『スターリン批判 1953~56 年』和田春樹 作品社 2016 年
500 ページ近い大冊。 1953 年 3 月 5 日午後 9 時 50 分にスターリンが死ぬ。そして紆余曲折を経て 1956 年 2 月 14 日にソ連共産党第 20 回党大会が開催される。大会 3 日目の 16 日にミコヤンがスターリン批判演説を行い、 25 日の大会最終日に秘密会でフルシチョフが秘密報告を行う。
この第 20 回党大会に関する記述は第 7 章 P283 から P316 まで。
つまり、前半の約 300 ページを使って、スターリン批判をいかに行うかが検討されたかの経過の分析がある。まず、古参ボリシェヴィキの要求によりスターリンの命令によって処刑あるいは流刑にあった人たちの名誉回復が図られる。
「スターリン批判をいかに行うか」は、大会直前まではっきりとは決まっておらず、原案はある程度集団討議で決まったようだが最後はフルシチョフの判断で行われたようである。
各国共産党にその内容がいかに伝えられたか、「スターリン批判」はそののちソ連共産党内部でどうなったか、これは第八章 (P319~P400) 。
秘密報告は、朗読という形で各組織の党員、非党員に伝えられている。
それに対する各地、各組織、各国での反応が記される。
スターリンの生地。「グルジア共和国の首都トビリシでは、スターリンの命日の 3 月 5 日に、午前 10 時ごろ、市の中心部にあるスターリン広場に立つスターリン像に向かう、 150 人ほどの青年学生の追慕行進がみられた。行進は、スターリンの肖像と花輪を掲げていた。彼らは、道で出会う人々に脱帽して敬意を表せと要求し、さらに自動車の運転手には警笛を鳴らすことを求めた。 ( 中略 ) 運動は一層激化した。「政権交替を実現せよ」「ミコヤン、フルシチョフ、ブルガーニンを追放せよ」・・などの要求が出された。」 P322~3
結局この「反乱」は武力によって弾圧される。
著者は以下のように記している。
「この反乱は、盲目的なスターリン崇拝で育てられた人々が、グルジア・ナショナリズムの感情にかられてモスクワの国家権力に怒りを爆発させたものだと見ることができよう」 P323 。
この本の中で著者が意識的にその動きを紹介しているのは『歴史の諸問題』という歴史家の雑誌である。
彼らは長年にわたって、「権力に奉仕するための歴史叙述」を行う事を強いられてきた。第 8 章の中でも『歴史の諸問題』誌に結集する歴史家たちの運命が記されている。
ここで初めて知ったのだが、ゴルバチョフが提唱して有名になった「ぺレストロイカ」という言葉は、実は「改革」という意味で 1920 年代から使われていたようだ。そしてこの時も盛んに使われている。
3 月 29 日に発行された『歴史の諸問題』には、以下のような文章が掲載されている。
「ソ連の歴史家たちは、 20 回党大会の歴史的な決定の光に照らして、自分の仕事をペレストロイカしつつある。このペレストロイカは一つの極論を避けて、別の極論にいたるというようなことを意味しない。引用をやめて、個人名を削るということが個人崇拝の克服ではない。大事なのは歴史過程と個人の役割の真実にそくした、マルクス主義的解明なのだ。歴史家の仕事のペレストロイカは深く、有機的で、思慮あるものでなければならない。それは速攻戦ではありえない。・・・・成熟した問題の正しい解決は、何よりもまず歴史家の集団的努力の結果として、自由な意見交換、創造的討論、真剣な学問的研究のまとめとして、可能になるのである。」 P327 。
その他の論文も、それまでタブーとされていた諸問題にふれている。
そして、各地から、「スターリン批判」に対する疑問、質問が山のように寄せられるようになった。
「すべての誤りをスターリンのせいにするのが、個人崇拝ではないのか」。
「私は女教師です。私の生徒たちは私に質問します。「どうしてスターリンの生きているうちに、誰も彼の誤りのすべてを認識しなかったの。なぜなの」。私はどう答えて良いか、わかりません。助けてください」。
1945 年 8 月 15 日にポツダム宣言受諾つまり日本の敗戦という事実が天皇によって伝えられた時、「なぜ私が生きていて戦争が終わるのか。指導者の人たちは「一億玉砕」と言っていてなぜ生きているのか」「「生きて虜囚の辱めを受けず」と言っていた東条さんはじめ軍のえらいさんはなぜ生きているのか」という問いは大きな規模で発せられることはなかった。
当時の記録の中には、もちろん責任を問う声もある。しかし圧倒的多数は、「その日その日を生きるのに必死だった」という声である。
赤軍では、ジューコフが、「軍人要員に対するスターリンの疑い深さが、戦力に巨大な害をなした」。「特に方面軍司令官・軍司令官の養成はひどい状態だった」。と秘密報告を肯定している。
スターリンは、ヒトラーとの間の「独ソ不可侵条約」を信じ続け、同じようにヒトラーもそれを信じていると考えて、「ヒトラーを出し抜いた」と考えていたようだ。スターリンは、 1937 年から 38 年にかけて赤軍の元帥 5 人のうち 3 人、司令官級 15 人の内 13 人、軍団長級 85 人の内 62 人、師団長級 195 人中 110 人。大佐以上の高級将校の 65 %が「粛清」されている。
彼は、自ら作り出したこの惨憺たる状況に照らして、「今ドイツとことを構えるのはまずい」と考えたようで、ソ連のスパイ、或いは他国の共産党からの警告(ドイツ軍がソ連に攻め込もうとしている)をすべて無視、ポーランド分割によって国境を接することとなった最前線の赤軍部隊に対してはわざわざ「挑発に乗るな」という命令を出している。
「 1941 年 6 月 22 日、午前 3 時 15 分、ナチスドイツはソ連邦への侵略を開始したのである。総兵力はおよそ 330 万」。『独ソ戦』大木毅 岩波新書 p 35
「その弱体さがもたらした災厄には、すさまじいものがあった。ドイツ中央軍集団の矢おもてに立ったソ連西正面軍には、開戦時に 62 万 5000 の兵力があったが、 7 月 9 日までに 41 万 7729 名の戦死者、戦傷者、捕虜を出し、戦車 4790 両を失っている」。同書 P46 。
そして彼がラジオを通じて国民に向かって「祖国戦争 侵略者に対する国民の聖戦」を宣言したのは 7 月 3 日であった。『赤いツァーリ』ラジンスキー NHK D出版 ( 下 ) P 287
この 11 日間、彼は何をしていたのか ? 崩壊した赤軍を罵り、誰が自分を騙したのか、犯人は誰なのか・・・。彼は怒り狂い、罵り、そしてやっと正気に返ってマイクの前に立つ。
この祖国戦争、後に「大祖国戦争」と呼ばれる戦争を勝利に導いたという結果が、スターリンの権威を確固たるものとする。
ソ連国内でスターリン批判以後もスターリンを完全に否定できなかったのは、この「功績」である。
ソ連国内で徐々に強まったのが、スターリン擁護の声である。批判の急先鋒であった人々は発言に注意するように強いられる。近隣諸国、特にハンガリーで起こったスターリンに屈従して国民を強権的に取り締まった政治家に対する 10 万人のデモは激しく鎮圧され、「ハンガリー暴動(動乱)」というレッテルが貼られてソ連軍が出動する。
この事態について著者が各章ごとにその日記を引用しているモスクワ大学史学部教授ドミトリエフは、以下のように記している。
ロシア人であることは恥ずかしいことだ。たとえハンガリー人を鎮圧しているのがロシア人民ではないとしても、ソ連の共産党政権であるから恥ずかしいのだ。しかし、ロシア人民は沈黙している。奴隷の民のように振舞っている。他国民を鎮圧する国民は自由ではありえないと言った良き人々がかつていた ( チェルヌイシェフスキーを指す ) 。ロシア人民の名とその血により、どす黒い流血の惨事がなされている。でも人民は沈黙している。その良心は眠っている。その意識は欺かれている。彼らの中にはこのどす黒い惨事に反対する抗議の声がないのだ」。 P388 。
今のロシア国民に対しても同じことが言えはしまいか。
そしてフルシチョフは、 1957 年の 1 月 7 日、以下のように演説した。
我々はスターリンを批判したが、それは彼がお粗末な共産主義者であるからではない。彼を批判したのは若干の逸脱、否定的な性質のゆえであり、重大な誤謬を犯したからである。しかし誤謬を犯しながらも、適法性違反を犯しながらもスターリンは革命の獲得物、社会主義の大義を擁護するためだと確信していたのである。基本的な点では、主要な点では、一人一人の共産主義者がスターリンが闘ったように闘ってほしいと思っている。 P396 。
取って代わられはしまいかという猜疑心、自分の思い通りにならぬといういらだち、自分の命を狙っている者がいるという不安… 2000 万人ともいわれる人々を殺害したことが「若干の逸脱」で済まされたところに、その後のソ連、ロシアの悲劇があった。
プーチンは言っている。「スターリンの時代は、強制収容所だけではない」。そしてロシア国民は、プーチンによるウクライナ侵攻を止められないでいる。
「他国民を鎮圧する国民は自由ではありえない」。「ロシア国民であることが恥ずかしい」と言う人々はいる。しかし彼らは鎮圧され、拘束されて、国外に逃亡する者もいる。国内にとどまってプーチンを批判する人たちは孤立している。
日本の現状を見るにつけ、この本から学べることは多いと読み終わって考えている。
Comments