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ツアー2日目の訪問先を簡単にまとめてみました。☆称名寺☆ 箱館戦争の時に戦死した新撰組 土方歳三、旧幕府軍兵士の供養塔があります。☆高龍寺☆ 函館で最も古い寺院で、箱館戦争では函館病院の分院として、また幾度となく大火によって焼失と、函館の激動の歴史とともに歩んだお寺です。☆函館護国神社☆ 箱館戦争時の新政府軍の死者を祭る神社で裏手には新政府軍のお墓があります。こちらでは少し元気をとりもどしたひめのさんは新政府軍のお墓を隅々まで歩き、皆に語りかけるように『愛を感じて』を歌っていらっしゃいました。『 Can You Feel The Love Tonight 』 You Tube☆碧血碑(へっけつひ)☆ 明治8年(1875年)5月に建立された戊辰戦争、特に箱館戦争における旧幕府軍の戦死者を記念する慰霊碑である。土方歳三や中島三郎助などをはじめとする約800人の戦死者を弔っている。☆函館市北方民族資料館☆ 旧日本銀行函館支店を利用した資料館。アイヌ民族をはじめとした北方民族に関する貴重な資料300点以上を展示しています。館内で喜楽さんが「アイヌの人たち来てますよ~」とおっしゃっていました。目には見えないけれど、思いをよせれば触れ合える。出会えたことに感謝します。祝福します。癒します。☆北海道坂本龍馬記念館☆ http://www.ryoma1115.com/わたしたちが訪れたのは龍馬記念館がオープンして10日目くらいのことでした。なぜ北海道に龍馬の記念館がと思われるでしょうが、龍馬は在京の過激浪士たちや、幕府の解体により職を失うであろう武士たちのエネルギーを北海道の開拓と防衛にあたらせようという計画を立てていました。幾度か試みた北海道行きの計画はすべて頓挫してしまいました。もし上陸していたら、まずは函館の港に足を踏み入れていたことでしょう。先に龍馬が北海道に来ていたら、榎本武揚はどうしていたのだろう。箱館戦争というものは無かったのかどうなのか。龍馬亡き後、その遺志をついで坂本家の親戚が一族を引き連れ北海道に渡り、開拓に大きな足跡を残しました。興味のある方は公式サイトをご覧ください。来年のNHK大河ドラマは「龍馬伝」とのこと。また龍馬が注目されますね。☆五稜郭タワー☆展望台から函館山や津軽海峡、横津連峰の山並み、そして特別史跡五稜郭の大地に輝く星形の眺望を見ることができます。展望台には、五稜郭の歴史が学べる展示スペース「五稜郭歴史回廊」や土方歳三の像などがあります。五稜郭内には時間の関係もあり足を踏み入れませんでしたが、タワーから全景を眺めました。タワーからは函館山からの夜景とは異なる昼の函館を見渡すことができます。下北半島も見えました。タワー内をぐるりと回りながら、この土地で起きた出来事に思いを馳せ祈りました。函館のことを調べていて素晴らしい人のことを知りました。五稜郭タワーの展示スペースにも紹介がありますが、日本史のなかでも特筆すべき人物だと思いますがあまり有名ではありません。今日12月25日が誕生日のその方のことは次の日記でご紹介したいと思います。いつもありがとうございます。みなさまに光のシャワーが降り注ぎます
2009.12.25

間があいてしまいましたが、函館ツアーのつづきです。室蘭からまた高速道路にもどり今回の候補地に上がっていた黒松内、長万部(おしゃまんべ)という土地を感じながら八雲神社へと向かいました。 参拝後、みなそれぞれに境内の中で気を感じたりお祈りをしたりした後は、左にキラキラ光る海を眺めながら海沿いの道を走り、駒ケ岳の麓を抜け、函館の少し前の七飯町まで向かい「ゆうひの館」という温泉に入り、函館入りしました。函館が近付くにつれひめのさんは骨を切られるような痛みを感じ、それはこのツアーの間ずっとひめのさんを苦しめることになりました。この日はもうすっかり暗くなってしまいましたが、金森赤レンガ倉庫などのベイエリア、ハリスト正教会、カトリック元町教会、聖ヨハネ教会などが立ち並ぶ元町エリアを駆け足で見て回りました。ライトアップされた街は美しくロマンチックでありました。そして函館山にロープウェイで登り、100万ドルの夜景といわれる函館の夜景を見ながら、この土地で起きた出来事に思いを馳せ、感謝と祝福、癒しのお祈りをしました。函館は今年開港150周年の年にあたります。ペリーの4隻のクロフネが箱館にも訪れ、それから5年後、箱館は 横浜・長崎とともに世界に向けて開港され、いっきに海外の人・もの・文化が入ってきました。いま函館の西部地区に残るハイカラで美しい街なみはペリーの来航がきっかけになったと言えるでしょう。また函館は民間の調査によりますと、魅力のある街ランキングの今年度第1位になりました。http://mediajam.info/topic/1037628 異国情緒があり景観も良いこの街はとても魅力的であると思います。しかし歴史をたどってみますと、もともとこの地に住んでいたアイヌ民族とあとからこの地にやってきた和人との争いは北海道のほかの地域同様、道南と呼ばれるこのエリアの各地でも起きています。また箱館は戊辰戦争の局面の中で新政府軍と旧幕府軍の最後の戦い、箱館戦争が起きた場所でもあります。 また昭和29年の洞爺丸台風のときには 青函連絡船洞爺丸が遭難し、1139名の犠牲者が出ました。これは「タイタニック号」、「サルタナ号」の事故に次ぎ、戦争による爆撃を除けば世界海難史上3番目の規模であり、「洞爺丸」とともに、「第11青函丸」「北見丸」「日高丸」「十勝丸」の連絡船4隻も沈没しました。実に乗客と乗組員合わせて1、430名の命が失われました。この出来事は陸が見える函館湾内の出来事でした。 この事故を繰り返さないという決意が青函トンネル事業を現実のものにしてゆきました。さらに函館は度重なる大火によって幾度となく街を焼失しており、多くの方が犠牲になっています。焼失戸数が1,000戸を越す大火は明治から数えると約10回も起きています。昭和9年の函館大火は瞬間最大風速30メートル以上ともいわれる強風の影響で、火は瞬く間に広がり、22667世帯死者2166人、行方不明者662人、負傷者9485人を出し、当時の市内約3分の1に当たる416万平方メートルを焼き尽くし、市役所、警察署、裁判所、税務署、商工会議所、丸井百貨店、お寺や学校なども焼失し未曾有の火災となりました。また昭和20年には空襲をうけており、青函連絡船13隻が爆撃を受け、乗組員を始め、市街地でも多くの人々が亡くなりました。 こうして振り返ってみますと、開港してからの約100年くらいの間に、戦争や災害が非常に多く、これでもかこれでもかというくらいに市民に襲いかかっています。幾多の悲しみからその都度立ち上がり復興させていったこの函館の人たちの頑張りには本当に敬意を払います。函館の歴史の中で生きてきた人々を心から癒します。今では、先に書きましたように魅力的な街No.1に輝いたわけですから本当に素晴らしいと思います。いつもありがとうございます。みなさまに光のシャワーが降り注ぎます
2009.12.21
今回の函館ツアーの最初の訪問地は室蘭でした。ひめのゆめさまと喜楽天道さまの癒しと感謝と祝福のツアーが始まって1年半になりますが、その先駆けとなったのは、昨年、室蘭の方からのお誘いから北海道のツアーが企画され、それから日本各地、そしてエジプト、シャスタといった海外ツアーという流れになったのでした。その時は室蘭の神社やお寺、そして360度大パノラマの景色を堪能できる地球岬などを訪問しました。その時の日記をリンクしておきますね。北海道スピリチュアルな旅~室蘭~http://plaza.rakuten.co.jp/arigatou39/diary/200806290000/室蘭という町に関してその時のブログを一部こちらに転載します。室蘭は鉄鋼業の町で、よく「鉄のまち室蘭」などと呼ばれています。鉄は古くから人間と深い関わりを持っている鉱物で、昔の人は鉄鉱石を山から採ってくるときに山の神に感謝して、ありがとうの気持ちを込めて山とともに生きることに使っていました。だからその土地とグランディングできていました。しかし室蘭の場合は他の土地で産出した鉄鉱石を加工する町です。そして企業という利益追求のシステムのなかでただものを生産するという状況になってしまったのはいたしかたないことのように思います。ひめのさんは室蘭の人たちは土地からのエネルギーを受け取れない状態になっているという。「浮いている」という表現をされていました。鉄は過去の歴史を見たときに、いろいろな支配とかパワーと結びつくものらしいです。そうしたものが「鉄の町」といわれる企業城下町である室蘭という町を締め付けてしまっているのかもしれません。しかし室蘭のなかでも波動の良いところがあり調べてみると、鉄を使った造形を作っていらっしゃる芸術家の方が、鉄を愛し、その土地を愛して生きていらっしゃるそうです。このことは、私たちひとりひとりの環境にあてはめた時、とても考えさせられるものがあると思います。今回の室蘭の訪問は時間的な制約もあり、高速道路をおりてから白鳥大橋を渡り、道の駅「みたら室蘭」に行って、室蘭全体を眺め、感じて、癒しと感謝、祝福をしてまいりました。道の駅は閑散としており、今の室蘭を象徴しているかのようでした。ある方のHPには室蘭に関して次のように書いてありました。鉄の街として発展、最盛期には日本最大の溶鉱炉が作られたり、室蘭港が特定重要港湾に指定されるなど、鉄鋼業の拡大と比例して徐々に成長してきた。しかし時は流れ、鉄鋼各社の人員削減に始まり、いくつかの溶鉱炉の火が消え、椎名誠に『ゴーストタウン』と呼ばれるほどに休日の街は閑散とし、時には『全国の市町村年齢ワーストワン(74歳)』、つまり、最も年老いた街=もう成長しない街とまで言われてしまうほどである。『ゴーストタウン』『最も年老いた街』とはちょっとありがたくないですね。ツアーからもどったある日の新聞には1891年創業の老舗百貨店が1月で閉店、そのセールが始まったことを伝えていました。産業の衰退によって街が衰退していくことは、北海道においては夕張をはじめとして、いくつかあります。でも室蘭のことを調べていくと魅力もいっぱいある街であることがわかりました。室蘭八景http://www3.plala.or.jp/pinwheel/sub2.htmと呼ばれるところは、それぞれに景観の素晴らしいところであり、地球岬は「北海道の自然100選」(朝日新聞社主催)「あなたが選ぶ北海道景勝地」(北海道郵政局)でそれぞれ得票一位に選ばれた名所であり、金屏風、銀屏風、そして鳴き砂で有名なイタンキ浜、また測量山からの夜景なども訪れてみたい場所ですね。白鳥大橋を走ると海の上を飛ぶ鳥のような感じです。そして噴火湾ではイルカや鯨のウオッチングができます。いいですね~~~。http://www.kk-elm.jp/vmwa/index1.htmまた 測量山を含む周辺一帯は、“測量山緑地”として野鳥の宝庫としても知られており、面積は119.5ヘクタールあり、緑地内には植物が約500種、動物は野鳥類のほか、昆虫類が豊富で青少年の自然観察の場となっています。市街地の近くに、このような緑地が保存されているところは、全国でもあまり多くないということです。食べ物はやきとりとカレーラーメンが名物。室蘭のやきとりは、使う食材は「豚肉」「たまねぎ」「洋がらし」。長年、独自のやきとりを提供してきました。 さらに、やきとり屋の数も断然多く現在、専門店は67店で、人口1万人当たりに換算すると6.4店になり、これは、全国的にもまれなほど多いそうです。カレーラーメンは市内の6割のお店のメニューにあるというカレーラーメン王国。何やら室蘭の観光大使になってしまったようですが、少し室蘭の歴史についても触れてみたいと思います。室蘭においても道内各地でおきた、アイヌ民族に対しての不平等な扱い、開拓先駆者たちの並々ならぬ苦労、また、農耕適地としては最悪の条件下にあったにもかかわらず、入植しなければならなかった屯田兵たちの苦労がありました。また戦時中は強制連行による中国人、朝鮮人の過酷な労働によって多くの方が亡くなりました。戦時中の日本製鋼所は、国内でも高度の技術陣を持ち、日本最大の巨大な1万tプレスが鍛えた鉄鋼は、戦艦陸奥や長門などの砲塔・砲身や巨大戦艦大和の装甲板となるなど、世界の四大民間兵器メーカーとして力を発揮していました。しかし終戦の年、軍需工場を持つ室蘭に対しての艦砲射撃は、軍需工場ばかりでなく、市街地や社宅街にも撃ち込まれ、特に御前水や中島社宅街は目をおおうような惨状であったとのことです。 終戦後の室蘭は、文字どおり火の消えたような状態で、軍需工場は閉鎖、室蘭港内には空襲で撃沈された船があちこちに沈み、港内は機雷の危険があるとして封鎖されるなど、室蘭港は、まさに死の港となっていました。しかし室蘭市は、天然の良港を背景にいち早く平和産業に転換し、重工業地帯として、復興の道を歩みはじめました。室蘭の歴史参照http://www7.big.or.jp/~eiji/info/info2.html戦後のことを考えれば、室蘭は先に上げたように魅力満載の土地ですから、これからいくらでも良くなりますよ。室蘭に住んでいらっしゃる方で私のこのブログを読んでくださっている方がいらっしゃいましたら、どうか今住んでいらっしゃる土地が素晴らしいところであることを感じて、感謝して、祝福し、愛してあげてください。そして歴史の中で御苦労された方々を癒してさしあげてくださればと思います。またこのブログに紛れ込んでしまった方も、ご自分の住んでいらっしゃるところと室蘭に癒しと感謝と祝福をしてくださればと思います。キラキラと光輝く室蘭をあとに、私たちは次の目的地へと車を走らせます。いつもありがとうございます。皆様に光のシャワーが降り注ぎます
2009.12.04
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