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ユダヤ人は国家を持たない分、国に縛られない存在です。その分個人的関係と契約を重視します。日露戦争における日本への資金提供も、自らの利益のための綿密な戦略に基ついています。彼らは日本が勝利するのを見て西欧だけが世界ではないと悟りました。欧米列強と対抗できる力を持った国がアジアに現れたことによってユダヤの世界制覇は日本を含めて戦略を考えざるを得なくなりました。日本が第二次世界大戦に繰り込まれたのも、アメリカがユダヤ人にあやつられた結果です。
2026年09月07日
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『数学原理』は存在者の間に階型の相違を認めるいわゆる階型理論に基づく公理的集合論の一種である。しかし、ラッセルがそのような解釈を認めるかどうかは、はなはだ疑わしい。ラッセルの真意はやはり、『数学原理』は近代的な存在論にあるということにある。ラッセルは単なる論理学者ではなく、存在者の構造を明らかにするために論理学を研究している哲学者にほかならない。では、このように存在論、まり、哲学の書物であると同時に技術的な論理学の書物でもある『数学原理』は、1930年ごろまでは、論理学の技術に関しても『数学原理』を繙く人が多かった。そのころ論理学の研究にはいって現在では元老と目されているタルスキー、チャーチ、クリー二ー、ゲーデル、クワインといった論理学者が、『数学原理』をなつかしげに回想するという事実もこのことを物語っている。この人たちが論理学に足をふみいれた1920年代には、『数学原理』だけが近代論理学の標準的な、ただ一つの教科書だったということである。しかし、このころからようやく『数学原理』に内在する多くの欠点が指摘されるようになったことも事実である。
2026年09月04日
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アインシュタイン方程式の特殊解としてゲーデル宇宙(回転宇宙解)を発見した、つまり「宇宙全体が回転している」モデル を提示し、この宇宙では 閉じた時間的曲線(タイムループ) が存在し、理論的には時間旅行が可能であることを発見した。時空構造の論理的・数学的性質を分析し特に「時間とは何か」「因果性とは何か」という物理学の根本問題に論理学者として切り込んだ。プリンストン高等研究所でアインシュタインと親しく交流「数学体系には必ず証明できない真理がある」という不完全性定理は、物理法則の限界 や 科学的知識の到達範囲 を考える上で重要な示唆を与えた。
2026年09月03日
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フィット・ヒルベルト(David Hilbert)は数学者だが、物理学の発展に決定的な役割を果たした。特に 一般相対性理論の数学ヒルベルト的基礎 と 量子力学の初期発展 に深く関わっている。アインシュタインと同時期に重力場の方程式を導いた一般相対性理論の数学的完成に貢献(1915)した。アインシュタインと「重力場方程式の優先権問題」で歴史的議論をかわし、両者の成果が合わさって現在の一般相対論が完成した。物理法則を「作用を最小にする原理」で統一的に記述する流れを強化した。現代の量子場理論・素粒子物理の数学的基盤に直結しヒルベルトは数学者だが、一般相対性理論の数学的完成と量子力学の数学的基礎(ヒルベルト空間) を築き、現代物理学の根幹を支える存在です。
2026年09月02日
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バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)は1872年生まれ(イギリス)で1900年代初頭〜1950年代に最も大きな業績を残す。ラッセルは科学的知識の構造を論理的に分析し、「物理学とは何を記述しているのか」という問いに体系的な答えを与えた。現代物理学の哲学的基盤 に大きな影響を与えている。また哲学的観点からその意味を整理した最初期の人物の一人です。観測問題、決定論 vs 非決定論、物理的実在とは何かなど、量子論が生む哲学的課題を深く検討し論理学・数学基礎論が物理学の数学を支えた。ラッセル=ホワイトヘッドの Principia Mathematica は、現代数学の基礎を整え、その上に構築される 量子力学・場の理論の数学的枠組みに間接的に貢献した。科学哲学・論理学・数学基礎論 を通じて現代物理学の概念的・哲学的土台 を強化した。特に相対性理論と量子力学の「意味」を整理した点で重要です。
2026年09月01日
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ゲオルク・カントール(Georg Cantor)は、 1845年生まれ(ドイツ)で1870年代〜1900年代初頭に最も重要な業績を残す数学の(集合論)を創始した人物であり、彼の数学は 現代物理学に深い影響 を与えている。カントールが作った集合論(数学の基礎をつくった理論)カントール集合はフラクタルの原型で、量子系のスペクトル、カオス系の軌道、物質の多孔質構造などの解析に使われる。無限の階層構造(可算無限・非可算無限)は量子場理論や一般相対論で「無限大」「無限小」を扱う場面が多く、カントールの無限階層の考え方が数学的基盤になっている。カントール集合(フラクタルの原型)でその数学が 量子力学・カオス・場の理論など現代物理の基礎を支えている。現代物理の数学(線形代数・解析・位相空間など)はすべて集合論の上に構築されている。
2026年08月28日
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ハイゼンベルクは量子力学を数学的に“完成”させたドイツの理論物理学者で 行列力学 と 不確定性原理 の提唱で知られる。行列力学(1925)とは量子の世界を 行列(マトリックス) を使って記述する新しい力学を構築し、これが 量子力学の最初の完成形 とされる。量子力学を「数学的に厳密な理論体系」へと押し上げた中心人物であり、彼の理論がなければ、原子の構造、半導体、レーザー、核物理、現代の素粒子物理などは成立しなかったと言っていい。行列力学で量子力学を構築し不確定性原理で量子の本質を示した。量子場理論の基礎を築き、現代物理へつながる道を開いたが後にシュレーディンガーの波動力学と同等であることが証明され、量子力学が統一された。
2026年08月27日
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物理学者アーサー・コンプトン(Arthur Compton)の業績を、最短で要点だけまとめるね。アメリカの物理学者で、X線が電子と衝突すると波長が変わる(コンプトン効果)を発見した人物。この成果で 1927年ノーベル物理学賞 を受賞した。コンプトン効果とはX線(=光)が電子にぶつかるとその後の光の 波長が長くなる(エネルギーが減る)これは光が 粒子(光子)として電子に運動量を与えた証拠です。つまり 光は波であり粒子でもあるという量子論を強力に裏付けたもので、これがなぜ重要なのかというと光子が 運動量を持つことを実験で示したことで、アインシュタインの光量子仮説を決定的に支持し量子力学の基礎を固める大きな一歩になった。
2026年08月26日
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ジェフリー・イングラム・テイラー(G. I. Taylor)は、主に流体力学の巨人として知られるイギリスの物理学者です。量子力学にも重要な足跡を残していて、特に有名なのが 単一光子による干渉実験(テイラーの実験)で、単一光子干渉を示し、量子の波・粒子二重性を実験で裏付けた。量子力学の発展はプランク → アインシュタイン → ボーア → ハイゼンベルク → シュレーディンガー → ディラック → 量子場理論 と進み、現代物理の中心理論になった。
2026年08月25日
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マックス・プランク(Max Planck)は、 量子力学の生みの親として知られるドイツの理論物理学者で黒体放射の研究から、エネルギーは連続ではなく「量子(かたまり)」として受け渡されると提唱し、この発見が 量子力学の出発点 になった。つまりプランクの「エネルギーは飛び飛びの値しか取らない」という発想は、当時の物理学の常識をひっくり返し、原子・電子・光の振る舞いを理解するための新しい物理学(量子論)を生み出した。
2026年08月24日
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とはいえ、大多数の物理学者と生理学者は、人間の脳のような通常の大きさの物体の働きに関連した物理法則をわれわれはすでに十分知っている、と判断するだろう。脳は物理的システムとしては例外的に複雑であり、その詳細な構造と重要な動作に関してまだ分かっていないことが大量にあることは疑いがないとはいえ、その振舞いの根底にある物翔的原理の理解に重大な欠落があると主張する者は少い。これとは逆に、われわれは物理学をまだ十分理解していないので、脳の機能をそれこもとづいて適切に記述することは、たとえ原理上のことに限ったとしても、まだできない。ここはニュートン力学とアインシュタインの相対論を含む。、「古典物理学」と呼ばれるものを扱う「古典的」はここでは、本質的には、(プランク,アインシュタイン,ボーア,ハイゼンベルク,シュレディンガー,ド・ブロイ,ボルン,ヨルダン,パウリ,ディラックらの物理学者の霊感に満ちた研究を通じて)1925年頃に量子論――分子,原子および素粒子を記述する,不確定性,非決定論とミステリーの理論――が登場する以前に威勢を振るっていた理論を指す。これに反して,古典的理論は決定論的であるので,未来はつねに過去によって完全に定められている。そうはいっても,古典物理学にも謎めいたものが多くつきまとっている.何世紀にもわたって理解が積み重ねられたおかげで,非常に驚異的な正確度の描像が生み出されたという事実にもかかわらず,そうなのである。わたしは量子論についても検討し帥ればならない。というのは,生理学者の多数意見らしく思われるものとは反対に,量子現象は脳の働きにとって重要であるらしい,と信じているからである。
2026年08月21日
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思考とは,「心的表象の変換を含む目標志向的活動」であり,その多くは,外界に働きかけてこれを好都合なように変化させる方法を見出す問題解決と,得られた情報から外界ないしその一部の状態を推測する理解を目標とする。心的表象とは外的環境の諸特徴を心の中で代表する情報であり,そのうち比較的安定していてかつ外界の事物・事象やそれへの活動を代表するものが知識あるいは信念であるから,多くの思考は知識の操作を含む。しかし,メモを取る,略図を措く,動作しながらイメージする,などの例から明らかなように,思考過程のすべてが心の中で行われるわけではない。また,思考が現実世界において適応的機能を持つためには,変換が窓意的でなく一定の規則.原則に従って行われる必要があり,このように制約された情報変換の過程が推論と呼ばれている。欧米人は不思議な考えをもっています。外界は五感でわからないものは無いと考えている。そして心も意識でわからないものは無いとも考えている、東洋人は五感と第六の目である意識も含めて六感でわかるものを「もの」といい、六感でわからないものを「こころ」と言って自然は物心両面からなっていると考えます。
2026年08月20日
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空軍は第一次世界大戦期に登場し、当初は偵察・空中戦・対地支援が主任務であったが、やがてそれに敵の陣地や都市への爆撃が加わった。航空攻撃の威力は第二次世界大戦では地上・海上の戦闘にとって決定的な意義をもつようになり、また敵の都市や重要施設を集中的に攻撃して相手の継戦能力を減耗させる戦略爆撃も同様である。戦略空軍の役割は核兵器の登場でさらに拡大したが、その後、戦略ミサイルが戦略爆撃機の地位を大きく奪い取った。ロケットやジェット機の登場は、戦闘機と軽爆撃機の区分を廃止させ、空中戦にも対地・対艦攻撃にも使える戦闘爆撃機が戦術面での中心になっている。また、レーダーや電子装置の発展は、空軍戦術をはるかに複雑なものにした。
2026年08月19日
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海軍は帆船時代から第一次世界大戦まで、長らく主力艦隊どうしの砲撃による決戦や敵の港湾封鎖を主要な課題としてきた。索敵・展開・戦闘・追撃という戦闘パターンが一般的であった。しかし、第一次世界大戦で潜水艦が本格的に使われると、主力艦の援護や対潜行動が比重を増し、また潜水艦による通商破壊戦とそれへの対抗策が海軍戦略の重要な1項目となった。だが、長距離砲と分厚い装甲をもった主力艦と、それを援護する補助艦を基礎とする戦略は、航空部隊の海戦への投入によって無効となり、第二次世界大戦では空母と潜水艦とが海戦の主役を占めている。他の艦船も対空・対潜戦闘を基本とするようになり、船団護衛や上陸支援が主任務となった。第二次世界大戦後も、空母と潜水艦の重要性は変わっていないが、非核・核ミサイルを搭載した水上艦艇の多面的な役割が増加しつつある。
2026年08月18日
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産業革命の進展とともに銃砲の発射速度や精度も増し、横隊はしだいに散開隊形に変わる。フランス革命は国民徴兵によって大軍隊をつくるとともに、行進を遅くしていた火砲の機動力や兵站負担を軽減した。軍隊は何列もの縦隊で急速に行進し、戦闘にあたっては散開して銃砲弾を決勝点に集中し、動揺する敵陣に白兵突撃を敢行するとともに、騎兵や予備隊による追撃で戦果を拡充した。19世紀中葉以降、銃砲の後装化や機関銃の登場で、より散開的な隊形がとられると同時に、射撃力や突撃力の不足を補うため小部隊単位での戦闘が重視される。鉄道や道路網の整備、通信技術の進歩は兵力の分散・機動・集中や統一指揮をさらに容易にし、将校教育の体系化などと相まって、戦術上の柔軟性がより増加した。他方、火力増加、塹壕(ざんごう)・鉄条網の利用は防御力をも強化し、第一次世界大戦では、野戦での短期決戦ではなく、綿密に組織された塹壕網と、拠点火力に対する大量砲撃と何波かに分かれた人海戦術との衝突が常態化した。毒ガスや戦車は陣地突破用の新兵器として登場している。第一次世界大戦後、マジノ線による固定防御を重んじたフランスを除く各国陸軍は、戦闘を再機動化させるのに意を砕き、戦車、対地支援航空機、歩兵・砲兵の車載化などを組み合わせた機動戦が第二次世界大戦では復活しました。
2026年08月17日
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二〇世紀の初め(1916年)に、アルバート・アインシュタインが相対性理論を提唱し、物的世界に対するわれわれの見方が一変した。それまで、物体の運動に関する力学と電波や光の挙動に関する電磁気学に不整合があったのを、アインシュタインは光(可視光線も電波も物理的には周波数の違う電磁波であるので、以下「光」と総称する)を絶対視することによって物理学を刷新したのである。その結果、時間の一次元と空間の三次元は、四次元の「時空間」という相対的形式に統合された。われわれは、空間はどこも一様であり時間も単調に経過すると考えているが、相対性理論によると、それは観測系(ある特定の観測者を時空間の原点においた座標系)によって異なるのだ。またアインシュタインは、物体が光速度近くまで加速すると膨大なエネルギーを持ち、それが質量に転化する(重くなる)という関係を導いた(それゆえに物体は光速度を超えられない)。相対性理論では、光速度は絶対であるので、光路はまっすぐなのに空間が太陽のほうへ歪んでいるので、光が曲がったように見えていると考える。太陽のような大質量の付近ではどこも空間が曲がっている。これが極端になった空間がブラックホールである。
2026年08月10日
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第一次世界大戦で敗戦したオスマン帝国は解体し、ヴェルサイユ講和会議で領土の西をギリシアに、東をアルメニアに、南東部をクルド人に割譲し、首都イスタンブールを国際管理にすることになった。この仕打ちに対して一九二〇年にアンカラで招集された大国民会議は、ガリポリの戦いで活躍したムスタファ・ケマルを指導者として祖国回復運動を展開していった。トルコ革命である。その成果は一九二三年のローザンヌ条約となり、エーゲ海島嶼をギリシアに渡し、トルコ領内のキリスト教徒とギリシア領内のイスラム教徒を交換するという条件を獲得して、トルコ共和国の樹立にいたった。問題は南下政策をとりつづけるロシア(ソ連)による共産化の波をどうはねのけるかだった。
2026年08月07日
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加藤内閣は首相の病歿で短命に終わり、山元権兵衛に組閣の命が下りた。1923年九月一日の正午の関東大震災による震災恐慌に対して、政府は 震災手形割引損失補償令を出して銀行救済を行ったが、この震災手形が結果的に昭和 2(1927)年の金融恐慌の直接的原因をなしたのである。国内では大戦時の過剰な投資により経済は危機に瀕するようになってい た。昭和2年(1927年)に始まった金融恐慌でそれが一気に表面化し、その後の世界恐慌の余波に巻き込まれるにあたり経済的な逼迫感はピークとなっ た。当時、列強はそれぞれ他国からの輸入品には多額の関税を課すなどの施策 により自前の経済圏を形成していくことで経済の建て直しを図っていた。資源に乏しく国内消費力が落ち込み、貿易によって経済を立て直さなくてはならない日本にとってまさに満洲が生命線であると広く認識されていった。
2026年08月06日
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第一次世界大戦による異常な物価騰貴は、1914年を100とすると4年後の1918年には230と130%も上昇した。工業の発展と人口の都市集中による消費量の増加と米の買い占め・売り惜しみが原因です。富山県下の住民が発端の米騒動は全国に広がりました。政府は治安維持のために軍隊を出動せざるを得ませんでした。この結果寺内内閣は倒れ、原内閣が誕生しました。原内閣は第一次世界大戦の終幕、ベルサイユ条約の締結、ワシントン条約の調印を行ったが、1921年にテロにより暗殺されました。原内閣の後を受けた高橋内閣は改造に失敗し瓦解し、加藤友三郎が組閣を行った、
2026年08月03日
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第一次世界大戦では西欧の列強は国力を消耗し、それに対して自らの 国土は無傷で大いなる武器などの輸出国として潤ったアメリカは、世界の中で の発言力が増した。この力を背景に自国の利益を優先させるよう国際世論をコ ントロールし、日本が孤立するように導いていった。その最たるものが大正1 0年(1921年)のワシントン会議であった。この会議においてアメリカは自国が中国に進出することを容易にするために、かねてから主張していた中国 の主権尊重、領土保全、門戸開放、機会均等、関税率の拡大などを認めさせた。 そしてそれ以降の日本の大陸進出を事あるごとに条約違反と批判するようにな った。また同時にアメリカにとってやっかいな存在だった日英同盟を破棄させた。アメリカとしては、早い時期から直接日本と戦うことも想定し仮想敵国としての研究を重ねつつ、日本との戦争も辞さずという姿勢で、その利己主義の権化たる国際正義を持ち出し挑発しつづけた。
2026年07月31日
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日本に大陸進出の好機が訪れます。大正3(1914)年に勃発した第一 次大戦により、西欧諸国は支那からの一時的後退を余儀なくされ、日本は日英同盟を名目に連合国の一員として参戦、山東半島と南洋群島のドイツ権益を手中に収め、さらに、大正4(1915)年「対華二十一カ条要求」などで支那に対する支配を強めようとした。しかし、大戦で疲弊した西欧諸国に代わって世界の主導権を握ったのはアメリカです。主動的立場になったアメリカは、大正10(1921)年に日本、イギリス、フランス、イタリア、支那、 オランダ、ポルトガル、ベルギー、アメリカの9カ国が参加したワシントン会議で九カ国条約を採択、日本は山東半島など、第一次大戦で得た権益の殆どを失うことにな る。この会議ではまた海軍軍縮条約が結ばれるとともに、日英同盟も廃棄され、日本 は列強とは独立した路線を進むことを余儀なくされることとなった。
2026年07月30日
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ボリシェヴィキ革命の成功は第一次世界大戦の欧州戦況を一変させた。1918年7月連合国(米・英など)にチェコ軍救援を要請された日本は、8月に約7万の軍勢をウラジオストクに上陸(最終的に10万規模へ拡大)させました。表向きは「チェコ軍救援」だが、実際には、反ボルシェビキ勢力の支援、沿海州での勢力拡大、共産主義の拡大阻止が目的です。日本軍はウラジオストク周辺だけでなく、シベリア内陸部(ハバロフスク・チタ方面)へ進出し、反ボルシェビキ政権(コルチャック政権)を支援しますが、コルチャック政権は崩壊し、日本の支援は成果を失い、目的が曖昧になり、撤兵のタイミングを失いました。1920年4月尼港事件(日本人多数が殺害される)が発生し軍部は「治安維持」を理由にさらに駐留を正当化しました。ソビエト政権は日本軍の撤退を強く要求しましたが日本政府は軍部の反対や国際関係の複雑化で決断できず1922年国内財政の悪化により撤兵に踏み切りました。
2026年07月27日
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皇帝の専制政治を打倒し、人民が支配する共産主義社会を目指した革命です。19世紀初頭に英国で産業革命が進みましたが、工業関係の法律は制定されておらず、資本家は低賃金で労働者を長時間酷使していました。そこで労働者を擁護するためにマルクスとエンゲルスが共産主義を提案しました。この思想を受けてロシアで、世界で初めての共産主義国家、ソビエト社会主義共和国連合が誕生しました。広義には1905年の「第一革命」と、1917年の二月革命および十月革命の「第二革命」を指し、狭義にはレーニンらボリシェヴィキが権力を奪取した十月革命(ボリシェヴィキ革命)を指します。
2026年07月24日
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初代朝鮮統監となった伊藤博文が1909年に満州ハルビンの駅で朝鮮人の安重根に暗殺されてしまうと、日本は激怒した。大国ロシアを倒した日本の元勲を暗殺してしまった朝鮮は震えあがって併合を申し出た。日本にとって朝鮮の近代化は巨額の予算が必要であったが1910年8月23日京城において統監寺内正毅と韓国首相李完用との間に併合条約が調印されました。日本はインフラの整備や教育に巨額の予算を注ぎ込みました。
2026年07月23日
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イタリアムッソリーニは「日本に加え、眠れる獅子と称されたアジアの大国中国が、日本化されて協力したらどうなるか。日本が眠れる隣人を目覚めさせ、手を携えたとき、だれがこの2国が世界のヘゲモニー(主導権)を取らないと言い切れるか」と憂慮した。日露戦争勝利は、小国(白人)や植民地や有色人の虐げられし人類の星となると同時に、白人(大国、宗主国)の標的となった。1904年8月23日第一次日韓(大韓帝国)協約を結ぶが、1905年7月大韓帝国の高宗の、ロシア帝国への密使が発覚する。1905年11月17日第二次日韓(大韓帝国)協約を結ぶ。外交権を失い、日本の保護国となる。同じころの1905年ハリマン満鉄買収計画(アメリカの鉄道王ハリマンと首相桂太郎が)で、満鉄共同経営の予備調印をしたが、外相小村寿太郎の反対で、中止となった。1905年7月29日桂・タフト協定で韓国には日本が、フィリピンにはアメリカ合衆国が影響力を持つと、相互に認め合う。
2026年07月22日
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1902年に日本は、ロシアのアジア進出を牽制する目的で締結された軍事同盟、日英同盟を締結し日露戦争に備えました。ドイツ皇帝ウィルヘルム二世は、日本の日露戦争勝利にたいして「世界に人類の運命を決する大きな危機が近づいている。その第一回の戦争は、我ら白色人種のロシア人と有色人種日本人との間で戦われ白色人種は、不幸にして破れ日本人は、白人を憎んでいる白人が悪魔を憎むように憎んでいる。しかし我等にとって日本そのものが危険な訳ではない。統一されたアジアのリーダーに日本がなることが危険なのである。日本による中国の統一、それが世界に脅威を与える最も不吉なことである」と述べました。日露戦争開戦直後の1904(明治三十七)年、アメリカでは「カラープラン」といって、ドイツは黒、イギリスは赤、日本はオレンジというように、国ごとの戦略が作られた。そして排日移民法が成立した1924年、日本を仮想敵国とする対日戦略「オレンジ計画」が確定しました。大統領政権(1901―09年)の元で対日戦争計画が作られ、それ以後入念に作られてきた対日戦争計画オレンジ・プランに従って戦争を遂行し、1945年の最終的な勝利を得た。
2026年07月21日
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1898年アメリカは、スペイン戦争(米西戦争)の結果ハワイ、グアム島、プエルトリコをアメリカ領に併合。さらに、1899年、フィリピン、サモア、ウエークを併合した。1900年にベバレッヂ上院議員は米国会で演説しました。「我々は東洋における我々の機会を放棄しない。我々は神によって世界の文明を託されたわが民族の使命を遂行するにあたってわれわれの役目を放棄しない。・・・今後我が国最大の貿易はアジアと行われるにちがいない。太平洋は我々の大洋である。・・・支那はわが国本来の消費者である。」
2026年07月17日
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1881年(明治14年)、アメリカによって独立を脅かされていたハワイ王国のカラカウワ王は、日本を訪れ、姪のカイウラニ姫の婿として山階宮定麿王をお迎えし、日本の力でハワイの独立を守ってもらいたい、と明治天皇に申し入れをした。明治天皇はアメリカとの摩擦をおもんばかって、丁重にお断りした。1894年、入植していたアメリカ人は武力でハワイ王国の支配権を奪取し、アメリカ人宣教師の息子ドールを大統領とするハワイ共和国を作った。アメリカ合衆国はこれを4年後に併合する。
2026年07月16日
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かつてテキサスはメキシコの領土であった。そこに入植したアメリカ人は1835年に独立運動を起こし、翌年、155人の守備隊がアラモ砦に立てこもったが、メキシコ軍の攻撃により全滅した。 アメリカ人達は"Remember Alamo"を合い言葉に戦いを続け、翌年、独立を勝ち取った。アメリカはこれを46年に併合し、さらにカリフォルニアを狙って、メキシコに宣戦布告、勝利を得た。 この戦争の結果、アメリカは現在のアリゾナ、カリフォルニア、コロラド、ニュー・メキシコ、ネバダ、ユタ、ワイオミング各州にあたる地域をメキシコから奪取した。この結果、メキシコは領土の半分以上を失った。
2026年07月15日
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支那は辛亥革命(1911年)によって共和国が誕生していましたが、非常に不安定な政権で混乱が続いており、大総統の袁世凱は「皇帝」になりたくてしょうがなかったので1915年12月には立憲君主制が議会で可決されると、袁は皇帝の宗教儀式を復活させるなど行って中華帝国皇帝についています。明治四十五年(1912年)、孫文が大統領となり、清朝は滅んだ。孫文は日本で覚えたらしい「革命」という言葉を使い、自分たちのやったことを辛亥革命と称した。しかし、本来は革命でなく独立である。二十一カ条は袁が皇帝、あるいは外国と交渉できる国家元首として認めてもらいたかったための譲歩であり、面子をたてるために日本に強要され仕方なかった、ということにしたのでしょう。日本の加藤高明外相は「条約の最後通牒は、譲歩する際に支那国民に対して袁の顔を立てるために、袁に懇願されたものである」と公然と認めています。さらに、アメリカ公使ポール・ラインシュの国務省への報告書には、「支那側は、譲歩すると約束したよりも要求がはるかに少なかったので、最後通牒の寛大さに驚いた」とあります。
2026年07月14日
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ハクスリー(1825-1895)は、イギリスの生物学者、科学啓蒙家で、ダーウィンの進化論を擁護した生物学者にして啓蒙主義者です。ハクスリーの影響を受けたウェルズの特徴は、初期のSF作品から、『世界史大観』に至るまで、進化論的社会主義ともいうべきユニークな思想が貫かれていたことである。イギリス生まれの社会進化論は、社会ダーウィニズムに結びつけて語られることが多い。この社会ダーウィニズムは、イギリスのゴルトンの「優生学」に結びついて、さらにドイツのプレッツらによってナチスの人種政策に利用された。また、自由競争を弱肉強食・適者生存に結びつけて、「優等人種」による帝国主義的支配を正当化するイデオロギーとして機能してきた。しかし社会進化論そのものは、帝国主義的・ナチ的であったわけではない。ダーウィンに先立って、「社会進化論」を唱えていたのがスペンサーである。スペンサーの考えた「人間社会の適者生存の法則」とは、「軍事型の社会から産業型の社会への移行」であり、そうした必然性を自由放任に任せるというものだった。クロポトキンのように、アナキズム思想に社会進化論を採用した人物もいる。進化の法則は生存競争でなく「相互扶助」にこそもとづくものであり、国家はその自然な原理に逆らう敵対物であった。
2026年07月13日
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HerbartSpencer(1820~1930)は英国の哲学者です。進化論に基づいて、星雲の生成から人間生活にいたるまで、すべてを総合的に説明しようとしました。主著「総合哲学体系」は第一原理を基礎とし、生物学、心理学、倫理学の全般にわたり、すべてを進化の原理に基づいて組織的に説明しました。それは当時の自然科学万能の思想を背景とするものでした。しかし、認識論的には不可知論に属するものでした。彼の哲学はダーウィンの進化論の普及に結びつき、国際的に大きな影響を与え、明治前半期の日本への影響も著しかった。
2026年07月10日
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1914年、第一次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟を理由にドイツに宣戦を布告し東アジア・西太平洋におけるドイツの軍事拠点である支那の青島や南洋群島を占領しました。この時日本は「適者生存」の理論を植民地支配の正当化に使い、ことさらに「自然淘汰」を人間の手で行おうと考えていました。日本の内部には有色人種と白色人種のはざまにあり、国際的孤立に危機を覚える人もおりました。1919年、第一次世界戦争の対独平和会議がパリで開かれた際、日本の三大要求は第一に山東省のドイツ利権の継承、第二にドイツ領南洋群島の領有、第三に人種差別の撤廃です。第三の要求は米英の反対で受け入れられませんでした。
2026年07月08日
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国内を開拓しつくしたアメリカは、新たなフロンテアを求め支那大陸に進出を求めました。しかし、支那大陸にはロシアの戦いに勝利した日本が勢力を伸ばしてきていました。1906年4月サンフランシスコを襲った地震と火事の大災難の際、彼らは東洋人を血祭りにあげ略奪と暴行を加えました。米国人は、ダーウィンの学説を自分たちの都合のいいように、もじって利用したのです。彼らは、生存競争で最適者として生き残ったのであり、こうしてかれらは「自然の選択作用」によって頂点に位置し、支配階級となったのであった。これが、あるひとつの階級がほかの階級を、またあるひとつの人種がほかの人種を支配することを根拠づける理由になり、帝国主義と白色人種の優劣の究極の証明となった。それによって、西洋の多くの人びとは、かれらが圧制をほしいままにし、乱暴で、暴力を発揮すればするほど、それだけ人間としての価値の基準からいっても、高いものであるかのように思いこんだ。
2026年07月07日
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十九世紀に入っては、西欧という一つの歴史的世界に於てドイツとフランスとが対立しましたが、更に進んで、全世界的空間に於て、ドイツとイギリスとの二大勢力が対立するに至りました。これが第一次世界大戦の原因です。十九世紀は国家的自覚の時代、所謂帝国主義の時代であった。各国家が何処までも他を従えることによって、自己自身を強大にすることが歴史的使命と考えました。そこには未だ国家の世界史的使命の自覚というものには至りませんでした。国家に世界史的使命の自覚なく、単なる帝国主義の立場に立つかぎり、階級闘争と云うものを免れません。
2026年07月06日
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1916年に政治学者の吉野作造が論文「民本主義」を発表し、学問・芸術の世界に多大な影響を及ぼしました。これを契機に日本の学問・芸術は質的に大きな発展を遂げ、国家や政府から独立し、自由と個性を追求する雰囲気が全分野にみなぎりました。この「民衆文化」の開花がいわゆる「大正デモクラシー」であり第一次世界大戦による産業の拡大と相まって本格的な労働運動・社会主義運動が展開されました。
2026年07月03日
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1912年7月30日から1926年12月24日までの14年5か月の大正時代の日本経済の発展は著しかった。人口も国家予算も世界に類例のない拡大を見せました。この発展の契機は第一次世界大戦にありまた。日本はこの大戦に英・米・仏・伊・露などの連合国の側に立って参戦しました。ほとんど出兵することもなく「戦争景気」を享受し、支那における権益も手に入れたのです。1919年のベルサイユ講和会議に戦勝国の一員として参加し、1920年に設立された国際連盟には英・米・仏・伊とともに常任理事国となって「世界の五大強国の一つになったのです。
2026年07月02日
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明治時代にできた大日本帝国憲法は「天皇に絶対的な権力」をもたせていましたが、大正時代にはいると、多くの学者やジャーナリストがこのような専制的体制を批判し、より民主的な政治を要求する声が高まりノました。この民主化運動の先頭にたったのが美濃部達吉と吉野作造で、『中央公論』『文明評論』などの雑誌や『朝日新聞』『毎日新聞』などがこれを支持しました。具体的には、天皇権限の制限と国会権限の強化の必要をとき、これを政府に要請しました。また、経済界では、新興資本家が自由な経済活動をもとめ、農村から都市へ流入した労働者も、政治の改善を要求するようになりました。このような民主主義運動の高まりは、当時の日本の産業の発展とも関連しており、大正デモクラシーといいます。
2026年06月11日
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英語の文献では日朝併合には「アネクセーション」という言葉を使っています。イギリスのスコットランドとイングランドがアネクセーションであるのと同じですね。朝鮮について「植民地」という言葉を使うのは反対でね、「コロナイゼーション(colonization)」というのは植民地から収奪することです。日本は逆に朝鮮に資金を出して支援した。だから「合邦」、つまり「アネクセーション(annexation)」なんです。歴史というのはなるべく異なった見解から多数書かれるべきで、自分はどこの国の人間で宗教はこうだから、こういう立場から書くと明確にしなければならない。日本人もそろそろ、「われかくのごとくに世界を見たり」という世界史を書いたほうがいい。西欧は現在の生態系や自然環境の破壊を生み出した。それにかわって日本文明を世界の基準とすべきだということですね。いわば西欧の「キリスト教的世界観」から、日本の「アニミズム的で汎神論的な世界観」への転換を提案すべきです。
2026年06月10日
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黄禍論(おうかろん/こうかろん、独:GelbeGefahr、英語:YellowPeril)とは、19世紀半ばから20世紀前半にかけてヨーロッパ・北アメリカ・オーストラリアなどの白人国家において現れた、黄色人種脅威論。人種差別の一種である。フランスでは1896年の時点でこの言葉の使用が確認されており、ドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世が広めた寓意画『ヨーロッパの諸国民よ、諸君らの最も神聖な宝を守れ(ドイツ語版)』によって世界に流布した。日清戦争に勝利した日本に対して、ロシア・ドイツ・フランスが自らの三国干渉を正当化するために浴びせた人種差別政策で、続く日露戦争の日本勝利で欧州全体に広まった。黄禍論で対象とされる民族は、主に中国人、日本人である。とくにアメリカ合衆国では1882年に制定された排華移民法、1924年に制定された排日移民法など露骨に反中、反日的な立法に顕われ、影響が論じられる。
2026年06月08日
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「明治後期は武士と封建制を発見した第一段階といえる。『西欧の発見』のなかに世界との同居を確認したところから、第二段階は特殊日本的な側面への評価がなされる時期である。大正―昭和前期に及ぶこの段階は『日本の発見』に焦点がすえられた。これらの議論から、「武士」「貴族」「中世」「封建制」など、「武士道」にまつわるさまざまな概念は「国家主義」対「世界主義」、「国粋保存」対「脱亜入欧」といった対立軸を基調とする明治日本という特定の時代と場所においてまさに「創出」された、決して自明の概念ではないということが明らかとなろう。「武士道とは、即ち士林の輩の必ずや実践すべくして、又た絶えず此れが遵法を誨へられたる倫理の綱領なり。」「武士道とは日本社会の倫理だったのです。一言で言うなら、日本の倫理の理想が、それと起源を共にする武士階級の人々の手から、一般の人民たちに広まって、武士道を形作ったのです。
2026年06月04日
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東郷平八郎(1848年1月27日〈弘化4年12月22日〉- 1934年〈昭和9年〉5月30日)元帥がロシアのバルチック艦隊を打ち破ったことが西洋主導の植民地主義の風向きを変えた。日清戦争では初戦より「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦(高陞号事件を含む)、黄海海戦、威海衛海戦で活躍する。威海衛海戦後に少将に進級し同時に常備艦隊司令官となるが、戦時編成のため実際には連合艦隊第一遊撃隊司令官として澎湖島攻略戦に参加。日清戦争後に一時病床に伏すも、明治32年(1899年)に佐世保鎮守府司令長官となり、同34年(1901年)には新設の舞鶴鎮守府初代司令長官に就任した。日露戦争では連合艦隊を率いて日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、その名を広く知られることとなった。日本では、大胆な敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督として、国民の尊敬を集めた。
2026年06月03日
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多くの日本人はセオドア・ルーズベルトを親日家だと信じている。ホワイトハウスに畳を入れて柔道をやったとか、日露戦争では継戦能力のない日本のために講和の労を取ってくれたとか。しかし彼の本音はまったく違い、日本を叩き潰すことにあったのです。ロシアから一銭の賠償も取れない講和を押し付けるルーズベルトを本気で恩人と思ったりする。しかしルーズベルトの思いは一つ。米国にとって脅威の日本が賠償獲得でより強力にならないようにすることでした。反日という彼の衣鉢を継いだウッドロー・ウイルソンは日本を弱体化するために国際社会からも締め出そうとしました。彼は第一次大戦のパリ会議で五大国十人委員会を解散し、日本を追い出して英米仏伊の四か国委員会にして日本の発言力を弱め、さらにワシントン会議で日英同盟を破棄させ、日本を孤立に追い込んだのです。
2026年05月29日
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旧軍においては明石元二郎大佐の工作活動に百万円の国家予算を充当して、自由に使わせた。明石大佐は地下組織のボスであるコンヤ・シリヤクスなどと連携し、豊富な資金を反ロシア勢力にばら撒き、反帝勢力を扇動し、日露戦争の勝利に貢献しようとした。当時の国家予算が2億5000万であったことから、渡された工作資金は単純計算では現在の2000億円を越える額であった。明石の活動に国家的支持が与えられていたことがうかがえる。
2026年05月28日
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日本海海戦における日本の圧倒的勝利は、世界中を驚かせました。戦争遂行に自信を無くしたロシア軍は国内の革命運動もありアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の斡旋の講和会議を受け入れ、1905年9月にポーツマス条約を締結した。条約により日本は朝鮮の支配権をえました。ヴィルヘルム2世はアメリカ合衆国のセオドア・ルーズベルト大統領に対し、日露戦争が黄白人種間の人種戦争であることを訴えた。1905年9月5日に日露戦争の講和条約であるポーツマス条約が締結された際には、翌9月6日の『ニューヨーク・タイムズ』紙のインタビューにてヴィルヘルム2世はドイツ外交当局の意図を超えて黄禍を訴え、日露戦争の勝利によって列強間の門戸開放政策を崩しかねない日本をアメリカ合衆国の力で対抗させようと試みている。
2026年05月27日
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一九〇二年一月三〇日、日英条約は調印された。アジアでの単独の戦いに一締約国が介入させられたとき、各締約国は中立を守る。ただし、どちらかが二国との戦争に巻き込まれたら双方はお互いの支援を行う。英国との条約が、ロシアの同盟国フランスの手足を縛ることを信頼して、一九〇四年、日本はロシアの海軍基地、旅順港に奇襲をかけた。怒りに燃えたツァーリは、報復のためバルティック艦隊を回航させた。バルト海から北海、大西洋を南下して喜望峰をまわり、インド洋に出た艦隊は、朝鮮と日本を分かつ対馬海峡で東郷平八郎提督の待ち伏せに会い、壊滅した。ロシア側でウラジオストックに到着できたのは、一隻の小さな巡洋艦と二隻の駆逐艦だけだった。日本は二隻の水雷艇を失った。日本にとって、スペインの無敵艦隊(アルマダ)沈没に匹敵する大勝利であったが、西欧列強としてはアジア人から蒙った史上最悪の打撃となった。
2026年05月26日
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しかし、ほかの歴史家たちは、一世紀にわたる英米の確執の解消に英国が主導権をとったことを歓迎し、「偉大なる和解」と呼んだ。ベルリン生れのエール大学の歴史学者、ヘイジョ・ホルポーンは、緊密な英米関係の構築を、多分「世界史の観点からみて、英国外交の一大成果」と評している。アメリカが平穏になると、英国はアジアに向かった。朝鮮を脅かす在満洲のロシア陸軍、及び旅順とウラジオストックにいるツァーリの海軍を目の前に、日本は、ロシアの同盟国、フランスとバランスを保つ同盟関係を必要とした。ドイツは適切ではない。皇帝ウィルヘルムは東洋人を嫌い、徹底的に「黄禍(イエロー-ペリル)」を叫んでいたからだ。米国を見ると、ロシアが満洲で動いたとき、その門戸開放政策は災厄と脅威をもたらすことが証明された。英国が残った。日本人は英国人を、島国の国民でありながら世界の最大の帝国を築いた戦士の国民として賛美していた。
2026年05月25日
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十九世紀が終わりに近づくにつれ、英国は古いライバルたちのご機嫌をうかがい始めた。最初に接近したのは米国である。欧州列強のなかでイギリスだけが、一八九八年の米西戦争で合衆国を支援した。次にロンドンは、アラスカの国境問題をアメリカ側が有利になるよう解決した。五十年前に調印されたクレイトン=バルワ一条約の見直し交渉を始め、パナマ横断の運河の建設、運営、防衛の排他的権利をアメリカに譲った。その上で英国はカリブ海から艦隊を撤退させた。英国の歴史家、コレルリ・バーネットは書いている。「大西洋から太平洋への英国艦隊の経路は、今や合衆国の好意に委ねられている」、そしてアメリカのスペインに対する勝利で、「アメリカの植民地となったフィリピン、キューバ、プエルトリコは、アメリカ側に立つライバルたちのための保護関税で、徐々にイギリスの商人を閉めだす方向に向かっている」。
2026年05月22日
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日本は日清戦争には勝ったものの三国干渉を受けて、単独で自国を防衛することは難しいと考えた。政府としては英国と同盟するかロシアと同盟するかの選択をせまられた。ロシアと同盟しても、いずれロシアは満州を占領し、南下して朝鮮をも獲得するだろう。他方、英国はすでに香港を根城に清の南方に商圏を獲得しているのでそれ以上の領土的野心はないと読んで日英同盟に踏み切りました。英国も、ボーア戦争で疲弊しており東アジアにおけるロシアの南下を牽制するために日本の力を利用したいという思惑がありました。
2026年05月21日
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日本が徳川の215年にわたる鎖国を経て、開国に踏み切った時、眼前にあった外国は米、英、露、仏の四か国でした。ロシアは西欧列強と異なり、海洋でなく陸路東進して領地を拡大しました。ロシヤがこの植民政策で最初に直面した巨大国家は清国です。清国に敗れ、支配したアムール川流域の支配権を放棄したのは1689年の「メルチンスク条約」です。しかし18世紀に入るとピヨートル大帝の下でロシアの近代化が促進され海運力も強化され対日通商の必要性も拡大しました。
2026年05月20日
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