秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

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2021.09.30
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1986年11月伊豆大島の三原山が噴火したときは、千葉市で働いていました。会社の館山営業所長が館山からでも噴火が見えたと、後から聞いてびっくりしたものです。

最初は噴火で観光誘致しようと目論んでいた地元の人たちも、11月21日の大噴火で観光客とともに急遽全島避難に切り替わりました。

プロジェクトXでは、元町地区に溶岩が200mと迫り、海水が噴火の影響で変色する中、危険を顧みず、短時間で全員を避難させることに成功した、町役場の人や、運輸会社の人、停電を起こさずに電力を確保した東京電力の人たちのご苦労を描いていて、なかなか面白いです。

一方、中央政府で、強引だとの批判を受けながらも、全島避難の成功に尽力した、後藤田正晴官房長官と、佐々淳行内閣安全保障室長のご苦労を描いたドキュメンタリーを見つけたのでご紹介します。プロジェクトXと併せて観ると理解が深まります。今、同じような災害が起きて、きちんと対処できる人がいるのでしょうか。そういえばお二人とも警察官僚でした。





■参考リンク
新価格版 プロジェクトX 挑戦者たち 史上最大の脱出作戦 13時間のドラマ~三原山大噴火・緊急チームの闘い~
【収録内容】
1986(昭和61)年11月、伊豆大島の三原山で500年ぶりの大噴火が起きた。新たに11の噴火口から火柱が立ち上がり、溶岩が猛スピードで山を下り始めた。町役場では、全島1万人を緊急脱出させるための緊急プロジェクトが動き出す。タイムリミットは夜明けまでの13時間。限られた時間で、全島民を1人の犠牲者もなく島外へ脱出させることができるか――。自らの命を危険にさらしながらも、大噴火の危機に決然と立ち向かった男達のドラマを追う。
【出演】
国井雅比古、久保純子

田口トモロヲ



詳細
伊豆大島の三原山が11月21日夕方、大噴火を起こした。三原山は15日に噴火して以来、小康状態だったが、21日になって再び活発化し、209年ぶりの大噴火となった。噴火に伴って流れ出した溶岩は、人口の多い元町地区に迫った。このため町は午後10時50分、全島民の島外避難を決定、22日朝までに約1万人が船で島外に脱出した。脱出した人たちは約1カ月、都内の避難所で噴火が終わるのを待った。

Wikipedia:三原山
1986年(昭和61年)の噴火
11月15日、山頂の竪坑状火孔で始まった。11月19日昼頃、直径800mの内輪山の内側が溶岩で埋め尽くされ、内輪山縁にあった火口茶屋が焼失した。さらに溶岩が内輪を超えて北西部からカルデラに800m流れ出した。噴火を見ようと5,000人を超える観光客が押し寄せた。噴火は一旦小康状態となり、立ち入り禁止区域に指定されて営業できなくなった商店は営業許可を求めて町役場に陳情に訪れた。
噴火開始から6日後の11月21日になると、昼過ぎからカルデラ北部で地震が頻発し、午後4時15分、カルデラ床からの割れ目噴火が発生した。この噴火は一連の噴火で最大級のもので、噴煙は高度8,000mに達した。これまでに経験したことのない揺れと噴火を前に大島町役場は直ちに対策本部を設置、本部長には当時の大島町長、植村秀正により、町助役の秋田壽が指名された。秋田は1957年の噴火を知る数少ない現役職員の一人であった。
午後5時46分には外輪山外の北西山腹からも割れ目噴火が始まり、溶岩が斜面を流れ下り3,000人が住む元町集落に迫った。この溶岩は最終的に元町の人家から数百mまで迫る。割れ目噴火は北西側に伸びたため、当初は島南部への避難が行われたが、地震活動が南東部へ移動したことや波浮港周辺での開口割れ目が確認され、噴火のさらなる拡大が懸念されたことで、22時50分には全島避難が決定された。対策本部の救援要請を受け東海汽船所属船8隻や周辺の漁船2隻が救援に駆け付けたほか、時の第1次中曽根内閣の政治決断により海上保安庁の巡視船8隻や海上自衛隊の護衛艦2隻も急遽派遣された[6]。安全保障会議設置法適用第1号であり、後藤田正晴官房長官が筆頭となり官邸主導で指揮を執った救難作戦は優れた危機管理の事例として高く評価される反面[7]、住民救出のために編成された護衛艦艇群は後藤田に暗に促された鈴木俊一東京都知事が災害派遣を正式に要請した時にはすでに大島に向かった後であったともされており、国土庁を始めとする各省庁からは横暴であると記者会見で非難された上に、国会では公明党などから職権乱用、省庁権限の干犯として激しい糾弾を浴びることとなった[8]。後の阪神淡路大震災で自衛隊の大規模な出動が遅れたと批判を浴びるがこの時の経緯が影響を与えている。
東海汽船は政府からの船舶派遣要請前に自主判断で高速船シーホークに観光客を稲取港に脱出させた後、当時東京港にいたすべての所有船を大島に派遣した。このとき、定期船で乗客がすでに乗っていた船では事情を説明して退船してもらうなどしてすべての船を派遣している。海上自衛隊では横須賀港所属の艦艇を中心に艦艇が派遣され、南極に向けて出港したばかりの南極観測艦しらせも救助に参加した。
翌22日5時10分に最後まで残っていた大島支庁・大島町職員が退去し[9]、全島民および観光客、1万226人の救出を完了した。島民は東京都内や静岡県におよそ1か月間避難した一方、島内の火力発電所の職員3人が東京電力本社の指示により島内に残り続けたほか、秋田助役も島内に留まり続け、約1か月後の島民の帰島の際に埠頭で島民を出迎えた[10]。島外避難指示が正式に解除されたのは同年12月20日であった。火口周辺は1996年11月に解除されるまで立ち入り禁止となった。秋田ら対策本部の苦闘は後にNHK総合テレビ『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』で題材として取り上げられ、2000年5月30日の第10回「全島一万人 史上最大の脱出作戦〜三原山噴火・13時間のドラマ〜」にて放送された。
山頂の三原神社が被災しなかったことから、大島の七不思議に数えられている[5]。 また、全島避難が進むさなかも山中や噴火口付近には噴火の映像を捉えるために複数のカメラマンが潜入し続けていたとも言われており、フジテレビが撮影したマグマを噴き上げる火口付近の映像に、「いるはずのない歩く人影が映っている」として衝撃映像特番で度々引用された。この人影はオカルトとして語られることがあったが、実際は活火山撮影を専門としていた島根県在住の民間人カメラマンであったことが、後に本人の証言により明らかとなっている[要出典]。なお、このカメラマンは噴火当時山中に長時間滞在し続けたため、全島避難当時には行方不明者扱いされた[11]。

dailymotion:NHKプロジェクトX|第010回「全島一万人 史上最大の脱出作戦」~三原山噴火・13時間のドラマ~ 三原山大噴火 大島町(2000年05月30日)





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Last updated  2021.10.03 22:19:52
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