秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

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2023.07.11
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カテゴリ: 映画 Cinema
先日野口英世の伝記映画を観て、小学校時代に読んだ偉人の映画は無いか探したら、アマゾンプライムにキュリー夫人の映画を見付けました。今から80年前の作品ですが内容は古びておらず考えさせられる作品でした。読んだ伝記そのままに、美人でストイックで優秀な女学生が、旦那さんと知り合って、物置のような実験室で4トンのウラン鉱からラジウムを抽出するまでを描いています。途中旦那さんとのラブロマンスにも時間が割かれています。

実験で放射能を扱うことでキュリー夫人は体調を崩しますが、体に良い影響もあたえるはずだという信念で研究を続けたことで、のちに放射能が原因で亡くなりますが、彼女の発見のおかげで多くの人の命が救われたことに感謝しなければならないと思います。

旦那さんは反対しましたが、キュリー夫人は、「人生最大の報酬とは、知的活動そのものである」として、ラジウム精製法について特許を放棄しました。ノーベルはダイナマイトだけであれだけの財産を築いたのですから、キュリー夫人も特許を取得すれば莫大な資産を築いていたと思います。もし彼女が現代に生きていたらどうしたでしょうか?

旦那さんはラジウムの発見から数年して、馬車の事故で亡くなります。その後、キュリー夫人は子育てをしながら研究を続け、人類初の2度のノーベル賞を受賞します。ただその道のりは平たんで無く、映画では語られませんでしたが、Wikipediaによれば旦那さんの教え子との不倫による恋愛とか誹謗中傷もあったようです。

男の芸能人とかの有名人を見ていると、奥さんが亡くなるとしばらくして再婚するもをたまにニュースで見ますが、その逆の男の有名人が亡くなっても奥さんが再婚したというニュースはあまり目にしません。遺族年金の受給資格とかもあるんでしょうが、現在に至るまで死別した女性の再婚にはなにか社会的に壁があるようにおもいます。

また、社会的弱者とされる女性が成功をおさめると、妬みとかやっかみもあってなにかあると批判の対象になりやすそうです。同じ社会的弱者とされる黒人のオバマ元米大統領が退任後、1回の講演でウォール街等から数千万円の講演料をもらっていることに批判のニュースがありましたが、WSJのコラムで、ブッシュもクリントンも同様なことをしているのに、黒人のオバマだけが批判されるのはおかしいとの意見がありましたがなるほどと思いました。社会的弱者だからといって清廉潔白で清貧に甘んじなければならないわけではないと思います。社会の考え方は100年後には変わっているでしょうか?

昨年公開の「キュリー夫人 天才科学者の愛と情熱」も機会があれば観たいです。





■参考リンク
Wikipedia:キュリー夫人 (映画)
『キュリー(キューリー)夫人』(キュリーふじん、原題:Madame Curie)は、1943年に製作・公開されたアメリカ合衆国の映画である。

日本では1946年2月14日、アメリカ映画輸入再開第1号として『春の序曲』と共に公開されている。

Wikipedia:マリ・キュリー
マリア・サロメア・スクウォドフスカ=キュリー(ポーランド語: Maria Salomea Skłodowska-Curie, 1867年11月7日 - 1934年7月4日)は、現在のポーランド(ポーランド立憲王国)出身の物理学者・化学者である。フランス語名はマリ・キュリー(Marie Curie、ファーストネームは日本語ではマリーともいう)。キュリー夫人 (Madame Curie) として有名である。
1867年11月7日、ワルシャワ生まれ。放射線の研究で、1903年のノーベル物理学賞、1911年のノーベル化学賞を受賞し[1][2]、パリ大学初の女性教授職に就任した。1909年、アンリ・ド・ロチルド(1872-1946年)からキュリー研究所を与えられた。
放射能 (radioactivity) という用語は彼女の発案による[3]。
途中略
ラジウム
新元素ラジウムは、学問対象にとどまらず、産業分野でも有用性が次々と明らかになった[51]。キュリー夫妻は、ラジウム精製法に対する特許を取得せず公開した。これは珍しいことだが、そのために他の科学者たちは何の妨げもなくラジウムを精製使用することができた[53]。フランスの実業家アルメ・ド・リール(英語版、フランス語版)(Emile Armet de Lisle[54])はラジウムの工業的生産に乗り出し、夫妻の協力を仰ぎ、医療分野への提供を始めた[51]。ラジウムは世界でもっとも高価な物質となった[51]。ラジウム精製法の特許を取得しなかった理由として、マリは「人生最大の報酬とは、知的活動そのものである」と答えている[55]。
途中略
誹謗の渦中に得た二度目の栄誉
マリは研究に戻り、ヘイケ・カメルリング・オネスと協同で低温環境下でのラジウム放射線研究の構想を練った。ところが有名人のスキャンダルを売りに購買欲を掻き立てていた当時の新聞が、11月4日付の記事でマリの不倫記事を大々的に掲載した。相手は5歳年下、ピエールの教え子ポール・ランジュバン。彼は既婚だったが夫婦間は冷めて別居し、裁判沙汰にまでなっていた[68]。マリは私生活の問題で悩むランジュバンの相談を聞くうちに親密になっていた[70][71]。1911年10月末にブルッセルで開かれたソルベー会議には2人揃って出席し、マリは論文を発表した若きアルベルト・アインシュタインへチューリッヒ大学教職への推薦状を書いている。その最中の報道は、ランジュバンに宛てたマリの手紙を暴露し、他人の家庭を壊す不道徳な女とマリを糾弾した[72]。その後も報道は続き、またも彼女をユダヤ人だ、ピエールは妻の不倫を知って自殺したのだと、あらぬことを連日のように書き立てた[68]。ついには記者がブリュッセルまで押し寄せ、マリは会議の閉幕を待たずに去らなければならなくなった[68]。
ソーの自宅に帰ると、そこはすでに群集に取り囲まれ、投石する輩までいた。マリは子供たちを連れて脱出し、親しいエミール・ボレル夫妻が一家を匿った。政府の公共教育大臣はボレルにマリを庇うなら大学を罷免すると迫ったが、夫妻は一切ひるまなかった。ボレル夫人マルグリットはジャン・ベラン教授の娘で、彼女はマリを損なうなら二度と顔を合わせないと父を逆に脅した[68]。騒動はさまざまなところへ飛び火していた[注 6]。

この騒動の渦中の11月7日、スウェーデンからノーベル化学賞授与の電報が入った。理由は「ラジウムとポロニウムの発見と、ラジウムの性質およびその化合物の研究において、化学に特筆すべきたぐいまれな功績をあげたこと」として新元素発見を取り上げて評価していた[68]。マリは、初めて二度のノーベル賞受賞者となり、また異なる分野(物理学賞・化学賞)で授与された最初の人物ともなった。しかし、渦中のスキャンダルを理由に、スウェーデン側からも授与を見合わせてはどうかという声があがった[注 7]。しかしマリは受賞する意思を毅然と示し、今度はストックホルムへ向かった。記念講演において、マリはピエールの業績と自分の仕事を明瞭に区別したうえで、この成果の発端は二人の共同研究にあったと述べた[68]。
受賞から19日後の12月29日、マリは鬱病と腎炎で入院した。一時退院したが1912年3月には再度入院し、腎臓の手術を受けた[64]。その後、郊外に家を借りて療養したが、6月にはサナトリウムに入った。8月には少々の回復を見せ、女性物理学者ハータ・エアトンの招待に応じてイギリスへ渡った。2か月間過ごした後の10月にパリへ戻ったが、ソーの家は諦めて新たにアパートを借りた。この間、マリはスクウォドフスカの姓を使っていた[68]。マスコミは相変わらず何かしらのネタを見つけてはマリを叩くことが多かったが、その一方で他国がマリを評価するとフランスの先進性の象徴に祭り上げるなど都合のよい記事ばかり載せ[64]たため、マリはジャーナリズムを嫌悪した[74]。
彼女を支え続けたのは多くの知人と友人、そして家族だった。1912年5月には、ヘンリク・シェンキェヴィチを団長とするポーランドの教授連代表団がマリを訪問し、ワルシャワに放射能研究所を設立して彼女に所長を務めてもらいたいと打診した[33]。1905年のロシア第一革命以後、帝政ロシアのくびきが緩み、何よりマリの名声が世界的なものになっていたことが大きかった。この申し出をマリは熟考し、本来自分が目指していたこと、すなわちピエールから受け継いだ研究所を彼にふさわしいものにすることを思い出した。こうしてポーランドへの帰国は断ったが、彼女はパリから指導することを受諾した。1913年、ワルシャワの研究所開所式に出席したマリは、初めてポーランド語で科学の講演を行った[64]。
途中略
マリの死去

療養に入ることを決め、エーヴはマリをフランス東部のオート=サヴォワ県パッシー(英語版)にあるサンセルモス(英語版)というサナトリウムへ連れて行った。しかしここで受けた診察では肺に異常は見つからず、ジュネーヴから呼ばれた医師が行った血液検査の結果は、再生不良性貧血だった[84]。
7月4日水曜日の夜明け前、マリはフランスで亡くなった。7月6日に夫同様近親者や友人たちだけが参列した葬儀が行われ、マリは、夫ピエールが眠るソーの墓地に、夫と並んで埋葬された[84]。長期間の放射線被曝による再生不良性貧血が死因であると考えられている[85]。放射線の危険性は当時は知られていなかったため、その後開発された放射線防護策はとられていなかった[86]。マリは放射性同位体を含む試験管をポケットに入れて運んでいた[87]。マリは長年の放射線被曝によりさまざまな病気にかかり(白内障によってほぼ失明したことを含む)、ついには死に至ったが、放射線被曝による健康被害については決して認めなかった[88]。



オバマを待ち受ける順風満帆すぎる第二の人生2017年1月26日(木)19時00分山田敏弘(ジャーナリスト):Newsweek





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Last updated  2023.07.12 23:59:09


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