東京フリー・メソジスト教団付協力牧師 甲斐慎一郎 説教要約

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2010.01.28
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カテゴリ: カテゴリ未分類

「放蕩息子の父」

                     ルカの福音書、15章11~32節

 この「放蕩息子」のたとえ話は、弟息子や兄息子に焦点を合わせ
ると、失われた人が、信仰によって神に立ち返るという人間の側か
ら見た救いを教えています。しかし、二人の息子の父に焦点を合わ
せると、神が、失われた人を捜し求めておられるという神の側から
見た救いを教えています。

 それで第三回目は、放蕩息子、いや二人の息子の父に焦点を合わ
せてみましょう。

一、なぜ父は、弟息子の求めるままに身代を分けてやったの
でしょうか

 弟息子が父に財産の分け前を求めた時、父は、「悪銭身に付かず」
という諺のように、彼が放蕩して財産を使ってしまうことなど全く
考えなかったのでしょうか。決してそうではありません。父には、
そのようになることは、初めからわかっていました。

 しかし父は、すでに心が離れてしまっている弟息子を無理に引き
止めて、強制的に服従させてもむだであることをよく知っていまし
た。それよりも彼が父を離れて放蕩し、様々な苦しみをなめること
によって、自分の愚かさと罪深さをいやというほど知るようにさせ
たのです。これこそ、神が私たち人間をお取扱いになる方法です。

 「神は、弟息子に罪を憎ませるため、彼に罪の苦さを味わわせた
だけでなく、彼を罪から救うために、彼を罪の悲哀の中から招かれ
ました。弟息子は、このような懲らしめを受けなければ、おそらく
神の招きの声を聞いても、それに聞き従わなかったでしょう。弟息
子の上にふりかかった禍は、彼の罪に対する神の怒りの現れである
ことは言うまでもありませんが、見方を変えれば、彼に対する神の
愛の現れなのです」(R・C・トレンチ)。

二、なぜ父は、少しも叱責しないで弟息子を子として迎えた
のでしょうか

 父は、弟息子を少しも叱責しないで、子として迎えました。それ
は、彼が父の家を出て行った時の姿や、遠い国へ行って放蕩してい
た時の姿とは、全く違った別人として帰って来たからです(R・C
・トレンチ)。これが、弟息子の側の理由です。

 父は、弟息子を少しも叱責しないで、子として迎えました。それ
は、父が弟息子の罪による苦しみや悩みを全部自分が負って、彼の
罪をすべて赦したからです。これが、父の側の理由です。

 この両者があったからこそ、父は弟息子を子として迎えたのです。
もし弟息子が、家を出て行った時の姿や、遠い国で放蕩していた時
の姿のままで帰って来たならば、また父が弟息子の罪による苦しみ
や悩みを全部彼に返していたならば、父は、弟息子を子として迎え
ることはできなかったでしょう。

三、なぜ父は、兄息子が知ったならば怒るような祝宴を催し
たのでしょうか

 近所の人たちは、弟息子の方は親不孝で、とても悪い子だが、兄
息子の方は親孝行で、りっぱな子だとうわさをしていたにちがいあ
りません。弟息子のほうのうわさは当たっていました。しかし父は、
兄息子のほうに関しては、近所の人たちがうわさをしているように
は、決して思っていませんでした。

 父は、弟息子を子として迎え入れ、祝宴を催すことによって、兄
息子の心の中に隠れていた罪を自覚させ、悔い改めの必要を気づか
せたのです。兄息子は、弟息子を迎え入れた父を責めることによっ
て、自分の心の中に隠れていた罪が現れるとは、夢にも思っていな
かったことでしょう。それは放蕩した弟息子にとっても同じでした。
しかし父は、すべてを見通して、二人の息子を神に立ち返らせるた
めに、このようにしたのです。

拙著「キリストの生涯の学び」130「放蕩息子の父」より転載






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Last updated  2010.01.29 00:40:09
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