東京フリー・メソジスト教団付協力牧師 甲斐慎一郎 説教要約

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2016.12.25
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「過去を変えてこそ将来がある」       2017年12月26日

インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network 
Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しま
した。2016年5月10日放映「 神への信仰と知識
説教要約 905 古代ヘブル語の時制概念

説教要約 94 覚えることと忘れること

「過去を変えてこそ将来がある」
                                甲斐慎一郎
                 イザヤ書、44章22節

  ほとんどの人たちは「過去は変えられないが、未来は変えられる」
と考えています。世の多くの人たちがこのように思うのは当然のこ
とです。しかし聖書は「過去を変えてこそ、将来があり、過去を変
えられなければ、将来はない」と教えています。なぜでしょうか。

一、二種類のこれからの時(未来と将来)
  宗教哲学者の波多野精一氏は、二種類のこれからの時をそれぞれ
「未来」および「将来」と呼び、実存哲学者ハイデガーは、「未来」
および「到来」と呼んで区別しました。
◆未来――いまだ来たらずという意味で、見通しがきかない絶望
と不安の時です。
  ◆将来――まさに来たらんとするという意味で、見通しがきく希
望と平安の時です。
  未来は現在から離れて人の手が届かない時であるのに対して、将
来は今につながる人の手が届く時であり、大きな違いがあります。

二、二種類のいままでの時(過去と由来)
  前述した実存哲学者のハイデガーは、二種類のいままでの時をそ
れぞれ「過去」および「由来」と呼んで区別しました。
◆過去――過ぎ去ったという意味で、今さらどうすることもでき
ない時です。
  ◆由来――由って来たるという意味で、今にまで伝えられて来た
時です。
  過去は現在から離れて人の手が届かない時であるのに対して、由
来は今につながる人の手が届く時であり、大きな違いがあります。

三、過去―現在―未来という生き方
  もし私たちが、いままでの時を過去としてしかとらえることがで
きなければ、悪かった過去も良かった過去も、すでに過ぎ去って人
の手が届かない、今さらどうすることもできないものとなるので、
それを改めて現在という時に生かすことができません。その結果、
これからの時を未来としてしかとらえることができず、絶望と不安
に陥るのです。

神は時空を超越された方ですから、「神にとっては過去や未来と
いうものはなく、すべての事柄は等しく現在です」(ジョン・ウェ
スレー)。人間も過去のことは、今さらどうすることもできず、未
来のことは、来ないかもしれない不確かですから、神の前において
は、過去や未来というものはなく、すべての事柄は等しく現在です。
もし私たちが現在、神を信ぜず、今まで犯してきた罪を悔い改め
ず、キリストの十字架による贖いを信じないで罪を赦されず、聖霊
によって罪をきよめられなければ、罪深い過去の姿は、そのまま現
在の姿であり、それはまた未来の姿でもあり、罪深い姿は永遠に続
きます。これが永遠の滅びであり、地獄です(ヨハネ3章36節、黙
示録20章15節)。

 人は、罪深い過去を、罪がなかったかのようにぬぐい去ることは
絶対にできません。ですから聖書は、「過去を変えられなければ、
将来はない」と教えているのです。 

四、由来―今―将来という生き方
  もし私たちが神を心から信じて、いままで犯してきた罪を心から
悔い改め、キリストの十字架による贖いを信じて罪を赦され、聖霊
によって罪をきよめられるなら、その罪をきよめられたいままでの
姿は、今の姿でもあり、それはまた将来の姿でもあり、罪をきよめ
られた姿は永遠に続きます。これが永遠のいのちであり、天の御国
です(ヨハネ3章16節、黙示録21章3、4節)。

  人は、罪深い過去を、罪がなかったかのようにぬぐい去ることは
絶対にできません。しかし神には、それができるのです。

「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたのそむき
の罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」(イザヤ43
章25節)。「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなた
の罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あ
なたを贖ったからだ」(同44章22節)。

 神は、キリストの十字架による贖いによって、私たちの罪をぬぐ
い去ることができるので、私たちは、「栄光から栄光へと、主と同
じかたちに姿を変えられて行」くという将来があるのです(第二コ
リント3章18節)。
甲斐慎一郎の著書 説教集







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Last updated  2016.12.26 16:30:20
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