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京都宝塚劇場、京極東宝という、昔からある映画館が1/29日に閉館されました。京都の方は、ご存じでしょうが、昔からある映画館がまた姿を消すことに、寂しさを感じるのはボクだけじゃないでしょう。「京都宝塚会館」が1935年10月から、「京極東宝」が1954年12月から、長い間、みんなに親しまれてきた映画館です。シネマコンプレックスが台頭して久しいですが、これも時代の流れですかね。15年程前にLAで初めてシネコンを見たとき、日本もこんな感じになるんだろうなって思ってから、それ程時間が経ってないんだよね。巨大ショッピングセンターにシネコンが出来だしたのは。バイトしていた映画館が閉館するのは、やはりどこか寂しい。ビデオレンタルもなかった時代、ドラエモンに行列が出来た時代、学校から映画鑑賞でみんなで映画館へ行った時代、そんな時代はとっくに終わっているのだけれど、その時の流れも見てきたけれど、やはり残っていて欲しいものはあるんだよね。ボクにとってのそれは、学校や家ではなくて、映画館や劇場やコンサートホールや美術館や田舎の風景だったるすんだ。今回この映画館が閉館になって、改めてそんな風に思った。閉館イベントで上映したタイトルを列挙してみます。全部何回も見ている映画ばかりで、なおさら郷愁をそそられました。「太陽がいっぱい」(1960年 出演:アラン・ドロン)「十戒」(1956年 出演:チャールトン・ヘストン)「ローマの休日」(1953年 出演:オードリー・ヘプバーン)「日本のいちばん長い日」(1967年 出演:三船敏郎、山村聰)「用心棒」(1961年 監督:黒澤明 出演:三船敏郎、仲代達矢)「また逢う日まで」(1950年 出演:岡田英次、久我美子)「戦場にかける橋」(1957年 出演:アレック・ギネス、早川雪洲)「ジョニーは戦場へ行った」(1971年 出演:ティモシー・ボトムズ)「海底軍艦」(1963年 出演:高島忠夫、藤山陽子)「日本沈没」(1973年 出演:藤岡弘、いしだあゆみ)「七人の侍」(1954年 監督:黒澤明 出演:三船敏郎、志村喬)「ベン・ハー」(1959年 出演:チャールトン・ヘストン)「街の灯」(1931年 出演:チャールズ・チャップリン)「荒野の七人」(1960年 出演:ユル・ブリンナー、スティーブ・マックィーン)「慕情」(1955年 出演:ジェニファー・ジョーンズ)「帰らざる河」(1954年 出演:ロバート・ミッチャム、マリリン・モンロー)面白い時代をありがとう!
January 30, 2006
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昨日、1月 26日 (木)、地鎮祭が行われた。やっとココまで、こぎ着けたと言うのが、正直な感想です。夏から設計をあれこれ手直しし、結局当初の計画とはまるきり違う家になったものだから、未だに外構工事の事で、あれこれ思案している段階なのです。この地鎮祭はひとつの区切りになんだなーと、胸をなで下ろしています。前日の晩に、奥さんから、「ちゃんと、予習しとかなあかんよ~」と言われながらも、子どもと一緒に、早々と眠ってしまったのでした。「やっと、地鎮祭か~」と、感慨にふけりながら、儀式を行ったせいか、榊をもって、自分が回った人が居ると聞いて、一緒に大笑いした事を思いだしてか、いざ自分がする時が来たら、やってしまった。 何を?もちろん、トンチンカンな事をしてしまったのですよ。(^^ゞ(笑)奥さんが、さんざん言いふらしているので、その件、ココではノーコメントにします(>_
January 27, 2006
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おじさんの家は、幸いにも殆ど壊れていなかった。サイドボードに並んでいた一番高価なブランデーが割れたと笑っていた。みんなの元気な顔が何だか嬉しかった。豪華な客間に入ると、何故か父がいた。見舞金を持って来たと言う。こんな時はお金より気持ちなんじゃないのかと思ったが、口には出さなかった。そういう人だから仕方がない。おまけに何だかおじさんと言い争いを始める始末。大人げない性格もココまで来るとやっかい極まりない。「何故安否を知らせなかったのか」ーそれどころじゃなかったって、おじさんはさっき言ってたじゃないか!父はその事ばかり、うだうだと繰り返すのだ。酒を飲むといつものことなのだが、こんな時に醜態さらしてしつこく絡むこともないだろうに。毎度のこととはいえ、ボクはあきれ果てた。ーココまでくるのに、壊れた家を何軒みた? 焼けた家を何軒見た?数えられないくらいの不幸を通り過ぎてきたんじゃないのか?元気で居てくれただけで、イイじゃないか!ーその上ココは、寺なんやで!何でそんなことで言い争いになるんや!ボクは、拳を握りしめたまま、ソファーに深く座った。カラダは小刻みに震えていた。地震が起こったことは、どうしようもないことなんだ。人はそれを乗り越えて行く事で、明日を迎える力を持とうとしている。そんな事をぼんやりと思った。そんな父に呆れ、ボクたちは、おじさんに挨拶をし、家を後にした。大きくヒビが入ったプラットホームの、傾いたベンチに座り、燃えてしまった長田の街をぼんやりと見つめていた。電車は元町まで走ってはいたが、本数は少なかった。ダイヤも時刻通りにはほど遠い間隔でしか運行されてはいなかった。30分以上、凍てついて傾いたホームに居ると、自分のカラダまで傾いてしまいそうになった。何が傾いていて、どれがまっすぐ立っているのか、残った建物や電柱を見ても分からなくなってくるのだ。何かが狂ってしまうと、基準が何なのか、判断できなくなってしまう。普通の事が異常な世界では、普通と言い切れないのだ。いったい何が出来るんだろう。電車がやって来るまで、頭の中が揺れていた。寝ずに動き回って神経だけがたかぶっていたのだ。目をつぶると、子どもの頃見た景色が見えた。そして目を開けると、そこに広がる景色は、記憶の中のそれと、何一つ重なるものがない。そこにあるのは、時の流れではなく、ひび割れた、恐ろしい力の爪痕なのだ。その力は、人を幸せにする事も出来るし、簡単にひねりつぶす事もできる。その力がなければ人は存在できないし、その力で人は存在出来なくもなる。「いらんとこに連れて行って、ごめん、不愉快な思いさせたな」電車に乗る寸前に、ボクは一緒に帰るバイト君にそういった。「大丈夫ですよ、気にしないでください」「ありがとう」っと言った言葉は、電車の音でかき消されるようにフェードアウトした。あれから、11年が過ぎた。一見何事もなかったかのように、見える神戸の街も淡路島も、深いところに癒えない傷がある。それは未だにうずいているように思えるのだ。阪神・淡路大震災(1)へ戻る
January 17, 2006
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再び神戸へと向かう。バイトの男の子と2人、僕たちは先行部隊だ。商品の整理をして、2tトラックに積みやすくするのが仕事だ。神戸の街に、何台もトラックを乗り入れるのは無理があったからだ。焼けこげた匂いが染みついた長田の街を抜け、ボクたちは、殆ど言葉を交わさず板宿まで歩いた。現場に着いた。店の経営者は約束の時間を過ぎても現れなかった。しばらく店の外で待つことにした。街は相変わらずホコリっぽく、息苦しい何かが漂っていた。経営者がパジェロで到着し、説明を受け、段取りを決めた。経営者の自宅に回避させてある商品を店に運び、店で作業をする事になった。膨大な量の商品の箱と中身を照合して、パッケージに入れ、箱詰めしていくのだ。気が遠くなるような作業を始めた。次の日の朝までにある程度作業して、トラックが来たら積み込みを任せて、僕たちは先に帰るという段取りだった。何日も暖房を入れていない店内は、冷え切っていた。壊れかけた建物なので、割れた窓が板を張って対処してあっても、隙間風が入ってくるのだ。殆ど外にいるのと変わらない。夜中まで作業をして、少し仮眠を取ることにしたが、そんな寒さでは眠ることもできない。しかたなく、暖かい飲み物でも買ってこようと外へ出た。初めての土地で、その上ココは被災地だ。自販機を探すのにも苦労した。大体自販機が動いているかも不安だった。道は、崩れた建物で封鎖されている所が多く、壊れた家を越えて行かなければならない場所もあった。崩れないか気にしながら崩れた家を越えた。そこはみんなが通ったせいで道のようなっていた。しばらく歩き回ってやっと見つけた。殆ど売り切れになっていたが、缶コーヒーが少しだけ残っていた。おそらく停電中は停止していた自動販売機が、停電が復旧した為、販売可能になった所だったんだと思う。温かい缶コーヒーがこれほどありがたいと思ったことはなかった。ところが、いざ帰ろうとすると、帰る道が分からなくなった。壊れた家を何軒か越えたり、角を何度もまがったりしたためだ。記憶をたどりながら、ランドマーク代わりの傾いた電柱をさがして歩き回った。やっとの思いで店に戻ることができた。2人で、暖かい缶コーヒーを両手で持って飲んだ。少し冷めていたけれど、それでも冷え切った身体にはありがたかった。動いていないと、寒くて仕方なかった。壊れた街がその寒さをよりひどく感じさせていた。寒さを防ぐため必死に動いたおかげで、作業自体ははかどった。寒さのおかげで眠気もなく、黙々と働いた。いや、違った。何だか寂しくなって、2人で歌を歌ったんだった。しゃがんでする仕事が長く続き、カラダが冷えて腰が固まってきたので、2人で外に出て少し歩いた。以前来たときは、街灯も点いていなかったので、街が不気味だった。数はまだまだ少なかったけれど、街に街灯がともっている事の大事さを改めて感じながら歩いた。電気はほぼ一週間で復旧していた。電気復旧の事は後に仕事で携わって知ったことだが、その時は、そんな大変な事だと感じていたワケでもなく、ただただ電気のありがたさを痛感していた。夜明けと同時ぐらいに、第2部隊がトラックと車でで到着した。みんなで積み込み用のダンボール箱をおろし、仕分けした商品の積み込みの段取りを説明し、朝食を取ることにした。駅の方に歩いていくと、喫茶店と言うよりは、元はスナックだったと思われる店があった。「めし」と手書きで書かれた看板があり、元気のいい奥さんが出迎えてくれた。中にいる客たちもなんだか、朝から元気がいい。ーそうだよな、頑張るしかないよね。そう心のなかで呟いた。「何か温かいのあります?」「あるよあるよ、和食、洋食、どっちがいい?」「和食!」みんな、同時にそう答えた。しばらく一緒に作業をしてから、残りの作業はみんなに任せて、僕たち2人は、帰ることになった。おじさんの家が直ぐ近くなので、寄ってみようと思い、バイトくんに親戚の家に寄ってもイイかと確認をとって、おじさん宅に向かった。長田の街を見下ろせるところを通ると、土まで焦げているかのような街並みが、痛々しく心に突き刺さった。こんなに遠いと感じたことは、今までなかった。つづく、、、阪神・淡路大震災(4)へ
January 11, 2006
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京都駅から新快速に乗り、神戸へ向かう。電車は西宮までしか動いていなかった。駅を出ると、崩れかかった家々が目に入った。そこは、駅前という体裁を殆どのこしていない。人々の流れも普段とはほど遠い感じだった。戦後まもなくの日本を知っているわけでもないのに、何故か戦後の日本を思い出してしまったのだった。長机で携帯を売っていた。一般の電話が殆ど通じないことで、携帯を利用する事が、連絡を取りやすい一番の方法だったからだ。この時を境に携帯電話の普及に弾みが掛かったのも事実だ。無料でもいらないと言っていた人がちが手を出し始めたのも可笑しかった。皮肉なことに、大惨事が起こったせいで、人と人との繋がりの重大さを再認識させられた気がした。代替バスに乗るために、乗り場まで少し歩かなければならなかった。傾いたビルに寄りかかった電柱をくぐり抜け、そして、大きくひび割れた歩道を歩いた。歩道橋に上がると道沿いに並ぶビルたちが、無秩序に傾いている様がなんだか薄気味悪い地獄絵を見せられているようで、なんだかとても嫌な気分にさせられた。代替バス乗り場は、長蛇の列だった、1ブロックほど離れた最後部に並び、係の人が配っている紙マスクを受け取った。ダイオキシン対策だ。列を眺めると、人波は崩れかかったブロック塀をよける形で、蛇行していた。道の反対側には古い民家がの基礎が建物からはみ出して見えた。というより、建物自体が基礎からずれて傾いていると言う方が正確かもしれない。やっとの思いで乗り込んだバスの車窓から、崩れかけた風景を、これでもかこれでもかと、見せつけられ、心がつぶされそうになった。記憶にある風景とはあまりにかけ離れてている街のその姿が、しだいに涙でにじみ、悲しみの向こう側まで見えてきそうだった。完全に倒壊した家々を何件も何件も目にした。地震の当日、その中で暮らしていた人たちの事を思った。言葉にならない何かが、ボクの中で生まれては崩れていった。昔の風景がフラッシュバックして、目の前の風景に重なろうとする。しかし、結局ぴたりと重なることが出来ずに、次々に消えていく記憶の中の風景。それらは、記憶の引き出しに戻ることも出来ず、ただれた形に姿をかえ、心に傷を付けながら、しまい込まれて行った。目的の店は、燃えてしまった長田の直ぐ北方向にあった。板宿の商店街の直ぐ近くだった。中に入るまでもなく、その悲惨な状況は手に取るようにわかった。中はというと建物の柱はひび割れ、棚は全て押し倒され、ひしゃげて、ビデオテープやCDのケースが山のように散らかっていた。ボクは、早速、商品の状態をチェックし、単価をだし、概算の金額を提示した。「ハッキリした値段は、商品を整理して、数量を確認しないと出せませんので、スタッフを連れて商品を整理しに来たいと思います」そうやって、その試練の一晩が訪れることになる。それが、そんなに辛い仕事になるとは、思わなかった。その時は、「がんばるぞ~」と意気込んで、三宮で、帰りのバスを2時間もかけて乗り、4時間掛かって家まで帰った。「こんな風景は、2度と見たくない」と思うボクを、その風景が押しつぶそうとしている気がした。つづく、、、阪神・淡路大震災(3)へ
January 9, 2006
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1995年1月17日5時46分、大惨事は起こった。最初の突き上げるような縦揺れで目が覚めた。次の瞬間ボクの頭の上には、次々と単行本が落ちてきた。ラックが倒れ、ラックに付いていたガラスの扉の破片が飛び散った。本立てが倒れて、ドアも開かなくなった。「何が起こったんだ!」カラダの上に落ちてきた単行本をかき分け、ライトを探した。ベッドサイドにはライトになるようなものはなかった。小さな液晶テレビがあるのを思い出し、スイッチを入れた。液晶画面をライト代わりにして、部屋の中を照らしてみた。散乱するCDや書籍の山、倒れかかったラックや本棚。暗闇のなかで映し出された世界に、言葉を忘れた。そして、ふと液晶画面をみると、倒れた高速道路が映っていた。外では、大変な事が起こっている。ただ、そんなぼんやりとした認識しか出来ていなかったのだ。テレビの報道は、ほとんどなかった。ただただ映像が映し出されている。ヘリコプターから空撮された映像が、垂れ流しのように映し出されている。その映像がどの場所を映しているのかさえ、そのテレビは伝えていなかった。しばらくして、冷静さを取り戻したボクは、割れたガラスで足を切らないように、素足にシーツを巻き付け、ドアが開くように倒れた棚を移動した。外に出ると、大した様子の変化もなく、我が家で被害に遭ったのは、どうやらボクの部屋だけだったようだ。少しするとテレビで、地震の事をしゃべり出した。震源は神戸のほうだった。ボクの家は、京都の近くだ。それでも、震度5と言うことだった。神戸は、ボクが子どもの頃育ったまちだ。そして親戚も多いのだ。それから、テレビのそばを離れることが出来なかった。その状況をもっと詳しく知りたかった。しかし、情報が錯綜していて実態が良く掴めなかった。初めて遭遇した事態は、人間にとって認識しにくいものなのだ。アナウンサーは、この大惨事をどういう言葉で伝えればいいのか分からないといった感じで、狼狽え、言葉が見つからない感じだった。アナウンサーが同じ言葉のしか繰り返さない事が、逆にその事態の重大さを伝えていた。テレビはどのチャンネルも同じ映像だった。2時間ほど見ていたが、それでも実態が掴めないままだった。ボクは、自分が担当している店が気になりだした。店にはいっぱい棚が置いてある。その棚が倒れていたら大変だ。そう思うと居ても立ってもいられなくなり、出勤時間にはまだ早かったのだけれど、車に飛び乗り店に向かった。店は、思った程の被害を受けていなかった。棚は倒れることなく、整然と立ち並び、普段の様子を崩していなかった。ほっとした。それでも、商品はいくらか落下し、通路は散らかっていたので、ひとつずつ拾って棚に戻す作業をしたのだった。この日の記憶は、今でもハッキリと思い出すことが出来る。そしてその夜は、燃えさかる神戸の街を見つめ続けた。ボクが住んでいた街が、燃えている。そして今おじさんたちの住んでいる家に向かって、ドンドン火の手は広がっていった。おじさん宅に電話をいれても繋がらなかった。何度かけてもだめだった。おじさんの家はお寺なので、電話が掛かってくる数が一般家庭よりずっと多いはずだ。回線によって繋がり方が違うんじゃないかと思い、FAXの番号にかけてみた。ー鳴った。呼び出し音が受話器の中で響いた。「もしもし」騒音のなかで、相手の声が弱々しく聞こえた。「大丈夫なんですか?」「みんな大丈夫だ。安心してくれ、ただ、うちは寺だから、大勢のご遺体が運び込まれて、今ゆっくり話している暇がないんだよ」「わかりました。頑張ってください」おじさんたちは、無事だったようだ。火事は直ぐ近くまで焼き尽くしたけれど、なんとか鎮火したとの事だった。目をつぶると今でもテレビで見たあの炎が浮かんでくる。ボクは、おじさんの声を聞いてほっとした。そして、その翌日社長からこんな言葉を聞いた。「取引先関連の神戸の店が、壊滅的なダメージを受け、営業が出来なくなったので、商品を買ってくれないかと頼まれたんです。商品を買ってあげようと思うので、一緒に行って買い取りの見積もりを上げてくれないかな?」商品の見積もりといっても、被害状況を見てみないと、何とも言えない。それに、少しでも役に立つことなら、何としてでも協力したいという思いが強かった。そして、社長と2人で、被災地に向かうことになった。つづく、、、阪神・淡路大震災(2)へ
January 7, 2006
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早くもお正月も3日となりました。のんびりと過ごしすぎて、おっと、初詣に行きそびれそう!ということで、今日は家族で最寄りの天神さんへ初詣に行ってまいりました。我が家の今年は何とも静かな年の始まりです。3日ともなると初詣客も少し落ち着いたのか、ゆっくりお参りが出来たのでした。うちは、義母が車いすなのであまり混雑していると周りの方に迷惑だし、移動もしにくいので、今日ぐらい空いた初詣が快適です。家族5人で、柏手を打ち、しっかり今年のお願いをしたのでした。そして夕方から、またもや恒例の餅焼き大会とあいなりました。今夜も30個近くの餅を焼き、驚きの娘(14才)は、今日も10個近く平らげたのです。これで、3が日で40個以上ものお餅を胃袋に納めるという快挙を成し遂げたのでした。あっぱれ、あっぱれ(^^ゞ(笑)正月といえば思い出す失態があります。若い頃(22歳頃)大晦日から3日まで徹夜で飲み続けた事があります。知り合いのスナックを友人と2人で借りて、「年越し特別営業」と銘打って、2人で飲み屋を開いたのでした。自分たちで酒や食材を仕入れ、一応仕込みもして、頑張ったのですが、所詮、お遊びの域を脱し得ないもので、結局は自分たちの飲み代と少しの収入が残っただけでした。なんせ3日3晩飲み続けたものですから、帰りの電車に乗った瞬間、爆睡したのは言うまでもありません。(^^ゞ(笑)そして、なんと10時間近く電車に揺られ、眠り続けたのでした。気がつくと終点のアナウンスが聞こえ、電車から降ろされたのです。ーここは何処?そこは、何度も往復をした挙げ句、たどり着いた真夜中の終着駅でした。駅にはタクシーも止まっていない。仕方なく、友人に電話をして迎えに来て貰うことに!迎えに来てくれた友人と屋台のうどんを食べ、正月のイベントの事を長々と喋ったのでした。(迷惑かけてゴメンね)店に来た酔っぱらいが、絡んできて、飲み比べで負けたら店を出ていってもらう為に、ウイスキーのカルピス割りを一機のみした事や、店の外で初詣客同士の派手なケンカがあったことなど、朝までワンマントークで喋ったのでした。今考えると、好き勝手してきたな~って、だけど、なんだか、幸せを感じます(^^ゞ(笑)
January 3, 2006
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元旦か2日に見る夢を初夢といいますが、みなさんはもう初夢をご覧になりましたでしょうか?実は、最近殆どといってイイほど見た夢を覚えていません。ですので、元旦の夢を思い出せません(^^ゞ(笑)今朝、といっても昼頃ですが、目覚めると、奥さんの様子がおかしい。「浮気せんといてや」突然そんなこと言われても・・・・。話しを聞いてみると、それは夢の事しでした。(^^ゞ(笑)要約するとこんな感じの夢だったようです。奥さんは、色々と忙しく、あちこちと用事を済ませていると、晩ご飯を作る時間がなくなってしまい、帰りに「○将」に寄ったそうです。色々注文をして、お勘定をすまそうとすると、奥から何やら怪しげな人が現れて、「旦那さんが遊ばれた未払いの料金があるので払って貰わないと困るんですよ」と言われたそうだ。何の未払いだと訊ねると、「イメクラに似たような感じのものですよ・・・」「○○さんと2人で遊ばれたので・・・」「全部で、750円になります」「ちょっと、待ってよ」とボク「その夢、不自然すぎるやん」「なんで私がそんなお金を払わないとあかんのよ!夢やって分かってても、なんか腹立つ!」と、正月から良くわからない文句を言われてしまったのでした。しかし、ある意味シュールなお話しです。おかしな所を、列挙してみましょう。・何故遊んだ金を「餃子の○将」で請求されるのか?・○○さんとは、奥さんの元旦那だったので、これまた何故ボクが一緒に遊んでいるのか?・イメクラのようなものとは何か?・2人で遊んで「750円」とは、破格に安い!ボクは1人で想像してみた。「○将」の下部組織に「謎のイメクラ店」が存在し、風俗の世界に旋風を巻き起こし、とんでもない低料金を成し遂げた。そして、その営業内容は、「・・・のようなもの」しか表現できないような、誰にも想像できない画期的な風俗のあり方を提案している。そして、一歩その世界に足を踏み入れると、その素晴らしさに、身も心も溶けるような至福感を味わい、憎しみも悲しみもをも消し去り、穏やかな人間形成にも役立つのだ。「750円なら、遊びに行ってるかも・・・」と奥さんに言ったら、怒られちゃいました。「値段じゃない!」確かに。(^^ゞ(笑)平和な正月の1日でした。
January 2, 2006
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去年は、多くの出逢いがありました。そして、今年は多くの事が変化していく予感を抱いています。これからも、よろしくお願いします。そして、今日は、元旦です。朝まで奥さんと語り合ったせいで、起床はお昼でした。それでも、お雑煮はしっかりいただき、新年のスタートです。中2の娘は、お雑煮のおもちを5個もたべました。驚き!そしておやつに、恒例の餅焼き大会です。毎年正月は、ボクが餅焼き職人と化します、(^^ゞ(笑)砂糖醤油とあべかわ餅です。驚きの娘は、何と餅を10個も食べました。雑煮と合わせると今日一日でお餅15個ですぞ、超驚きです。みんな、ボクの焼くお餅が大好きです。幸せな一時だ。そして、今日は結婚記念日なのです。元旦に入籍などすると、どうも結婚記念日っていう感じでもなく、普通のお正月に組み込まれ、おめでとう!に埋もれて、通り過ぎていくのです(^^ゞ(笑)忘れようがないのですが、この日はお正月に負けてしまうのです。明日も餅を焼かされるのでしょうね。さ~て、驚きの娘は、何個たべるやら、楽しみだ!
January 1, 2006
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