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私が以前某大学で話した時に、来談者が自分で体調を見ながら薬を調整できるようになると、快復に近づいたと思えるし、それを勧める、と話した所、ある受講生から、ドクターの指示を勝手に変える事を勧めるなんて、危険な事ではないか、との意見を頂きました。これはまさに正論で、この価値観からすれば、私は危険なカウンセラーになるのかも知れません。(笑)けれど、私は正論に根拠がない事を知っているので、自分の発言が間違っているとは考えませんでした。その場では時間もないので、議論はしませんでしたが。医者の指示にどれだけの根拠があるのか、実は何もないのです。様子を見ながら選んでいるだけなのです。その様子は患者の訴えを前提にしています。従って、患者本人が状況が変わったと感じたら、薬を変えるべき時期に来ているのです。にもかかわらず、医者の指示がなければ、変えてはならないと言うのは、根拠のない話しです。もし、医者の処方が絶対的な物なら、社会的入院とか薬漬けという言葉がうまれる状況にはならないはずです。要するに権力や権威に逆らってはならないと言う、思い込みに多くの人が縛られているだけなのです。ある来談者と語った時に、その方は医者嫌いで、できるだけ薬を使いたくなかったけれど、不安や混乱から逃れるには薬しか方法がなかったし、だからしんどかったと話してくださいました。でその方は私と話してるうちに、医者の薬を拒否してもいいし、医者を自分の都合で使えばいいんだっと思えるようになって、自己信頼ができるようになり、実際に薬を減らしていく事ができたとの事。権威や権力を相対化してそのパワーから逃れるには、権威、権力から自由でそれらを笑い飛ばす存在が必要だと言う事で、私と意見が合ったようです。もちろん、すべての医者がダメだといつているのではありません。有能な方がたくさんおられる事も知っていますし、私が信頼できる医者がいるのも事実です。けれど、医者をとりまく社会構造は、個々の医者の意志とは関わりなく、医者を権力化していくのも事実でしょう。じっくり話しを聞いて、薬に頼らないで快復を促すなんてことをしてたら、医者は経営が難しくなりますし、やるにはよほどの覚悟はいるでしょうねえ。私はほとんど医者にかかる事はないけれど、自分が必要だと思えば、それなりに自分で医者や薬を選んで、医療を利用するでしょう。決めるのは私です。私の決定をサービスとして提供するのが医者の仕事です。もちろん、ここまで言えるのは私に少しは医学上の知識があるから、ということはあるでしょう。誰にでもできると言う訳でもないかも知れません。が、少なくとも、患者は客で、医者は医療と言うサービスを提供する職人でしかありません。・・こんな亊言うから私は嫌われるんですよねえ。わかってま。
2010/01/31
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先日、旧来の知人から久々の連絡が。その方は某自治体のケースワークに最近就いたとの事ですが、いわゆる被害者の一方的な主張で事態が進んでいく事で、かえってその被害者も問題の本質に気付きにくくなり、援助者を含めた周辺の人々が巻き込まれていく、そんな状況に、危機感を覚えられて、いわゆる加害者に対する支援を行っている私に、疑問を投げかけてきた訳。カウンセリングにせよ、その他の援助にせよ、冷静な判断と受容的共感的態度はどちらも不可欠だけれど、しばしば援助する側の価値観や論理が優先され、当事者はあおられて、現実と向き合う事が難しくなるようです。一方的な分離の後問題がこじれたら、選んだのはあなた、その問題は弁護士に、DV男は何をするかわからないから、などなど、ケースをよそに回してしまったり、責任転嫁したり・・・こんな中で、冷静に事態を見つめ、当事者の利益のためにとことん寄り添う援助をしようと思うと、たちまち、葛藤を抱えることになってしまいます。真剣にやればやる程、責任が増したり、孤立したり。いまの法律や制度の中では、何をやるにしても当然限界はありますが、それ以上に、旧来の仕組みで動かそうとする上と、困り果てる当事者の間で板挟みにならざるを得ない、人間関係上の困難があるようです。ずっと以前にも有能な相談員が心病んでリタイアしてしまった、そういう人も知っているし、少なからざる当事者の話しも聴くし、先日のワーカーの話しでも、驚く事はないけれど、聞くたびに胸が痛みます。ほんとにもう、現場の援助者の声がもっと上に届かないものか、と、他人ごとながら願わずにはいられません。それができるようになれば、私の活動もやりやすくなるでしょうねぇ。・・・まだ先は長いだろうなぁ・・・
2010/01/30
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いやぁ、昨日はしっかり運動したからか、夜に急激に睡魔に襲われちまいました。朝にいつもの疎水コースを八キロ走って、夜はお風呂場で筋トレ。スクワット二百回、ヒップアッブ、腕立て、などフルセットでした。風呂から上がると、眠くて。パソコンも扱えなくて、布団に入ったけれど、本を二ページも読めなくて眠りに落ちました。が、夜半に目覚めて気付いたのは、弁当作ってなーい。がばと跳ね起きて、息子の弁当作り・・といっても余り物を適当に組み合わせるだけなんで、ほんの十分少しでできてしまうものですが。その弁当を作り終えて、やっとほんとの就眠に。朝は七時すぎに目覚めて、すっきり気持ちよく。新聞やらスーパーのチラシやらに目を通した後、昨夜にやり残したパソコンワークをこなしてます。トレーニング記録をまとめてみると、新年からひと月の間に、ほぼ、90キロほど走っている事がわかりました。カロリーにすると、六千キロカロリー、三日分の断食と同じカロリーですが、その分たくさん食べたり、筋肉が増えてきたりしていて、体重はほとんど減ってません。ああ。でもまあ、たくさん食べてたくさん消費するってのは、体にとってむしろいいこと。食べないだけでも運動するだけでもよくありませんね。そして、毎日しっかり眠ればなおいいんだけれど・・・
2010/01/30
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今日売り家の片付けをしていたら、ずっと昔の写真が出てきました。先日十年ぶりに訪ねた方の自宅での写真で、当時の小学生くらいの娘さんと写ってました。なんとシンクロすることか。その娘さんも今は二十五歳くらい。ほんと早いものです。先日はその助産院のスタッフの家族のその後も伺ったりして、時の移ろいを感じました。今日の写真では当時の私の姿も若くて、硬くて・・(笑)夜にはある方のメールが届いてました。先日お話を聴かせて頂いた事に対するお礼とその後の経過報告と。さらに、過去のメールのやり取りから、過去の辛い思いに苦しんでいた頃のことも。困難を乗り越えるには、誰かに寄り添ってもらえる事が如何に大切な事か、そんなことをあらためて実感させて頂きました。私の思いを理解し、同じようにその方がまた誰かに寄り添いたいとの言葉で締めくくられていました。人は癒され育ち、美しい花を咲かせたり素敵な実りを実現させたりします。なんと素敵な事か。私のささやかな努力がこうして私に何倍も大きな実りとして返ってきます。もちろん、これは予期せぬプレゼントであって、これを期待してお話を聴かせて頂いている訳ではありません。クライアントとの語りは今、ここで、の話しであることに変りありません。私の基本は「便りのないのはよい便り」で、クライアントが私を必要としなくなったと言う事は、私にとって喜ばしいこと。便りのない事を心配しはじめたら、私は不安妄想で潰れちゃいますからね。移ろう時に委ねるのもまた大切と言う事でしょうねぇ。
2010/01/28
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いやー、所得のない男には金をかさないってのは考えてみれば当たり前ですねぇ。今日、家族の預貯金の証明に銀行に行きました。担当者は今の自宅を担保に入れたら貸すって言うけれど、万一トラブったら銀行は五百万貸して二千万の資産をゲットできるんだから、おいしい話。けれど、その万一になると、私はホームレスでもかまわなくても、金貸した家族はすってんてんになって生活が破綻してしまいます。だから、万にひとつがあっても困る事のないよう、自宅を担保にする事は断りました。まあ、銀行さんには私と言う人間をみてもらうしかありません。借りたものは着実に返す人間である事、収入はちょー低収入、事業としては赤字経営、だけれど、借金は一度もしてないし、人に迷惑をかけるような事はいっさいしていないと言う事。この信用をみてもらうしかありません。いろいろ説明したけれど、担当者の方わかってくれたかなあ。査定にもう少し時間かかると言ってたけれど。つなぎ融資がおりないと、新しい事務所社屋を買う事ができないし、事務所移転も進められないしなあ。さて困ってしまう、どうしよう。
2010/01/27
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以前は修行の朝トレを毎日やってて、脚を壊したので、今はペースを落として、三日に一度くらいのペースで走ってます。コースはだいたい八キロ少しです。じっくり時間かけて長距離のトレーニングもしたいけれど、時間がないので、朝の一時間が精一杯です。それでも最近は朝が寒いので走り出すまでが少々辛い。けれど走り出すと、欲が出て、少しずつタイムアップを図りたいもの。その成果も少しずつあって、体重はさほど変らなくても、脂肪は少し少なくなって均整のとれた体になりつつあります。今年の年初の目標が体重を六キロほど落とす事。だから頑張ってはいるけれど、なかなか体重は落ちませんねえ。とは言うものの、この歳にしては立派と言えば立派。体型だけでなく、肌荒れもなく、きめ細やかでしっとりした肌は相変わらずの肌自慢。ちゃんとメンテナンスを続ければ、人の身体はこのように維持できるというモデルを提示したくもありますし。また、男が美しくある事の意味も伝えたくあるし。で、朝トレの後はシャワーして事務所に。講座の準備したり依頼原稿叩いたりのデスクワークで一日を過ごしました。事務所からの帰りには売り家に行って、少しずつ荷物の搬出も行って自宅に。こうして、何気ない一日が過ぎていきましたとさ。これから少し読書するかな。
2010/01/26
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今日のカウンセラー講座では、クライアントの世界に入る、と言うテーマでおしゃべりし、ロールプレイをしました。実際、事例として多くはないけれど、クライアントの語る様々な困難の中で、心理的に深い部分での困難を抱えておられる方もおられます。そんな方の語りは、とても通常では理解しがたい内容だったり、不道徳だったり、異常だったりしますが、それはしばしば、人格障害だの、乖離だの、変態だのとクライアントの抱える病理として処理されてしまいます。でもその人はその世界で生きてきたとするなら、その世界はその人にとっては普通の事でしょう。その普通の世界に入るのが怖くて、ラベリングする専門家が少なくないという事でしょうか。クライアントの世界に入り、物語を紡ぐ事で、クライアントは人生を書き換える事が可能になります。過去は変えられなくても人生の物語を書き換える事で過去の意味も変ってきます。講座ではこういったナラティブの触りの部分を少し説明してみました。その講座の後、電車で途中下車して、十年ぶりくらいの方に講座の宣伝を兼ねてご挨拶に伺いました。地域で助産院を先駆的に開業されている素敵な方です。ずっと昔、私もそこでしばらくお料理のお手伝いをしたり、勉強会などに関わらせて頂きましたが、あのころ男の世界からいきなり「女子供」の世界にワーブして、とてもいい学びや感動を頂きました。その方には深く感謝です。私はたまたま記憶力が悪く、社会にうまく適応できない自分がいたから、社会に適応しないでもがいていたが故に、いろんな体験をし、いろんな世界を体験する事ができました。こんな私だからクライアントの語る異様な世界も私にはさほど異様でも異常でもなく、その人の個人的な世界として入り込む事がさほど困難ではない・のかも知れません。ほんと人生、何が幸いするやら。夕方事務所を出ようとした頃銀行から電話です。家族の預金の事とか、家賃支払いの事とか。働かない、金もない男に金を貸す事の不安から、なかなか銀行は私に金を貸そうとはしないようです。やっぱ私は異常なんですよねぇ。せけんの基準では。(笑)
2010/01/25
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今日も一日忙しい日でした。朝はカウンセリングで、昼過ぎから脱暴力グループワークの研究方法についての会議、夕方からはメンズカウンセリング協会の理事会でした。そんなこんなでけっこうバタバタでした。協会としては、メンズカウンセリングの普及啓発を目指す訳ですが、そのためにも講座の参加者を増やす事が大事だということも話し合われました。また、協会認証メンズカウンセラーの育成のための認証会議も設けられました。これからは、メンズカウンセラーが世に出ることになります。私は今まで勝手にメンズカウンセラーを名乗っていましたが、認証制度ができた以上、協会の認証を受けて正式なメンズカウンセラーを名乗る事にします。メンズカウンセラーになるには協会主催の講座に二回以上参加し、協会に入会し、認証会議で援助実践について報告し検討しあうという作業が必要です。学歴とか資格、高度な知識や技能は求められませんが、メンズカウンセリングの理念や援助論、スキルは求められます。メンズカウンセラーを目指すあなた、既存のカウンセリングに疑問を感じるあなた、自分の問題に向き合いたいあなた、家族との関係を変えたいあなた、二月27~28日のやさしいメンズカウンセリング講座にぜひご参加ください。京都で行います。費用は二日間で12000円(協会会員は10000円)です。
2010/01/24
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今日は売り家のゴミ出しの日。先日業者にも多少出してもらったけれど、今日は知人のハイエースで本格的なゴミ出し。二十年来のレシピファイルや活動資料、雑誌や小説、食器棚や手作りデスク、畳や布団など、もうこれでもかって言う程捨てました。ハイエースに積み込んだゴミをゴミ焼却場に持ち込みます。市民持ち込みゴミとして受け入れ態勢はあるのですが、車で運ぶのは私ははじめてです。知人は仕事柄よく知っていて、まごつく事もなく順調に作業は進みました。それにしても、ゴミを捨てるピットのでかい事。縦横も深さも数十メートルはありそうな深い穴にどんどん投げ込んでいきますが、当然柵も枠もないので、誤って人が落ちないよう、安全ベルトを締めての作業です。もともと私は物を捨てるより拾う方が好きな人だから、ゴミがどんどん増えていきます。もちろん、拾った時はゴミではなくて、使える道具として拾うのですが、そのうち使われなくなって、しまい込んでいるうちに行方不明になってしまいます。けれど、古家の売却のためにはとりあえず、すべてを出して空にするしかありません。新しい家も手付けは打ったものの、まだ支払いしてないので、新しい所に物を移す事もできません。まあ、二十年の私の歴史をいったんリセットするくらいの思いでゴミを捨てました。これくらいの事でもないと、たまり込んだあれこれを処理する事はできないしねえ。いい機会かも知れません。これから、新しい事務所に移転できたら、心機一転いろいろやっていきたいですね。みなさんにもいろいろアイデア頂けたらと思います。12畳のLDKで、皆さんなら何したいですか
2010/01/23
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昨日は午前中に税務署に行き、納税所得者(事業所としては納税者がいないという報告)の申告をして、昼過ぎから市民活動センターに行き、やさしいメンズカウンセリング講座のチラシと、四月からの半年の脱暴力グループワークのチラシを印刷し、紙折り機で三つ折りにしてきました。チラシの原紙をつくり自分で印刷しダイレクトメールにして送りますが、印刷までは手間ひまかかっても実際の経費はしれてます。人件費は考えていませんから。発送は一通80円かかりますから、百カ所に送れば八千円、実際は数万円の費用になるのでバカにはできません。三つ折りにしたチラシと添え状を宛名シールを貼った封筒にいれるという地味な作業も行います。これはまつたくの手作業なので、数日の仕事です。こうした地味な作業も大切な作業ですが、私はこんな仕事が嫌いとかつまらないとか言う事はなくて、案外楽しめると言うもの。昔々、三十数年前の結婚前後の頃、私はアルバイトで近くの製缶工場での流れ作業をやっていました。たんたんと時間まで単純作業をし、休憩時間にはおばちゃんたちとお菓子をたべながらお喋りしてました。頭を使っての作業とか、上司のご機嫌を伺いながらの仕事とかは、ストレスに感じるけれど、単純作業はあまりストレスにはなりません。講演したり、講座で教えたり、物を書いたりするいまの仕事は頭を使う仕事ではないのかと不思議がられそうだけれど、今の仕事には頭はつかっている気がしませんねえ。言葉が勝手に出入りするだけで、私が必死で考えている訳ではありません。この感覚は子どもの頃から同じです。ささっと目を通したら文章が理解できたし、自分でもイメージをかなり言語化できたのです。けれど、漢字としては記憶できないし、計算はまったくできません。世界の理解の仕方や関わり方も、子どもの頃から随分、へんてこりんなものだったんでしょうねぇ。いまは笑ってられますが、当時は大変でした。私もセンセも(笑)
2010/01/22
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昨日はカウンセラー養成の講座でのおしゃべりの中で、カウンセラーの問題として、あれこれおしゃべりしました。カウンセリングする時に、問題はクライアントの側にある、と常識的には考えるでしょうが、実際のカウンセリングでは、問題は相互にあって、なのにカウンセラーは自分の問題とは考えずに、クライアントの問題と考えるから、噛み合ないカウンセリングになつてしまうのではないか・・というような事を話したように思います。ロジャースの言う事では非指示的傾聴だから、リピートして、共感して・・なんて技法だけで対応されたら、クライアントは、むかつくかもしれないし、アホらしくて次にはこなくなるんじゃないか・・とも。クライアントは人間的対応を求めているのであって、技法を求めているのではないのだから。その中のおしゃべりの中で、人の生きる死ぬというテーマも話しました。最近、しばしば人の死の話しを聞く事が多いものだから。昨日も私は自分の命は思し召しに委ねるかららくちんみたいな事を書いたかも知れません。今夜もすこし知人と話してて、私の信仰心の話しになりました。私はどこかの宗派組織には属してないけれど、個人契約では深く結びついていて、迷いとか悩み、不安はないとも。私の思春期から三十代半ばまでの実存的不安を終わらせる事ができたのは、宗教的実存を私自身が実感し得たからでしょうか。パニック発作におびえつつ酒に依存してやり過ごしていた十五年間の闇の深さも、今ではそれなりに意味のある期間を頂いたものと感謝できるようになりました。人の命のあちらとこちらの移動に関して、私たちにできない事も多々あって、ただ受け止めるしかないものでしょう。ならば、いさぎよく委ねて、こちらにいる間の命の意味について、理解し実感していたいもの。悩みや困難を抱える人たちに、その当たりの事を一緒に考えられたらいいかな、とも思います。私の命は思し召しのままにー、なんて書いてますが、だからかしらないけれど、私はなかなか死ぬという実感も不安も感じる事はなくて、飛行機事故にあっても私だけは生き残りそうな感じがする、としばしば私は話します。いつかは私も死ぬだろうけれど、いつなのかどんな死に方なのか、考えた事はないけれど、いざ考えてみると少しわくわくするかな。
2010/01/21
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昨日の女ワークは「広がるマイワールド」と「人を二種類に分けるとしたら」の二つのワークを行いました。後者は人を二つに分けるとしたら、どんな人とどんな人がいて、あなたはそのどちらで、そのことをあなたはどう思いますか?という質問のワークです。それに答える内容はその人の意識あるいは状況が反映されます。当然の事ですが。そしてまた分ける内容が人様々ということ。明るい・暗い、強い・弱い、金持ち・貧乏、幸せ・不幸、などなど、人によって分類は様々。けれど、シェアしていく中で、ひとりの中に様々な両義的な性質があって、簡単には分けられないものとの認識に到ります。自分にせよ他人にせよ、あの人は◯◯な人だ、自分は××だと、決めつけてしまうことの危うさに気付いてもらえれば、この簡単なワークも意味があるというもの。話しは変わるけれど、連れ合いの長年の友人が癌にかかってなかなか思わしくない状況との事、快復に向かえばいいのだけれど、あまりはっきりしない様子とのこと。二年程前に私の知人で私と同じ歳の方が肺がんで無くなられましたがこの歳になると、いつ癌になってもおかしくない年齢と言う事かも知れません。特に、私の世代は、子どもの頃からAF2を始め、様々な化学物質を摂取しているし、運動不足ということもあって、癌になりやすい世代なのかも知れません。煙草、酒、紫外線、熱い食品、食品添加物、殺虫剤などの家庭内農薬、などをできるだけ排除し、食事もバランス良く、適度に運動も続けるという状態を25年間維持し続けてきた私は今の所、健康状態はパーフェクトで、たぶん癌になる事もしばらくはないのではないか、と勝手に妄想しています。もちろん、神頼みしてあずからせて頂いているこの命、思し召しであればいつでもお返しすることにやぶさかではありませんが。
2010/01/20
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今は心理ブームで、どの大学も心理学コースを設けて、臨床心理士になれますみたいに宣伝しています。そして臨床心理士になれたらカウンセラーになれると思っている人も少なくないのではないか、とも思います。もちろん、産業カウンセラーとか、キャリアカウンセラーとかもあって、カウンセラーになるためのいろんな資格があるということも。けれどはっきり言えば、これは間違いです。カウンセラーになるのに何の資格も必要ありません。(いっとき臨床心理士を国家資格にしようとする動きもありましたが、どうもこれはうまくいかなかったようです。)なぜはっきり言うかと言うと、カウンセラー資格と言うのは法律では何も定められていないからです。実際私はカウンセラーとして相談業務を十年ほどおこなっていますが、何も法的な問題は起こっていません。で、私がカウンセラーとして相談する根拠は何かと言うと、クライアントが私をカウンセラーとして認めてくれている(だろう(笑))ということです。今の国家権力が人々を抑圧する構造に加担していると認識する私はその国家の承認も許可もごめん被ります。私のカウンセリングは徹底して非権力でありたいと思うからです。クライアントの承認、クライアントの快復こそが私の権威の源であり誉れです。ひとりひとりのクライアントがそれぞれの人生の専門家です。その人生に学びを得るのは私です。そしてクライアントの困難がどこから来ているか、クライアントとともに考え、あらたな物語をともに紡いでいく人としてカウンセリングをしていきます。教科書には様々な知識が膨大に存在しますが、それは参考程度に頭の中で使うだけで充分と考える私は、実は心理学やカウンセリングに関する書物はあまり読んでいません。昔読んだのは小説とか生物学とか進化論に関するものだし、今も読み続けているのは、日経サイエンスの興味ある記事で、心理関係はさほど多くはありません。でもそれでもいいと考えています。自分の知識でクライアントを分析しようとか評価しようとか、ケアしようとか、しないのだから。むしろ、そういった社会にあふれる常識的な知識や情報を醒めた目で見る視点こそ、クライアントの新たな人生の書き換えには必要なのかも知れません。カウンセラーを含めた専門家は、クライアントを生み出す病理抑圧社会の構造の一部でしかないのですから。専門家こそ問題の一部なのです。その事に気付かなければ、クライアントのほんとの快復はあり得ないのではないか、とも思います。カウンセラーはクライアントの困難を通じて自らの問題に向き合う事で成長しうると考えます。カウンセラーとクライアントがともに物語を紡ぐということはそう言う事でしょう。カウンセラーが一方的に癒したり助けたりするのではありません。クライアントとともに・・・。昨日は忙しい一日でした。予約のカウンセリングの他に急な依頼が二件ありしかも売り家のゴミ出しの作業もあったりして、ほんとバタバタでした。ふー。
2010/01/19
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連夜の夜バスに続いて、昨日も深夜テレビを見てたり、今朝も出張で早起きしたしで、ここ数日ひどい寝不足になっています。午前あった講座の講師として話すときはハイになってますから、問題は起きませんが、電車に乗ったりしたらとたんにうつらうつらしだして、乗り過ごしたりしそうでした。またうつらうつらだけでなく、右目がじょぼしょぼしたり、白目部分が痛んでごろごろしたりしています。はあー疲れたあ。顔色が悪くなっているのをスタッフに指摘されたりもしました。ほんと疲れたすねぇ。とはいってもだからどうってことはないのですが。そうそう、今日売り家の片付けをしてたら、三十年前くらいの日記とか二十年ほど前の手紙とか出てきました。ああこの人にこんなに手紙もらってるわとか、この人からももらってたなあ、とか、懐かしく過去の痛む思いが思い起こされました。ほんとに私には手紙の一通一通が宝物ではあるけれど、帰らぬ過去でもあり、薄れた記憶の底に埋葬するのも悪くはないかなと読み返す事もなく処分する事にしました。気持ちとしてはお便りを下さったひとりひとりに深く感謝したい思いでいっぱいです。今はもう痛みとしては感じる事はありませんから。ああほんと、こうして人は歳をとつていくんだなあ、と実感。それも悪くはないよね。
2010/01/18
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昨日は出張の仕事で、田園風景の中を走る電車に乗りました。その時の眠い事。うっかり乗り過ごしそうになったり。というのも、二夜連続の夜バスだから、ほとんど不眠です。と言いつつも、深夜番組を見ている私、やっぱしアホですねえ。その深夜番組は「ボーンズ」というアメリカ?の連続ドラマ。遺体の骨専門の検死官?の女性が主人公のボーンズ。かなりグロイ映像が毎回出るけれど、日本の検死官のドラマ「臨場」とは遺体の質がまったく違います。さすがにお茶の間の時間で流すには、配慮は必要ですからねえ。ボーンズは深夜だからいいのでしょうが、私は平気だけれど多くの人は、嫌悪感を覚えるのじゃないかなってくらいの遺体です。たしかにいろんな人のいろんな状況に関わることになれてくると、なんか不安とか恐怖と言うものに囚われなくなっている私になってきたようです。ほんとどんな状況でも、さして不安にも困難にもならずに、着実にこなしていく冷静さは大切ですねえ。これがないと枠の中でしか人の話しは聴けないし、心の奥底に染み入るようなカウンセリングはできないよねえ、というのも最近の実感です。皆さんこのあたりどうお考えですか
2010/01/17
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今回の夜バスは、行きは空き席があったのでそちらに移動して、比較的楽に過ごせたし、帰りも三列シートで比較的楽に過ごせました。ワークは女・男・女と男・それぞれのワークはこじんまりとした集まりでしたが、男ワークでは初参加の方が二名こられて、とてもいい場になったように思います。使ったワークはエモーショナルマツプと広がるマイワールドです。私はカウンセリングにしてもワークにしてもナラティブのスタイルで行うので、ワークの流れや着地点、などを決めずにスタートさせます。何が出てくるかわからない、自由な語りの中でこそ生まれる、参加者それぞれの発想や気づきを語り合ううちに、その中から新たな物語がうまれます。生きる動機や希望を見いだせない人にとって、自分の中にあるものからは何も出てこないのですが、他者の視点や価値観を理解すると、自身の内に隠されていた自身の動機(欲求・願い)が見えてきます。それを語り合う事で物語が紡がれ、やがてそれは希望として結晶するのではないかと思います。もちろん一回のワークで希望が生まれるなんて事はないかも知れませんが、回数を重ねるうちにそれも可能ではないかと思う私です。そしてそれは、現実世界とは無関係な架空の場ではない事も伝えられたと思います。ワークの最中にも緊急電話が入ったりして、その場が私を通じて現実の世界とつながっている事、決してリアリティーのない、ロールプレイをやっているのではない、という実感を感じる中で、ワークの場を維持できたのは、とても大切な事だろうとも思いました。現実の世界から逃避する為にあるのではなく、現実の世界に自分として主体的に生きていく力を育てるためにあるいは現実の世界とうまく折り合いをつける力をつけるために、一時避難し傷ついた心や思いを快復させるための癒しと再生の場になればいいな、と思います。そんなこんなを感じた今回の東京ワークでした。写真は国分寺の古い小さな定食屋で食べたマグロ切り落と定食。マグロもご飯も山盛りで890円でした。満腹満足。
2010/01/17
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今朝は睡蓮鉢の氷が二センチほどの厚さになってて、この冬一番の冷え込みだとわかります。けれど、今年の冬はまだ本格的な雪は一度も降って今せん。少し寂しいような、気もします。昨日も書いたけれど、私が痛い青春を生きていた頃は、寒さがお友達だったので寒いのは嫌いではありませんでした。飲んだくれてアイスバーンの上をバイクで走ってたものです。たまに転んでも酔ってるからあまり痛くもないし、田舎道だから対向車もなくて、死ぬ事はありませんでした。運が良かったのかも知れません。事故で死ぬ事より、不安発作が起こる事の方が怖くて、いつも飲んだくれてたのかも知れません。しらふで頭が回りだすとしんどくてたまりませんでした。今は、不安障害からはすっかり解放されて酒もいらないし、怖いものもないので、ほんと気楽に日々を過ごしています。さて明日はどんな一日になるかな。カウンセリングとか、フラナイなるうちわの集まりしか予定はないけれど、講座チラシ作り、ミニコミの依頼原稿、などがあるからゆっくりとはできないでしょう。引っ越しのための片付けとかもあるからねえ。ああ大変です。
2010/01/14
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昔々、私が某北国で学生してた頃、毎夜酒に頼っていたけれど、雪がしんしんと降り積もる夜も窓をあけて、毛布にくるまって酒をあおってました。なにかも覆い尽くして白一色になる景色がとてもうれしくて、寒さもお友達。体が冷えるほどその痛みは心の不安や恐怖も少しずつ忘れさせていきます。アルコールと寒さで、不安はなくなります。ぼんやりした心に白一色の美しさが染み入ります。あのころ、失うものは体と未来だけなのに不安で不安で。今は失って困る程の未来ではないけれど、家族や仕事とか、失うと、私が困ると言うよりあれこれいろんな人を困らせることになるそんな今ですが、不安はなくて恐怖もなくて、ただあるがままで、私をあらしめる力に私を委ねるだけ。痛いくらいの寒さはなくても酩酊するまでの酒はなくても、今は随分らくに生きていられます。こんな今の私があるのもあの頃の私があればこそ。今の私は不安や恐怖に震えていたあの頃の私が愛おしくて。先日売り家を片付けていたら15年ほど昔の私の写真がでてきました。なんと若いその姿。まだトゲトゲしてた頃の面影が残っていて、若さの痛々しさもすこし思い出しました。今日は全国的に寒かったとの事、明日も寒いとか・・。でも昔の北国の寒さに比べたら・・・暖かいです。楽です。
2010/01/13
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息子はもうすぐ26歳になるけれど、毎日バイトに励んでます。バイトとは言っても、無遅刻無欠勤だからかけっこう会社社長にも好かれているようで、本人も機嫌良く通ってます。通信機器関係の製造業とかでこの時代にも関わらず、けっこう業績もいいようで、バイトながらに、けっこういい稼ぎです。そんな息子に毎日弁当を作るのが私の日課です。活動兼業と言えど一応主夫してますから。実は息子は私の勧めもあって大学進学をあきらめた人で、性格はシャイで生真面目、下手すると傷ついて潰れてしまうタイプ・・・と私は理解していて、あまりプレツシャーをかけないようにしています。そんな彼が日々元気に働いてくれるのも有り難いし、多少なりとも生活費を入れてくれるのも有り難い。もちろん、恋愛とか結婚とかいう話しがあればそれはそれで面白いと思うけれど、今の所、そんな話しもなくたんたんと暮らしてます。ほんと、毎日元気に働けて、おいしいご飯が食べられたら、もうそれだけでも人生は儲け物、有り難い話しです。いろいろ困難を抱えながら生活している方の話しを日々聴かせて頂いている私は、一日安心して暮らして眠れることの有り難さをしみじみ感じます。この何気ない幸せをいろんな人たちも感じてほしいなと思う私。上昇志向がないと言われそうかな。けれど上昇しなくてもかまわないけれど、私は拡張志向があるのかな。いろんな人に私の思い(私のというより私のあずかったと言うべきかな)を多くの人たちに届けたいと思います。地面を静かにしたたかに広がっていく粘菌のように。ずっと昔に伊藤公雄が粘菌生活なんて言ってたのを思い出します。目立たないけれど、不思議な生態でしたたかに生き延びていく粘菌に例えて、新しいライフスタイルを提案していました。彼自身は粘菌生活とは無縁でしようけれど、地位も名誉も財産も年金もない私は粘菌生活力があればこそ今のささやかな生活があるのかもしれません。ははは、これからどうなるのかなあ。
2010/01/12
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昨日は慌ただしい一日でした。 朝一で売り家のゴミ出し。その後トレーニング八キロ。少しずつタイムアップしていて、朝トレ復帰して・・二ヶ月くらい前の事ですが、あの頃に比べて、八キロの時間が66分から53分にまでアップしてます。歳をとって確かに筋力の増強はしにくくなってはいるけれど、この歳でも筋肉は増強できると言う事は確かなようです。トレの後は、昼からの新年会の準備、時間がないのと、人数も少ないのとで、昨日は簡単に雑煮、サラダ寿司、焼きそば、肉じゃが、としました。サラダ寿司にマヨネーズがよくあうのを発見しました。新年会はあるグループでのもので私の事務所で行いましたが、五人程のささやかな集まりでしたが、参加者の個性がいろいろでとても話しが弾みました。私はそれぞれの方の歴史をある程度理解していますから、それぞれの方の今の様子がとても有り難くて、嬉しく話しを聞かせて頂きました。どの方にしても、出会いとか偶然とかの巡り合わせが悪ければ、今自由におしゃべりできない状況になっていても不思議ではない人たちです。それぞれが成長し力を付け、普通に暮らしたりただのバカな話しを楽しめたりする所までプロセスを経てきているし、そのプロセスに関わらせて頂いている私にとっては、今の普通がとても有り難く愛おしいものです。その新年会が終わって、自宅に晩ご飯を配達して、今度は電話相談の研修です。新しい研修生に対するレクチャーと言う形になります。電話相談と言うボランティア活動に関わりたいと言う研修生に、当事者援助をめぐる法律や制度、価値観が如何に、理不尽なものかと言う事を伝えました。また性の絡んだ相談電話の難しさや、対応の仕方について、ロールプレイを交えながら伝えてみました。電話相談では、様々な性に関する相談があるけれど、その相談に上手に対応するにはそれなりの論理とスキルが必要です。が、それをちゃんと教える人は決して多くはないでしょう。知識としてたくさんの情報を頭に入れている彼らだけれど、学校ではそういう話しはなかなか出てこないでしょうから、きっといい刺激になったものと思います。ああ、そんなこんなで、忙しくて賑やかな一日でした。
2010/01/11
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今日は月に一度の面会交流をもう足掛け六年ほど続けている親子の面会の日でした。この六年間、子どもの成長を身守り続けてこれた私にとっても、とても貴重な体験としてサポートさせて頂いています。月に一度数時間というほんとに限られた厳しい制限の中での親子関係だけれど、その中でも確実に成長している事がわかります。身体的な成長は当然ですが、能力的なことももちろん、何より人間関係が変化しているのがわかります。子どもの変化に応じて親も対応が変リます。子どもに対する気遣いだけでなく、スタッフに対する気遣いや、以前は口にする事もなかった、わかれたパートナーに対する気遣いの言葉も自然に語られるようになります。もちろん、限られた時間ですから、親子関係の成長が通常の経時変化より遅れる事は当然ですが、長い人生から比べれば単なる時差程度のもの。まったく面会もなく関係が紡げない状態よりははるかにまし。そんな途切れた関係は子どもの福祉に反する虐待と欧米では認識されるのも、こうして面会を見続けているとその意味がよく分かります。残念ながら、今の家族制度、家意識、法律のありよう、様々な意味で、子どもの福祉に反した現実があることを、世間は理解していません。当事者になってはじめて不条理のまかり通る無法状態である事に気付きます。夫婦が別れるのは仕方ないにしても、子どもから親を奪ってはいけませんよねえ。どんな親でも子どもは親を知る権利親と関係を保つ権利はあるのですから。もちろん、様々な問題があることもわかります。ですから、その問題を解決しながら子どもの権利を保障するプロの援助者が求められる訳です。これから、面会交流に関する法律が変っていくのも時間の問題でしょう。その時にちゃんと安全で有意義な面会を達成するプロの援助者のニーズが発生します。時代を先取りする仕事が、ペアレンティングコーディネーター(ビジテーションサポーター)です。あなたもそんなスキルや資格を身につけてみませんか。はじめの一歩は来月27・28日に開かれる「やさしいメンズカウンセリング講座」に参加する事かな。ぜひいらしてくださいね。
2010/01/10
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今日は四国は某県のグループワークに行ってきました。万一高速の渋滞で遅れたりしないように前回から一本前のバスに乗ってて、今日は特にスムースに走り、到着がほぼ正午。気をきかしてくれたスタッフのMさんが出迎えてくれてました。彼のお薦めで、ご当地ラーメンを食べにいきました。特に飾り気も豊富なメニューもなく、ただのラーメン屋なのに、なんと席はすぐに満席になり待ち客も並ぶ程に。ラーメンは煮込んだ豚肉汁がベースのこくうま系だけどこってり系ではありません。なるほどこれなら讃岐うどんで鍛えてる口にもあうかも。ラーメンを堪能した後はワークで心を満たすべく、ワーク会場に。はじめは参加者も少なく、全六回のセッションの最終日にしては少しさびしいけれど、その分濃いワークになりそかな、と思いつつスタートしましたが・・・近況報告をしているうちに・・・みなさん年末年始でたくさん語りたい事があったようで、近況報告も長くなりましたが・・・あれあれと言ううちに、いつもの人数になりました。今日は近況報告で押した分、二つのワークの予定をひとつにしましたが、予定の二つはいずれも「広がるマイワールド」というワークです。人生の時間軸と、自身の心理世界や対人関係などの世界の広がりをプラスマイナス軸で座標化し、自分の世界かき込んでいきます。人によって書き方、表現は様々。問いかけの意味をどう理解し、その問いかけに対してどう答えるか、それはまったく自由にできる私のワークですから、あるべき答えも目標もありません。皆さんが自身の体験や関係と感情の相関を理解し、さらにその自分を自己受容していくことが目的のワークです。それがどんな自己であれ表現であれ、そのあるがままでいいと言う事をそれぞれが確認しあえればそれでいいのですから。なんとまあ、楽でゆるいワークか、と顰蹙を買うのかも知れませんが、自分を世間の枠にはめようと努力してきた人たちにとって、人の与える基準ではなく自分の中のものさしで自分を測ることの心地よさを体験するのは、ほんとにとても大きな出来事で、ある意味ショックな事かも知れません。そのために自分で自分を語る、そんな他者の語りを聴き無条件に受容する、それが可能になる場はどこにでもある訳ではありません。ファシリのありようと参加者の思いがずれる事なく重なる事ではじめて可能となります。そんな場で生まれるのが場の力と言うものです。またそんな場によって人の心は育ち力をつけていきます。そしてファシリの私も元気や勇気を頂く事ができるのです。有り難い話しです。
2010/01/09
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いやー、昨夜も大変でした。事件事故の起こりうる現場に、電話一本で関わっていくことの、リスクと緊張感と、頭はくるくる回ります。でも、冷静に判断もしていきます。で、もう寝る、という結論になりますが、熟睡はできず、必要な時間に、布団の中で目覚めて、また必要な作業をはじめます。ああー、夜が明けたぁ。別件でやり残した仕事を朝こなして、さあ、これから四国にゴー。へろへろー
2010/01/09
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今年はじめての男ワークでした。参加は少し少なかったけれど、そのぶんみなさんたくさん話せたかな。ワークは「広がるマイワールド」です。人生の時間軸と、感情のプラスマイナス軸との座標に人間関係をプロットしていきます。良くも悪くも、私たちは生きているといろんな人に出会い、いろんな体験や感情を経験します。それを客観視する事で、自分の対人関係上の傾向を理解することもできます。私の場合は、社会規範におさまらなければならないと考えていた頃はネガティブな対人関係が多かったけれど、規範を逸脱してもいいかと思えるようになって、自分にとって楽な人間関係が増えてきたことがわかります。そしてその関係の人たちの傾向は社会的影響力が少ない人で、どちらかというとしんどい人だったり、無力な人だったりする人が多いと言う傾向もあります。まあ、こんな私だからカウンセリングを通じた無償ボランティアのような活動を続けてられるんですねえ。なるほど、自分でワークやってみて、あらためて納得できました。所で、来週16日土曜は 東京のワークですが場所は以下の通りです。関東にお住まいのみなさんぜひいらしてくださいね。場所:高円寺北区民集会所 杉並区高円寺北3-25-9(JR高円寺駅北口より徒歩6分、土日は高円寺駅は快速がとまらないので注意、駐車場無し)(電話 03ー3330-7255)http://www.yoyaku.city.suginami.tokyo.jp/HTML/0003.htm午前10時から12時 第2集会室 で女ワークを (2000円)午後1時から4時 第3集会室 で男ワークを (3000円)午後7時から9時 東村山市中央公民館で 女と男のワークを (1000円)
2010/01/07
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いやー、ついに判子おしてしまいました。たっかい買い物です。とは言っても、持ち金はあまりないので、今稼働率の悪いシェルターとして残しているうちを売るという前提です。すぐに売れない場合を見越してつなぎ融資と言う事で、銀行にも金を借りてって言うことになりますが、ローンではないので、売れた時点で銀行に返済と言う形にします。つなぎ融資が取れなければ契約は白紙になります。それにしても、売るためには倉庫みたいになっている部屋を、いろいろと処分して掃除しなくてはなりません。二十年の遺物・・異物・・が山のようにあるので、それを片付けるのだけでも四苦八苦です。ああー融資がとれたら契約通り支払いを済ませて二月下旬にお引っ越しとなります。これもまたしんどい話し。ああー。でもまあ、今まで私の人生、いきあたりばったりみたいな所はいつもの事だし、状況に委ねるのも力のうちですよねえ。三月からは多分新しい事務所で、またいろいろと新しいこともできるかもしれないし、皆さんにもいろいろ助けて頂ければと思います。今度の事務所は山科駅から徒歩四分なので、とても便利になります。引っ越しの後にはぜひ冷やかしでも見学でもけっこう一度覗いてみてくださいね。
2010/01/06
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次号のミニコミの特集テーマは「金」だそうで、少し金に対する思いを書いてみました。書いてると私自身随分世間の価値観とは違うライフスタイルで生きてきたなあって実感しました。男に取ってしっかり働いて稼ぐことは美徳だったり義務だったりしている訳で、そんなのどうでもいいやって、別の選択をした私のような人はほんと例外的なのだろうと思います。サラリーマンを辞め、パートしたり、自宅で趣味の教室したり、と人並みに稼ぐ事を放棄して、好き放題してきました。こんな私を無責任という人はいますが、家族からは無責任と言われた事はありません。もともとダブルポケットでお互い勝手に働いて勝手に使っていますから。もちろん家事労働は折半です。お互いいやならいつでも離婚できるように取り交わしているし。私は特に所有を拡大したいとは思わないし、さほど金がなくても豊かな暮らしはできると思うし、そのためのスキルも自負もあるし。何より、弱者を収奪し続けることでしか回っていかないグローバル資本主義の構造にできるだけ加担しない働き方をしたいと思います。そのためには企業社会の仕組みのできるだけ外で働きたいと言う事。もともとアウトサイダーだし。飢えた子どもからパンを奪いたくないし、貧しくてもともに心豊かに暮らしていけるライフスタイルを目指したいとも思います。こんな私はほんと金がさほどなくても充分幸せに生きていけます。ちなみに私の収入は年間7~80万ですから贅沢はできませんが、生活が逼迫する事はないし、惨めになる事もありません。先日UNHCR(国連難民支援組織)から通信が送られてきて、ずっと以前私がすこしゆとりがある頃に、定期的にアフリカ難民支援の植林の募金に協力していたけれど、その植林活動のその後の結果報告がありました。植えられた苗木が育ち、現地の人たちの生活の安定や環境保全に役立っているとの事です。有り難く嬉しい事です。金の使い方としてはとても値打ちのある、私にとっても気持ちいい使い方だったとあらためて実感しました。で、今ゆとりはないけど、わずかずつだけど、その植林の募金を再開したいな、とも考えています。一日百円でも毎日続ければ、ひと月分で苗木の4~5本は育てられる話しでした。一年間も続ければたぶんひとつの家族が薪をとり、果物を採り、人々の憩う木陰ができる、そんな未来を作る事ができます。こんな私からすれば、ローンや学費のために命を削って働く多くの男たちの働き方、暮らし方がどうにも理解できないし、胸も痛みます。もっと別の働き方暮らし方がありますよって、伝えたくて仕方ありません。こんな私ってやっぱヘンでしようねえ。わかってま。
2010/01/05
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昨夜は男性のための電話相談でした。十数年続けてきた日本初の男性専用相談電話ですが、このところ、性がらみの電話の比率がとても多くなってきています。もちろん、性の電話がある事はかまわないし、そういう事も含めて男の悩みを聴ける電話として設立したいきさつがあります。とは言うものの、性の悩みとなると、悩みを話しているのか、性的興奮のために電話しているのか、判断が難しい場合も少なくありません。一時はあからさまな性通話(セックステレホン)も少なからずありましたが、性通話に対してはいきなり電話を切る事はしないにしても、聴く側が、性的なコントロールも受けず、事務的に対応する事で通話者は性的興奮を得られず、リピートする割合は減ってくるようです。最近は悩みとして性の事を語る事で、何らかの満足を得ている人たちが増えました。一応悩みですから傾聴しそれなりに助言も行いますが、問題の本質(セクシャリティーや身体、人間関係など)を引き出すような聴き方にしないと、性の悩みを語る事で、性的な快感を得る、という方向に進んでしまいかねません。電話相談ですから、悩みを解決するために存在しています。性的快感を与えるために存在している訳ではありません。そのあたりの線引きが、実際の相談電話の中ではかなり難しい事になります。開設当初は今程性の問題の相談は多くはなかったけれど、最近特に増えてきました。多分、この電話は性の話しでもけっこう聴いてくれる、と言う事が、そういうマニアックな人たちの間で伝えられているのかも知れません。また、行政などの相談でも、男の性の話しをちゃんと聴くトレーニングを受けている所はほとんどないでしょうから、そう言う所は、こちらの電話相談を紹介して、いわゆる振り先のひとつとして利用しているのかも知れません。ああー、別の話しが聴きたいですぅ。と、そんな事を感じた昨夜の電話相談でした。
2010/01/04
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三が日の間、元旦は8キロ、今日は8.6キロのランニングです。元旦・二日とけっこう食べてたので、体重は落ちてないどころか、若干の増加です。が、同じ体重でも修行と称したランニングを再開する半年前よりも、体型はかなり違います。太ももやふくらはぎの筋肉がかなり太くなったぶん、お腹周りの脂肪は確かに少なくなっています。もちろん、まだまだたっぷりとある事はありますが。(笑)で、プロポーションとしてはあと半年くらいの努力でなんとか目的に近くなるかなって、妄想しています。心身の管理という意味で、ほとんど理想的な状態を維持しているので、当然と言えば当然ですが、あと数ヶ月で56歳になる私の身体が二十年ほど前の身体とさほど変っていないという事は、ひとつのモデルとしては意味があるのかも知れません。タバコも酒もたしなまず、食事は自分で選択できる範囲内で理想的なものを手作りし、肉体の衰えを防ぐために常に適度な運動をし、紫外線や化学物質を避け、思考や価値観も誰かにコントロールされる事もなく、やりたい事をやり続けてきた、その結果としての今の身体です。とは言いつつも、裸体写真をアップすると言い続けてもう三年程になりますが、ここ数年、走ることも侭ならずあくせくしてましたが、今年こそランニングでカロリーを消費し筋肉をつけ、歳甲斐もない肉体をさらしてみるつもり。誰かプロ並みのカメラ技術のある人手伝ってくれませんかねえ。
2010/01/03
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老人養護施設に入っている母を訪ねました。食堂にいた母は私が手を挙げると元気に手を挙げて返してくれました。少し距離はありましたが、私をちゃんと認識し、笑顔で反応する視力や情動が維持されているようです。丁度一年前にも訪ねましたが、若干小さくなったかな、くらいで、ほとんど変化はありません。母の言うに、元気で暮らしているし、百まで生きるとの事。ほんとに、大変な時代を生き抜いてきた母ですが、その人生から私が学んだ事はとても大きな事かも知れません。家制度に裏切られ、傷ついた母ですが、父との再婚からは貧しいなりに幸せを享受したのかも知れません。人の幸せは、地位でも財産でもなく、日々の信頼とか暮らしとか言う事でしかない、と理屈抜きで理解していたのでしょう。勉強もせず成績も悪かった私に叱責もせず、見守ってくれていました。いや、ほんとは内職や仕事で忙しく、日々の暮らしに追われて、私にあれこれ言う暇もなかったのかも知れません。ほんとに、元気にいてくれているだけで、なんと有り難い事か、と感謝せずにはいられません。その母に会いにいくために、私は往復高速バスを使いますが、昨年はバス停の移転で乗り過ごして二時間雪の停留所に待ちぼうけくらいました。今年は行きも帰りも高速道が渋滞で片道三時間弱の予定が四時間以上に。それにトイレ休憩の時に買った、自販機のドリンク、ホットのコーヒーを選んだのにごっとんと出てきたのはつめたーいコーヒー。容器はホット用のコーヒーなのにぃ。おにぎりはぱさぱさのコメで、なんとまずい、とつぶやいてしまいました。まあ、昨年の雪の二時間に比べたら、マシだけれどね。ささいなことで腹立てる事もなくなった私でもあるけれど、長い人生、いろいろあるよねー、と面白がれる自分にもなりつつあります。有り難い事です。
2010/01/02
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