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「放蕩息子の兄」
ルカの福音書、15章25~32節
「放蕩息子」のたとえは、弟息子の話だけで終わらず、兄息子の
話が続いています。
それは、弟息子は「取税人や罪人たち」という「堕落した罪人」
を、兄息子は「パリサイ人や律法学者たち」という「自称義人の罪
人」を表し、どちらも救われなければならないことを教えているか
らです。
それで第二回目は、放蕩息子の兄に焦点を合わせてみましょう。
一、父の心を知ろうともしなかった兄息子
兄息子は、弟が帰って来た時、父が喜んで迎えたことをしもべか
ら聞きました。「すると、兄はおこって、家にはいろうともし」ま
せんでした(28節)。このような態度の中に、父の心を知ろうとも
しなかった兄息子の姿を見るのです。
兄息子は、父が弟息子を迎え入れたことをしもべから聞いた時、
怒る前に、父に直接話をして、その理由を聞く必要がありました。
しかし、腹が立つだけで、父に聞く余裕などなかったのでしょう。
また兄息子は、父があの弟息子を迎え入れるからには、正当な理
由があるにちがいないと考えてもよかったのです。しかし、そんな
ことは考えもしませんでした。
そして兄息子は、父があの弟息子を迎え入れるからには、たとえ
自分には理解できなくても、深い理由があるかもしれないと思って
もよかったのではないでしょうか。しかし、そんなことは夢にも思
いませんでした。
二、父の心と一致していなかった兄息子
兄息子は、父に「仕え、戒めを破ったことは一度もありません」
と言いました(29節)。聖書は、律法学者やパリサイ人の姿は、
「外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです」
と教えています(マタイ23章28節)。彼は、外側の正しさだけで、
内側の正しさがありませんでした。
また兄息子は、戒めを破ったことがないのに、子山羊一匹ももら
えなかったので、父に文句を言いました(29節)。聖書は、イスラ
エル人は「自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかった」
と教えています(ローマ10章3節)。彼は、自分の正しさを主張
して、神の正しさに従いませんでした。
そして兄息子は、遊女におぼれて、身代を食いつぶして帰って来
た弟息子のために、肥えた子牛をほふった父親を非難しました(30
節)。パリサイ人のように、「自分を義人だと自任し、他の人々を
見下してい」たのです(18章9節)。
このように兄息子が、父の心を知ろうともしなかったのは、彼の
心が父(神)の心と一致していなかったからです。
三、父から心が離れてしまっていた兄息子
父は彼に、「おまえは、いつも私といっしょにいる」と言いまし
た(31節)。これは、父が深い愛をもって兄息子を厳しく叱責した
言葉です。それは、「私は、おまえにとってだれよりも勝る者では
ないか」ということを意味しています(R・C・トレンチ)。
また父は「私のものは、全部おまえのものだ」と言いました(31
節)。これは、父が熱心に兄息子に与えた警告の言葉です。それは、
「おまえが、このことを認めるなら、私のものは全部おまえのもの
ではないか」ということを意味しています(R・C・トレンチ)。
兄息子は、父をだれよりも勝る者と思わず、からだは父といっし
ょでも、心はそうではなく、父の心(喜び)を自分の心(喜び)と
することができませんでした。
このように兄息子の心が、父の心と一致していなかったのは、彼
の心が父(神)から離れてしまっていたからです。
拙著「キリストの生涯の学び」129「放蕩息子の兄」より転載
