結納金はお前が貯めろ
海上保安大学校を卒業して専攻科に進み遠洋航海から帰ってきてから辞表を出した。
当然簡単に受け付けてもらえるわけもなく学生課には何回も通った、学生課長の名前はもう忘れてしまったが親身になって相談に乗ってくれた自分は保安庁で後悔してないが君は何でもできる(当時軽音楽同好会を作ってバンド活動をしていたドラムをたたきながら歌を歌うというイーグルスのリーダードン・ヘンリーと同じスタイルをやっていた学園祭や全国カッター競技会のポスターなども作っていた、そんな多芸さがたたって遠洋航海では防火訓練の総合指揮官に任命され 2 時間の訓練を成功させた、中林に任せとけばなんとかするという大きな勘違いが教官の中ではなかば常識で防火訓練の要領まで作らされた、船長の部屋から出火させようと考えたがやめた)辞めるのもいいだろう!
ただしここで知ったことは辞めても絶対に口外しないことが条件だった。
犯罪ではないので時効もないからもう時効だ。
出身地である鳥取県米子市に帰ってしばらく同社のアルバイトをした、今の女房とは同じビルのテナントで、何度も階段ですれ違い挨拶を交わし仲良くなった。
自慢でもなんでもなく神様は幸運にもこの女性に会わせてくれたものだと感謝した。
よく気が合ったし美人で天使のような人だ、だがこの天使は時々悪魔に変身する。
Y 広告社に入社が決まり大津営業所に配属が決まった時、僕はプロポーズをした。
ご存じのように僕の両親は子供にお金を使わない主義が徹底していて結納金は自分で貯めろという指示だった、末広がりの88万円を目標に月々5万円貯金した。
当時の月給は13万ぐらいだったと思う毎日外食だし月々5万円の貯金は本当にきつかった。
会社が終わりホッと一息だが何の楽しみもない。
22歳の青年は遊びたい盛りだ、愛の力は偉大だと後で思った。
僕の唯一の楽しみは休日の前の晩にオールナイトで日活ロマンポルノを観ることぐらいだった。
お酒なんてとうてい飲みに行ける身分ではなかった。
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