秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

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2021.03.17
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稲村亜美さんで思い出したプロ野球ニュースですが、プロ野球ニュースが始まった1976年は高校2年生の頃で、前年最下位の巨人の快進撃に夢中でした。

帰宅すると夕方6:00からニッポン放送ショウアップナイターで、宮田アナ、枇杷坂アナ、深沢アナの実況で、関根潤三さんの解説を聴き、7時になると日本テレビにスイッチし、試合が長引けばまたラジオに戻り、勝敗を確認し、巨人が勝てばニュースセンター9時の福島幸雄アナと、佐々木信也さんのプロ野球ニュースでおさらいし、ご丁寧に翌朝スポーツ新聞を買って学校で読んでました。プロ野球に費やす時間が半端で無かったです。

今、当時の佐々木信也さんのキャスターぶりをYouTubeで観なおすと、軽快で親しみやすかったと思います。いつまでもお元気で活躍していただきたいです。

2023.7.23リンク切れにより差替え・内容の追加。




■参考リンク
Wikipedia:佐々木信也
佐々木 信也(ささき しんや、1933年10月12日 - )は、神奈川県藤沢市出身の元プロ野球選手(内野手)、野球解説者、スポーツキャスター。株式会社佐々木信也事務所代表。シーズン154試合出場は飯田徳治、杉山光平と共に日本タイ記録[1]。
引退後
引退後は、26歳でプロ野球解説者となる。当初は日本教育テレビ(のちにNETテレビ)、1964年からは日本テレビと専属契約を結び、出演した。
1976年4月から1988年3月まで、フジテレビ「プロ野球ニュース」(1987年度は「FNNニュース工場『プロ野球ニュース』」→「FNN DATE LINE『プロ野球ニュース』」)第2期初代総合キャスター。スポーツ選手経験者が司会を務める先駆的番組として注目を集めた。番組では「元野球選手が解説をする」スタンスではなく、あくまで「司会者」に徹した。解りやすく聴きやすい語り口、ソフトなイメージと時折見せる鋭い指摘、湘南高→慶應義塾大卒に恥じないインテリジェンスで、人気を博した。


Wikipedia:プロ野球ニュース
放送再開までの経緯
『プロ野球ダイジェスト』を放送終了した日本テレビは1965年11月『11PM』の放送を開始。瞬く間に人気番組に駆け上り、23時枠は同局の一人勝ち状態が続いた。これに各局もより報道色の強いワイドショー番組等で対抗するものの、すぐに『11PM』以上のお色気路線に転向したNET(後のテレビ朝日)の『23時ショー』が辛うじての成功例で他は全く歯が立たない状態だった(1969年4月から約3年間、フジテレビは関西テレビや東海テレビとの3社共同制作〈キー局は曜日ごとの交代分担制〉の芸能ニュースを主軸とした『テレビナイトショー』→『トゥモロー』が放送されていたが、その後打ち切られ、ドラマ再放送や映画などで穴埋めをしていた。またこの間、スポーツニュースはおおむね5分程度のものが主であった)。
しかし『11PM』の視聴率が1975年頃から落ち始め、それに合わせるかのように地方局が相次いで『11PM』のネット放送を打ち切った。その状況にプラスして「万年下位」と言われた広島東洋カープが初優勝、阪急ブレーブスが初の日本一、一方で読売ジャイアンツが球団史上初の最下位からの立ち直りを期して張本勲を補強するなど1976年のプロ野球の盛り上がりが開幕前から期待されていた。
それに合わせるかのように2年前の1974年にNHKの『ニュースセンター9時』が始まり、NHKのニュース番組で初めてスポーツコーナーが設けられた。プロ野球の結果と途中経過の速報や大相撲の結果を電光掲示板で伝えるなど当時としては画期的だった。また、1974年10月14日にはこの日をもって17年間の巨人での選手生活を終えた長嶋茂雄が、新調した紺のスーツを着てスポーツコーナーに生出演し、当時スポーツコーナーを担当していた福島幸雄のインタビューに応じた。これについては福島自身が長嶋に対して生出演の依頼を行い、それに留まらずこの日のトップ項目にするように粘り強く頼み込み、キャスターの磯村尚徳が「やりましょう」と、「長嶋引退」のニュースをトップに据える決断を下した。この一連の取り組みにより、『ニュースセンター9時』がスポーツ情報の面でも一躍リードする存在となり、その分日本テレビやフジテレビをはじめ民放のスポーツニュースが充実していなかったことが、浮き彫りとなった。
また、1970年代当時のプロ野球中継は日本テレビがいわば独占で後楽園球場で行われる巨人戦の試合を放送し、他の放送局では後楽園以外の球場で行われている試合を中継するというのが1つのパターンとなっていた。
そのような状況下で1975年の秋、鹿内信隆会長の命を受けてフジテレビ社内では「スポーツニュースのワイド化」の構想が練られていた。
当時フジテレビにおけるスポーツ制作の部署は「報道局スポーツ部」となっており、部内の上層部に野球に詳しい人材が多くいたが、その中の一人が、かつて地上波時代(第1期)の『プロ野球ニュース』のキャスターを務めた鳥居滋夫であった。アナウンサーをしていた頃は初期の競馬中継などスポーツ中継を担当していたが、この時はアナウンサーからスポーツ部の中心的存在となっていた。
社内では「プロ野球ニュース」の立ち上げに関連した会議がいくつか行われ、準備は進んでいた。1975年に編成部から報道局スポーツ部に「あの『プロ野球ニュース』を夜11時台に復活させたいと思うのだが……」と連絡が入り、早速、社内でプロジェクトチームが立ち上がった[2]。
また、その際に
全試合(12球団)をまんべんなく扱うこと
通常の野球中継と同様に解説者を必ず付けること

打球音や歓声など現場の音(いわゆる自然音)を活かすこと
球団担当記者を設けること
FNS系列と協力体制を結ぶこと
という番組における明確な方針が決められた。
特に、最大の問題は「キャスター」を誰にするのかであった。いろいろと名前が挙げられたが、平日には野球解説者の佐々木信也に、週末には、かつて文化放送でもごく数年、プロ野球中継実況を担当したことがある土居まさる[注 3] と決まった。特に佐々木の起用は相当な議論の末の決断であり、左記2名のほかに、高島忠夫やスポーツ評論家としても著名だったロイ・ジェームス、さらには裏番組『11PM』から大橋巨泉[注 4]をヘッドハンティングすることも検討された[3]ほどだった。

以下略

なぜ、佐々木信也キャスターは降板したのか? 関係者の証言から綴るドキュメント「オレたちのプロ野球ニュース 野球報道に革命を起こした者たち」が刊行[2017/3/13 10:41] ネタとぴとぴ
 1976年4月1日、その後の野球報道に革命を起こすことになる番組が、フジテレビでスタート。当時の平日23時台は、お色気路線を前面に出した「11PM」(日本テレビ系)の牙城。その日本テレビの解説者だった元・プロ野球選手の佐々木信也さんをメーンキャスターに起用した「プロ野球ニュース」は、打倒「11PM」の切り札として期待されていました。
 それまで巨人戦報道一辺倒だった他局のスポーツニュースとは一線を画し、全12球団を平等に扱うことをモットーに制作し、瞬く間にプロ野球ファンの支持を得ることに成功。シーズン中はもちろん、オフの企画にも力を注ぎ、「わがふるさと」を始め、数々の名企画を生み出します。順風満帆に船出した同番組は、放送開始12年後の88年に、これまでの番組の最大の貢献者・佐々木信也がキャスターが降板する転換期を迎えます。
以下略。





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Last updated  2023.07.23 23:13:08


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