秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

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2018.01.01
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新年明けましておめでとうございます。


元旦に見た小林一三さんの前半、後半から成る2時間ドラマです。NHKオンデマンドで視聴。

約30年前に赴任した山梨では東武鉄道の根津嘉一郎さんとともに、阪急、東宝の小林一三さんは地元出身の財界人として尊敬されていました。当時、新書で小林一三さんの生涯をたどった記憶があります。

来年の大河ドラマの主役の阿部サダヲさんがこのドラマの主役を務めていることを知り観ました。幼くして両親と別れた主人公がよき人たちと出会い、アイデアを駆使して成功を収める生涯をコンパクトに描いていて、新春に見るにふさわしい元気の出る華やかなオススメの作品です。欲を言えば、政治家としての活躍よりも、学生時代に地方新聞に小説を連載していた経緯、阪急、宝塚での沿線での住宅開発や、宝塚歌劇成功への道をもう少し詳しく描いてほしかったです。

またこのドラマを観ていて、大林組、近鉄、トヨタ等を育てた北浜銀行の岩下清周さんにとても興味を持ちました。企業家を積極的に育成する経営は実質的な日本で最初のベンチャーキャピタルだと思います。いろいろ調べてみたいです。





芸者さんと付き合っていたにも関わらず別の女性と結婚した小林一三を見咎めて自分だけいい思いをして他人のことはどうでもいいという考えが貧乏くさいと忠告したお手伝いさんの言葉を受けて芸者さんと結婚した小林一三の素直さに学ばねばと思いました。


岩下清周。仕事中、小説を書いていたダメ社員の小林一三の人生を変えた上司です。


街の貧乏発明家。ゴムの発明が岩下清周の目に留まり、後に大会社の社長になります。





三越の少年音楽隊に対抗した宝塚少女歌劇。

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■参考リンク
Wikipedia:小林一三
小林 一三(こばやし いちぞう、1873年(明治6年)1月3日 - 1957年(昭和32年)1月25日)は、日本の実業家、政治家。阪急電鉄・宝塚歌劇団・阪急百貨店・東宝をはじめとする阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の創業者。号は逸翁、別号に靄渓学人、靄渓山人。旧邸雅俗山荘は逸翁美術館。
日露戦争後に大阪に出て、鉄道を起点とした都市開発、流通事業を一体的に進め、六甲山麓の高級住宅地、温泉、遊園地、野球場、学校法人関西学院等の高等教育機関の沿線誘致など、日本最初の田園都市構想実現と共に、それらを電鉄に連動させ相乗効果を上げる私鉄経営モデルの原型を独自に作り上げた。
ここであまり知られていないが、小林は東京急行電鉄の始祖である田園都市株式会社[13] を実質的に経営していた。1918年(大正7年)に渋沢栄一らが創設し、田園調布[14] を開発した事でも名高い田園都市株式会社の経営を小林は、名前を出さず、報酬も受け取らず、日曜日のみ、という約束で引き受け、玉川、調布方面の宅地開発と鉄道事業を進めたという[15][16]。
つまり、田園都市株式会社から鉄道部門を分離した目黒蒲田電鉄、及びその姉妹会社である東京横浜電鉄は、五島慶太に経営を引き継いだ後、小林の手法を用い東横線沿線に、娯楽施設やデパートを作ったのである[17]。

北浜銀行の岩下清周物語(関西圏の鉄道史3-2)

Wikipedia:岩下清周
岩下 清周(いわした きよちか、安政4年5月28日(1857年6月19日) - 昭和3年(1928年)3月19日)は、実業家。銀行家としてベンチャー企業への積極的な融資を行った。息子は、カトリック司祭で哲学者の岩下壮一、清周本人も聖公会に所属したクリスチャンであった。
来歴・人物[編集]
信濃国松代城下代官町(長野県長野市松代町)に松代藩士の岩下佐源太の次男に生まれるが、ほどなく実父が死去したため、三歳で叔父の岩下章五郎の養子となる。松代藩兵制士官学校を卒業すると上京し、慶應義塾、商法講習所(現一橋大学)を中退し、三菱商業学校(後の明治義塾)卒業。
1878年(明治11年)三井物産入社、同社パリ支店長等を経て、三井物産創立者である益田孝らと品川電灯を設立、同社社長就任。1893年(明治26年)三井銀行本店副支配人、1896年(明治29年)同大阪支店長時代には大阪・関西財界での強力な人脈網を中上川彦次郎に批判され衝突、1897年(明治30年)北浜銀行設立。同行常務、頭取を歴任。「日銀幹部ストライキ事件」では、中上川が支援した山本達雄総裁らに反発し、鶴原定吉、植村俊平、藤尾録郎らの免職された東大出身者らを積極的に住友など関西財界に紹介した。

1914年(大正3年)、大林組や大軌などの営業不振による債務焦付きで、北浜銀行が破綻し逮捕された。1920年(大正9年)温情舎小学校(現不二聖心女子学院中学校・高等学校)を設立した[1]。





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Last updated  2018.01.02 10:31:02
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