秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

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2017.01.17
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アマゾン・プライム・ビデオで視聴。

今はどうか知りませんが、大学1年生の頃、学校へ行くのが面白くなくて3つ先の駅の大学に行く手前の中目黒で途中下車してたまたま入った目黒区立中目黒駅前図書館に漫画のコミックスがたくさん置いてありびっくりするとともに、これは宝の山だと思い、たまに授業をさぼってコミックスを読みふけるようになりました。当時は確か漫画喫茶は無かったと思います。

そんな中にブラック・ジャックもありました。がきデカ、マカロニほうれん荘、月とすっぽん、750ライダーとか私の好きだった既存の少年漫画とは一線を画したヒューマン系のストーリーに感動したものです。

何年か前にアニメ化されたのを知っていましたが見ませんでしたが、今回アマゾンの無料視聴で見ています。少々内容が現代風にアレンジされている部分もあり、内容に古めかしさは感じられず、各作品からはかえって自分が若い頃にはわからなかった手塚治虫先生の優しさや生き方の教えが伝わる名作のアニメだと思います。

よくもこれだけ濃い内容を毎週読みきりで仕上げていかれたのかとびっくりします。まるで古典落語の人情話の名作を聞いているようで見終わると感動とともに爽やかな余韻が残ります。医龍やドクターXもこの作品が無ければひょっとして誕生しなかったかもと思うと感慨深いです。オススメの作品です。

たまたまYouTubeにアップされているのを発見。



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Wikipedia:ブラック・ジャック
『BLACK JACK』(ブラック・ジャック)は、手塚治虫による日本の漫画作品。『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)にて1973年11月19日号から1978年9月18日号にかけて連載したのち、1979年1月15日号から1983年10月14日号にかけて不定期連載された。全242話。略称はB・J。
概要[編集]

読み切り連載形式になったのは、編集長の壁村耐三の編集方針であり、当時の『週刊少年チャンピオン』の連載作品すべてに適用されていた[1]が、読み切りでないと手塚が流す回をやることから、それを防ぐためという話もあった[2]。
『週刊少年マガジン』で連載した『三つ目がとおる』とともに、手塚治虫の少年漫画における1970年代の最大にして、少年漫画家としては最後のヒット作である[3]。また、本作品によって現代まで続く「医療マンガ」のジャンルが形成されるきっかけになった金字塔でもある[4]。
連載の推移[編集]
1960年代終盤の劇画ブームや『週刊少年ジャンプ』の新人発掘路線の影響をまともにうけた手塚治虫は、ヒューマニズムを描く古い漫画家というレッテルが貼られ、得意にしていた少年漫画の分野でヒット作品を出せなくなっていた。手塚本人が言う「冬の時代」(1968年-1973年)であり、少年誌での連載が激減し、読み切りが増加。少年誌において実験作を執筆したり、青年誌に進出するなどして方向性を模索するが、1970年には青少年向けの性教育を意図して執筆した『やけっぱちのマリア』が糾弾を受け、1973年には虫プロ商事と虫プロダクションが倒産し、まさにどん底にいた。
そんな中『週刊少年チャンピオン』編集部は、手塚に漫画家生活30周年記念作品(ただし、1973年当時手塚はデビュー28年目である)として「かつての手塚漫画のキャラクターが全部出る作品」の企画を依頼する。編集部内で『週刊少年チャンピオン』編集長の壁村耐三が担当編集者の岡本三司に「死に水をとろうか」と相談をもちかけたくらいの状況に追い込まれていた手塚はこれを了承する。手塚は以前に『鉄腕アトム』「ひょうたんなまず危機一発」(1965年)において同様のスターシステムでのオールスターを執筆していた。
間もなく、かつての手塚漫画のキャラクターが次々にブラックジャックという外科医にかかるという大体のプロットが出来上がる。ブラックジャックというキャラクターには医学生だった頃の手塚自身が反映され、また劇画ブームに対抗する(あるいは取り込む)意味でアウトサイダー的な存在として描かれた。『手塚治虫漫画40年』(秋田書店)によると「手塚漫画は正義の味方的な主人公が多いので、あえて、アウトサイダーな男の生き様を子どもにもわかるように描こうと考えた」。初期構想ではブラックジャックはあくまで狂言回しであり、メインはオールスターの方にあった。連載が安定化した後も時々ブラックジャックが狂言回しになるのはこのためである。
担当編集者の岡本によると「最初の予定では、4・5回連載して最後は無人島でエンディング…」「一種のバラエティ番組的なニギヤカシ作品のはずだった」ことからあまりやる気が出なく、手塚にタイトルが決まったか聞いた際にブラックジャックと言われ「先生、サブタイトルじゃなく本タイトルを教えてくださいよ」と失言するくらいのゆるい扱いであり[5]、いざ連載が始まっても、巻頭カラーもなく、地味な扱いが続いた。
連載開始時人気は低くほぼ最下位であり、担当編集者の岡本は編集長の壁村から「どうする?」と聞かれ困ったというが、その後、じりじりと順位を上げ、50話「めぐり会い」で2位に浮上、以降軌道に乗った[6]。
なお、『週刊少年チャンピオン』編集長の壁村耐三は反応がなければ3回で辞める約束だったともいい、手塚自らが「これが最後」と持ち込んだ企画だったとも証言[7]しており、編集者と編集長という当事者同士の間で話が全く食い違っている。なお秋田書店自体は前述の『手塚治虫漫画40年』で、編集部が企画を持ち込んだ説を取っている。
当時の『ドカベン』『がきデカ』『マカロニほうれん荘』といった超ヒット作には及ばなかったものの、10年間にわたり安定して柱となり、『週刊少年チャンピオン』の黄金時代を支えた[8]。「人生という名のSL」で定期連載は終了するが、その後も『週刊少年チャンピオン』誌上で散発的に13本発表された(最終作品は「オペの順番」)。
手塚の息子である手塚眞によると、誰にも立ち入りを許さなかった手塚の仕事部屋に、担当編集者が無断で入ったことに怒った手塚が連載終了を宣言したという[9]。これとは別の理由として、ロボトミーの描写に関する抗議事件の後、医学的な整合性について指摘を受けて描きづらくなったことを生前の手塚が書き残している[10]。

アメリカでは1995年からVIZ社が発行した月刊漫画雑誌『MANGA VISION』に連載された[16]。
医学描写[編集]
本作には、医学的リアリティと大胆なフィクションが並存しているが、これは医学的事実よりも物語性を優先した、手塚の作劇術の一環である。異星人やミイラ、幽霊、感情を持つコンピュータを手術するなどという突飛な設定の話も存在する。架空の病気も登場したほか、ブラックジャックやピノコの医学的設定も現代の医療技術をも超越している。ブラックジャックがスターシステムで登場する別作品『ミッドナイト』では、ブラックジャック本人に人間の脳交換手術について「その様な事は漫画だから可能だ」と言わせている。手塚治虫自らが語る所によると、当時東大医学部の学生から嘘を書くなと抗議の手紙をもらったとの事である。それに対して手塚は、東大生ともあろうものが、漫画に嘘があることすら知らないのかとコメントしている[17]。
手塚は医師免許を持ってはいたが、医学的知識は昭和20年代(1945年から1954年)にとどまっており、外科医としての臨床経験がほとんどなかった[18]。ブラックジャックの連載に当たり、医学書を買い込み独学したり、医療関係者に取材してはいたものの、劇中で治療困難な症例として扱われているものが、実際には連載当時の医療技術でも治療可能な症例であるというミス[19]や、医学用語のミス[20]を多発していた。中でもロボトミーに関する描写では糾弾を受け、新聞に謝罪文を掲載、連載中止の話まで出たという[21][22]。
同時期に発表された医療漫画では、執筆時点での最新の知識を取り入れた『夜光虫』(柿沼宏・篠原とおる)なども存在するが、手塚は自らの作劇術を崩さなかった。手塚は「ブラック・ジャックは医療技術の紹介のために描いたのではなく、医師は患者に延命治療を行なうことが使命なのか、患者を延命させることでその患者を幸福にできるのか、などという医師のジレンマを描いた」としている[23]。





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Last updated  2017.01.18 00:05:42


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