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きのう11月8日に京都国際マンガミュージアムであった、養老孟司氏と内田樹氏の対談をTwitter中継をしたのですが、自分で読み返してもなんのことやら、というひどい状態だったので、もう少しまとめた感じで再録してみようと思います。 ただ、録音をとっているわけではないので、対談によって自分が何を考えたのかというまとめみたいなものですので、記録としては捉えないでくださいね。お二人の発言は「」付きで、記憶により補完は“”で区別しておきます。 さて対談のタイトルは『世界に冠絶する日本のマンガ』となっておりましたが、内容は予想通りというか期待通りというか、直接マンガに触れることは少なくて、内田さんの14日に発売になる『日本辺境論』を中心に、養老さんは既に原稿を読まれている風で、それを念頭に話は展開し、日本の言語、あるいは思考形態が世界でも稀な部類であり、マンガが日本で花開いたのもそこにあるのではないかといった主旨になっております。 冒頭で養老氏が「日本人の多くはDNAを解析すると“先祖は”アフリカ系の3種類の新人類に分類される。」“ネアンデルタール人が旧人類” その「新人類が3回の期間にわかれて、世界に移動したことがわかっているが、その3回それぞれの祖先のDNAを引き継いだ人が残っているのは日本だけ」だそうです。 このDNA話がその後の何の話に結びついたかは失念しました。 多分辺境つながりだと思います。 内田:「失読症(という障碍?、病気?)から“漢字だけが読めなくなる、かなだけが読めなくなる、あるいはその両者という症例で”脳において漢字を処理する部分とかなを処理する部分が違うということがわかっている。」「マンガが発達したのは“日本人のこの言語文化と深くかかわっていると思う。」「土語(土着言語=万葉仮名?)と“割り込んできた”帰来語(外来語=漢語?)の折り合いをつけた言語体系になった」 養老:「だから送り仮名は難しくなった、「美しい」なのか「美くしい」なのか、“元来異質なものだからルールでしかない”」 “話は飛ぶのですが、ノーベル賞というものに世間が騒ぐのは不思議でならなかった。それが辺境論ではたと気がついた。これもルールでしかない。ある日(まだ東大にいらっしゃった時、利根川さんだったか)受賞された時に電話がかかってきて「また京大ですよ」という言葉にカチンと来て東大は賞を出す方でもらう方じゃないんだ、って言い返したんですよ” “これはね、マナーの話なんです。「マナーといのはヨーロッパの貴族が決めているもので、ナイフを右手、左にフォークを持って食べる。でもそれが民衆が貴族にあこがれて「マナー」として真似を始めるとある日それをひっくりかえしちゃう。貴族という仲間内の符牒なんです。“これを知っているものが貴族なんだよ”という。」 「だからオリンピックでもそうでしょ?水泳で(鈴木大地が)潜行で金メダルとっちゃうとルールを変えちゃう。ジャンプでも(板や飛型の)ルール変えちゃう。」 “ルールやスタンダードを決めるのは我々なんだ、と” 内田:“不思議といえば、水戸黄門”「毎週毎週“同じことをやっていて”いったい日本人は何を確認したいのだ、と。黄門様は役はどんどん役者が変わっていく、おじいちゃんなんで(笑)、その中で今はどんどんその役者に人間味がなくなり、歌舞伎の役者のように記号化していっている。印籠にしたって、なぜそれがどうした死ねばもろともと逆上しないのか、“不幸な目にある民衆側は”「ほんとうにこのおじいちゃんが水戸の黄門様?!」と驚く定型シーンがあるのに、悪役側は何の疑いもなくひれふしちゃう」 「これはね、ドラマだけど“我々の属する”学会と同じじゃないか、と。断定的なものいいで葵のご紋を出すとみんなひれ伏すわけですよ。」 「例えば、「フェミニズムは終わった」とか僕は言っちゃったわけですよ、期待も込めて。そしたらある時新聞者の人が来て「フェミニズムは終わっちゃったわけですけ・・・」とやって来る、「おい、おい!」ですよ。」 “それとか”「権威者の名前を持ち出して、ラカンはこう言っている、とかストロースは、とか想像ですよ、全部記憶してるわけじゃない、でもだいたいは当たってるけどね、そういうとはは~っとなる、よく知らなくても、外来の権威にフェイクであっても“弱い”わけです。」 “何でそうなるかというと”「自分たちがそうやってきた」“だから同じことをされると“自動的に”這いつくばる。」 養老:「自分たちが水戸黄門“のドラマと同じこと”をやっている。」「ノーベル賞も同じことですよ。科学としての価値観はヨーロッパが決める、だから“内田さんの言われる”どうせ辺境なんだからそれで(水戸黄門で)行きましょうよ。辺境という自覚の上でこれからどう行くかという方向で。」 “それに関連してね”「わたし京都賞という賞の審査やっているわけですよ、京セラとかがバックアップしてる。あれを始めたらですね、小柴さんとか田中さんとかがノーベル賞とっちゃった。ノーベル賞というのは本来「理論」なんですよ。それがね、小柴さんや田中さんというのは技術なんです。それでやられたなー、と。“京都賞はそういったものに賞を出していこうとしてたわけですが、それにも割り込んできた。”どう続けて行くか“悩んでいるのです”。」 内田:「“世界標準ていうことですが、かつて「鴻池組がKOUNOIKEとやった。なんでもグローバル化ということでローマ字にと。あれは間違いだ。柔道も剣道もグローバルなスポーツとなって日本が勝てなくなってる。“オリンピック委員会などに権威をとられてしまって”世界標準がおかしくなっている。“それと比較すると”茶の湯や能楽、これは世界的広がりがあまりないので、世界標準といってもあれですが、マンガは日本が世界標準として期待できる。」 養老:「我々日本人が辺境の人間として癖になっている“ものの考え方捉え方”は思想や理屈を“表現として”書く時に日本語じゃないと書けない。例えば 藤井 直敬さんの『つながる脳』にある「脳は二度と同じ形をとらない」なんていう表現は“ヨーロッパの理科系の人には理解不能なんですよ。我々にはわかるけれども。”同じになることがないならば検証不能じゃないか、それは科学じゃない、と海外ではこうなる。」 「日本人は“もっと”日本のルールをというものを考えてみてはと思う。わたしなんかは、“きょうは議員先生がいらっしゃるけれども”よく選挙に行って投票しなさいと言われますよね、“社会を変えるのは政治だと言われるけれども”でもそれは違うと、社会を変えるのは我々ひとりひとりの行動だと思う。紙切れにエンピツで人の名前を書くだけで社会なんてかわりっこないと思うのでうけど、少数派なんですかねー。」 内田:「日本には面従腹背というものがあった。あるフレームの中ではきちっと言うことを聞く。でも現実には“自らが”傷つかないように行動する。“これは外来文化を受け入れながらも自分たちの生きやすいように溶け込ませて行く辺境の民の知恵だと思う。”」 「僕のやっていることなども、知的な言語を生活言語に翻訳するよな仕事で、レヴィ=ストロースは“難しいことを書いているが”実はこういうことを言ってますよ、とか言うことで翻訳なんだからそれをまた“原語”のフランス語やその他にすることはできない。外来と土着を架橋するという、大事なことなんだけれど、海外でもこちらでもあまり評価されない。」 養老:「面従腹背はやまとことばでは建前と本音ということだけれども、“実は”建前がくずれると本音もぐずぐずにくずれっちゃう。」「韓信の股くぐりということわざがあるけれど、“わたしは戦中の人間なんで天下無敵というと敵がいないほど強いと教えられて来たが、面従腹背すれば天下無敵ではないか、と”(←このへんウソかもしれないので…講演の記録ある方教えてください)」 内田:「そういう意味で憲法9条2項は天下無敵ではないかと。歴代首相はこの憲法9条を“運用(解釈?)”して60年平和と海外派兵をしなくて済んできた。現実的有効性のある非現実的法律は現実的有効性があるということだ。」 「僕と養老先生の共通点といえば、すぐ謝る。過剰にあやまる。立場上のことであればいくらでも謝れる。“養老さんも大学闘争の時謝って入らした。”わたしも、もう周りの人から笑いがおこるぐらい劇場的に、時には土下座したこともあるくらい謝ってしまう。謝ることができない人があるが、あれは困る。大変だ。」 養老:「女房には謝れなかった(笑)外でいっぱい謝っているので、うちではいいじゃないか、と。でももうそれも「公的」と考えるようにして(笑)“今じゃもう謝っちゃう”」 養老:“言語の話にもどしますが”「“日本人は”漢字を見る時に“映像情報で受け取っているので”感情的になっている。だから“音である”訓読みが重要になってくる、文化として。」 内田:「中華の辺境である国々では、“漢語の文化の影響を受けて”各国それぞれ漢字と“音”のハイブリッド言語を発明したが、韓国ではハングルなど音の言語となりいまでは残っているのは日本だけになった。表音文字と表意文字のハイブリッドな文字言語は胸に“直接”突き刺さる。こんなパフォーマンスの良い言語を“日本人は”大事にしない手はない。」 「以前“朝の10分間読書運動なるものがあって、ばかにしていたんだけれども、あれよあれよと全国的に広がっていく。10分で終わり!なんて言われたら、おいおいあとちょっと犯人がわかるのにっ!てなるじゃないですか、普通。だけど実はこれ文字を読む、本を読むためのものじゃなかった、字を「見ること」自体が大事なんだと気がついた。図像情報処理する能力を高めるための訓練になっている。」 (このへんは『町場の教育論』で書かれていたことだと思う。) 養老:「ロシア語の同時通訳の人で“調べたことがあって”、音声の同時通訳じゃなくて、文字のロシア語の文を見ながら日本語にしてしゃべっていく作業とその逆とを比較すると7倍日本語文からの方が効率が高い。それだけ音声系だけの言語と画像処理系のものでは違ってくる。」 内田:「マンガのことで言えばわたしたちはコマ割りを2ページでわっと無意識に全体像と流れを読み込んでいる、それからフキダシの文字を読んであらためて「わっ」とか驚いている、既に先を見ているのにそういうことをやっている。」 「養老さんが韓流ドラマが苦手というのは、少女漫画との共通点がある。コマ割りの流れのわかりにくさというのもあるが、“画像処理だけではすまない部分、”“ストーリーとしての”予定調和が事前情報として入っている人には“感情移入しやすいようにできている”。」 「村上春樹文学がなぜ世界中の人に受け入れられるかというと、それはデジャブが文学に入っているからで、各国の民族も違う人に感想を求めるとだれもが「自分のことが書いてある」と答える。」「“映像情報と同じく”無意識レベルの入力がしやすい文章が世界性を獲得している。」 養老:「“内田さんの書くものは”最初は突拍子もないが、そのうち誰もが聞いたことがあるような気にさせ、さらに自分も同じようなことを考えていたと思わせ、ついには自分も前から同じことを言っていたと吹聴するようになる。」
2009年11月09日
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