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【伊那谷の風景】 この4枚の写真は伊那谷で撮った写真です。雪を被っているのは中央アルプスの岳々です。伊那谷では、ツツジがきれいに咲いていましたが、中央アルプスの高いところはまだ、雪に覆われていました。また、伊那谷は天竜川が流れているのですが、天竜川の支流沿いにも、そして辰野町から松本平南西部までもが、保科正之公が高遠藩主であられた時には、高遠藩領内でした。 この旧高遠藩領内には様々なキリシタンの痕跡が残っているのですが、国土地理院の地形図を参考にしていると、会津との共通点を多数見付けることが出来ます。それだけではありません。保科正之公と共に、武士に取り立てられた3000人の人々が、山形最上経由で会津に移住していることを確認することが出来ます。 伊那高遠をキリシタン研究の為に最初に訪ねたのは2007年8月の末でしたが、それ以降にも10数回訪ねています。そして、伊那高遠で手に入れた高遠藩に関する文献や、ネット上で手に入れた『高遠町誌』をじっくり眼を通したら、様々なことが見えてきましたし、伊那高遠と穴山家との間にかなり密接な結びつきがあることも知ることが出来ました。その後、松本平や安曇野を巡り、善光寺平や佐久平を巡って、信州一帯にキリシタンが広がっていたことを確認することが出来ました。 会津にこれほどまでにキリシタンの痕跡が残っていながら、処刑されたキリシタンを確定できない理由も見えてきましたし、戊辰戦争まで、隠れ続けていたキリシタンが会津にいたことを納得することが出来ました。会津のキリシタン史は、日本の中でも極めて珍しい歴史でした。
2015.11.17
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【会津の「廿三夜」碑・「厩山」碑・「飯豊山」碑・「湯殿山」碑】 前述までのところにあった大きな石碑です。この村にも二十三夜の月待ちの習慣があったのでしょうか。それとも、「二十三夜」という言葉は、何かを秘匿している暗号のようなものだったのでしょうか。そして、「厩山」「飯豊山」「湯殿山」は明らかに修験道です。 実に不思議なことなのですが、このお寺は永禄年間に開基されたと『新編会津風土記』に記されていますが、16世紀半ばです。この時代に、曹洞宗のお寺が村の中に建てられたとは考えられません。むしろ、ここに何らかの宗教的施設があって、宗門人別制度が施行された時に、ここにお寺が建てられたと考える方が、筋が通ります。 そして、会津では曹洞宗と真言宗のお寺が多いのですが、小生が知る限りでは、こうしたことは会津に限ったことではないようです。因みに、臨済宗のお寺が少ないのは、布教に不熱心だったからではなく、宗門人別制度に組み込まれる時に、臨済宗は積極的でなかったからだったようです。 会津盆地の村々にあるお寺を、宗旨別に色分けしてみると、保科松平会津藩がどのような考え方で、各宗旨のお寺を配置したかがよく判ります。隣どおしの村にあるお寺が同じ宗旨であるケースは、数えるほどしかありません。
2013.11.29
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【関東平野の不思議なお寺】 先日出掛けたところにあるお寺の本堂の裏に小さな尾根があって、お寺の真裏に当たる鞍部に稲荷社がありました。この稲荷社があるところに、初めは真言宗だったお寺が建てられ、鎌倉時代になって臨済宗妙心寺派になったとお寺の関係者の方からお伺いしました。 そして、この尾根に大正時代になって三十三観音石仏が並べられたそうです。そう言えば、旧高遠藩領内にある臨済宗妙心寺派のお寺の裏山にも三十三観音石仏が並べられていて、その中の不思議な石仏はここでもご紹介したことがあります。33体すべての写真を撮ってきましたが、気になる石仏が何体もありました。 このお寺は保科家と密接な関係があるお寺です。特に保科正之公の養祖父・保科正直や正光にも繋がりがあるお寺だとされています。体調が良い時に、一度、このお寺が建てられている市町村の図書館を訪ねて、史料が残っていないか調べてみたいと思っています。 稲荷神社は非常に不思議な神社です。稲荷神は「屋敷神」として、家々の庭などに祀られることが多いのですが、ある大学の神道研究者にお伺いしたら、稲荷神も渡来系のものだと教えて下さいました。会津には、北向きに建てられている稲荷社がいくつもあります。
2015.10.02
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【関東平野の不思議なお寺の三十三観音石仏】 前述までのお寺の裏山に並べられている三十三観音石仏の一番から三番までです。尾根沿いに登っていく路の脇に並べられていて、登りと降りでは路が異なっています。一番の石仏に彫られているように、西国三十三観音を模して彫られたものが並べられているようですが、あの西国三十三観音も非常に気にならざるを得ません。曹洞宗のお寺に観音堂が建てられていたりします。 既に、江戸時代にはこうした不思議なことが行われていたようです。これは秩父三十三観音にも言えることです。そして、会津三十三観音でも、南山御蔵入三十三観音でも同じケースがありますし、曹洞宗だけでなく浄土宗のお寺に観音堂が建てられているケースもあります。しかし、『新編会津風土記』の編纂者はこうした実に不思議なことにはまったく沈黙しています。『新編会津風土記』の凡例からすると、寛文期の寺社改めの時にお寺から提出された文書に記されていなかったのかもしれません。 そもそも江戸時代には、仏教の各宗旨間には繋がりがほとんどありませんでした。これは幕府の意向であったと考えられます。幕府は、お寺が武装することに非常に神経をとがらせていました。ですから、寺社奉行は自由にお寺に介入することが出来ました。会津藩でもかなり厳密にお寺を監視していたようで、廃寺になったお寺や追放刑になった僧侶の記録が『会津藩家世実紀』に出てきます。 にもかかわらず、『会津藩家世実紀』にあるキリシタンに関する記録は、ごく僅かです。そして、転切支丹は城下へ移住して商売を始めることが許されていましたし、移住開墾政策が行われましたが、経済的な面では会津藩がかなり援助していたようです。これに関する記録も、『会津藩家世実紀』に見られます。
2015.10.03
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【関東平野の「子安観音」石仏】 一昨日、天気が良さそうだったので、所長と遠出してきました。気になっていたところなのですが、とあるお寺の参道(「男坂」)の上り口に3体の「子安観音」石仏がありました。そして、この石仏化ある村では、期日は判りませんが、この「子安観音」石仏が並べられているところで、現在も「子安観音」のマツリが行われているとのことでした。 この「子安観音」石仏が残っている辺りは、かなり前から気になっていたのですが、実に大きな収穫を得ることが出来ました。やはり、関東平野の広範囲にキリシタンが広まっていたようです。そして、関ヶ原の戦いの後、保科家が伊那高遠に移封されることを望んだ理由もはっきりとしました。 この3体の石仏、「子安観音」ですが、少なくとも菩薩ではありません。特に2枚目の写真と3枚目の写真に写っている「子安観音」には乳房が彫られています。ですから、旧高遠藩領内で宗門人別制度が施行されたのは、おそらく内藤家が高遠藩主になってからであろうと思われます。 車の免許を取ったのは東京に住んでいたときですが、東京ではほとんど車に乗っていませんでしたし、首都高がどこをどう走っているのか判らず、都心を抜けるのにかなり苦労したので、暗くなって帰ってきた時にはフラフラになっていました。おかげで、一昨日撮った写真を整理したのは、昨夜寝る前でした。
2015.10.01
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【会津の不思議な「石仏」】 これは少し前にここでご紹介したことのある「石仏」ですが、とある村の神社の境内に祀られています。「石仏」と括弧付きで記したのは、どう考えてもこれが仏を彫ったモノであるとは思えないからです。着衣が極めて異様です。そして下の写真は、同じ「石仏」を1998年に撮った写真です。ネガフィルムで撮ったものをプリントして、それをスキャナーで読み取っています。 この「石仏」が気になっているのは、このすぐ近くに聖徳太子堂が建てられていて、中には比較的大きな聖徳太子像が祀られているのですが、その聖徳太子堂も「キリシタン方位角」を向いています。村の中の道を直角に左に曲がって登っていくと、その聖徳太子堂が建てられているのですが、上がりきったところにお堂の右側側面があります。つまり、村の中から登っていっても、お堂の左側に回り込まないとお参りできないことになります。 それだけではありません。この村を通っている道は、主要街道ではありませんが、江戸時代から村々を巡る道でしたが、その道路沿いには4体の「子安観音」石仏が祀られています。それも、道路脇のすぐ気が付くところにです。そしてそれらの「子安観音」石仏はすべて、ここでご紹介したことがありますが、現在の村の情況と史料のデータベースを解析すると、宗門人別制度が施行されてから成立した村であることが判るところもあります。 歴史研究はどなたかが書かれた歴史書を読むことではなく、学校の教科書に書かれたことを覚えることでもなく、それらを土台にして、矛盾点を暴き出して、その矛盾点を解明するさぎょうです。会津藩がまとめた『新編会津風土記』でも、会津に残っていた文書を集大成した『会津藩家世実紀』でも、そこに記されていることをそのまま、事実として考えることは出来ません。そこで止まってしまった「歴史」学を文献史学といいますが、小生が大学で修得した研究方法は、近代的な科学的作業によって史実を明らかにしていく作業でした。
2015.10.10
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写真は「輪違い」という家紋。 この家紋を最初に見付けたのは鶴ヶ城の石垣だった。 室町時代末期から城に石垣を造るようになったが、城の石垣にこの家紋が残されている。それも明らかに蒲生氏郷が築城した時の石垣と考えられるところである。 國學院大の樋口清之氏が監修し、丹羽基二氏が執筆した「家紋大図鑑」(秋田書店、平成2年第16版)には、この「輪だけで紋章をつくることは比較的少ない」とされている。しかし、源氏系の武将の家にはこの「輪」をアレンジした家紋が残されているとも記されている。 また、鳥羽正雄氏の「日本城郭辞典」(東京堂出版、平成7年)では、室町時代末期から江戸時代初期にかけて築かれた城の石垣に、大名家の家紋が彫られていることがあるとされている。氏はその例として、徳川幕府が各大名家に築かせた江戸城の石垣などに残された「石垣石の刻符」を提示している。 小生が2度目にこの家紋を見付けたのは、ある山の高いところにある村だった。しかも、この家には二つの家紋があると考えられるかたちでこの家紋が残されている。この村には、かつては保科家の家臣だったが、かなり早い時期に帰農した家があり、現在の村名は江戸時代に改名されたもので、かつては別の村名であったと『新編会津風土記』に記されている。そもそも、保科家が領地としていたことのある高遠は伊那谷の一画にあり、伊那谷にいた京極高知は伊那谷・飯田城主の時にバテレンから洗礼を受けている。伊那谷にはキリシタンが多かったと考えているものを眼にしたこともある。蒲生家に仕えていた家臣が、加藤家に仕え、その後保科家に仕えたと考えられなくもない。 この家のもう一つの家紋は、この家がかつては京都周辺の武将(武装集団の長)であったことを窺わせる家紋である。つまり、蒲生氏郷が現在の本丸を築いた時には、蒲生家に仕える武将であったとも考えられるのである。 しかし、この村の中に、管見の限りではそうした伝承は残っていない。ただ、保科家が「保科」という苗字を名乗るようになったといわれている保科郷(現在の長野市南部の山沿いの地域で、保科正光の妻の実家・真田家はその背後の山を越えたところに城を構えていた真田氏)に残されていた観音堂の建物の向きは、蒲生氏郷が建てた鶴ヶ城とほぼ同じ向きをしていた。(1911年、山火事で山火事で焼失された。現在建っているものはその復元建造物・写真はその古い建物の写真を許可を得て撮影したもの)
2006.07.22
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【伊那高遠の諏訪神社】 これも旧高遠藩領内のとある村にある諏訪神社で撮った写真です。この神社の石垣の前には「庚申」碑や「甲子」碑が建てられているのですが、それ以外に「二十二夜」と彫られた石碑もありました。 もうしばらく前にこの神社の前で行われているマツリの動画をネット上で見たのですが、それが気になっていて訪ねたのですが、神社の近くにある墓地に<○>が彫られた墓石がありました。おそらく転切支丹類族の墓石であろうと考えられます。(司東真雄師『岩手のキリシタン』) 東北だけでなく、長野県にもこうした<○>が彫られた墓石が残っていますし、旧高遠藩領内にもこうして残っています。京極高知は飯田城主だった時に高遠で洗礼を受けているのですから、残っていて当然であろうと思われます。そして、長野県の広範囲に転切支丹類族の墓石が遺っていることも確認しています。 埼玉県の秩父から山梨県に抜ける道もありますし、群馬県北西部から佐久平に抜ける道もありますが、そうした道沿いにも転切支丹類族の墓石が遺っています。しかも、この転切支丹類族墓石には「元禄七年」と彫られています。西暦1694年です。
2015.09.24
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【伊那高遠の風景】 これまでに伊那谷を何回も訪ねてきましたが、この4枚の写真は保科正之公が高遠藩主であられた時にも高遠藩領内であったところで撮った写真です。伊那高遠にお住まいの方は、何処で撮った写真かすぐにお判りになられるだろうと思います。 最初の写真に写っている道路は、南アルプス北部を縦走した帰りに通ったことがあったのですが、バスに乗り込んだらすぐに寝てしまったのでまったく記憶にありませんでした。ただ、伊那高遠のキリシタンはかなり広範囲に広がっていたようで、国道や県道を走っていると様々な不思議なものを見付けることが出来ます。 そして、会津に残っている民俗的習慣が、伊那高遠にも残っていることを確認することが出来ましたし、天竜川やその支流沿いにも同じ習慣が残っていることも確認することが出来ました。そして、その習慣は、間違いなく会津藩領内にも残っています。但し、史料にはそうした民俗的習慣は記されていません。『新編会津風土記』にも『会津鑑』にも『会津藩家世実紀』にも記されていませんから、旧高遠藩領内を丹念に巡ることによってしか知ることが出来ません。 「保科正之公はキリシタンだったんです」とある方からお伺いして、そうした習慣が残っているところにも、保科正之公と共に山形最上経由で高遠から会津に入って来られた家々があることも理解することが出来ました。「○○マキ」という同族集団です。これは会津盆地にもありますし、現在は新潟県に属している、かつては会津藩領内だったところにもあります。
2015.11.11
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【武蔵国のとあるお寺】 昨日、かなり以前から訪ねてみたいと思っていたお寺を訪ねました。武蔵国にあるかなり有名なお寺です。小生は山門のところまでは、高校生の時に一度来たことがあるのですが、中へ入ったのは昨日が最初でした。写真に写っているのは、中門とその奥にある本堂です。この本堂ではご法事が行われていましたが、正面のところまで入ることが出来たので、本堂の向きを計って来ることが出来ました。 小生が高校生の時に来た時には、周辺には畑や雑木林が広がっていましたが、現在は首都圏の周辺部の典型的な住宅地になっています。ただ、本堂の入口のところでその向きを計ったら、小生が「キリシタン方位角」と呼んでいる方位に入る方向を向けて建てられていました。そして、境内には不思議なものも残っていて、「やはりそういうことか」と考えざるを得ませんでした。 現在、東京都の北側と埼玉県の南側は、戦後しばらくしてから住宅地化したところです。また、東京大空襲で焼けたところは、環状七号線とJR高円寺駅の間くらいまでで、そこから西側は一部に田圃があったようですが、関東ローム層上の台地には、雑木林と畑が広がっていました。小生が幼稚園に通っていた頃には、阿佐ヶ谷駅の北口から少し北の方へ歩いていくと、養鶏農家や畑がありました。里芋の葉に朝露がのっているのを落としながら、幼稚園へ向かったことを覚えていますし、小学生になってからは、凧揚げをすることが出来ました。 また、JR中央線の三鷹駅から立川へ向かうと、左側に電車の広い車庫があったのですが、線路を挟んだ北側には畑が広がっていました。あるいは、今では想像することもできませんが、渋谷駅から国道246号線を路面電車に乗っていくと、用賀辺りには田圃や畑が広がっていて、亡母の従兄が養鶏をしていました。
2015.11.02
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【南房総の首無し地蔵と被破壊六地蔵】 前々回の「子安観音」石像と同じところに集められていた首無し地蔵や破壊された六地蔵です。首無し地蔵石像はどこも破壊されていないのですが、地蔵菩薩像と思われる石像は、首が落とされています。そして、一つの四角柱の石に6体の地蔵菩薩像が彫られているものは、上部の左側が破壊されています。 そして、前回ご紹介した青面金剛石仏はかなり激しく破壊されていたものが、修復されています。ネット上ではこうした首無し地蔵は「廃仏毀釈」の名残であるように考えられているようですが、それならば何故、「子安観音」石像は破壊されなかったのでしょうか。 実に不思議なことなのですが、もうかなり以前に、房総半島の南部にもキリシタンがいたことを聞いたことがあります。そのキリシタンの子孫は、明治期以降に、キリスト教のとある教派の教会員になったとのことです。そして、その話を総合して考えると、明治初頭まで、彼らはキリシタンの信仰と習慣を保ってきていたと思われます。 ただ、その当時の聖職者はもう皆さん天に召されてしまっていますから、詳しい記録が残っていない限り、はっきりとしたことは判りません。ただ、そうした教会の仕事を手伝いに行ったことがあるのですが、その時のことを思い出すと、色々と気になることが思い出されます。
2015.02.25
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【保科郷にあった「子安地蔵」と宝篋印塔群】 2009年5月17日に保科郷を訪ねた時に撮った写真です。大きな六地蔵が祀られていましたが、そのうちの一体は幼児を抱いたものでした。そして、とあるお寺の墓地には宝篋印塔が何基も残っていました。最初に保科郷を訪ねたのは、2003年でしたが、その時はゆっくり巡ることが出来たなかったので、木島平を訪ねたあと、保科郷を再訪したのですが、保科郷にもキリシタンが広がっていたことを確認することが出来ました。 保科家が伊那谷に最初に移動した理由ははっきりしていません。しかし、保科一族がキリシタンになっていたことは、伊那谷にはっきりとした証拠が残っています。ですから穴山梅雪の妻・見性院が何故保科正之公(当時は幸松)を保科家に養子に出すことを提案したのかが気になっていたのですが、2009年に保科郷を再訪して理解することが出来ました。 そして何よりも、保科正之公の生母・お静の方の実家がキリシタンであったことは、『会津藩家世実紀』に残っている文書から明らかになっています。そして、お静の方は日蓮宗に帰依していたとされていますが、お静の方が幸松と共に伊那高遠へ移住した時にはまだ、宗門人別制度は施行されていません。そして、実に不思議なことなのですが、お静の方は幸松を生んだ後も、秀忠の側室になっていませんし、将軍秀忠には側室が一人もいませんでした。 そして、幸松は保科正光の養子になったのですが、保科正光の妻は真田幸村の姉妹でした。しかし、真田一族にキリシタンがいたことは、蒲生氏郷の重臣に真田隠岐守と記されている人物がいたことが、天正十九年蒲生家家臣帳に残っています。この真田家の城があった上田市真田町は保科郷の真ん中を上がっていく道を上っていくと、菅平に出て、そこから少し下ると戸石城があった一帯に出ることが出来ます。
2015.11.01
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【福島県中通り地方の「子安観音」石仏】 これはまた別のお寺の入り口付近にある「子安観音」石仏です。このお寺の前の通りに面して祀られていました。しかし、非常に不思議なことに、このお寺は曹洞宗のお寺です。「子安観音」はおろか、観音菩薩が祀られていることさえ信じがたいことです。 この写真を撮ったのは去年の4月23日でした。細かい荷物を東京へ運んでいた時に、ある方にこの一帯を案内していただきました。会津だけでなく、こうした「子安観音」石仏が中通り地方でも公然と残っています。おそらく、これがキリシタンの聖母マリア像だとは村の方々は「聞いたことがない」とおっしゃるだろうと思います。 日本の歴史教育の結果だと小生は考えています。「日本は昔から仏教国だった」と何回も聞いてきましたが、日本が仏教国だった時代はありません。飛鳥時代に仏教に触れることが出来たのは、天皇家と一部の貴族だけです。一般民衆の中に仏教は入ってきていません。『新編会津風土記』にはかなり古い時代に開基されたと書かれているお寺がありますが、その時代に、村の中にお寺が建てられたとは到底考えられませんし、仏教寺院が一般民衆と葬式や法事で関わるようになったのは17世紀半ば以降です。 お寺には「山号」がありますが、あの山号はお寺が山の中に建てられた名残で、村の中に建てられたお寺にも山号が付けられたのであろうとしか考えられません。多くの方々は不思議に思われるかと思いますが、お寺のご住職の中には、こうしたことをよくご存じ方もいらっしゃいます。
2015.03.15
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【日本の農業とTPP】 これはまた別の村で撮った写真です。最初にこの村を通ったのは1997年の秋のことでしたが、その時は稲刈りの真っ最中でした。この写真を撮ったのは2007年5月30日です。田圃には木が生えていました。そして、木が生えていない田圃も夏になれば葦葭が生えているだろうと思えました。 この村は古い村ですから、江戸時代からこうした谷間も開墾して田圃を造ってきたことは間違いないと思います。そして、かなり山の多くの村ですから、この村には小学校の分校がありましたが、現在は廃校になっていて、建物だけが残っています。そして、何回もこの村を訪ねているのですが、子供を見かけたことはありません。 因みに、葦葭が生えてしまった田圃は、それを刈り取ったくらいでは米を作ることは出来ません。土に根が残れば、そこからまた葦葭が生えてくるそうで、田圃に戻すには土を入れ替えなければならないそうです。高齢の方々が多い村で、借金をして土を入れ替えても、それを返済できるだけの米が収穫できるとは思えません。 TPPの「大筋合意」の内容が知りたいのですが、新聞でもテレビでも報道されていません。ただ、農産品や畜産品で関税が撤廃されるのは、何年も先のことのようですが、米は別枠の輸入量が決められているようで、日本の農業は、ことにこうした谷間の小さな村の農業は、それほど遠くない将来に消滅するのだろうと思えて仕方がありません。
2015.10.21
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ある村にあるお寺の墓地でみつけました。会津藩『家世実紀』に記されているのですが、この村には蒲生軍団の中でも「猛将」と言われていた人の子孫が住んでいました。今は、その苗字の家はありません。 この「尼」も中が「エ」になっています。そして、禅の旁の上部が「口」と「人」になっています。この市町村とその周辺には、蒲生以前からキリシタンが伝わっていたと考えられるモノや記録が残っています。 この村のお寺は、村の中の広い道沿いの家々の間にある路地を入っていくと、家並みが途切れる辺りにあります。そして、このお寺の本堂も方位102度±3度方向を向いています。 前述の蒲生軍団の武将は「熱心なキリシタン」と言われています。蒲生氏郷が会津へ移封された時に、蒲生氏郷の家臣になった人物です。そして、この村と蒲生氏郷を結びつけるもう一つの重大なことがあります。
2007.10.17
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台座だけが残っているものもあります。周辺にそれらしい蓮華座や石仏はありませんでした。最近は、この山腹を手入れする方がいらっしゃらないのかと思ったのですが、しかし、参道の周辺が整備されている所もあります。日当たりをよくするためにか、松の木が伐採されている所もありました。(山火事で燃えたところではありません) 地震で落ちたのだとすれば、石仏が粉々になるとは思えませんので、一部だけでもここに戻されていても言いように思えます。旧熱塩加納村の示現寺の山にある三十三観音は、雪で下に落ちてしまったものがありますが、小生が見に行ったときには、山裾に何体も残っていました。 福島市にある県立図書館の東側、新幹線のガードを潜った所から北に、山道を登るとこれらの石仏が並べられています。山道ですから、普通の靴では歩きづらいと思いますが、ゆっくり見て歩いても2時間もあれば十分です。 お近くにお住まいで、関心のある方は是非お出かけ下さい。そして、この石仏群の歴史と、その変異の理由をお考え頂ければ幸いです。福島市には「戎ヶ屋敷」というところがありました。そこからは、メダイが出てきています。その写真を、ある方が送って下さったキリシタン研究冊子で拝見しましたが、間違いなくキリシタン時代のメダイであろうと思います。
2008.08.01
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【会津に残る高遠の香り】 これらの3枚の写真は、現在は新潟県になっていますが、江戸時代には会津だった地域で撮った写真です。2008年のことでした。この頃にはまだ、伊那谷を一度しか訪ねていませんでしたから、すぐには気が付かなかったのですが、会津には伊那谷に残っている民俗的習慣が、所々に点在しています。現在はそれをはっきりと断言できる伝承を、色々な村々でお伺いしたことがあります。 「マキ」という同族集団は、おそらく高遠から続いてきたことであろうと思われます。また、伊那高遠から伝わったコトが会津にも残っているのですが、上段の写真に写っている墓石は、そうしたコトが伝わっている一帯でも出会ったことがあります。つまり、残されている史料からでは知ることが出来ない民俗習慣の中に、伊那高遠から山形最上経由で会津に入って来た家々があることは間違いないと考えられます。 保科正之公と共に伊那高遠から山形最上経由で入って来た家々の中は、そして、会津藩領内だけでなく天領南山御蔵入にも帰農しているケースが少なくないことを確認することが出来ます。ですから、会津のキリシタン研究にとっては、それを十分に考慮しながら進めなければならないのですが、保科正之公は何故、3000人の農民を武士に取り立てて、山形最上経由で会津へ同行させたのかが気になります。 そして、こうしたことを会津藩領内と天領南山御蔵入で確認し続けて来たら、答えは一つしかないと考えるようになってきました。と同時に、『会津藩家世実紀』では処刑されているキリシタンの子孫が、『新編会津風土記』に残っている17世紀初頭の文書から処刑されていないことを読み取ることが出来ます。10年以上、残されている会津の史料と格闘してきた結果でもあります。
2015.10.31
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【曹洞宗寺の如意輪観音石仏】 これは今年の3月3日に佐久平のとある曹洞宗のお寺の境内で出会った如意輪観音石仏です。このお寺の境内には新しい観音菩薩像も祀られていますが、その観音菩薩像にはあまり関心がありません。むしろ、こうしたそれほど新しくない観音菩薩石仏が曹洞宗寺に祀られていることに関心があります。 この如意輪観音ですが、左手の一つが蓮の華のようなものを持っていますが、花の下に葉のようなものが彫られています。ですから、これは蓮の華とは思えません。蓮の華と葉が一本の茎から出ているのを見たことがありません。そして、その横には輪宝が彫られています。この輪宝は円盤投げのように投げて敵を倒す武器で、仏の教えの偉大さを象徴していると言われています。 しかし、輪宝に中央にある4本の線は、キリスト教の"Χ & Greek Cross"と同じです。この石仏には、奉納年月日は彫られていませんでしたが、風化程度からすると江戸時代のものであろうと思われます。こうした石仏が何故、曹洞宗のお寺に残っているのか大いに悩んでいますが、こうしたものは佐久平に限ったことではなく、会津にもありますし、中通りや栃木県にも残っています。 「卍」はキリスト教でも、仏教でもそれぞれに意味をもって使われていますが、"Χ & Greek Cross"はキリスト教だけで用いられているシンボルです。また、会津には輪宝に「Χ」が彫られている如意輪観音石仏があります。とあるところに祀られている三十三観音の一番が左手で捧持しています。江戸時代中期以降、つまり宗門人別制度が施行されて以降に、宗門人別制度に組み込まれながらもキリシタンの信仰と習慣を保持し続けてきた人々が、こうした像の製作を石工に依頼したのかもしれません。宗門人別制度はキリシタンの取り締まりのために制定されたとされていますが、しかし、隠れてキリシタンの信仰と習慣を継承していたことは、少なくとも会津では、『会津藩家世実紀』にある記録から明らかなことです。
2012.06.13
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【関東平野の不思議なお寺の墓地にあった五輪塔と宝篋印塔】 先日フィールドワークに出掛けたお寺の墓地にあった五輪塔と小さな宝篋印塔です。少なくとも、五輪塔は女性の墓石であることは、彫られている文字列から判ります。また、宝篋印塔は笠の部分と最下部の反花座が残っているだけですが、風化程度からすると、五輪塔よりもかなり以前に建てられた墓石であろうと思われます。 このお寺は保科家と密接な関係がある臨済宗のお寺ですが、ここでご紹介したように、裏山の尾根の鞍部に稲荷社が建てられています。お寺の関係者の方にお伺いした限りでは、稲荷社があるところにお寺が建てられたとのことですが、お寺の入口の前の道路の両側には、村の家々が並んでいます。 会津ではこうしたことはそこら中で見られますが、少なくとも、宗門人別制度が施行される前には、お寺が村の中に建てられることはなかったと、とあるお寺のご住職からお伺いしました。そのお寺の周辺にもキリシタンの痕跡が残っていることは、同じ市町村にある同じ宗旨のお寺のご住職が書かれた本に記されています。知り合いのご住職が、最後に残っていた一冊を手に入れてきて下さいました。 もうお気付きの方の多いかと思いますが、このお寺は下総多胡にある樹林寺です。伊那高遠にある樹林寺は真言宗のお寺ですが、下総多胡の樹林寺は臨済宗妙心寺派のお寺です。そして、下総多胡の樹林寺にある「夕顔観音」を模した像を、保科正直が彫らせて、それを伊那高遠に持って来ると同時に、下総多胡の樹林寺の床下の土を伊那高遠に運んだとされています。
2015.10.08
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【会津の不動明王堂と「馬頭観世音」石仏】 前述までの一帯のとある道路脇に不動明王堂が建てられています。うえの社ッ真はその内部を撮ったしゃしんですが、このお堂へ行く路の脇に清水が湧き出ています。そこに、何故か下の写真の「馬頭観世音」石仏が祀られています。 この清水も非常にきれいな水で、どなたかが栽培されているのか、クレソンがびっしりと生えていました。会津は水がいい所為か、かつては村の中を流れている中水道にもクレソンが生えていました。あるいは、道路脇の細い川にも自生しているところがありました。この「クレソン」ですが、これはフランス語名で、日本語では「オランダガラシ」とも言うそうですね。ただ、日本に入ってきたのは明治初期だとされています。 そして、この不動明王堂の裏手にも、滝がありました。この不動明王像の横に呪文が書かれた紙が張られています。密教では、阿闍梨から法を受けるときに儀式で、潅頂(かんじょう)という頭から水をかける儀式があります。ここでそうした儀式が行われたのでしょうか。 このお堂の正面は、きれいに整頓されていました。線香だけでなく、ろうそくも準備されていました。過疎化高齢化が進んでも、どなたかがここを管理されていらっしゃるのだろうと思います。そして、「馬頭観世音」石仏の後ろに写っている木は、一位の木のようです。
2014.04.02
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これも同じ墓地にあります。道号と位号は残っていますが、戒名の部分が削られています。判読不能です。 この墓地には、16世紀末から17世紀初頭の板碑型の墓石が残っているのですが、それらは表面破壊が行われていないように思えます。 今日の花粉飛散予報では、東京周辺でも飛散が始まったようです。飛散は悲惨です。マスクをしていないと部屋の中でも苦しいです。 山の中の墓地は、その多くが杉林に囲まれています。会津には檜もあります。むかしの人は花粉症にならなかったのでしょうか。とりあえず、杉だけは戦後の植林によるものが多いように見えます。
2008.02.07
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この「禅」の旁も点が二つです。そして、「門」と「霊」は略字が使われています。前にも述べましたが「ヨ」の下に「大」と書かれている文字は「霊」の略字です。 しかし、小生が知っている範囲では、戒名には略字は使わないようです。「門」が略字で書かれている墓石は、会津ではそれ程多くありませんが、「霊」の略字は広範囲にわたって分布しています。 また、本来は墓石には戒名しか書かないといわれています。特に「霊」という文字は書かないとも言われています。それは、この下にいらっしゃるのは「仏」になった方です。「霊」ではありません。葬儀の時の白木の位牌には「霊位」と書かれていますが、葬儀が終わった後はその白木の位牌をお寺にお返しするするのはそのためだということも目にしたことがあります。 不思議な墓石ですが、会津のと真言宗のお寺の近くにある墓地で見つけました。この墓地には、戒名しか彫られていない古い墓石が残っています。
2007.06.05
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【松本平の石仏】 これは、松本平(松本盆地)の北部にある、とある曹洞宗のお寺の山門前に並べられていた石造物の中の一体です。着衣からすると地蔵菩薩像ではなさそうです。宝髻のある観音菩薩像かもしれませんが、右側に「安政乙卯」と彫られているように見えます。「安」ははっきりしています。安永年間に卯年はありません。そう考えると、三文字目が「乙」に見えてきてしまいました。 会津でも、お寺の山門の外に石塔・石碑や石仏などが並べられているところがあります。このお寺の山門は非常に立派な山門ですが、前の通りを挟んだ反対側には民家が並んでいました。会津と同じように、村の中に曹洞宗のお寺があることになります。宗門人別制度の施行命令が幕府から出されて、村の中や村外れにお寺が建てられたり、それまであった建物をお寺として使うようになったとしか思えないことがよくあります。これもそうしたお寺の一つです。山門はそして、お寺が建てられてから少し経って、新しく建てられたものかもしれません。 「新寺建立禁止令」が幕府から発せられたのは寛永八年(1631)のことです。そして翌年、幕府は大目付を設置していますが、井上筑後守政重が就任しています。この人物は、一般的には天正十三年(1585)に、徳川家康の家臣、井上清秀の四男として、遠江で生まれたとされていますが、会津藩『家世実紀』のあるところに書かれている、編纂時の註にはまったく別のことが記されています。会津藩主が保科正之公だった時代のことですが、おそらく、会津藩『家世実紀』破片算された19世紀初頭まで、保科松平家の家臣の間にその伝承が伝わっていたか、あるいはまったく会津藩『家世実紀』は編纂されなかった文書が会津藩に残っていたのかもしれません。 そして、この井上政重が幕府の初代宗門改役を兼任しています。新寺建立禁止令は、宗門人別制度施行の布石の一つであったように思えるのですが、新寺建立禁止令が発せられた翌年には、第一回目の寺院本末帳の提出命令が発せられています。つまり、新寺建立禁止令と寺院本末帳の提出命令は、それぞれ独立したものではなく、将軍徳川家光の元で始まった、仏教の解体と再編政策の流れの中にあるように思えて仕方がありません。正に、あの時代はたおやかに時が流れていた時代です。宗門人別制度を施行するための布石が一つずつ置かれていったように見えます。
2010.01.19
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【六地蔵】 これもかなり以前に撮った写真です。ネガフィルムを使っていた時です。ある小さな村の墓地にありました。石灯籠型六地蔵の火袋の部分だけが残っていました。この墓地には墓石もあまり残っていませんでした。小さな村だからだろうと思います。そして、この六地蔵も顔面が破壊されていました。 17世紀半ば以降に宗門人別制度が施行され始め、会津藩『家世実紀』などの史料上では、17世紀末には宗門人別制度が会津全域で施行されたように見えますが、この村がいつ頃宗門人別制度に組み入れられたのかに関しては、はっきりとした史料はありません。この村にお寺はありませんが、この村の檀那寺は曹洞宗のお寺です。(当該市町村史) ですから、この村にこうした六地蔵があっても不思議ではないのですが、気になるのは、何故このような破壊が行われたのかということです。明治期の廃仏毀釈運動が、こうした山の中の村まで広がってきたとは思えません。そして、この六地蔵以外に、如意輪観音像も墓地にあるのですが、その如意輪観音はまったく破壊されていません。 しばらく前から、曹洞宗の檀家である村に観音像があっても驚かなくなりました。曹洞宗のお寺に子安観音像が祀られているところさえあります。そして、曹洞宗のお寺が自ら子安観音像を手に入れたとは思えませんから、宗門人別制度が施行される以前から、そうした子安観音像がその村にあったと考える方が自然であろうと思われます。
2009.10.17
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【観音堂】 この観音堂は、考えられる誤差をすべて加えると方位132度~142度方向を向いているお堂の一つです。村の方にお伺いしたところでは、元は別の所にあったとのことですが、場所ははっきりしません。 『新編会津風土記』や会津藩『家世実紀』によると、この山の向こう側の沢に「千光寺」というお寺があったそうで、保科正之公の時代に、そこから石祠のようなものが発掘されたとされています。その中には不思議なものが入っていたのですが、保科正之公の判断で、すべて埋め戻されています。 この千光寺というお寺の宗旨は記されていません。また、記録が示す場所にも入ってみましたが、農業用水ダムが出来ていて、それらしい場所を見つけることは出来ませんでした。しかし、発掘者の氏名が書かれていることからして、この記事は事実であろうと思われます。 今日も会津盆地は良いお天気です。秋晴れとまでは言えませんが、青空が広がっています。机の横にあるカレンダーに「S」と書かれてあります。今夜は、久しぶりに会津キリシタン研究所のテレビのスイッチが入ります。夕食はハンバーガーです。所長も最近、「S」の素晴らしさに燃えはじめています。その分、ここに座って仕事をしないと、テレビを見させてもらえないかもしれません。
2008.10.09
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【画像処理】 これも前述までの太子堂があるお寺にあった墓石です。どの家のものか判らなくなった墓石が集められているのだろうと思われるところに、横にして置かれてありました。「幻荷童子」「幻眞童女」と彫られていますが、左右に小さく文字が彫られています。 こうした部分に関しては、原版のその部分だけを画像処理することもあります。この墓石に関しては、まだしていません。こればかりは、やってみないと、文字が読みとれるかどうか判りません。 この墓石の上にある丸い印ですが、会津には、これはキリシタンを示しているという伝承が伝わっています。会津出、時々見かけます。『新編会津風土記』にあるお寺の本山を見ていくと、藩を越えて本末関係があります。ここは、会津藩から小さな山一つ越えたところです。 皆さんは、この戒名の「荷」のくさかんむりが気になられますか?もちろんこうした書き方があるのですが、会津のある墓地には、くさかんむりではなく、戒名の上部に「十」が二つ横に並べて彫られている墓石が残っています。そこも、ここと同じ曹洞宗のお寺が檀那寺の村です。
2009.07.04
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【ティアラを着けた孕み観音】 頭部が見にくくて申し訳ございません。ティアラを着けているのをお判り頂けますでしょうか。この観音菩薩像は以前にもご紹介したことがありますが、会津では、これともう一体、ティアラを着けた観音像があります。そしていま、この写真を画像処理してダイエットに成功する前の小生の腹部のようなお腹に気が付きました。 すぐに所長を呼んで、「これ、子供いる?」と聞いたら、歯ブラシを加えたまま、「うんうん」と言っていました。不思議な観音像です。ただ、もしかするとこの村の方でも、この観音像のことをご存じないかもしれません。それは、この観音像が祀られているのは、墓地の一番高いところにある墓域だからです。そして、この村の墓地はここ以外にも2ヶ所、別のところにあります。 九州の五島列島に残っているキリシタンのモノを見ても同じことが言えると思うのですが、キリシタンたちはかなり自由にキリスト教信仰をこうした像の中に表現していたように思えます。小生がヨーロッパ的な像を会津で見かけたのは一体だけで、それもいまはどこかにしまわれてしまいました。写真はしっかり撮ってあります。 見つけたのは、若松城下からすぐ近くのお寺です。ここから歩いて行ったこともありました。小生が歩いて行く距離ですから、大して遠くはありません。ただ、もしかすると、旧若松城下の地域には、まだ西洋的な像が残っているかもしれません。いつかそうした像が公になるといいなと思っています。
2009.11.09
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これもある子安観音堂に祀られている「子安観音」像です。舟形光背の部分が赤く着色されています。子供は抱いていません。このお堂の向きもほぼ102度±3度方向を向いています。この村の名前も国土地理院の地図に載っている名前と『新編会津風土記』の名前が異なっていました。そして、最近の町村合併時に『新編会津風土記』の村名に戻されています。 この村もそれなりの歴史が墓地に隠れていました。おそらく、蒲生氏郷時代に村が再編されていると思われます。周囲の領国との接点には、優秀な武装集団がいなければなりません。言い換えれば、軍事的精鋭集団です。この村もそうした村であることは、地理的情況からはっきりしています。 「けものみち」という言葉がありますが、あれは道がないことを意味しています。登山の世界では「藪こぎ」と言っていました。戦国時代に大軍団を移動させることが出来るのは、ある程度の道幅を持った道路だけです。豊臣秀吉が会津へ来たときに、勢至堂峠や関山峠を整備させたのは、軍事的意味があったと思われます。屈強の蒲生軍団ですから、道を広げて一気に攻め込まなければ、山に囲まれた会津を攻めることが難しかったからであろうと思われます。 秀吉が背炙り山で茶会を開いたのは、それを理由に会津盆地全体を見渡すためであったのではないかとも思われます。東山温泉から背炙り山にロープウェーがありましたが、あの降り場から少し上ったあたりから会津盆地全体が見えたような記憶があります。春の新緑が始まるの頃だったので、余計に眺めが良かったのかもしれません。
2008.06.15
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【二十三夜供養】 これもあるお寺の境内にありました。ストロボを使って撮ったので、文字が読みづらくなってしまいました。1999年11月28日で、この頃はネガフィルムで撮っていました。 ご紹介している「二十三夜」は、最初のもの以外は、撮った日時の順序に沿って並べています。何の関連性もありません。地域的にもバラバラです。特に1990年代は、『新編会津風土記』のデータベースを見ながら、気になるところが出てくると出掛けていました。 この「二十三夜供養」は、帰りがけに寄ったお寺で偶然見つけたものです。「供」までは見えますが、その下は地面の中に埋まっています。「三」は右上がりになっていないのに、「十」の横の線が右上がりになっているのが気になります。「キリシタンではない」と伝えたかったとは思えません。それならば、初めからこうした「十十」は書かなかったはずです。「二十」と書ける十分なスペースがあります。会津のとあるお寺に残っている、キリシタンのものと伝えられている位牌には、「ナ」に近い形が書かれています。 やはり長距離ドライブは疲れます。今夜はこれで、風呂に入って暖まってから寝ます。しかし、まだ8月です。いつもなら、かなり残暑が厳しい頃だと思うのですが‥‥‥
2008.08.24
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【路 その壱】 現代の路には、陸路・海路・空路がありますが、江戸時代には空路はありませんでした。また、日本の川は平野部や水の流れの遅い特定の川を除いては、人間や物資の輸送には用いられていませんでした。山国ではことにそれが言えます。会津の場合、新潟から会津盆地へ舟で上がってくるためには、難所が何ヶ所もありました。ですから、会津の路はそのほとんどが陸路です。それも、戦後になって開削された自動車道ではなく、荷車が通れる路が主街道でした。 この写真の下に写っている路は、この市町村では戦後まで、自動車が通れる主要道でした。峠道です。そして、この峠道の途中には、前述までの木地師の村が3つありました。そうした意味では、戦後までこの路が物流の路だったと考えられます。しかし、江戸時代にこの自動車道があったわけではありません。歩いてここを超える路はこの写真の山の方にありました。現在はまったく使われていません。 しかし、こうした山の中の旧道のルートと地理的形状には、極めて興味深いものがあります。現在は林道が開削されているところが多いのですが、その林道と同じ峠を越える山道が国土地理院の地形図に載っています。村の方にお伺いすると、そこが昔の路だったことが判りますが、江戸時代の情報はすべて、こうした路と通って運ばれました。原則として、それ以外に人の移動は不可能だからです。 しかし、こうした正規の路以外にも、山の中には様々な路が残っています。国土地理院の地形図では、点線で記されている路です。こうした路が、様々な情報が運ばれる経路であったのであろうと思われますし、「南山御蔵入騒動」と呼ばれている近代化への変革の先駆者たちの動きの中に、こうした情報搬送ルートが隠れているように思えます。沢を溯って峠に出た後、また沢沿いに下っていく路です。峠は一方通行ではありませんから、こうしたルートが選ばれていても不思議ではありません。
2009.12.06
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【信濃路の子安地蔵】 これも前述までの薬師堂の境内にありました。乳児を抱いています。一般にはこうした像は「子安地蔵」と言われているようですが、地蔵菩薩像と子供が出てくる民話は会津にも残っています。あるいは、光輪に不思議なものが三つ付けられている「子安地蔵」があるところにも、必ずと言っていいほど、他にも気になるものが残っています。これはこのブログでも何回かご紹介してきました。 「民間信仰」という言葉が時々使われています。岩波書店の『広辞苑』では「民間に伝承されている信仰。民俗宗教。」と説明されています。おそらく仏教の教理や神道の伝統にそぐわないので、こうした考え方が出てきたのであろうと思われます。これも勿論、「子安地蔵」に限られていることではありません。ここで何回かご紹介したことのある、小生が「メム観音」と呼んでいる石像もそうです。あの石像は一般的には「子安観音」といわれるだろうと思います。抱かれている子供の腕がヘブライ語の「メム」に、それも明らかに書き順まで知っているかのように彫られているのに気が付かなければ、そして、「マリア」はヘブライ語では「ミリアム」で頭文字は「メム」だということをご存じなければ、それに気が付くことはあり得ないだろうと思います。 小生も40歳くらいになってから、ある学校でヘブライ語の授業に半年だけ出させていただいていなければ、すぐには気が付かなかったであろうと思います。あのメム観音に関しては、少し詳しく書き残しておきたいと思っていますが、それを公表するのはかなり後なってからにしたいと思っています。もっともっと自由にキリシタンのことを口に出せるようにならなければ、必ず大きな問題が起きるであろうと思わされています。 真実の歴史を秘匿しなければならないということは、実に悲しいことです。そして、秘匿しなければならない理由が極めて理不尽なものであれば尚更です。秘匿し続ければ、その理不尽なことは必ず後世にまで残ります。そして、歴史研究者が目を閉じたり、沈黙すれば、悲しみはいつまで経っても消えません。
2011.03.07
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【会津の「孕み観音」】 これはこれまでに何回もここでご紹介したことのある「観音菩薩」石像ですが、下腹部が膨らんでいるところから、「孕み観音」と所長が命名しました。会津のとある村の墓地にあるのですが、隣の村の墓地には何体もの「孕み観音」石像が残っています。そして、この村を挟んで反対側の道路脇にも墓地があるのですが、そこには宝篋印塔の部品を組み合わせた石塔が建てられています。 この不思議な「観音菩薩」石像に最初に出会ったのは1998年のことでした。その時には、下腹部が膨らんでいるとは思えず、「メタボ」だと思っていました。しかし、2006年にこの写真を撮った時に、所長から下腹部が膨らんでいることを教えられ、この「孕み観音」の意味が見えました。そもそも観音菩薩は菩薩ですから、妊娠することも、出産することも、授乳することもあり得ません。菩薩は性を超克した存在です。 この村には地蔵菩薩が祀られたお堂がたてられているのですが、地蔵菩薩も菩薩ですから、子供を産ませることは有り得ませんが、この村の地蔵菩薩は子供を遊ばせる地蔵菩薩とされています。会津に残っている民話を集めた本に記されています。江戸時代の中期初頭に宗門人別制度が施行されて、お寺が人々の死に関わるイニシエーションを儀式化して執り行うようになってから、こうしたことは、ほとんど一般民衆の中から消えてしまったようです。 しかし、会津を丹念に巡り続けてきて、様々なところで村の方からお話をお伺いすると、会津で昨日した蒲生軍団、加藤家の家臣団、そして保科正之公と共に山形最上経由で会津に入って来た保科正之公の家臣団が帰農していることに気が付かされました。ですから、会津には信州の訛りが残っている一帯があります。以前に「京都の言葉だ」と聞いたことがありますが、京都ではなく、明らかに信州です。
2015.10.23
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【会津の不思議な薬師堂】 この薬師堂のことは、何回もここでご紹介してきました。扁額には確かに「薬師如来」と彫られています。そして、中に祀られているのは間違いなく薬師如来です。これだけであれば、何の不思議もないのですが、このお寺は曹洞宗のお寺です。そして、このお寺の境内にはこの薬師堂以外に、観音堂も建てられています。 最初にこのお寺を訪ねたのは2001年でした。それ以来、何度もここを訪ねていますが、曹洞宗のお寺の境内に薬師堂と観音堂が建てられている不思議さを解決できていません。勿論、『新編会津風土記』などの史料には、その不思議さを解決してくれることは記されていません。 また、こうした不思議なことがあるのは、会津だけではないのですが、それらに関する不思議なことが記されている文献に出会ったことがありません。また、会津に関わるお寺で、臨済宗のお寺があるのですが、そのお寺にある観音菩薩像を模して彫られたという「夕顔観音」を高遠へ持って来て祀ったのですが、そのお寺は臨済宗ではなく真言宗のお寺です。そしてその境内には、保科正之公の頌徳碑とお静の方の供養塔として建てられた五輪塔が境内に建てられています。そういえば、あの五輪塔にはお静の方の戒名が彫られているのですが、戒名の下に「淑霊」と彫られています。 こうした細かいことを一つ一つ並べていくと、会津のキリシタン史がはっきりと見えてきました。勿論、『会津藩家世実紀』の記録などは十分に参考になります。『会津藩家世実紀』は第八代会津藩主・松平容衆に読んでいただくために編纂された記録文書集です。
2015.02.25
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蒲生岳の麓の村です。蒲生といいます。 ほとんどの建物が総二階になっています。平屋では確実に埋まってしまいます。それでも、この写真を撮った2003年1月12日には一階部分が見えています。 前掲の写真を撮った辺りからは只見町になります。広いです。東京都23区が約616平方キロですが、只見町は約748平方キロあります。只見川沿いにはそれ程平坦な部分はありませんが、支流の伊南川流域はかなり幅の広い、沢というよりは盆地と言いたくなるところです。 この広さは、会津全体の約15%にあたります。 会津藩『家世実紀』には、こうした地域も旧正月明けにキリシタンを厳しく穿鑿したと記されていますが、どう考えても出来たとは思えません。今のように、自動車道も除雪機械もない時代です。 30年近く前には、道路も鉄道も大雪で通行不能になったことがありました。「穿鑿したがキリシタンは一人もいなかった」という幕府への報告書を信用することは不可能です。徳川家がかつて住んでいた岡崎周辺では、積雪10センチで大騒ぎしていたと従兄弟から聞きました。三河の山の中も雪はほとんど降りません。南アルプスが衝立になっています。
2007.10.19
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【会津の不思議な石仏】 これは前述までの石仏などが墓地にある村から、少し離れたところにある村の墓地にあった如意輪観音石仏です。「延享三寅天」「十二月晦日」と彫られているように見えます。旧暦延享三年十二月晦日は、西暦1747年2月9日(木)です。何か特別な日だったのでしょうか。大晦日以外には、小生には思いつきません。この年はまだレント(四旬節)にも入っていません。 宮城県のあるところでは、大晦日の深夜、子供たちは一度起こされて、布団の上に正座をして、右手を頭に持っていき「頭が痛くなりませんように」と唱え、次に胃のあたりに右手を持っていき「お腹が痛くなりませんように」と唱え、それから右手を左肩に持っていき「肩が痛くなりませんように」と唱え、最後に右手を右肩に当てた後、胸の前で合掌させられたそうです。これをお話しされたご婦人の方は、小生とそう歳の変わらない方だと、知り合いの方がおっしゃっていました。 宮城県や岩手県のキリシタンと会津は、後藤寿庵というキリシタン武将を通じて密接な関係があると考えられます。この後藤寿庵は佐々木六角家の重臣の一人だった人物で、蒲生氏郷の母親の実家の人物です。そして、蒲生氏郷に従って、会津に入って来ていました。『天正十九年蒲生家家臣帳』には載っていませんが、『文禄三年蒲生家高目録』にはその名前が「蒲生千世寿」として出てきています。 後藤千世寿が蒲生千世寿であることは、瀬川欣一『蒲生家盛衰録』に記されています。非常に興味深いことですし、この如意輪観音石仏もお腹のところが破壊されています。しかし、その破壊された部分はほとんど風化していません。それにしても、この十二月の「十」、皆さんは気になりませんか?
2010.08.19
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【金毘羅山】 これも「金毘羅山」と彫られた石塔ですが、側面に「明治六」と彫られています。これが置かれているのは八幡神社に上がっていく参道の脇です。他に「巳待塔」と彫られた石碑と、「湯殿山」と彫られた石碑が建てられています。 そしてこの八幡神社も、方位102度±3度方向を向けて建てられています。不思議なことなので、ネットで検索したら、秋田県角館町小倉山金毘羅山中腹に切支丹墓地があるようです。ネット上には、ラテン十字が彫られた板碑型の墓石が写っている写真がありました。しかし、この金毘羅山を意識してこの石碑が建てられたとは考えにくいです。会津に、秋田県との関連伝承が残っているようには見えません。 しかし、長崎の浦上には「金毘羅山」という山があるようです。蒲生氏郷は、備前名護屋に駐在したときに、長崎や五島列島を訪ねていると言われています。(瀬川 欣一『蒲生家盛衰録 上・中・下』石岡教文堂、1982、滋賀)だとすると、この浦上の金毘羅山をこの石碑は意味しているのかもしれません。少なくともこの村には、いつ頃昨日したかは判りませんが、帰農した武士集団の家があります。 "kon-pi-ra-san" の子音や母音を少し入れ替えてみて下さい。かなり気になる音になるかと思います。何しろ「降神観」が気になって仕方がないのです。以前にご紹介しましたが、「降神観」という扁額の掛かったお堂に、子安観音像が祀られているお堂が会津にあります。
2009.09.23
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【二十三夜供養】 これはある村の道路脇にありました。この「養」も異体字ですが、特別深い意味があるようには思えません。文字が縦長になるのを防ぐために作られたものであろうかと思います。 この村のお寺にも謎があります。会津藩『家世実紀』に出ているのですが、周辺の僧侶が何人か梟首になっている事件がありました。また、追放になった僧侶もいました。しかし、事件の具体的なことは記されていません。 管見の限りでは、梟首になるほどのことではないと思えるのですが、会津藩も寺院に対してはかなり厳格に取り締まりをしていたようです。「元和偃武」と言いますが、しかし、比叡山や高野山の武装、あるいは一向宗と呼ばれた浄土真宗にはかなり警戒していたように見えます。秀吉は西本願寺(和睦派)、家康は大谷派(徹底抗戦派)をそれぞれ懐柔することに成功したかのように見えますが、しかし、信仰を持った人々の精神的強さを怖れていたのではないでしょうか。 会津藩『家世実紀』には、保科正之公が「僧侶の数を徐々に減らせばよい」と家臣に語ったとの記事があります。岡山池田藩ですべての寺院を破却し、寺請ではなく、神道請けにしたということを耳にされたときのことです。また、会津藩でも寺領を持っていたお寺がありますが、優遇されていたと言えるほどのものではありません。その石高を金銭に換え、それを蓄えたとしても、例えば本堂を新築することが出来るまで、どれくらいの年数がかかったでしょうか。農民や町人からの寄進もそれ程多かったとは思えません。お寺の建物は、専門家でなければ建てられませんし、建てるためには藩の許可が必要でした。また、会津にそうした専門職がいたという記録は、管見の限りでは残っていません。
2008.08.25
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【会津のとある村にて】 それまでに訪ねたことがなかった村へ出掛けたのですが、前述の「卍」が彫られた墓石がある村や、宝篋印塔の部品が墓地に残っているむらからそれほど離れていないところでした。2009年4月30日のことです。 上の写真の「子安地蔵」像も、そして、下の写真は、「子安地蔵」像が祀られている祠のすぐ近くに建てられているお堂の正面に祀られている観音菩薩像です。どちらも木像ですが、実に不思議に思えてならないことがあります。それは、この一帯も「太子守宗」から真宗高田派に転宗していることです。親鸞系の宗旨で地蔵菩薩や観音菩薩を祀ることは、小生には考えられません。つまり、このどちらの像も檀那寺とは関わりなく祀られたのであろうと考えられます。 最近は浄土真宗本願寺派のお寺が、観音菩薩の頃が書かれている冊子を配布することがあるようですが、戦前よりも以前にそうしたことが行われていたとは思えませんし、現在でもそうしたことをしない親鸞系のお寺は少なくないと思います。 しかし、こうしたケースは、ここで数多くご紹介してきました。東京金甌にある臨済宗のお寺の本堂が観音堂というところもご紹介しました。これなどは、無教会派の集会室の正面に聖母マリア像が祀られているようなものだと小生は理解しています。あり得ないことです。かと言って、下の観音菩薩像をご覧になって、キリシタンが仏教と集合したわけではありません。彼らは宗門院別制度に組み込まれながらも、こうした像をお参りし続けていました。
2014.04.02
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【二十三夜塔】 これは前述の写真と同じ日に撮ったものですが、別の村のお寺の境内にあります。あるキリシタンに関する文献の中に、この村にはキリシタンがいたという伝承があると書かれています。 この「十」も横の線が右上がりになっていて、縦の線が垂直になっていませんが、「塔」の土偏も同じような形をしています。この文字を書いた方の癖なのかもしれません。縦の線が左に流れているように思えます。 この写真でもお判り頂けるように、これが建てられているのは、お寺の境内にある墓地です。何故こうしたモノが墓地に建てられているのか、不思議でなりません。仏教と月待ちがどのような関係にあるのでしょうか。 このお寺の建物は現在はもう残っていません。観音堂だけが残っています。そして、その観音堂への入口には立派な山門が建てられています。江戸時代の山門のようです。京都に残っている扇の絵に描かれているキリシタンのお御堂にも山門のようなものが描かれています。そして、お御堂は三階建ての和風木造建築物です。
2008.08.25
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【会津の被破壊石仏】 これも前述の首無し地蔵と同じ墓地にありました。石仏の舟形光背の上部が破壊されています。おそらく、この破壊された部分に何かが彫られていたのであろうと思われます。これまでここでご紹介してきた首無し地蔵の多くは、なにかを隠そうとして首を落としたのではないことはご理解いただけただろうと思います。 しかし、この石仏は明らかに何かを隠そうとして舟形光背を一部を破壊したようです。合掌した地蔵菩薩の頭頂部辺りに「矢」を入れたのかもしれません。今までにも、ここでこうした石仏をご紹介したことがありました。ですから、同じ被破壊石仏でも、首のところから切断されている被破壊石仏と舟形光背の上部を切断した被破壊石仏では、その破壊の理由が異なっていたように思えます。 ですから、こうした被破壊石仏をその破壊形態ににって分類すると、破壊の理由と時期が見えてくるだろうと思っています。と同時に、同じような石仏が破壊されていない理由も、自ずから明らかになるだろうと思っています。今までにこうした石仏の写真をどれくらい撮ったか見当が付きませんが、それらを抽出して分類してみたいと思っています。 ネガフィルムで撮った写真と携帯用デジカメで撮った写真は既に分類してありますから、あとは、体力勝負で一眼レフカメラで撮った石仏を分類すればいいだけです。高速で一覧出来るように、大きな画像を小さくして、ファイル・サイズの小さなものには既にしてあります。高速のパソコンは便利です。数百枚の画像の縮小を短時間で一気に仕上げてくれます。
2010.10.19
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【双体道祖神】 高遠町の歴史博物館で、前述の六地蔵と一緒に販売されていた双体道祖神のレプリカです。会津にも「双体道祖神」と呼ばれている双体仏があるのですが、こうして手を繋いでいる像は一体だけしか見たことがありません。 伊那谷ではこうした像をよく見かけますが、会津の「双体道祖神」に似たものが千曲川流域にあります。ここでもご紹介したことがありますが男と女であると断定できる根拠は見当たりません。。一般に双体道祖神は男女の像なのですが、会津の双体仏はそれが男女であると断定できる根拠があるものは、一体だけで、それも手をこのように繋いでいるからで、二人の着衣はまったく同じです。 インターネット上で見ると、松本平にも双体道祖神が点在しているようです。来週、出会えるかもしれません。楽しみにしています。そして、雪が積もる前に、南会津を精査できればと思っています。こうした双体道祖神にも何かが隠れているような気がしてなりません。会津の双体仏に隠れているものは見つけることが出来ました。 しかし、双体道祖神に隠れているものは、会津の双体仏に隠れているものとは異なっているだろうと思います。ただ、伊那谷や松本平にもキリシタンが広がっていたことは間違いないだろうと思われます。残されたモノと史料がそれを示しています。今夜は、寝る前に少し、双体道祖神の写真集を眺めてから寝ることにします。
2009.10.16
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【馬頭観音像】 これも同じところに置かれていました。馬頭観音像であろうと思われますが、一般的な馬頭観音像は三面、つまり頭が三つあるものが多いように思えます。これも『広辞苑』には「馬の保護神として、特に江戸時代に広く信仰された」と説明されています。会津でもこの三面の馬頭観音はよく見かけます。 管見の限りでは、高遠周辺には三面の馬頭観音はあまり残っていません。高遠から杖突峠を越えて、茅野へ出る道沿いの村を探したら見つけることが出来るかもしれません。しかし、この馬を守護する観音菩薩というのは、チベット仏教や、中国、あるいは韓半島にどれくらい残っているのでしょうか。 これも江戸時代のものであろうと思われるのですが、仏教寺院とは関係なく、この村のどこかに祀られたのでしょうか。この村には方位106度±3度を向いた薬師堂がありますが、そこの祀られているであろう薬師如来とこの馬頭観音とはどのような関係にあったのでしょうか。 高遠とその周辺には、日蓮宗のお寺に観音像が祀られていたり、曹洞宗のお寺に不動堂が建てられたりしています。そして、多くの方々は「同じ仏教なのだから」ということで、こうした疑問を回避していらっしゃるように見えます。もしかすると、宗門人別制度が施行する以前から、そうした観音像があったり、不動堂があった共館ふぁえられます。
2009.05.29
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【会津の不思議な石像】 前述の石像と同じ墓地にありました。最初に見つけたのはだいぶ以前のことですが、この写真は去年撮り直したものです。合掌した三体の像ですが、一体何を表しているのでしょうか。釈迦三尊、薬師三尊などとはまったく趣が異なります。そして、腕の部分を見ると、大阪府加西市の異形石仏群の中に同じような像があるのを思い出します。 皆さんはこの三体が何であろうとお考えになられるでしょうか。会津には、六地蔵を三体ずつに分けて彫られているものがありますが、その6体の地蔵菩薩像の大きさはほとんど同じ大きさです。そして、この周辺を二度に渡って歩いてみましたが、近くの草むらの中にもこれと同じような石像を見つけることは出来ませんでした。 小生はこうした三体の像が一つの石に彫られているものを「三体仏」と呼んでいます。しかしこれを、仏教の像であると断定する根拠が見つかりません。この村には、この三体仏に関する伝承が残っているかもしれませんが、小生はそれを自分で掘り起こすことはしません。もし潜っているのであれば、今の時代、村の方々ご自身が明らかにした方がいいと思っています。ただ、「被差別民はお寺に入れてもらえなかったから、仕方なくキリシタンになった」というまったく根拠のない作り話が蔓延しすぎています。先日も、あるところでその誤解によるものだろうと思われることを耳にしました。 明日の朝、どれくらい雪が積もっているか判らないので、今夜はそろそろ休みます。今朝、薄い餅を4枚とキノコ汁を食べ、所長を車で送る前に蒸かした小さな馬鈴薯を5つ食べ、昼は自家製ソースカツ丼に所長が作ったソースをかけてドンブリ飯1杯ちょっと食べたので、夕食は湯豆腐の豆腐と白菜だけで、ご飯はほとんど食べられませんでした。会津の米は美味しすぎます。明朝の除雪作業で少しダイエットしないと、また体重計がバグりそうです。体年齢46歳をまだ維持しています。
2010.01.13
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これはある山間の村の墓地にあります。会津の大きな川には無数の発電用ダムが建設されていますが、この墓地は、その水位調整のために2回移転しています。つまり、戦中まであった墓地はダムの底に沈んでしまっています。ですから、この「子安観音」像も2回移転しているのだろうと思われますが、確証はありません。いつから墓地に置かれているか判らないからです。 この写真を撮ったのは2000年9月19日でした。快晴無風のお天気の良い日でした。こうした日は、外にあるこうした石仏や墓石の写真を撮るのが楽です。小生のような素人でも、この程度の写真を撮ることが出来ます。 この石像も明らかに子供を抱いています。この村は、かつてはあるお寺の檀家でした。しかし、明治期以降、2軒を除いて残りの家はすべて、お寺を離れて、神道葬儀をするようになりました。村人はその理由を伝え聞いていますが、簡単には表面に出てきません。ですから、江戸時代の墓石には戒名が彫られていますが、近年になってからのものはそれ程多くありません。また、戦後に亡くなられた方々の土葬墓もこの墓地には残っていません。 しかし、こうしたことに関して記されている記録はごく一部にしか残っていません。村の中で伝承が消えると、歴史が消えてしまいます。そして、誤った理解が蔓延してしまうこともあります。キリシタンに関する誤解もそうしたことに依拠している面があるように見えています。少なくとも17世紀前半には、会津全域がキリシタンであった可能性が高いと思われます。この時代には、檀家制度=宗門人別制度は影も形もありませんでした。
2008.06.14
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ある村にある「子安観音」堂です。中は見たことがありません。この観音堂の右奥には、どこの家のものか判らなくなったと言われている墓石や石像などが、いくつも残っています。そうした墓石には、江戸時代の元号が彫られています。 にもかかわらず、文化六年(1809)に編纂が完了した『新編会津風土記』にこのお堂のことが記されていません。このお堂、それ程新しいものには見えませんし、『新編会津風土記』に記されていない古いお堂は、会津にいくつか残っています。 会津藩『家世実紀』は藩内文書を編纂したもので、想定している読者はまだ若い殿様です。しかし、『新編会津風土記』は幕府に献上するために編纂されたものです。編纂の意図がまったく異なります。ですから、会津藩『家世実紀』と『新編会津風土記』には、同じ記録でも異なっているところもあります。 会津藩『家世実紀』はその編纂理由と内容からして、藩内に残されていた文書の中から、殿様が知っているべきだと編纂者が考えたものを集めて、書き写したものであろうと思われますが、『新編会津風土記』は幕府には知らせたくないことは記されていないと考えられます。そして、会津には『会津鑑』という18世紀後半に編纂されたものがあるのですが、欠損部分が多く、その欠損部分に書かれていたことが何であるかはまったく判りません。「同じようなものが二つあっては困るから、『会津鑑』はお城の文庫にしまわれた」という見解を耳にしたことがありますが、『会津鑑』が編纂された時に、『新編会津風土記』の編纂が決定していたという記録は、管見の限りでは見当たりません。
2008.06.14
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これも以前にご紹介したことがあると思います。ある村にある阿弥陀堂の、その阿弥陀像が祀られている厨子の中に、阿弥陀像の前に祀られている「子安観音」像です。この阿弥陀堂は近年になって建てられたもののように見えますが、阿弥陀像もこの「子安観音」像も新しいものには見えません。この「子安観音」像、台座も含めて一木造りで、高さは12センチ程度です。 この村の成立年代はまったく判りません。『文禄三年蒲生家高目録』には名前が出てきていませんので、それ以降ではないかと思われるのですが、この村がある一帯は、もしかするとある時期に、かなりの軒数の武家が、その集団の頭領を中心に帰農したのではないかと考えられる石碑が残っています。 また、『新編会津風土記』に記されている行政区分は、江戸時代中期以降のものであることは、『寛文風土記』(保科正之公の時代に編纂された風土記)と比較することで、理解することが出来ました。しかし、それを傍証する史料は残っていません。ただ、この一帯の村の中には、明らかに武家が帰農したと思われる証拠が残っている村があります。そして、その証拠が残っていることから、保科会津藩はそれを知っていたであろうと思われます。 保科正之公の時代、蒲生氏郷の家臣の中でも猛将と言われていた人物の孫に対して、保科正之公が特別の計らいをしている記録が、会津藩『家世実紀』の中に残されています。
2008.06.15
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これは会津盆地のある村の墓地で見つけました。胸のところに子供がいるように見えます。不思議な石仏です。また、この村にあるお寺は曹洞宗のお寺です。曹洞宗の習慣の中に、それぞれの檀家に観音像があったり、墓地に観音像を祀る習慣があったとは、小生にはどうしても考えられません。「只管打坐」と観音信仰はどこで結びつくのでしょうか。 そしてこのお寺は村の中にあり、建物自体はまったく民家風の造りをしています。曲屋のような建物です。しかし、墓地は村から離れた高台のところにあり、そこには方位102度±3度を向いた神社が建てられています。そして、墓地にはキリシタンを彷彿させるものが残っています。 今日の会津盆地は5時前から陽が射していました。いいお天気です。フィールドワークに出掛けたいと思っていたのですが、午後、歯医者さんに予約していることに気が付きました。たぶん、麻酔をかけて治療することになると思うので、血圧を下げておかなければなりません。 パソコンも厳禁です。パソコンの前でキーボードを叩いていると、結構血圧が上がります。皆さんもお気をつけ下さい。一日12時間が限界のようです。それを過ぎると、目がかなり疲れてしまいます。血圧は170近くまで上がります。
2008.06.16
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ある村の個人のお宅の庭の小高いところにあるお堂に祀られている「子安観音像」です。布を幾重にも着せられているので、まったく中を見ることは出来ませんでした。この写真も、お堂の入口から撮ったものです。 顔が凄く気になります。西洋的な顔立ちをしているように見えますが、これとよく似た「地蔵像」が小さな祠に祀られているところが、会津盆地にあります。お寺の境内にあります。 この村に関しては、成立伝承が『新編会津風土記』に記されているのですが、その伝承とこの村にある武田菱を家紋とする武田家や真田六文銭を家紋とする真田家が、どう結び付くのかまったく判りません。 こうしたことを保科松平会津藩は知っていたであろうと思われるのですが、『新編会津風土記』には何も記されていません。真田家の研究者によると、真田六文銭には二種類あって、六枚が少しずつ離れているものと、六枚がぴったり付いているものがあるそうです。
2008.06.14
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この墓石も同じお寺の墓地にあります。下の方の文字が切削されています。「居士」の「居」と「大姉」の「大」が消されているように思えます。 ただ、「居」の方は「居」には見えません。「密」のような文字だったように思えます。また「大姉」の「大」は別の文字だったようにも見えます。 「居士」や「大姉」でしたら消す必要はなかったように思えます。何か別の文字だったのでしょうが、何故別の文字だと切削しなければならなかったのか。 「舩」は人名漢字として用いられている文字です。現在の仮名漢字変換システムでも表示できます。
2008.04.04
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前述の家紋がある村の墓地にこんな紋章がありました。家紋がギリシア十字の上に載っているように見えます。こうした紋章を会津で見たのはこれがはじめてで、これ以後も見かけていません。 これがローマ・カトリック教会の古い信者さんのお宅の墓地にあったら誰も不思議に思わないと思います。そして、これも新しい墓石でした。 今日は、所長の髪の毛を染めてあげました。小生も茶色に染めてみたいのですが、「絶対に似合わない!」という声が周囲から聞こえて来るので諦めています。その代わり、毎晩、寝ている間に所長にメッシュを入れられています。朝起きると白くなっている部分が増えてます。 髪の毛を染める習慣というのはいつ頃から始まったものでしょう。キリシタンの時代に髪の毛を染めて隠れていた宣教師はいなかったのでしょうか。会津には背の高い方が結構多いので、髪の毛を染めたら目立たなかったかもしれません。 ※画像処理をしている間に地震がありました。 皆さんのお宅の近くは大丈夫でしたか? 東京分室はそれ程揺れませんでした。
2008.04.04
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