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翌日、父親が昨日来た連中は「どこどこの誰々だったよ」と母親に報告していた。その時は、あまり細かい事はわからなかったが、父親が生地を作ってもらっている機屋(はたや)の数人がたまたま、会社に用事が合ってきた際、会社のシャッターが降りていたので、夜逃げしたのではと疑って自宅に確認に来たのだそうだ。確かに平日に何の告知もなく社員旅行に行ってしまったこちらにも落ち度はあるが、それを夜逃げだと思って怒鳴り込んでくる方もどうかと思う。結局、その機屋とはそれ以降取引はなかったそうだがそのぐらい、業界が困惑していた事はまちがいない。そんな事もあり、わたしは将来繊維以外の道にすすむ事をこの時から意識していたかも知れない。自宅で商売をやっているとこんな事もあるんです。で、こんな思いまでしてどのぐらい儲かっていたかと言うとよく父親は今でも、「一度もいい思いをした事がない」と言うけど、あの当時で今のサリーマン並みの給料はもらっていたと思う。当時は、大卒の初任給が2~3万だったと聞いているの今の中国ぐらいの例えると分りやすい。だから、相当もらっていたんです。話に聞くにあるオーナー社長なんかはみかん箱一杯の現金を床下に隠していたぐらい儲かったそうだ。なんてたって、「ガチャマン」だものつづく・・・・
December 26, 2004
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見た事も、話した事もない大きな恐い顔したおじさんが3人も玄関口ですごんでいる。また、口のききかたがどう見ても恐い。けんかを売る時の口調なのは幼い子供でもわかる。母親から父親が社員旅行に行く事を聞いていたので「会社の旅行に行ってます。」と答えると「本当か?」と疑った感じで聞き返されたので「はい」と言うと3人で顔を見合わせた途端やや表情が弛んだかと思ったら、そそくさと何も言わずに出て行ってしまった。私はその後もしばらく、その場に立ったままぶるぶる震えていたがしばらくして、「あ~よかった!」と思って横を見ると妹と弟が、母親に怒られた時のような表情でなみだ目で立っていた。その後、母親が買い物から帰ってきて「何も用事はなかった?」と聞かれてすぐに恐いおじさん達が来て父親の事を聞かれた旨を伝えると「だれだろうね?」と心配そうに不思議な顔をして「そう、たいへんだったね!」と私たちをなだめてくれた。翌日母親は、旅行から帰ってきた父親に「こんな人たちが来たらしいわよ」と伝えると「なに~!どいつらだ?」とにこやかな父親の表情が一変して強面の顔にかわった。つづく・・・・
December 19, 2004
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私が小学校の高学年の時、昭和48年秋オイルショックが日本を襲った。同年10月、第4次中東戦争の勃発によって、産油国が原油価格引き上げや禁輸措置を発表。世界は石油危機の恐怖に陥った。なかでも原油に関して輸入頼みの日本では、たちまち産業界に重大な影響が及んだ。繊維産業を戦後ずっと右肩上がりで来ていた景気にかげりが見られた。私の実家のある一宮市には、繊維関係の会社ばかりが集まった団地があり、団地ができた当初はどの会社も好景気で活気があった。ところが、このオイルショックの時に初めて団地内の繊維会社の何社かが会社のシャッターを降ろした。繊維の流通は、総ての行程が分業でより原料に近い職種を川上より小売に近い職種を川下と位置付けられる。また、日本の戦後復興から商習慣は手形が当たり前で各得意先から受け取った手形に裏判を押して各仕入先に廻す。従って、受け取った手形が不渡りになると仕入先に倒産になり差し押えになる前に少しでも回収できるものを回収に行く。そんなある日、母親が買い物に行くと言って、兄弟3人で留守番していた。「ブ-」とブザーがなり「は~い」と玄関に出るとそこに作業服を着た強面のおじさんが3人自宅玄関で「おい、おまえのおやじは何処行った!」と怒鳴りこんできた。つづく・・・・
December 12, 2004
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祖父の自宅の前は、小高い山の上にあり、隣の敷地は鉄道会社が運営する遊園地で屋外プールがフェンス越しに目の前にあった。祖父の所には、遊園地側から遊園地の無料招待券が配られ、私たちがその招待券で夏休みの朝一番から閉場まで遊園地内の屋外プールで遊んでいた。私たち従兄弟同士で子供だけでプールで遊んでいる時、昼ごはんや売店で飲み物を買ったりする時、敷地の境にはり巡らされているフェンスの所(フェンスの向こうは祖父自宅の庭が見える)まで行き大声で祖母を呼びお金をもらう。たとえ雨の日でも、たとえ肌寒くても、唇が紫色になっても毎日プールで遊んでいた。また、遊園地内の乗り物は招待券に何枚かついている乗り物券で遊んで、券がなくなると係りのお兄さんやお姉さんに「乗せて!乗せて!」とねだって、タダで乗せてもらう事が常だった。(係りの人は、アルバイトの学生がほとんどだった。)祖父の所でいつも楽しみにしていた事は、遊園地の他に祖母と買い物に行く事だった。私鉄で、20分大阪の心斎橋、灘波、本町に祖母と一緒にデパートに行って、欲しい洋服を買ってもらえるのが大変うれしかった。1970年代、VANの最盛期の時で靴下が一足700~800円でなかなか親には買ってもらえず、「ここぞ!」とばかりにトレーナーやオーバーオール、ボタンダウンを手当り次第に選び、祖母はにこにこお金も払わず商品を受け取っていた。いま思うと祖母は、外商扱いで支払いはツケだったのだと理解できるが、その時は何でお金も払わないのに商品が買えるのか不思議だった。だが、この買ってもらった商品を休みが終わって実家に戻る時が最大の難関で母親のチェックが入る。「また、こんな服買ってきて」「これは、着ちゃいけない」とか言って隠してしまう。例えば、それはオーバーオール。今でこそ、石ちゃんとか着ていて当たり前のように普段着となっているがではじめの頃は、人があまり着ていない事を理由に母親に怒られるので、なんとか見つからないように持って帰って押し入れに隠していた。つづく・・・・・
December 5, 2004
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