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何となくHPから遠ざかって五カ月。ほかの方のページも、ほとんどのぞかなかったし、パソコンは仕事専用の状態だった。 あ、それは、ウソか。麻雀だけは、たまに気晴らしに楽しんでいたんだよね。でも、それも、そろそろ飽きた感じ。 最初は、感情の入らないパソコンのゲームに魅力を感じたものだったが、やはり、心理面とか、微妙な駆け引きとかがないと、ゲームっていうのは、面白くないんだよね。 一応、一カ月ほどで、十段まで上り詰めたんだけど、あまり簡単に昇段してしまったものだから、本当の実力を試したくなって、また新たに別の名前で登録し、一級から出直し。現在は、二段から五段の間を行ったり来たり。気持ちが完全に冷めた状態でやるものだから、それから上の段には、なかなか上れない。勝負事っていうのは、そういうものなんだよね。 まあ、これから、ぼちぼちHPにも書き入れていこうと思っているのだけど、気紛れな私のこと、どうなることやら……。
2005年08月10日
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三十数年ぶりに引っ越しをする。少しずつ身辺整理をしているが、自分ながら驚いているのが、今までため込んでおいた本の多さ。次から次と出てくる。我ながら、すごいと感じる。捨てる本の数、およそ千冊以上。文庫本は、五百冊以上だろうか。それ以上かもしれない。とにかく、いろいろなところから、出て来る、出てくる。貧乏性なんだろうね、本だけは絶対に捨てられない。だから、どんどん増えてしまう。今のところ、古本屋に売ろうか、それともコミセンにでも寄付しようかと、まだ迷っている、
2005年03月23日
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ここ一カ月の間に、ギャラダウンの交渉が続けさまに二件。大した金額ではないが、ちょっとプライドを傷付けられた感じがしないでもない。これまで、不況なんて、俺の世界には関係ない…と威張っていたけど、そろそろ来たかな…っていう恐れも、多少は感じる。もう、それほど稼ぐ必要性はない年代だし、ガツガツはしていないつもりだけど、ギャラを下げられて、それをそのままのむなんて、ちょっと情けない。若い者を連れての、派手な遊びを見られて、「こいつは、暮らしのために仕事をしているんじゃない」と、足下を見られたかな? でも、ま、いいか。飲みに行くのを、二、三度我慢すれば、何とかなるんだものね。
2005年03月14日
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私も年をとったものだと思う。昔だったら、無条件にあの人の行為に快哉を叫んだだろうと思うが、今では、すべてを否定してしまう。世の中って、そんなに甘いものじゃないよ。「お金で買えないものはない」なんて広言するなんて、冗談じゃない…と怒りさえ覚えてしまう。 若いっていうのは、素晴らしいことだと思うけど、それに甘えて、何でも許されると思ったら、必ず、しっぺ返しが来ることを悟らなければならない。世の中には、厳然とした秩序というものがある。私も若いころは、その秩序たるものを破壊してやろうと、少しは暴れ回ったから、ホリエモンさんの気持ちも分からないでもないけど、それには限度というものがある。 一番気に入らないのは、後付けの台詞文句。メディアの世界を変える…って、本気かよ。冗談でしょ。あんた、メディアの世界を、どのくらい知っているんだよ。ある意味では、古くさい世界かもしれないけどね。でも、それはそれで、みんな努力し、勉強もしているんだよ。格好いいことを言わないで、「私の目的は、金儲けです」って、言いなさいよ。それなら、納得もしないでもないけどさ。
2005年03月10日
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日曜日から月曜日にかけて、愛知県の日間賀島にフグ尽くしを食べに行ってまいりました。貧乏なころに、大阪で本当に安いフグをしょっちゅう食べていましたので、多少はフグの味は知っているつもりです。 とは言っても、その大阪のフグの鍋は、骨付きがほとんど。それを、懸命にしゃぶるという格好なので、上等のものではありません。もちろん、その後に、上等と言うか、高い値段のフグも食しましたが、やはり、フグは骨付きのものがおいしいというのが実感でした。 さて、日間賀島のフグ尽くし。すごい量でした。最初に、てっさ。そして皮をあぶったあぶり焼き、空揚げ、煮付け、皮の酢ものと続き、最後に鍋、雑炊です。その間、豪快なタコの姿煮、伊勢海老のお刺し身一匹ずつ、渡りがに一杯ずつ…など、とにかく、これでもか、これでもかといった具合に、山盛りの料理が次々に出ます。ですから、最後の鍋に行き着くころには、もう、お腹がいっぱい状態。それでも、もったいないからと、多少は箸をつけましたが、ほとんど食べられない始末になっていました。従って、雑炊は、フグの身の半分以上を皿に取り出し、その上で作ることになりました。「ああ、もったいない」と思いながらの措置でしたが、都会では考えられないような、ぜいたくな雑炊でした。 どんな高級なものでも、たらふく食べたら、普通の食べ物と変わらないんだ…というのが、実感です。高級なものは、やはり、それに合わせて、少量でいい。そうでないと、価値観がなくなるし、おいしさも半減する…。ぜいたくな感想ですが、つくづく、そう思いました。
2005年02月22日
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自分の仕事の延長でテープ起こし。口述したものを、文章のするのだが、これが意外と厄介。というより、一番嫌な仕事。ほとんどは、そのまま文章にはできないものが多い。こちらは、テープ起こしの専門家ではないので、聴きながら書き写すスきピードが、極端に遅い。二時間のテープなら、最低二回は聞き、それから、おもむろに口述を書き写していく。ところが、テープを聞いて、そのまま文章にできるものは、ほとんどない。主語や述語が欠落していたりなんてことは普通。しゃれやユーモアも、その場で聴けば、雰囲気で笑えるのだが、文章にした場合には、しらけることが少なくない。人によっては、書き直して、ほとんど、こちらの創作ということもある。しかし、どんなに苦労して仕上げても、こちらの名前が出ることはない。ああ、嫌な商売…。
2005年02月16日
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来週の自分の「遊び特集」に備えて、きょうは 朝からパソコンに向かって、文字の打ち続け。ちょっと疲れぎみである。文字を打っていて思うのは、一年前まで慣れていた「仮名文打ち」が、いかにムダであったかということ。なにしろワープロで、三十数年、仮名文字打ちに徹底していたのだから、パソコンのローマ字変換には、かなり抵抗があった。しかし、案ずるより生むがやすし…ローマ字変換には、すぐに慣れ、スピードが今までの三分の一までに短縮された。考えてみても、仮名文字打ちなら一字で済むが、ローマ字打ちなら、一字分は余計に打たなくてはいけないから、ロスがあると思うのは、当然でしょうが…。ところが、これが数字のマジック。ローマ字は、仮名文字の二分の一の済むんだよね。
2005年02月15日
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何となく自分のコーナーを眺めていたら、現在の日記記入率が出ていた、四九%だとか。昨年の一時期は、九◯%近くを誇っていたのに、ほぼ半減。あのころは、一日のアクセス数に一喜一憂して、二百、三百を目指していた。それはそれで楽しかったが、あるとき、数字を挙げる空虚さに気が付いた。数字を挙げようと思えば、一定の工夫をすれば、ある程度の伸びは期待できるらしい。しかし、訪問者が多いからといって、いい友達ができるとは限らない。というのは、数字を挙げようという不純な意図で日記を書くと、どうしても自分の日記が、みんなに迎合するような甘いものになって、個性がなくなってしまう。自分で自分の一日の日記を評価して「今日の日記は、いい出来だ」と思っていても、見る方は、そんなこと関係ありゃしない。ただ、新着の日記だということで、ちょっと興味は持ってくれても、素通りするだけだ。もちろん、自分の文才のなさも要因のひとつだろうとは思うが、時々、HPの限界を感じてしまう。日記なんて、本来は、人に見せることを目的に書くものじゃないんだよね。
2005年02月13日
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何にもせずに、ただ、ボッとしているのもいいもんだ。やることがないわけじゃない。仕事だって、少しは立て込んでいるが、三連休は安息の時間と決めた。だから、ただただ、ぼんやりした、怠惰な時をむさぼっている。でも、生来、動くのが好きな性分なのか、いつの間にか、普段はできない資料の整理などを始めている自分に気が付く。書類の整理をして、隣の神社のドラム缶を拝借して盛大に燃やし、何か、一仕事を終えたような、爽快感を味わっている。紙の燃える炎を見つめながら、「暇だなぁ…」とつぶやくと、ゆったりとした気持ちになる。
2005年02月12日
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勤め人じゃないから、いつも休みみたいなものだけど、人様が休むときに休めるっていうのは、一応、気分的にホッとするんだよね。本当は、今日は飲みに行きたい気分だったけど、来週は遊びのスケジュールがいっぱい。お気に入りの女性ジャズシンガーのライブにも行かなければならないし、外国に移住するある女性のお別れパーティーもあるし、日間賀島という離れ小島にフグを食べに行く計画もあるし、なんだかんだで、結構、忙しいんだよね。それで、今日は、おとなしく家でパソコンいじり。本当は、遊びの後は、地獄の仕事が待ち構えているんだけど、そんなことを考えていたら、遊びなんかできゃしない。遊ぶために金儲けをする主義の私にとっては、スケジュールが立て込めば立て込むほど、張り切って仕事ができるってこと。なんか、今から自己弁護の予防線を張っているような気がしないでもないがね。
2005年02月10日
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ここ二、三カ月ほど三日と続かなかった日記だけど、珍しく三日も続いた。多少は、意識的なものもあるけれど、それでも、自分では評価したい。以前は、アクセス数に一喜一憂して「今日は百とか、二百あった」とか気にしていたものだが、今は、まったくといってほど、無関心。本当は、いけないことなんだろうけれど、これはこれで、いいんだろうと思う。だって、商売を目的にしているわけじゃないんだから、いくら訪問者があろうと、そんなことは、こちとら関係がない。ただ、今のところは、くだらないことを書いているだけど、そのうち、以前のように、何らかの自己主張をしていきたいとは思っている。そうでないと、なんのためのHPなんだろうという疑問を感じるのは、意識過剰なのかな?
2005年02月09日
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昨日、本当に久しぶりに日記を記入し、五十人以上の訪問者があった。これって、なんだろう。別に、大したことを書いたわけでなく、愚痴を書いただけなのに、普段の十倍、あるいは二十倍のアクセス数があった。 私から言わせると、驕りかもしれないけど他人の日記は、それほど関心はない。と言うより、このコーナーで、自分独自の面白い意見、自分だけの視点で世の中を斬るといったものが、ほとんどないといってもいい。 私が、リンクさせている方は、さすがに個性的な方が多いが、ランダムで訪問してみると、面白い内容だな…と思うは、百の内一、二件もない。もちろん、私のHPだって、他人から見れば、その範疇に入るだろうけれどね…。 結局、みんな寂しいのかな。だから、自分にないものを求めて、彷徨(さまよ)ってっているのかな? 自分では気がついてないないけれど、こちらも、その口なのかもしれないな。
2005年02月08日
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暮れに日記を記入して以来、ほとんど放りっぱなし。たまに、リンクさせていただいている方の元気なコーナーをのぞくと、うらやましさと同時に、自分の至らなさを感じ、自己嫌悪に駆られてしまう。 まったく書くことがないわけじゃないけれど、積極的に書こうという意志がないから、デスクに向かう機会が少なくなる。自分だけの見解を、自分だけの視点で書き、他人の視線や意見など無視すればいいのだが、どうしても、「いい子」の文章になってしまうんだよね。まだまだ、修行が足りないのかもしれない。 今も、ここまで書いて、ムダなことをだらだらと…思い、消そうという気持ちが募っている。今年になって、こういうことが何度あっただろう。でも、いいや。今日は、このまま掲載してしまおう。そうでなかったら、いつまでも同じ状態が続くから…。 すごいですね。ちょっと日記を記入しただけで、今日は四十人以上の訪問者がある。これまで、ほとんどひとケタだったのが、十倍、二十倍。しかし、これに、騙されて、はまってしまうと、麻薬のような効果を発揮する。それ以上の数字を挙げようと、一生懸命になる。本当を言うと、これはこれで、快感なんだよね。でも……。
2005年02月07日
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今年も、あと一日。今年は、結構、いい年だったような気がする。仕事も順調だったし、健康面でも、さしたるトラブルもなかった。心残りといえば、HPを途中で放り出したぐらいかな。まあ、これは、自分自身で意識して遠ざかったのだから、決してマイナス点ではないはず。 仕事が順調だったせいで、年賀状も早めに出すことができた。これは、例年にないこと。いつもは、年末ギリギリまで書き上げることができなかった。パソコンを使って、カラープリンタで仕上げた。この年賀状には、おこがましくも、今年の目標を掲げた。 今年のテーマは三点の「…らず」。「怒らず、恐れず、焦らず」。できないとは思うけど、努力はしたい。一番難しいのは、「怒らず」かな。仕事では、めったに怒らないけど、今年は、もっと巨大なもの、政治とか、経済とかに怒りっぱなしだった。ああ、これは怒ってもいいんだよね。怒らなくなったら、人間、おしまいだよね。 もう、明日になったから、これまでにする。お休みなさい。
2004年12月30日
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十二月は、年に一度の猛烈に忙しい時。収入も大きいが、あまり忙しいと「もう、ゼニはいらねえから、休ませてくれ」という心境になってしまう。でも、仕事があるってことは、本当は幸せに思わなきゃいけないんだよね。今年はパソコンのおかげで、かなり仕事がはかどって、もう一段落。いつもだと、クリスマスぎりぎりまであたふたしている状態だったけど、もうほとんどの仕事は打ち上げ。余裕たっぷりといったところ。不思議なのは、あまり忙しいと遊びもほどほどと思うけど、逆に、ストレスがたまるせいか、夜の遊びも激しく、かなりの散財。まあ、自分の主義として、「遊ぶために働いているんだから、いいかっ」ということ。 そういうわけで、ちょっと暇になったので、久しぶりにHPをのぞいてみた。びっくりだよね。先月の上旬に書き込みをしただけで、一カ月半以上のごぶさただった。一時期の、あのHPの対する入れ込みようは、何だったのだろうかと思ってしまう。いけないよね、こんな態度は。少なくても、お気に入りにリンクしていただいている方には申し訳が立たないよね。まだ見ていないけど、もう、みんなから見離されているんだろうな。何だか、見るのが怖い心境。
2004年12月19日
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昨日、新幹線「のぞみ」号で横浜へ出張。仕事の打ち合わせだったが、早々に終わり、伊勢佐木町界隈で、三時ごろからスポンサーと食事。 とはいっても、食事を口実に、ちょっといっぱいというところ。魚が抜群にうまい店だった。 まず、大好きな、カツオの刺し身。「にんにくを付けて」と注文したら「摺りますか、それともスライスですか?」ときた。うれしいねぇ…。最近は、こんな心遣いをしてくれる店が少なくなったもんね。もちろん、スライスを注文。 ピンク色のぶ厚なカツオは、「う~ん」とうなるほど美味だった。私は、マグロより、カツオのほうが好物。よく食べるから、味は分かるつもり。 次に食べたのが、キンキの煮付け。このキンキっていうやつ、北海道でも、最近は高級魚になっていて、われら庶民は、なかなか食べる機会が少なくなった。注文すると、かなり大きく、仲居さんが「ちょっと大きいですが、いいでしょうか?」と、お盆に乗せたキンキ二尾を、わざわざ見せにきた。もちろん、異存はない。これが、またまた大当たり。味付けも、甘からず、からからず、まことに上品。このキンキのお値段、きっと一尾四千~五千円はしたと思う。値段を気にするなんて、貧乏人根性かな。 スポンサーのおごりとはいっても、ちょっと心苦しい。あとは、イワシのつみれ、カレイの塩焼き、めじマグロの刺し身などを堪能。酒は、ビールから始まって、熱燗、焼酎など、当たり構わずといってところ。 あ~あ、久しぶりにぜいたくをした感じ。たまには、いいものを食べるものだよね…が実感。
2004年11月10日
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本当に一カ月経ってしまった。久しぶりに日記を書こうと思ったが、パソコンの操作がおぼつかない。そして、何を書いていいのかも分からない。ただ漫然と、キーを叩いている状態。十月一日にも書いたが、実は、パソコンの麻雀にはまっていた。何しろ、何か一つ始めると、徹底的にやらないと気が済まない性格。ところが、これも段位が十段まで昇級してしまった。十級から一級、初段から十段まであるから、それこそわずか一カ月足らずでトップまで上り詰めてしまった。先月の成績は、二十万人中、七位。十段までなると、相手が敬遠して、メンバーが、なかなか集まってくれない。だから、最近では手持ちぶさたの状態が続いている。ある人に言わせると、「だから、どうだって言うの?」。そうなんだよね。十段になったからといって、二十万人中の七位になったからと自慢したって、興味がない人には、「そんなムダなことに時間を潰して…」と批判されるのがオチなんだよね。でも、負け惜しみかもしれないけど、「極めた」という満足感はないでもない。ホームページもそう。アクセス数が一万とか、一万五千までは、一生懸命だったけど、それを達成してしまうと、何となく「何だ、こんなものか」と放り出してしまう。嫌な性格だね、まったく。何だか訳の分からないことをクダクダ書いているようだから、今日のところは、これでストップ。また、明日から、このホームページも新しい形で出直してみようかな…と思うのだが、さてどうなることやら。
2004年11月01日
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四日前に180のアクセス数があって、その後は日記記入がないためか、一日17とか20しかない。 極端だよなあ。でも最近では全く気にしていない。あればあれでいいし、なければないで、納得している。 アクセス数とは、ほとんど話は変わるが、ここニ、三日、パソコンのマージャンにはまっている。私の趣味の自慢と言えば、残念ながらマージャンだけしかない。素人相手なら、絶対に負けない自信はある。若いときは、結構、気険な賭けマージャンで修羅場も経験している。 そういうわけで、自信を持って、パソコンのマージャンに挑戦したが、やはり勝手が違う。素早く、キーを打たなければならないのに、それに付いていけない。 でも、何度か経験し、慣れてくると、さすが、昔とったきねづか。ほとんど負けを知らない。見る見るうちに、何万人かの上位に食い込んで来た。 こんなこと、自慢にもなりゃしないか? でも、日記記入でアクセス数に一喜一憂するより、こちらのほうが、ずっと面白いことは確か。しばらく、こちらの方に依存するつもり。ごめんなさい。
2004年10月01日
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久しぶりに、差別語、不快用語について記します。今回は、人種、民族の表記。新聞用字、用語では、差別の観念を表す言葉については、かなり厳しく制限しております。 少数民族の名称には、周囲の民族が付けた「あだ名」「蔑称(べっしょう)」や、先進国・入植者が付けた俗称がありますが、そうした俗称は使用しないで、その民族が名乗る呼称を使います。また、○○族、○○○部族の表記は避け、○○人、○○○民族、○○○系などとします。 ●土人、原住民→先住民(族)、現地人 ●裸族、首狩り族、蛮族→正式の民族名を表記する ●酋長→首長、集落の長 ●後進国、未開国、低開発国→発展途上国 ●黒ンボ、ニグロ、ニガー→黒人 ●毛唐→外国人、○○○人 ●外人、外人部隊→外国人、外国人部隊 ●外人墓地→外国人墓地 ●黒人兵→米兵 (人種問題で在日米兵の黒人と白人がけんかした ときのように、黒人と明記する必要のある場合 以外は、わざわざ黒人とする必要はありません)
2004年09月27日
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芸能人やタレントが、自分史や暴露本を出版すると、内容はともかく、適当な部数が売れ、中にはベストセラーになっている傾向がある。でも、苦労しながら、自分で書いている方は、どのくらいいるのだろうか。芸能活動、タレント活動をしながら、暇を見つけて著作に励むなんて、よほど能力のある強い意志の持ち主か、文筆に自信がある人でなければできないはずだ。 私も、生活のために、何度かゴーストライターを務めてことがある。だいたい、ゴーストライターに自分の伝記などを依頼するなんて輩(やから)は、ほとんどビジョンなど持っていない。私の場合、中小企業の社長、あるいは、ある程度、社会的位置を確立して、さらに自分の立場を強固にしたいという、自己権威力の旺盛な方が多かったから、どういう目的で本を出したいのか、どのような構成を考えているかなど、文章以前に、考察する問題が多かった。 試しに、これまで書いた文章を見せてもらっても、箸にも棒にもかからないというより、「あんた、本当に、こんなもの、本にできると思っているのかよ」という程度の、稚拙なものが少なくなかった。それでも、本人はまったく平気である。「あんた、プロなんだろう。これで適当まとめてよ」という態度で、軽くいなされた。 ゴーストライターを引き受ける場合、一番楽なのは、完全に本人が書いたものを、文章の流れなどを考慮しながら、適当に項目別に取捨選択し、リライトするケース。次は、原稿はなくても、自分のこれまでの人生、考えなどをテープなどに吹き込んでもらい、それを、こちらが適当に脚色し、面白おかしくまとめる方法など、いろいろな方法がある。しかし、一番、厄介なのは、メモ程度の文章を、自分なりに名文だと勘違いしている依頼人である。(つづく) むかし、ある知人から、ヨーガ教室を主宰している先生に会って話を聞いてほしいと頼まれた。会って、いろいろ雑談をしているうちに、ヨーガ歴何十年間かの集大成に、本を出したいとの夢があることが分かった。「今まで、どんなものを書いているんですか?」と尋ねたところ、そのヨーガの先生は膨大な資料を持ち出した。 ところがである。それは、原稿用紙に書かれたものはほとんどなく、九◯%近くがメモ程度の走り書きのものであった。それも、テーマもなしの、ただ雑然と日常の出来事を五、六行に記したもので、お世辞にも文章と言えるものではなかった。 「いくら何でも、これは無理」と思った私は、「もっとベテランの方にお願いしたほうがいいでしょう」と、丁重に断った。しかし、相手は引き下がらない。「どうしても、本を出したい。費用に糸目はつけません。すべお任せしますから、よろしくお願いいたします」とまで言う。そこまで言われたら、こちらもプロだ。「何とかしてみましょう」と、渋々ながら引き受けた。 苦労に苦労を重ね、二カ月ほどの日時をかけ、やっと出版にまでこぎつけたが、その間のストレスは、はかりしれないものがあった。 華々しい「出版記念パーティー」が開かれ、私にも招待状が届いたが、私は到底、出席する気にはなれなかった。 悲しいけれど、ゴーストライターとは、そういうものだ。
2004年09月26日
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また一人、リンクさせていただいていた方がHPから撤退しました。ほかの方はどういう基準でリンクされているのか分かりませんが、私の場合、一応、厳選に厳選を重ねて、自分が納得できる方だけをリンクさせていただいています。 とはいっても、決して難しい基準ではありません。自分にはない感性を持っている方が、第一の基準です。日常のさりげない生活を独自の感性で描写している方も素敵だと思うし、若い方々の破天荒な、私から見て、それこそ常識を超えた意見も尊重しています。でも、そんな方は独特の感性が鋭敏すぎるのか、往々にしてHPの限界を悟るようです。 わずか、半年ほどで十数人が、私のリンクから去っていったのは、どういうことなのでしょうか? ちょっと異常なことのような気がしてなりません。そうはいっても、私自身、これまで何度かHPの封鎖を考えましたし、現在も、HPの真の在り方を模索し続けていますが、今のところ、やめるつもりはありません。たとえ、アクセス数が一ケタになっても、見てくれる方がいる以上、細々にしても続けるつもりでいます。 最近、日記の記入も留守がちですが、まだまだ意欲は健在です。また、心を新たに、百日連続の日記記入をすることもあるかもしれません。たとえ、くだらない日記であっても、やはり「継続は力」です。そういう意味でも、HPを一時閉鎖している方の再開を、心待ちにしています。
2004年09月25日
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久しぶりにパソコンに向かっている感じです。アクセス数は惨澹たるものですが、全く気にしていません。実は、昨日は完全徹夜で仕事をしていました。四時間ほど寝て原稿を印刷所に渡し、その後、再び寝床へ。とはいっても、間違い電話などで、寝入りばなを起こされたりして、なかなか熟睡はできません。それでも四時間ほど、ウトウト仮睡して起き、風呂に入って疲れを取り、野菜シチューがメーンの夕食を取りました。もちろん食事の前には、晩酌をたっぷりというか、飲み過ぎというほどに嗜み、明日への活力? にしています。 HPをしばらく留守にしていて、本当にうれしかったのは一部の方々の励ましです。今、思えば、くだらないことかもしれませんが、忙しさが極限にくるとHPなんてどうでもよくなります。それだけ、毎日の生活が充実しているとの見方もできなくありませんが、決してそうは思いたくありません。忙しい中にも、ゆとりと遊び心が持てないと自己喪失の危険性もあります。私にとってHPは完全に「遊び」です。でも、その「遊び」が、明日への活力になっているのも否定はしません。そういう方向で、これからも、日記記入をできる限り続けるつもりでいます。同じような気持ちの方は、陰ながらでも結構ですから、応援してください。まだ、疲れているので変な日記になってしまいました。私の意図する気持ちを、ご判読ください。
2004年09月24日
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ちょっとだけ、仕事も一段。ストレス解消のためにと思って自分のHPをのぞいてみたが、アクセス数は、案の定、極端に少ない。当たり前だ。ここ三、四日ほど忙しくて、パソコンは、仕事のためのワード以外はほとんど使用していない。だから、日記記入もご無沙汰しているし、ましてや、ほかの方のHPをのぞくことも全くといっていいほどしていない。それでも、二十人ほどの方が、訪問してくれている。ありがたいことだ。しかし、素通りの方はどうでもいいが、私の日記をリンクしている方には、まことに申し訳ないと思っている。現在、久しぶりに、自分がリンクしている方の日記を拝見して、相変わらず元気に記入を続けている姿勢をみると、自分の心の至らなさを痛切に感ずる。でも、私には、もう少し、HPに対して、考える時間がほしい。それが解決したら、また元の自分に戻ることができるような気がする。
2004年09月20日
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今月は一日から今日18日まで、ほとんど休みなしの過酷な仕事の毎日でした。日曜日もまったくありませんでした。フリー稼業の辛さです。でも、今日から一週間ほどは予定がありません。とは言っても、これから自分の本業である食養関係の十月号の新聞づくりが待っています。これも、いつもとほとんど違って時間がありませんので、焦りの気持ちは、ありますが、徹夜してでも何とか完成する自信はあります。しかし、残念ながら、リンクしているお気に入りの日記をのぞく心の余裕がありません。まことに申し訳ありませんが、あとでまとめて拝見したいと思っています。
2004年09月18日
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旅に出ると、必ず文庫本を買う。たいてい私の好きな内田康夫のミステリーだ。今回は、仙台のへの旅。空港の本屋さんで物色し、やはり内田康夫の作品「氷雪の殺人」を購入した。私の故郷・北海道は、利尻島を舞台にしたミステリーだった。 空中で、半分以上読んでいるうちに、次のような台詞があった。名探偵・浅見光彦のHPに関する感想である。「一度、ホームページをのぞいてみたことがあるけれど、愚にもつかないことを、延々と書き込んでいるのがあった…」と。ほんの何気ないシーンの台詞ではあったが、私には、まさにぐさっと来た。「そうなんだよなあ。日記記入率70%とか、80%とか自慢しているけど、愚にもつかないことを、だらだらと書いているだけなんだよなあ」と、自分の日ごろ考えていた心の奥底をのぞかれたような指摘に、かなりのショックを覚えた。それが、単純なのかもしれないが、自分のHPを見直すきっかけになった。 ここまで記入して、突然、遠距離からの電話あり。ある仕事の相談で、長々と一時間ほど話し込み、日記記入中断。何か、話の腰を折られてようで、続ける意志を失ってしまった。ごめんなさい。中途半端だけど、これで終わります。
2004年09月16日
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仕事やプライベートな生活がが忙しくなると、自分のHPものぞかなくなるし、他人のHPをのぞいても、さらっと見るだけの、失礼極まりないおざなりなものになってしまう。アクセス数が少なくても、ほとんどというか、全く気にならなくなる。あくまでも私見だが、HPなんて、こんな程度のものなんだ…と思ってアクセス数に一喜一憂していたころの自分を振り返って、あれはどういう心境だった…のかと、反省する気持ちも起こってくる。今日、こんなこととを、こんな時間に書いても、誰も見てくれないのは分かっているけれど、そんなことは、どうでもいい気持ちだ。もし、これから先もHPを続けるなら、そろそろ自分独自の自分のためになる方向性を考えなければならない時期にきているような気がする。そうでなければ、きっぱりとHPにおさらばすることも考えなければならない。これは、忙しいためか、あるいはHPの限界を知ったせいなのかは、はっきり分からないけれど、その分析すら、どうでもいいや…という複雑な心境になっている。いろいろ考え過ぎなのかな?
2004年09月14日
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10日から12日まで松島・仙台での、中学校時代の同期会に出席して朝に名古屋へ戻り、そのまま、今度は夜の十一時まで本業の健康関連の取材と付き合い。今日13日も、午後六時ごろまで同じ仕事。もう、クタクタ。この五日間の平均睡眠時間は、五時間ぐらいか。二日ばかり、ゆっくりと休養を取ろうと思っていたけれど、急な仕事が入って、残念ながら14、15日も新聞社へ出向しなければならないことになった。切ないようなあ…。でも、ストレスはあまりないのが不思議。きっと、遊びと仕事がミックスして、適当に楽しんでいるからなんだと思う。何ごとも、あまり一生懸命にならずに、「頑張らない心」が功を奏しているのかな?
2004年09月13日
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私が、アテネ五輪で一番さわやかに感じたのは、女子800メートル自由型の柴田亜衣選手の快挙だ。「無欲」の「頑張り」が功を奏して金メダルを獲得した。「自分がびっくりしている。周りの人は、もっとびっくりしているでしょうね」と語っているように、世界では、ほとんど無名だった。それが、金メダル。きっと、何の重圧も感じず、気楽に「頑張った」ことが、この快挙につながったのだろう。 女子バレーは、一応「頑張った」が、やはり、体験と実力不足。個々の選手に「一生懸命に、頑張った」ものの、連係プレーがバラバラだった。一生懸命にやっても、周囲に目をやる余裕がないと、こういう最悪を招く…というケースだろう。 女子マラソンの野口みずき。これまでの不遇の時代に培われたハングリー精神が、不屈の「頑張り」を生み出した。あの闘志は、いわゆる、温室で育った現代っ子にはない、貴重なものだと思う。 これまで「一生懸命に、頑張る」「必死に、頑張る」ことが、あまり良くないように書いてきたが、野口みずきの場合は、これがまったく逆の結果となった。弁解になるかもしれないが、個々の人間によって「頑張る」精神も異なるのだ。「頑張る心」も、「頑張らない心」も、結局は、人それぞれの個性、生活環境によって左右されるということ。 「頑張る」は、TPOによって、ちょっと手抜きをしたり、必死になったり、それぞれの選択が必要なのかもしれない。
2004年09月09日
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先日、閉幕したアテネオリンピックは、私たちに感動とドラマを与えてくれた。日本の金メダル数は16個で、東京五輪に並び、史上最多タイとなった。 しかし、ここにも、必死に「頑張る」選手よりも、楽しく「頑張る」選手のほうが、好成績を挙げている現象があった。「アテネ五輪は、〈頑張る〉選手よりも、〈我に張る〉選手の時代だった」という人もいるのだ。 (つづく) あくまでも「我を張り」ながら、まるで対照的だったのが、金メダル確実と言われていた柔道の谷亮子と井上康生選手だった。柔ちゃんは、怪我に加え、世界の一流選手という重圧に押し潰れそうになりながらも、ただ、新婚の夫と自分のために、最後まで気力が途切れなかった。 ところが、井上選手は、日本での結団式での決意表明のころから、日ごろの平常心を失い、本番でも日本を背負っているという責任感からか、実力を発揮されずに終わってしまった。「我」を張り過ぎると、挫折する典型なのかもしれない。 また、野球と体操も明暗が分かれた。プロ野球チームは、やはり金メダル確実と言われながら、オーストラリアに、まさかの連敗。結果は、最悪の銅メダル。手抜きをせずに、「一生懸命」になり過ぎた結果だと言われている。 一方、体操チームは、前評判はそれほどでなかったものの、全員のチームワークと、「気楽に頑張った」演技が幸いして、ロス五輪以来の金メダル獲得となった。 (つづく)
2004年09月08日
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「頑張る」とは、辞書によれば、●強く自説を押し通す●我を張る…とある。もともとは「我ニ張ル」で悪い意味だったが、いつの間にか、●一生懸命に努力する…という、いい意味での解釈が一般的になったらしい。 最近、その「頑張る」が、あらたに見直され、ひそかに「頑張らない」精神なるものがはやっているという。情報によると、それは― 「頑張らないダイエット」「頑張らない介護」「頑張らない料理メニュー」「頑張らない運動法」「頑張らない勉強法」など、いろいろな分野に及び、あまり一生懸命にならずに、細く、長く継続することが、一つの精神修養ともなっている。 私も若いころは、相当に「頑張った」つもりだが、最近は、あまり「頑張らない」をモットーにしている。「必死に頑張る」は言葉の響きはいいが、見た目には、それほどカッコよくないことに気付いたからだ。どうせ、「頑張る」なら、それに「楽しく」を付け加えたいと思っている。つまり、「楽しく、頑張る」だ。 一生懸命に「頑張り」、必死に「頑張って」生きている方に失礼かもしれないが、それには、必ず限界がある。限界があれば、いつかは、挫折が訪れる。程々の「頑張り」に限界はない。絶望を感ぜずに、細く長く、継続が可能だ。 (つづく)
2004年09月07日
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手術など外科技術の向上、個々の臓器の働きの解明など、医学の進歩は、目覚ましいものがありますが、ただ一つだけ遅れているものがあります。それは、「ストレス」の問題です。心の深奥に触れるテーマだけに仮定の精神分析だけでは、ほとんど分析不可能といってもいいでしょう。 病気を招く、もっとも大きな原因は、間違った食物の摂り方にありますが、「心」がもとで起こる病気も少なくありません。これは、医学的にも立証されていて、外界の変化や精神的興奮によって生体は反応し、体内に種々の変化が表れることは分かっているのですが、その詳細なメカニズムは解明されていません。 また、「運動」と「疾病」にも、大きな関係があるとされています。運動不足が、生活習慣病や慢性病の成因に加担したり、半健康人をつくることは、疫学的にも証明されているそうです。 この三つの要素は、「食・心・動」、または「血・気・動」と言い、健康の三原則となっています。逆に言うと、病気は、「食物」と「精神」と「運動」の三要素の調和が崩れると、発生するということです。 いまでは、頭の中では、みんなが知っている「健康の三原則」ですが、それを意識して実践しているか…となると、私を含めて、はなはだ疑問です。知識だけはあっても、それを正しく実践できないとなれば、結局は、「ムダな知識」です。もう一度、自分の「食・心・動」について、検討してみたいものです。
2004年09月06日
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104、88、128、205、179、135、128、114、164、249、81、144、72、65… ここ二週間のアクセス数の集計です。最近の一日平均アクセス数は、77となっていますので、かなり多くはなっています。しかし、ほかの人のアクセス数が全く分かりませんので、この数字が多いのか、少ないのか、ほとんど判断できません。 アクセス数が多ければいいとか、少なければいけないと言うのではなく、一応の基準値が知りたくて、恥ずかしいのですが、あえて公表してみました。どなたでも結構ですから、最近一週間のアクセス数を教えていただけば、幸いです。 また、多いときは、どんな内容の日記のときが多いのか、少ない場合は…など、具体的に書いていただければ、面白いデータが見つかるかもしれません。私の場合は、まことに平凡な内容ですので、毎日のアクセス数は平均しています。200を超えたことは、これまで四、五回ほどあるでしょうか。そのときに、何を書いたのか覚えていないほどですから、殊更、面白いテーマではなかったのでしょう。 (つづく) [加筆] 私は、アクセス数に今のところ、それほどは執着は持っていません。もちろん、羨ましいという気持ちはありますが、アクセス数の多い方の合うスタイルを、そのまま真似しょうと思っても、できるものではないし、私には私なりのペースがあります。能力の限界もあります。そして、人真似はしたくないという自負も、当然あります。 私が人気のHPをのぞいて羨ましいと思うのは、そのアクセス数より、訪問者の書き込みが圧倒的に多いHPです。一つの日記に対して、10件以上の反応があるHPも少なくありません。ほとんどが肯定的な意見で、反論がまったくないのが、ちょっと引っ掛かりますが、それは、書き込む方が管理者のファンであるからでしょう。 勉強になるのは、書き込みの多いHPの管理者というのは、書き込みをした相手に対する対応が素早いということです。一つの書き込みに対して、それがどんな意見であろうとも無視せず、必ず反応します。だから、ますます書き込みは増えていきます。その真摯な姿勢は、いつも見習わなければ思っているのですが、怠惰な私には、それがなかなかできません。反省しています。
2004年09月05日
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日記記入の時間帯によって、アクセス数が激減することは分かっていたが、これほどのものとは思わなかった。ここ二、三日、仕事が忙しくて、パソコンに向かうのは、せいぜい夜の九時半過ぎだった。何とか頑張って日記を記入するが、アクセス数は程々。パソコンというものは、いわゆる深夜族のものと思っていたが、最近はそうでもないらしい。一般的に普及してきて、パソコンの「おたく族」を凌駕(りょうが)したらしい。これは、きっと喜ばしい傾向なんだと思う。ランダムで、他人のHPを訪問してしてみると、子育てママの多いことに驚く、それと、中学生、小学生のHPも激増している。 私は、暇があれば、できるだけランダムで他のHPをのぞきたいと思っているが、なかなか、その機会がない。しかし、たまに気紛れにのぞいても、主観の相違なのか、積極的にリンクしょうと思うものが、百件に一件もない。あのランダムというのは、どういう基準で選ばれているのか分からないが、ほとんど無意味。素通りは失礼だとは分かっているが、そうせざるを得ないのだ。たまに、プロフィルをのぞいてみようかな…というHPもあるが、そういった場合、ほとんど無記入。もちろん、無記入でも結構であるし、その人の自由であるが、ある程度の個性の輪郭(りんかく)と言うか姿を見せてくれなければ、書き込みをしょうと思っても、ちょっと躊躇してしまう。 もうそろそろ、九時半、この日記もムダな書き込みになるのかな? でも、いいや。 今日は、土曜日だし、読んでくれる人も、何人かはいると期待して、休むことにする。
2004年09月04日
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私は、現代栄養学を半分ほどしか信じていない。一部の学者の間では、現代栄養学の誤りは数限りなく指摘されているが、そのすべてが誤りだとは、なるべくなら信じたくない。しかし、薬をほとんど使わずに、食養だけ病気を治療するS医師によると、その誤りのうち、特に重要なのは、次の七点とのことである。私は、知識が浅いため、そのすべてを是認できないが、参考のためにご紹介しょうと思う。 ●カロリーや量を重視する ●動物性食品を過信する ●病人と健康者の理想食が異なる ●病気の種類が異なると、理想食が異なる ●発育期と成人とで異なる栄養 ●体質の差を軽視、個人差を軽視 ●生命食・玄米を軽視 先生は、現代栄養学も、現代科学や西洋医学の影響を受けているので、ほぼ、同じような誤りを抱えている…と言うのだ。そして、体質病、難病、頑病が激増している最大の元凶は、「現代栄養学」だと力説し、次のように言っている。 「カロリーや量を重視する現代栄養学を信奉する人たちは、機械的物量主義をとっており、〈数字の奴隷〉と言われても仕方ない。さしたる根拠もなしに、ドイツの学者あたりが唱え出したカロリー主義を金科玉条に信奉し、猿まねをした結果、〈成人には○○カロリー必要だ〉とか、〈タンパク質は××グラム摂取しなければならない〉とか騒いでいるのだ。それは、おかしい。人物に必要なカロリー一つ考えても、そうだろう。カロリーの一日必要量は、千差万別と思わなければならない。人それぞれの年齢、性、体格、体質、環境、労働の軽重、これまでの食習慣、現在の健康状態のいかん…などによって、違うはずだ。このように、複雑極まりない、決定困難な一日カロリー必要量を、人間の浅知恵を持って、勝手に決めてしまってよいのだろうか」 さあ、皆さんのご意見は、いかがなものだろうか。
2004年09月03日
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ワープロ、あるいはパソコン入力になって、同音異義語、異字同訓、類語などの変換ミスが目立って増えている。「この器械、あほじゃないか」と思うほどの、とんでもない変換もあるが、時には、あまりにも似た表記があって、そのまま見過ごすことも少なくない。ミスの多い変換ミスの例を挙げてみよう。 ●異常―異状―以上―移譲 ●異同―異動―移動―医道 ●科学―化学―価額 ●開放―解放―介抱―快方―会報 ●学会―学界―楽界 ●競走―競争―強壮―狂騒 ●議員―議員―偽印 ●再開―再会―最下位―際会 ●鉱業―工業―鋼業 ●興業―興行 ●公布―交付 ●四球―死球 ●十五―十号 ●引き上げ―引き揚げ ●失火―出火 ●需給―自給―持久―時給 ●議決―否決
2004年09月02日
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昨日249、今日午後9時現在30のアクセス。HPをいじらないと、こんな極端な数字になる。今日はほとんど一日、外で仕事、帰ってからは町内のボランティアめいた? 仕事の打ち合わせで、HPに向かう暇がなかった。実は、最近十日ほど、100以上200近くの数字が続いていただけに、ちょつといい気になり過ぎていたようだ。本当は、もっと低い程度のアクセス数で満足していいはず。それが、数字が上がれば上がるほど、その先を目指す。まことに嫌らしい根性というか、「楽天」の巧みな策略に乗せられているというのか、ちょっと情けない気持ち。このところ、本心を言わせてもらえば、少しだけ自分独自の世界を広げて、アクセス数が増えていると思っていただけに、この純粋の気持ちが途切れると、どうしたらいいのかと、その反動が怖いような気がする。でも、もうHPを開設して、五ヵ月有余になる。そろそろ、HPの本質を理解して、気楽に楽しみたいものだ。
2004年09月01日
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S医師は、薬をほとんど使わず、「食養指導」だけで病を治す先生として有名であった。昨年、亡くなったが、哲学を持った数少ない医学者として、自然愛好者から絶大な信頼を得ていた、 先生が、常におっしゃられていたことは「病は敵ではない、味方である」という独特の説。もちろん、それに反論する医学者も多数いたが、参考になる点も少なくない。そこで、先生の「病・性善説」をご紹介したいと思う。 「…病は、われわれの味方であって、敵ではない。病を起こさせた原因こそ憎むべきであって、病そのものを憎んではならない。お門ちがいである。滅んでしまった国家は、敵に抵抗することはないが、独立して生きている国家なら、外敵(内敵にも)に対しても、何らかの形で抵抗するにちがいない。死者は、もはや病むことがない。病は、生者の特権であった。ゆえに、病は、本来、善である。性善説を強調したい。ここのところが、現代医学(西洋医学)と、私の考えとの大きな差異である」 自然治癒力については、先生は、次のように言っている。 「…自然治癒力が増すような体質改善をしない治療や、自然治癒力の発揮を邪魔をする治療は、まやかしの治療である。有害なクスリや手術で病人ばかり攻めても、治りにくい。私の考える病気の性善説とは、実は、この点にあった。病因との戦いは、生体が生きているがゆえに起こる。生命力の証しであった。病人には、まだまだ病因に対する抵抗力が健在であることを示しており、病気は喜ばしいことである」
2004年08月31日
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体には、本来、自衛力が備わっている。少しぐらい間違った食物が体内に入っても、これを体外に排出したり、自分の体の正しい組織に同化してしまう大きな力が与えられているのだ。 もともと、病気が治るということは、本人に備わってい回復力によるもので、薬などの作用は、それを補助し、促進するものにすぎない。 これが、「自然治癒力」とか「自然良能」と呼ばれるものである。 薬だけで治らなかった症状が、食養を行うことによって、急に効果が上がったとかいう現象は、自然治癒力が回復した証明なのである。だから、この力をいつでも発揮できる態勢を保つことが健康の基本となる。 自然治癒力は、年齢とともに衰えていく。出世直後はピークにあり、再生力が旺盛だ。若ければ若いほど、十分な力が与えられている。 例えば、老人や病弱者は、カゼをひくと、しばしば熱や咳きなど激しい症状が出ないことがある。そのとき、多くは手足が冷えて、全身が抜けるようにだるくなり、急速に衰弱する。これは、自然治癒力が弱まっている証拠だ。 これに対して、若者や体力のある人がカゼをひいたときには、派手な症状が表れる。高熱、咳、痰、頭痛、首の凝り、発汗などが表れるが、治るのも早い。高熱や咳は、自然治癒力が旺盛な証拠だという。
2004年08月30日
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天地万物は、すべて相反する勢力、性質から成り立っている。つまり、「陰」と「陽」である。 人間の体質、食物の性質も同様で、陰と陽に大別され、その機能を営み、生態を保っている。ここで一番大切なのは、「バランス」ということである。 陰性の体質を持つ人が陰性の食物をとれば、ますます陰性度が強くなり、陽性の体質を持つ人が陽性の食物をとれば、その陽性度はいっそう大きくなる。 また、真冬にアイスクリームを食べたり、夏野菜であるキュウリ、トマトなどを食べるのも、陰陽の法則からいえば、正しくない。 体質、食物の陰陽を知り、実践を重ねることも、一つの食養の道といえるだろう。
2004年08月29日
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食養には、「身土不二」という根本原理がある。それは、その土地で、その季節に作られた食物を食べよ…ということである。つまり、食物は、時間と空間の秩序を乱してはいけないということだ。 ところが、最近は農薬技術の進歩という名のもとに大量の化学肥料、農薬が投下され、その上、大量の石油をを使ったビニールハウスで、冬でもキュウリやナス、果ては、メロンまで作られるようになっている。 作物は、本来、その季節、その土地とのバランスが取れてこそ、おいしいものができるはずなのである。季節を無視して、人工的に栽培された作物は、生命を養う力に欠けているのは当然である。 国には、何人といえども守らなければならない「法律」という、一つのルールがある。破れば、当然、刑罰を受ける。これと同じように、自然界にも「法則」がある。その一員である人間も、法則を無視したりすると、病院という牢獄に入れられ、病気という苦痛を与えられる。場合によっては、「死」という極刑も受ける。 では、法則無視とは? それは、大自然のバランスを乱し、食を軽んじることである。私たちが、食欲や好み、果ては、流行に任せて、食べたいものだけを食べていたのでは、健康を手に入れることはできない。「正しい心で、正しいものを食べる」…これが、自然界の基本的なルールなのである。
2004年08月28日
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健康のために…という台詞が嫌いだ。もちろん、食べ物は大事である。しかし、食べ物による「健康の維持」は究極の目的の一つではあるがが、私にとってはそれ以上に大切なのは自分の好きな酒、タバコを気兼ねなく飲めるように、体の環境を整えてやることだ。 それは、決して長寿のためではない。私の理想の死に方は、「ピンピン、コロリ」。つまり、死ぬ寸前まで健康体でいて、コロリとあの世へ逝くことだ。いくら、九十歳、百歳まで長生きをしたって、寝たきりの状態では意味がない。 しかしながら、健康情報は巷に氾濫し、その説は種々いろいろ。どれが正しく、どれが誤りであるかの判断は、学者によっても十人十色、千差万別といっていい状態だ。 玄米菜食にしても、「あれは貧しい時代の食養法で現代では通用しない」という人もいれば、「飽食の時代だからこそ、食の原点に戻るべきだ。これは、最高の食養法」と言い切る人もいる。 単一の食品にしても、時代とともに、その有効性や価値は変化している。たとえば、一時期、「バターの過剰使用はいけない。マーガリンにすべきだ」と、自然食愛好家は、マーガリン一辺倒だったが、現在ではマーガリンの有害性が喧伝され、バターが優位に立っている。代表的なのは、食物繊維だ。昔は、無用の長物である…と言われていたが、現在では、腸の掃除をするなど、その有効性が分かり、積極的に摂取しなければならない食品として、認識されている。 ほんの一例であるが、食の価値観は、化学の発達とともに変化していっている。では、私たちは、どうしたらいいのか? (つづく)
2004年08月27日
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あるとき、知人の高名なお医者さんに言われた。「あなたは、お酒とタバコは控えたほうがよい」と。 なにしろ、私はタバコは一日に五十本から六十本、酒は三百六十五日、まったく休肝日なしの生活だ。 でも、私は、これが楽しみで生きている。それをやめるぐらいなら、むしろ死んだほうがまし。「先生、あなたは知らないだろうけど、私は私なりに、あなた以上に健康のためには、結構、気を使っているんですよ」と反論したかったけれど、しょせん、建て前優先の先生には、何を言ってもムダだと思って「ああ、そうですか」と納得したふりをして、引き下がった。 私の本業というか、飯の種としているのは、食養関係の記事。「食養ジャーナリスト」を自称しているが、まだまだ未開拓の分野。でも、その分野に関する本を読んだり、古い文献をあさったりして、ある態度の勉強だけはしている。しかし、食というものは、時代とともに変化する生き物。古い学説は、それなりに納得するものはあるけれど、それが現代にも通用するかというと疑問点がないわけではない。 とくに、玄米菜食となると、素晴らしい食養法であるが、難しい問題が山積している。玄米菜食を続けている方々が、全員、長寿を保っているかとなると、私の知っている限りでは、それほどの数字ではない。 では、玄米菜食を否定するかというと、まったく逆になる。人によっては、玄米菜食は、素晴らしい効能を発揮する場合があるからだ。 私は、健康のための食養なんてことはしたくない。おいしいものを、ずっと食べ続け、飲み続けていたいから、健康に気を付ける…ということが、最高の食養法だと思っている。でも、そろそろ、若さというリミットは超したから、これからは、「頭で食べる」食養に転換しょうかとも考えている。 (続く)
2004年08月26日
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これも、新聞の一般記事に関するもので、できるだけ差別助長にならないように配慮した「言い換え」である。もちろん、普通の方の書く文章でも、気をつけるに越したことはない。 ●登校拒否児→不登校の児童・生徒 ●特殊学級→養護学級、養護・訓練学級 [注]行政用語では、特殊教育、特殊学級を使用 しているが、一般記事では、なるべく養護学級な どに言い換える ●教護院→児童自立支援施設 ●父兄会→保護者会 ●片親、欠損家庭→使用不適切。公機関では、「母 子家庭、父子家庭」を使用 ●私生子・私生児→非嫡出子 [注]歴史的な記述でも「私生児」は使わない。 「非嫡出子」もも法律上のケース以外は、「…さ んの子」などとする ●混血児・合いの子→使用を避ける。なるべく「父 が日本人で、母がドイツ人という国際児童」など と、具体的に書くよう心掛ける [注]「かぎっ子」「もらいっ子」「精薄児」な ど、「○○っ子」「○○児」は、子どもにレッテ ルを張ることになりがちなので、安易に使わない。 「チビっ子」も、なるべく使わない
2004年08月25日
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最近の若者の酒離れには、いくつかの理由があるらしい。私たちの時代には酒を飲むことが一種の娯楽? みたいなものだったし、それ以外にストレスを発散する場もなかった。また、携帯電話やパソコンなどもなかったから、自然に仲間とつるんで遊ぶことが多かったような気がする。 ところが、現代は、携帯電話やインターネット、ゲームなど、独りで楽しむ娯楽が多様化し、それらによってストレスを発散できるようになった。 また、就職せずにフリータ-になる若者が増えた結果、連帯感とか、仲間意識というものも必要なくなったし、収入も不定期だから、酒への出費は減らざるを得ない。また、ネットの仮想空間の発達で、わざわざ酒の力を借りなくとも、バカになれるようになったことも大きい理由の一つだ。 こうして考えてみると、「最近の若いやつらは、付き合いが悪い」とか、「酒を飲むことは、仲間との連帯感を深める重要なファクターだ」なんて言うのは、大人の勝手なご託なのかもしれない。でもね、バーやスナックなどで静かに酒を飲んでいる大人の姿ってものも、いいもんだよ。
2004年08月24日
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酒を飲む若者が極端に減っている。そういえば数年前までは、深夜に、街中で酔いつぶれる若者をよく見掛けけたものだったが、最近は、ほとんどいなくなった。私が週三回ほど非常勤で通っている新聞社でも、若い社員の酒離れは進んでいる。年長者が、新入社員を気遣って「どうだ、今夜一杯」と誘ったら、体よく断られたという話もよく聞く。といって、若い者同士で飲みに行くということも、めったにないらしい。 私たちの時代は、酒は仕事の延長線上にあった。会社の上司から誘われたなら、まず絶対に断れなかったし、薄給で自前で飲む金もなかったから断る理由もなかった。それ以上に、みんなで酒を飲むのが楽しかったし、そこで、人間関係などいろいろな情報を得られるので、収穫も多かった。 博報堂生活研究所の原田曜平氏によると、これら若者の酒離れは、単純な金銭問題より、彼らの行動様式と価値観の変化が大きいと言う。これまでの男のタテ社会には、酒には三つの効用があった。ところが、現代ではそれが必要としなくなったと言うのだ。 酒の三つの効用とは、(1)職場の仲間、あるいは上司との連帯感を深 められる。(2)自分を忘れてバカになれる。(3)ストレスを発散して、リフレッシュできる…。 ところが……。 (続く)
2004年08月23日
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話し言葉では、よく使うが、新聞原稿の上では避けたい隠語がある。これは、あくまでも新聞紙上のニュースなどに限られるもので、日常の会話、小説や普通の文章などでは、その範疇に入らないといっていいだろう。 ●いちゃもんをつける ●落としまえ ●ガサ入れ ●ガンをつける ●狂言強盗 ●けつをまくる ●サツ ●シマ ●しらみつぶし ●スケバン・助番 ●スッチー ●ずらかる ●賊 ●タタキ ●たれ込み ●チャリンコ ●デカ ●ぱくる ●暴力団狩り ●ホシ ●ブタ箱 ●ムショ ●ヤク ●やばい
2004年08月22日
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これはあくまでも新聞社側の自主規制。「読者に不快感を与える言葉、品位の落ちる言葉や隠語は、その記事で特に必要とする以外は使わない」というもの。異論はあるだろうが、それぞれの報道機関が見えないところで、いかに人権に気遣っているかを、垣間、見ることができる。 ●淫売(淫売)、娼婦(しょうふ)→使用不適切 ●鬼のような夫婦→使用不適切 ●強姦(ごうかん)→女性暴行、性的暴行、乱暴 [注]被害者が特定される恐れがない限り、罪 名・容疑名は「強姦」を使ってもよい ●ドヤ(街)→簡易宿泊所(の集まっている所) ●飯場→(建設)作業員宿舎 ●タコ部屋→劣悪な作業員宿舎 [注]比喩的に使用しない。北海道開拓時代な どの歴史的記述では使用してよい。 ●どさ回り→地方巡業 ●足切り→二段階選抜、門前払い ●養老院→老人ホーム、老人養護施設、老人介護 施設 ●バカチョンカメラ→簡易カメラ、軽量カメラ
2004年08月21日
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その1は、まだ納得できるが、これから記す「差別用語」と称されるものは、男性として、???と思うものも少なくない。男性側としては、褒め言葉と思う言葉もあるからだ。でも、これは、あくまでも、男性側の意見。女性は、どう考えるのであろうか。 ●「女傑、女丈夫、男勝り、女だてらに、女の戦い、職場の花」「処女航海、処女作品、処女小説、処女峰」「才媛(さいえん)、才女、才色兼備」など、女性を殊更に強調したり、特別扱いをする表現は使わない。 ●男性優位社会の「夫唱婦随」「女は愛嬌、男は度胸」「いかず後家、売れ残り。男いらず、オールドミス、出戻り」「女の浅知恵、女のくせに」や、男性に対する「腐ったような、男のくせに」など、差別・偏見を生む表現は使わない。 また、「美人選手」「美人アナ」など、興味本位の表現や「デブ」「ブス」など、容姿に言及する表現も避ける。
2004年08月20日
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これが一番厳しい。「男女同権」と言ったら、戦後すぐからの合言葉みたいなものだったが、なかなか言葉通りにはいかなかった。最近になって、ようやく名実ともに定着した感じだ。 新聞用語では、試行錯誤を重ねながら、一定の線引きを決めている。原則は、「女性を特別視する表現や男性側に対語のない女性表現は使わない」というものだ。ただし、これは、共同通信社の「記者ハンドブック・新聞用字・用語集」よりの抜粋で、すべてが、この表現をとっているとは限らない。 ●女流→「女流名人」などの固有名詞以外は使わな い ●女史→○○○○さん ●婦警・婦人警官→女性警官 ●未亡人・後家→故○○氏(さん)の妻。「○○夫 人」「○○さん」と具体的に書くよう心掛ける ●婦女子→女性と子供・子ども ●めかけ、二号、情婦→愛人 ●入籍→男女とも初婚の場合は、新しい戸籍を作る ので「入籍」とはしない。養子縁組などは別 ●内縁の妻・内妻→使用を避ける。「同居の○○○ さん」などに ●連れ子→使用を避ける。「○○○さんの長男」な どに
2004年08月19日
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この言い換えには、それほどまでにしなくても…というものが少なくない。しかし、この差別語、不快用語の言い換えは、あくまでも「使われた側に立場になって考える」のが原則。あらゆる差別をなくすためには、昔は、何気なく使っていた言葉でも、排除しなければならない。 ●文盲→読み書きのできない人、非識字者 ●文盲率→非識字率 ●色盲・色覚異常→色覚障害 ●やぶにらみ→斜視 ●ヨイヨイ→半身不髄、中風 ●知恵遅れ・低能→知的障害、知的発達の遅れた 子(人) ●精神薄弱・精薄→知的障害、精神遅滞 ●白痴→知的障害 ●植物人間→植物状態(の患者) ※「植物人間」は人間の尊厳を欠く表現なので 使いません。 ●白ろう病→振動病 ●ライ病→ハンセン病 ●アル中→アルコール依存症 なお、ほかに心身障害に対する不適切な表現として、 ○あきめくら、○つんぼ桟敷、○めくら蛇におじず、 ○めくら判、○片目が開いた、○片ちんば、○片肺 飛行、○気狂いに刃物、○気違いざた、○カーキチ、 ○自閉症的、○自閉症ぎみ… などがある。
2004年08月18日
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