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「神のいつくしみときびしさ」
甲斐慎一郎
ローマ人への手紙、11章22節
「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを」(22節)。
ここでいう「いつくしみ」と「きびしさ」は、第一義的には「信
仰に立つ異邦人に対する神のいつくしみ」と「不信仰なユダヤ人に
対する神のきびしさ」を意味しています。
しかしここでは神の「いつくしみ」と「きびしさ」という観点か
ら、聖書全体が教えている健全な信仰について学んでみましょう。
一、神との関係における健全な信仰
神のいつくしみは、「神の愛とあわれみ」の表れであり、神のき
びしさは、「神の義と聖」の表れです。この二つの性質は別のもの
ですが、決して矛盾するものではありません。すなわち神は、いつ
くしみのゆえに、きびしさを差し控えたり、反対にきびしさのゆえ
に、いつくしみを止めたりされるようなことはないということです。
このことを罪に対して述べるなら、次のようになります。神は、
どのような小さな罪でも決して許される(許可される)方ではあり
ません。これは神のきびしさです。しかし神は、どのような大きな
罪でも悔い改めてキリストの贖いを信じるなら、赦される(赦免さ
れる)方です。これは神のいつくしみです。
そしてこの罪を許可されない神のきびしさと罪を赦免される神の
いつくしみが一つに溶け合ったものこそ「キリストの十字架」にほ
かなりません。聖書には、「恵みとまこととは、互いに出会い、義
と平和とは、互いに口づけしています」と記されています(詩篇8
5篇10節)。また賛美歌の262番1節は、「十字架のもとぞいと
やすけき、神の義と愛のあえるところ」と歌っています。
私たちは神のいつくしみと神のきびしさが一つに溶け合ったキリ
ストの十字架のゆえに、罪を赦されて救われることができるのです。
二、自分との関係における健全な信仰
私たちは、聖書を読んだり、説教を聞いたりした時、どのような
ことに恵まれたり、慰められたりするでしょうか。聖書の教えは、
決して罪を許可しないきびしいものです。
しかし私たちは、神に罪を許可してくれるように求めないまでも、
罪に対するきびしさを少しでも和らげるようなことに喜びと慰めを
見いだすなら、私たちは根本的に大きな間違いを犯していることに
なります。
神からの真の祝福と慰めは、人間の側から見れば、罪の悔い改め
と神への信仰と服従と献身によって与えられるものです。ですから
罪を軽く取り扱い、「平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っ
ている」(エレミヤ6章14節)のは偽りの祝福であり慰めです。
罪を許可されない「神のきびしさ」を受け入れない人は、罪を赦
免される「神のいつくしみ」を受けることはできません。またこの
ような人は「悔い改めにふさわしい実を結」ぶ(マタイ3章8節)
ことができず、何回でも同じ罪を繰り返して行うのです。
三、他の人との関係における健全な信仰
「親しき中にも礼儀あり」という諺がありますが、対人関係にお
いて大切なことは、やさしさときびしさを兼ね備えていることです。
もし私たちが「きびしさ」だけで「やさしさ」がなかったなら、
初めは罪を責め合ってぎすぎすし、ついにはとげとげしくなるでし
ょう。反対に「やさしさ」だけで「きびしさ」がなかったなら、初
めは罪を許可し合う馴れ合いになり、ついには互いに侮るようにな
るでしょう。どちらにしても対人関係を損なってしまうことになる
のです。
しかし私たちが罪を許可されない神のきびしさと罪を赦免される
神のいつくしみを心から信じて受け入れるなら、人の罪を許可しな
いきびしさと、人の罪を赦免するやさしさを兼ね備えた人になるこ
とができます。
しかしこれは、「飴と鞭」、言い換えれば、「やさしさときびし
さ」をたくみに使い分けるという処世にたけることではありません。
やさしさの中にきびしさがあり、きびしさの中にやさしさがあると
いうように、二つのものが混然と一体となっていることなのです。
甲斐慎一郎の著書 → 説教集