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朝鮮半島を植民地支配した日本は、1930年代に始まった民族解放運動を妨害する目的で半島南部の農民を半島北部の工業地帯に労働者として移住させるという事業を実施しました。その頃の様子を、一橋大学准教授の加藤圭木氏は10日の「しんぶん赤旗」に、次のように書いてます; 日本の植民地支配下におかれた朝鮮では、朝鮮総督府の経済政策によって、大多数の朝鮮農民が貧困状態に追い込まれていました。自作農・自小作農が没落し、小作料の高率化や小作権の移動が激しくなるなかで、土地を失ったり、生活が窮迫した農民が日本や満洲へ移住しました。さらに、山林に入って火田民(焼畑農民)となったり、都市で土幕民(バラック住民)となる動きが進みました。 1930年前後の朝鮮では、社会主義運動の影響力が拡大し、農民組合・労働組合運動が高揚しました。社会主義勢力は、貧困層向けの教育施設を各地で整備するなど、人びとの要求を踏まえた活動を展開しました。大衆的基盤をもって民族解放運動を展開していたのです。◆社会主義運動の高揚への危機感 1931年に朝鮮総督に就任した宇垣一成(かずしげ)は、社会主義運動の高揚に危機感を抱き、1933年より官製運動の「農村振興運動」を展開し、農民の不満を抑えようとしました。「自力更生」をスローガンとして、営農技術向上や副業奨励、また貯蓄や家計簿作成などが推奨されました。 しかし、地主制や高額な小作料といった根本的な矛盾を放置し、天皇制イデオロギーを押しつける精神主義的運動としての側面が強かったため、農民の悲惨な状況は変わりませんでした。 朝鮮総督府は、もう一つの方策として人口移動政策を実施しました。それが、1934年に開始された朝鮮南部の農民を北部の労働現場に送り込む「労働者移動紹介事業」です。深刻な貧困状態におかれた農民達は、主として稲作地帯である朝鮮南部に集中していましたので、これを「工業化」や軍事拠点化か進みつつあった北部に送ることにしたのです。 当時、朝鮮では総力戦体制の構築という観点から、「朝鮮北部重工業地帯建設計画」が進められ、満洲への接続拠点として朝鮮北部の羅津港の建設が行われていたのです。 「労働者移動紹介事業」によって労働者のあっせんがはじまると、南部の農民の中には、このまま農村に残って死ぬよりはましだろうと考えて応じる人がでてきました。経済的条件による構造的な強制だったわけです。◆就業詐欺まがい過酷な労働条件 しかも、あっせんに応じたところで、人びとの困難な状況は変わりませんでした。北部の労働現場では、事前に聞いていた額よりもはるかに低賃金であったり、過酷な労働条件だったりしました。さらに、到着したところで住居すら整備されていないこともあり、そもそも仕事自体がないということもありました。これらはいずれも就業詐欺です。また安全対策も不十分で、土木現場や炭鉱では事故が続発しました。あっせんされた人びとの不満が爆発し、抗議したり、逃亡する人も相次ぎました。 1930年代半ば、朝鮮北部「工業化」の進展度は低く、大量の労働者の生活を支えられる状況ではありませんでした。しかし、社会主義の抑制という目的のために南部の農村から農民を引き剥がし、北部に送ったのです。これは棄民政策に他なりません。 「労働者移動紹介事業」は日中戦争以降の強制労働動員の原型となった政策です。戦時期には労働力不足から、朝鮮北部や日本などへの大規模な動員が行われますが、それ以前にすでに人権無視の労働あっせんが存在したのです。なお、いま、主に問題になっているのは日本での強制労働ですが、朝鮮内での労働動員の実態は部分的にしか明らかになっていません。 こうして日本側は、支配の矛盾を何ら解消させることなく、侵略戦争を拡大させ、ファシズムへと突き進んでいきました。そうした中で、朝鮮の人々との間の矛盾はますます拡大していったのです。2020年3月10日 「しんぶん赤旗」 10ページ 「日韓の歴史をたどる-戦時下の強制労働動員の原型」から引用 1930年代に朝鮮半島北部に多くの工場を建てたのは言うまでもなく日本企業でしたから、日本人経営者が朝鮮人労働者を安くこき使おうと考えたことは想像に難くありません。その上、日中戦争が泥沼化してからは日本本土の労働力不足を半島の労働者で補おうとしたのが、今日に至って尚未解決問題として残さされている「徴用工」問題ということです。私が小学校の頃は、朝鮮半島は南が農業国で北は工業国というように説明されていましたが、あの頃の「北」は日本帝国主義が残した工場設備を利用していたのだろうと、今にして思います。しかし、米国政府が敵視政策をやめて企業が自由に投資できるような環境が整えば、地下資源が豊富なこともあり、韓国や中国のように繁栄する可能性は十分にあると思います。
2020年03月29日
昨日の日記に引用した記事について、ジャーナリストのむのたけじ氏は、15日の「週刊金曜日」に次のように書いている; 6月18日付けの『朝日新聞に朝刊に許しがたい記事を見つけました。子どもは大人の従者とみて導くか、独立した権利の主体とみるか、このふたつの「こども」観の対立が各地で起こっているとのことです。大人の従者とみて導く考えは、「自分で稼いで食べているわけでもない子供に下手に『権利』なんて覚えさせちや駄目よ。ろくな大人にならないわ」と日本会議政策委員の百地章・日本人学教授か監修した冊子にある言葉に代表されるようです。 まず、それに対する反論のひとつは、従者として育てることを望む人たちは、結局国家に従う人を育てたいと思っているからだ。日本はかつて、子どもだけでなく、国民全体を従者としました。すなわち、昭和22年現行憲法が施行されるまでの大日本帝国憲法では、今国民と呼ばれている人を臣民と呼んでいました。臣民とは「けらい」、従者です。その結果どうなったか? 一部の人々の暴走をとめられず、皆さんご存じの通り、国民全体の生活をどん底にした無条件降伏を受け入れることになったのです。国家に従うだけの人間に育てることは国を破滅させることにつながります。その反省でいろいろな国民の権利が保障されたのではありませんか。 それでは、「権利」ばかりを主張することが悪いというなら、どう対処すればよいか。答えは簡単です。権利を主張するには義務も果たさなければならないことを一緒に教えることです。権利と義務は一対になっているのです。そのことを理解してはじめて一人前の人間になれるのではありませんか。 反論のふたつ目、子どもは従者とみる人には心を開いてくれないです。わたしが94歳の時、当時行なわれていたゆとり教育の御陰で、14歳の中学生と交わることができました。そのとき、子どもたちと私には80歳という隔たりがあるのに、なぜかそれを感じさせない付き合いになった。それで、あるときに私が「君たちは私をムノクンと同級生みたいに呼びそうだね」と言った。男の中学生が応答した。「ぼくは大人に心を開いたことはない。むのさんに会って初めてのことを経験した。親は、自分は親でお前は子どもだと言った。先生は、私は教師でお前は生徒だと言う。近所の大人は、おれたちは大人でお前らはガキだと言う。大人たちの声はいつも上から下へ斜めに走ってきた。むのさんに会ったら両方の声が同じ高さで行き交う。だから安心して自分をさらけ出してものを言っているのです」と。相手と本気で付き合いたいなら、おなじ目線が必要です。子どもは一人の人格を持った独立した人間とみて付き合い、導くべきです。 この幼い子の問題は、この連載の6回目でも述べましたが、90歳代半ばを越えてから考え始めたことです。そこで、幼い子もまた人類を構成する大事なひとつのかたまりで、それが人類の根幹であると結論した。 そして、生死を考えなければならない状態を経験して「いのち」をいっそう深めて考えたとき、幼い「いのち」を壊すことは、人類のすべてを壊すことになるとの思いを強めています。だから、このことは、人類は生きものとしてやってはならないこと、やらせてはならないことのひとつだという思いをいっそう強めています。 人間の「いのち」は区別されないはずです。その重さ、軽さはないのです。その「いのち」のすべてが責任と誇りをもつことがたいせつです。誇りとは、人類が73億人いてもあなたはあなた一人しかいないのです。これほど貴重なものはないはずです。この誇りと、それに伴う責任を感ずることは、人間が生きる時に一番大切になることと思いを強めています。 7月10日には、その多くはまだ経済的に自立していない18歳19歳の若い人々がはじめて投票する参議院選挙が行なわれました。今や、経済的に自立あるなしにかかわらず、国のあり方を決めることに参加する時代なのです。2016年7月15日 「週刊金曜日」 1096号 56ページ「話の特集 - たいまつ・子どもは人類の根幹」から引用 むのたけじ氏は戦前は朝日新聞の従軍記者として活動し、敗戦時に責任をとって朝日を辞職したジャーナリストで、戦争責任については大変厳しく反省したジャーナリストの一人だと思います。それだけに、「子どもは黙って親の言いなりになればいいのだという発想は、国の言いなりになる国民を育てる」という洞察には鋭いものがあるように思います。
2016年07月26日
子安宣邦著『「大正」を読み直す』(藤原書店・3240円)について、ルポライターの鎌田慧氏が、6月12日の東京新聞に次のように書評を書いている; 大正デモクラシーといえば、評者などは、字義通りに、大正元(1912)年、大逆事件直後の大杉栄、荒畑寒村が創刊した「近代思想」を想(おも)い起こす。この雑誌は、いち早く文化運動から大衆運動の再構築を図り、言論弾圧をかいくぐっていた。 もちろん、その前後の足尾銅山暴動、米騒動、八幡製鉄所大罷業などの大衆運動の勃興が背景にあったのだが、本書が明治38(1905)年の最初の民衆騒擾(そうじょう)「日比谷焼き打ち事件」から書き起こされているのは、「マルチチュード」(協同的な多種多様な層)を評価しているからだ。大正期に活躍した6人の思想家や運動家を扱い、現在に残る痕跡が考察されている。 幸徳秋水を巻き込んだ大逆事件は国家権力による「直接行動論」とその提唱者の肉体抹殺であるばかりでなく、「正当性」を主張する日本の社会主義者による思想的抹殺でもあると言う。 「<民の力>を本質的に排除した<議会制民主主義>への道は、すでに『大正デモクラシ一』そのものが辿(たど)っていった道ではなかったのか」というのが著者のモチーフであり、戦前から戦後まで続く「昭和全体主義」を生みだした「大正」の検証作業である。 この極めて論争的な本でもっとも力がはいっているのが、津田左右吉の『神代史の研究』の分析である。この時代に古事記と日本書紀によって構築された「神代史」を、完全な虚構と断じて解体し、ナショナリズムの根を断った。和辻哲郎の『日本古代文化』は、その偶像をまたもや再興させようとした営みである、と指摘する。 大川周明の資本主義の危機を精神的統一による「アジア的原理」で革新しようとする思想は、満州国高官・岸信介に受けつがれ、「アジアの盟主」たらんとする欲望となって破綻する。 立論のあら筋を紹介すると、論証の丁寧さの魅力が削(そ)がれるが、大正から現在に至るまで秘(ひそ)かに連結するナショナリズム復活の根拠が示されている。(評者鎌田慧=ルポライター) こやす・のぶくに 1933年生まれ。思想史家。著書『日本近代思想批判』など。2016年6月12日 東京新聞朝刊 9ページ「ナショナリズム復活の根」から引用 津田左右吉という学者は勇気のある人で、万世一系の天皇が統治すると定められた明治憲法の下、歴史学の立場から「古事記や日本書紀に書かれた神話は作り話であり、天皇が天照大神の子孫であるというのはウソだ」という内容の本を出版して、不敬罪で起訴され禁固3ヶ月・執行猶予2年の判決を受けた。大正デモクラシーといっても、政府は国民に天皇は神様だと言いふらし皇居遙拝などをさせていた時代だから、津田の主張は「公の秩序に反する」と政府が主張し、学問の自由は認められなかった。自民党の改憲草案にはまたしても、「公の秩序に反する」場合は国民の権利は制限できるという内容の文言が書かれていることは重大な問題であり、「公の秩序」と「公共の福祉」は同じ意味だなどというデタラメを看過すべきではない。
2016年07月24日
作家の姜信子氏は、玄武岩&パイチャゼ・スヴェトラナ著「サハリン残留」(高文研刊)への書評を、6月5日の東京新聞に次のように書いている; ときに人はみずからは動かずとも、不意に頭越しに動く国境線によって、望まぬ越境を生きることがある。勝手極まる国境線に翻弄(ほんろう)されながら生き抜こうとする者たちの中から、やがて、国境線を踏み越え、国家の枠を横断する生のありかたを形作る者が現れる。それは近代国民国家の落とし子であると同時に、近代国民国家をじわじわと揺さぶる存在でもある。本書が描き出しているのは、そんな人々の生きる姿。日本・韓国・ロシアにまたがる生活空間を、それぞれに選び取った形で生きる十の家族の物語である。 そもそものことの起こりは敗戦を境に植民地帝国日本が一気に収縮したこと。日本領樺太がロシア領サハリンへと変ずる過程で、多くの人々が日本の外へとはじきだされた。植民地もろとも放り出された朝鮮人はもちろんのこと、朝鮮人と結婚した日本人女性やその子たちも打ち捨てられた。国家はその手で辺境の不可視の領域に追いやった者こそを真っ先に捨てたのだ。その歴史的・社会的・政治的背景については本書の解説に詳しい。 国家とは本質的に民を守らない。弱き者声なき者ほど守られない。それを思い知った民が生き抜こうとすれば、生きるということ自体がおのずと越境にもなろう、国家への異議申し立てにもなろう。ひそやかにしたたかに生きる者たちの声、この一冊から溢(あふ)れいずる。聴くべし。(評者:姜信子=作家)<著者紹介>ヒョン・ムアン 北海道大准教授。Paichadze Svetlana 北海道大研究員。2016年6月5日 東京新聞朝刊 9ページ「読む人-強く生きる人々の声」から引用 「国家とは本質的に民を守らない」という言葉は、正鵠を射ていると言えます。サハリンに限らず、敗戦時の満州(現在の中国東北部)でも、沖縄でも国家は国民を守ることを放棄した事実を、私たちは忘れてはなりません。国には、そういう後ろめたさがあるから、今さらのように「愛国心教育」だのと言うのではないでしょうか。慰安婦問題と同様に、中国に置き去りにした人々やサハリンに置き去りにされた人々への救済措置などは未解決のままになっており、戦後70年を過ぎてもなお日本政府の戦争責任は果たされたとは言いがたい状況です。
2016年07月18日
日本テレビの南京大虐殺を描いたドキュメンタリー番組が、ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞を獲得したことについて、2日の「しんぶん赤旗」は次のように報道している; 放送界に政権への「何度(そんたく)」の空気が伝わるなか、困難なテーマに果敢に挑んだドキュメンタリー番組の数々があります。歴史や戦争、差別・・・。制作スタッフが番組に込めた熱い思いに迫るシリーズ「放送の現場から」を始めます。第1回は日本テレビ「NNNドキュメント’15 シリーズ戦後70年『南京事件兵士たちの遺言』」です。 「南京事件」。1937年12月、日本軍が中国・南京攻略戦と占領時に、中国軍民に対して行った虐殺事件です。右派勢力が「虐殺はなかった」「中国のデマ」と激しく攻撃する題材を、日本テレビが「戦後70年シリ-ズ」の一つとして放送したのは、昨年10月4日でした。 「視聴者からどんな意見が来るのか、正直構えていました」と清水潔チーフディレクター(58)。しかし、続々と寄せられた感想は、「今こそ必要なすばらしい番組」(57歳男性)、「制作者の方の意気込みと気迫が伝わってきて目が離せませんでした」(47歳女性)・・・。9割以上が肯定的だったと言います。 ● ● 各局が戦後70年の企画に取り組む中、清水さんが「南京」をあえて選んだのは、「日本は”被害”の面だけを訴えていていいのか」という思いでした。「自虐史観だと言う人もいますが、近隣諸国への加害者的な部分を描かなければ、放送の公共性や公平性は保てない。南京事件を調査報道の手法で放送しようとスタートしました」 清水さんは、入念な下調べを重ねました。南京事件関連の書籍を「家の床が沈むほど」買い込み、自費で南京へ事前取材。「『虐殺はなかった』というのは無理」だとの結論に達します。では、どれぐらいの規模だったのか、計画性はあったのか-。福島県の歴史研究家・小野撃一氏が収集した31冊の『陣中日記』に注目します。 「捕虜セシ支那兵ノ一部五千名ヲ・・・機関銃ヲモッテ射殺ス」。日記には、射殺後に銃剣で刺し、石油で焼いて揚子江(長江)に流した模様が生々しくつづられています。捕虜を川沿いに半円に囲んで射殺した場面が措かれたスケッチは、CGを使って再現しました。 「77年前の事件を証明するのは困難ですが、一つでも間違うと、『なかった』ことにされてしまう」と清水さん。31冊の記述に矛盾はないかを全部すり合わせ、部隊の行動なども現地取材を含め裏付けを徹底しました。「僕ら報道の人間は、事実は何かを懸命に探すのが仕事。100取材したとして放送できたのは1ぐらいでしょうか」 ● ● 番組は「日本人は多くの命を奪ったという一面も忘れてはなりません」というナレーションで終わります。清水さんらスタッフが、視聴者に一番問いかけたい言葉でもありました。「もし、広島の平和記念資料館でアメリカ人が『原爆投下はなかった』と言ったら、私たちはどう思うでしょうか。歴史の事実を踏まえたうえで未来を考える、それこそが国益だし、この国を守ることだと僕は思います」(佐藤研二)(随時掲載)▲南京事件にかかわった兵士が記した『陣中日記』を緻密に検証。1937年12月16、17の両日を中心に、虐殺の実態を明らかにします。第53回ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、放送人グランプリ2016準グランプリはじめ、放送各賞を受賞。番組は動画配信サービス「Hulu(フールー)」で配信中。2016年7月2日 「しんぶん赤旗」 14ページ「放送の現場から-南京事件兵士たちの遺言」から引用 日本テレビといえば、読売新聞の系列で辛坊治郎がキャスターを勤めるような政府・自民党をヨイショする番組ばかり放送していると思ったら、中にはこういう骨のある番組を作るスタッフもいたとは驚きです。他の雑誌の取材に対し、政策スタッフは「忖度のソの字もないような番組を作りたいと常日頃考えていた」と、なかなか頼もしい発言をしてます。戦争といえば、広島・長崎の原爆のことばかりでは、まるで日本は単なる被害者であるかのような論調になるから、加害の事実もしっかり国民として認識しなければなりません。そういうことを国民に訴えて初めて放送の公共性や公平性を保つことができるという発言は大変重要です。私が思うに、安倍首相や高市大臣、日本会議の諸君にしてみれば、これは明らかな「偏向番組だ」ということになるのではないか、その辺に大変興味を感じます。
2016年07月17日
戦時中に日本軍慰安婦にされた中国人女性の証言をまとめた映画の公開が始まった本年5月に、「しんぶん赤旗」は次のような紹介記事を掲載した; 中国で日本軍「慰安婦」の被害女性を撮り続けてきた映画監督の班忠義さんが『太陽がほしい-「慰安婦」とよばれた中国女性たちの人生の記録』を出版しました。同名のドキュメンタリー映画のシナリオを中心にまとめたものです。被害女性に寄り添う思いとは-。<本吉頁希記者> 班さんが中国人「慰安婦」被害者の存在を初めて知ったのは1992年12月でした。きっかけは「日本の戦後補償に関する国際公聴会」(東京)に、中国山西省から参加していた万愛花さん(2013年死去)との出会いでした。 万さんは10代で日本軍に拉致され、ヤオトン(横穴式住居)に監禁されました。拷問と性暴力を繰り返し受け、背中や骨盤を骨折。体が変形し、身長が20センチほど縮む被害を受けました。戦後、絶望し、殺虫剤を飲んで自殺を図ったこともあります。 「私は日本軍のせいで家も何もかも失った。うらみを聞いてもらうため日本に来た」 万さんは公聴会でこう訴えた直後、失神し、演壇に倒れました。 班さんはこの光景に「圧迫された女性の姿」を見た思いでした。当時、日本に留学していた班さんは、万さんと出会った衝撃が忘れられませんでした。95年8月、真相を調べるため山西省の省都・太原に住む万さんに会いに行きました。 それから約20年間、斑さんは毎年のように万さんや他の被害女性を訪ね、聞き取り調査や医療費支援などをしてきました。その数80余人に上ります。 映画「太陽がほしい」には7人の被害女性が登場します。班さんは「多くの女性が恐怖の情景と被害の瞬間を鮮明に語る一方、時期や場所など客観的な情報は不鮮明だった」と振り返ります。 劉面換さん(12年死去)は銃床で左肩を強打され、日本軍の拠点に運行されました。劉さんは当時についてこう証言しました。 「真っ暗なヤオトンに監禁され、用をたすときだけ外に出られた。食べていないので何も出ないが、外に出たいのでトイレに行って背をのばす。太陽の光がほしかった」 班さんはいいます。 「『太陽がほしい』というタイトルには、苦しい監禁状態のなかで発した『太陽の光を浴びたい』という劉さんの心の叫びと、日本政府を相手に裁判をたたかった『正義を取り戻す光がほしい』という万さんの心情がある」◆正しい歴史認識 13年夏、斑さんが危篤の万さんを見舞うと、万さんはうっすらと目を聞け、班さんに消え入るような声で話しました。 「(日本政府は)罪を認め、頭を下げて賠償をするべきです。・・・何といっても真理がほしい」 被害者の願いは、日本が加害の事実を明確に認めることです。ところが13年、当時の橋下徹大阪市長が「慰安婦制度は必要」と暴言を吐きました。翌年には過去の「慰安婦」報道の一部を取り消した朝日新聞を攻撃し、歴史を偽造する動きが起きました。 「歴史を覆すことは新たな犯罪」と危惧した班さん。20年かけて撮りためた400時間に及ぶ証言を1本の映画にすることを決意し、製作支援を日本の市民に呼びかけました。映画は15年夏に完成し、現在800人近くが賛同。上映会は全国に広がっています。 映画で日本軍の元兵士も証言しています。登場する被害女性は全員亡く在りました。 班さんは「当時の話に触れるたび、手が震えるほどの恐怖に襲われるおばあさんもいた。多くが健康被害を訴えていた。映画を通して事実を明らかにし、若い人たちが正しい歴史認識をもつ手助けになれば」と話します。 ◇ 自主上映の問い合わせ=「ドキュメンタリー映画会・人間の手」電話080(9374)1294各地の上映予定▼5月15日=ニ松江市市民活動センター。監督トークあり。主催=アムネスティ・インターナショナル松江グループ▼20日=東京・牛込箪笥地域センター。監督トーク。主催=上映実行委員会▼21日ニ=つくばイノベーションプラザ。監督トーク。主催=実行番員会▼6月11日=北九州市生涯学習総合センター。監督トーク。主催=日本軍「慰安婦」問題解決のために行動する会・北九州▼9月10日=盛岡市プラザおでって。主催=岩手からアジアを考える会▼詳しくは human-hands.comはん・ちゅうぎ=ドキュメンタリー映画監督。1958年、中国・撫順市生まれ。『曽おばさんの海』(朝日新聞出版)で第7回ノンフィクション朝日ジャーナル大賀受贅。監督作品に「チョンおばさんのクニ」「ガイサンシーとその姉妹たち」「亡命」2016年5月15日 「しんぶん赤旗」日曜版 29ページ「中国人『慰安婦』の苦しみ撮り続け20年」から引用 この度の映画を作成した班忠義氏は、戦争が終わって13年後に生まれた人で、たまたま日本に留学中に、東京で慰安婦被害にあった女性が訴える姿を見て、証言を記録する映画を撮ることになったとのことで、92年と言えば韓国の金学順氏が実名で名乗り出た頃ですから、金氏の勇気ある行動がなかったら、慰安婦問題に関する一切の記憶がうやむやの内に消滅してしまったかも知れません。そういう意味では、金学順氏の功績は大きいと言えます。また、日本政府も河野談話で国際社会に約束したように、慰安婦問題のような人権問題を二度と繰り返すことのないように、教育を通じて過去の事実を子孫に継承する努力に取り組むべきです。この度の班忠義氏の映画も、教材の一つとして大変価値のある映画です。
2016年07月12日
沖縄の戦没者追悼式に出席した安倍首相と翁長沖縄県知事を比較して、ノンフィクションライターの渡瀬夏彦氏は、1日の「週刊金曜日」に次のように書いている;「沖縄全戦没者追悼式」(6月23日目)の式典会場には行かない。この国の首相によるうわべだけの哀悼の言葉を、同じ場にいて聞くのが精神的苦痛以外の何ものでもないからである。 式典で黙とうを捧げる正午には、「魂魄(こんぱく)の塔」の前か、付近の海辺で合掌する。隣接する広場での国際反戦集会にも参加しやすい。 魂魄の塔は、沖縄戦後その一帯に散乱していた無数の身元不明の遺骨を一カ所に集めて納骨した、最初の供養塔である。 その場で祈るとき、「加害者」としてのヤマトウンチュの罪も、きちんと思い起こすことができる。◆深刻な認識の差 しかし一方では、地元紙の公式サイトの録画配信で、沖縄県知事の平和宣言と来賓としての首相の挨拶などを必ずチェックする。 そうして今年も、沖縄県と日本政府の問の、深刻な認識の差を認めざるを得なかった。 翁長雄志(おながたけし)知事は平和宣言の中で、先頃の凶悪事件(元海兵隊員による女性会社員殺害遺棄事件)に触れ、国土面積の0・6%の沖縄に米軍専用施設の74%という広大な米軍基地が押し付けられている現実とを関連付けて語り、強い憤りを示した。はたして沖縄県民には「日本国憲法が国民に保障する自由、平等、人権、そして民主主義」が保障されているのかと疑念を呈し、日米地位協定の抜本的見直しの要求や、辺野古新基地建設反対を改めて明言し、さらには「海兵隊の削減」という文言も平和宣言の中に初めて盛り込んだ。これは、間違いなく5月26日の県議会全会一致決議や6月19日の県民大会でのアピールを受け止めてのことである。 他方、安倍晋三首相はどうだったろうか。辺野古問題には一切触れず、日米地位協定についても、「米国とは、地位協定上の軍属の扱いの見直しを行なうことで合意し、現在、米国との詰めの交渉を行なっている」などと「焼け石に水」にさえならぬ小手先の交渉を、もったいぶって述べた。沖縄県民の心の痛みを、これっぽっちも理解しようとしていない。 式典に参加し、国際反戦集会に立ち寄った糸数慶子参議院議員もこう言う。「本当は、首相の軽い言葉を聞きたくないんですが・・・、追悼の気持ちを表すために出席しました。翁長知事は、しっかりと日米地位協定の抜本改定を訴えて大きな拍手を浴び、首粕への拍手はまばらでした」 翁長知事就任後のこの1年半の出来事が、脳裡を駆け巡る。 安倍首相や菅義偉(すがよしひで)官房長官は、2014年12月の翁長知事誕生後の就任の挨拶(あいさつ)さえ、約半年も拒絶した。知事と政府首脳の初会談が実現したのは、15年4月から5月。 実際に会談が実現してみると、政治家としての言葉の重み、説得力の「差」が露(あら)わになった。地方の首長である翁長氏のほうが、中央政府のトップの安倍氏らよりも、政治家として遥かに「格上」に見えたのだ。 それは先の「戦争体験」をどのように噛みしめて政治に臨んでいるか、その違いからくる存在感の差ではないかとわたしは思う。 沖縄の多くの人々が無理やり体験させられた凄惨極まリない沖縄戦。その痛み、苦しみ、悲しみ、憤り、やるせなさ。あるいは生き延びてしまったことの罪悪感。こんな思いは二度と本当にしたくない、という切実な願い、心底平和を求めてやまない祈りの強さ。それが沖縄の民意の背景にあり、翁長知事は、それを背負ってマツリゴトに臨んでいる。 しかし安倍首相や菅官房長官らには、人の「痛み」に対する想像力が足りない。いつでも口だけは「県民の皆さんの気持ちに寄り添って基地負担軽減に取り組む」などと言うのだが、あらゆる選挙で明確に示してきた「辺野古新基地は許さない」という県民の思いさえ、一顧だにせず、踏みにじる。 この国の政府は、沖縄の人々から強烈に懲らしめを受ける日が来る。そう思えてならない。わたせ なつひこ・ノンフィクションライター。2016年7月1日 「週刊金曜日」1094号 29ページ「政府が沖縄に懲らしめられる日が来る」から引用 沖縄県は面積でも人口でも日本の中でそんなに大きな比率を占めるわけではありませんが、先の大戦を終了させるための時間稼ぎで沖縄県民に多大な犠牲を強いたという歴史は重要視されるべきです。それどころか、戦後の安全保障のためと称して米軍基地の74%を押しつけているという事態も、補助金を出して解消できる問題では無いということを、政府は理解する必要があります。沖縄の人々が日本政府を懲らしめに立ち上がる前に、政府は沖縄県と誠意をもって話し合いを始めるべきです。
2016年07月07日
皇室と国民は強い絆で結ばれているとする日本会議の主張はフィクションであると、愛知県・日吉神社の宮司、三輪隆裕氏が、5月27日の「週刊金曜日」で解説している;日本会議は、「伝統」こそがあらゆる価値の中心と見なす。改憲も、「現行憲法は日本の伝統に合わない」からと言う。だがその「伝統」とは、神道では異端である明治時代の国家神道なのだ。-日本会議は、「皇室と国民の強い絆」は「千古の昔から変わることはありません」と主張し、これが「伝統」だとしています。日本会議と密接な宗教法人の神社本庁もそうですが、天皇の価値を強調し、「国民統合の中心」に置こうとするのは、「伝統」だから、という論理なのですが。 いや、それは「伝統」ではありません。江戸時代にはごく一部の知識階級を除き、「京都に天皇様がおられる」ということを庶民が知っていたか、はなはだ疑問です。本来神社とは地域の平和と繁栄を祈るためのもので、この日吉神社でいえば、江戸時代は氏子の地域と尾張国の繁栄を神様に祈願していました。明治になって、日本という統一国家ができたので、その象徴として「天皇」を据えたのです。-「天皇のために死んだ」とされる人々だけを祀(まつ)る靖国神社は、「伝統」でしょうか。 西欧的な一神教では「神と悪魔」がいて、敵と味方を峻別(しゅんペつ)します。しかし多神教の神道は、もともとそうしたことをしません。特に古代から日本では御霊会が行なわれており、非業の死を遂げた人々の霊を手厚く弔う習慣がありました。しかし、西欧文明を受容し、富国強兵を目指した当時の日本は、国のために死んだ人々を神々として祀り、戦死を美徳とする必要があったのです。特に戊辰(ぼしん)戦争で戦った幕府方の人々は靖国に祀られていませんが、彼らだって「国のために戦った」と思っていますよ。-なぜ神道にとって伝統でないものが、「伝統」とされたのですか。 そのポイントは、明治という時代にあります。江戸時代からの神官たちは、明治になって、社領を政府に取り上げられ、一部を除き、廃業してしまいました。そして神社は、土地も建物も国有化され、宗教から外されたのです。新しく神官となった人々にとっては、明治が最初の時代で、彼らは準国家公務員ですから、明治は栄光の時代でした。だから、明治が出発点となったのです。ところで、薩摩藩と長州藩は幕末に最初「尊王」「攘夷(じょうい)」を唱えましたが、実際に外国と一戦を交えて、とてもかなわをいことがわかった。そこで新政府を作り、開国して海外から技術やシステムを取り入れ、国が強大になったらいつか「攘夷」をやろうと思ったのです。そして欧米列強と肩を並べようとしたのが、「大東亜戦争」であったとも言えます。◆国家神道は伝統に非ず-しかし明治時代に強くなったのだから、日本会議のような右派は「栄光の明治」と呼んでいます。 たまたま日清・日露戦争で勝てただけです。私に言わせれば、明治政府は文化と宗教の破壊者です。彼らは開国した以上、それまで禁教だったキリスト教の布教を認めざるを得ませんでした。一方で、日本がキリスト教国家になると困るので、防波堤になるものを考えた。そこで、神道を宗教から外して、国民の精神を昂揚(こうよう)させるための手段とし、神社から宗教色を抜くために、仏教的な色彩を取り除こうとしたのです。これが文化破壊です。-明治維新後の廃仏毀釈(はいぷつきしやく)ですね。 明治政府が考えた対応策が、「神社は宗教ではない。国家の儀式をつかさどる機関である」という、「国家の宗祀」理論です。宗教ではなく国家の儀礼だから国民に強制でき、同時にキリスト教に対抗できる西欧の「市民宗教」的な機能を神道に持たせようと考えた。そこでは神社は国営化され、建物も敷地も国家のものになりました。神社を管理するのは内務省、宗教を管理するのは文部省と区分された。そして「宗教ではない」からと、神社の宗教行為まで禁止したのです。儀式だけやれと。布教したらダメで、それに代わって国家が国民の教化のために作ったのが、「教育勅語」だったのです。しかしこのように一つの価値観と規律で国民をしばる、などという発想は、多神教の神道にはありません。-そうすると、国家神道は、神道の歴史ではきわめて特殊だと。 それが、今の神社本庁には理解できないのですね。戦後、占領軍の「神道指令」で国家神道は解体されました。その後、神社は生き残るために宗教法人・神社本庁として再出発しますが、当時の神道界のリーダーは、ほとんど明治時代に神主になった人だったため、それ以前の本来の神道ではなく、明治政府が作った神道が「伝統」だと思ってしまった。その感覚が、戦後70年経ってもまだ残っているのです。-だから今日も、過度に「天皇の価値」を強調するのでしょうか。 天皇は国民を思い、国民は天皇を敬愛し、大切にするという、天皇を頂点とした一種の家族主義的国家観、「国体」観が明治以降、国民の意識に植え付けられましたからね。しかし、家族主義というのは、せいぜい通用するのは家庭内とか友人関係、つまり「顔」の見える範囲の社会です。それを国家のような巨大な社会まで拡大したら、危険ですよ。なぜなら近代の民主主義の前掟は、「人間を信用しない」ということです。だから人々が契約を結び、違反したら法で裁かれる。法治社会です。どんなに素晴らしい政治家でも、常に人々にチェックされます。しかし、親子間係は、契約で結ばれていますか。違うでしょう。家族主義を国家まで拡大すると、権威主義や全体主義となります。「良いリーダーの元に素直な人々が結集して良い社会を作る」。これが一番危険です。戦前のファシズム、あるいは共産主義もそうです。カルト宗教なんかも同じです。今のイスラム原理主義もそうです。民族派の人たちが主張するような社会になったら、また昔の全体主義に逆戻りしますよ。◆神社の改憲署名に違和感-そうした「国体」観を破壊した占領軍が作ったのだから、現行憲法は改憲しろ、というのが日本会議と神社本庁です。今年の正月には多くの神社で、日本会議系の「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の改憲署名用紙が置かれていました。 人々は神社にお参りに来たのであって、改憲署名には違和感を覚えたのではないですか。しかし、ほとんどの神社の宮司は、本庁から書類が来ているのでそのようにしているだけです。-まったく、意外ですね。 それが、全体主義の怖さなのです。個々人が自分の頭で考えず、「組織から言われたから」と引きずられる。主体性がない。-改憲をどう考えていますか。 時代に合わせて改憲をするのはよいことです。しかし、方向性が問題です。現在の世界で、人類社会の基本的価値として認められている、民主主義、基本的人権、自由で平等な社会、経済の市場システムといったものをより強く育んでいけるような憲法なら変えてもよい。しかし、日本の独自性とか、妙な伝統とかいったものを振りかざして、現代の人類社会が到達した価値を捨ててしまう可能性があるような憲法なら、変えないほうがよい。日本会議の改憲案は世界の共通価値と離れ、時代錯誤の原理主義と権威主義に満ちている。私は、自身のブログで詳細に論じています。-三輪さんのような考えは、神社界では異端なのですか。 私自身、右でも左でもないリベラリストだと思っていて、似たような考えの人は他にもいますよ。聞き手・まとめ/成澤宗男(編集部)2016年5月27日「週刊金曜日」 1089号 20ページ「明治時代の天皇崇拝は神道の長い歴史では特殊」から引用 西欧の一神教と違って、日本の神道は元々多神教であるから、靖国神社が初め天皇のために戦って死んだ者のみを祀り、幕府軍側の死者を除外したというのは、わが国の伝統にそぐわない新興宗教であったこと示しており、これは多くの専門家が指摘するところです。また、家族主義というのは家族の間にのみ通用するもので、これが国家体制となると、それは全体主義であるとの指摘も、現代の人々にとっては重要なポイントと思われます。70年前に敗戦を迎えるまでは、日本人はみな天皇の赤子であって、それを拒否する者は「非国民」のレッテルを貼られて配給米の受領も拒否されるという残酷な社会だった。そういう事態を二度と招かないように、極右の日本会議の動向には注意する必要があります。
2016年06月22日
赤旗編集局編「語り継ぐ 日本の侵略と植民地支配」(新日本出版社刊)について、5月22日の「しんぶん赤旗」は次のような書評を掲載した; 本の宣伝コピーにある「過去の過ちと真撃(しんし)に向き合ってこそ未来がある」との言葉が、アジアの国々に対して、敗戦後70年の日本がとるべき姿勢の全てを物語っている。 「前事不忘 後事之師」。現代を生きる日本人一人一人が、曽祖父母・祖父母の時代に、アジアの国々に対し何をしてきたのかを忘れることなく、近代の歴史を見つめ反省してこそ、平和な未来への展望が開けてくる。 若い記者たちが当事者しか語り得ない戦場での事実、被害と加害、その両方に光を当てて聴き取り、記録された証言が並んでいる。「庶民の語る歴史」、オーラルヒストリーの「重い言葉」が詰まっている。「日中アヘン戦争」「ソ満国境要塞(ようさい)建設の強制労働」「重慶爆撃による被害」など、これまでの歴史書ではあまり伝えられなかった貴重な証言もある。 戦争は謀略で始まる。戦争をやりたくてたまらない老人・金持ちが戦争を始め、若者や子ども、女性が犠牲になる。戦争を始めた老人・金持ちは、誰も責任を問われない。関東軍による「満洲事変」しかり、ブッシュによる「イラク戦争」しかり。 記事の終わりに略年表が添えられてあったり、図版や地図も多く、視覚的にも理解を深める工夫がなされている。さらに、「大日本帝国の侵略地図・近代侵略年表」が冒頭に備えられていたならば、近代史を学ぶ若い読者の理解がより一層深まるのではないだろうか。 「侵略の歴史」「戦争による負の遺産」を学ぶ書として、この本を多くの若者にぜひとも読んでもらいたい。過去の過ちを真摯に見つめ、歴史の真実に迫る、導きの良書である。(今井雅巳・高校講師)赤旗編集局:阿部活士、栗原千鶴、小林拓也、本田祐典、本吉真希、若林明記者ら2016年5月22日 「しんぶん赤旗」日曜版 29ページ「戦争による負の遺産を学ぶ」から引用 敗戦から70年も経ってしまって、戦争を体験した人たちは年々少なくなっていく今日、体験者の記憶を記録に残すことは大変貴重な作業になりました。また、後世の人たちも昔どんなことがあったのか、具体的に認識する上で役に立つ資料となるので、今後も精力的に聞き取り調査を行い、こういう本をどんどん出版してほしいと思います。
2016年06月13日
原発の建設計画を住民パワーで阻止したという輝かしい歴史を持つ新潟県の住民は、この度建設反対の住民投票から20年という節目に、記念行事を計画していると、18日の東京新聞が報道している; 旧巻町(現在の新潟市西蒲区)の東北電力巻原発建設を巡り、「反対」が多数を占めた住民投票から8月で20年となるのを機に、住民有志ら5人が、写真や新聞記事などで当時を振り返る催しを計画している。メンバーは「一つの区切りとして、住民投票という民主主義の原点が巻町にあったことを後世に伝えたい」と話す。 催しは郷土史家の斉藤文夫さん(83)らが企画。7月31日~8月21日、西蒲区岩室温泉の観光施設「いわむろや」で開かれる。8月7、14の両日には同区福井の旧庄屋佐藤家で、これからの巻地域を考えるシンポジウムなども予定されている。 展示されるのは、原発計画が明らかになった1969年から96年の住民投票までの間に、斉藤さん自らが撮影した写真や新潟日報の記事など。建設予定地だった角海浜の住民が離村する様子や原発反対の住民が議場で座り込みをした写真など約150点を紹介し、建設推進派と反対派双方が作ったチラシも展示する。 斉藤さんは「もう10年先だと、われわれが年齢的に見ても厳しく、後世に伝えることはできない。20年の節目として原発建設計画でまちが揺れた状況を写真や記事から感じ取ってほしい」と話している。<巻原発建設計画> 東北電力が1971年に計画を正式発表した。国の電源開発基本計画に組み込まれ、同社は建設予定地約205万平方メートルのうち約96%を買収した。だが、95年の住民による自主管理の住民投票では「建設反対」が「賛成」を大きく上回った。96年の条例に基づく住民投票(投票率88.3%)でも「建設賛成」の7904票に対し、「反対」は1万2478票に上った。99年には当時の町長が炉心予定地に近い町有地を「民意尊重派」の住民に売却した。これに異を唱えた原発推進の町民らが住民訴訟を起こしたが2003年に最高裁で退けられ、同社は計画を撤回した。2016年5月18日 東京新聞朝刊 11版S 25ページ「『原発ノー』足跡後世に」から引用 原発反対派は自主管理の住民投票でも条例に基づく住民投票でも勝利し、町長選挙でも反対派町長を当選させてなお、政府の後押しを受けた大企業の圧力に負けそうだったところ、危ういところで町長が炉心予定地だった町有地を「民意尊重派」の住民に売却するという「はなれ技」を使って、ようやく建設計画を撃退したという感動的な歴史の足跡と言えるもので、新潟市民のみならず全国民が、民主主義とはこうして守るものだという原点としての巻町の歴史に学ぶべきと思います。※ お断り ※私の手違いにより、23日の「日記」を先に書き込み、22日の「日記」を後から書き込むことになりました。ご不便をかけますが、ご了承下さい。
2016年05月22日
インパクト出版会から刊行された『沖縄戦場の記憶と「慰安所」』について、フリーライターの山城紀子(やましろのりこ)氏は8日の「週刊金曜日」に、次のように書評を書いている; 沖縄には「慰安婦」に関連する3つの碑がある。不法滞在者になった元「従軍慰安婦」に対して、1975年、入国管理局が在留特別許可を出したとする新聞報道で存在が知られることになったぺボンギさん(91年死去)。97年、彼女が「慰安所」生活を送った渡嘉敷(とかしき)にアリランの碑が建った。また「慰安婦」被害者に対する碑文を刻んだ「恨(はん)の碑」が読谷村(よみたんそん)に。そして、宮古島にも「慰安婦」を見た住民の提案を機に2008年、「慰安婦のための碑」(「アリランの碑」とアジア太平洋戦争期に「慰安婦」とされた女性たちの12カ国の言語で碑文を刻んだ碑「女たちへ」)が建てられた。 2月半ば、宮古島を訪ねた。本書に登場する与那覇博敏(よなはひろとし)さん(82歳)に初めてお会いした。子どもの頃、「慰安婦」にされた女性たちに会った人である。「坊や、坊や」と与那覇さんを呼んだ女性たちの話をしてくれた。与那覇さんの家の前を通ってツガガー(宮古の方言で井戸)で洗濯をするため行ったり来たりを繰り返していたという。クース(唐辛子)をあげて喜ばれたこと、軍主催の演芸会の時に女性たちが歌った「アリラン」の歌を覚えたこと、大人になって女性たちが宮古にいたことの意味を知ったことなどを語ってくれた。自宅そばの大きな石は、彼女たちが洗濯の行き帰りにいつも休んでいた石である。 著者は与那覇さんと会った時の様子を本書の第9章で描いている。「彼は何もない野原の中の『慰安婦』が休んだ場所にぽつんと大きな石を置き、その周りの小さな花たちに水やりをしていた。『慰安婦』たちを記憶にとどめようとしていたのである」。まさにその石が「アリランの碑」である。 日常の暮らしの場が戦場となり、住民の4人に1人が犠牲になった沖縄では、長いこと沖縄戦の記憶が沈黙の中にあった。生存者や体験者が文字や言葉で伝えるようになったのは沖縄戦から「33回忌」を経た70年代後半からである。「性暴力」や「性被害」について語りあうのはさらに時間を必要とした。ジェンダーの視点から社会や歴史を問い直し、議論を積み重ねた90年代に入ってからである。 44年3月に第32軍が創設されてから沖縄戦が始まるまでの1年間に、のベ145か所の慰安所が作られたことがわかっている。日本軍が配備された場所には必ずといっていいほど慰安所が設置され、日本軍の移動に伴って慰安所もまた移動した。 本書は韓国の若い女性の学者が10年以上にわたって韓国、東京、沖縄を行き来しながら「沖縄戦」と「慰安所」を中心に聞き取り調査をしてまとめた学術書である。「陣中日誌」や市町村誌を読み込み、沖縄戦や慰安所に関する論文や書籍に目を通すなど、気の遠くなるような労に挑み、一冊の本として刊行されたことに大きな拍手を送りたい。 住民の見た「慰安所」の記憶にこだわり続けた視点が生きている。文字を追いながら「慰安婦」にされた戦場の中の女性たちのさまざまな姿を想起させられる。兵隊と共に命がけで戦場を逃げ惑う姿、「朝鮮ピー(性器)」と蔑まれる様子、戦闘が激しくなってからは補助看護婦として働かされていたことも記憶されている。 戦時下、そして軍隊との関わりで女や子どもに何が起こるか、「慰安婦」に出会った人たちの証言は普遍的な意味を持つ。5兆円という過去最大の防衛費予算が組まれ、安保関連法が施行されてしまった今だからこそ、手にしてほしい一冊である。2016年4月8日 「週刊金曜日」1083号 50ページ「住民の見た『慰安所』の記憶にこだわり続けた視点」から引用 慰安婦問題に関する学術分野の研究は日々進歩しており、具体的な事実が次々と明らかになっているにも関わらず、日本政府の認識は河野談話を発表した時点で政府が確認した史料のみであり、その後も政府機関が保管している史料の中なら新たな史実がでてきても目を向けようとしていません。しかし、そのような姿勢では国際社会の趨勢について行けなくなりますから、やがては河野談話よりも踏み込んだ「談話」を発表しなければならない事態が到来することでしょう。その時までに、私たちは歴史と率直に向き合う能力をもった政府を用意したいものでございます。
2016年05月11日
中谷防衛相がテレビ番組で憲法9条の改変に意欲を示したと、2月28日の東京新聞が報道している; 中谷元・防衛相は27日、テレビ東京番組の収録で将来的な憲法9条の改正に意欲を示した。「自衛隊の存在も意見が分かれる状態だ。国の安全保障の基本的なところは国民が分かりやすいように制定すべきだ」と述べ、自衛権の明記を求めた。 同時に「具体的な改正案は各政党で議論して提案すべきだ。時間をかけて丁寧に議論し、どうするかを決めるべき問題だ」とも強調した。 自民党の谷垣禎一幹事長はBS朝日番組で、9条改正について「変えた方がいいと思うが、今まで日本は一度も改憲したことがなく、いきなり難しい項目に取り組むのは無理だ」と慎重な姿勢を示した。 柴山昌彦首相補佐官は27日午前のテレビ朝日番組で、戦力不保持を定めた9条2項について「憲法学者にも自衛隊の存在がおかしいと述べる人がいるような条文は、分かりやすく改める必要がある」と述べた。 同日午後の埼玉県川越市での講演では、自衛隊と9条2項の関係について「国内では(政府解釈で)軍隊でないと言っても、海外では軍隊として扱われる。残念だが、国民をいわば欺いているのが実態だ」と述べた。2016年2月28日 東京新聞朝刊 12版 2ページ「『自衛権明記を』9条改憲に意欲-テレビで防衛相」から引用 中谷防衛相は憲法改正について「時間をかけて丁寧に議論」するべきだと発言しているが、自民党は戦後の結党以来長い時間をかけて憲法改正を呼びかけてきており、すでに70年間も時間をかけてきたが、未だに衆議院で3分の2を超す議席を得ることができずにおり、この間、自民党は憲法改正や増税を議論するたびに得票数を減らすという経験をしており、こういう問題に関する議論には慎重だったのであるから、このような経緯から、国民の意向は明らかになったと判断するべきである。戦後70年間、幸いにして自衛隊は国防のために武器を持って活動するような機会は無かったのであるから、政府は平和国家としての路線に自信を持って、軍事部門は実情に合わせて縮小していくべきで、最終的には自衛隊は「災害救助隊」に改組するべきである。
2016年03月18日
米国コロンビア大教授のキャロル・グラック氏は、慰安婦問題に関する日韓両国政府の合意について、2月28日の東京新聞に次のように書いている; 昨年12月末の慰安婦問題をめぐる日韓両国の合意は、両政権の政治的な戦略に基づいたものだった。 事前に元慰安婦の声を十分に聞いたとは言えないし、安倍晋三首相は直接、元慰安婦に謝罪をしていない。首相はこれまで、演説などで女性の人権の大切さに言及しても慰安婦問題には直接触れない。女性の人権と慰安婦問題を分けて考えているのだろう。これも政治的な技法だ。 日韓両政府が慰安婦問題の「最終的かつ不可逆的」な解決を強調しても、これで終わると考えるのは無意味だ。記憶し、記憶されなければならないという市民らの動きは、政府間の合意に関係なく続いていくだろう。 今、戦争に関する共通の記憶が、世界的な文化となっている。欧州では1960年代になって、ナチスによるホロコーストの被害が裁判で証言された。90年代には韓国の元慰安婦が声を上げた。犠牲者が語ることで加害者も語り始め、戦争中に何が行われていたかが明らかになり、歴史の見方が大きく変わった。 政府が語る戦争物語から外れた人たちが、「記憶の権利」を主張するようになった。将来二度と繰り返さないために忘れてはならないということ、補償や謝罪を求めている。 過去を知る責任があるという考えが生まれている。過去は単なる過去ではない。現在の中にも「過去」があり、分けることはできない。こうした考え方が、慰安婦問題を知ることで、女性に対する性暴力をなくそうとの運動につながっている。私たちは、声を上げた元慰安婦たちに対して責任を負っている。 歴史を政治の道具にして、国民を操作しようとする指導者もいる。だからこそ私たちは、戦争に関する共通の記憶を持ち続けることが大切だ。米コロンビア大教授 キャロル・グラックさん 1941年生まれ。専門は日本近現代史。昨年、欧米の日本研究者らと「過去の過ちの偏見なき清算」を求める声明を発表。500人近くが賛同し、署名した。2016年2月28日 東京新聞朝刊 12版 1ページ「戦争 記憶し続ける」から引用 この記事が述べているように、昨年暮れの日韓合意は慰安婦問題が解決したことを示したものではなく、この問題を日韓両国が協力して解決していこうという合意に達しただけである。これで慰安婦問題の被害者救済が実現するかどうかは、これからの課題である。そして、グラック教授の見立ててでは、うまくいく見込みはない。その理由の一つには、両国政府とも元慰安婦の訴えに十分に耳を傾けていないことを指摘しており、もっともなことだ。したがって、日韓両国の市民は、今後もこの問題から目をそらせてはならないし、戦争に関する共通の記憶を持ち続けることが大切であるということだ。
2016年03月17日
慰安婦問題について日韓両国政府が合意して約1か月ほどたった今年の1月末、2人の元慰安婦の女性が日本の市民団体の集会に参加するために来日し、記者会見にも応じました。そのときの様子を、2月7日の「しんぶん赤旗」が次のように報道しました; 「私たちの苦しみ、痛みを聞いて、考えてほしい」-。韓国の日本軍「慰安婦」被害者らが来日し、性奴隷とされた体験を証言しました。「慰安婦」問題をめぐる日韓両政府の合意から1カ月。被害者の思いは-。<本吉真希記者> 来日したのはソウル近郊の「ナヌム(分かち合い)の家」に暮らす李玉善(イ・オクソン)さん(88)と姜日出(カン・イルチュル)さん(87)。東京と大阪で開かれた記者会見や集会に出席しました。(1月26~31日) 2人はともに数えで16歳のとき、日本の植民地支配下にあった朝鮮から「満州」(中国東北部)に連行されました。 「『慰安婦』は兵士にモノとして投げ与えられた」と語る李さん。日本軍の慰安所で一日に40~50人の相手を強いられた日もあり、抵抗すると暴力を振るわれました。右手を見せながら「ここに刀で刺された傷がある。足にもある。慰安所は”死刑場”のようだった」と話します。 当時、日本軍は李さんらの目の前で、性こういを拒んだ14歳の少女を殺しました。「私たちは涙を隠し、耐えるしかなかった」と李さん。道端に捨てられた少女の遺体はのら犬に食べられ、遺骨も残らなかったといいます。 姜さんは「『慰安婦』は人間扱いされなかった。泣けばたたかれ、頭に傷が残るほどの暴力を振るわれた」と帽子を脱ぎ、何度も傷跡を指さしました。「安倍(晋三)首相は私たちの被害を明確に認めてほしい。私たちの前に来て、正しく謝罪するべきだ」と訴えました。◆問題の本質否定 安倍政権は今回の合意で「軍の関与」を認めました。しかし安倍首相は、その後の国会で「性奴隷といった事実はない」と答弁(1月18日、参院予算委員会)。女性たちが軍慰安所において、性奴隷状態に置かれたという「慰安婦」問題の本質を否定しています。 李さんは「慰安所はあまりにつらく、拒めば殴られ、殺された人もいる。自ら命を絶った娘もたくさんいる。それをうそだといわれることが、どれほど悔しくて腹が立つか」と怒りの涙を見せました。 2人に同行したナヌムの家の安信権(アン・シングォン)所長は「被害者個人の人権と請求権の問題にもかかわらず、政府間で勝手に合意したことをハルモニ(おばあさん)たちは大変残念に思っている」と語り、こういいました。 「被害者たちが具体的に体験を語るのは、戦時下の性暴力が二度と起こらないようにするためです。だから『軍の関与』という漠然としたものでなく、日本軍が慰安所を設置して管理、統制し、女性たちに性こういを強要したという、人権をじゅうりんした問題であることを日本政府が公式に認め、謝罪してほしい。それがハルモニたちの願いです」◆合意に基づく真の解決を笠井、紙両議員が被害者と懇談 妻日出さんと李玉善さん、「ナヌムの家」の安倍権所長は、日本共産党の笠井亮衆院議員、紙智子参院議員と国会内で懇談しました(1月26日)。 姜さんらは、ナヌムの家をこれまでに3度訪問している笠井議員との再会を喜びました。笠井議員は、被害者や支援者らのたたかいが、今回の合意で安倍政権に「おわびと反省」「責任を痛感している」といわせたと敬意を表しました。 その上で、合意後も自民党議員による暴言や、これを放置する政府、合意が履行されてもいないのに「終止符を打った」(同22日、衆参両院本会議での施政方針演説)などとする安倍首相の言動を批判。「合意に基づき、加害と被害の事実を具体的に認め、それを反省し謝罪することが重要だ。安倍政権をこの立場に立たせるよう一層努力していきたい」と語りました。 また「被害者の名誉と尊厳が回復され、心の傷が癒やされてこそ真の解決になる」とし、安倍首相が直接出向いて謝罪し、納得を得ることが大事だと語ると、姜さんは「まさにそれが私が望んでいることです」と応じました。2016年2月7日 「しんぶん赤旗」日曜版 33ページ「私たちの苦しみ 聞いて」から引用 慰安婦問題解決の方向性について日韓両国政府が合意に達したことは喜ばしい前進であったと言えますが、これで問題が解決したわけではありませんから、日韓両国政府は合意に基づいた政策を速やかに実施して被害者救済に尽力するべきで、同じ過ちを二度と繰り返さないように、歴史教育を通じて子孫に語り継ぐことも大切であり、記事が指摘するように、最終的解決には、やはり安倍首相が「ナヌムの家」に出向いて、直接被害者の人々に謝罪する必要があると思います。※お断り 文中「性こうい」という言葉は、記事中は漢字3文字で記載されてますが、楽天ブログでは漢字3文字ではエラーになるので、引用者の判断でひらがな混じりの表現に変更しました。
2016年03月15日
社会派作品を多く発表している東京芸術座は、本年1月の100回目の公演に「勲章の河-花岡事件」を上演しました。1月24日の「しんぶん赤旗」は、次のように紹介しています; 1959年の創立以来、「蟹工船」など社会派作品を多くつくってきた東京芸術座が今月、100回目の公演として「勲章の川-花岡事件」を15年ぶりに上演します。テーマは、敗戦直前に秋田県大館市で起きた中国人強制連行・虐殺事件。演出家と俳優が魅力を語ります。(大塚武治記者) 花岡事件は45年6月30日、花岡鉱山で、強制連行された中国人が鹿島組(現・鹿島建設)の奴隷的な労働に抗して一斉蜂起した事件です。しかし軍や警察に鎮圧され、暴行・拷問により7月だけで100人が死亡しました。これを含め、連行された986人中419人が亡くなりました。 物語は30年後の大館市で、高校教師が事件を授業で取り上げようとしたことから始まります。住民から「もうすんだことだ」と抗議が殺到し、校長は教師に授業中止を要請。騒ぎを面白がった一人の生徒が、夕食の場で父母に当時何をしたのかと尋ねます。なごやかな空気は一変-。(稽古風景;なごやかな食事時間が、事件の話がでて一変する) 父親役の手塚政雄さんは、「中国人の鎮圧には、警察や警防団だけでなく、住民も含めのベ2万4千人以上が動員されたそうです。私が演じるのは、事件に加担した苦悩を戦後もずっと抱えている役。難しいです」。 母親役の樋川人美さんは、「戦争がいかに市民に傷を負わせるかが伝わればと思います。この母は家庭の平和を一番に考えて夫を必死に守るけれど心の傷はぬぐえない。そんな母の強さと苦しみが出せたら」と話します。 戦争末期、政府は不足した労働力を補うため、中国人4万人を強制連行し、全国135カ所の炭鉱や河川工事の現場などで働かせました。花岡はその一つ。被害者は政府に、国家責任を明確にし、謝罪・賠償をするよう求めています。 演出の印南貞人さんは、「首相が改憲をロにし、自主規制の名で各地の公民館などで平和運動への攻撃・萎縮が起きていて、とても危機感があります。現状をストレートに問う芝居を今やらなければと思います」。 ◇ 81年初演。学校公演だけで500ステージ以上を重ねてきた劇団の代表作の一つです。 物語に希望を与えているのは、教師の勇気です。教師は、事件の授業が町民を傷つけることになるのではと悩みながらも、過去を語り継ごうとする住職たちに励まされ、授業をしていきます。 「終盤、先生は生徒に、なぜ授業をしたかを語ります。”それは君たちを信じるからだ。未来は君たちのものだからだ”と。負の歴史を見過ごして平和はつくれない。他人の痛み、世界の痛みをわがこととして考える人に育ってほしいと思います。先生の言葉は、私たちが演劇を続ける思いと重なります」(印南さん) 「テロや隣国との緊張が高まると、報復だ、攻撃だとなりがちです。でもそこで立ち止まり、憎しみは憎しみしか生まない、振り上げた手は誰に向けたものかと考えたい。見た人が自分を変革できるような芝居をつくりたい」(手塚さん)2016年1月24日 「しんぶん赤旗」日曜版 30ページ「鎮圧に加担 苦悩抱え生きる市民」から引用 70年前に日本の敗戦で終わった戦争とは、どのようなものであったか、後世の我々が実感をもって知る上で、上記の芝居は大変役に立つと思います。大陸から中国人を強制連行したこと自体が国家による犯罪であり、十分な食料も出さずに過酷な労働を強制したことも違法です。そういう戦争犯罪が戦後、どのように断罪されたのか、戦後70年経ってもまだ裁判で争っているとは、どういうことなのか、いろいろ考えさせられる記事です。
2016年03月13日
今年から18歳で選挙権を得ることになった件について、作家の赤川次郎氏は2月21日の東京新聞コラムに、次のように書いている; このコラムの第1回で、「高校生平和大使」の記事について書いた。ジュネーブの国連欧州本部で高校生たちが核廃絶を訴えるという内容だった。2月3日夕刊2面には包括的核実験禁止条約(CTBT)のシンポジウムがウィーンで開かれ、広島女学院の3年生が「核兵器なき世界は実現すると、子供たちに信じさせてください」と発言、大きな拍手を受けたと報じていた。この新聞らしい爽やかな記事だった。発言した女学生の感想も聞きたかったが。 私自身の高校生のころを振り返ると、公害問題や差別、実現されない正義、自由への抑圧などへの激しい怒りを常に抱えていた。今の高校生はどうなのだろう。 18歳以上が選挙権を持つことになったが、2月10日「こちら特報部」では「高校生未来会議」について取り上げていた。各政党が参加して公平な議論を、という趣旨のようで、結構なことだと思う。ただし、前提となるのは開催する方も参加する方も社会に対する問題意識を持っていることである。「なぜこうなのか」「どうしてこうできないのか」大人に疑問をぶつける機会でなければならない。 特に「原発再稼働」や「武器輸出」について自由に議論するには、企業からの協賛を受けるべきではないだろう。 大人の話を聞いて、「ものわかりのいい高校生」になることだけは、意識して拒まなければいけない。 国が与える「明るい未来」を信じた悲劇が戦時下の「満蒙(まんもう)開拓団」である。戦争中、国は「中国へ行けば楽園のような暮らしが待っている」と宣伝映画まで作って、大勢の日本人が中国へ渡ったが、そこは冬にはマイナス30度にもなる過酷な大地だった。しかもそこは中国人から奪った土地で、敗戦後、開拓団の人々は中国人や侵攻して来たソ連軍に襲われ、集団自決などの悲惨な運命を辿(たど)った。逃走するにも、先に逃げた軍部は、追跡を恐れて橋を破壊。大勢が川を渡ろうとして溺死した。軍隊は国民を守らないという歴史の真実がここにある。 しかし今、政治の未来は危うい。「閣僚発言広がる波紋」(2月10日2面)に並ぶ、高市総務相の「電波停止」発言、丸川環境相の除染目標値に「根拠なし」発言に加えて、「歯舞(はぽまい)」が読めない島尻沖縄北方相・・・。そして辞任した甘利経済再生担当相の「金銭授受」問題では、安倍首相の支持率が下がるかと思えば「辞め方が潔い」からと逆に支持率が上がったとか。 安倍首相が次の選挙に正面から改憲を打ち出したのは、今なら何をやっても大丈夫と思ったからだろう。 そんな政権が与える「バラ色の未来」を信じたら、どんな闇へと導かれるか、若い人々には冷静に見きわめる目を持ってほしい。2016年2月21日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「新聞を読んで-18歳選挙権の『未来』」から引用 昔は、義務教育が終わるとそのまま社会に出て働く人も多くいたが、最近は高校、大学と進学する率が上昇しているので、選挙年齢を引き下げるというのは、社会経験の観点からは逆行であるような印象も受ける。経験がないままに、社会のあり方を考えるには、上記の記事が指摘するように、いろいろと注意が必要だ。原発問題、武器輸出問題などを議論するには、企業のひも付きの集会などではダメなのであり、ましてや国家が吹聴するような「明るい未来」など信用すると、どういう目に遭ったか、我々の祖先の経験を正しく子孫に伝えるべきで、例えば「軍隊が国民を守る」などというのは虚構であることなどは、しっかり伝えていきたいものである。
2016年03月07日
世の中には、放送法第4条が「倫理規範」であるということが中々理解できない人がいるようであるが、立教大学准教授の砂川浩慶氏は、2月26日発売の「週刊金曜日」に、この問題について次のように書いている; 国会での「テレビ局が政治的公平に反する番組は停波が可能」との高市早苗総(たかいちさなえ)務大臣の発言が波紋を広げている。菅義偉(すがよしひで)官房長官、安倍晋三首相も「従来通りの見解」と擁護(ようご)したが、2月15日には、個別番組内容まで踏み込んだ、新たな政府統一見解まで出された。 一昨年の総選挙前の公平公正要請、昨年4月の自民党へのテレビ朝日・NHKの呼びつけ、6月の自民党「文化芸術懇話会」での”妄言(もうげん)”、特定の新聞・テレビにしか出演しない安倍首相のメディア対応、11月のBPO(放送倫理・番組向上機構)への批判と続く、安倍政権の露骨なテレビ規制の流れ。今回の高市発言でも「報道ステーション」や「NEWS23」では「表現の自由」との関係で、政府への言論への関与を戒める取り上げ方をしていたが、情報番組では「相次ぐ女性閣僚の問題発言」の一つとするなど、全体としての取り組みは弱かった(安倍チャンネルといわれるNHKはいわずもがな)。毅然(きぜん)たる対応を今こそ取らなければ、ますます安倍政権はメディアに踏み込んでくる。 今回問題となっている「政治的公平」を含む放送法第4条の「番組編集準則」が「倫理規範」にすぎないことは、1950年の放送法制定時から長年の議論で明白である。したがって、放送法には直接的な罰則規定がない。93年のテレビ朝日報道局長発言で、当時の放送行政局長が「最終的には郵政省(現総務省)が判断をする」と発言して以降、今回のような「4条違反は電波法76条による免許停止が可能」との見解が出てきたが、適用例はない。「倫理規範」と解釈されてきたのは、放送法が憲法21条「表現の自由」を具現化されて生まれた経緯があるからだ。戦前の大本営発表によって国民が冷静な判断を行なうことができず、敗戦にいたった反省を踏まえ、放送法は制定された。憲法の「表現の自由」は国民一人ひとりに与えられているものだ。国家権力と国民の間に立って「権力の監視」を行なうメディアの「表現の自由」が規制を受けると多様な情報が流れなくなり、国民の「表現の自由」も失われる。とくに政治情報はそうだ。したがって4条を根拠にメディア規制を行なえば、放送法自体が憲法違反となるのだ。 放送法を「規制」の観点から捉える安倍政権は「表現の自由」の大切さを軽視している。「安倍政権こそ表現の自由を重視している」といった安倍首相の発言の”軽さ”にその間題が如実に表れている。 このような国家とメディアと国民の関係について、メディアはもっと取り上げ、解説すべきではないか。折しも、2月21日に放送されたNHK「新・映像の世紀」では、20世紀後半の社会変革で「映像」が果たした役割をはっきりと示していた。NHKも含め、テレビ界に「表現の自由」の重要性を示す、番組を期待したい。このままでは戦前回帰が現実のものとなる。すなかわ ひろよし・立教大学准教授。2016年2月26日 「週刊金曜日」1077号 38ページ「メディアウオッチング-高市発言問題にみる安倍政権やメディアの『表現の自由』軽視」から引用 この記事が指摘するように、戦後になって放送法が制定された理由は、戦前のような偏向した報道をしてはならないという反省から、ということです。戦前は、新聞もラジオも、政府や軍部の意向を忖度して政府や軍部を批判する報道は皆無、前線から戻った兵士から「日本は不利」という話が漏れ伝わっても取り上げず、大本営発表のみをニュースとして報道した、そういう反省から、放送局は自律して活動するべきであるという主旨で放送法が制定されました。しかし、ここにきて高市大臣がいうように、政府が判断して「こういう報道はまずい」となったら「偏向している」との理由をつけて放送禁止にする、というのであれば、これは明らかに戦前回帰で、放送法の目的に反します。したがって、高市大臣は放送法の主旨をよく学んだ上で、失言を撤回するべきです。
2016年03月05日
考古学者で愛知県立大教授の丸山裕美子氏は、7世紀頃に朝鮮半島から戦乱を逃れて日本列島にやってきた渡来人について、1月30日の朝日新聞に次のように書いている;◆古代の移民・難民 海外を中心に移民や難民のニュースが流れない日はない。日本は、といえば、先日法務省が発表した速報値によると、昨年、難民認定申請を行った人は7586人、認定されたのはわずか27人である。 現在とは時代背景が全く異なるが、7、8世紀の日本は多くの難民を受け入れていた。660年に滅亡した百済(くだら)や、668年に滅亡した高句麗(こうくり)から、2千人をはるかに超える人々が海を越えて移住してきたからである。 正史である『日本書紀』や『続日本紀(しょくにほんぎ)』によると、百済の王族や貴族らはその知識や技術で官僚に登用されたし、それ以外に、近江国(今の滋賀県)に400人とか700人、東国に2千人もの百済人が集団移住し、農業に従事していた。摂津国には百済郡(今の大阪市の一部)が、武蔵国には高麗郡(こまぐん、今の埼玉県日高市ほか)が置かれたが、後者は今からちょうど1300年前の716年に1799人の高句麗人が移住して建てた郡だった。 さて、正史からは、科学展術の分野で重用された百済人・高句麗人や、官僚として活躍した百済王(くだらのこにきし)さん(もと百済王の子孫)や楽浪(さざなみ)さん(百済系)、高麗(こま)さん(高句麗系)などが知られるが、正倉院文書からは、8世紀の写経所で働く難民の子孫の姿がみえてくる。 正倉院文書の中心は、写経所の労務管理のための事務帳簿である。働く人々の作業記録や給与支払いの書類が多くあって、写経する経師らの氏(うじ)名がわかるのだが、そのなかには正史でおなじみの氏族とは異なる、より多彩な姓(せい)が認められる。 例えば、余(よ)さんや高(こう)さん。余は百済の王族の姓で、高は高句麗の王族の姓である。鬼室(きしつ)さんや難(なん)さんもいる。鬼室は、百済復興を計画した武将・鬼室福信(ふくしん)の一族であろうし、難も百済の姓である。 王(おう)、荊(けい)、辛(しん)、楊(よう)などの一字の姓の人々もそうかもしれない。ちょっと変わった姓として、既母辛(きもしん)さん、答他(とうた)さん、達沙(たつさ)さんがある。既母辛は「支母末(きもま)」という百済系の姓の可能性が高く、答他は百済、達沙は高句麗にみられる姓である。 試みに、745年の写経所で働いていた経師41人の構成をみてみよう。達沙さん1人、鬼室さん1人、難さん1人、既母辛さん2人と明らかな百済・高句麗からの難民の子孫が5人含まれる。王さんや楊さんら5人もおそらくそうであろう。他に陽胡(やこ)さんや忍海(おしぬみ)さんなど6世紀以前の移民の子孫も5人ほど見える。つまり4~5人に1人は百済・高句麗からの難民の子孫であり、3人に1人は難民・移民の子孫だったということになる。 彼らは鬼室や王など姓は本国のものをそのまま使っているが、個人の名は小東人(おあずまひと)とか広万呂(ひろまろ)とあって、すっかり日本風である。日本生まれの二世、三世であるのだろう。 写経所で働く経師らは、「試字(しじ)」という文字を美しく書けるかどうかの試験を受けて、採用された。彼らは泊まり込みで働き、一緒にご飯を食べて、共同生活を送っていた。並んだ机の隣は同じ経師で、同じように足をしびれさせつつ、毎日ひたすら文字を写していたのである。(愛知県立大教授)2016年1月30日 朝日新聞朝刊 e7ページ「丸山裕美子の表裏の歴史学-隣の机は鬼室さん」から引用 この当時の日本は大陸の漢字文化を吸収するために多大な労力を費やしていた様子がよく分かる面白い記事です。また、朝鮮半島から渡ってきた人々がその仕事に大きく貢献してくれたことも、なかなか愉快な話です。国籍に関わらず、この頃の人々の努力の結果、今日の私たちの文化的な生活があるわけで、これからも私たちは様々な近隣諸国の人々との交流から、新しい文化を創造していくことでしょう。
2016年02月05日
1月中旬の新聞記事について、作家の赤川次郎氏は24日の東京新聞に次のような感想を書いている; 「ヤクザの世界は後ろを向いているんです。義理とか仁義とかいいますが、本音は先へ進むのが怖いだけなんですよ」 自作を引用するのば気がひけるが、今から38年前の作品「セーラー服と機関銃」の一節である。ヒロインの女子高生組長を支えるヤクザのセリブだ。30歳だった私は、戦中世代の「昔は良かった」という言葉に、多分にイライラしていた。昔の価値観にしがみついている連中をブッ飛ばしてやりたい! 女子高生の機関銃の一撃には、そんな思いがこめられていた。 あれから38年。世界は、冷戦構造の終結からソ連崩壊、東西ドイツの統一、民族紛争と内戦、イスラム世界の分裂と相克…とダイナミックに動いてきた。 そんな中、日本はいまだに70年前の戦争は「侵略ではなかった」などと言い続けている。歴史認識については日本は、世界の中で誠に変わった国になってしまった。 1月16日の「こちら特報部」が取り上げた「日本の美懇談会」の記事。天照大神(あまてらすおおみかみ)の話から歌舞伎の「血の遺伝子」、「宣教師の派遣」・・・。ここまで来たか! 戦争だけでなく、美意識まで押し付けられてはかなわない。歌舞伎の世界の遺伝子に感動したらしい串田(和美)さん、中川右介(ゆうすけ)著「歌舞伎 家と血と芸」を読んでください。ずっと血統がつながっている歌舞伎役者などほとんどいないことが分かりますよ。 私はNHKの「COOL JAPAN」を見ていると恥ずかしくなる。「日本はすばらしい」と、出演者の外国人たちに無理やり言わせて悦に入っている司会者の姿に、「謙譲の美徳」という「クール」はどこへ行った?と言いたくなる。 慰安婦問題で日韓合意したとたん「慰安婦は売春婦だった」発言の自民党桜田(義孝)議員(1月14日夕刊1面)。これで相手が納得するはずがない。問われているのは本気かどうか、なのである。 一方、安倍首相は「日本は裕福な国」だと発言しているそうだ(1月19日2面)。学校給食だけが一日のまともな食事という貧困児童を知らないのか? 東京新聞が連載した「新貧乏物語・悲しき奨学金」はみごとなルポ。奨学金返済のために風俗で働く女子大生。サラリーマン家庭の収入は減り続け、大学の学費は上がり続ける。学生支援機構の職員が、厳しい取り立てをするのがつらいと嘆く。このどこが「裕福な国」?そういう耳に痛い指摘をするテレビキャスターは古舘伊知郎さんも国谷裕子さんも降板する見込みだ。 何らかの圧力がなかったとは考えられない。「心貧しくクールな(寒い)国、日本」・・・。(作家)2016年1月24日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「新聞を読んで-『クール』な国、日本」から引用 天照大神とか天孫降臨とか、若い人たちには馴染みのない言葉かも知れませんが、昔の日本では小学校の歴史教科書に書かれていたもので、これを学習しない日本人はいないという状況でした。その上、天照大神は皇室の祖先であるとか、天皇は現人神だとか、だから日本民族は他の民族よりも優秀なので、日本民族が他の民族を支配する、そういう世界をこれから作るのだということを盛んに学校教育を通して国民に教え込んだ、その結果があの戦争だったということです。70年前に、その戦争に敗れてた結果、政府も国民も反省し、天皇も「自分は神様ではない」と「人間宣言」をしたことは有名です。それが70年後、政府が関係する有識者会議で公然と「天照大神」や「天孫降臨」が語られ始めたことは、わが国の未来に立ちふさがる大きな暗雲であると言っていいのではないでしょうか。
2016年02月02日
先月も当ブログで取り上げた御茶の水書房刊「Q&A朝鮮人『慰安婦』と植民地支配 あなたの疑問に答えます」について、横浜市立大学名誉教授の中西新太郎氏は、15日の「週刊金曜日」に次のように書評を書いています; 朝鮮人「慰安婦」を貶(おとし)め、加害の責任を認めようとしない言説は克服されたのか? 業者の「人身売買」が問題で日本軍に責任はない、 大金持ちになった「慰安婦」もいる、 「慰安婦」問題解決運動は「反日」が目的だ ……濃淡の差はあれ、日本社会で広く流布され続けるこれらの誤解、謬説を取り上げ、確認された事実にもとづき丁寧に反論を加えた本書を、「慰安婦」問題の政治的・外交的結着がつたえられる今だからこそ、多くの人に読んでほしいと思う。 朝鮮史分野を中心とする執筆者たちの説明は、言いがかりに近い疑問を解消させる説得力に満ち、明快だ。その姿勢からは、あやふやな「知識」に凭(よ)りかかり、日本の植民地支配責任を回避する精神的怠惰へのきびしい批判が窺(うかが)える。随所で触れられる、朴裕河(パクユハ)『帝国の慰安婦』の主張への批判は、この書を韓国知識人の「良識」を示すものと持ち上げる日本社会の倒錯した言論状況をも問い糺(ただ)している。 性奴隷に追いやられた被害者の求める尊厳は回復されたか?「慰安婦」問題を真に解決するこの核心点が、本書での具体的論点の究明を通じて浮かび上がる。問われているのは、戦後日本社会が、その社会を生きた日本人が、そしてもちろん何よりも、戦前の植民地支配と侵略戦争への反省に立ったはずの日本政府が、「慰安婦」問題のこの核心をどう受けとめ、どう応えようとしているのかである。 歴史を忘れ去るための「解決」は歴史によって復讐される。「慰安婦」問題も植民地支配もなかったことにはできない。本書が解明している歴史的事実の一つひとつは、今後も繰り返し蒸し返されるであろう歴史修正主義の妄説に対し、力ある有効な反撃となり続けるにちがいない。2016年1月15日 「週刊金曜日」1071号 51ページ「歴史修正主義に対し 力ある有効な反撃」から引用 この記事の冒頭の文章の問いかけは、なかなか重い。従軍慰安婦については、戦後まもなくの頃には、小説や映画に取り上げられたらしいのであるが、その後は流行が廃れるような具合に人々の意識から遠ざかり、韓国で元慰安婦が名乗り出た頃には正確な事情を知る人々は高齢化したこともあって沈黙し、あやふやな知識によりかかった輩が、国家のメンツを重視する立場から元慰安婦を貶める発言を繰り返すのは、同じ日本人として実に遺憾である。ここはやはり、河野談話に述べたとおり「慰安婦の史実」を研究と教育によって子孫に語り継ぐという約束を実施するべきである。また、当ブログには時折「日本人慰安婦の問題を取り上げないのは何故だ」とのコメントが書かれることもあるが、日本人の元慰安婦の場合は、日本人であるだけにこの社会の怖さ、残酷さを熟知しているから、恐ろしくて言い出せないであろうことは容易に想像がつく。もしうっかり名乗り出たりすれば、ただでさえ大使館前に少女像が設置されただけで国家の威信がどうのこうのと騒ぎ出す輩が、束になって社会的バッシングを始めるであろう。韓国で金学順氏が名乗り出たときも、同じようなリスクが存在し、同氏はその恐怖を乗り越えて名乗り出た勇気がたたえられているが、日本においては本人が戦後の長い年月をかけて個人的努力で今日の安寧を取得したのであるから、それを今さらリスクに晒したくないと思うのは当然である。ただ、当人が沈黙しているのをいいことに何事も無かったかのように済ませるのもいかがなものかという疑問も残る。私も、同じ書籍の書評を2回も引用したからには、一冊購入して読んでみることにしたい。
2016年01月28日
このたびの「慰安婦問題」解決に向けた日韓両国政府の合意には、どのような問題があるか、大学教員の野川元一氏は15日の「週刊金曜日」に、次のように書いている;日本軍に性奴隷にされた当事者たちをそっちのけにして、日本と韓国両政府が「最終的解決に合意」した「慰安婦」問題だが、早くも日韓両国内で抗議や反対の声が巻き起こっている。これで問題は解決するのか。 本誌の先週号でも報じられたとおり、昨年末の12月28日、岸田文雄外相が訪韓して日韓外相会談を行ない、その後の共同記者会見で「慰安婦問題」が「最終的かつ不可逆的に解決」されたことを確認する、と発表した。 しかし日本政府が「解決」しようとしたのはこの間題をめぐる両国政府間の対立にすぎず、日本軍「慰安婦」問題それ自体ではない。そのことは、韓国の被害者に対するのと同様の措置をとるようにとの台湾当局の要求を、日本政府が一蹴したことからも明らかだ。 1月5日の記者会見で菅義偉(すがよしひで)官房長官は、「韓国以外の国々(に)は、それぞれの状況を踏まえて今日まで誠実に対応してきている。『アジア女性基金』も含めて政府としては対応しており、そういうなかで韓国とは、やはり状況は違う」などと発言した。 だがマスメディアではあまりとりあげられないことだが、「アジア女性基金」の事業は台湾でも厳しい批判を浴び、同基金の事業を受け入れたのは当時名乗りでていた元「慰安婦」被害者の4割弱にすぎない。「アジア女性基金」が「解決」として受けいれられなかったという意味では、むしろ台湾の状況は、被害者の約3割のみが事業を受けいれた韓国とよく似ていると言わねばならないのだ。 このように欺瞞に満ちた日韓合意だが、共同発表の直後から合意を揺るがしかねない齟齬(そご)が両国政府間に生じていた。ソウルの日本大使館から道路を一つ隔てたところに設置されている「慰安婦」像(少女像)の撤去・移設問題だ。 共同発表では韓国の尹炳世(ユンピョンセ)外交部長官が、「可能な対応方向について関連団体との協議を行う等を通じて、適切に解決されるよう努力する」と発言している。ところが、日本が表明した10億円の拠出は、「慰安婦」像の撤去が前提である-との意向を安倍晋三首相が示しているといった報道が、日本側では相次いだ。 しかし、韓国外務省は4日、ソウルの日本大使館前に設置された「慰安婦」像について「民間が自発的に設置したものであり、政府がどうこうできる事案ではない」と強調するコメントを出している。 さらに7日の参議院本会議で岸田外相は、今回の合意内容について「共同記者発表の場で発表した内容に尽きるのであり、それ以上でもそれ以下でもありません」と答弁した。だとすれば日本側が前提にできるのは韓国政府の「努力」だけであり、撤去の実現ではないはずだ。日本側のこうした報道を受けて韓国世論は硬化しており、安倍政権の今後の姿勢次第では、結ばれたばかりの合意が反古(ほご)同然となる可能性もある。◆無視された「河野談話」 日本政府は表向き、在外公館の「安寧」と「威厳」を守ることを義務づけたウィーン条約を、撤去要求の根拠としている。だが問われるべきはむしろ、道路を隔てたところに設置されたささやかな像によって、日本大使館の「安寧」や「威厳」が冒されるとする日本側の意識ではないだろうか。 安倍内閣を含む歴代政権が表向き「踏襲」してきた河野談話は、「われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ」るという決意を表明している。しかし歴史修正主義勢力と自民党国会議員による巻き返しで、この決意はないがしろにされ続けてきた。 歴史教科書での「慰安婦」問題の記述は後退し続け、民間のみならず与党議員からも度々繰り返される「商行為だった」「強制連行はなかった」といった発言を政府が批判することもなかった。しかも、河野談話発表の後、研究者や市民団体によって発見された「慰安婦」問題関連の公文書は500点を超えるが、その多くはいまだ日本政府によって「慰安婦」問題関連文書として認められていない。 このような日本政府の姿勢に照らして考えるなら、なんら実害のない「慰安婦」像撤去への異様な執着は、安倍政権の狙いが日本軍「慰安婦」問題についての「記憶」を消し去ることであることを明らかにしていると言えるだろう。 今回の「合意」について、安倍首相と共に河野談話を攻撃してきた国内の右派の反応が注目されるが、政権に近い「日本教育再生機構」の八木秀次(やぎひでつぐ)理事長は、「合意」を肯定的に評価している。 つまり2014年8月に『朝日新聞』が過去の「吉田証言」に関する「慰安婦」報道の一部を撤回したことで、日本国内における「論争」には勝利した、というのが八木理事長らの認識だ。あとは「軍の関与」や「責任」の中身を曖昧にしたまま「慰安婦」問題が国際社会で議論されることを封じてしまえば、やがて話題にされることもなくなる、という見通しを、安倍首相と八木理事長は共有していると考えてよいだろう。◆首相の「お詫び」とは? 彼らにとっては、今回の共同発表が「多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題」だとしたことも、さして重要なことではない。その後に「ただし、その責任はもっぱら業者にある」と付け加えればすむことだからだ。いまや少なからぬ”リベラル派”の知識人までが、業者の責任をこそ追及すべきだとする『帝国の慰安婦』(朴裕河(パクユハ)著。朝日新聞出版)を賞賛しており、右派の望む通りの世論形成の地ならしは着々と進んでいる。 今回の合意の背景にあるこうした狙いの障害となりうるものがあるとするなら、それはひとえに日本軍「慰安所」制度にまつわる歴史的な事実を記憶しようと試みる人々の存在である。 だからこそ八木理事長も、「中学や高校の教科書づくりに何らかの影響が出ることはないだろうし、影響してはならない」(『産経新聞』15年12月29日)と付け加えることを忘れない。ソウルの「慰安婦」像は人々が元「慰安婦」被害者を記憶にとどめる努力の象徴であり、日本政府に対して「慰安婦」問題を思い起こすよう促すものであるがゆえに、撤去されねばならないとされるのである。 安倍首相は国会議員当選当初から、日本軍「慰安婦」問題の記憶に対する攻撃の先頭に立ってきた政治家である。07年の第一次安倍内閣時代には、「(河野談話発表までに)政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」とする事実に反する答弁書を、閣議決定した。 野党時代の12年には、同様の主張を含んだ米国地方紙に、「そう、私たちは事実を記憶している(Yes.we remember the facts.)」と題した意見広告が掲載された際、賛同人に名を連ねている。『朝日』の一部報道撤回後の14年10月には国会で、「(『朝日』の誤報により)日本が国ぐるみで性奴隷にした(と)、いわれなき中傷が今世界で行われているのも事実」と答弁した。その安倍首相が、いったい「慰安婦」問題の何について、「心からおわびと反省の気持ちを表明」しようというのだろうか。 フランスの歴史学者P・ヴィダル=ナケは、ホロコースト否定論者を「記憶の暗殺者たち」と呼んだ。しかし記憶の抹殺を目論む者たちが「暗殺者」のように密かに行動する必要すらないのが、今の日本の状況だろう。 メディアは、安倍首相に問わねばならない。あなたは日本軍「慰安所」制度を、そしてそこでの日本軍の「関与」を、どのようなものだったと認識しているのか、と。さもなければ、この国の記憶に対する戦争は、歴史修正主義者の勝利に終わってしまうだろう。<のがわ もとかず・大学非常勤講師>2016年1月15日「週刊金曜日」1071号 26ページ「日韓『慰安婦』問題合意の虚妄」から引用 我々が報道によって知ったところでは、慰安婦問題への償いのつもりで実施された「アジア女性基金」は、韓国では受け取りを拒否した元慰安婦が多かったらしいが、その他の国ではそれなりに理解されて受け入れられたものと思っていたが、実は台湾でも「誠意が感じられない」とのことで受け取り拒否をする人々が多かったのだとは、この記事を読むまで知りませんでした。どうも、先日の指摘にもあったように、わが国ジャーナリズムの脆弱な体質が、我々国民をガラパゴス状態にしているのではないかと疑われます。それはともかくとして、「アジア女性基金」が韓国でのみ受け入れられなかったのだとすれば、韓国は特殊だから受け入れられなかったのだという気分にもなりますが、実は台湾でも同じような状況だったとすれば、やはり、「アジア女性基金」というやり方では問題解決には不十分だったのだと、私たちは認識を改める必要があるのではないでしょうか。 また、ソウルの日本大使館前の「少女像」については、当ブログのコメントにも「ウィーン条約違反だ」と書き込まれることがありますが、当の「少女像」は大使館の玄関からかなり離れた広場に設置されたもので、大使館に用事があって来る人の通行の邪魔になるものでもないし、「像」があるからといって大使館の威厳が損なわれるわけではありませんから、なんらウィーン条約に抵触するものではないと思います。むしろ、「像」が存在することによって、人々に「植民地支配」と「戦争」というものが過去にあったことを思い起こさせ、過ちを繰り返してはいけないと考えさせる効果が期待できるのですから、撤去する必要はありません。
2016年01月27日
暮れの押し詰まった数日間に決められた慰安婦問題解決のための「日韓合意」について、国内の各新聞はどのように報道したか、また、今回の「合意」はどのような問題を含んでいるか、ジャーナリストの山口正紀氏は、15日の「週刊金曜日」に次のように書いている;「日本政府は法的責任を認めろ」「被害者が納得する謝罪を行なえ」「被害者不在の合意反対」 1月6日夜、東京・永田町の首相官邸前で行なわれた(日本軍「慰安婦」問題についての日韓政府による政治的妥結に反対し、正しい解決を要求する官邸前抗議行動)。韓国挺身隊問題対策協議会が呼びかけた「世界連帯行動」に呼応する集会で、約100人の参加者は「政治的妥結反対」のコールを繰り返した。 日韓外相が昨年12月28日に共同記者発表した「日韓合意」の骨子は、(1)日本政府は軍の関与の下に多数の女性の名誉と尊厳を傷つけた責任を痛感し、安倍晋三首相が「心からのおわびと反省」を表明する(2)韓国政府が元「慰安婦」を支援する財団を設立し、日本政府が10億円程度を拠出する(3)韓国は在韓日本大使館前の少女像への日本政府の懸念を認知し、適切な解決に努力する(4)両国は、この問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する、というもの。 翌29日の各紙朝刊は「日韓合意」を1面トップで報じ、関連記事を7~8ページにわたって掲載した。その報道スタンスは社説から窺える。社説タイトルと記事の一部を紹介しよう。『朝日新聞』《歴史を越え日韓の前進を》-《両政府がわだかまりを越え、負の歴史を克服するための賢明な一歩を刻んだことを歓迎したい》『毎日新聞』《日韓の合意を歓迎する》-《今回の合意について「最終的で不可逆的な解決」であることを確認したことは両国の信頼構築につながる》『東京新聞』《「妥結」の重さを学んだ》-《最大の懸案が解決に向かう。来年は対立から協力へと、流れを変えたい》『日本経済新聞』《決着弾みに日韓再構築を》-《ようやく達成した合意である。過去の苦い教訓も踏まえつつ、日韓が着実に履行することが肝要だ》『読売新聞』《韓国は「不可逆的解決」を守れ》-《合意が、停滞してきた日韓関係を改善する契機となるのか、見守りたい》『産経新聞』《韓国側の約束履行を注視する》-《日本側が譲歩した玉虫色の決着という印象は否めない。このことが将来に禍根を残さないか》『朝日』『毎日』『東京』『日経』はニュアンスに違いがあるものの、「日韓合意」を基本的に歓迎・評価した。一方、『読売』『産経』は「合意」に不信・不満を示し、韓国への注文を並べた。 右派2紙は、「おわびと反省」を安倍首相の姿勢の変化と”誤認”したようだ。だが、この合意で、日本政府の対応は基本的に変わっていない。「法的責任」を認めたわけではなく、10億円の拠出も「賠償」ではない。しかも、韓国政府に「少女像の移転」を要求し、「二度と『慰安婦』問題を持ち出すな」とばかりに「不可逆的解決」を確認させた。 日本政府と首相が本気で「おわび」するのなら、最低限、「慰安婦」制度の被害者が強く求めてきた「法的責任と賠償」を認める必要がある。大使館前の少女像は、日本人が心に刻む「反省の糧」として残すべきだ。だが、首相は口先だけの「おわびと反省」も外相に代読させた。 発表当日、被害女性が暮らすソウル近郊の「ナヌムの家」の安信権(アンシングオン)所長は「被害当事者を除いた韓日両政府による拙速な野合」と非難し、ハルモニたちは、「なぜ私たちの話を聞かないのか」と抗議した。『読売』『産経』の論調は論外として、こんな当事者を無視した欺瞞的合意を歓迎する『朝日』などの報道姿勢に、私は大きな憤りを覚える。「慰安婦」問題で安倍政権を批判するような報道は、もはやタブーになってしまったのか。<やまぐち まさのり・「人権と報道・連絡会」世話人、ジャーナリスト。>2016年1月15日「週刊金曜日」1071号 38ページ「人権とメディア-当事者無視の『日韓合意』翼賛報道」から引用 このたびの日韓合意について、この記事は問題の本質を突いていると思います。朝日、毎日のように「日韓合意」を評価する側も、読売、産経のように「首相の裏切り」を批判する側も、日本政府が韓国に譲歩したと勘違いしており、実際には日本政府は「法的責任」を認めておらず、10億円を支出するといってもそれは「賠償」ではないというのであれば、それは被害者である元慰安婦の人々が納得するわけがないということです。大使館前の「少女像」は、やはり日本人がこの事件を忘れないようにするために、撤去はするべきでありません。
2016年01月26日
慰安婦問題の解決のための日韓両国政府の合意について、日本と韓国の国内ではどのような反応が起きているか、6日の東京新聞は次のように報道しています; 旧日本軍慰安婦問題に関する昨年末の日韓合意の評価をめぐり、「ねじれ現象」が起きている。安倍晋三首相の支持基盤の保守層内で反発がくすぶる一方、安倍政権と対決姿勢をとる共産党は合意を評価している。(篠ケ瀬祐司) 「ねじれ」が際だったのは安倍首相のフェイスブックだ。普段は首相への激励や支持、好意的なコメントが多く書き込まれる。 ところが慰安婦問題の合意が発表された昨年12月28日は、「あなたを支持する保守層を裏切るような対応は許せない」などと失望感を示す書き込みが相次いだ。韓国側が合意を覆す恐れや、慰安婦問題は1965年の日韓請求権協定で解決済みとしてきた政府が10億円を韓国の財団に出すことへの反発が目立つ。 1月5日の首相の伊勢神宮参拝に関する書き込みでも、激励に交じり、日韓合意で旧日本軍の関与を認めたことなどを批判する書き込みがみられた。 「ねじれ」は政界にもみられる。保守色が強く、安全保障関連法に賛成した日本のこころを大切にする党(旧次世代の党)は「大いなる失望を表明する」との談話を出した。軍の関与を認めた点や、ソウルの日本大使館前の慰安婦を象徴する像の移転が確約されていないことを理由に挙げている。 自民党では、国際情報検討委員長の原田義昭衆院議員がブログで、合意を支持しながらも「外交関係さえ改善すれば原則論は問わないという解決で、国際関係は大丈夫なのか」と指摘。尖闇諸島や北方領土問題など他との懸案事項に意影響を与えないかと問題提起している。 一方で、共産党は合意当日に「問題解決に向けての前進と評価できる」との談話を出した。軍の関与を認めて「政府は責任を痛感している」と表明した点、安倍首相が「心からおわびと反省」を表明し、政府予算で元慰安婦の名誉と尊厳の回復に向けた事業を行う点を評価した。4日の衆院本会議で外交報告を行った安倍首相に対しても、野党席からは日印原子力協定原則合意などに厳しいやじが飛んだが、日韓合意にはやじは聞かれなかった。◆韓国、賛否割れ 【ソウル=島崎諭生、上野実輝彦】日韓政府が旧日本軍慰安婦問題の最終決着に合意したことに関連し、賛否両方の立場の討論会が5日開かれ、韓国内での受け止めの違いがあらためて明らかになった。 政府系シンクタンク「国立外交院」のセミナーには、日韓関係が専門の政治学者らが出席。国民大の李元徳(イウォンドク)教授は「日本が責任を認め、首相名で謝罪し、元慰安婦を支援する新財団に資金を拠出することは相当の進展だ」と評価し、今後の課題として韓国世論への配慮や、財団の事業内容充実を挙げた。 シンクタンク「世宗(セジョン)研究所」の陳昌抹(チンチャンス)所長は「(保守色の強い)安倍晋三首相が政府の責任を認めたことは、歴史的決断として評価できる」と述べた。 一方、合意に反対する弁護士や元慰安婦支援団体「韓国挺身隊問題対策協議会」など4団体の会合では、元慰安婦の金福童(キムポクドン)さん(89)が「政府は交渉前に私たちの話を聞くべきなのに、無視された。納得できない」と訴えた。 ソウル大の梁絃娥(ヤンヒョナ)教授は「日本政府の公的責任の認定がなく、首相の謝罪も代読にとどまった」と批判。慶北大の金昌禄(キムチャンロク)教授は、「真相究明や歴史教育について何も触れていない」と指摘した。 中央日報が12月29~30日に実施した世論調査では、「安倍首相の謝罪に誠意はあるか」や「慰安婦少女像を移転すべきか」などの設問に、「同意しない」との回答が7割を超え、「同意する」の2割を大きく上回った。「日本は法的責任を果たしたと思うか」との問いには、「同意する」と「同意しない」がともに約48%で括抗(きっこう)した。2015年1月6日 東京新聞朝刊 12版 6ページ「慰安婦問題 日韓合意 保守層反発 共産は評価」から引用 「次世代の党」が「日本のこころを大切にする党」に党名変更していたとは、この記事を読んで初めて知りましたが、「日本のこころを大切にする」ということが「歴史上の事実を認めない」という姿勢になってしまうのでは、これは日本人社会の中でマジョリティにはなり得ないのではないかと、ま、余計なお世話かも知れませんが、直感的に感じました。「日本のこころを大切にする党」の心情というものは、去年までの安倍首相の慰安婦問題に関する言動とほぼ一致すると思われるからです。しかし、そういう考え方では国際社会ではうまく物事が進まないということを肌で感じた安倍首相は、あれは「公娼だった」とか「強制連行はしてない」などと意味の無いことを言うのを止めて、潔く軍の関与を認め、政府予算から支出して必要な負担を引き受けるという方針に変更したわけで、やはり、一国の首相という立場になると、去年まで個人的に発言していた事柄はいったん引っ込めて、これまで歴代政権が継承してきた「河野談話」を踏まえた解決策を採用するしかないのであって、そのことは少なくとも国会では全員のコンセンサスになっていることが、上の記事が示すように、日韓合意については「ヤジ」がなかった点に表れていると思います。
2016年01月25日
昨年の11月に安倍首相が韓国の朴槿恵大統領と慰安婦問題の早期妥結で合意したと報道されたが、その後の様子では、日韓両国の事務レベルの協議が進んでいるとの報道はあったものの、具体的に妥結できそうな状況になりつつあるというような報道はまったくなされず、「合意はしても、結局妥結は無理でした」という結論になるものと、誰もがそう思っていたのが12月20日の時点での話である。アジア女性基金の事業で重要な役割を果たした東京大学名誉教授の和田春樹氏は、12月20日の東京新聞のインタビューに応えて、次のように述べている; 日本と韓国の問の懸案となっている旧日本軍による従軍慰安婦問題は、年内の妥結が難しい状況になっている。しかし、朴槿恵(パククネ)大統領の名誉を傷付けたとして起訴された産経新聞の前ソウル支局長に無罪判決が言い渡されるという前向きな動きも出ている。元アジア女性基金専務理事の和田春樹東大名誉教授(77)は「日本側の明確な謝罪と、被害者への国庫からの支出で謝罪の証しを出せば、早期妥結は可能」として、日本側の決断を求めている。(編集委員・五味洋治)-慰安婦問題の妥結は越年しそうだ。 「来年には日中韓首脳会談が日本で行われる見通しで、米国も問題の解決を求めている。このまま放置できない。日本政府は妥結させるしかない状況だ」-具体的に何が必要か。 「日韓の運動団体の要求が昨年6月に明らかになった。明確な謝罪と、謝罪の気持ちを込めた支払いだ。日本政府はアジア女性基金を設置したが、首相のおわびの手紙に添えられた償い金には政府のお金は1円も入っていないと説明したので、誠意が感じられないと被害者から反発を受けた。その時の反省を生かさなければならない」-明確な謝罪とは。 「従軍慰安婦問題への旧日本軍の関与を認めて謝罪した1993年の河野洋平官房長官談話を引き継ぎ、慰安所で意に反した行為を強いられたことへの具体的な言及を行い、謝罪することだ。謝罪の支払いは日本政府の金だとクリアに伝える。政府資金の出し方は、進めやすい方法でいい。謝罪は日韓首脳会談といった正式な場で、安倍晋三首相が表明するのが望ましい」-韓国政府にも目に見える努力を求める声がある。 「双方の歩み寄りが必要だ。韓国側はこの間題への姿勢を相当柔軟にしてきたし、外交当局者が被害者に接触し、要望を把握していると聞いている」-日本政府はソウルの日本大使館前に設置された慰安婦の被害を象徴する少女像の撤去を求めている。 「被害者が納得できる案が提示されて問題が決着すれば、大使館前で行われてきた水曜デモは終わり、像も移設されるはずだ。設置した市民団体は移設場所を考えていると思う」-政府間で妥結しても韓国の世論が納得するか。 「韓国政府がこの問題に関する意見を全て抑え込むことはできない。しかし、日韓の国民の中でも、もう終わらせてほしいという気持ちが強まっていることに注目すべきだろう」【慰安婦問題】 日本政府は1965年の日韓請求権協定で法的に「解決済み」としていたが、問題を無視できないと95年にアジア女性基金を設立。韓国政府が認定した207人の元慰安婦を対象に、償い金の支給事業を実施した。基金は2007年に解散。受け取ったのは60人程度にとどまった。安倍晋三首相と朴槿恵大統領は11月の首脳会談で、問題の早期妥結で合意した。2015年12月20日 東京新聞朝刊 11版 4ページ「慰安婦問題 謝罪と政府支出を」から引用 ここに引用した記事で私が最も関心を持ったのは「政府間の妥結ができたとしても、韓国政府が韓国内の慰安婦問題に関する全ての意見を押さえ込むことはできない」と、和田氏が発言している点である。それは、考えてみれば当たり前のことであるが、日韓両首脳が慰安婦問題の妥結を目指すと聞いたときは、両首脳がどちらも自国内の世論を納得させるようなことが可能なのだろうかと疑問を感じたものであったが、それは私の誤解で、両政府間の妥結とは「慰安婦問題が日韓両国間の外交問題として存在している状態を解消する」という意味だったらしい。 そして、この記事が出てから約一週間後に、突如外相が韓国を訪問し、妥結のための最終協議をすることになったと報じられたときは、「寝耳に水」の気分になったのは、私だけでは無かったのではないかと思います。 特に、安倍首相や自民党の政治家、それに当ブログの常連さんの大部分は「日韓の戦後補償の問題は、65年の基本条約で最終かつ完全に解決済みとなっているから、今さら謝罪だの金を出すだのということは法的に無理だ」と言い続けていたのに、あの話は一体どうなったのか、という大きな疑問が出てくる。年末の2~3日であっという間に妥結したのであるから、「65年の基本条約云々」は、政府責任を認めたくないために言っていた虚偽の言い訳で、とうとうここに来て正体を暴露されたということではないのか。 また、一昨年朝日新聞が吉田清治の記事を取り消したときは、「元々慰安婦問題は、朝日新聞が吉田の虚構を真実であると報道したために出来上がった、ねつ造された話で、朝日が取り消したから、慰安婦問題ももはや存在しない」と主張する自民党議員も多数いるのであるが、もしその通りであれば、今更安倍首相が改めて謝罪したり、韓国が設立する基金に日本政府が10億円も支出する必要もないのであるが、事態は逆の方向へ進むことになった。ということは、安倍首相の普段の言動は別として、「慰安婦問題は朝日のねつ造」説は、今回の日韓両国政府の妥結によって完璧に否定されたわけであるが、当ブログで「朝日のねつ造」説を熱心に主張してきた諸君は、今日の事態をどう思っているのか、この期に及んでまだゴタクを並べる気なのか、聞いてみたいものだ。
2016年01月09日
慰安婦問題の基礎となる事実関係や資料などを紹介するブックレットが出版された、と11月22日の東京新聞が報道している; 日本の植民地支配と戦時性暴力に対する加害責任を問うブックレット「Q&A朝鮮人『慰安婦』と植民地支配責任」(御茶の水書房)が出版された。「朝鮮人強制連行はなかった?」「韓国の『慰安婦』問題解決運動は『反日』なの?」などよくある疑問に分かりやすく答え、基礎となる事実関係や資料、写真を多数提供している。日本軍「慰安婦」問題webサイト制作委員会が編集した。 本書は、 ▽朝鮮人「慰安婦」編 ▽歴史的背景編 ▽植民地解放編 -の3部に分かれ、韓国併合やサンフランシスコ講和条約、日韓請求権問題、「女性のためのアジア平和国民基金」など「慰安婦」をめぐるさまざまな問題を多角的に分析。国際法で「性奴隷」とされる「慰安婦」問題の解決を訴えてきた韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会と被害女性たちが行っている女性人権運動や平和運動にも言及している。 表紙裏に「慰安所」在地を記した「朝鮮人『慰安婦』連行地マップ」と、韓国と米国に建てられた「平和の碑/平和の少女像建立マップ」を掲載、「慰安婦」問題の全体像がビジュアルに読み取れる。問い合わせは、御茶の水書房=電03(5684)0751=へ。(土田修)2015年11月22日 東京新聞朝刊 23ページ「慰安婦問題 Q&Aで解説」から引用 このようなブックレットが多くの国民に読まれて、「あれは公娼だった」とか「将校よりも高い給料をもらっていた」などというデマに惑わされないように、しっかりした知識を身につけたいものです。
2015年12月06日
先月パリで起きたテロ事件に関する歴史学者・ニーアル・ファーガソンの論評について、ジャーナリストの木村太郎氏は、11月22日の東京新聞に次のように書いている; 「私はパリで金曜日に起きたことが『前例のない惨事』などとは言わない。そうではないからだ。『世界はフランスと連帯する』とも言わない。それはむなしい言葉だからだ。フランソワ・オランド(仏大統領)の『容赦なく復讐(ふくしゅう)する』という宣言に拍手するつもりもない。そんなことはできないからだ。その代わりに私が言えるのは『これがまさに文明の凋落(ちょうらく)を示すものだ』ということだ」■ローマ帝国に例え 15日、英紙「ザ・タイムズ」電子版に載ったコラムの書きだしには正直驚いた。筆者は英米で教鞭(きょうペん)をとる歴史学者のニーアル・ファーガソン氏だ。 コラムの見出しは「欧州はローマ帝国のように守りを喪失させてしまった」というもの。パリの同時テロ事件はローマ帝国末期の「蛮人」による大虐殺の再現で、これが西欧文明の終わりの始まりだとする。 ファーガソン氏は、まず著名な歴史書エドワード・ギボンの「ローマ帝国衰亡史」が、西暦410年のゴート族によるいわゆる「ローマ略奪」を次のように描写するのを引用する。 「冷酷な虐殺がローマ人に対して行われた。市内の道は死体で埋め尽くされた。野蛮人たちは抵抗に遭うと無抵抗なもの、無実のもの、無力なものなど見境なく虐殺した」 これは、まさに金曜日夜のパリの光景だとファーガソン氏は指摘する。■移住=民族移動? ゴート族は4世紀に始まったゲルマン民族大移動の先兵のような形でローマ帝国に侵入するが、すでに衰退していたローマ帝国は抵抗する力もなく揉欄されるに任せ、これが西ローマ帝国の崩壊につながった。 ファーガソン氏は今の欧州でもシリア難民だけでなく、より良い生活目的の移住者ら百万人単位の民族大移動が始まっており、それはかつての「蛮人」たちがローマの富を求めて侵入してきたのと同じと考える。 それに対して欧州の人たちはローマ帝国の市民がそうであったように、世界は何をせずとも永遠に続くと信じて守りをないがしろにしてきたとファーガソン氏は言う。その結果、イスラム過激派の欧州への侵入を許し、かつてのゴート族のように文明を滅亡させると同氏は警告するのだ。■寛容度薄まる恐れ 今後欧州ではファーガソン氏のような警戒心が高まることが十分考えられる。政界では移住者受け入れに反対する右翼政党が進出するだろうし、社会的にも異文化に対する寛容度が薄まることは間違いない。 これで、現代の民族大移動にブレーキがかかり、過激派テロもある程度防ぐことができるかもしれない。 しかし、ローマ帝国はローマ人が倣慢(ごうまん)になり周辺民族を蔑視して排斥したことが衰退を早めた原因にあるという分析もある。(新訳ローマ帝国衰亡史普及版 中倉玄垂編訳) 「蛮人」を排撃するだけでは帝国は守れなかったのだ。(木村太郎、ジャーナリスト)2015年11月22日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「排撃すればテロは防げるか」から引用 この記事が紹介するニーアル・ファーガソンの主張は、著名な歴史学者の発言にしてはあまりにもお粗末な認識ではないかと思います。木村太郎氏が「驚いた」と書くのも無理ありません。このような驚きは、9・11のブッシュ米国大統領の発言やこのたびのオランド・フランス大統領の発言を聞いた時の違和感と共通するもので、西欧の人権思想の底の浅さが表れたものと考えるべきと思います。人権思想がめざす理想の崇高さに比べて、それを語る西欧人の「本音」のレベルの低さに幻滅を感じます。上の記事を読んだ限りでは、ファーガソン氏はローマ帝国が油断したために野蛮な異民族の理不尽な侵入を受けて滅亡したかのような言い分ですが、当時のローマ帝国は強固な軍隊を組織して周辺の異民族が住む地域に略奪を繰り返し、「すべての道はローマに通ずる」と言われた道を通ってそれらの富がローマに集中した、それに対する反動で異民族がローマに侵攻することになったと考えるのが妥当です。他民族を抑圧する者は自らの自由を失うという道理です。これに似た構図は現代にも存在し、アジア・アフリカ・南米を植民地支配して富を略奪し繁栄した欧米社会に対し、被支配地域からテロ行為が起きるのは、今まで植民地支配に対する謝罪も補償もしないで放置してきたツケが回ってきたもので、日本は安易にアメリカやフランスに組するべきではないと思います。
2015年12月05日
昔、インドネシアで起きた大量虐殺事件について、法政大学教授の竹田茂夫氏は10月29日の東京新聞コラムに次のように書いている; ちょうど50年前、インドネシア全土で大量虐殺が行われた。犠牲者は50万人以上といわれる。反乱鎮圧を口実にエリート部隊を率いるスハルト少将が大統領から実権を奪いとり、反米左翼勢力を大量粛活したのだ。米国の関与を疑わせる状況証拠があるが、真相はやぶの中だ。 この「ジャカルタ・シナリオ」は1973年のチリのクーデターでも繰り返される。左翼への憎悪をあおり立てられた民衆は民兵組織などで大量虐殺に手を貸した。その後、粛清を主導した軍人らが国家の要職を占め、実際に手を下した者は英雄扱いだ。異論は暴力の恐怖で沈黙させ、子供たちには学校数育で粛清を正当化する。 少年犯罪などを反省させるために、被害者を立ち会わせて本人に犯行を再演させるという手法がある。暴力を振るった状況と感情を追体験させるわけだ。 J・オツペンハイマー監督の2作品はこれをドキュメンタリー映画に応用したものだ。一作目「アクト・オブ・キリング」の主役は喜々として犯行を再演してみせた老年のヤクザだが、ようやく国民レベルで追体験と責任追及が始まろうとしている。 だが真に反省すべきは、この事件を黙殺し、スハルト独裁の腐敗したクローニー資本主義を30年以上にわたって利用した西側諸国ではないのか。(法政大教授)2015年10月29日 東京新聞朝刊 11版S 29ページ「本音のコラム-犯行の再演と追体験」から引用 反乱鎮圧を口実に50万人もの国民を虐殺したスハルトはその後大統領に就任し、学校教育でその事件を正当化してきたため、今日までその犯罪性を告発されることはなかった。このように学校教育は人の心を大きく支配する力があるから、教育内容に国家権力が介入することがあってはならない。例えば日本においては、70年前の特攻隊を美化するような教育が行われないように、国民は監視を目を光らせるべきだ。
2015年11月16日
在野の憲法学者、鈴木安蔵について、3日の東京新聞は次のような記事を掲載した; 平和憲法のルーツは福島県南相馬市にある、という話を以前本欄で取り上げた。日本国憲法の間接的起草者と呼ばれる憲法学者・鈴木安蔵(1904~83年)が同市で生まれ育ったからだ。ただのご当地自慢をしようというのではない。日本国憲法は米国に押しつけられた憲法ではなかった。日本の民衆の願いの結晶として生まれた。この事実を確認するためにも南相馬市の持つ歴史的な意味を心に留めておくべきだろう。 その安蔵から愛知大学で直々に薫陶を受けた弟子である金子勝・立正大学名誉教授(71)が先月、「はらまち九条の会」の招きで同市を訪れ、安蔵の業績や人柄について講演した。「世田谷・九条の会」の呼び掛け人でもある金子氏の話のエッセンスを紹介したい。 まず幼少期のエピソード。1904年3月3日、安蔵は小高区の商家で生を受けた。銀行員だった父は27歳で病死。母に育てられ、没落した家を再興したいという思いで猛勉強する。相馬中学では弁論部に入り、数々の弁論大会で優勝したが、ただの秀才ではなかった。 3年生のとき、上級生による私刑を追放しようと同級生70数人の先頭に立ち、ストライキを打つ。謹慎3日の処分を受けたが、私刑はなくなった。 「正義感の強い人で、大人になっても変わらなかった。こんな心を育んだのは、幼い頃から通ったキリスト教会で、ヒューマニズムを学んだ影響だったろう」と金子氏は見ている。 飛び級で旧制第二高等学校に進むと「新カント哲学」に熱中。さらに「貧困、飢餓、売春、失業、疾病など社会矛盾を除去しよう」との思いで「社会思想研究会」を結成する。 1924年、京都帝国大学哲学科に進学するが、翌年に経済学部に転部し、マルクス主義の研究に入る。ところが京大社会科学研究会での活動が治安維持法に違反するとして逮捕される。全国で38人が逮捕された、この学連事件は治安維持法適用の第一号だった。京大を自主退学に追い込まれた安蔵は、在野の研究生活を選ぶ。 さらに29年に再び治安維持法で逮捕され、2年半も獄中生活を送る。金子氏によると、この体験が後に鈴木憲法学を生む契機となったという。 「先生は、獄中で日本の憲法学者の著作を読みあさった。そして、日本の憲法学には歴史的研究と批判が欠けていることに気づいたのです」 出獄後、代表作である「憲法の歴史的研究」を発刊し、民衆の立場に立ち、民衆の幸福を実現しようとする憲法学の必要性を世に問うた。日本に初めて社会科学としての憲法学が生まれた瞬間だった。 そんな一介の在野の学者を、歴史は必要とした。45年、太平洋戦争が終結すると、ポツダム宣言の趣旨に沿った新憲法作りが始まる。連合国軍総司令部(GHQ)は当時の幣原喜重郎内閣に草案を提出させたが、まるで大日本帝国憲法の焼き直しのような内容に失望する。同じ頃、学者、ジャーナリストらで構成する「憲法研究会」も「憲法草案要綱」という草案をつくった。まとめ役は安蔵だった。 GHQは、草案に着目し、つぶさに検討して、ほぼ同じ内容の「日本国憲法草案」を起草した。このため安蔵は、日本国憲法の間接的起草者と呼ばれる。 「憲法草案要綱」に「戦争放棄」は盛り込まれておらず、「九条」はGHQと幣原内閣の交渉の中で生まれたとされる。しかし「憲法草案要綱」は、「天皇の臣民」に代えて「国民」という概念を持ち込んだ。これは当時の日本人には驚天動地の画期的な考え方であったという。 「国民主権」は、GHQによらず、日本人によって提案されたという点が何より重要だ。 講演の後、金子氏らは南相馬市小高区の商店街の一角にある安蔵の生家を訪ねた。小高区は原発事故のために今も居住制限があり、安蔵の縁者も避難生活を続けている。だが、来年3月の規制解除を目指して、少しずつ人の気配がよみがえってきた。 そんな空気を感じつつ、「鈴木安蔵憲法記念館をつくろう」などというアイデアも飛び出した。平和憲法を軸とした復興があってもいいのではないか。(福島特別支局長・坂本充孝)2015年11月3日 東京新聞Web 「憲法は民衆のために」から引用 このような記事が多くの国民に読まれて、「押しつけ憲法」論への反論の根拠になれば、憲法論議もよりいっそう充実するのではないかと思います。
2015年11月12日
昨日の欄に引用した自民党の決議文を取りまとめた中心人物である自由民主党国際情報検討委員会委員長の原田義昭氏に対し、TBSラジオの人気番組「荻上チキ・セッション22」のニュースキャスター・荻上チキ氏が単独インタビューを行い、その録音の一部は先週放送されたが、インタビューの一部始終は文字起こしされてTBSラジオのホームページに公開されている。原田義昭といえば、自民党内では安倍晋三と1,2位を争う歴史修正主義者であり、常日頃「南京大虐殺はねつ造だ。10数万人の都市で20万も30万も虐殺されたという話はあり得ない」などと吹聴している人物であるが、歴史上の事実を突きつけられて、次のような受け答えをしている;(前半省略)荻上 例えば当時の人口について、10数万人しかいなかったのに、という話がありました。これに関して、当時の南京市の人口統計であるとか、あるいはラーベなどの、個人が書いた推計などについて、触れた機会はありますか?原田 僕はあのデータも随分読んでいます。荻上 どういったデータでしょう?原田 いやいや具体的な名前を言っているわけじゃないけども、まず南京の、そのときの、あれだけのメディアだのマスコミだの入っているにもかかわらず、南京についてですよ、事件があった直後のあれについて、まったく国際的な情報が入っていないということ。荻上 つまり虐殺と言われるような......原田 そんなことは今だけですよ。それは、全市民を越えるくらいのあれはですよ、やるなんてことは、大新聞も書くでしょうよ。荻上 整理すると、当時の人口を越えたような虐殺人数になっているじゃないかというのがひとつと、もしそういった行為があったならば海外メディアは当時報じていただろう、と。日本のメディアも報じていただろうということになるわけですね。原田 もちろんそう。荻上 これについて二つ事実確認をしたいのですが、当時10数万人というのは、あくまで南京の城の中の、なおかつ安全区と呼ばれるところの人口であって、全体としては南京市、南京城周辺の人口としては100万人前後。で、事件の前にどれだけ減ったのかという議論がされているのが一点あります。それから報道に関しては、国内だけではなくて、ニューヨークタイムズやワシントンポストなど、当時、南京でこういった事件があった。こういったようなケースがあったということ自体は報じられているんですけども、これに対してはどうお感じになっていますか?原田 いや、私はね、ちょっと服部さんね。荻上 私、荻上です。原田 え?荻上 こちらはスタッフの名刺で。原田 ああ、そうかそうか。荻上 私、荻上と申します。原田 荻上さんね、私はね、今日は南京のそこまでのあれはちょっとね、いろいろ準備しておかなかったからね、あれです。だけども結論から言うとね、少なくともそういう議論があるんですよ。いいですか? そういう議論があるにもかかわらず、その議論がありながらね、そういう事実をね、ここに、ユネスコの記憶遺産に刻印しようとすること自体がね、もう基本的に問題なのであって。荻上 それはプロセスの問題ということですね?原田 いやいや、プロセスだってね、まずね。中身に入る前にね、プロセスでね、明らかに間違っているんだから。内容に入る前にね、それがおかしいじゃないか。それにね、プロセスに反論があるならやってみなさいよ、と。その上でね、学者も含めて、政治家も含めて、はっきり議論してね、どちらが正しいか、どちらが誤っているのかをね、議論させればいいだけのことなんだよ。それがね、荻上さんね、プロセスだからって、プロセスのほうが大事なんですよ。荻上 私はプロセスはすごく大事だと思っていますが。ただ一方で、原田さん、いままで準備されていなかった南京事件と呼ばれているものの対しては、例えば今日こういった形で、事前にこういった質問をしますよと、私たちはしていたわけですよね。南京事件、南京大虐殺について聞くと。しかしその段階で準備できていないにもかかわらず、捏造だということを党として発信するというのはプロセスとして、また疑問が出てくると思うんですよ。原田 いやいや、全然そんなことないですよ。当たり前のことですよ。荻上 捏造だということは決まっている、と。原田 いやいや、別に私は、そういう立場で会議も運営していますし、党として、いろいろな意見の方もおられますよ。荻上 ただ、原田さんは代表ですよね。原田 そらあ委員会の代表だし、そういう観点からもこういった問題について扱っていますよ。荻上 ちなみに今まで委員会や勉強会などされたときに、どういった研究者の方に指導してもらったりしたことがあるんですか?原田 いやいや、それは何人も客観的な学者、評論家。荻上 例えば?原田 いやいや、あなたね、そういわずにね。その人たちに影響を及ぶからダメでしょ。荻上 先日会見では、高橋史朗さんの名前が。原田 そりゃあ、彼は、民間の関係者としてでていきましたよ。その上でね、いかにこれがね、歪曲され、捏造されたものかというと、行く前にもそのことを言われましたし、それから帰ってからもね、そのことをね、言っていますからね。そりゃ高橋史朗さんをはじめとして。みんなね、もう私どものところに出てくるいわゆる良識ある、いわゆる私からしたらちゃんとしたね、学問者たちは、みんなそこはね、南京については少なくとも、皆さんが、中国を中心に言っていることについては、明らかにね、間違った報道であるってね。間違った情報であるということですから。(秘書に対して)ちょっと、高橋史朗がつくった、報告書(※資料2)もってこい。あのとき配ったろう。(後半省略)http://www.tbsradio.jp/ss954/2015/10/post-313.html 老練の国会議員が若手のジャーナリストに追求されてうろたえる姿は滑稽であるが、自民党の要職にありながらいい加減な歴史観を吹聴していれば、そういう目に遭うのも致し方がない。ちなみに、原田議員が頼みの綱としている「客観的な学者」高橋史郎というのは、専門が教育学で、歴史は素人。彼が作ったという報告書とは「産経新聞」、月刊「正論」、東中野修道の著作などを引用したもので、これでは歴史の専門家に太刀打ちできるわけがありません。原田議員が、誰に追求されてもしっかり受け答えできる盤石の体制を整えるには、やはり歴史の専門家を顧問にするのが得策と考えられますが、もしそういうしっかりした歴史の専門家を顧問にすると、歴史修正主義者にとっては実に都合の悪いことばかりを、史実として認めなければらないというジレンマが生じます。結局、原田氏の問題を解決するキーは、原田氏自身が歴史修正主義と決別し、大きな度量をもって真実の歴史と謙虚に向き合う、という姿勢をとることが求められます。
2015年11月11日
南京事件の資料がユネスコ記憶遺産に登録されることが報道された数日後、自民党は、次に示すような決議を行って公表した;中国が申請した「南京事件」資料のユネスコ記憶遺産登録に関する決議平成27年10月14日自 由 民 主 党外 交 部 会文 部 科 学 部 会外交・経済連携本部国際情報検討委員会日本の名誉と信頼を回復するための特命委員会 今般、中国がユネスコ記憶遺産に登録申請していた「南京事件」に関する資料が登録された。 日本政府は、中国側に対して申請取下げを申し入れるとともに、申請書類の共有や日本人専門家派遣の受入を要請してきたが、中国側はこれに全く応じなかったと承知している。一方的な主張に基づいて登録申請を行うという今回の中国側の行動は、ユネスコという国際機関の政治利用であり、断じて容認できない。 また、ユネスコは、本来、メンバー国同士の問題に対しては、国際機関として中立・公平であるべきであり、今回登録された案件のように、中国側の一方的な主張に基づく申請を、関係者である我が国の意見を聞くことなく登録したことに強く抗議する。 こうしたことを踏まえ、政府は中国に対し、ユネスコを始めとする国際機関を、これ以上政治的に利用しないよう強く要請すべきである。また、ユネスコに対しては、本「南京事件」登録を撤回するという新提案を直ちに行うこと、、さらにユネスコの設立の本来の目的と趣旨に立ち戻り、関係国間の友好と相互理解を促進する役割を強く求め二記憶遺産制度の改善を働きかけ、ユネスコへの分担金・拠出金の停止、支払保留等、ユネスコとの関係を早急に見直すべきである。 さらに、2年後の次回登録に向け、我が国主導による「南京事件」及び「慰安婦問題」に関する共同研究の立ち上げ、アジア太平洋地域ユネスコ記憶遺産委員会(MOWCAP)をはじめ関連機関に、日本人の参画を強力に推進すべきである。以上、決議する。http://www.tbsradio.jp/ss954/%E8%A8%98%E6%86%B6%E9%81%BA%E7%94%A3%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E8%87%AA%E6%B0%91%E5%85%9A%E3%81%AE%E6%B1%BA%E8%AD%B0.pdf この決議では、中国が日本側の主張に耳を傾けず勝手に記憶遺産に登録を申請したのは「国際機関の政治利用だ」と非難しているが、この非難が妥当なものかどうか、疑問である。おそらく中国は、国内に残された南京事件の資料を吟味した上で、事件を示す記念品として申請し、その価値が認められて登録されたもので、それがどのような政治的効果を発揮するか、それは今後の日本政府の行動如何にかかっているのではないか。日本の主張を聞かないなら、今後はカネをださないぞ、とは大人げない態度である。
2015年11月10日
鹿毛敏夫著「アジアのなかの戦国大名」について、歴史学者の渡邊大門氏は10月11日の東京新聞に次のような書評を書いている; 著者は、「アジアン大名」の提唱者として知られる。「アジアン大名」とは、「守護大名」や「戦国大名」という定義の枠組みを越え、中国大陸に近い九州の地の利を生かし、アジア史の史的発展の中に領国制のアイデンティティーを追求した大名と定義される。そして、本書の主人公は、主に九州に勢力基盤を置く諸大名である。 銀といえば石見銀山、生野銀山などが有名である。しかし、肥後・宮原でも銀が産出されると、相良(さがら)氏は独自に銀を遣明船で輸出し、シルバー・ラッシュに沸いた。相良氏は肥後の中小大名であるが、武力ではなく交易により活路を見出したのである。 16世紀半ばから日明間の勘合貿易は衰退するが、逆に私貿易が発達する。すでに国内では、硫黄の需要が着火剤などとして高まっていたが、鉄砲の普及に伴い、火薬の材料として注目された。硫黄は九州での採掘が盛んになり、中国に輸出された。九州で産出される硫黄は、ドル箱であった。 また、戦国期には九州に渡来する中国人が増え、豊後・大友氏の城下には唐人町が形成された」中国人は高度な専門的能力により、その地位を上昇させる。国際的な都市は、九州の地でも根付いていたのである。 大友、島津、松浦(まつら)の各氏は中国だけでなく、東南アジアのカンボジアと外交関係を結ぶ。やがて、ポルトガルやスペインが東アジアに進出すると、九州の諸大名は「アジアン大名」から「キリシタン大名」へと変貌した。彼らが西欧諸国と友好関係を結ぶ下地となったのは、アジア諸国との交流で研ぎ澄まされた国際感覚だ。 このように、本書は戦国大名の国際化戦略をダイナミックに描いている。戦国時代といえば、織田信長ら著名な大名の合戦が注目されがちである。しかし、すべての戦国大名が天下とりを狙ったという考え方は疑問視されており、視野をアジアに広げた大名の国際性にも注目すべきだ。(評者渡邊大門=歴史学者)鹿毛敏夫著「アジアのなかの戦国大名」(吉川弘文館・1836円)かげ・としお 名古屋学院大教授。著書『大航海時代のアジアと大友宗麟』など。2015年10月11日 東京新聞朝刊 9ページ「読む人-武力より国際感覚を磨く」から引用 戦国時代はなかなか興味深い時代である。全国を統一する政権は存在せず、各地の諸大名がてんでに独自の外交権を行使して諸外国と外交を行った時代で、この時期は「日本」という国家が消滅した時代であった。この時代の名残で、江戸時代は「国」といえば、それぞれの地方の「藩」のことであり、現代でもそれぞれの地方の方言を「お国なまり」と言っている。それにしても、九州で採掘された硫黄が中国に輸出されて経済的に発展したとは驚きである。
2015年11月01日
先の十五年戦争で日本が無条件降伏する寸前に対日参戦したソ連軍は、降伏した日本軍将兵をシベリアに抑留して何年間も重労働させるという事件がありました。そのことを日本政府はユネスコに記憶遺産として登録する申請をしましたが、このたびロシア側の協力もあって記憶遺産として登録されることになりました。その件について、東京新聞社会部長、瀬口疇義氏は11日の紙面に次のように書いてます; 「生きていれば夫は95歳。今も本当にどこかで生きているんじゃないかと思うのです」。最後の引き揚げ船が舞鶴港に帰還してから50年を迎えた2006年の暮れ、港で夫の帰りを待ち続けた当時87歳の元「岸壁の妻」は「私の戦争は終わっていない」と舞鶴市内で語っていた。 満州国官吏だった夫と挙式後、間もなく届いた召集令状。「ソ連が参戦したら駄目だろう」と言って出征した夫の消息は不明のままだった。10年以上待ち続けたが、悩んだ末、58年に戦時死亡公報を受け取ったという。 世界記憶遺産に登録された舞鶴引揚記念館の資料には、抑留者が監視の目をかいくぐって持ち帰った品々に加え、息子の生還を待ち続ける「岸壁の母」の手紙など、琴線に触れる貴重な資料が多い。抑留者の平均年齢は92歳。生存者は2万人ほどになった。記憶を語り継ぐ限界が明らかになった今、記憶遺産に登録された意義は大きい。 抑留資料は旧ソ連の体制を引き継ぐロシアにとっては「負の遺産」だが、引き揚げ船の出港地だったナホトカ市が戦後、舞鶴市と日ソ間で初の姉妹都市となって交流を深めるなど、ロシア側の協力が追い風になった。中国が申請した「南京事件」の登録に、日本政府が此判を強めていることと対照的だ。 シベリアに抑留した日本軍の将兵や軍属に過酷な労働を強いたのは、捕虜の待遇を定めた国際条約だけでなく武装解除後、各家庭に復帰させるとしたポツダム宣言にも反している。60万といわれる日本軍将兵の抑留過程に何があったのか、全容は未解明であり、抑留者数、死者数すら諸説入り交じり、朝鮮人、台湾人の抑留者は忘れ去られている。 そもそも、100万人もの日本軍(関東軍)の大部隊が旧満州(中国東北部)に展開していたのはなぜか。元をたどれば、満州事変を機にした日本の中国大陸への侵略がきっかけだ。シベリア抑留資料の記憶遺産登録を、加害責任も含めた複眼的な視野で歴史を学ぶ契機にしたい。2015年10月11日 東京新聞朝刊 12版 2ページ「複眼的に歴史学ぶ契機」から引用 中国が「南京事件」を申請したら日本政府がクレームをつけたのに、日本が「シベリア抑留」を申請したらロシアはそれに協力的だった。二つの事例における加害国側、日本とロシアの態度の違いは何に起因するものか、大変興味深い。 「南京事件」の場合は犠牲者数が30万人か20万人かという未解決の事例があるのに対し、「シベリア抑留」にはそのような疑問点がない、これが原因でしょうか? それとも、「シベリア抑留」を実行したソ連政府は崩壊して現在のロシア政府は直接責任を負う立場ではないからでしょうか? 私はどちらも違うと思います。過去の歴史を率直に反省しているロシア人と、歴史認識が曖昧で反省も不十分な日本人の違いが表れているのだと思います。
2015年10月24日
旧日本軍が引き起こした「南京事件」の資料を、ユネスコが記憶遺産に登録したことを、11日の東京新聞は次のように報道した; 国連教育科学文化機関(ユネスコ)は10日、旧日本軍による「南京事件」の資料を、世界記憶遺産に登録したと発表した。中国が申請していた。日本が申請した第二次大戦後のシベリア抑留資料と国宝「東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)」も登録された。シベリア抑留資料は日本人捕虜の日記やはがきなど舞鶴引揚記念館(京都府舞鶴市)所蔵の570点。東寺百合文書は、東寺(京都市)に伝えられた奈良時代から江戸時代の約2万5千通に及ぶ古文書。日本の記憶遺産は5件となった。 南京事件の登録をめぐっては、日本政府は10日、北京の日本大使館を通じて「ユネスコの場をいたずらに政治利用すべきでない」と中国外務省に抗議した。中国が「旧日本軍の犯罪」の記録と主張する歴史資料がユネスコによって「世界的に重要」と認定されたことになり、習近平指導部は今後、歴史問題をめぐる対日攻勢を一層強めそうだ。 従軍慰安婦問題の資料は登録が見送られた。◆「負の歴史」宣伝懸念 政府は10日、南京事件に関する文書の世界記憶遺産への登録を強く非難し、記憶遺産事業の制度見直しを要求する川村泰久外務報道官の談話を発表した。日本として認めていない「犠牲者数30万人以上」という中国の主張が既成事実となり「『負の歴史』の宣伝に利用されかねない」(政府高官)と懸念。「政治利用」されないよう賛同国を募り、ユネスコの改革を求めていく考えだ。 中国に対しても、日本の主張の「正当性」を訴え、自重を求めていく。 川村氏は談話で「中立・公平であるべき国際機関として問題で、極めて遺憾だ。政治利用されることがないよう、責任あるユネスコ加盟国として制度改革を求めていく」と表明。南京事件の犠牲者数は「諸説あり、認定は困難」という政府見解を踏まえ、「中国の一方的な主張に基づき申請されたものであり、文書は完全性や真正性に問題がある」と強調した。 政府は昨年6月以降、中国側に下村博文文部科学相(当時)らが取り下げを要求。ユネスコには(1)政治利用に協力するのはおかしい(2)史実と違う資料を登録すべきではない-と働き掛けてきた。 ただ、記憶遺産の審査基準は資料保全の必要性だけが検討対象で、歴史的に正しいかどうかは判断材料にならない。国際条約に基づいた世界文化遺産とは異なり、ユネスコの一事業のため、加盟各国は認定の是非に関与もできない。<南京事件> 日中戦争時の1937年12月、旧日本軍が南京を占領した際、多数の中国人を殺害したとされる事件。「南京大虐殺」とも呼ばれ、中国では85年に「南京大虐殺記念館」が開設された。中国は2014年2月の全国人民代表大会(国会)常務委員会で、南京が陥落した12月13日を「国家哀悼日」に制定した。犠牲者数をめぐり日中間には論争がある。日本側の研究は「20万人を上限に、4万人、2万人などの推計がある」としているが、中国側は30万人以上と主張している。(時事)2015年10月11日 東京新聞朝刊 12版 2ページ「南京事件 記憶遺産に」から引用 この事案に対する日本政府の対応は「拙劣」の一語に尽きる。記事によれば、下村文科相は昨年6月以降、ユネスコに対し「政治利用に協力するのはおかしい」と働きかけたとのことであるが、まだ中国が政治利用していないうちからそんなことを言っても、誰も取り合わないのは当然だ。また「史実と違う資料を登録すべきではない」とも言ったそうであるが、史実と違うのは犠牲者数のみであり、その他のほとんどは間違いの無い「史実」であり、わが国外務省のホームページでも確認できることであり、それを「史実と違う」などと言ってみても、誰からも相手にされないのは当たり前だ。もしどうしても不名誉な事態を避けようというのであれば、中国との間に真の友好関係を築いて、中国側が日本の機嫌を損ねないように注意しようという気分になるような環境作りが必要であるのだが、安倍政権のこれまでの数々の常軌を逸した無礼な言動では不可能というものである。そこに持ってきて自民党の二階議員は「ユネスコには日本が一番カネを出しているのに、こんなことをされるのなら、もうカネを出さないことにしたほうがいい」などと言ってるが、これもまた大人げない反応で、自民党の劣化を象徴している。私は南京事件の資料を記憶遺産に登録することに賛成である。記憶遺産に登録することによって、日本軍国主義の復活を永遠に封印する効果があると考えるからである。
2015年10月23日
わが国の過去の侵略戦争を「あれは立派な戦争だった」と賛美する育鵬社版の歴史教科書について、やっぱりこの教科書ではダメだと、東京都大田区や愛媛県今治市など4つの地区の教育委員会が、いかがわしい育鵬社版教科書の採用をやめて、まともな教科書に戻すことになりましたが、大阪や横浜では、それでもなお学校の現場の声を無視してまで、育鵬社版を採用することになりました。事の次第を4日の「しんぶん赤旗」は、次のように報道しています; 来年度から中学校で使う教科書が、夏までに各地の教育委員会で決まりました。社会科では、住民運動によって4地区が数年ぶりに「新しい歴史教科書をつくる会」の流れをくむ「育鵬社」の教科書の使用をやめました。他方、不当な政治圧力で育鵬社版が採択された地域も・・・。(本吉真布記者) 小中学校の教科書は、自治体の教育委員会で通常4年に1回選ばれます。(公立校の場合) 前回の4年前、育鵬社の歴史と公民の教科書を採択した東京都大田区。前回、同社版を推した教育委員らが態度を変え、今回他社の教科書を選びました。 前回と大きく違う点は、区教委に事前に寄せられた区民と各中学校の意見数です。区民意見は4年前の10倍の1382通。各学校の意見は全28校から出されました。多くが育鵬社版に批判的な意見だったといいます。◆「健全な成長を」 真実を学べる教科書を手渡したいと運動する大田子どもの教育連絡会は、校長会への申し入れや集い、学習会や宣伝を重ねました。その中で教科書展示会に行き、自分の言葉で意見を書く人の輪が広がりました。同会は「学校意見をあげてほしい」と区内すべての中学校も訪ねました。 同会の横田悦子事務局長は「教育委員が大田の子どもたちに合う教科書を真剣に考えてくれた。戦争法案反対の運動と一体でかちとった採択替えです」と振り返ります。 大田区と同じく4年ぶりに育鵬社版から他社の教科書に替えた島根県の益田採択地区協議会(益田市、津和野町、吉賀町)。県教職員組合は憲法問題にとりくむ団体に要請・連帯し、教科書問題を市民の中に広げました。 県教組の舟木健治委員長は「教科書は憲法の平和主義、国民主権、基本的人権に基づき、子どもたちが健全に育まれるものでないといけない」と強調します。 愛媛県今治市は2009年に育鵬社の前身「扶桑社」の歴史教科書を採択して以来、6年ぶりに変更しました。新日本婦人の会今治支部の保持雅子事務局長は地道な運動が実った瞬間、「静かにガッツポーズ」しました。 保持さんらは各教育委員に「教科書を読み比べてほしい」と最後まで訴えました。採択では、他社の教科書を希望する教員の多数意見が尊重されたといいます。◆低評価でも採択強行 横浜市、大阪市など 他方、育鵬社版を採択した松山市や東大阪市など多くの地域では、教員らでつくる審議会や委員会で同社版の評価が低かったにもかかわらず、それを教育委員会が無視して決めています。 育鵬社版を編集した日本教育再生機構は採択率を上げるため、生徒数が全国上位の2市、横浜、大阪の両市をねらいました。 横浜市では、審議会の評価は歴史で育鵬社ともう1社が最も高く、公民は育鵬社以外の2社が最も高いという結果でした。ところが市教委は審議会の評価を尊重せず、育鵬社版に決めました。 大阪市は市内8つの採択地区を今回、全域の一括採択に変え、強引に推し進めました。委員6人のうち4人が支持して育鵬社販を採択しましたが、それとは別に、他社の教科書を補助教材として全生徒に配ることを決めました。教委自らが育鵬社販の不十分さを認めたようなものです。 自民党や右翼団体の日本会議が育鵬社販の推進に全力をあげました。生徒数からみた採択率は、歴史は4年前の3・7%から6・5%に、公民は4・1%から5・8%に微増。しかし目標の10%(12万部)に届きませんでした。 子どもと教科書全国ネット21の俵義文事務局長は「多くの国民がこの教科書を支持したとは言えない」と指摘。道徳の教科化によって2年後に小学校、3年後には中学校の道徳教科書の採択があります。「その時には再び採択をめぐりたたかいがある」と語ります。<育鵬社版歴史・公民教科書> 育鵬社版の歴史教科書は、日本のアジアへの侵略戦争を「自存自衛」「アジア解放」のための”正しい戦争だった”と描写。日本軍の残虐行為を隠蔽(いんぺい)するなど、歴史の事実をゆがめています。 公民教科書は、憲法9条の戦争放棄を「異例」とし、平和憲法を敵視。個人の価値よりも国家を重んじ「憲法改正」へ誘導する内容です。沖縄県の米軍普天間墓地の辺野古移設推進を記すなど、政府の主張を代弁しています。2015年10月4日 「しんぶん赤旗」日曜版 35ページ「歴史の真実 子どもたちに」から引用 小中学生が使う教科書を選定するにあたっては、やはり児童生徒の将来を考えてあげる必要があると思います。今さら「あの戦争は正しかった」などと、国際社会では通用しないような発想を植え付けるような教科書では、将来国際社会で活躍するのにハードルを作ってしまうような話ですから、これは子どもたちのためになりません。特に、育鵬社版公民教科書は、政府の主張を代弁するようなことを書いて、「教育の中立」を完全に逸脱しており、まるで「教科書業界の産経新聞」といったありさまですから、こういう教科書はやはりやめたほうがいいと思います。
2015年10月13日
沖縄県の翁長知事が国連の人権理事会総会に出席して演説したことについて、元外務官僚の佐藤優氏は、2日の東京新聞コラムで次のように述べている; 9月21日夕刻(日本時間22日未明)、スイス・ジュネーブで開かれた国連人権理事会総会における翁長雄志沖縄県知事の英語演説は、歴史的に大きな意義を持つ。民意によって選ばれた沖縄の最高指導者が史上初めて国連の場で沖縄の自己決定権に基づく自己主張をした。 <翁長知事は「沖縄の米軍基地は第2次世界大戦後、米軍に強制接収されてできた。沖縄が自ら望んで土地を握供したものではない」と述べ、米軍普天間飛行場の返還条件として県内に代替施設建設を求める日米両政府の不当性を主張した。また、「沖縄は国土面積の0・6%しかないが、在日米軍専用施設の73・8%が存在する。戦後70年間、いまだに米軍基地から派生する事件・事故や環境問題が県民生活に大きlな影響を与えている」と強調した。その上で「沖縄の人々は自己決定権や人権をないがしろにされている」と訴えた>=22日「琉球新報」。 まさに今、この時点で沖縄が国際社会に発信しなくてはならない論点がすべて盛り込まれている。 那覇に外国記者団を招き知事が特別会見を行うと面白い。知事のあいさつは琉球語、冒頭発言は英語で行い、質疑応答は日本語・英語の通訳を用いて行う。このスタイルは言語においても植民地主義から決別するというニュアンスを持つので、意外と重要だ。(作家・元外務省主任分析官)2015年10月2日 東京新聞朝刊 11版S 25ページ「本音のコラム-翁長国連演説」から引用 今回の翁長知事の国連演説は、日本の中で沖縄が置かれている不当な立場を国際世論にアピールする上で重要な演説であったと言えます。また同時に、沖縄の実情を知らない日本人にも、ものを考えさせるという点で意義のある演説であったと言えます。現在沖縄県にある米軍基地のほとんどは、国や公官庁と地元住民が合意して賃貸契約を結んだわけではなく、ある日突然やってきた米軍兵士の銃剣とブルドーザーによって暴力的に排除されて家屋を破壊され、その後に強引に滑走路を作ったというのが「普天間飛行場」です。それを返してくれという県民に対し「じゃあ代わりに辺野古をよこせ」という米軍や日本政府の態度は「盗人猛々しい」というものではないでしょうか。 また、記事には「言語帝国主義」との表現もあり、沖縄の人たちに本土の言葉を強制するために、学校ではうっかり地元の言葉を使った生徒の首に「私は方言を使いました。反省してます」というようなことを書いたカードを下げさせるというようなことも行われたといいます。遠くは島津藩による琉球侵攻から現代にいたるまで、本土による沖縄への圧政について、東京の政府は今や、過去を反省し、これまでの政策を転換し住民の声を重視する政策に切り替えるターニング・ポイントに差し掛かっていることを自覚する必要があります。これまでの政策を継続していくようでは、沖縄を本気で独立を考える事態へと追い込むことになるでしょう。
2015年10月10日
平凡社から「海軍の日中戦争」を出版した笠原十九司氏(都留文科大学名誉教授)は、8月23日の「しんぶん赤旗」のインタビューに応えて、出版の意図を次のように語っています; 旧日本海軍は開明的で国際協調的で平和的だったという通説は本当なのか。日本の敗戦・破局への道を検証した笠原十九司さんの新著『海軍の日中戦争 アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ』は、この通説を覆すものです。(神田晴雄記者) 日中両軍が衝突した慮溝橋事件(1937)から1カ月後、謀略事件が起きます。大山勇夫海軍中尉が、中国保安隊を挑発して故意に射殺される事件です。これにより、軍事衝突を収束させようとした和平工作は破たんし、日中は全面戦争へ突入します。 本書は、大山中尉が上官から「お国のために死んでくれ。家族のことは面倒を見るから」と「口頭密命」を受けていた事実を証明しました。 「これまでだれも解明しなかった事実です。この小さな動きが次第に大きな歴史の歯車に発展していきました」 海軍は以後、急膨張する臨時軍事予算を利用して、英米、特にアメリカを仮想敵とする軍備増強を進め、航空機の開発・量産、南京、上海などの中国都市爆撃を対米戦の実戦演習=技量向上に活用します。海軍首脳は総力戦においてアメリカの絶対優位を知りつつ、「対米決戦に勝てる」と公言して自縄自縛に陥り、開戦に追い込まれていきます。これが「自滅のシナリオ」です。 「海軍相の米内光政も次官の山本五十六も本音では国力の差が大きいアメリカとは勝負にならないと考えていました。けれども海軍近代化のために軍事費を確保するには、国民をだまして米英を仮想敵にしないといけない。二枚舌を使ったのです」 「軍隊は『国を守る』というのは大義名分です。本当は軍事力で羽振りをきかせ、その組織のなかで出世していくという野心をもった者が将校になっていきました。陸海軍あって国なし。これが彼らの発想です」 ◆口裏合わせ 山本は対米戦について、「初めの半年や1年は暴れてごらんにいれます。しかし2年、3年となっては全く確信は持てません」と発言していました。 「敗戦後は逆にこれを利用するわけです。実は自分たちは対米戦争に反対だったと。海軍の平和のイメージ作りに一役買いました」 東京裁判で海軍の将校・下士官の死刑者は200人。他方、艦隊司令官以上の死刑はゼロでした。上に厚く下に冷たい体質です。A級戦犯の中でただひとり、嶋田繁太郎海相・軍令部総長が死刑判決を逃れます。 「先行したニュルンベルク裁判を研究し、海軍が組織をあげて口裏合わせをしたからです」 「よく過ちを繰り返さないために教訓を学ぶと言います。しかし『死んだ者には責任を問わない』のでは教訓は得られません。海軍に責任をとった者はいません。そのままにしておくわけにはいかないと思いこの本を書きあげました」 巻末には日中戦争中-1937年8月14日~41年9月15日-、海軍の航空機が爆撃した中国の郡市一覧表があります。 「爆撃を連日やって大変な犠牲が出ていました。中国の人たちは身内の体験から実感していますが、日本人は、日本軍が長期間中国に駐屯して何をやったかを知らされていません。そこを明らかにしなければいけないと考えています。それは現代の日中歴史認識問題にもかかわります」かさはら・とくし=1944年群馬県生まれ。都留文科大学名誉教授。中国近現代史、日中関係史。著書に『アジアの中の日本軍-戦争責任と歴史学・歴史教育』『南京事件』など多数2015年8月23日 「しんぶん赤旗」日曜版 29ページ「旧日本海軍の責任を問う」から引用 戦争が始まる以前から敗戦に終わったその後まで、海軍や陸軍の軍人はどのような行動をしたのか、このような詳細な研究はこの後も続けられることと思います。私たちは、同じ過ちを繰り返さないためにどうするか、こういう本を読んで学びたいものです。
2015年09月28日
政府・与党の方針に疑問を感じても、うっかり発言することは許されない自民党の現状について、法政大学教授の山口二郎氏は6日の東京新聞コラムに次のように書いている; 自民党の谷垣禎一幹事長は、先月末、安保法制をめぐって国民を二分した後、安倍晋三首相は経済政策によって国民を統合すべきだと述べた。60年安保という大きな騒乱の後、池田勇人首相が忍耐と寛容を掲げて民心を収攬(しゅうらん)した故事に倣えというわけである。 谷垣氏は自分の役割を取り違えている。首相への助言などをするより、池田路線の継承者として権力闘争を起こすべきであった。 わがままな権力者は他人の意見を聞いて路線を転換するほど器用ではない。政府の路線を転換するのは、新しい権力者が前の権力者に取って代わった時である。その意味で、権力闘争こそ路線転換の母である。勝敗度外視で総裁選に出る政治家がいたからこそ、自民党は何度も危機を乗り越えて長期政権を持続できたのである。 安倍路線を危ういと内心思っていても、権力者に逆らったら後が怖いと思うような政治家は、ハンナ・アーレントのいう凡庸な悪に加担しているのである。そんな政治家は国民に見放される。自民党内で果敢にも安倍首相をいさめたことが勲章になる日が必ず来る。 5日には唯一立候補の可能性を探っていた野田聖子氏が国会議員20人の推薦人確保のめどをつけたとスポーツ紙が報じた。女性の勇敢さが自民党に正気を取り戻させることになればよいと願う。(法政大教授)2015年9月6日 東京新聞朝刊 11版 29ページ「本音のコラム-自民党はどこへ行く」から引用 この記事が書かれた直後に締め切られた自民党総裁選は、結局野田議員が推薦人を規定数集めることができずに、安倍氏の無投票当選が決まった。その裏では野田氏を支持する議員たちに安倍陣営から厳しい「支持妨害」があったことが報じられている。何しろこの安倍陣営の言うことをきかないと、次の選挙で「党公認」を得られないどころか、対立候補を立てられて落選間違いなしとなるのであるから、推薦人になるのも命がけというのが自民党の現状である。哲学者のハンナ・アーレントがいう「凡庸な悪」とは、ヒトラーの片腕として勇名をはせたアイヒマンを評価して言った言葉である。アイヒマンを身柄拘束してイスラエルの法廷で裁くとき、傍聴したハンナ・アーレントは「彼は悪魔のような極悪人ではなく、どこにでもいる平凡な役人にすぎない」と公言して、極悪人として徹底的に人格を否定しなければ承知できないイスラエルの世論を敵に回し、多くの親友を失うという目にもあったのだったが、しかし、平凡な人間でもファシズムに心を支配されると悪魔のような所業をしてしまうという指摘は、世界に大きな波紋を投げたのであった。自民党にも党内ファシズムに抗して、名実ともに自由と民主主義を謳歌する勇気ある議員の出現がまたれる。
2015年09月25日
戦後70年経ってもなお、フィリピンには日本軍による性暴力の爪あとが残っていると、ジャーナリストの山口正妃氏が、11日の「週刊金曜日」に報告している;『朝日新聞』は昨年9月、「慰安婦」問題をめぐる「誤報」について社長会見を開き、謝罪した。それから1年、『朝日』の「吉田清治(よしだせいじ)証言」報道取り消しを口実に、「慰安婦」強制連行から、日本軍「慰安婦」制度、そのアジア全域の加害まで「なかったこと」にする歴史の歪曲(わいきょく)が右派メディアによって進行している。 私は8月末から10日間、日本軍性暴力の爪痕残るフィリピンを訪ね、戦後70年の今も癒えない被害の深刻さを実感した。 フィリピン人元「慰安婦」たちの闘いを迫った記録映画『カタロゥガン!ロラたちに正義を!』(2011年、竹見智恵子監督)をご覧になったことがあるだろうか。カタロゥガンとはタガログ語で「正義」、ロラとは「おばあさん」の意味だ。竹見さんは1987年以来、レイテ島の農民に水牛を贈る「水牛家族」の活動を続けている。そのスタディ・ツアー「戦後70年、平和の旅」に参加し、「慰安所」など日本軍加害の跡をたどった。 レイテ島東部の大都市タクロバンには戦時中、日本の軍政部が置かれ、「慰安所」が設置された。軍が作成した「タクロバン町要図」に「慰安所」と明記された場所を訪ねた。「慰安所」の建物はもうないが、街並みや通りは当時のまま。港にも近い町の中心部に、堂々と「慰安所」を作る皇軍の傍若無人に驚く。 島中部の町ブラウエンとエスペランサ村は、竹見さんの監修による『もうひとつのレイテ戦日本軍に捕らえられた少女の絵日記』(99年、レメディアス・フユリアス著)の悲劇の現場だ。 レメディアスさんは14歳の時、エスペランサ村に攻め込んだ日本兵に捕らえられ、強かんされた後、隣町のブラウエンに連れて行かれた。小学校を転用した日本軍駐屯地の病院に監禁された彼女は、昼間は掃除・洗濯などの仕事をさせられ、夜になると、行列を成す日本兵たちに次々と強かんされたという。 レメディアスさんは戦後、マニラでひっそり暮らしていたが、真相調査チームの呼びかけで92年に被害を名乗り出た。運動団体「リラ・ピリピーナ」のメンバーとして活動しながらクレヨンで克明に描いた被害体験が、「絵日記」として出版された。 私たちはエスペランサ村で元村長のイルミナド・ヘリーリアさんに会った。7歳の時、日本軍に父親を殺され、現在80歳。幼いころ、レメディアスさんと一緒に遊んだ記憶があるという。「彼女は抗日ゲリラを探しに来た日本兵に捕まってしまい、そのまま会えなくなった」と、涙を拭(ぬぐ)いながら話してくれた。 ブラウエンには、日本軍駐屯地のあった小学校が今もある。彼女が監禁された建物は13年の台風ヨラングで壊れたが、「絵日記」に措かれた校門や彼女が縛られた大木は現存し、14歳の少女の苦しみを伝えている。 マニラでは「ロラズ・センター」で、「リラ・ピリピーナ」コーディネーターのリチェルダ・エクストレマデューラさんから話を聞いた。フィリピンでは93年までに150人以上のロラが日本軍性暴力被害者として名乗り出、46人が日本政府に賠償を求めて提訴したが、日本の最高裁は03年、請求を棄却した。 ロラたちは高齢化し、レメディアスさんも数年前に亡くなった。リチェルダさんは、安倍晋三首相による「戦後70年談話」の英訳文を広げ、こう言った。「安倍首相がいくら口できれいなことを言っても、ロラたちの状況は何一つ変わらない。日本政府は70年間、被害者に謝罪も賠償もしてこなかった。この談話は、日本のために書いたのではないですか。首相も日本の人たちも何も変わらない」<やまぐち まさのり・「人権と報道・連絡会」世話人、ジャーナリスト。>2015年9月11日 「週刊金曜日」 1055号 40ページ「人権とメディア-終わらない『慰安婦』問題」から引用 安倍首相の戦後70年談話がいかに無責任で配慮に欠ける談話であったか、この記事からも明らかです。「我々の子孫に謝罪を続ける宿命を負わせるべきではない」と言うのなら、最低限でもこの記事が示す問題を、安倍首相の任期のうちに解決する努力をするべきではないでしょうか。
2015年09月20日
自民党内で東京裁判を再検証する話が持ち上がっている背景について、琉球大学名誉教授の高嶋伸欣氏は、11日の「週刊金曜日」で次のように述べている; 内閣改造が近づいて自民党内はざわついているという。再任がありえない閣僚の筆頭は下村博文(しもむらはくぷん)・文科大臣である点で、衆目は一致している。国立競技場問題に加え、五輪エンブレム選考の不手際にも無関係ではない。それに学習塾業界からの献金問題や国会での誤認答弁の繰り返し、が知られている。 文科省内では、早くも後任大臣に稲田朋美(いなだともみ)・自民党政務調査会長を想定しているという。たしかに歴史修正主義という点では、安倍首相と一致している。稲田氏本人も、望むところだろう。しかし、ことが予想通りに進むかは、疑問だ。その原因は、稲田氏本人の最近の言動にある。 8月11日にはBSフジに出演。「70年談話」では「お詫(わ)び」をすべきでないとし、談話後に東京裁判やGHQ(連合国軍総司令部)による占領政策を総点検する党内機関を設置したい、と発言した。さらに15日、靖国神社に参拝した後、稲田氏は境内で開かれていた「日本会議」主催の集会に参加し、「戦争指導者の責任が追及された東京裁判を検証する新組織を党内に設置する意向を重ねて示した」(『産経新聞』16日付)という。「70年談話」に「お詫び」が盛り込まれ、首相は靖国参拝を今回も回避した。党内タカ派の稲田氏の苛立(いらだ)ちが示された形だ。 だが、東京裁判の再検証は、「東京裁判史観」否定の立場にはかならない。首相を含む歴史修正主義者たちが最重視している部分でもある。にもかかわらず、「談話」では安倍カラーを抑制し、歴史修正主義もトーンを下げた。中国などへの配慮だけでなく、米国からの厳しい要求に屈したのだとされている。対米従属路線をひた走る安倍首相としては当然のことだった。 ところが、その米国にとって、東京裁判こそ戦後日本の方向性を定めた占領政策の要をなすものだ。占領統治のために、米国は昭和天皇を戦犯に指名すべきという連合国多数の意見を押し切り、天皇制の存続も認めた。一方で、連合国多数の意向に合わせるために仕組まれたのが東京裁判だった。昭和天皇が負わされるはずの戦争責任を東条英機(とうじょうひでき)たちA級戦犯に押し付けることが、最初から日米間で決められていた。そのことが、今では判明している。 しかし、目米政府の情報操作などによって、日本国内ではその事実がまだあまり知られていないし、忘れられようとしている。にもかかわらず、今、東京裁判の検証をすれば、そうした日米両政府にとって”不都合な事実”が改めて広く知られるのは不可避となる。稲田氏の閣僚登用には、米国側が難色を示していることだろう。『朝日新聞』は8月26日朝刊のベタ記事で、自民党内の副幹事長会議の際、検証の取りやめを求める強い意見が出た、と伝えた。『朝日』読者には突然の話題だが、稲田氏が党内の要職に留まったにしても、安倍政権のアキレス腱(けん)にかわりないことを、同記事は示唆(しさ)している。「ベタ記事恐るべし」だ。<たかしま のぷよし・琉球大学名誉教授。>2015年9月11日 「週刊金曜日」1055号 40ページ「政権のアキレス腱は稲田政調会長だとベタ記事が示唆!」から引用 安倍晋三や稲田朋美が所属する「日本会議」は靖国神社イデオロギーをそのまま主張する右翼団体だから、本来は親米路線と矛盾する。民主党・鳩山首相の例を見るまでもなく、アメリカに楯突いたのでは日本の首相を長く続けることはできない。いずれ安倍晋三も、極右路線と親米路線のいずれを取るのか、選択を迫られる時が来るに違いない。
2015年09月19日
安倍晋三と稲田朋美は自民党内でも極右に属する議員であるが、こともあろうにこの二人は東京裁判の判決内容を見直すなどと言い出しており、ことと次第によっては「サンフランシスコ講和条約を破棄してアメリカともう一度戦う」ということにもなりかねない事態に、さすがの自民党も「ちょっと待て」と言い出した。8月26日の朝日新聞は、次のように報道している; 自民党が東京裁判(極東国際軍事裁判)の判決内容やGHQ(連合国軍総司令部)の占領政策などを検証する方針を示したことをめぐり、慎重な対応を求める意見が25日の副幹事長会議で出た。検証結果次第では国際社会に誤解を与えかねないとして、出席者の一人が「やめた方がいい」と主張した。検証は、稲田朋美政調会長が6月に実施する方針を表明。25日の会見では「東京裁判自体は認めており、無効にするとは考えていない。ただ、党内から占領期間にどんな政策がとられたのか、検証すべきだとの提案があった」とし、「統一的な見解を出すことではない」と述べた。2015年8月26日 朝日新聞デジタル 「東京裁判検証に自民党内から異議」から引用 東京裁判自体は認めており、無効にする考えは無いというのであれば、何が目的の検証なのかという疑問が出てくる。同じようなことは「河野談話の検証」のときもあった。自民党はなぜこういうことをやりたがるのか。結局、彼らは有権者の声を代弁するほどの学識も見識も無いまま、親の七光りだけで議員になったものだから、ここにきて初めて基本的知識の欠落に気付いて、勉強したいだけのことではないか。本来であれば、議員になるまえに身につけておくべき知識を、この段階で「検証する」などと偉そうなことを言うものだから、米国政府の神経を逆なですることにもなりかねない。まったく情けない政治家たちで、世襲議員の弊害がこういうところにも出ているわけだ。
2015年09月18日
戦争反対を訴える投書が、3日の東京新聞に掲載された; 8月15日、本紙でも紹介された明治大学平和教育登戸研究所資料館を訪れた。ここは旧陸軍が諜報(ちょうほう)・謀略など秘密戦のための研究を行い、風船爆弾の開発で中心になったところとして知られている。 私が最も感銘を受けたのは元関係者の「人間なんていうのは、時の風潮にだまされて、戦争でも何でもやる可能性の十分ある動物だ」という証言だったが、その日の夕刊で澤地久枝さんも「時代の流れっていうのは怖い」と、同じ趣旨の感想を述べていた。 2人の言葉から思ったのは、憲法前文と12条だ。憲法に明記されている平和のうちに生存する権利も、国民の不断の努力で保持しなければ、この国を再び戦争をする、非人間的な国にしてしまうということだ。私も戦争反対の声をさらに強めていこうと決意した。2015年9月3日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「発言-平和守るため 私も声強める」から引用 時の風潮とか時代の流れというものは恐ろしいもので、和をもって尊しとする日本人は、誰かが「戦闘機丸ごと敵艦に体当たりだ」と言い出すと誰も「No」とは言えなくなる。「No」と言えば和を乱すことになるからだ。しかし、これからの日本人は、過去の戦争の歴史に学び、和をもって尊しなどという馬鹿げたモットーはかなぐり捨てて、憲法が補償する平和的生存権を主張していくべきだ。
2015年09月16日
ドイツ・ポーランドと日本の戦争に対する認識について、作家の赤川次郎氏は8月30日の東京新聞コラムに次のように書いている; 第二次大戦中の1944年6月10日、ドイツ占領下のフランスの小さな村をナチス親衛隊が襲った。女子供も含め642人が虐殺され、生き延びたのはわずか6人。 このオラドウール村の悲劇を私が初めて知ったのは、NHKのドキュメンタリーだった。虐殺の記憶をとどめるため、破壊された家々はそのままの姿で保存され、破壊をまぬがれた家では、たった今まで食事をしていたように、皿がテーブルに並んでいる。戦時下のまま止まった時間。 久々にオラドウールの名を見た「戦後70年の世界」8月10日夕刊3面の記事(仏「虐殺の村」雪解け道)を読んで、2013年、ドイツのガウク大統領が初めてオラドウールを訪れ歴史的な和解がなされたことを知った。この和解を、前村長が長い時間をかけ、村民の強い反発にも信念を曲げずに働きかけてきたことに胸を打たれた。被害者から加害者への和解の呼びかけ。互いの憎しみを放置してはならないという前村長の歴史認識の深さには感動した。 実はこの10日ほど前、8月1日朝刊の「こちら特報部」に、これと対をなすような記事が載っていたのだ。ナチスの強制収容所で知られるポーランドのオシフィエンチム(ドイツ名アウシュビッツ)市から、日本の特攻隊の基地知覧のある南九州市に、友好交流協定を結ぼうという申し入れがあった。市長は賛同したが、このニュースが流れると市に抗議が殺到。そのほとんどが「特攻隊とナチスを一緒にするな」という趣旨だったという。市長は結局協定を断念せざるを得なかった。 冷静に考えれば、この抗議が的外れなものであることはすぐに分かる。ポーランドはナチスドイツに侵略された被害者であって、ポーランドが強制収容所を作ったわけではない。「アウシュビッツ」という言葉が、特攻で散っていった若者たちの記憶を汚す、ということなのか。しかし第二次大戦で日本がナチスドイツと同盟を結んで戦ったことは紛れもない事実である。 オラドウールの和解と比べ際立つのは日本の加害者意識の希薄さだろう。戦後70年安倍首相談話にも「痛切な反省とおわびの気持ちを表明してきました」とは、この人はよほど自分では謝りたくないのだな、と思う。この談話で首相が一番言いたかったのは「次の世代の子どもたちに、謝罪を続け」させたくないということだろう。首相の支持層から「いつまで謝ればいいんだ」という声があるのを意識しての言葉だろうが、謝罪が本気のものでない限り、信じてもらえないのである。口先で反省しても、一方では安保法制、武器輸出、原発再稼働・・・。 言葉でなく行動でこそ「反省とおわび」を示さなければ、日本はまた新たな謝罪の種をまくことになる。(作家)2015年8月30日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「新聞を読んで-行動で『反省とおわび』を」から引用 ポーランドのアウシュビッツ市と南九州市の友好交流協定に反対する理由として「特攻隊とナチスを一緒にするな」という主張は、南九州市の人々のいい加減な歴史認識を反映したものではないかと思います。アウシュビッツ市はナチスを称賛しているのではなく、ナチスによる悲惨な歴史を二度と繰り返すまいという主旨で元の収容所の建物を史跡として保存している町です。一方で、南九州市も特攻隊の悲劇を二度と繰り返さないようにとの主旨で特攻隊員の遺品を展示する施設をもっています。二度と戦争を繰り返すまいという目標は同じなのだから、この二つの都市が友好交流協定を結ぶのに何の障害もないでしょう。ところが、この辺の論理に疎い市民は、特攻隊は国に命を捧げた尊い神様なのだからナチスごときと一緒にしないでほしいと、こういう短絡的な気分で反対しているのだろうと思います。民度がその程度だということで、戦争に対する反省も不十分、大変残念なことです。
2015年09月11日
日本中の大学関係者が、安保法案は憲法違反であるとして反対の声を上げています。8月27日の東京新聞は、その様子を次のように報道しています; 安全保障関連法案に反対する全国の大学教員ら約260人が26日、東京都千代田区で記者会見し、「安保法案は違憲法案で、憲法9条をなきものとする。絶対に阻止する」と訴えた。教員たちば参院議員の事務所を回り、法案を廃案にするよう要請した。 会見や要請行動を企画した「安全保障関連法案に反対する学者の会」によると、少なくとも108大学・団体で、教員や学生でつくる有志の会が、法案反対の声明を発表しているという。 東北学院大の郭基換(かくきかん)教授は会見で「東日本大震災では無数の人が誰かの命を思った。ひとつひとつの命以上に価値あるものはない。私たちは戦地で命を落とす人の無念を想像する責任がある」と述べ、廃案を訴えた。 創価大の佐野潤一郎講師は「憲法を軽視し、ちゃんと議論もせず、戦争法案を通そうとしている」と政権を厳しく批判。「今、声を上げないなんて、ありえない」と強調した。 京都大の藤原辰史准教授は、94歳の元海軍兵から「もう国にだまされてはならん」と聞かされたエピソードを紹介し「血を流すこと貢献と考える『普通の国』よりは、知を生み出すことを誇る特殊な国に生きたい」という有志の会の声明を読み上げた。(飯田孝幸)◆首相母校も「反対」声明 安倍晋三首相の母校、成蹊大や、成蹊中学・高校などの教員らによる「成蹊学園有志」も首相に「平和を求める多くの人々の声に謙虚に耳を傾け、廃案にすることを切に望む」と求める声明を出している。 「首相が卒業した成蹊学園は、かつて少なからぬ同窓生を戦地へと送り出した歴史を持っている」と振り返り、首相に「次代を担う若い世代を再び戦地に送らないために、そうした痛恨の歴史に学ぶ」ことを求めている。◆反対の会108に拡大教職員・学生らの有志が声明を発表した大学は次の通り。北海道大、北海道教育大、室蘭工業大、木し幌学院大、北海学園大、北星学園大、酪農学園大、弘前大、筑波大、茨城大、群馬大、高崎経済大、千葉大、東京大、東京学芸大、東京農工大、早稲田大、上智大、日本大、東京経済大、青山学院大、清泉女子大、学習院大、学習院女子大、東予竿大、首都大学東京、創価大、創価女子短大、国際基督教大、東京芸術大、明星大、成蹊大、慶応大、フェリス女学院大、中京大、名城大、愛知大、愛知学院大、愛知東邦大、岐阜大、岐阜経済大、情報科学芸術大学院大、三重大、金沢大、滋賀大、滋賀県立大、京都大、京都府立大、京都橘大、京都教育大、神戸大、関西学院大、神戸女学院大、岡山大、広島大、山口大、下関市立大、島根大、島根県立大、香川大、大分大、九州大、西南学院大、福岡大、熊本県立大、熊本大、熊本学園大、明治学院大、法政大、立教大、中央大、東京理科大、桜美郷大、和光大、一橋大、武蔵大、恵泉女学園大、大東文化大、明治大、神奈川大、横浜市立大、独協大、東京基督教大、信州大、長野大、新潟大、静岡大、名古屋大、愛知教育大、日本福祉大、名古屋学院大、立命館大、龍谷大、同志社大、仏教大、京都工芸繊維大、花園大、天理大、大阪大、大阪府立大、大阪市立大、関西大、和歌山大(大学グループ内にある短大などの複数学校、県単位でつくった大学教員・学生の団体で共同声明を出しているケースなどがあります)2015年8月27日 東京新聞朝刊 12版 28ページ「『血』より『知』生み出そう」から引用 大学関係者がこのように多く反対の声を上げていることに、政府は謙虚に耳を傾けるべきです。また、元海軍兵士が語ったように、国民は政府に騙されてはいけません。国の安全が危ないから憲法を曲げるとか、国が危ないから国民は立ち上がれとか、愛国心を持てなどのウソに国民は騙されない判断力を身につけるべきでしょう。
2015年09月10日
人権蹂躙の極地ともいえる奴隷制度を廃止したアメリカ政府は、廃止を決めた年の70年後に、被害者の実態がどのようであったのか、聞き取り調査を行なった。そのことについて、法政大学教授の竹田茂夫氏は、8月27日の東京新聞コラムに次のように書いている; 米国奴隷制の廃止から約70年後、1930年代に最後の生き残り世代に聞き取り調査が行われた。2千人以上の黒人が対象の国家事業だ。近刊のE・バプティスト著『半分は語られなかった』(未訳)は他の一次資料も駆使して、最底辺を生きた人々の体験に迫る。 家族から突然引き離されて競売にかけられ、深南部の綿花プランテーションで強制労働と拷問に耐えた人々の物語で、迫真の叙述は一人称の語りに近づいていく。専門書だが、衝撃的な内容で一般読者の反響も大きい。 19世紀前半の米国の奴隷制は、企業家精神や利潤計算や金融仲介などからなる市場原理に基づいたもので、この制度こそ綿を当時の世界商品にしたのだ。暴力と恐怖の「鞭(むち)のテクノロジー」が半世紀の間に労働効率を4倍に高めたという。 現代の市場経済をこの制度から分かつのは、「生身の人間は商品化できない」という公準だけだ。逆に、現代の商品化は労働力や技能から人格や感情や意欲に、さらに公共財や生殖機能や臓器にまで及んでいる。 表舞台で脚光を浴びる人々の行状や口跡だけでは歴史や社会の半分しかつかめない。統計数字も使い方次第で目を欺く。ブラック企業やアマゾン社の陰惨な職場に関する報道も、語られない体験の氷山の一角と理解すべきだ。(法政大教授)2015年8月27日 東京新聞朝刊 11版S 27ページ「本音のコラム - 語られぬ体験」から引用 日本の十五年戦争も、南京大虐殺とか慰安婦問題、神風特攻隊、人間魚雷回天など、数々の人権蹂躙を引き起こした戦争であったのだから、日本政府は戦後70年に当たって、被害の実態がどのようであったか、生存者に聞き取り調査を行なうべきである。広島や長崎では、夏休み中の8月15日は臨時登校日として原爆被災者を偲ぶ平和教育の日としているそうだが、このような学習日は全国の小中学校で実施して、戦争体験者のビデオを視聴するなどして、平和の尊さを学ぶべきであり、その教材に政府が検証した報告書などが役に立つはずである。
2015年09月09日
戦争に行きたくないという若者を「自分中心で利己的」と非難した武藤衆院議員を批判する投書が、8月19日の東京新聞に掲載された; 自民党の武藤貴也衆議院議員が、安全保障関連法案に反対デモをしている学生グループ「SEALDs」に対して、「戦争に行きたくないというのは自分中心で利己的な考え」と非難した。武藤議員自身もまだ30代と若く、同じ若者の気持ちをわからず非難するとは、驚きで残念だ。 私は行動を起こした若者たちの気持ちは純粋で貴重なものだと思っている。頼もしくさえ思う。 過去の戦争を見ても、他国の自治や人権を破壊して自国の市場や領土を拡大しようとしたり、資源を奪おうとするなど、戦争こそが利己的で自分勝手な理由で始められていると思う。若い武藤氏には歴史を真摯(しんし)に学び、自民党であっても反旗を翻して「戦争法案」に反対してもらいたい。2015年8月19日 東京新聞朝刊 11版 4ページ「発言-武藤氏に失望 歴史を真撃に」から引用 この投書は、論点がボケていて問題の適格な把握ができていないのではないかと、私は思います。単なる表現の問題かも知れませんが、行動を起こした「SEALDs」の若者は純粋な気持ちで「戦争に行くのはイヤだ」言ってるのだと書いてますが、気持ちが純粋だから尊いという発想では武藤氏のイデオロギーに対抗できません。武藤氏は、政府が国家の危機だから国民は立ち上がって戦えと国民に呼びかけたときは、我がままを言わずに政府の命令に従うべきだ、誰でも死ぬのはいやだと考えるものだが、政府が行けといったら不平を言わずに行くのが国民の義務だと、こう言いたいわけで、これは明らかに教育勅語の発想です。この武藤氏の論理を否定する根拠を、私たちはどこに求めるか、それは日本国憲法です。私たちの憲法は、国民が健康で文化的な最低限の生活をする権利を認めています。また、私たちの憲法は、国民が奴隷的拘束や苦役からの自由を保障しています。これらの日本国憲法が保障する国民の権利が根拠となって、「SEALDs」の若者は「戦争には行きたくない」と主張しており、その主張は国民として全く正当な権利の主張であることを、私たちは理解する必要があります。
2015年09月06日
戦時中の婦人雑誌に掲載されたレシピを紹介する本を斎藤美奈子氏が出版したのは2002年で、この度それを文庫本にするに当たって、斎藤氏は8月19日の東京新聞コラムに次のような感想を書いている; 2002年に出版した本が、13年ぶりに文庫となった(『戦下のレシピ』岩波現代文庫)。 戦時中(1937~45年)の婦人雑誌に載った料理記事やレシピを紹介しながら、当時の食糧事情を考察した本だ。執筆中、私の頭は完全に戦中モードに入っており、道端の雑草を見れば「あれは食べられるかな」、花壇を見れば「花じゃなく芋を植えなさいよ」。ついそう考えてしまう自分がおかしかった。 文庫化に際し、資料に当たり直して思ったのはしかし「02年はまだ呑気(のんき)だったな」ということである。9・11後の不穏な雰囲気があったとはいえ、イラク戦争は翌年だし、格差社会が顕在化するのももう少し後。震災も原発事故も経験しておらず、集団的自衛権の影もなかった。それが十数年でここまで「戦時」の空気に近づくとは、予想もしていなかった。 「瑞穂の国といわれる我国は、戦時下でも欧州諸国のような食糧欠乏に悩まされることはありませんが、(略)平素から米以外の穀物を常食とすることにも慣れておくことです」とは40年の婦人雑誌に載った談話である。それが44年には絶望的な米不足に陥り、「足りないのは実は食糧でなくて、食糧に対する反省です」ってな話に変わる。崖から転げ落ちる速度は速い。「念のために」は「もっとひどいことになる」の前ぶれなのだ。(文芸評論家)2015年8月19日 東京新聞朝刊 11版S 27ページ「本音のコラム-戦時の教訓」から引用 日中戦争が中国軍民のしぶとい抵抗にあって泥沼化し、破れかぶれで日米開戦するという切羽詰った状況で「瑞穂の国といわれる我国は、戦時下でも欧州諸国のような食糧欠乏に悩まされることはありません」とは、ずいぶん呑気なことを言ったものだと思います。瑞穂の国で食料は豊富で、神の国だからイザというときは神風が救ってくれるというデマは、ことごとく期待を裏切って、わが国は無条件降伏を余儀なくされました。今もまた、安倍首相は「安保法制によってわが国が戦争に巻き込まれるなどということは、断じてありません」などと言っても、その言葉は4年後には国民を裏切ることになる可能性があるということです。安倍首相が言うには「わが国は平和国家だから、自衛隊を海外に派遣して武力行使することは断じてあり得ない」と強調し、「今回提案している安保法案は、念のために法整備するのだ」というわけですが、斎藤氏は、過去のわが国の政治に照らして、政治家が「念のため」と言い出したら、数年後には「もっとひどいことになる」と、こういうわけです。したがって、私たちは安保関連法案、すなわち戦争法案の成立を許してはなりません。
2015年09月05日
安倍首相が発表した戦後70年の談話を、メディアはどのように報道したか、弁護士の白神優理子氏は、8月23日の「しんぶん赤旗」コラムに次のように書いている; 安倍内閣が14日に閣議決定した「戦後70年談話」を各メディアが報じました。 NHKは15日の報道番組などで、「侵略」「植民地支配」「痛切な反省」「お詫(わ)ぴ」のキーワードが盛り込まれたと無批判に評価しました。 しかし、これは文言をちりばめただけ。日本の戦争が侵略戦争だったことを明示せず、反省やお詫びも歴代内閣が表明したと触れただけで、自身の謝罪として語っていません。 実質的には村山・小泉談話を投げ捨てる内容。NHKには、インターネット上でも「安倍礼賛」「政府広報か?」と批判が相次いでいます。 「産経」(15日付)は1面で、「侵略」や「お詫び」などの対象を明確にせずに一般論にしたことを「非常に良かった」とするコメントを紹介。「読売」(15日付)も、「首相『反省とおわび』継承」などと報じました。両紙とも、「談話」の「あの戦争には何らかかわりの無い世代に謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」や「積極的平和主義」という部分を「『謝罪』次世代に背負わせぬ」(「産経」)「未来志向」(「読売」)と高く評価するありさまです。 談話の問題点に目をつぶり、首相に代わり一生懸命弁明するメディアの姿勢に、戦時中の国営メディアの姿が重なります。また、”謝罪はもういい”と歴史の事実と向き合わない不誠実な態度は、戦後の原点を投げ捨てるものです。 「朝日」(15日付)は、「主語『私は』使わず」「引用・間接表現目立つ」と一定の批判をしましたが、「談話」の持つ危険性への明確な分析は避けました。 「談話」の内容は、村山談話に示された、日本が「国策を誤り」「植民地支配と侵略」をおこなったことへの反省やお詫びを投げ捨てた、「『戦争する国づくり』宣言」(「しんぶん赤旗」15日付)です。この危険性に声を上げる国民が、戦後最大規模で広がる今、メディアにはそれにふさわしい批判精神の発揮が求められています。(しらが・ゆりこ=弁護士)2015年8月23日 「しんぶん赤旗」35ページ「メディアをよむ - 70年談話 無批判すぎる」から引用 安倍首相が70年談話を作成するに当たって有識者の意見も参考にするということで組織された会議の一員だった北岡伸一氏は、出演したラジオ番組で「主語を使っていないからけしからんなどと言う批判もあるが、それは間違いだ。子どもが学校に行くとき『学校に行ってきます』とは言うが、『私は学校に言ってきます』とは言わない、日本語にはそういう特徴があるんです」と談話を擁護していた。北岡説は一般論としては間違いではないが、70年談話を擁護する論としては無理がある。たとえば、談話の一節には「何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。」というくだりがあるが、ここなどは「私は日本国首相として」という主語を用いれば、誰もが日本の首相は重い責任を自覚していると感じることができるが、あえて主語を省いたために、いかにも客観的で他人事のように認識している印象を与えており、これは失敗だったといえる。また、談話の一節には「自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。」などとあるが、実際には「法の支配」を無視して勝手に憲法解釈を変更し、自衛隊に海外で武力行使させようとしており、「言ってることとやってることが違う」を絵に描いたような具合になっており、しらじらしいという感想がでてくるのも無理のない話である。
2015年09月04日
安倍首相が70年談話を発表した8月14日、共産党の志位委員長はこの談話を批判するコメントを発表しました。その内容を、8月23日の「しんぶん赤旗」が次のように紹介しています; 安倍晋三首相は14日、官邸内で記者会見し、戦後70年にあたっての談話を発表しました。これについて日本共産党の志位和夫委員長は同日、「戦後70年にあたって-『安倍談話』と日本共産党の立場」と題する談話を発表しました。 志位氏は、安倍首相の戦後70年談話について、「侵略」「植民地支配」「反省」「お詫(わ)ぴ」などの文言がちりばめられているが、「日本が国策を誤り」、「植民地支配と侵略」を行ったという「村山談話」に示された歴史認識はまったく語られていないと指摘。「反省」「お詫び」も過去の歴代政権が表明したという事実に言及しただけで首相自らの言葉として語らず、「欺瞞(ぎまん)に満ちたもの」と厳しく批判しました。 韓国の植民地化をすすめた日露戦争を、「植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけた」とのべたことについて「乱暴きわまりない歴史の歪曲(わいきょく)」だと批判。「安倍談話」は、「全体として『村山談話』が表明した立場を、事実上、投げ捨てるに等しいもの」だとのべました。 日本共産党は、戦後70年にあたり、日本とアジア諸国との「和解と友好」へ、日本の政治がとるべき5つの基本姿勢(別項)を提唱していることを紹介。北東アジアの平和と安定を築く基礎は信頼であり「信頼は、歴史の真実に正面から向き合い、誠実かつ真撃(しんし)に誤りを認め、未来への教訓とする態度をとってこそ得ることができる」と強調しています。 いま、安倍政権が戦後70年の平和の歩みを断ち切り、戦争法案を強行し、日本を「海外で戦争をする国」につくり変えようとしていると指摘。この憲法破壊の暴走に対し、日本共産党は「戦争法案を許さない」の一点で共同を広げに広げ、必ず廃案に追い込む決意を表明。党が提唱する「北東アジア平和協力構想」こそ、戦争法案に対する真の平和的対案だとのべ、その実現のために力をつくす決意をのべています。(全文は「赤旗」日刊紙15日付、党ホームページで)◆五つの基本姿勢(1)「村山談話」「河野談話」の核心的内容を継承し、談話の精神にふさわしい行動をとる(2)日本軍「慰安婦」問題の被害者への謝罪と賠償(3)靖国神社参拝は、少なくとも首相や閣僚はおこなわないことをルールとする(4)立法措置を含めて民族差別をあおるヘイトスピーチ根絶を(5)「村山談話」「河野談話」で表明してきた過去の誤りへの立場を、学校の教科書に誠実に反映させる2015年8月23日 「しんぶん赤旗」2ページ「戦後70年にあたって - 『安倍談話』と日本共産党の立場」から引用 村山談話が「日本国の首相として、過去に植民地支配や侵略戦争をしたことを反省し、お詫びする」と明確に述べているのに比べれば、安倍首相の談話は「過去の首相が、こう言った」と言及しただけで、自らは「それを継承する」とは言うものの自分の言葉としては語っていない。したがって、多くの国民は「安倍さんは本当に謝罪する気持ちがあるのか」と疑問を持つし、逆に櫻井よしこ氏などは「安易な謝罪の道をとらなかった」と評価(8月15日付け産経新聞)しているのであるから、やはりこれはどっちの方向から見ても残念な談話であったことに違いはない。それにしても、共産党が提案している「五つの基本姿勢」は大変前向きで、安倍首相風に言えば「未来志向」である。とりわけ村山談話や河野談話を継承すると明言している安倍首相には、河野談話が示しているように、侵略戦争や慰安婦問題を将来二度と繰り返すことのないように歴史教育での指導を実践していただきたいものである。
2015年09月03日
団体役員の三木由希子氏は、最近の東京新聞の報道について8月23日の紙面で、次のように論評している; 8月14日に安倍普三首相の70年談話が発表された。「保守層と中韓両にらみ 曖昧(あいまい)な表現多く」(15日2面)では、公明党、米中韓への配慮、支持率の低下と、玉虫色の談話の背景が報じられている。日本では過去の戦争は今日的な政治問題であり、外交問題だ。70年を経ても、まだ論争的なのである。いったいこの70年、私たちは戦争の何に向き合い、検証し、教訓としてきたのかということに、思いが至る。 特集「問い直す戦争 70年目の視点」(5日)は、政府による戦争の検証という課題を投げかけている。1945年11月に設置され連合国軍総司令部(GHQ)の意向で頓挫した戦争調査会が紹介され、「独立後の日本に独自の検証を再開する機会はいくらでもあった。だが冷戦構造下の日本が採った道は、永遠の不戦の誓いを憲法9条に具現化し、西側諸国の安定を経済面で地道に享見ることだった」という東大教授の加藤陽子氏の指摘に、今でもなお政治問題、外交問題であり続ける理由が象徴されているように思う。 戦後の安全保障・外交政策の礎になるはずの過去の戦争の総括がない中で、参議院では安保関連法案が審議されている。「首相、掃海の答弁修正」(7月28日1面)、「首相『米艦単独行動せず』防護根拠揺らぐ」(8月5日1面)など、違憲か否かだけでなく、集団的自衛権容認の根拠が揺らぐ中、日本の安全保障のあり方について、視角を広げた記事のさらなる展開に期待したい。 安保法案が示した問題の一面は、これまで当たり前の前提だったことが、無条件では通用しなくなってきているということだと思う。「防衛省大学研究に助成 軍事活用へ初の公募」(7月26日1面)、「海外軍事企業買収認める」(8月2日1面)、「核兵器輸送排除せず」(5日夕刊1面)などは、「あってはいけないこと」、あるいは「あるべきではないこと」という前提が崩れつつあることを示唆している。経済戦略や安全保障戦略の変更が、こうした個別の問題に表れる。時代の流れを深読みする解説や記事が増えると、読者の理解を助けることになると思う。 理解が深まる記事の展開として今回目に留まったのは、「司法取引導入 成立へ」(6日3面)、「『司法取引法案』が衆院通過」(8日6面)と、弁護士の五十嵐二葉氏による「日本版司法取引法案の大問題」(7日夕刊7面)だ。司法取引の仕組みと問題点の記事に加え、導入によって何が起こり得るのかをアメリカの例から解説し、問題提起する五十嵐氏の論考は、とても参考になった。刑訴法改正は繰り返し報じられているが、重要な問題は機会をとらえてしつこく展開してほしい。(情報公開クリアリングハウス理事長)2015年8月23日 東京新聞朝刊 5ページ「新聞を読んで-戦争は今日的な問題」から引用 この記事が指摘するように、日本政府は70年前に敗戦となった十五年戦争で、300万人の同胞と2000万人のアジア人を死なせた責任について、未だに自ら検証するという作業を行なっていない。だから、政府が自衛のために最低限の武力が必要だといっても、国民としては、それが本当なのか次の侵略戦争の準備なのか、疑いの目をもって見る必要性が出てくる。安倍首相は安保法案が成立しても、そのために日本が戦争に巻き込まれるということはあり得ない、などと言ってるが、国民がその発言を100%信用するには、日本政府自らが過去の戦争を検証する必要がある。戦後80年を迎えるまでには、是非検証をしてもらいたい。
2015年09月02日
戦争が終わって70年たっても、まだ解決されずに残っている問題について討論した「戦後70年、東アジアフォーラム」について、8月23日の東京新聞は次のように報道している; 侵略と植民地支配の歴史を問い返す「戦後70年、東アジアフォーラム」(同フォーラム実行委員会主催)が東京都内で開かれ、日本と東アジア諸国の間に横たわる人権、教育、外交、安全保障など歴史的問題を課題に話し合った。 基調講演で内海愛子・恵泉女学園大学名誉教授は、日本の植民地支配の問題がサンフランシスコ講和会議と東京裁判で取り上げられなかった問題を指摘。「日本は米英を中心とした連合国との間で敗戦処理を行い、『和解』が成立したが、日米安保条約と一体化した米国の世界戦略の中での『和解』だった。韓国、朝鮮、中国との和解は排除された」とした。 その上で「日本は今、日米同盟を強化し、平和主義をかなぐり捨てようとしている。一方、『東京裁判史観』を否定し、戦犯を合祀(ごうし)する靖国神社に閣僚が参拝する。東アジアに位置する日本がアジアの国と共に生きるには歴史修正主義に逃げ込むのではなく、過去に立ち向かった『深い反省』をアジアの被害者に謝罪し補償することが必要だ」と語った。 課題別シンポ「加害者が『和解』を語れるのか?」では、一橋大学の鵜飼哲教授が「ヨーロッパにおける和解」を取り上げ、「歴史修正主義は『和解』の基盤である真実を破壊する。東アジアはいまなお東西冷戦期の論理を超えておらず、『真実の和解』に至っていない」と強調した。ドイツ「記憶・責任・未来」財団理事会アドバイザーのウ夕・ゲルラントさんは、ドイツ国防軍の「売春宿」について報告。日本軍「慰安婦」問題解決全国行動共同代表・梁澄子(ヤンチンジャ)さんが朴裕河さんの著作「帝国の慰安婦」の問題点を指摘した。(土田修)2015年8月23日 東京新聞朝刊 27ページ「和解へ『深い反省』が必要」から引用 わが国の戦争はサンフランシスコ講和条約で元敵国と和解した形になっているが、実際は内海先生が指摘するように、これはアメリカの世界戦略の中での「和解」に過ぎず、韓国、朝鮮、中国との和解が排除されたのは事実で、だから未だに中国や韓国で、戦時中の強制連行の補償問題が繰り返して提起されるわけである。安倍首相は日本が70年間、平和国家としてやってきたと胸を張るのであれば、これからは過去の70年間に取りこぼしてきた補償問題に誠意をもって取り組むべきだ。
2015年09月01日
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