秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

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2023.04.28
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カテゴリ: 映画 Cinema
荘川桜移植の記録の撮影をきっかけに荘川桜に惹かれ、名古屋から金沢、最後は能登まで、日本海から太平洋まで1966年頃から12年で2000本の桜を街道沿いに植えた、国鉄バス名金急行線の車掌佐藤良二さんのお話です。監督は以前ご紹介したふるさとという映画の神山征二郎さんです。出演者が結構豪華です。

DVDを観ていた時は、たしかに日本海から太平洋まで桜でつなげるという試みは素晴らしいれども、これを個人でやるのは厳しいのではと思い、それほど感動しませんでした。今ならSNSで呼びかけて、賛同者に手伝ってもらうこともできますけれど。

実際、給料を家にあまり家に入れなかったりして家庭を顧みなかったり、職場の同僚に呼びかけて植樹を手伝ってもらって負担をかけたり、植樹や病気で休み会社に負担をかけています。当時は国鉄の末期に近いころで、マスコミに桜の植樹が取り上げられちやほやされる一方で、世間には国鉄職員のこのような行動に批判もあったようです。この話が本になって国語の教科書にも取り上げられているのにもちょっと疑問を持ちました。

そのあと、ドキュメンタリーの桜紀行を観て、佐藤さんたちが植えて花を咲かせた桜たちを見たり、残されたきょうだい、友人のご家族が佐藤さんの死後も桜を植えていることを知り、ちょっと変わりました。佐藤さんの桜を植える動機はだんだん変わっていったと思います。最初は荘川桜に感動して。次は日本海から太平洋まで桜でつなげるため。その後は世間に植樹が認知されてそれがうれしくて励みになって。最後は不治の病に侵されて死んでいく自分を花として毎年咲かせることで永遠の命を得るため。批判がありながらも続いているのは、これらの同期に賛同者がいるからだと思います。

この映画の真の主役は、民宿を経営して家庭を守った奥さんやお子さん、死後も植樹を続けたお姉さんや友人の奥さん、職場の同僚なように思いました。


ドキュメンタリーの桜紀行はよくまとまっています。必見です。BGMで流れていた「鏡の中のアンナ」は長年探していた曲なので番組の最後に曲名が紹介されていたので嬉しかったです。これでもかというくらい何べんもかかっていました。きっと担当者の方もファンだったのでしょう。



■参考リンク
NHKプロジェクトX 挑戦者たち 桜ロード 巨木輸送作戦  注:荘川桜(岐阜県高山市)

Wikipedia:さくら (1994年の映画)
『さくら』は、1994年公開の日本映画である。
「太平洋と日本海を桜で繋ぎたい」という夢を実現しようと、名古屋市から金沢市までを結ぶバス路線名金急行線が走る街道沿いに桜を植え続けた、佐藤良二の生涯を基にした作品である。原作は中村儀朋の『さくら道』。

Wikipedia:佐藤良二

岐阜県郡上郡白鳥町(現:郡上市)出身。1953年、国鉄に入社し、美濃白鳥自動車区(後のJR東海バス美濃白鳥営業所<現在廃止>)に配属。名金急行線の車掌となる。
御母衣ダム建設に伴い、水没地区にある桜の木の移植を撮影記録することを移植作業に助力した愛知県豊橋市の造園業者・庭正造園の丹羽政光から依頼される。その中で、その桜が名金急行線の路線沿いに移植された荘川桜が再び開花した時に花見に来ていた老婦が桜の幹に涙ながらに抱きついているのを目撃し、それにより佐藤の心が動かされ、1966年頃より名金急行線の道路沿いに桜を植え始める。以後、余暇を苗木の手入れや植樹に費やし、生涯を終えるまでに約2,000本の桜を植えたと言われる。
1977年1月25日、血管免疫芽球性リンパ節症のため47歳で死去。
生活と評判
佐藤について一般的には、桜の撮影から感動して休暇を植樹に費やした、といった「美談」が多いが、生活は決して楽ではなかった。国鉄の給料だけではやっていけず、家計を支える上で自宅を民宿にして営業していた。また、一緒に桜を植えに行った運転士の話だと、彼は給料をほとんど桜につぎ込んでいたこと、同時期に体調を崩しがちで病休が多いことも、給料に反映されていた。そんな状態で家庭を省みないで桜の世話をすることに対する妻の苛立ちは、映画『さくら』でも描かれている。
それでも、名金線は彼なしには語れない。実際、没後30年近くなっても、沿線では「国鉄の良ちゃんを知らんものはおらん」といわれるくらいであった。また、名金線廃止の時も美濃白鳥駅では、白鳥町(当時)によるセレモニーが行われ、町長が彼の功績を讃えていた。
その自宅の民宿「てんご」だが、現在でも営業している。郡上市白鳥地区はスキー場が多く、冬季は学生の合宿に、夏季は建設現場の飯場(宿舎)代わりに利用されている。映画『さくら』撮影時にもスタッフの撮影基地として使われた。出演したキャストのサイン色紙が館内に展示されている。
現役車掌の佐藤の人柄は子ども好きであり「僕、どこへ行くんよ。腹、減っとらんか。」などと話しかけることも多かったという。国鉄バスの輪禍で子供が死亡したとき、国鉄職員の制服で通夜に参列していた佐藤が、ひときわ目立つ嗚咽にむせんでいたという。(佐藤の後輩や佐藤が現役車掌時代に子供であった者の回想伝)
なお佐藤については異なった伝もあり、映画『さくら』を監督する際に神山征二郎が生前の佐藤を知る同僚や同級生に取材したところ、佐藤の人柄について褒める人はおらず、へそ曲がりな変人だという話も聞けたという[1]。

Wikipedia:神山征二郎
神山 征二郎(こうやま せいじろう、1941年7月16日 - )は、日本の映画監督。岐阜県岐阜市出身。
人物・経歴

新藤兼人、吉村公三郎、今井正各監督の助手を務めた後、1971年、『鯉のいる村』にて監督デビュー。1976年、『二つのハーモニカ』により日本映画監督協会新人奨励賞受賞。
その後独立し、1983年に『ふるさと』を発表。文化庁優秀映画奨励賞を受けるなど国内外で高評価を受ける。1987年に『ハチ公物語』を大ヒットさせ、山路ふみ子映画賞受賞。
1988年に「神山プロダクション」を設立。以後、ヒューマニズムあふれる作品を次々と発表し、人気を博する。
師である新藤、今井、吉村の衣鉢を継ぐ正統的な社会派映画作家であるが、時代の変化もあり師匠たちのような高い評価には恵まれなかった。大ヒットした『ハチ公物語』にも批評家たちは冷淡で、当時彼らにキワモノ扱いされたことに対する神山の憤懣は、後年に海外での好評がアメリカ版リメイクにつながった際、『映画芸術』誌上での辛辣な一文という形で吐き出されている[要追加記述]。
2001年、「時代と地域を見据えた映画製作」に対し中日文化賞が贈られた[1]。




[84025] 2013年8月29日 御母衣 (3)高碕達之助hmtさん

さくら [VHS]:篠田三郎 amazon

桜紀行





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Last updated  2023.04.30 13:36:12


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