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「悲しみの人」
イザヤ書、53章1~12節
預言者イザヤは、キリストが降誕される七百年も前に私たちの罪
のために打たれ、苦しめられたメシヤについて預言しています。
一、私たちを愛するあまり悲しみの人、痛みを知る人となら
れたメシヤ(1~3節)
まずイザヤは、メシヤについて「彼はさげすまれ、人々からのけ
者にされ、悲しみの人で病を知っていた」と預言しています(3節)。
この「悲しみの人」ということばは、「痛みを知る人」(欄外注)
とも訳すことができます。パウロは、「私の同胞、肉による同国人
のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者とな
ることさえ願いたいのです」と述べ、「私には大きな悲しみがあり、
私の心には絶えず痛みがあります」と告白しています(ローマ9章
3、2節)。
使徒パウロの心には、同胞を愛するあまり、大きな悲しみと絶え
ざる痛みがありました。預言者のイザヤは、私たちを愛するあまり、
「悲しみの人」また「痛みを知る人」となられたメシヤについて預
言しています(3節)。
「本当に愛するということは、悲しみを喜んで抱くことです。心
をつくし、思いをつくし、力をつくして神を愛することは、人間の
知りうるもっとも大きな悲しみに、あなたの心をさらけだすことで
す。......悲しみを避けようとするときには、愛することができなく
なります。愛することを選ぶときには、いつでも多くの涙が流され
ることでしょう」(ヘンリー・ナーウェン『イエスとともに歩む』
102頁)。私たちは、真の愛がこのようなものであることを知って
いるでしょうか。
二、私たちを愛するあまり私たちの病と痛みと罪を負ってく
ださったメシヤ(4~10節)
次にイザヤは、メシヤについて「彼は私たちの病を負い、私たち
の痛みをになった。......私たちのそむきの罪のために刺し通され...
...た」と預言しています(4~6節)。
メシヤは「悲しみの人」また「痛みを知る人」となられましたが、
ただ心で悲しみ、痛みを知っているだけでなく、「私たちの病を
負い、私たちの痛みをにな」い、「私たちのそむきの罪のために刺
し通され、私たちの咎のために砕かれ」て(4、5節)、「私たち
に対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5章8節)。
「十字架上ですべての人々を彼のもとへと引き寄せられたイエス
は、何百万の人々の死を背負われました。......悲しみを伴わない愛
は決してありません。痛みを伴わない責任はなく、失う経験のない
関わり、多くの死を伴わずに、いのちに『はい』と答えることはで
きません」(ヘンリー・ナーウェン『イエスとともに歩む』85、102
頁)。私たちは、このような神の愛を知り、心から信じて、永遠の
いのちを持つ経験をしたでしょうか。
三、私たちを愛するあまり激しい苦しみのあとを見て、満足
されたメシヤ(10~12節)
最後にイザヤはメシヤについて「彼は、自分のいのちの激しい苦
しみのあとを見て、満足する」と預言しています(11節)。それは、
「彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら」、「多
くの人を義と」するだけでなく、「彼は末長く、子孫を見ることが
でき、主のみこころは彼によって成し遂げられる」からであると教
えています(10、11節)。
聖書は、キリストは「自分から十字架の上で、私たちの罪をその
身に負われました。それは私たちが罪を離れ、義のために生きるた
めです」と記しています(第一ペテロ2章24節)。
ヨハネは、カヤパがイエスを殺すための計画を立てた時、その年
の大祭司であったので、聖霊に動かされて、「イエスが国民のため
に死のうとしておられること、また......散らされている神の子たち
を一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言した」
ことを述べています(ヨハネ11章51、52節)。
キリストは、私たちを愛するあまり激しい苦しみを受けられまし
たが、それによって多くの人が罪を離れ、義のために生きるように
なるだけでなく、神の子たちが一つに集められ、主のみこころが成
し遂げられるのです。