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2014.02.08
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屋外の店


平野遼というのは、絵だけ見たら“重い”とか“暗い”という言葉が
わりあいよく聞かれて、彼の明るい面はあまり入ってこなかったですよね。
だけど、≪トルコのイズミールの並木が美しい≫とか書いているでしょ?
そういう風景に憧れ、美しいと思えるところ、人間のポッとした仕草に
その人間の哀歓を感じ取り描くところがありました。
叙情的なものとか洒落たような感じとか、色彩にハッとする美しい色合いを
使ったものとか、この人はこういう部分も持っているんだなと感動するのです』

SWITCH 2002年 10月号 200頁

『たとえそう長く生きることができないとしても、通常の普通の目に戻って描くことがもう一度できたのなら、と思ったら・・・残念です』
長年患っていた目のため、信頼するM眼科の医師の手によって、北九州の画家、平野遼が白内障の手術を受けたのは、1992年10月のことである。
時代を、社会を、そして自らの内面を奥深くじっと『視る』ことによって描かれる抽象画。
そして常に人物や風景が動く瞬間を捕らえ、それを追いかけるようにデッサンしてきた独自のやわらかな線描。
『目は私の命だから』とただ一途に自らの目が良くなることを信じ、その手術に望んだのは、その日、誰よりも平野遼自身だったのだという。
『手術は成功したんですよ、だけどね・・・』
同じ月、肺炎の疑いで平野は再び入院している。
しかし、自らの死が近づいていることを感じ取っていたのか、その入院中、早く描かなければならないという湧き出る想いを押さえきれず、彼は医師に『描きたくて頭が爆発しそうだ』と何度も訴えている。
その切実な芸術家としての願いに、医師は退院を許可。
しかしせめて今月いっぱいの安静を、と、告げる。
無理を言って退院した平野は、しかし医師の忠告を受け入れることなく、自らのアトリエに帰ってきたすぐさまキャンバスに向かっていく。

そんな平野遼の姿を、平野清子さんは、結婚してから32年間、いつも自らがそうしてきたように静かに見守っていたのだという。
1ヵ月後、再入院。
再びアトリエに戻ることなく1992年11月24日、死去。
その訃報を伝える挨拶状に清子さんはこう記している。
≪故人は常々『死は突如としてやって来る、その時に無念のおもいをしない様に』と自らを酷使しながら制作に没頭した絵生活でございました≫

『平野が亡くなったときは、哀しくて、ただ、じっと石になりたいと思っただけでした。
自分の中にものすごい喪失感があって、どうしていいのかわからなかったんです。
この大きな哀しみから、どこに向かっていいのかわからなくなった。
平野遼を失ってしまったという事実・・・。
それは私が個人的に彼を失くしてしまったという大きな喪失感だったんですよ。
だから切なくて、このまま何もせずにじっとしていたいという想いを抱えていました』
『自分とは何か』と孤独と向かい合うことを制作の原点とし、彼自らによって光を閉ざしたアトリエは、10年という時間を止めたままのように、今だ平野遼の気が蠢いている。
使ったままに固まった油絵の具と筆、張りつめた緊張感、清子さんはその中にいて、その時期、自分の位相を確かめるように、静かにいた。
『1年経った、2年経ったって、数えていたわけではなくてね、亡くなってからの日々をただ夢中で過ごしてきましたよ。
はじめ、石になりたいなんて思っていたけれど、平野遼が絵について私に語ってくれたり、平野遼の絵を描く姿や生活している状況に語りかけてくれるものを思い起こすと、このままではいけない、ここからまた新たに、ひとつひとつ、平野遼という絵描きがいたということを一人でも多くの人に知っていただきたいと思うようになりました。
それに展覧会、雑誌、テレビの取材を通して、平野を知らない方々が興味を持って私に平野の話を訊きたいと言ってくれたでしょう?
そうやって皆さまの手で新しい平野遼が発掘されていくことで、自分もまた立ち直れたのです』
平野遼は病床でも『死ぬまでに詩集を出したい』と漏らしていたと聞く。
アトリエに残された多くの絵、未発表のデッサン、詩。
『死者は深い沈黙の中から生きているものに語りかける』
と平野遼がのこした言葉そのままに、平野遼の肉体は消えたとしても、それらの作品群が放つ匂いを清子さんは嗅ぎ取り、それらひとつひとつを形として残すことを、自らの人生として生きてきた。
『時の早さというものをこれほど感じたことはない』、清子さんは言う。
『ふと気がついたら、もう10年経ったんだっていう感じですね。
よく“清子さんは遼さんのために生きているんですね”と言われますが、というよりも、私は“遼さんのおかげで生かされていたのだ”と思っているのですよ。
私、実家が骨董屋だったでしょ。
子供も9人と多く、母は家事が大変だから、私はときどきお店に出て、2階のお座敷でお茶を立ててお手伝いをしていたんです。
そういうときに素敵なお客様を見るわけですよ、子供ながらに。
だから自分もそういう視る目を持つ方々の役に立ちたいという想いが強かったの。
それがたまたま平野遼という人に出会って、でもすぐには彼の役には立てなかったけど、長い時間を通して様々な方に出会い、こうして平野遼について語ることで平野遼という絵描きがいたことを残していけることに感謝しているんですよ。
平野遼と知り合わなかったら、私の生活はどんなだったのだろうって。
平野遼のおかげで私は違った生き方を選ばせてもらった。
一緒にいたときももちろんそう感じていたけれど、彼が亡くなって、より強く感じていますね』
そして満面な笑顔を湛え、こう続けた。
『私はだからいつも、密かに“遼さんありがとう”って言っているのですよ』
未発表のデッサンは、生前親しくしていた詩人松永伍一によって、93年素描集『美しい刻』として、遺稿は、95年、詩集『青い雪どけ』として編まれ、出版されている。
また幾つもの展覧会、北九州美術館での5回忌の平野遼展に際する図録の編集、素描集『疾走する哀しみ』、NHKによるドキュメント番組『ふたりのアトリエ』と、清子さんの言葉によって平野遼が語られるとき、自己追求に生涯をかけて臨んだ一人の芸術家の姿は、残された作品と共に、鮮やかに蘇っていったのである。
『平野遼というのは、絵だけ見たら“重い”とか“暗い”という言葉がわりあいよく聞かれて、彼の明るい面はあまり入ってこなかったですよね。
だけど、≪トルコのイズミールの並木が美しい≫とか書いているでしょ?
そういう風景に憧れ、美しいと思えるところ、人間のポッとした仕草にその人間の哀歓を感じ取り描くところがありました。
叙情的なものとか洒落たような感じとか、色彩にハッとする美しい色合いを使ったものとか、この人はこういう部分も持っているんだなと感動するのです』
旅をした海外の街角で、歩く女性や座った老夫婦を描いた色鮮やかな水彩画。
また、通院していたM眼科での待ち合い室にいる人々の姿を素早く捕らえ、暖かい視線とやわらかなタッチで描いたデッサンの数々。
それらからは、その時々の空気や女性達を動きや温度、その風景と共にある時期さえもが描かれているようで、今にもそこにあった音や言葉が流れ出てくるかのような自由さを持っている。
『海外に行っても一日中スケッチするんですよ。
そしてホテルに戻って、その印象を忘れないうちに色を塗る。
色を塗ったら最後にベッドの上で日記や旅行記を毎日書いていましたね。
本当に驚嘆しますよ。
だけど、感じたことを留めておきたい、覚えておきたいという想いが強くあったのです。
手紙もよく書いていたんですよ』
そういって清子さんは、生前平野遼が親しくしていた方々に送った書簡を差し出した。
『自分はやるべきことをやらなければいけない、死は突如としてやってくるということがいつも念頭にあったから、いらないものを少しずつ削ぎ落していくんだと、交友関係もそんなに多くなかったです。
だけど、本当に親しく信頼している方には海外からハガキを出したり、わりと筆まめだったんですよ。
手紙はね、書いたらいつも私の机の上にバンと置くわけ。
“どうせ読みたいだろう”と言って。
それで私が切手を貼って出すんですけど、見るとそこに可愛らしい挿し絵が描いてあったりしてね。
そんな面もありましたよ』
作品には見られない干支がユニークに描かれた年賀状や旅行先での美しい風景からのハガキ、自らの絵に対する想いを綴った手紙。
平野遼の心暖かい書簡を前に、清子さんは続けた。
『考えてみたら、とても人に恵まれてますよね。
本当に一人ひとり、素晴らしい方達とおつきあいをさせていただいたのだなあと改めて手紙を読んでみると、そう思います。
だから決して絵だけが残ってきたのではなくて、平野遼という人間が残っているんですよね』
生前、平野遼が毎朝座り、お茶を嗜んだという茶室は、木々と草花の色と光で季節の移り変わりを知ることのできる美しい庭を臨み、その日、夏の強い太陽が木々の濃く茂った緑に透け、降り注いでいた。
天井に埋め込まれたガラスに板を張り、光を閉ざしたアトリエが時間を止めることで自らの内側を凝視するものであるならば、茶室から眺めるその常に動いていく世界は、刻一刻と流れる時を知ることで、気持ちを解放させているもののように思えた。
それは、彼がスケッチブックに残した数多くのデッサンや、親しい友人達へ送った手紙にも似て、やわらかくその視線に向かわせるような場所だったのかもしれない。
その先へ、といったように・・・。
画家の友人に向けた手紙にはこうあった。
対象を求めてください。
自分の足と感覚で。
海でも、山でも森羅万象のすべてに私が不断に描かなければならないのは、視るものすべてに私が不断に描かなければならないのは、視るものすべてが私の感覚に絵画となり対象となりモチーフとなって私の休息を許さないのです。
徴細な物から音楽から言葉から、それらをじっと凝視し、耳を働かせ、視えてくるものを紙に描いて下さい。
何も無い時は自分に向って、自分の貌を描くことからすべては始まるのです。
『目は私の命だから』と、『視る』ことで『描いた』画家。平野遼。
彼の絶筆が、自らの目の手術のため、手術台に上がったときに見上げた手術室の風景であったこともまた、彼が最後まで視ることを貫いた姿なのだと、ふと、思い出した。







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最終更新日  2014.02.09 22:23:38
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