2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
全30件 (30件中 1-30件目)
1
今日もカウンセリングで夜も遅くまで・・このところ急なアポが続いてます。しんどくなったり迷ったりした人には、すぐに聴いてくれる人がいるってのは、事態を悪化させないためには大切な事。もちろん、私は基本的に仕事はそんなに詰まってないので、急なアポも特に困ったりはしませんし、むしろ有り難いもんです。こじれて来談されるより、こじれる前に手当てした方が回復は早いし、痛みは少ないし・・と言う事でしょうか。今日の来談者さん、寒いのを気遣って、あったかい飲み物を持参で来てくださいました。有り難いもんです。それになりより、以前より一回り心が大きくなった様子を伝えてくれたのが何より嬉しくて、心温まりました。そう言えば、一昨日にお話を聴かせていただいた方も、その前のカウンセリングの後に気づきがあって、そのことを報告に来たとおっしゃってました。このお二人だけではないけれど、多くのクライアントさんは過去にとらわれて来談されます。けれど、カウンセリングの中で、人生の物語を書き換え、過去の体験もそれなりに意味のあるものに書き換え、未来の豊かな人生のための重要なプロローグにしていきます。書き換えた人生物語の共著者にしてもらえるってのは、ほんと有り難いもんです。こんな贅沢を楽しませてもらつていいのかな、と思うくらい。ところで、ここ数日、知人の離婚話をきかせてもらってますが、私につながってる人は、冷静に判断できるようになるけれど、私を敵と見なした人は私につながる事もないから、私にはどうする事もできません。私につながらない人の言動を見聞きすると、その人の心理も状況もそれなりに見えてきますが、事態を冷静に見る事も客観視する事もできずに、怒りや憎しみに苛まれているのも見えてきて、何やら複雑な心境になってしまいます。私を敵と見なして怒っているのだから、同情する事はないにしても多少は哀れみの気持ちも湧いてきたり・・・。あの人たちはさっぶい冬をすごしてんだろうなぁって。そういえば、私を敵どころか、社会的な害悪として排除しようとした人たちも、さっぶい冬を過ごしてんのかな。真実に気づいて暖かい心になればいいのにね。
2012/01/31
コメント(0)
クライアントが語る度に、クライアントは自身の弱みをカウンセラーに預ける事になります。弱みをどんどん握られて行きます。カウンセラーはだまって聴いてくれてはいるけれど・・・本心はどう言う気持ちなんだろう・・・自分の弱点を知ったカウンセラーは自分の事をどのように考えているのだろう、万一人に語ったりされたら、どうしよう、もう誰かに話してて、みんな知ってるけれど、私には内緒にしているだけかもしれない・・まさか・・・下手にカウンセラーの機嫌を損ねる事を言ったり、突然行くのを止めたら、私の悪口を言いふらされてしまうかもしれないし、とりあえずカウンセラーを怒らせないように、カウンセリングには行くしかないか・・・という考えになるのも、対人不安の強いクライアントなら当然の事、私でもそれくらいの事は考えるのだもの、頭の回転の速い人なら、そのような不安にとらわれるのも当たり前の事。このような状況はカウンセラーとクライアントの関係性から当然発生する権力構造によります。医者やカウンセラーの発言は正しくて、クライアントや患者は異常な人、という世間の思い込みがあります。八百屋とお客なら、この権力構造は発生しないので、頭を下げるのは店員で取引を決定するのはお客の方です。医者と患者の場合、頭を下げるのは金を払う患者で処置を決定するのは金をもらう医者です。八百屋と医者やカウンセラーとの違いが権力構造にあると言う事です。精神科医の主張に抵抗してたら保護室に入れられて出してもらえなかったので、先輩患者の言う通り先生の言う事を聴いて、よいしょするようになったら、やっと退院できた、というクライアントの話を先日聴きました。似たような話はしばしば聴く所です。メンズカウンセリングでは、この権力構造を徹底的に排除しカウンセラーとクライアントの関係を対等なものにします。そう言えば「理解する」という「understand」も相手よりも下に立つと言う事から来ていると聴いた事があります。えてして私たち、特に男性は優位性をアイディンティファイしているので、相手より上に立って相手をコントロールしようとします。それは無意識にしみ込んだ行動様式なので、特そのことについて学ばないとなかなか、自身の権力依存には気づかないし、セラピーにそれを持ち込んでしまう事は防げません。積極的傾聴として、謙虚に聴いてるつもりが、知らない間に専門家としてクライアントをコントロールしている事に気づかず、クライアントの回復を阻害している事になりかねません。そのことを防ぐために、私はカウンセラーとしてクライアントの弱みを聴くだけでなく私の弱みをクライアントに預けます。アル中だった事、暴力青年だった事・・・今日も学校の試験はカンニングで乗り切ってたことも話しましたし。スケベな事も変態な事も、パニック発作におびえてた事、LDだった事・・・etc ・・・ほんと自己開示のネタはつきません。クライアントが私に預けてくれた弱みの分だけ私も弱みを預けます。こんな私だからか、女性でも男性でも、他のカウンセラーには話せなかったけど私には知らん間に話してた、という方が少なくありません。まあ、この事、一般的な相談の基本的なスキル「影響を与えるスキル」の中の相互交流と言う意味では、常識的に言われてる事なんですけれどね。他人事の知識で理解するから、表面的な知識でしかなくなるんでしょうねえ。私は当事者の立場でセラピーを理解しますので、その辺りが違うのかな。
2012/01/30
コメント(0)
昨日はメンズカウンセリング協会の理事会でした。理事にはかなり遠方の方もおられて、なかなか参加できないということがあり、ネットを使って動画チャットで参加してはどうかということで、グーグルのチャット機能を使って参加していただきました。会議はファシリテーター養成講座の内容のお知らせがメインでしたが、理事会のメンバーの自己紹介もなかなか面白かったです。どんな遠隔地でもリアルタイムに話もできるし表情も見られると言うのはとても便利です。あらためてテクノロジーの便利さを実感しました。特にそのための費用もいらないし、パソコンがあればできるという簡単なものですからねぇ。私が社会に関わりだした三十数年前はパソコンと言うものはなくて、まともなワープロもなくて、さすがにガリ版とか謄写版というものは絶滅してたけれど、コピーもまだ出てなくて、私は数十万するワープロではなくて、十万で和文タイプを買いました。がっちゃんがっちゃんとすごい音がしました。そのうち、ディスプレイが一行か二行のワープロが数万円になり、和文タイプはやめてワープロに転向しました。が、ワープロの機能も日進月歩、二行が五行になり、十センチになりB5程度の画面になりました。この頃から、ワープロというものではなく、パソコンと言うものも現れ、パソコンであれこれできるようになりました。やがてパソコンでインターネットにつなげてあれこれ見たり、メールを送ったりと、様々な事ができるようになりました。私はガリ版からチャットまでの半世紀を体験してきてるけれど、ほんとこの半世紀のテクノロジーの進歩?はすごいものがあります。もちろん通信媒体だけでなく、生活に関わるすべての機器が進化しています。けれど、それらは人の様々な生活能力を失わせたり、機器に依存する人を作り出してしまうと言うリスクもあるし、機器を支配する人が多数の人をコントロールする事ができると言う、新たなリスクも作り出してしまいました。私は、いろいろ体験してきてるので、いざとなればどの時代状況でもいきて行けそうだけど、体験してない人は危機の時代には脆弱になってしまうんでしょうかねえ。それにしても、世界はこれからどーなるんでしょう。
2012/01/29
コメント(0)
昨日は久々にちょーたぼーな一日でした。朝十時に事務所に入るなり、電話カウンセリングが始まり、お昼からは助成金がらみの調べものをしてたけれど、それが終わる前に、またカウンセリングが。そのカウンセリングが長引いて、終わったら、すぐに夜のカウンセリングとなりました。夜のカウンセリングが終わって大慌てで、晩ご飯を用意して自宅に帰り着いたのが九時少し。ほんと12時間ぶっ通しで、頭と心を動かしてた感じ。カウンセリング中は特にしんどいとか疲れたと言う感じはなくて、むしろ、自宅に帰って、食後にどっと疲れが出たと言う感じですかねえ、ニュース見てたらそのまま爆沈してしまいました。それにしても、来談者のお話をいろいろ聞かせていただく度に胸を痛める私ですが、問題はその方たちにあるのではなく、世の中の仕組みだとか、価値観にあるのだと言う当たり前の事が、世間では逆にその人たちの問題にされてしまっているようで、ほんと複雑な気持ちです。こんな人たちにあなたの心の状態は変ですから、お薬を出しましょう、というのもおかしな話だし、あなたが辛いのも相手が悪いからです、徹底的に闘いましょう、というのも、問題のすり替えでしょう。歪んだ認知を修正する必要がありますというのも、またはき違えのように思います。私は、来談者の語りの内容で、対応を変えます。当たり前の話です。コンサルが必要なのか、精神分析が必要なのか、ナラティブが有効なのか・・昨日の三件の方はいずれも、コンサルに近い対応でした。法律とか、制度とか、相手方の動きとか、が問題としてあって、来談者自身の心の問題として扱うには無理があります。このあたり、今の心理屋さんには対応ができない事なんだろうと思います。最近お話を聴かせていただいた女性の方も「何カ所も女性相談に行ったけれど、責められるばかりで自分の気持ちに寄り添ってもらえなかった」とお話しされてましたし、つい先日来談された方も「カウンセラーに何人か聴いてもらったけれど、のれんに腕押しみたいで、なんの手応えも反応もないみたいで、何をやってんだろうこの人たちはと思った」とはなされてました。この方も女性です。もちろん、相談員やカウンセラーに悪意はなくてむしろ善意だったり、専門家意識だったりしてるのだろうと思いますが、クライアントのニーズを読み取れていないと言う事なんでしょう。その問題の本質は援助する側の都合で話を聞いていると言う事と、クライアントの語る問題の本質が社会的な事なのに、社会病理の視点がないばかりに個人の心理の問題に還元しようとする事とがあるのだろうと思います。精神科医療も心理業界も法曹界も政財界も、まったく時代遅れで問題解決能力が低下しているのに、そのことに気づかず、相変わらず当事者の問題として処理しようとするから問題がこじれてしまうのでしょう。援助が当事者のためではなくて、援助する事で利益を得ると言う事にすり替わってて、問題はないよりあった方がいいと言う事になりかねません。ほんとに日本はどうなるんでしょうねえ。まあ、日本がどうなるか・・は置いといて・・私は当事者のための援助をして行きたいし当事者の納得の上の援助料を頂く事で活動を続けていきたいと思います。ひもを引っ張られる心配がないですから。こんな当事者のための援助論を学びたい人、四月からファシリテーター養成講座とか、レターカウンセラー募集講座が始まります、お気軽にお問い合わせください。当事者視点の援助であるメンズカウンセリングが学べるのは日本ではこちらだけですよー。
2012/01/28
コメント(0)
今夜も女と男の非暴力ワークを行いました。参加者は多くはないけれど、家族問題を抱えた当事者がほとんどで、いずれも家族の事を語れば何らかの痛みを伴うかもしれません。にもかかわらず、私はあえて家族問題をテーマにした厳しいワークを出してみました。女と男の対立を誘発する内容をはらんだ主観的なテーマでした。参加者の対話の力や、状況を受け止める力があるから問題は起こらないだろうとの私の判断です。もちろん問題が起こりそうであれば、私がファシリテートして収める事は難しい事ではありませんし。ワークの内容で感情が動き、その気持ちを伝えることで、自身の体験やその思いを伝える事になります。お互いにその作業をすることで、家族意識の違いや共通点に気づく事になります。そしてその違いや共通点は体験や状況によるものであって性別によるものではないと言う事にも思い至ります。性別による相違点を誇張して対立をあおり、相互不信と憎しみを増幅する援助形態が多いけれど、それでは誰も幸せになりませんし、真の問題解決や回復には至りません。家族問題を抱えた当事者としての女と男、異質の他者と対話し、それぞれの違いを尊重するトレーニングが日本ではなかなかできません。けれど、実際にやってみて、その意味する所、有効性はとても大きいものがあると実関する私です。また、私だけでなく参加者も、普通とされる人達の抱える家族概念の問題の根深さにも気づいて行きます。問題を抱えているのは当事者だけではありません。近代社会、中でも日本と言う社会そのものが家族概念という病理を抱えているのでしょうか。
2012/01/27
コメント(2)
今夜は男ワークでしたが、気温一度のなか、バイクで15分ほど走ると寒くって。ワークは自身の身体を素材に、自己肯定感を高めていくというもの。ワークで感じたのは、私はほんと自分の事が好きで、ナルちゃんですねぇ、ってこと。人に何を言われても、何をされても、それは相手の問題で、私は私でいいのだ、と居直ることができてしまうのは私の性格なんでしょうけれど、だから私はとても楽に生きて行けます。そのぶん、嫌われたりもするのですが。(笑)さっぶいといえば、昨日の朝も早朝ランニングしましたが、マイナス二度の中なかなか体も温まらず、けっこう寒い思いで二十キロを走りました。寒い朝・・・昔々。私が小学三年の頃四十軒ほどのうちに新聞配達していました。今なら、児童福祉法違反になりそうですが、当時はさしておかしい事ではありません。子どもでも、毎日責任を持って新聞配達するのですから、立派なものですが、寒い朝、今のようにエアコンもストーブもなくて、寒さに震えながら着替えて新聞販売店に出向きます。新聞を自転車に積んで配達するのですが、ほんとに冬の朝は辛いものがありました。とはいうものの、この体験が私の人生にとってマイナスの体験になったとは思えなくて、とてもいい思い出のように思い起こされます。社会的責任を全うし、そのぶんささやかだけれど、賃金を得ると言う体験ができたのだもの。自分に対する自信のようなものはできたのだろうと思います。そうそう、当時のお金で、ひと月分のバイト代は三百円少しだったと思いますが五十年ちかく前のレートですからねぇ。今夜も冷え込みそうだけれど、最近の私、布団の中ではあまり冷える事もなくて、以前はあったかくて幸せを感じさせてくれた湯たんぽも、今は使う必要はありません。多分、筋肉がついてるので、体自体が湯たんぽのようになっているのだろうと思います。そうそう、今日は少し自力整体なるものをやってみたからか、とても眠くって・・・嗚呼・・・おやすみなさい
2012/01/26
コメント(2)
さぶかったー。マイナス一度の夜道をバイクで飛ばして帰ったら、体がひえてひえて・・・。映画マイウェイのレイトショーからの帰りです。結構長い映画でしたが、飽きる事なく最後まで楽しむ事ができました。ストーリーも映像もなかなかリアリティーがあって良かったです。差別意識や、思い込みなどが愚かで悲しい事、と表現しているとも思いましたが、人の生き死にというのはほんと、運不運に寄る所も大きいよねえ、とも、感じました。とはいえ、戦争が不合理なものというのは当然のこととして、極限状況でも生き残るのは運不運だけでもないとも思います。フランクルは、絶滅収容所の中で、希望をなくしたものは死んで行く、と考えました。私の父親は、日中戦争で中国奥地に送られ、補給もない最前線でかろうじて生還しています。彼は青年時代を上海て過ごしたモダンボーイで、中国語も話せます。東洋鬼にはなれなかったと私に話しました。中国人の文化を理解し、かの地の言葉を話せると言う事と、彼が生還したのは無関係ではないでしょう。彼の兄もやはり生還しています。どんな状況であれ、自分で考え冷静に判断し、勇気を持って行動するということでしょうか。他人の言動に惑わされず、人の考えや気持ちを理解し、常に希望を失わない事・・・・がサバイバルの条件と言えなくもありません。が、実はこれは戦場だけの話ではなく、人が生きて行くにはどこでも同じ事が言えるのではないかと私は考えます。今の私は戦場で生きてる訳ではないけれど、やはり、そのように生きていたいと考えていますから、私は楽ですが、世間の価値観に依存しつつストレスフルに生きている多くの人からすれば、私は変人でわがままで、非常識な人、と言う事になるのでしようけれど、それでいいのです、私の生きる道はゴーインにマイウェイだから。
2012/01/25
コメント(4)
今日は久々に二件のカウンセリングをこなしました。来談者のお話を聴かせていただくとその悩みや困難はその状況だったり、人間関係だったりする訳で、それらの問題を解決したいとの思いを持っておられます。当然のことですが。で、カウンセリングと言う方法論で解決するとすれば、それは、法的対処とか、医療的処置とは異なる方法になります。もちろん占いでもありません。で、非指示的対応とか、共感的態度とかいうことで、「ふんふん、辛いですねえー、であなたはどうされたいんですか」「なるほど、答えがわかればいいですよねえ、わからなくて辛いんですよねえ」みたいな、毒にも薬にもならない対応がカウンセリングだと思い込んでるカウンセラーも多いのだろうと思います。もちろん、結論はクライアント自身が出すもので、カウンセラーが指示したり決定したりするものではありません。が、クライアントは思考や判断が堂々巡りになってたり、思考する事すらできずに暴走してたり、判断する材料を持ってなかったりします。こんな状態の人に自分で考えろと言う事自体、アホなことでしょう。認知療法では認知のゆがみを正すという作業を行います。けれど、ゆがみを判断するカウンセラーは正しいのかという問題が出てきます。私は認知療法よりもナラティブに重きを置いてますからクライアントの語りによりそい、その物語を共有し、あらたな物語を紡いで行く訳ですが、そのためには、堂々巡りや暴走している思考を薬物を使わず、クライアント自身がコントロールできるよう、寄り添いながらも、対話し様々な思考のチャンネルを刺激して行きます。例えば、金がなくて買い物ができなくて辛い、と言う話が出たとすれば、万引きする、ゆする、お願いする、拾う、作る、我慢する、いろいろ、あるけど私なら、拾うかつくるかするけど、あなたならどうする、という問いかけをするかもしれません。来談者のチョイスに対して、また提案を重ねて行く、と言う事を繰り返して行くと、物語は堂々巡りや暴走ではなくて、少しずつ前に進んで行きます。ここでは、認知を修正すると言う作業ではなく、これまでの認知を獲得した社会の価値観からクライアントを解放し、多様な視点や価値観を導入するという作業をおこなっています。いわゆるドミナントストーリーからオールタナティブストーリーに書き換えるという作業です。この作業を行うには、クライアントと同じ価値観に縛られていては、その他の価値観は提示できません。そこで、アンラーンが求められる訳ですが・・・常識や世間の仕組みに依存して生きているカウンセラーにはかなり難しいかもしれません。セラピスト自身の寄って立つ価値観に挑んでくるのがクライアントですから。知識としてナラティブを理解し、オールタナティブとかいうことを簡単に言う人もいるかもしれませんが、そんな人は行ってる事と生き様が不一致だから、クライアントはそのうすっぺらさをすぐに見抜いてしまうしね。なわけで、私が非常識に生きている意味が出てくるって訳。私が常識を覆してへらへら生きてるのを見ると、かなりショックだろうけれど、確かなモデルにはなりえますからね。時にそんな私の言動に刺激されて、嫉妬したり妄想して、怒ったり憎んだりする周辺の人もいたようだけれど、クライアントではないしね(笑)そうそう、今日のクライアント、少し長い付き合いの方は「そうなんですぅ、あの問題はもう問題ではなくなりましたぁ」と、笑顔で話してくださいました。ナラティブの醍醐味です。状況ではなく、人生の物語を変えてくださったのだから。
2012/01/24
コメント(9)

グルメナイトに集まる人たちの中に小学生の姉妹がいて、年長さんから六年生の三姉妹。両親の対立の狭間でそれぞれの親の問題点も努力もちゃんとわかっていて、でも日常的にはそれを語れる場も理解してくれる大人たちもいなくて、ただ、子どもらしく振る舞う事しか許されない。グルナイでは日頃大人は語らない事も自由に奔放に語り合い、それを聴きながらも子どもたちも大騒ぎしつつ自己主張する。裏も表も理解した子どもたちは、大人たちがそれぞれ真剣に自身と向き合い、理解し合おうとしている対話の意味も理解し、自身の生き方を模索する。自由に落書できる黒板に、先日は落書きにしてはできすぎた自己主張を残してた。つい半年前には問題行動を起こしてた、彼女だけれど、だいじょーぶ、いろいろムカつく事ってあるよねえ学校も、と言う言葉とハグだけで、あとはスタッフや参加者の大人たちと遊んでるだけで、自分の主張や表現を修正して行く。なんとたくましい。そんな子どもたちの成長や変化が、私たち大人の心を優しく暖かくする。力で支配しない、コントロールしないで受け止め合い、大切にし合う関係がどれだけセラピックで心地よいか・・・多くの大人たちは知らない・・・教えようとする教師も管理しようとする親も、子どもの可能性を信じる事もなく知る事もない。世間の常識と言う枠組みから解放された解放区グルメナイト・・・家族以上に・・育ち合う疑似家族
2012/01/23
コメント(7)
昨日はレターカウンセリング研修の一日でした。レターカウンセリングは基本的にはロジャースのクライアント中心療法の考え方で行っています。新規参加の方が一年半以上の研修を受けてレターカウンセラーとなり、ボランティア活動をおこなってもらっています。ほんとに長い時間の研修ですし、ボランティアスタッフとなっても研修費は必要ですし、持ち出ししながらボランティアを行う訳ですが、世間の価値観ではなかなか理解されない活動かもしれません。ほんとにボランティアスタッフの方には頭が下がります。研修の後はパソコンでネット会議ができるよう、あれこれ設定してました。ほんと昔は映画やテレビの中のシーンのような事が今ではどこの家庭でも簡単にできるようになっていることは、ほんと技術革新のめまぐるしい事。
2012/01/22
コメント(0)
今日は小雨の中、四国は某県の女と男の非暴力ワークに行ってきました。女と男のワークは大阪でもやってますが、いわゆる加害者と言われる男たちと、被害者と言われる女たちが場をともにして、暴力について語り合うって場は、日本のどこにもないのではないかと思います。ずっと以前、内閣府の通達で、加害者プログラムは危険だから被害者の利用する場では行わないようにという指示があったようで、私も京都府の女性センターでのグループワーク開催を拒否されました。他の地でも似たような話は聴いています。全く馬鹿な話です。内閣府の判断に客観的な考察も事実に基づいた根拠もなく、感情的な男性批判でしかない、お粗末な判断としか言えません。こんなお粗末行政ですから、実際DVは減る事もなく、被害者が二次被害を受けつつ、問題は連鎖して行くという悪循環になっています。十年もその状態が続いてるから、DVをめぐる支援構造が利権化し離婚ビジネスとして定着してきました。その結果、不必要な家族の対立、修復し得ない家族分離、えん罪による病理化がおこっています。痛ましい話です。被害者は人間不信、男性不信、自己否定、他者依存、となり不安と生活苦に苛まれるということになり、新たなDVや虐待家庭の発生になりかねません。税金を使っての支援の結果です。今は、DV法がとんでもない法律である事が多くの人に理解されるようになってきましたが、ほんとの意味でDVを防止し、被害者の発生を防ぐ法律にしてほしいもの。そのためにはDVのメカニズムや実態について、冷静に事実に基づいて理解する必要があります。そのためにも当事者が体験した事実から、特に回復した当事者の体験から援助者が学ぶ事が不可欠ですし、だからこそ、当事者が語り合い、真実の回復を達成する事がなにより大切と思います。そしてその体験を語る事当事者の存在もまた不可欠でしょう。被害者、あるいは加害者と言う枠の中で語り合う事を超えて、加害被害を超えた、人間としての語り合いや分かち合いを体験する事がとても大切と思いますし、事実、女と男のワークではそれぞれがとても深い気づきや学びをえてくださっているようで、場を共にさせていただく私も、勇気と元気を頂いています。女と男の非暴力ワーク、色んな所で開催されるといいなと思います。そのためにも四月からのファシリテーター養成講座にみなさん参加してくださいねー。と言う事で、とても心は満たされているのに、なぜか帰り道でやにわに空腹に耐えられずコンビにで敷島パンのつぶピーナツサンドを買ってくったら、その下世話な味がとてもうまくって、苦笑してしまった私でした。
2012/01/21
コメント(2)
高度経済成長の走りの頃、私の父親は毎日定時で帰宅していました。職場の人たちは毎日残業してたけれど。で、私のうちにはいつまでたってもテレビも入らなければ、冷蔵庫も入りませんでした。あの頃、夜な夜な、テレビのあるお宅に子どもたちはお邪魔していたけれど、自宅にテレビが入ったこどものはそこにこなくなりました。私は最後まで、お邪魔虫でしたが、それもこれも父親の稼ぎの問題、残業の問題と理解してた私は毎日定時で帰宅する父親を恨めしく思っていました。けれど、今になって父親のそんな態度は有り難いものだった、と思える私です。毎日家族で飯を食い、何気ない会話を交わし、場を共有すると言う行為。父不在の食卓でもないし、ひっくり返るちゃぶ台でもありません。ただ、当たり前に飯を食う・・・その意味は大きかったと今更ながらに思います。昨夜もグルナイで、家族との葛藤が語られました。食べながら、飲みながら。子どもたちも楽しく遊びながら。誰かが説教するでもなく、食卓が荒れるでもなく、食べて話す・・・えんえんと。誰かが語ってたのは、現実の日々の生活はそれなりに厳しく辛いけれど、あるがままの自分でいられて心も体も楽にできる、こんな場があるのはとても大切、ここがあるから、現実に耐えられる・・・・と言うような事を新しく参加された方に切々と話しておられました。グルナイはひとときの非日常だけれど、その時間は確かに支え合い、分かち合い、育ち合う家族として機能しているよねえ、と実感した私です。もちろん、これはグルナイだけではないけれど、私のセラピーすべてに言える事です。一方的に分析したり治療したり、教育する場ではなく、ともに喜びも苦しみも分かち合い、ともに育ち合う関係こそが人を癒し、育てて行くというのが私の基本的な考えです。その場を維持するのは私ですが、私も癒され、育てられている、対等で平等な関係がたいせつだけれど、私を理解し得ない多くの人は権力構造が骨に沁みてるので、権力行使にためらいもないし、そこで誰かが傷ついている事にも気づきません。その辺りの感覚については実感するしかないですよねえ。みなさんも一度覗いてみてくださいね、グルナイでもワークでも。大丈夫、洗脳もありませんし、勤行もミサもありません。楽しくおしゃべりするだけですからね(笑)
2012/01/21
コメント(2)
昨夜も心理学講座に出講でした。テーマはユング。フロイトとの無意識の捉え方の違いやそれがセラピーにどう影響してくるのか、を私なりに話しました。フロイトが、無意識をイドと超自我との対立ととらえその葛藤が病理となる、と考えたのに対し、抑圧された無意識が病理として自我を補償しようとする、とユングは考えたようです。精神病理はなくすべき症状なのか、精神病理はほんとの人生を産み出すための陣痛なのか、どちらの考えも否定できるものではありませんが、私のカウンセリング実践で、この両者を比べるなら、私はフロイトよりもユングに近い、といえます。また単に個人の意識を超えて、私たちの心は様々な人やものと連動しているし、シンクロやオカルト等に関するユングの体験も、私のいろんな不思議な体験とリンクしていて、そう言う意味でも、私はフロイトよりもユングに近いのだろうと、おしゃべりしてきました。その講座のあと、当地でのカウンセリングが一件。その方はいろいろあって少しへこんでおられたけれど、少しずつだけれど、確実に力がついているのも感じさせていただきましたし、それ以上に、私の言葉や思いをしっかり受け止めてくださったようで、私も元気を頂きました。感謝でした。
2012/01/19
コメント(0)

浜大津、渚公園渚公園から比良山系を望む比叡山車石六地蔵尊の六地蔵今朝も早起きして、ランニング。気温マイナス二度。いつもの疎水コースではなく、三条通りから国道を一路東へ。逢坂峠を越えて、久々の琵琶湖は渚公園まで。往復20キロほど。数年前は、さらに南下して瀬田の唐橋あたりまで走ってたのを思い出します。あの頃はフルマラソンもトライしてた頃。今は随分体力も落ちたけれど、少しずつ体力復活を目指したいもの。あと二年少しで還暦となるけれど、何のために走るのか・・・そもそも私は走る事が自分との闘いとの認識をしている訳ではありません。むしろ自分の体との対話です。加齢とともに老化する身体という常識に対して、身体を適切に扱う事で老化を防ぎ、若い身体機能を維持できるという私の考えを実証してみたいとも思います。以前読んだ本に「心が脳を変える」という本がありました。一時はやった唯脳論とは逆の立場での主張をしています。脳がすべてを決定するかのごとくいいつのる唯脳論(養老孟司なんかその典型でしょうか。)私は「唯心論」というのか、脳と言う器官は身体とつながっているし、身体は外部世界とつながっているし、そのすべてと心は密接にネットワークしていると考えます。心や体を世界と調和させれば、人は人生の可能性を大きく広げる事が可能、と私は考えます。心は脳だけでなく身体や世界さえも変える事が可能です。その「心」とは何か、自分を定義し自己を自己たらしめる意識・・・そんな事を考えたり確認したりすることの素材が身体でしょうか。ほんと面白いものです。とはいうものの、ウエスト周りの脂肪がなかなか落ちず、数年前のズボンがきつくなっててショックだったりして。やばっ
2012/01/18
コメント(2)
17年というと、阪神大震災からの時間らしい。あの頃の私・・・某市の審議会に行ったら震災で中止だった・・・男性の電話相談も震災の影響で一年ほど延期になったけれど、研修に行ってた芦屋のカウンセリングルームへの道路がうねってた。そんな話はまあおいといて・・・今日銀行に行くために近くの駐輪場にバイクを置いてたら、一人の女性がじっーと私の顔を見てるので・・・・ああっ、◯◯ちゃん、どーしてこんな所に・・と言う話に。あれから十年くらいだっけ、なんていうと、何言ってんの、あのころ私は二十歳だったから17年ほど経ってるよー・・と。そっかー、二十歳の娘が三十七の妙齢の女・・下手するとおばちゃんになってる・・そんな時間がすぎているんだぁ。私がエコクッキングの料理教室してたころ、ときどきお手伝いに来てくれた彼女は最近、山科の職場に働く事になったらしい。立ち話もできないので、挨拶だけしたけれど、なんか懐かしい気分でした。ほんと、元気でいてくれるだけでうれしいもんです。私の17年はいったいどんなもんだったんでしょうねえ。エコクッキングやら、男の電話相談やら、男の非暴力ワークやら、男性学会議、レターカウンセリング、日本家族再生センター、など次々と社会運動やら対人援助活動の場を創設して行きました。資産も地位も名声もなんのその、保険も年金もすっとばして、今の仕事、今の援助を続けてきました。何が残ってるのか・・振り返ってみれば・・・裸の私と、そんな私を理解し支え合ってくれる人たちとの信頼が残ったかな。金にも地位にも縛られない私・・・明日からもまたこうして生きて行くんでしょうねえ。(笑)
2012/01/17
コメント(0)
今日は久々に、心理学講座に出講しました。ロジャースと、ジェンドリン、サリバンとかなり幅広い範囲を話すような設定になっていて、けっこう大変でしたが、主にロジャースのクライアント中心の考え方について、私なりの体験や理解について話しました。ロジャースのカウンセリング理論はある意味革命的なものだとは思いますし、技法と言う意味ではとてもシンプルでわかりやすいものと思います。けれど、これを実践するのはとても難しいのではないかとも思う私です。ややもすると、ロジャースの技法はさほど有効性がないと言われかねないようですが、ロジャースの理論で実践する力が多くのカウンセラーにないのではないか、と私は考えています。クライアントの体験や価値観に無条件に寄り添い好意的に共感し、その事をクライアントに伝える、という事ですが、犯罪行為や背徳的な価値観、非倫理的な衝動などについて、クライアントが体験や思いを語ったとき、その体験や思いを好意的に共感しうるかどうか・・・・下手すると、共犯者、にされてしまうリスクを負わねばなりません。クライアントと世界を共有することで、クライアントはカウンセラーを信頼し、新たな人生の物語を紡いで行く事が可能となりますが、カウンセラーはリスクを引き受けてまでそれをするかどうか・・・今のカウンセラー養成のシステムでは、それを可能にするカウンセラーは出てこないと思います。まあ、そう言う意味では、河合隼雄さんの仕事の悪しき結果と言う事なんでしょう。クライアントに寄り添い、その世界に入り込むのではなく、権力や地位に寄り添い、クライアントを利用するカウンセラーを輩出する仕組みが、今の日本の心理学業界でしょうか。ハイリスクな世界でも臆せずセラピーのために入り込む私を、バッシングし提訴する人もいれば、それをおもしろがる業界の人もいます。そんな私とは距離を置いて保身に走る業界の専門家もいますし、関わるのをおそれて仕事をキャンセルする行政関係者もいます。こういうリスクを理解し覚悟した上でないとロジャースを本気でやるというのは難しい事なんでしょう。だからみなさんロジャースを軽んじることで自己正当化しているのでしょうね、きっと。カウンセリングを受けたけれど、ちっとも楽にならない、回復しない、と言う方も少なくないと思いますが、それはそんな方の問題ではなく、そんな方のカウンセリングをできないカウンセラーの力のなさが問題なんでしょうね、きっと。もしそんな方がおられたら、カウンセリングは無駄と決めつける前に、一度、わたしの所にいらしてみてくださいね。日本でただ一人、無資格のカウンセラーと居直る人のカウンセリングを体験してみるのも悪くはないかも・・(笑)
2012/01/16
コメント(0)
今日も忙しかった。午前中はビジテーションがあり、午後は親子ネット関西の集まりに出かけました。その後は、晩ご飯の準備して、食後はDVDを見て、お風呂に入って、出たらもうこんな時間。なんでこんなに時間が早く進むんだー。明日も朝から、某NPOの心理学講座に出講で、早起きしなくてはなりません。そうそう、明日は息子の出勤日なので、弁当も作らなくては・・・ああ、忙しい・・・それにしても、家族の人間関係に起因する問題の多い事、解決の難しい事。民法が明治時代に作られたものを、さほど変える事なく、今も使っている事がそもそもの間違いなのだけれど、多くの人はそう言う事について学ぶ事もないから、そう言う法律を変えようとはしないし、問題がおこった人を特別な人としてしまう事で、自分とは切り離して考えてしまいます。問題が起こって自身が当事者になった時はじめて、問題の大きさ、根深さに気がつく事になります。そしてその問題をなんとか解決したいと考え、声をあげ始める人たちも出てくる訳ですが、今日の集まりもそう言う人たちの集まりでした。子どもに会えない、親たちのグループです。誰かが悪いと言うより、法律や制度が時代遅れで、人権意識の低い内容になっている事がそもそもの問題なのだけれど、それを変えるために、当事者が声を上げ、人々にその真実を伝える事で、法律や制度を変えて行こうとする運動団体です。誰であっても子どもから親を奪ってはいけないし、両親に愛される権利を奪ってはいけません。これが世界の常識ですが、日本ではこれは非常識になっています。とても心傷む話が多いです。今日のビジテーションの最後に、親子がハグし合って、次回の面会を約束する姿を見ると、この光景が普通の事になってほしいな、と願わずにはいられません。
2012/01/15
コメント(2)
今朝、東京から帰ってきました。昨夜は有楽町の高架下でカレー食った後、高架上を新幹線が西に向かうのを見送って、私は夜バスの集会場のラウンジに。集会場では、子どもに会えない父親の悩みを聴かせていただいた後、しばしの読書。うとうとしててちっともページが進みませんが。日替わりになりそうな頃、バスに乗り込んだけれど、ラッキーにも私の隣席は空席でした。やっほー。そういえば、往路のバスは、予約してたバスの運休で代替バスに乗ったけれど、これも、ゆったりシートで、多少ゆとりがありました。今回は行きも帰りも、そこそこ睡眠を取る事ができて、あまり辛さを感じる事がありませんでした。とは言っても、世間の人には夜バスで連夜の往復と言う事自体がかなり辛い事なんだろうけれど・・・(笑)そうそう、今回の往復のバス料金は往復で7100円。新幹線のおおよそ四分の一。この安さも魅力です。ラウンジも使用料は無料でフリードリンク付き。マクドで時間潰すより、よほど快適です。とは言っても、二時間半で東京・京都を移動する新幹線の魅力にはかなわないけれどね。
2012/01/15
コメント(0)
先ほど、おんなとおとこのワークが終わりました。テーマは自分のネガティブな所を発見すると言う事と、当たり前と思ってるルールが、実は自分のルールだったりしてる事に気づく事と。それにしても、女と男・・それぞれ当事者が場を同じくして同じテーマで語り合う事の面白さ・・気づきの大きさって、いつもながらに感心します。私にとってもとっても学びが大きい場です。さ、これから夜バスでいってきまーす
2012/01/13
コメント(0)

今朝は五時半に起きて、腹筋で体暖めて、六時にスタート。あたりはまだ真っ暗。夜道のような疎水コースを走ってるうちに、だんだん空が白んできました。空は曇り空から雲が流れて行くようでした。景色はうっっすら雪化粧です。最近はあれこれ食べる機会が多かったせいか、体重も増えていて、スピードが上がりません。でも無理はやめてゆっくり走る事にして、そのぶん距離を伸ばす事に。前回は山科川コース、その前は今日の疎水・大津コースですが前回18キロのコースを1キロのばす事にしました。19キロになりましたが、けっこうしんどかつたです。ほんとはもっとこまめに走りたいけれど、なかなか時間がとれなくて。でもまあ、焦らず怠らず、ぼちぼちやって少しずつパワーアップしていきましょう。朝トレの後はシャワーして、事務所にいって修行の掃除です。お昼休みで少し休んだら、午後から女ワークを。ネガティブな自動思考をどうやってポジティブなモノに変えて行くか、そんなテーマでワークが進んで行きました。女ワークの後は急なカウンセリングです。家族や行政、警察や司法、精神科医、ほとんど関わるすべての人に傷つけられて、随分苦しまれている方でした。ただただ聴いていましたが、ほんと理不尽なものです。私にすれば、いつもの事で、よく分かる話ですが、なかなかこんな事例をきちんと聞ける人はいないのではないか、と思うほどです。その方のような事例を臆せず支援するのは、支援する側にかなりの力が必要と思います。で、そのカウンセリングの後は晩ご飯つくって、家族に配達して、今度は男ワークでした。今日の参加者は若干少なかったけれど、その分参加者はたくさん語れてよかったですね。と言いたくなる私がいました。ああ。ほんと忙しい一日でした。
2012/01/12
コメント(0)
今日は某NPOの理事会に参加してきました。そこで出た話ですが、臨床心理士の国家資格化の賛否です。以前から、臨床心理士を国家資格化する動きはありました。けれど、心を扱うことに国家の認定が必要なのかと言う議論です。国としては、鬱が増えて、年間三万人が自殺する現実に対してメンタルサポートを強化しようと言う事と、文部省肝いりで起こした臨床心理士資格が資格としてはさほど意味がないし、職域拡大につながらないという現実があるのでしょう。精神科医のもとでカウンセリングすれば保険適用できるし、カウンセリングを保険適応するために国家資格化した方が好都合ということもあるのでしょう。けれど、そう言う動きがクライアントの利益になるとはあまり思えない私です。精神科医の下請けになってしまっては、カウンセラーの主体的なカウンセリングが出来なくなるし、今でもめちゃくちゃな投薬がまかり通る精神科医療の中で、投薬以外の回復を前提とするカウンセリングが無くなれば、ますます投薬が増えて、薬依存が増え、自殺も増えるのじゃないかと、危惧する私です。自殺が増えた理由は、労働環境の悪化と、抗鬱剤の乱用に他ならず、この原因に対する対策をせずに、アリバイ作りのためにメンタルケアをやるのは、患者を増やして、業界の利益を確保するということになりかねません。その業界に食い入って、臨床心理士が利益確保に走るのが国家資格化ということでしょう。これでますます、悩む人、自殺する人が増えるかもしれませんねえ。やれやれ。薬依存(もちろん非合法薬物も含め)、自傷、アルコール、性、など様々な依存から抜け出せなくて、悩んでいる方、一度お気軽にお電話くださいね。お知り合いにそんな人がいたら紹介してくださいね。だいじょーぶ、一緒に考えましょ。薬飲んでても結局楽にはなりませんからね。あっ、カウンセリング受けてても楽になれない方も、ぜひ一度いらしてくださいね、楽になれないカウンセリングは相性が悪いか、カウンセリングがうまく機能してないかですからねー。
2012/01/11
コメント(2)

寒い日々が続きますが、こんな時はあったかお鍋に限ります。鍋と言えば和食の代表みたいですが、事はあちらも同じ事。今夜の定食は久々にポトフーにしました。たぶんフランス語なんでしょうけれど、ポット・フー、お鍋・火、という意味だったと記憶しています。間違いだったらごめんなさい、誰かおせーてね。定食ではペペロンチーノとプレーンオムレツのセットにしました。ポトフーはビーフをベースにして、キャベツ、大根、人参、たまねぎジャガイモの組み合わせにしました。ビーフは細切れを圧かけて少し煮込んで、その後野菜と合わせて煮込みました。久々のポトフー、おいしかったですぅ。ポトフーは野菜をたっぷり食べられるので、なかなかヘルシーです。野菜は低カロリーで高カリウム。食物繊維も豊かで、どんどん食べたい食材ですが、煮込むのに時間がかかるとか、洗ったりカットしたりするのが面倒とかで敬遠されがち。また野菜だけではメイン料理にはしにくいし、外食でも野菜は加熱するとかさが減って、見ためのボリュウムが取れず値段が取れないと言う事になり、付け合わせや、サラダ程度にしかしにくいのが現実。旬の野菜を使って自分で作れば、コストを気にせず、たっぷり野菜が食べられると言うもの。・・・・で、簡単に作るには、細かく切らないで、ざくざくドンドンと野菜を切って、順番なんか気にせず鍋に放り込んで、水を野菜の腰あたりまで入れて、コンソメと塩こしょう、ローリエくらいを入れて、火にかけ、沸騰してくれば、ふたをして弱火にするだけ。肉を入れる場合は、カットした肉をさっと湯通ししてアク抜きしたものを鍋に放り込んで下さい。で、ふたしてとろ火で三十分から四十分煮込めばできあがり。十分煮込んで三十分保温鍋に入れるか、発泡スチロール箱に入れても、OK。あまり難しく考えないで、煮込んでやってくださいねー。
2012/01/10
コメント(6)

昨日は久々にシフォンケーキを焼いてみました。材料庫の中に抹茶があったので、抹茶シフォンにしました。小麦粉+抹茶が少し多すぎて、若干シフォンにしては重かったけれど、おいしさは充分でした。それにしても、ささっとお菓子が作れるってのはほんと便利。お菓子も外で食べれば結構高いしね。私がお菓子を作るようになったのは、三十数年前に大阪のある食品会社に入ってからのこと。そこでは、衛生管理もやるけれど、主に新製品の開発が主な仕事でした。会社自体も当時は小さくて、開発部のスタッフは私ともう一人のパートの女性。お菓子も対象範囲でしたので、毎日お菓子を作っては食べると言う事をやってたら、あれあれと言う間にぶくぶくと太ってきたので、試食は極力食べないようにして、弁当も幼稚園なみのミニ弁当にしました。その会社に私は三年ほどつとめたけれど、労働条件が良くないので、転職しました。その後その会社ではヒット商品がでて、結構売り上げを伸ばして、今では、関東方面にも店舗を持つそこそこの企業になったようです。会社に未練はありませんが、あの三年間でけっこうお菓子作りのトレーニングが出来たのはいい経験でした。私はもともと料理は好きだし、理系というか生物関係の勉強もしているので、科学実験の理屈はなんとなくわかります。板さんやシェフは体験や伝統で仕事しますが、私は理屈で料理しますから、状況に合わせて、料理を自在に変化させる事も難しくありません。先日の餅つき大会の時でも餅のつき方をネットで調べてて、Q&Aで、カセットコンロで餅米は蒸せませんか、との質問に、火力が弱いので無理です、と、あっさり答えてます。カセットコンロの火力なら、一升の米は蒸せませんが、四合なら蒸せます。二つのコンロでやるか、小ぶりの臼で餅つきするかすれば、カセットコンロでも餅つきは可能ですよ、とAしてほしかったですね。私はカセットコンロも事実使いましたしね。実は私は、人に教わるのが得意ではありません。教わってもあまり覚えられないし、教えてくれる事に疑問を感じてしまう事が多いからです。だったら、自分で考えてやった方が確実、と言う事になります。これはお菓子づくりや料理に関してだけではありません。何に付け、自分で考えてやる方がうまく行くのです。これは今のカウンセリングや援助についても言える事。もちろん、カウンセリングについて、基礎的な事は学んでますし、心理学に関しても基本的なところは理解しています。が、エラいセンセに学ぼうとは思わないのです。エラいセンセの語る事はあんまり意味がないと思えてしまうのですから。それより当事者の語りの方がよほど学びのネタがあります。そのネタを私なりに理解して、セラピーや援助につなげて行きました。ですから、他の人がやらない事を、次々と実践してこれたのでしょう。素材を理解し、素材と対話しながら、何かを作り上げて行くのは、料理もお菓子も、カウンセリングも同じ。その手法はナラティブに通じるものです。ですから、ナラティブを知ったとき、これは新しいやり方だ、とは思わず、私のやり方と同じだ、と感じたのが正直なところです。さらに対人関係や、世界との関わりについても、同じような事が言えます。トップダウンの関係ではないのですね、私の頭の中は。だから板さんにもシェフにもなれないし、なりたくないのですねぇ
2012/01/09
コメント(0)
今日は一日にぎやかでした。朝は九時過ぎから新年会の準備をして、十一時から新年会。合計17人ほどが集まりましたが、そのにぎやかな事。この集まりはエコクッキングの料理教室から出発して、ハイキングも行う人たちです。もう長い付き合いで、二十数年の付き合いがあります。ほんと、長く付き合える仲間と言うのは有り難いものです。それぞれの人生を生きていながらも、その時間をどこか共有出来る人たちの存在は、それなりの安心感を与えてくれます。新年会の途中にカウンセリングの依頼があって、夜にお話を聞かせていただく事にしました。が、ステージとしてはコンサルの段階は終わってて、認知行動療法から、ナラティブの応用、のあたりにステージが変わっているような状態です。この辺りのセラピーは変化がわかりやすく、私としてもとても学びの多い刺激的な段階です。一見、馬鹿な話をえんえんと続けているみたいだけれど、語りの中から、新たな価値観が再構築されている様子も感じられて、実に面白いものです。で、カウンセリングが終わって、残りの片付けものを終わらせて自宅に帰れば、もう今日も終わり頃・・・ああ、今日も忙しかったですぅ。
2012/01/08
コメント(0)
私の・・・ずっと昔、今で言うパニック発作が起こってた高校生の頃、当時はパニック障害とか言う言葉もなくて、地方の田舎では精神科医もなくて、私は自分の頭に何がおこっているのか、訳もわからず不安が暴走して、発作状態になることがしばしばあって、その恐怖はとてつもなく、その予期不安におびえるのも苦しくて、とりあえずアルコールで心の不安の暴走を止めていました。発作が始まる前にアルコールで鈍麻させれば発作は回避できると言う安心感のためには、常にアルコールが手の届くところにあると言う事も大切でした。一度出来た脳内の不安の回路は刺激のスパークが繰り返されるたびにニューロン、シナプスの回路が強化され、どんどんサーキットが走りやすくなるように脳内回路も暴走しやすくなって行きます。たぶん、何万年という人類の歴史の中では自我とか意識とか言う概念も思考回路(シェマ)としては存在してなくて、外部刺激にどう反応するか、自分なりの体験に基づく反応の仕方を学習したり、あるいはシャーマンの伝える霊の声に従ってれば済む事で、自我としての悩みは存在しなかったのではないか、と私は考えます。けれど、現代は自我の確立が求められ、合理的な判断を求められ、一貫性、統一性を求められ、矛盾を追及され、社会との整合性を問われます。その思考様式に合わせるためには、量子的な矛盾をはらむ自身の存在を否定するしかありません。今でこそ、脳内回路の暴走の理由や止め方もわかる私だけれど、暴走がもう絶対におこらないという安心感を得るまでに二十年という時間を費やしたし、今に至るまでにさらに二十年かかりました。こんな私ですから、不安や恐怖が暴走したり、こびりついてしまう人に対して、暴走を止めたり、払い落としたりするお手伝いをすることには、特に困難を感じないのですが、不安の回路を少しずつ弱めて行くには時間がかかる事、様々な身体を通じた刺激が必要だと言う事・・・この辺りが大変で、認知行動療法も限界になる事も多いのではないかと思います。で私はナラティブやらメンズスタイルでのセラピーを行いつつ、クライアントの脳内に新たな思考回路を作って行くようにしています。それは物語を紡ぎつつ、新たな世界を構築して行くことですが、そのために、身体や他者との関わり方に対する実習もとても有効と判断しています。と言う訳で、昨夜も暴走体験を持つ者たちの一見無意味で破廉恥非常識なエロ話に花を咲かせていました。アップルパイの作り方とアナル開発の話が同列に語られる、性的抑圧のない場こそが、暴走を止めるために必要だけれど、その事に気づいてる専門家っているのかなぁ。
2012/01/07
コメント(0)
私は料理するのが好きなので、日々の料理が苦にならないどころか、料理してると楽しいのがほんとのところ。おいしいものを食べると幸せを感じる事もできるし。自分でおいしいものを作れるのだから、ほんとラッキーでハッピーです。けれど、そんなに好きならプロになって板さんかシェフになればいいのに、と思われるかもしれませんが、どこかの店で料理するのは、自分のやりたい料理ではないし、人にあれこれ言われて仕事したくはありません。純粋に自分のやりたいようにやるためには、自分の趣味でやるしかありません。ですのでそれを続けてきました。もちろん、多少はレストランでパートしてた事もあるけれど、そこではさほど料理してたというイメージはなくて、ルーティンでしごとしてたと言う感じです。今は、月一のグルメナイトで、毎回五十品目くらい準備して、ゲストのオーダーに応えるのを楽しみにしています。狭い家庭用のキッチンで、オーダーをこなして行くのはけっこうハードで、スポーツのようなゲームのような、そんな面白さがあります。自分でおいしいものを自由に作れるなんて、ほんと便利この上ありません。お金もかからないし、健康管理もできるし。だから将来の不安は私にはほとんどありません。お金はなくても大丈夫。そうそう、知人の話ですがお金の事でもめてる夫婦がいて、それはひどいやろ、と言う話になりました。けれど私はそのことについて、「その人も人が信用できなくてお金しか信用できないんやね、かわいそうな人やね」と答えるにとどめました。私はお金がないけれど、お金がある人がうらやましいとは思わないし、お金が欲しいとはさほど思いません。月五~六万あればなんとか回していける今の私の経済です。お金がなくても幸せに生きて行けると言う自負があるからでしょう。病気になる事もないし、もしなっても、病気と折り合いつけつつ、病気をネタにおもしろがつている事でしょう。私は、心と体の健康管理やら、幸せのための料理が出来るから、金がなくても不安にならないのでしょう。ほんと生活力があるというのは便利で楽しいもんです。多くの人はその力を育ててないから、金で各種サービスを買うしかないし、かねがなくなったらたちまち破綻してしまうというのが不安の根源でしょうか。また金があったら金の力で人をコントロールできるから、欲求が満たされると言う事もあるのかもしれません。けれど私は人をコントロールしようとは思わないし、人とは信頼を基にした心地よい関係を作る事を大事にしてるから、コントロールなしの相互扶助で気持ちいい関係も作れます。ちなみに昨夕のご飯メニューは、鶏の鍋照り焼きと、とろろ芋、卯の花、みそ汁、ご飯、でした。
2012/01/06
コメント(2)
昔々、テレビタレントにオスマン・サンコンさんというアフリカンがいて、彼が語った事にすごく納得したことがありました。彼の語るに「僕たちの文化にアイ・ハブという概念はなくて、アイアム・ウィズと言うんだよ」とのこと。所有と言う概念はなく、共にあるという概念で関係を作ると言うのです。例えば、私は犬を持っている、のではなく、私は犬とともにある、のです。所有の概念で人の関係を作ると、所有する者される者の権力関係が発生します。子どもは親のものとか、嫁は夫のものとか、この所有関係は共にあるという対等・平等な関係とは相容れません。私は親子であれ、夫婦であれ、所有関係を作りたくはありません。それぞれが独立した自由な個人であって、権力構造にはありません。自由で対等です。相互の関係は相互の契約と信頼に基づいてます。具体的には、法律とか性とか、経済で相手を縛る関係にはしていません。法律で縛らないということを具体的にするために、離婚届に双方が署名押印したものを置いています。どちらかが離婚したければいつでも提出可能と言う前提です。経済も結婚当初から基本的にダブルポケットで、お互いの収入はそれぞれが管理してます。私は家族を扶養した事はないし、扶養された事もありません。男が働いて家族を養う、という当たり前が私の家族ではいっさい通用しません。自分の口は自分で養う、のが私の家族の当たり前です。もちろん、経済がどうであれ家族責任はそれぞれありますから、家族の中の再生産労働もそれぞれが能力に応じて分担するのも当たり前です。私は料理を連れ合いは洗濯を引き受けました。育児は両方が負担しました。妊娠から出産も含め私もかなり関わったというより、積極的に関わったと自負しています。この辺りの話はまたいつか。所有関係になくて相互の自由で共にある関係ですから、誰かに奪われるという不安もないし、縛れるとも思ってないから、相手が私との関係を終わらせるのを望んだらそれを受け入れるしかない、とも理解しています。ですから、嫉妬心がおきにくいと言う事もあると思います。もちろん、現代社会の価値観の中で育ち、暮らしている私ですから、性的所有とか嫉妬とかいう感情が理解できない訳ではありませんし、そう言う感情が私の中に皆無と言う訳でもありません。が、その感情に振り回されたり、傷ついたり苦しんだりする事はありません。私はスケベで変態、と自称するけれど、私は他者との性的な関係においても相互に性的所有する関係にはしたくないし、ましてや性的に相手の自由を奪うセクハラのような関係や行為を肯定することはありません。ただ、こんな私の価値観を理解できない人たちが私を性的に所有したいとか独占したいとか無意識に考えた時に、その考えに応じない私に対して、嫉妬したり妄想したりすることはあり得るものと思います。そんな人たちは自分の感情が自分の認知や価値観によって生起している事には思い至りませんから、理解不能な私に、それぞれの心の影を投影し、私を諸悪の根源のように見てしまうのでしょう。生老病死の四苦はもちろん、愛別離苦も含めた八苦からも人は逃れられないと言うのが仏さんの教えだとか。人は縛れない、所有できない、と言う事を受け入れるしかないのでしょう。その時にはじめて、嫉妬の苦しさから逃れうるのでしょう。人は一人でうまれ一人で死んで行くのでしょう。しかも裸で生まれ、裸で死んで行くのです。自由な心とその器の身体だけを預かって、この世界に降り立ちまたあの世界に帰るまでの短い時間、どれだけ自分の心を自由に育て、大きな世界と同化し、感動や感謝を我が心に満たせるか、と言うだけの事かもしれません。とはいうものの、サンコンさんの故郷って、一夫多妻のバリバリの所有関係を認める社会ではなかつたかしらん(笑)よーわからんけれど・・・その辺り詳しい人がいたらおしえてねー
2012/01/06
コメント(0)
昨日は走り初め。前夜は二時近くまで起きてたので、六時半起きは少し辛かったけれど、ぐぁんばりました。7時前に走りはじめて、いつもの疎水コースではなく、ほんと久々の山科川コースを走りました。山科盆地を北から南へ流れる山科川です。この川縁のランニングコースをひたすら走りました。走ってると以前の花にあふれた風景が思い起こされて懐かしくも少々わびしい気分で六地蔵まで走りました。片道九キロ、往復十八キロを二時間と少しでした。さすがに十八キロ、最近はこの距離に慣れてきたとは言うものの、ランニング後はふくらはぎがけっこうの筋肉痛です。三日程で回復するから問題はありませんが。とはいえ、このコースは疎水・峠越えコースと比べて坂が無い分楽と言えばらくです。ランニング後は事務所の掃除で午前中は終わり。午後からは時間も空いたので年末に生地作りまでやってたアップルパイを焼きました。やはりお菓子の王様・・・アップルパイはおいしーい。夜はなぜか目が冴えて、見放題DVDを見ました。たまたまガイドにあったナイト・シャマランの「レディー・インザ・ウォーター」とリュックベッソンの「アンジェラ」と。どちらも風采の上がらない男が異界から来た美女との出会いで人生を変えていくと言うもの。特にアンジェラはベッソンのお気に入りの強くて美しい女がテーマ。実は彼女は天使だけれど暴力的で且つ傷ついているという存在。男は人生に絶望していて身投げしようとするが・・・。ベッソンの描く強くて美しい女には、私の感性が妙に刺激されて苦しいくらい。こんな女いるはずが無い、とわかってはいても私の心は疼きます。結局、人生は愛する事でしか意味が見いだせないってことなんですよねえ。嫉妬や憎しみ、不信や優越などの感情に支配されていては本当の人生は送れないのかも。惜しみなく与える愛こそが自らを豊かにするんですよねえ。なかなか難しい事だろうけれど・・・。
2012/01/04
コメント(2)
いつ見た夢を初夢というのか、二日夜の夢と言うのが一般的らしいけれど、私が二日朝の目覚めに見た夢をお話ししておきたくなりました。友人と山に登ろうと言う事で集合場所に行こうとするけれどバスを乗り間違えて、違う所に行ってしまいます。そこから地下鉄に乗り換えたら同じ事と思って、地下鉄を探すけれど、入り口がみあたりません。その近くの商店街は妙に寂れてて、人影がありません。空は曇り空と言うか黒い雲と同時に沢山の鳥が舞っています。ゴッホの「カラスのいる麦畑」のように・・・。けれど、私自身はちっとも不安に感じてなくて、たんたんとその雲や鳥を眺めています。ああ、カラスが・・とか今度は鳩だ・・とか不思議なものを見るように。そのあたりで目覚めるのですが、印象的だったので記憶に残ってしまいました。最近は記憶に残る夢を見る事はほとんどありませんけれど。この夢が私の無意識から作られたものか、何か別のものがあるのか私にはわかりませんが、今年が多くの人にとって不安な年になるのかもしれないという、私の意識からでたものと考えるのが妥当かも知れません。おりしも今年はマヤカレンダーの世界の終わりの年と言う説もあったり、世界的にも政治的な変動が予測される年と言う事もあったりして、多くの人達が漠然とした不安を感じているのかも知れません。不安を感じるだけではあまり意味があるとは思えませんが、不安がなくなるようみんなに真剣に考えてもらうのも悪くは無いと思う私です。他人事で考えてるうちはほんとに世界を変えようなんて考えないしね。私? 私はどんな世界になってもすでに予想の範囲。特に不安になる事はありません・・・そんな事をあらためて考えさせられた私の初夢でした。
2012/01/03
コメント(0)

今年も岡山の山奥の施設に入っている母に会いにいきました。92歳の高齢ですが、身体はまだ元気なようで安心です。昨年より若干耳が遠くなっているのと少し身体全体が小さくなったかな、というイメージはあります。もともと穏やかな人なので、多少記憶力は落ちてるようですが、特に生活に問題はなさそうです。本人は百まで生きると言ってるので、後数年はこのまま穏やかに暮らしてくれればとおもいます。まああの母にして私があるのも事実で、今となっては感謝感謝です。勉強もせず遊んでばかりで、多少は問題も起こしてた私に、期待もせず無視もせず、ただ見守り続けてくれた、その穏やかさやら忍耐力には有り難さを感じずにはいられません。石女として家を追われた女が、人生やら家族やらを問うた時に、その虚飾に惑わされる事無く自身の人生の意味を、そして家族の意味を理解したのでしょう。私の父と再婚し、新しい家族を持ち子どもをもうけたのですから。彼女にはそれを言葉にするゆとりも才能も無かったようですが、自身の人生に納得できれば充分だったのかも知れません。それを言葉にするのは、その人生の意味を受け継いだ私の仕事かも知れません。世間では血とか籍とか、財産とか、それらが家族の本質のように理解しているようだけれど、それらは妄想に過ぎません。妄想だから人を幸せにする事にもあまり役には立ちません。そうではなくて、人が生きると言う事の意味を、共にあると言う事の意味をともに紡ぎあい分かち合う関係、育ちあう関係こそが家族の本質であって、登録したり計算したり分析したりできるものではありません。目に見えないもの、形に現せないもの、だけれど実感できる、実感するしかないものが家族の本質なのかも知れません。誰でもいいから・・信頼しあい分かち合う関係を作りたいもの・・・そこに家族ができるのかもしれません。92の八重ちゃんが私に伝えてくれた事のように感じる私でした。
2012/01/02
コメント(6)
全30件 (30件中 1-30件目)
1