愛すべき点」でもあるのですね。寅さんは中学校中退の学歴、それが「高嶺の花」である冬子さんに惚れてしまった。冬子さんへの片想いが成就する筈がないことを暗示する台詞だったようにリュウちゃんには思われました。で、博と意気投合した寅さんは、ある飲み屋で博に「恋の手ほどき」をします。寅「要するに女をつかむのは目だよ、、、、すっと流すんだよ、そうすっと女のほっぺたにも電波がビビビビビ~っとかんじるんだよ、、、その時ぱっちっと眼をあわしたら、この目をくっと絡ませるんだ、そして訴えるような、すがえるような、甘えるような目でジーッと見るんだよ、、、そこでもう一押し!目にものを言わせるわけだ」(目でアイ・ラブ・ユー)寅さん、博に向かって目をパチパチ、何やら場末のバーのオカマのようで、ちょっと不気味です。寅「言ったろ?」博「何をです?」寅「バカヤロウ! アイラブユーだよっ!」ここで周りの客、大爆笑!(寅さん、水元公園で冬子さんとボートに乗って初デート)寅さん、ボートを漕ぎながら冬子さんに向かって目をパチパチ、冬子さん「どうしたの?目にゴミでも入ったの?」寅さんの「お目々でアイ・ラブ・ユー」作戦は見事に失敗に終わったのです。 (博の愛の告白)博は寅さんにさくらさんへの「愛のキューピッド役」を頼むのですが、寅さんの対応がいい加減でメチャクチャなので、うまくいきません。そこで、博はさくらさん、おいちゃん、おばちゃんが談笑している「とらや」の居間の前に立ち、一世一代の愛の告白をします。(博の愛の告白)さくら「どうしたの?博さん」博「僕の部屋からさくらさんの部屋の窓が見えるんだ。朝…、目を覚まして見ているとね、あなたがカーテンを開けてあくびをしたり、布団を片付けたり、日曜日なんか楽しそうに歌を歌ったり、冬の夜、本を読みながら泣いてたり、、、あの、、、工場に来てから3年間、毎朝あなたに会えるのが楽しみで、考えてみればそれだけが楽しみでこの3年間を、、、僕は出て行きますけどさくらさん幸せになってください、さようなら」この博の告白、感動的です!リュウちゃん、このシーンは何度観ても涙ウルウルになるのです。結局、出て行った博をさくらさんは追いかけ、婚約することになります。(さくらさんと博の結婚式) 博とさくらさんは、柴又の川魚料理の創業220年の銘店「川甚」で結婚披露宴を行います。司会者を演じるのは、渥美 清の盟友「関 敬六」、彼は渥美 清と同じ昭和3年生まれのコメディアンで、寅さんシリーズでは様々な役を演じました。この披露宴に、初めて博の両親が登場します。司会者などに渡された博の父親の名刺には「北海大学農学部名誉教授・諏訪颷一郎」と書いてありました。「飈一郎」、誰も読めない!風偏に「火」が3っつ、何と読むんだ??映画の中では、結局、この読み方は判らなかったのですが、リュウちゃんは後で脚本や解説本を読み、この名前は「ひょういちろう」であることが判明しました。因みに、「飈」という漢字は、音読みでは「ひょう」、訓読みでは「かぜ」、「つむじかぜ」。「みだ(れる)」と読み、意味は「吹き上げる激しい風」、「つむじ風」、「乱れる」、「荒れ狂う」なのだそうです。この名前は司会者も仲人のタコ社長も読めなかったので、皆、ごまかして「すわ、、うんいちろうさん」と博の父親を紹介するというギャグが3回でてきます。この辺のギャグと、その後の父親の謝辞につきましては、下記の動画をご覧ください。<さくらさんと博の結婚式の動画>紹介の後、父親の飈一郎から謝辞が述べられます。飈一郎を演じたのは、黒澤 明監督の「生きる」、「七人の侍」などでで世界的に著名な名優「志村 喬」(しむらたかし)です。以下、この謝辞を文字起こしします。飈一郎「、、、、本来なら新郎の親としてのお礼の言葉を申さねばならんところでございますがわたしども、そのような資格のない親でございます。しかし、こんな親でも、何と言いますか、親の気持ちには変わりがないのでございまして、、、実は今日私は8年ぶりに倅の顔を、、、みなさんの温かい友情とさくらさんの優しい愛情に包まれた倅の顔を見ながら、親として私はいたたまれないような恥かしさを、、、いったい私は親として倅に何をしてやれたのだろうか、、なんという私は無力な親だったか、、、隣におります私の家内も同じだったと思います。この8年間は…私ども2人にとって長い長い冬でした、、、そして、今ようやく、みなさまのお陰で春を迎えられます。みなさん、ありがとうございました。さくらさん…、博をよろしくお願いいたします」この飈一郎の謝辞、寅さんも博も感激で涙ウルウル、リュウちゃんもまた涙ウルウルになったのです。「男はつらいよ」第1作は、大爆笑の後に「涙ウルウル」、また大爆笑の後に「涙ウルウル」という繰り返しが波のようにリズミカルに襲ってきます。「男はつらいよ」第1作は笑いと涙のリズミカルな繰り返し、により歴史に残る喜劇映画の傑作になった!とリュウちゃんは思っているのです。(寅と冬子さんの2度目のデート)さくらさんと博が新婚旅行に行き、寅さんは冬子さん目当てに「寺通い」をします。ある日、冬子さんから、「ねえ、寅ちゃん、憂さ晴しにどこかへ遊びに行きましょう」と誘いを受け、2人で品川区の「大井オートレース場に出掛けます。(大井オートレース場の寅さんと冬子さん)オートレースで2000円(現在の価値に直すと1万円くらい)勝った冬子さん、寅さんを誘い、蒲田にある焼き鳥屋に入ります。(焼き鳥を食べる寅さんと冬子さん)焼き鳥屋に入る直前から、北島三郎の「喧嘩辰」が有線(?)で流れてきます。店内でも流れているのです。<北島三郎「喧嘩辰」>柴又への帰り道、ほろ酔いの冬子さんは「喧嘩辰」の3番を歌い始めます。♪~こ~ろ~しいたいほ~ど~惚れて~は~い~た~が~ゆ~び~もうふれず~に~わか~れ~た~ぜ~♪<冬子さん、「喧嘩辰」を歌う> 冬子さんの口ずさむ「喧嘩辰」、さすがに清元の名取りだけあって、色っぽくていいですね!題経寺の裏木戸で、冬子「じゃあ寅ちゃん、さようなら」寅さんが持っていた冬子さんのバッグを渡すと、裏木戸から冬子さんの白く細い手が伸びて来て、寅さんと握手します。マドンナの手を握った!「お目々のアイラブユー」は失敗したが、「お手々のアイラブユー」は大成功!??? 寅さん、すっかり舞い上がってしまうのです。冬子さんは俺に気がある!哀しい「勘違い」なのですね、(寅さんの失恋)<寅さんの失恋>2回目の「デート」から数日後、寅さんは冬子さんと江戸川に「魚釣り」に行く約束をしたので、麦藁帽子をかぶり、釣り具セットを持って、冬子さんを誘いに題経寺に行きます。そこで寅さんが見たものは、冬子さんと紳士が仲睦まじく談笑している光景、ガ~~~~ン!寅「あっ、お客さんですか?」冬子「あ、ごめんなさい、今日お約束してたんだったわねえ」寅「いいえ、いいんです」寅さん、すごすごと退散するのですが、途中で御前様と出会います。御前様「帰るのか?」寅「へえ、あのー…ご親戚ですか?」御前様「うん、これから親戚になる男だ」寅「ええ!」御前様「つまり、冬子の婿にな」ガ~~~ン!!!まるで絵に描いたような突然の失恋、残酷な結末ですね。万年失恋人間だったリュウちゃんも、こんな無残な失恋には耐えることが出来なかっただろうと思っています。「男はつらいよ」第1作は、大方のファンは「喜劇」だと思っている筈ですが、リュウちゃんにとりましては、「男はつらいよ」第1作は大悲劇なのだ!という思いなのです。今回のブログのラストに、「寅さんの年齢」についての考察を書いてみました。<寅さんの年齢考>第1作の冒頭、寅さんのナレーションが流れます。「桜が咲いております。懐かしい葛飾の桜が今年も咲いております。思い起こせば20年前、つまらねえことでおやじと大喧嘩、頭を血の出るほどブン殴られて、そのままプイと家をおん出て、もう一生帰らねえ覚悟でおりました~、、、、」以上のナレーションによれば、寅さんは10代の頃、柴又を出奔し、出奔してから20年目に柴又に帰郷したという設定になっています。では、何歳の時に出奔したのか?「第10作「寅次郎夢枕」には、以下のような「おいちゃん」の台詞があります。「え~、柴又尋常小学校を卒業しまして、それから葛飾商業を、ええ、こちらのほうはすこし早めに卒評しまして、、、、」★尋常小学校は、昭和16年3月31日まで存在した日本の初等教育機関の名称です(昭和16年4月1日から「国民学校」と改称されます)。尋常小学校は、現在の「小学校」と同じ「6年制」で、卒業時の年齢は、12歳です。★葛飾商業→「葛飾商業」をネット検索しますと、現存する「東京都立葛飾商業高等学校」が出て来て、ウィキペディアには、「なお、架空の人物であるが映画「男はつらいよ」の主人公・車寅次郎が本校中退という設定がある」という記述がありますが、これはガセネタですね。現存する葛飾商業高等学校の創立は昭和37年ですので、寅さんが在籍している筈がないのです。この台詞で出てくる「葛飾商業」とは、旧制の商業学校のことで、入学資格者は尋常小学校卒業程度、就業年齢は2年~4年だったようです。つまり現在の中学校に相当する「職業学校」だったようです。おいちゃんの台詞によれば寅さんは葛飾商業を中退したということになっていますので、寅さんが中退したのは、13~15歳の頃となりそうです。★以上から寅さんの第1作(昭和44年公開)当時の年齢を推定しますと、尋常小学校卒業はどんなに遅くとも昭和16年3月、この時点で12歳だとすれば、寅さんの誕生年は、どんなに遅くとも昭和4年ということになります。とすれば、第1作公開時の昭和44年には、寅さんは40歳ということになりますね(渥美清は昭和3年生まれですから、寅さんの年齢とほぼ一致します)★ところが、寅さんがこの時点で40歳だとしますと、辻褄の合わないことが出てきます。それは、妹さくらの年齢です。昭和44年公開の第1作で、さくらさんの年齢は何歳だったのか?さくらさんは第1作では、高校を卒業し、丸の内にオフィスがある一流企業「オリエンタル電機」にキーパンチャーとして勤務しています。最初に「とらや」で寅さんと再会するシーンの写真を見ますと、どう考えても25歳前後ですね(倍賞千恵子は昭和16年生まれですから、第1作公開時の実年齢は28歳です)。仮にさくらさんの年齢を賠償さんの実年齢と同じ28歳(恐らく上限ギリギリ)としますと、それでも寅さんとの年の差は12歳、寅4さんは14~15歳の頃、父親と大ゲンカして柴又を飛び出したのですが、その時のさくらさんの年齢は2~3歳ということになり、第1作に出てくる子供時代の寅さんとさくらさんの写真のようにはなりませんね。(少年時代の寅さん)(上記、少年時代の寅さんと同じ写真に写っている少女時代のさくらさん)第2作、「続・男はつらいよ」の冒頭の夢のシーンでは、寅さんのおふくろさんは、「38年前、玉のような男の子を生んだ」という台詞が出てきます。これだと第2作の時点で、38歳という事になります。更に、第1作から11年後の昭和55年の公開された第26作「寅次郎かもめ歌」では、寅さんが夜間高校に入学しようとして、入学願書を書くのですが、この入学願書で寅さんの生年月日が判明します。入学願書によれば、寅さんの生年月日は、昭和15年11月29日、願書を書いた時の年齢は、満40歳!これが正しいとすると、昭和44年公開の第1作の時点では、寅さんの年齢は「29歳」ということになりますね。これだとさくらさんの年齢差は1歳~5歳くらいになり、上記の2人の年齢差に合致しそうですが、そうすると寅さんが小学校を卒業した12歳の時は昭和27年ということになり、「尋常小学校」卒業とはなりません。「男はつらいよ」の年代は第1作のラストで生まれた満男君の成長で辿ることが出来ます。例え寅さんが映画の中では歳を取らない設定になっていたとしましても、満男君の成長は「年代時計」になっていますので、寅さんだけは歳を取らないという設定は「無理筋」なのです。まあしかし、この「無理筋」は、48作も続いたシリーズではやむを得ないのではないかとリュウちゃんは思っています。で、このブログでは、シリーズ第1作時の寅さんの年齢を29歳とし、さくらさんの年齢を25歳として記事を書いていきます。当初、一回のブログで、5人くらいのマドンナを採り上げるつもりだったのですが、第1作がリュウちゃんにとりましては余りの傑作であり、しかもレギュラーの登場人物をきちんと紹介したいと思いましたので、ついつい長大なブログになってしまいました。次回からは一回のブログで数人のマドンナを採り上げたいと思っているのですが、如何なりますことやら?最初のマドンナを演じた光本幸子さんは、平成25年、食道がんのため、69歳で亡くなられました。佳人薄命、合掌。(以下、<映画「男はつらいよ」、寅さんのマドンナ遍歴(2)>に続きます)
2020年02月28日
閲覧総数 4048