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背番号33(その3)
みなさんこんにちは 背番号33の3回目です
前回の山部さん 松浦さん 森光さんは 初めて名前を知ったという人も多かったんじゃないかな?
最初に言うと この第3回目も見たことも聞いたこともない人が続くとおもって間違いないよ 3人の選手を紹介するんだけど 3人の着けた年数を全部足しても6年にしかならない(1970年から1975年まで)
この当時の背番号「33」がそういう選手たちが着ける番号だったことを物語ってるよね
今回は興味がわかないかもしれないけど最後まで読んでみてね 実際にタイガースの選手だった人たち ちょっとでも記憶にとどめてあげてほしい
佐藤 正治 外野手
実は佐藤さんは背番号8-4で紹介済み そのブログを公開したのは2年半くらい前なので 今回詳しく構成しなおして掲載しますね
三重県出身の右投げ右打ちの外野手、高校は愛知県にある名商大付属高校。この選手 は大学や社会人でかなり活躍しているようで、ウィキペディアを検索してみてもそちらの記述が多い。
高校卒業後は専修大学へ進学し1965(昭和40)年の大学選手権では優勝している。
社会人の河合楽器でも活躍しており、1968(昭和43)年には都市対抗本戦の決勝に進み、惜しくも敗れたが優秀選手賞を受賞するなど評価は上がった。同年のドラフト会議で東映フライヤーズが7位で指名しているが、佐藤は拒否している。
1969(昭和44)年の都市対抗本戦でもベスト4まで進出し、秋のドラフト会議で今度はタイガースが5位で指名。この年7月に25歳になっている佐藤はさすがに拒否せず入団し、引退した森光正吉の背番号「33」を継承している。
ルーキーイヤーの1970(昭和45)年は村山実が現役投手として兼任監督に就任した1年目に当たる。佐藤はかなり期待されていたのか、ほとんど一軍に帯同しており、96試合に出場し124打数30安打10打点1本塁打ながら、16盗塁は光った。ただし打席数144が示すようにあくまで外国人選手の後半の守備固めや代走が仕事で、スタメン出場は21試合だけだった。
この年の外野陣はレフトが藤井栄治、センターがバレンタイン、ライトがカークランドという布陣で、両外国人とも120試合程度出ている。藤井は佐藤より少ない75試合だが打席数は215とスタメンは多い。また池田純一も100試合190打席でレギュラーを射程にしていた。
「33」は1年きりなのでWEB上ではこの写真しか現存しない
佐藤は2年目の1971(昭和46)年、西村公一から譲られた背番号「8」に変えている。ということで「33」は1年間着けただけだった。
2年目は102試合で153打席と出場数を伸ばしているように見えても、実際の立ち位置は1年目と変わらず、バレンタインは解雇されたが外野には藤井栄治や和田徹、池田純一がスタメン争いをしており、その一つ下にいるのが佐藤だった。
翌1972(昭和47)年から1973(昭和48)年はそれぞれ89試合、87試合と出場機会が減り、1974(昭和49)年にはロバート・テーラーの加入で出場機会は半減する。
しかも1975(昭和50)年オフには江夏豊と江本孟紀のトレードに巻き込まれ交換メンバーに加えられてしまった。「自分を江夏のおまけ扱いにするのか?」と憤激した佐藤はさっさと引退してしまい、トレードは2対4になったという。
通算成績は485試合615打数133安打2本塁打22打点43盗塁45四球77三振、打率 .
216だった。
楠本 秀雄 外野手
徳島県出身の右投げ右打ちで俊足の外野手。小松島西高校時代は地方大会ベスト4が最高で甲子園経験はない。
楠本には楠本個人が写った画像等の資料が全く見つからないため、ご卒業された母校:徳島県立小松島西高等学校の写真を掲載させていただく。
高校を卒業すると兵庫県にある社会人の小西酒造に入社し、1970(昭和45)年の都市対抗本戦には三菱重工神戸の補強選手として出場し4番を務め準優勝に貢献している。
同年のドラフト会議でタイガースが3位で指名、前年の佐藤より評価は高かったのかもしれない。背番号はその佐藤が「8」に変えたことで空いた「33」を引き継いでいる。
ルーキーイヤーの1971(昭和46)年、楠本は5月25日の甲子園での広島戦に6番ライトのスタメンで初出場するが、2打席無安打1三振で途中交代させられベンチに戻る。これが楠本がプロで出場した唯一の試合だった。
上記の佐藤正治のなかでも触れたが、当時のタイガースの外野ポジション争いはかなり激しいものがあり、ポジションを取るのは容易ではなかった。
最初の1試合で首脳陣に見切られてしまったのか、それとも自信喪失したのか どうなのかと言えば、前者のような気がする。普通1試合で見切るのはよほどのことだ。
と言っても後者の要素もかなりあるかもしれない。楠本は翌1972(昭和47)年まで在籍したが、一軍に呼ばれることもなく引退していった。
大和田 正海 捕手
この選手は楠本よりさらに情報が少ないので全面的にウィキペディアに頼ることとする。
神奈川県の出身となっているが、高校は大阪のPL学園。卒業後「出原商店」となっているがこれもどこにでもありそうな名前で、会社なのか個人商店のようなものなのかさっぱり分からない。
1971(昭和46)年にドラフト外で阪急ブレーブスに入団し、試合に出ることもなく1972(昭和47)年オフに行われた第3回トレード会議(今の現役ドラフトに似た制度)でタイガースに移籍し楠本の引退で空いた背番号「33」を受け継いで3年間着けた。
大和田も個人を写した画像はWEB上では発見できないので、大和田が初出場したという札幌丸山球場のスコアボードの写真を掲載。これは昭和62年か63年ごろだろう。大和田の出た試合から15年くらい経っているが、これはこれで懐かしい名前が見られる写真だ。(不鮮明だが大洋の2番に加藤博一が入っている)

移籍1年目の1973(昭和48)年は出場無し。1974(昭和49)年の7月27日のヤクルト・スワローズ戦(札幌・丸山球場)のスタメンに名があるのが記録上の初出場だったが、あくまで偵察メンバーで打席に立つこともなく1回裏から和田徹と交代している。
1974年7月27日 ヤクルトvs阪神13回戦(札幌丸山球場)

通算の記録も出場が9試合で打席数は0。記録を見る限りバッターボックスに立ったことが無いようだ。偵察メンバーか9回の守備固めか、そういう程度の使われ方しかなかった選手なのだろう。
1975(昭和50)年は1試合の出場も無いままオフに引退している。
まとめ
今回の3名を見てどう思いましたか?
最初の佐藤さんはある程度実力があって初めのうちは外野のポジション争いに食い込むかもしれない可能性はあった感じよね 外国人選手や他の日本人選手にちょっと及ばなかった トレード拒否して引退しちゃったのはどうなのかなあ 頭に来るのはわかるけど 南海で成功できたかもしれないのに惜しかった
楠本さんと大和田さんは 「ほんの少しでもプロを経験した」という選手たち 番号が大きくなるほどこういう選手が増えてくるんだなあって実感させられます
プロで活躍できるのはほんの限られた一握りの選手だけで とても厳しい世界なのよね そういう意味では大谷翔平選手なんてとてつもない存在だと改めて驚嘆しちゃいます
さて次回からはある程度の実績を残した選手も出てくるから オールドファンの方は「ああ聞いたことある」とか「思い出した」とかちょっとは感触があるとおもうよ
背番号33-4につづく
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