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背番号29(その3)
みなさんこんにちは 背番号29の第3回目です
っここまで5名の選手を紹介してきたんだけど非常に知名度が低いのね 何しろ監督の背番号が「30」で支配下選手の人数が少なかった時代だから「29」ともなると 初期の頃は二軍選手の番号みたいなものだったってこともあるんだよなあ
今回登場する最初の選手はタイガースでは有名な人なのよね でもそのあとの2名は再び知名度が下がるわね
というわけで 読んでみてください
辻 佳紀 捕手
福井県敦賀市出身。家業は地元駅前商店街の鮮魚店で「魚辻」。中学時代は投手だったが県立敦賀商業高校に進むと捕手に転向している。2年の春(1回戦敗退)と3年の夏(3回戦敗退)と2度の甲子園出場経験がある。
1959(昭和34)年に明治大学に進学し4年時には主将になったが、島岡総監督と栗崎監督のいざこざの渦中となって不本意なシーズンを送っている。(この件についてはウィキペディア等を参照してください)
当時就職予定も決まっていたがタイガースの佐川スカウトの熱心な誘いもあってプロ入りを決断、1963(昭和38)年にタイガースと契約して背番号「29」を継承した。
入団した年は二軍のバッテリーコーチに大物OBの土井垣武がいたこともあってその指導を受け、シーズン終盤には一軍でよく使われるようになる。38試合71打数13安打2本塁打4打点、打率 . 183というのが1年目の打撃成績だった。
2年目の1964(昭和39)年には開幕から使われて93試合に出場して第一捕手の地位へ近づく。この年のタイガースはリーグ優勝。辻は日本シリーズでも7戦中5試合でマスクをかぶり第5戦ではホームランを放つなど活躍したが南海ホークスに敗れ日本一は逃している。
翌1965(昭和40)年には114試合と出場が3桁になり完全にレギュラー捕手となった。とくに藤本定義監督は村山登板には必ず辻に受けさせており看板捕手と認められるようになる。
1966(昭和41)年から1968(昭和43)年までレギュラー捕手の座を維持しており、この3年間は毎年二桁本塁打も記録して打撃も向上、3年連続でオールスターにも選ばれている。
また1966年には10月から11月にかけて行われた日米野球にも出場しており、対戦相手のドジャースの捕手だったジョン・ローズボロ選手の熱血プレーに感動して翌年から同じような口ひげを蓄えたため「ヒゲ辻」が愛称になった。
ところが順風は続かない。1968年のドラフト会議でタイガースが田淵幸一を獲得したために、翌1969(昭和44)年の辻の出場数というは37試合と激減してしまう。
田淵という壁はいかにも大きい。レギュラーどころか出場すらあきらめるしかなかった辻はトレードを希望し近鉄バファローズに移籍することになる。
近鉄1年目の1970(昭和45)年は107試合に出場して自己最多の19本塁打をマークするなどレギュラーを奪い取った。翌1971(昭和46)年も108試合に出場し、移籍は大成功だったと言えるだろう。
しかし移籍3年目、4年目は梨田昌崇や有田修三などに押される形でそれぞれ50試合、70試合にとどまり、1973(昭和48)年オフに自由契約となり、大洋ホエールズに拾われる。
1974(昭和49)年は大洋で1年プレーしたが56試合に終わり、オフにタイガースの新監督に就任した吉田義男の計らいにより「ダンプ辻」との交換トレードでタイガースへ戻ってきた。
1975(昭和50)年、選手兼一軍バッテリーコーチとして現役を続けたが出場は4試合。どちらかと言うとサードベースコーチとして目立っていた。現役はこの年で引退する。
1976(昭和51)年、吉田監督にヘッドコーチに抜擢されるも、田淵の起用法で激しく対立し、シーズン終了後に退団している。
通算成績は960試合2340打数486安打231打点87本塁打、130四球483三振、打率 . 208だった。
退団後は野球解説のほかテレビやラジオでタレントとしても活躍していたが、1989年4月25日に病気のため死去。まだ48歳の若さだった。
植木 一智 投手(再掲)
植木は背番号5-4で紹介済みだが改訂し再掲する。
京都府出身。高校は平安高校ではエースとして同級生の衣笠祥雄とバッテリーを組んでいた。3年時の春夏甲子園に出場しており、いずれもベスト8まで勝ち進んでいる。
卒業後は龍谷大学へ進学、リーグ通算64試合登板、26勝17敗、防御率1 .
47、313奪三振の好成績を残している。2年時春のリーグ戦では近畿大学戦でノーヒットノーランも記録、落ちる球を武器にするサウスポーとしてドラフト候補になっている。
1968(昭和43)年のドラフト会議でタイガースの2位指名を受けて入団し、1年目は背番号「5」を着けている。この年のドラフト会議は 今でも 空前の大豊作と言われており、1位のメンバーは次表の顔ぶれだった。

2位以下とは実力がかけ離れた素材がずらりと名を連ねており、タイガースの1位は田淵幸一。2位の植木は投手としては珍しい「5」をもらっているが、当時は江夏豊とベテラン権藤正利しか左の先発がいなかったため、大きな期待をもって迎えられたと言っていいだろう。
ルーキーイヤーの1969(昭和44)年は12試合(先発3)に登板して0勝2敗、防御率4 . 32という期待外れの結果に終わっているが、実はこれが植木のキャリアハイになる。
2年目以降の登板は、4試合0勝0敗、11試合1勝1敗、4試合1勝0敗、3試合0勝0敗で、一軍戦力にはなれなかった。
背番号「29」を着けたのは2年目の1970(昭和45)から2年間、その後の2年間は「36」を着けている。
大学では活躍できたが結局プロで通用する力はなく1973(昭和48)年のシーズンを最後に引退している。
通算成績は34試合(先発7)2勝3敗、74回2 /
3を投げて39奪三振、自責点41で防御率は4 .
92という数字しか残せなかった。
望月 充 外野手(再掲)
静岡県富士市出身。静岡高校では投手だったが甲子園には出場できなかった。
立教大学に進むと投手をあきらめ外野手に転向し2年秋からレギュラーになって打線の中軸を担った。リーグ通算では63試合出場、207打数44安打、打率 . 213、7本塁打、20打点の成績を残している。
大学を卒業した1971(昭和46)年には社会人の大昭和製紙に入部。秋の産業対抗では優勝を飾り、望月は11打数6安打で首位打者、優秀選手賞に輝いた。
同年のドラフト会議でタイガースから3位指名されて入団。植木の着けていた「29」を譲られた。
即戦力として期待のかかったルーキーイヤーの1972(昭和47)年はオープン戦でクリーンアップを打ち3本塁打をマーク。シーズンに入ってもレギュラーに近い92試合に出場して7本塁打21打点とパンチ力を見せ、オールスターにはファン投票で選ばれている。
しかし「左殺し」と異名をとったようにサウスポーには強いが、右投手が打てず、打率は2割1分そこそこと確実性に欠けるためレギュラーを勝ち取るところまでいかない。以降の成績は次のようなものだ。
1973 95試合7本25打点 . 214
1974 88試合9本32打点 . 231
1975 76試合4本12打点 . 214
2割5分程度まで打率が上がればレギュラーもとれたかもしれないが、ここに見える数字が限界だったのかもしれない。
1975年のオフには契約更改を済ませたが、そこで巻き起こった江夏豊のトレードに巻き込まれてしまう。年が明けた1976(昭和51)年1月に南海ホークスとの2対4のトレードが成立し、その一人となって移籍することになった。
南海に移った1976年は、もはやモチベーションがなくなってしまったのか33試合の出場に終わると、翌1977(昭和52)年にはわずか14試合になってしまう。故障も重なっておりここで現役をあきらめ引退している。
その後はホークスに残りスコアラーなどを経て、1990(平成2)年にかつての同僚田淵幸一が監督に就任すると一軍守備走塁コーチなどに抜擢されている。その後もスコアラーとして残っており、2000(平成12)年のシドニー五輪代表チームにも派遣されてスコアラーを務めたりした。
通算成績は398試合1025打数216安打100打点30本塁打65四球180三振、打率 .
211である。
まとめ
どうでした? ヒゲ辻さんは名前は結構有名らしいんだけど成績をみると驚くような選手じゃないね まあ個性的っていう意味で当時のファンの記憶に残ってる選手なんだろうね
植木さんについては「5」でも書いてるんだけど 書いた2代目がすでに忘れちゃってる・・・そんな感じなのよ 当時を知ってるファンの人も覚えてないかもしれないね 残念だけど写真はみつからなかった
望月さんは惜しい選手だったんだね 長打力はあるからもう一歩 右投手がしっかり攻略できればレギュラーとれたんだろうけどからっきし打てずダメだった
ヒロくんさん!またまた立教大ですが 望月さんって覚えてらっしゃいますか?感想聞かせてね
ということで 背番号「29」には今だ大物出ず でも次は江本さんだよ
背番号29-4に続く
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