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背番号33(その1)
みなさんこんにちは 2代目タイガース非公式サイトです
背番号33について始めるんだけど パっと頭に浮かぶのは2025年現在着けている糸原選手くらいじゃないかなあ
ホントに聞いたことない人ばっかり出てくるし資料もすくなくてイメージが湧かない選手もいるのよね でも一度はタイガースのメンバーだった人たちなんだから つまんないとおもわずに最後までお付き合いください
「33」を戦前に着けてたのは一人だけ とにかく当時は二軍すらない時代 監督の背番号が「30」だったわけで それより大きい番号は補欠か今でいうと育成枠みたいな感じなのよ 大物選手というのはあまりいないのね
前置きはこれくらいにして本編へ 今回は4人を一気に紹介するよ
上田 正 外野手
この番号は意外にも球団創設2年目の1937(昭和12)年から使用されている。「33」を最初に着けた選手は上田正で右投げ右打ちの外野手だった。
広島県出身で広島県松本商業学校(現:広島県瀬戸内高等学校)を卒業すると地元の社会人野球チーム「全呉」でプレーしている。
1937(昭和12)年の5月にタイガースに入団するが春季に7試合出場したところで日中戦争のため召集されてしまう。
1940(昭和15)年に除隊されて翌1941(昭和16)年からタイガースに復帰している。打率は1割台の前半で盗塁数も少ないことから、おもに守備要員だったことが想像できる。
1943(昭和18)年まで公式戦に出場した記録が残っている。特に1942(昭和17)年は全63試合に出ているがスタメンは開幕から10試合程度で、あとは控えに回り、後半に守備で出場するのが仕事だった。
1944(昭和19)年には大東亜戦争のために再び召集されそのまま戦死されている。享年30歳。
通算成績は実働4年116試合205打数25安打10打点5盗塁26四球23三振、打率 .
122という数字が残っている。
阪田 正芳 内野手(再掲)
阪田選手はすでに背番号「20-3」で紹介しており全文を再掲しますね
1944年に上田が招集されたあと、戦争が終わって背番号「33」が復活するのは1950(昭和25)年、プロ野球が2リーグに分かれた年だった。
大阪府出身だが兵庫県神戸市生まれとも言われる。いずれもプロ選手となった阪田3兄弟の次男で、長男の清春は滝川中から阪急・南海でプレーした捕手、三男の芳秀は波華商から毎日へ進んだ捕手。
阪田正芳は167センチ66キロと小柄だが、波華商時代は投手。1946(昭和21)年の夏は控え投手として全国制覇を経験する。
1947(昭和22)年の選抜にはエースとして出場したが2回戦で、さらに1948(昭和23)年の選抜では弟・芳秀とバッテリーを組んで再度出場するも1回戦で敗れた。
卒業後は実業団の郡山日東紡績に進み、1950年にタイガースへ入団し1年目に背番号「33」を着けた。入団と同時に
内野手(主にショート)に転向したが打力がなく守備要員に甘んじていたようだ。
41試合に出ているがスタメンは4試合、58打数15安打3打点で打率 .
259に終わっている。スタメン4試合のうち1試合は投手として先発している。選手不足のための緊急的なもので、投げたのはこの1試合だけだった。
2年目の1951(昭和26)年から背番号を「20」に変える。しかし
38試合で24打数3安打2打点、打率 .
125と打撃に進歩は見られない。
3年目の1952(昭和27)年はわずか4試合の出場しかできず、結局3年間の在籍で退団に追い込まれた。
退団後は社会人に戻り、松下電器に入社。1992年8月20日に64歳で亡くなっている。「33」は1年間しか着けなかった。
丸山 臣洋 捕手
この選手については記録や情報はみつからない。1951(昭和26)年にタイガースへ入団し阪田が背番号を変えたことで空いた「33」を着けてている。
捕手として入団したようだが、1度も公式戦の出場が無いままこの1年限りで引退しており記録というものがない。
ウィキペディア内を検索してもページはなく、「阪神タイガース球団創設80周年の在籍選手名簿(
丸山臣洋 | 在籍選手成績 | 80周年史 | 阪神タイガース球団創設80周年記念 特設サイト | 阪神タイガース公式サイト
)にも名前と在籍年数があるだけで、出身地・出身校・アマチュア歴・生年月日等の情報はみつからなかった。
伊藤 正彦 捕手
背番号「33」を着けた4人目の選手だが、この選手についても情報がなく、1952(昭和27)年に入団した捕手ということだけしか判らない。もちろんウィキペディアにもページはない。
唯一見つかったのが次の画像。非常に貴重なものだろう。

18歳となっているが西京高卒で鐘紡丸子を経て入団してる。西京高校は山口県立と京都市立がありどちらかは分からない。
前出の丸山から「33」を引き継いでいるが、同じように公式戦の出場も無いまま1年限りで辞めてしまっている。
まとめ
今回は4名を紹介しました 古い時代と言っても公式戦に少しでも出ていれば何らかの痕跡は残っているのね だから最初の2人は古いけど数字として残っている資料が見つかるのよ
ところが2リーグ分裂のあおりで各チームの選手不足が深刻だった1950年ごろ入団した選手たちは 後半の2名のように試合に出ることもなく1年限りで退団してしまうケースも珍しくなかったのね
だから画像資料というものがあまり残ってないわ 伊藤さんの資料は選手名鑑みたいなものの一部なんだとおもうけど これよく残ってたね 公式戦に出てないんだから顔写真があるのは奇跡的
こうした公式戦に出ることすらなかった「資料無き在籍者」はこれから先の番号でもかなり出てきそうね
背番号33-2につづく
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