物の価格は、
理論的には需要と供給の均衡点になる。
57の時に輸入業を始めてしばらくして、
イギリスの商品は高くて、
イタリアの商品はそんなに高くはないという印象を持った。
しかも、
イギリスの企業はイタリアの企業ほどは日本営業ににやってこない気がした。
たまたま縁のできたイギリス商品の場合は、
最初はメーカーのマーケティング担当役員が来たが、
日本で見本市に出たが名刺ばかりいっぱい集まって、
すこしも進まなかったと言って、
対日ビジネスのエージェントに委ねてしまった。
僕の場合はそのエージェントは日本語もできるしとても助かった。
一方、イタリアの商品は、
これはずっと妻に任せたのだけど、
毎年組織的に日本にやってきて、ホテルの部屋をいっぱい借りて展示会をした。
妻がイタリアに行ったのはたった一度きりで、
それも招待で、
しかも、
9.11直後の旅客機がら空きの時になってしまった。
他企業が中止するなかで、
妻ともう1社だけが参加したのだった。
それはともかく、
イタリアのものは多くの日本人は好きだから、
そしてその前になんといってもイタリア人は才覚に富んでいるから、
ビジネスも活発に行くということはある。
というわけで、
価格というものは相対的なものだから、
安いも高いもないのだけど、
今の自分のような、
別に仕事でやってるわけじゃないけど価格というものを
決めないといけないときは、
実にいいかげんなことになる。
手づくり活動は、
カッコよくいえば「ひとりメーカー」だ。
販売価格まで自分で決めないと完結しない。
普通は、
原価がいくらかかったから、
それ以上にして、
買ってもらえそうな価格に決めることとなる。
これならビジネスと似ている。
今の僕の場合は、
原価は忘れることにしている。
原価は、
今の生活状態の中で吸収できる範囲しかかけていないからだ。
かけられる原価しかかけないからだ。
作ったものが、
あるいは
頼まれたものが、
いくらくらいならいいと思ってもらえるか、という
それしかない。
それしかないから、
たしかに安くなる。
売る体験をしていながら、
買う体験を共有しているのだ。
その共有が楽しいと言える。
その共有が嬉しいと言える。
でも、
そういうふうにしていると、
いずれ原価そのものがかけられなくなるだろう。
でもさいわい、
そんなにひんぱんには頼まれない。
そんなに頻繁には販売機会は作らない。
まあ、
「繁盛しないひとりメーカー」のちょっとした負け惜しみだけど、
このほうが
たまに生じるご縁をゆっくりていねいに進められる。
いい出会いも得られる。
いいかげんなようでいて、
良い加減なのだ。