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【会津に残る高遠の香り】 これらの3枚の写真は、現在は新潟県になっていますが、江戸時代には会津だった地域で撮った写真です。2008年のことでした。この頃にはまだ、伊那谷を一度しか訪ねていませんでしたから、すぐには気が付かなかったのですが、会津には伊那谷に残っている民俗的習慣が、所々に点在しています。現在はそれをはっきりと断言できる伝承を、色々な村々でお伺いしたことがあります。 「マキ」という同族集団は、おそらく高遠から続いてきたことであろうと思われます。また、伊那高遠から伝わったコトが会津にも残っているのですが、上段の写真に写っている墓石は、そうしたコトが伝わっている一帯でも出会ったことがあります。つまり、残されている史料からでは知ることが出来ない民俗習慣の中に、伊那高遠から山形最上経由で会津に入って来た家々があることは間違いないと考えられます。 保科正之公と共に伊那高遠から山形最上経由で入って来た家々の中は、そして、会津藩領内だけでなく天領南山御蔵入にも帰農しているケースが少なくないことを確認することが出来ます。ですから、会津のキリシタン研究にとっては、それを十分に考慮しながら進めなければならないのですが、保科正之公は何故、3000人の農民を武士に取り立てて、山形最上経由で会津へ同行させたのかが気になります。 そして、こうしたことを会津藩領内と天領南山御蔵入で確認し続けて来たら、答えは一つしかないと考えるようになってきました。と同時に、『会津藩家世実紀』では処刑されているキリシタンの子孫が、『新編会津風土記』に残っている17世紀初頭の文書から処刑されていないことを読み取ることが出来ます。10年以上、残されている会津の史料と格闘してきた結果でもあります。
2015.10.31
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【会津の「孕み観音」】 これはこれまでに何回もここでご紹介したことのある「観音菩薩」石像ですが、下腹部が膨らんでいるところから、「孕み観音」と所長が命名しました。会津のとある村の墓地にあるのですが、隣の村の墓地には何体もの「孕み観音」石像が残っています。そして、この村を挟んで反対側の道路脇にも墓地があるのですが、そこには宝篋印塔の部品を組み合わせた石塔が建てられています。 この不思議な「観音菩薩」石像に最初に出会ったのは1998年のことでした。その時には、下腹部が膨らんでいるとは思えず、「メタボ」だと思っていました。しかし、2006年にこの写真を撮った時に、所長から下腹部が膨らんでいることを教えられ、この「孕み観音」の意味が見えました。そもそも観音菩薩は菩薩ですから、妊娠することも、出産することも、授乳することもあり得ません。菩薩は性を超克した存在です。 この村には地蔵菩薩が祀られたお堂がたてられているのですが、地蔵菩薩も菩薩ですから、子供を産ませることは有り得ませんが、この村の地蔵菩薩は子供を遊ばせる地蔵菩薩とされています。会津に残っている民話を集めた本に記されています。江戸時代の中期初頭に宗門人別制度が施行されて、お寺が人々の死に関わるイニシエーションを儀式化して執り行うようになってから、こうしたことは、ほとんど一般民衆の中から消えてしまったようです。 しかし、会津を丹念に巡り続けてきて、様々なところで村の方からお話をお伺いすると、会津で昨日した蒲生軍団、加藤家の家臣団、そして保科正之公と共に山形最上経由で会津に入って来た保科正之公の家臣団が帰農していることに気が付かされました。ですから、会津には信州の訛りが残っている一帯があります。以前に「京都の言葉だ」と聞いたことがありますが、京都ではなく、明らかに信州です。
2015.10.23
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【日本の農業とTPP】 これはまた別の村で撮った写真です。最初にこの村を通ったのは1997年の秋のことでしたが、その時は稲刈りの真っ最中でした。この写真を撮ったのは2007年5月30日です。田圃には木が生えていました。そして、木が生えていない田圃も夏になれば葦葭が生えているだろうと思えました。 この村は古い村ですから、江戸時代からこうした谷間も開墾して田圃を造ってきたことは間違いないと思います。そして、かなり山の多くの村ですから、この村には小学校の分校がありましたが、現在は廃校になっていて、建物だけが残っています。そして、何回もこの村を訪ねているのですが、子供を見かけたことはありません。 因みに、葦葭が生えてしまった田圃は、それを刈り取ったくらいでは米を作ることは出来ません。土に根が残れば、そこからまた葦葭が生えてくるそうで、田圃に戻すには土を入れ替えなければならないそうです。高齢の方々が多い村で、借金をして土を入れ替えても、それを返済できるだけの米が収穫できるとは思えません。 TPPの「大筋合意」の内容が知りたいのですが、新聞でもテレビでも報道されていません。ただ、農産品や畜産品で関税が撤廃されるのは、何年も先のことのようですが、米は別枠の輸入量が決められているようで、日本の農業は、ことにこうした谷間の小さな村の農業は、それほど遠くない将来に消滅するのだろうと思えて仕方がありません。
2015.10.21
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【日本の農業とTPP】 これは会津のとある山の高いところにある村で撮った写真です。下の写真は、谷の下の方から上って来る道とこちらから走っていく道の交差点で、谷を撮った写真です。下の写真に写っている斜面には、小さな棚田が下の方まで続いています。戦後の米の増産政策による開墾で出来上がった棚田であろうと思われますが、この写真を撮った2004年9月26日には、棚田は既に田圃ではなくなっていました。 この棚田を造るのに重機を使ったとは思えません。一枚の田圃の広さから考えると、ブルドーザーを入れるのはかなり難しいだろうと思われます。ですから、耕作するにしても、大型機械どころか、小さな田植機を使うことも難しいだろうと思います。以前に、小生の母方の祖父がキセルの煙草を詰めるのに、火のついた煙草を掌で転がしながら、新しい煙草を詰めていたと書いたことがありましたが、祖父の掌はカチカチでした。 そして、こうした山村では、最早、米を作ることは諦めている家が多いようです。そうした実情を知ってか知らずか、TPPではかなりの米が輸入されることになりそうです。そして、「農家も頑張って下さい」と政府は言っていますが、「ご高齢の方々に対してそれはないでしょ」と言いたくなります。 TPPでは得する業種と損する業種が出てくるのは火を見るよりも明らかです。アメリカ産の米は美味しいです。もうかなり以前ですが、アメリカへ行った時に、ある方から頼まれてアメリカの米を買ってきました。そして、その味を確かめていただいたのですが、「ササニシキよりも美味しい」とおっしゃっていました。
2015.10.18
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【会津の不思議な「石仏」】 これは少し前にここでご紹介したことのある「石仏」ですが、とある村の神社の境内に祀られています。「石仏」と括弧付きで記したのは、どう考えてもこれが仏を彫ったモノであるとは思えないからです。着衣が極めて異様です。そして下の写真は、同じ「石仏」を1998年に撮った写真です。ネガフィルムで撮ったものをプリントして、それをスキャナーで読み取っています。 この「石仏」が気になっているのは、このすぐ近くに聖徳太子堂が建てられていて、中には比較的大きな聖徳太子像が祀られているのですが、その聖徳太子堂も「キリシタン方位角」を向いています。村の中の道を直角に左に曲がって登っていくと、その聖徳太子堂が建てられているのですが、上がりきったところにお堂の右側側面があります。つまり、村の中から登っていっても、お堂の左側に回り込まないとお参りできないことになります。 それだけではありません。この村を通っている道は、主要街道ではありませんが、江戸時代から村々を巡る道でしたが、その道路沿いには4体の「子安観音」石仏が祀られています。それも、道路脇のすぐ気が付くところにです。そしてそれらの「子安観音」石仏はすべて、ここでご紹介したことがありますが、現在の村の情況と史料のデータベースを解析すると、宗門人別制度が施行されてから成立した村であることが判るところもあります。 歴史研究はどなたかが書かれた歴史書を読むことではなく、学校の教科書に書かれたことを覚えることでもなく、それらを土台にして、矛盾点を暴き出して、その矛盾点を解明するさぎょうです。会津藩がまとめた『新編会津風土記』でも、会津に残っていた文書を集大成した『会津藩家世実紀』でも、そこに記されていることをそのまま、事実として考えることは出来ません。そこで止まってしまった「歴史」学を文献史学といいますが、小生が大学で修得した研究方法は、近代的な科学的作業によって史実を明らかにしていく作業でした。
2015.10.10
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【関東平野の不思議なお寺の墓地にあった五輪塔と宝篋印塔】 先日フィールドワークに出掛けたお寺の墓地にあった五輪塔と小さな宝篋印塔です。少なくとも、五輪塔は女性の墓石であることは、彫られている文字列から判ります。また、宝篋印塔は笠の部分と最下部の反花座が残っているだけですが、風化程度からすると、五輪塔よりもかなり以前に建てられた墓石であろうと思われます。 このお寺は保科家と密接な関係がある臨済宗のお寺ですが、ここでご紹介したように、裏山の尾根の鞍部に稲荷社が建てられています。お寺の関係者の方にお伺いした限りでは、稲荷社があるところにお寺が建てられたとのことですが、お寺の入口の前の道路の両側には、村の家々が並んでいます。 会津ではこうしたことはそこら中で見られますが、少なくとも、宗門人別制度が施行される前には、お寺が村の中に建てられることはなかったと、とあるお寺のご住職からお伺いしました。そのお寺の周辺にもキリシタンの痕跡が残っていることは、同じ市町村にある同じ宗旨のお寺のご住職が書かれた本に記されています。知り合いのご住職が、最後に残っていた一冊を手に入れてきて下さいました。 もうお気付きの方の多いかと思いますが、このお寺は下総多胡にある樹林寺です。伊那高遠にある樹林寺は真言宗のお寺ですが、下総多胡の樹林寺は臨済宗妙心寺派のお寺です。そして、下総多胡の樹林寺にある「夕顔観音」を模した像を、保科正直が彫らせて、それを伊那高遠に持って来ると同時に、下総多胡の樹林寺の床下の土を伊那高遠に運んだとされています。
2015.10.08
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【関東平野の不思議なお寺の三十三観音石仏】 前述までのお寺の裏山に並べられている三十三観音石仏の一番から三番までです。尾根沿いに登っていく路の脇に並べられていて、登りと降りでは路が異なっています。一番の石仏に彫られているように、西国三十三観音を模して彫られたものが並べられているようですが、あの西国三十三観音も非常に気にならざるを得ません。曹洞宗のお寺に観音堂が建てられていたりします。 既に、江戸時代にはこうした不思議なことが行われていたようです。これは秩父三十三観音にも言えることです。そして、会津三十三観音でも、南山御蔵入三十三観音でも同じケースがありますし、曹洞宗だけでなく浄土宗のお寺に観音堂が建てられているケースもあります。しかし、『新編会津風土記』の編纂者はこうした実に不思議なことにはまったく沈黙しています。『新編会津風土記』の凡例からすると、寛文期の寺社改めの時にお寺から提出された文書に記されていなかったのかもしれません。 そもそも江戸時代には、仏教の各宗旨間には繋がりがほとんどありませんでした。これは幕府の意向であったと考えられます。幕府は、お寺が武装することに非常に神経をとがらせていました。ですから、寺社奉行は自由にお寺に介入することが出来ました。会津藩でもかなり厳密にお寺を監視していたようで、廃寺になったお寺や追放刑になった僧侶の記録が『会津藩家世実紀』に出てきます。 にもかかわらず、『会津藩家世実紀』にあるキリシタンに関する記録は、ごく僅かです。そして、転切支丹は城下へ移住して商売を始めることが許されていましたし、移住開墾政策が行われましたが、経済的な面では会津藩がかなり援助していたようです。これに関する記録も、『会津藩家世実紀』に見られます。
2015.10.03
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【関東平野の不思議なお寺】 先日出掛けたところにあるお寺の本堂の裏に小さな尾根があって、お寺の真裏に当たる鞍部に稲荷社がありました。この稲荷社があるところに、初めは真言宗だったお寺が建てられ、鎌倉時代になって臨済宗妙心寺派になったとお寺の関係者の方からお伺いしました。 そして、この尾根に大正時代になって三十三観音石仏が並べられたそうです。そう言えば、旧高遠藩領内にある臨済宗妙心寺派のお寺の裏山にも三十三観音石仏が並べられていて、その中の不思議な石仏はここでもご紹介したことがあります。33体すべての写真を撮ってきましたが、気になる石仏が何体もありました。 このお寺は保科家と密接な関係があるお寺です。特に保科正之公の養祖父・保科正直や正光にも繋がりがあるお寺だとされています。体調が良い時に、一度、このお寺が建てられている市町村の図書館を訪ねて、史料が残っていないか調べてみたいと思っています。 稲荷神社は非常に不思議な神社です。稲荷神は「屋敷神」として、家々の庭などに祀られることが多いのですが、ある大学の神道研究者にお伺いしたら、稲荷神も渡来系のものだと教えて下さいました。会津には、北向きに建てられている稲荷社がいくつもあります。
2015.10.02
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【関東平野の「子安観音」石仏】 一昨日、天気が良さそうだったので、所長と遠出してきました。気になっていたところなのですが、とあるお寺の参道(「男坂」)の上り口に3体の「子安観音」石仏がありました。そして、この石仏化ある村では、期日は判りませんが、この「子安観音」石仏が並べられているところで、現在も「子安観音」のマツリが行われているとのことでした。 この「子安観音」石仏が残っている辺りは、かなり前から気になっていたのですが、実に大きな収穫を得ることが出来ました。やはり、関東平野の広範囲にキリシタンが広まっていたようです。そして、関ヶ原の戦いの後、保科家が伊那高遠に移封されることを望んだ理由もはっきりとしました。 この3体の石仏、「子安観音」ですが、少なくとも菩薩ではありません。特に2枚目の写真と3枚目の写真に写っている「子安観音」には乳房が彫られています。ですから、旧高遠藩領内で宗門人別制度が施行されたのは、おそらく内藤家が高遠藩主になってからであろうと思われます。 車の免許を取ったのは東京に住んでいたときですが、東京ではほとんど車に乗っていませんでしたし、首都高がどこをどう走っているのか判らず、都心を抜けるのにかなり苦労したので、暗くなって帰ってきた時にはフラフラになっていました。おかげで、一昨日撮った写真を整理したのは、昨夜寝る前でした。
2015.10.01
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