全7253件 (7253件中 1-50件目)
台湾では30年ほど前から東南アジアの女性と結婚する男性が増えて、一時は東南アジアを見下す風潮もあったが、その後の台湾政府の民主化の努力が成果をもたらし、差別も解消されつつある様子を、朝日新聞記者の岡田玄氏が5月27日付け同紙夕刊に、次のように書いている; 日本人とは何か。このことを改めて考えなければならないと思わされた取材だった。昨年11月、台湾を訪れた時のことだ。 日本では外国につながる子どもが増えている。ルーツが多様で「自分はなにものなのか」と悩みがちだ。こうした子どものアイデンティティー(自己同一性)をどう支えればいいのか。そんな問題意識から、アジアでも先駆的とされる言語教育の現場を見てきた。 台湾では2019年から東南アジアの言葉を「新住民語」として公立小で選択必修科目にした。対象はベトナムやインドネシア、ミャンマーなど7言語だ。 台湾では1990年代以降、台湾人男性と東南アジアの女性との結婚が増えた。こうした国にルーツがある「新住民」に対応すべく言語教育を重視している。 社会学者の夏暁鵑・政治大学教授は「台湾には日本を上、東南アジアを下とみるような、植民地時代に持ち込まれた価値観が残ってきた」と話す。こうした序列意識が、東南アジアにルーツがある人への差別やさげすみを生んだという。 母がベトナム出身の大学院生、劉千萍さんもかつて差別されていたと感じている。母方のルーツを否定することで「台湾人」になろうとした。だが、台湾社会が変わったことで、「今はベトナムのルーツに誇りを持ちつつ、私は台湾人だと言える」と語る。 日本の敗戦後、台湾には中国共産党との内戦に敗れた国民党が移り、支配した。古くから使われていた台湾語は公的な場で使用が禁じられ、標準とされる中国語が強制された。先住民もないがしろにされた。86年からの民主化は、台湾語の復権や先住民の権利回復でもあった。 公教育では台湾語や先住民の言葉が教えられるようになった。その延長に、新住民語の教育がある。 中国共産党政権は台湾を自国領土とし、統一をめざしている。台湾は「一つの中国」という考え方に向き合いながら、台湾人の境界を問い直してきた。 少数派を排除せず「同じ台湾社会の一員」という意識を広げようとしている。 ひるがえって日本はどうか。日本語の教育は大事だが、アジアや中南米の言葉を学ぶ機会は少ない。先住民族のアイヌについても学ぶ意識は高まっていない。日本人という「枠」は狭く閉ざされているようだ。 外国ルーツの住民はこれからも増える。排斥ではなく共に暮らすために日本人とは何かを問い続けたい。(オピニオン編集部) *<おかだ・げん> 2003年入社。中南米特派員を経て22年4月より現職。「多民社会」取材班に加わり、日系人ら外国にルーツがあるコミュニティーを取材している。台湾の新住民語教育については、朝日新聞デジタルでも公開中。2024年5月27日 朝日新聞夕刊 4版 5ページ 「取材考記-台湾に学ぶ『新住民』との共生」から引用 この記事は問題の大きさに比べて余りにも字数が少ないため、筆者の真意を理解するのが困難であるように感じます。それにしても、少し前まで台湾の人々は「日本が上で、東南アジアは下」という価値観を持っていたとのことであるが、これは取りも直さず戦前の日本人が植え付けた価値観で、それが日本の敗戦後もまだ継続していたとは驚きです。しかし、台湾から日本が撤退した後でやってきた中国国民党が中国語を公用語とし台湾語を禁止したというのは、日本も中国もやることは同じなのかと思いました。それでも台湾は、その後民主化が実現し、東南アジアの7言語を公教育の選択的必修科目となっているというのは素晴らしいと思います。子どものころからこのような環境で暮らすことが出来れば、むやみに他民族を蔑むような発想は人々の心から一掃することになるのではないかと思います。
2024年06月11日
先月下旬に開かれた教員のわいせつ事件の裁判を取材した東京新聞・森田記者は、傍聴人の異常な多さに疑問を持ち、調べたところ、実は横浜市市教委が一般市民の傍聴を妨害するために職員を動員していたことがバレてしまった一件について、元文科事務次官の前川喜平氏は5月26日の東京新聞コラムに、次のように書いている; 22日、本紙1面が報じた21日横浜市教委の記者会見。教員のわいせつ事件の公判で職員を傍聴に動員し、一般の傍聴ができないようにしていたことを認め謝罪した。裁判公開の原則や国民の知る権利を侵害する言語道断の行為だ。被害者側の要請を受けた対応で「教員を保護しようという意図はない」と市教委は説明したが、真の目的は組織防衛だったのではないか。第三者委員会で真相を究明すべきだ。 あっぱれと感じ入ったのは、あわせて掲載された森田真奈子記者の手記だ。「なぜこんなに多くの人がいるのか」という疑問を、疑問のまま終わらせず、傍聴人の後を追い、学校教育事務所の入居するビルに入るのを確認して、市教委職員であることを確信したという。記者魂ここにあり。同記者が地裁への職員の出張記録や指示文書の開示を求めたことが市教委を追い詰め、記者会見につながったのだ。 多くの傍聴人がつめかけたという表面の事実の裏に、市教委による隠蔽工作という重大な事実が隠されていた。隠された事実を暴いて伝えることこそ報道の神髄だろう。ウォーターゲート事件でワシントン・ポストの記者がやった仕事も、沖縄密約事件で毎日新聞の西山太吉記者がやった仕事も同じだ。そういう仕事こそ、新聞記者にはやってほしいと思うのだ。(現代教育行政研究会代表)2024年5月26日 東京新聞朝刊 11版 19ページ 「本音のコラム-記者魂ここにあり」から引用 学校の先生が生徒にわいせつ行為をするなどという不名誉な事件は、当然あってはならない事件であり、出来ることならあからさまな事件の中身が、あまり多くの市民に知られるような事態は避けたいというような心情から出てきた事件なのだろうと思われます。しかし、封建時代の昔ならいざ知らず、民主主義の現代においては「隠し事」はいけません。どんな不名誉な事件であれ、何故そのような「事件」が起きるのか、もしかしたらそういう事件を起こす当事者が精神的な疾患を持っていることが原因なのではないかとか、多くの人々の英知を集めてより平和な社会を構築するためにも、隠し事はやめて、明るい未来を構築していきたいものだと思います。
2024年06月10日
読売新聞記者でありながら社論と異なる主張を他誌に発表したことがきっかけで読売を退職した経緯をもつジャーナリストの山口正紀氏は、2004年に出版した著書「メディアが市民の敵になる」(現代人文社)で、2003年当時の「日本人拉致事件」報道と世論の動向について、次のように論評している; 「被害者の立場に立てば、実名報道もやむを得ない」――これは、犯罪報道で被疑者の実名原則を主張するメディアの論理だ。最近は、「加害者の人権ばかりが尊重され、被害者の人権がないがしろにされている」として、少年事件でも、「実名による制裁」を主張するメディアがある。 「被害者の無念や遺族感情を思えば、死刑もやむを得ない」 これは、死刑制度に関する議論で、最も多く主張される死刑存続・容認論だ。 《被害者の立場》に立って考えるのは、ほんとうに大切なことだ。ただ、実名報道や死刑容認論で言われる《被害者の立場》には、疑問符がつく。被害の悲惨さ、「犯人の凶悪性」を強調するだけで、「事件はなぜ起きたのか」の背景追求はなおざりにされ、「犯人憎し」で終わる。《被害者の立場》だけに身を置けば、犯罪を生み出した社会の構成員としての責任や、「自分も加害者になる可能性」から目をそらしてしまえるのだ。 だから、情報の送り手も受け手も、容易に《被害者の立場》に立つ。立ったつもりで加害者を非難する。そうして、「事件」は終わり、やがて被害者の苦しみも忘れ去られていく。 だが、容易には《被害者の立場》に立たない場合もある。自分自身の加害性が問われるときだ。その典型が報道被害。メディアも、報道を信じた読者・視聴者も、なかなか報道被害者の立場に立っては考えない。 もう一つの典型が、侵略戦争や植民地支配による人権侵害だ。それがいかに残虐非道な犯罪であり、被害者がどれほど苦痛を訴えても、《被害者の立場》に立って苦しみを想像しようとはしない。それどころか、被害者の叫びを無視し、否定する。 1991年8月、一人の韓国女性が名乗り出て、日本軍「慰安婦」=性奴隷にされ、心身をズタズタにされた過去を証言した。以来、在日も含めてアジア各地の被害女性が、次々とつらい体験を語り始めた。 当初、政府や軍の関与を否定していた日本政府も、敗戦後に関係者が処分し損ねた各種の公文書が次々発掘され、93年8月、河野洋平官房長官が政府の直接関与を認めた。 それでも、《被害者の立場》に立つどころか、「加害の事実」も認めない人たちは、「加害の自覚」を持って歴史を見直そうとすることを「自虐史観だ」と非難し始めた。そうして、アジアから侵略と植民地支配の加害責任を追及されることに、ねじれた「被害者意識」を抱くようになった。 それを肥大させ、「国を愛する心を持て」と居直りのナショナリズム=ゴーマニズムに転化させたのが、96年末に発足した「新しい歴史教科書をつくる会」や石原慎太郎都知事ら極右政治家、そして彼らを後押しする右派ジャーナリズムである。 日本人拉致事件は、そんな人たちにとって、晴れて《被害者の立場》に立てるチャンスと見えたのだろう。「慰安婦問題」抹殺願望という「ナショナリズムの糸」で「つくる会」と結ばれる「救う会」が、拉致被害者・家族の取材窓口の立場を利用し、マスコミ報道を統制・支配した。 こうして「9・17」以降の拉致一色報道・「北朝鮮」非難大合唱は、日本人が「安心」して《被害者の立場》に立ち、「在日」も含めた朝鮮人全体を「加害者」として糾弾できる資格が与えられたかのように錯覚させた。 だが、この《被害者の立場》も、犯罪報道と同様、「犯人の悪質さ」断罪一本槍で、事件の背景、原因追求には向かわない。それを徹底すれば、日本の「北敵視」政策、朝鮮南北分断、さらには植民地支配へと、歴史に目を向けざるを得なくなるからだ。 しかも、この《被害者の立場》は、当の被害者自身の思いより、「反北朝鮮」の政治的意図を優先させる。 一時帰国のつもりで帰ってきた5人を「帰さない」という「家族会」の決定は、「救う会」が誘導したものだった(『週刊金曜日』444号・高嶋伸欣氏のレポート参照)。被害者が朝鮮に残してきた家族と「今後」を話し合う機会は、今も奪われている。 さらに、[救う会]は1月25日、被害者家族の訪朝反対を決めた。翌26日、「家族会」は同じ方針を確認し、訪朝を希望していた横田滋さんに「当面、見送り」を同意させた。 ほんとうに《被害者の立場》に立って考えているのだろうか。 「つくる会」の「新しい公民教科書」に「北朝鮮による拉致事件を金正日総書記が認めて謝罪した」との記述を盛り込む申請が2002年末、文部科学省から承認された。「慰安婦問題」にはいっさいふれないままだ。<2003年2月7日>山口正紀著「メディアが市民の敵になる」(現代人文社刊) 168ページ「植民地支配への沈黙を問う」から引用 この記事が書かれた時は、一時帰国という約束で帰国した拉致被害者たちが残して来た家族をどう救出するか方針も決まっていない時点であったようであるが、その後「一時帰国」という約束を反故にして大丈夫なのかという不安を乗り越えて、残された家族は東南アジアの国を経由して日本に来るという「経路」で日本に到着したのであった。しかし、この記事でも言及しているとおりで、「拉致被害者を救う会」というのは、いたずらに「反共」「反北朝鮮」の言動をすることにばかり熱心で、あの「姿勢」は決して「拉致被害者を救う」ためにプラスになったとは考えられません。あれから20年も経っているのに、また未解決の問題が残っているのは、「救う会」の偏向した姿勢が禍したもので、現在の「被害者家族の会」も「救う会」の言いなりになっていては、良い結果を得ることは益々困難になるだけだと思います。
2024年06月09日
自治体首長の経験があり、東日本大震災の時は消費者庁長官だった現在は中央学院大教授の福嶋浩彦氏は、岸田内閣が地方自治法を改悪する法案を国会に提出したことを、次のように批判している;◆アベノマスク、コロナ休校、ずれた政策だった――自治体に対する国の指示権を拡大する地方自治法改正案の問題点は。 「2000年施行の地方分権一括法で定めた『国と地方は対等』という関係を根拠なく壊そうとしている。もちろん市民は、非常時は地方分権の原則よりも自分たちの命と安全が大事と思うだろう。そこで考えたいのは、感染症のまん延や大災害などの時、個別の法律で想定していなかった事態が起こったら、現場を知らない国の指示で問題を解決できるのかということ。一番市民の現状を知っているのは自治体だ」――国の指示は現場の実態とそぐわないのか。 「例えば新型コロナウイルスの流行で布マスクを1世帯に2枚配った『アベノマスク』。各省庁えりすぐりの官僚を交えて考えたのにとんちんかんな政策だった。全国一斉の休校要請は政治パフォーマンスで、感染者が報告されていない地域も対象となった。これらも今後は指示になり得るのか。国はしばしば大きくずれる。地域の状況をよく知らない国が全国一律に、しかも分かっているつもりで出した指示では、市民を守れない」――改正案で国が自治体に指示できる範囲が広がる。 「災害対策基本法や感染症法といった個別法の中で、必要な国の指示権は既に認められている。今回、それに加えて地方自治法で分野を限定せず、『国民の生命や安全が危ない』と言えば何にでも当てはまるような抽象的な要件で指示できるのは危うい」――東日本大震災の際、消費者庁長官として政府内にいた。国による指示権行使が必要だと感じたか。 「被災した東北各県の知事の中で誰ひとり、国から適切な指示を出してほしいと言わなかった。逆に現場に権限がほしいと。私はその前には千葉県我孫子市長を務めていたが、国からの指示が必要だと思ったことは3期12年の在任中、一度もなかった。想定外の事態が起こった時ほど、自治体と国が上下関係ではなく、対等に協議して知恵を出し合い、連携・協力をしていくことが大切だ」――自治体が国からの「指示待ち」になる恐れも指摘されている。 「国と自治体は時に厳しく対立しながら相互作用し社会をつくっていくことが大事。自治体が指示待ちではだめだ。分権とは、国が自治体に権限を分け与えるのではなく、主権者である市民が国と自治体に分けて権限を与えること。なるべく身近な自治体に与え、主権者としてコントロールしやすくすることが重要だ」(聞き手・三輪喜入)<ふくしま・ひろひこ> 1956年、鳥取県生まれ。千葉県我孫子市議、同市長、消費者庁長官を歴任。自治体議員政策情報センター幹事、民間シンクタンク「構想日本」理事などを務める。著書に「最先端の自治がまちを変える」など。2024年5月25日 東京新聞朝刊 12版 2ページ 「揺らぐ地方自治-現場知らぬ国 住民守れない」から引用 さすがに福嶋氏は自治体首長を経験し、消費者庁長官の経験もあり、現実の政治で住民を守るには何が必要なのか、話に説得力を感じます。また、法律を定めるに当たっては、その法律はどのようなケースに適用されるものであるかという「定義」をはっきりさせるべきであるのは当然で、その「定義」を曖昧でどのようにも解釈できるような文面にしておいたのでは、法を執行する立場の権力者が自分の都合で、気に入らない市民を勝手に犯罪者にでっちあげて逮捕するということにもなりかねませんから、そのような観点からも、実際に必要な法律案なのかどうか、徹底審議をしてほしいと思います。
2024年06月08日
今年の新年早々に群馬県当局は、市民団体が設置した朝鮮人被害者追悼碑を税金を使って破壊撤去するという暴挙に及んだが、そのことに抗議する若者たちの集会が、先月東京・新宿の駅前広場で開かれた。5月19日の神奈川新聞は、次のように報道している; 日本の植民地支配の犠牲となった朝鮮人労働者の追悼碑を強制的に撤去した群馬県に抗議する集会が18日、東京・新宿駅前で開かれた。加害の歴史を刻み、反省、友好をうたう碑を行政が破壊し、歴史否定に加担した暴挙を「自分たちの問題」として、切実な思いで向き合う大学生の姿があった。 東京都小平市にある朝鮮大学校の男子学生(19)は「自分は在日朝鮮人4世」と名乗り出ると「私たちが植民地支配の生き証人だ。歴史の事実を隠蔽することはできない。碑を建て、守ろうとしてきた良心ある日本の市民と連帯して、再建まで闘い続ける」と力を込めた。 群馬県高崎市の県立公園「群馬の森」に碑が設置されたのは2004年。戦時中、日本が国策として強制的に働かせ、非人道的な扱いで命を奪った朝鮮人を追悼しようと市民団体が建立した。 県は14年、加害の歴史をなかったことにしたいヘイト団体「そよ風」や差別主義者らに同調し、設置許可を更新しなかった。今年1月、行政代執行で強制撤去に踏み切り、撤去費用2062万円を市民団体に請求するという愚挙を重ねている。 男子学生は「碑を撤去しろという不当な要求をはねつけるべき行政が丸のみしてしまった。朝鮮人への蔑視が根底にあり、食い止めなければ先祖が受けた歴史が繰り返される」と話す。 山梨県にある都留文科大に通う高橋夏未さん(22)は「追悼碑は過ちを反省し、繰り返さないために必要」という思いで撤去に反対する運動に参加してきた。粉砕された碑の姿を報道で知リショックを受けたが、スピーチに立つ同世代の姿に「日本人として落ち込んでいられない。犠牲者を出しておきながら追悼しないなんて、尊厳を踏みにじるにも程がある」と前を向く。「私たちの社会は多様な人たちで成り立っている。異民族にしてきたことを省みずに多文化共生の未来はない。その一歩になる碑の再建に力を尽くしたい」(石橋学)2024年5月19日 神奈川新聞朝刊 18ページ 「歴史否定加担に抗議」から引用 抗議集会に参加した若者たちが言うように、朝鮮人犠牲者追悼碑の破壊は多文化共生の社会を目指そうとする考えとはまったく逆向きの矛盾した行動です。我々の祖先が犯した過ちは、過ちとしてしっかり記憶し、二度と繰り返してはならないとの決意は、機会あるごとに確認すべきです。群馬の森の追悼碑再建を目指す若者たちを、一般市民もしっかり応援していく、そういう社会になってほしいと思います。
2024年06月07日
法政大学前総長の田中優子氏は、総長在任中に孫の裏口入学を頼みに来た人物に「うちの大学は、そんなことは無理です」と断った経験があるとのことで、5月19日の東京新聞コラムに、次のように書いている; 学歴詐称が話題になっている。なんとも現代的な現象だ。江戸時代にも多くの高等教育機関があったが、そこを出たか出なかったかなど問題にならなかった。幕府の昌平黌(しょうへいこう)や水戸藩の弘道館、熊本藩の時習館、長州藩の明倫館、庄内藩の致道館など多くの藩校に藩士たちが学んだ。咸宜園、松下村塾、適塾、鈴屋、藤樹書院、古義堂、蘐園塾(けんえんじゅく)、鳴滝塾等々名だたる私塾で、庶民も学んだ。むろん寺子屋もたくさんあった。なぜそういう学校への「入学」や「卒業」が話題にならなかったかというと、就職にも金もうけにも出世にも役に立たなかったからである。 まともな人間として生きていくために学問は必要だ、と考えられた。自分を制御することを学ぶ。仁や義によって人としてのありようを学ぶ。知識のみならず思考を深め、それによって家や組織のより良い統治に向かう。外国の言葉や知見を得ることもできた。学生が自ら講義し相互に議論する課程もあった。こうした学びが考える力をつける上でも、重要な役割を果たした。したがって学歴を詐称しても何の意味もないばかりか、「学歴」という考えもなかったろうと思う。 ◇ ◆ ◇ 社会全体が就職や選挙のために「学問」ではなく「学歴」を問うのは、異常な社会だ。その異常が普通だと思うから学歴詐称する人が出てくるのだが、面白いことがわかってきた。大学は千差万別だ、ということだ。入学や卒業について、日本の常識とは異なる基準もあるようだ。日本の大学では裏口入学は不正入学であり、口利き卒業などそもそもできない。だから学歴にはよくもあしくも一定の信頼性がある。 以前、ある人が孫の裏口入学を依頼しに来た。すでにその頃、入試はマークシート方式で手採点のページは名前や受験番号が見えないようになっていた。それを説明したが、その方は「絶対裏があるはずだ」と譲らない。ようやく追い返して終わったが、私はその時、世界のどこを探してもそんな大学はあるはずがない、と思っていた。これが思い込みであったことが、昨今分かった。 浅川芳裕さん著『カイロ大学』には、「日本の高校卒業後、直接、カイロ大学に入学する正規のルートは存在しません。では、どうやって入るのか。いちばんシンプルな方法は『入れてくれ』と直談判することです」とある。著者もそうやったという。きっと卒業も、同じような方法を使う人がいるのだろう。 ◇ ◆ ◇ カイロ大学は1950年代に理事会に軍人が送り込まれ、学部長選挙が廃止され、軍人の文部大臣が学長を選び、その学長が学部長を選ぶ体制になった。戦前の日本でも想像がつかないような国家の大学になったのである。実際の学生生活がどうなのかは知らないが、現代社会における大学の「多様性」に恐れ入った。 米国の大学生たちが、イスラエルの企業への投資をやめろとデモを繰り広げている。投資のポートフォリオを公開しているのだ。米国の大学と企業や国家との強い結びつきも、日本とは随分異なる。しかし透明性は高い。ちなみに約10兆円を投資した日本の大学ファンドは年利4・49%の運用目標を達成できずマイナスになったらしい。ポートフォリオは公開されておらず、どこに投資しているのかはわからない。これはこれでどうなのだろう?2024年5月19日 東京新聞朝刊 11版 5ページ 「時代を読む-学歴詐称?」から引用 田中優子氏は歴史学研究の分野で顕著な業績を上げて、そこを評価されて法政大学総長に推薦された人物であるが、学問の世界で高い評価を得たとは言え、実生活の面では世情に疎い人物であることが、この記事から読み取れるような気がします。記事によれば、田中氏が総長を務めていた期間に孫の「裏口入学」を頼みに来た人物がいるそうで、そうでなくても人一倍正義感の強い田中氏は「今どき、裏口入学なんて出来るわけない」と説明して断ったのだそうであるが、これは裏口入学を依頼するほうも世情に疎いという、両者がそろって世情に疎いという特殊事情が重なって起きた椿事というものだと思います。それと言うのも、裏口入学を持ち掛けられた田中総長は、もしやるとすれば、0点かも知れない入学試験の答案用紙の点数記入欄に「100点」と記入すれば「合格」に出来るが、実際にはすべての答案用紙は「受験番号」と「氏名」の欄は採点者が見れないように綴じられた状態で、採点作業をするのだから、依頼通りに当該受験生の答案を100点にしようと思っても、そんなことは不可能なのだと説明している。もし、これが裏口入学その他、「裏のこと」に長けた人物であれば、孫のことを頼むのに総長を訪ねたりしないで、卒業生で総理大臣まで務めた菅義偉氏のような有力者に依頼するべきであった。菅氏のような有力者であれば、こういう話はどうすればうまく行くかを熟知しているはずで、表向きの「看板」である「総長」を訪ねたりせず、実質的な経営権を握る理事長のルートから話しを通して、受験生の得点を書き換えるなどという姑息な手段を取らず、その年の募集定員数が200人であれば、急遽、理事長権限で「募集定員を201人に変更する」と宣言して、合格者名簿の最後尾に当該受験生の氏名を付け足す、これで「裏口入学」は誰に不正を見抜かれることなく実行されるのである。実は、そのようにして「裏口卒業」をしたのが安倍晋三氏であり、彼は卒業後、父親の跡目を継いで議員となり総理大臣にまでなった。そして、その「裏口卒業」の事実を報道したのが実は、田中優子氏が編集委員を務める「週刊金曜日」なのだから、まあ、田中先生には学問の世界は別としても、もう少し世間の実情という面にも細かい神経を使っていただくのが良いのではないかと愚考する次第です。
2024年06月06日
公立の小中学校の教員のなりて不足という問題をどのように解消するべきか、という政府の問題提起に対して、中央教育審議会が答申を取りまとめて政府に提出したというニュースが、この春報道されて、いよいよ国も教員の待遇改善に取り組む気になったかと思いきや、答申の中身はそんな期待ができるような代物ではなかったと、元文科事務次官の前川喜平氏が5月19日の東京新聞コラムに書いている; 今回の表題は昨年5月14日と同じだ。13日に中央教育審議会の「質の高い教師の確保特別部会」が提出した「審議のまとめ」が、昨年5月10日の自民党「令和の教育人材確保に関する特命委員会」(萩生田光一委員長)の提言とほぼ同じ内容だからだ。 残業代の代わりに一律支給されている教職調整額の4%から10%への引き上げ、学級担任手当の支給、終業から始業まで11時間の「勤務間インターバル」の導入などがその内容。残業は月45時間以内を目標とし、将来的に月20時間程度を目指すというが、教員への残業代の支給や持ちコマ数削減のための標準法改正といった抜本的な改善策は示されていない。これでは「定額働かせ放題」が続くだけだ。 1年前にも書いたが、残業代は国立と私立の学校の教師には出ている。公立の教師にだけ出さないという給特法の正当性は説明不可能なのだ。 最大の問題は、本来全ての業務が法定勤務時間内で完了するのが原則なのに、教職調整額の存続や勤務間インターバルの設定が残業の常態化を当然の前提にしていることだ。教職調整額の引き上げは、残業をしない教師を問題視し、今まで以上に残業しろという圧力になる危険性すらある。 中教審は1年前の自民党の提言をなぞるのではなく、委員を入れ替えて議論し直すべきだ。(現代教育行政研究会代表)2024年5月19日 東京新聞朝刊 11版 17ページ 「本音のコラム-定額働かせ放題は続く」から引用 そもそも公立の小中学校の教員のなりてが不足するのは、学生が教育実習で学校の現場を体験して、安い給料で長時間の時間外労働をさせられて、まともな時間外手当は支給されないという事実を知るからであり、これは「教育問題」ではなく、純然たる「労働問題」なのである。だから、教育の専門家を集めた審議会が会議をしたところで、1年前に自民党がまとめたレポートをそのままオウム返しするような「答申」しか出てこないのであって、こんなことをやっても問題が解決するわけがありません。この問題を解決するには、当事者である全国の教職員が団結して立ち上がり、校長または教育委員会または地方自治体首長を相手に、待遇改善の団体交渉をするべきだ。労働者である教職員は、本来そのように雇用主と団体交渉をする権利があるのだから、堂々と権利を行使して、自らの実力で待遇を改善して始めて、若い教員志望の学生たちも、夢と希望を託すことが出来る職場だと実感することでしょう。教職調整額を4%から10%に引き上げれば、少しは改善されるだろうなどという「子供だまし」のような答申など、教育の専門家の名に恥じる愚行であると知るべきです。
2024年06月05日
水俣病犠牲者慰霊式に出席した環境大臣が、式典の後の被害者やその家族との懇談会に臨み、被害者家族が発言している最中に、予定の「3分」になったからというので、発言の途中でマイクをOFFにしたという事件について、毎日新聞専門編集委員の伊藤智永氏は5月18日の同紙コラムに、次のように書いている; 水俣病患者・被害者らの発言中、環境省職員によってマイクの音が切られた出来事から2週間。ずっと考えている。自分は何に苦いものを感じたのだろう。 5月1日は、68年前に水俣病が公式確認された日。熊本県水俣市で営まれた犠牲者慰霊式に伊藤信太郎環境相も出席し、患者・被害者との懇談に臨んだ。 思い浮かんだのは、ある官僚の死である。1990年12月、当時の環境庁長官が11年ぶりに水俣病の現地視察へ向かった日、環境庁事務方ナンバー2の山内豊徳氏が東京の自宅で自殺した。 患者・被害者が行政や企業の責任を問う裁判で、東京地裁が和解を勧告。熊本県や企業は応じようとしたのに、国は拒んだ。山内氏は責任者として弁明に追われ、長官の現地入りも回避すべく奔走していた。「板挟みになったか」と報じられ、是枝裕和氏が映画監督になる前、テレビドキュメンタリーにしたことがある。 担当大臣の現地入りが、官僚にとってそれほどの重圧だった時代もあった。それに比べ、マイク事件はいかにも軽い。発言の制限時間を過ぎたらマイクを切るとあらかじめ決めていたというから、懇談を形ばかりで済ますつもりだった。国会で野党が「今後は切らないように」求めても、環境省幹部は「知恵を出していきたい」と言質を与えなかった。簡単に改める気はないらしい。 「1人3分の発言時間が短すぎる」との批判も出たが、もう7年前からそれで運営されてきたと知り、考え込む。患者・被害者団体もメディアも、それをおかしいとは言わなかった。官僚は「実績を十分積んできた。何を今更」と思っていることだろう。被害者団体などに「ルールを無視した被害者側が大臣に謝るべきだ」といった意見が複数届いたという。 水俣病の原因であるメチル水銀は、塩化ビニールを柔らかく加工するための化学製剤を作る過程で発生した。チッソ水俣工場の製品は国内市場を独占し、高度経済成長の産業と消費を支えた。 国や行政が一貫してチッソの側に立ったのは、それが国策だったからに他ならない。高度経済成長を享受した国民もまた、国策推進の重要な担い手である。 患者たちは、健康被害以上に地域や日本社会からの差別と偏見に苦しんだ。市民に対して「死民」を名乗り、体を張って国家と闘ったが、世の中の視線は総じて冷淡だった。今もそれはある。 「1人3分」「マイクを切る」という手順は、私たちの人ごと感が支えている。(専門編集委員)2024年5月18日 毎日新聞朝刊 13版 2ページ 「土記-マイクを切ったのは」から引用 この記事を書いた伊藤氏は、水俣病被害者家族という一般国民が、環境大臣というめったに会うことのない人の前で、苦労した経験を語るのに、「1人3分」とか時間になったら「マイクを切る」というルールは、おかしいではないか、患者・被害者団体もメディアも、それをおかしいと言わなかったこと自体が問題だという考えのようであるが、多分その変なルールは、7年前に政府の役人から「大臣のお帰りの飛行機の時間もありますので、被害者の方やご家族の皆様のお話は1人3分ということでお願いします」と言われて、そのまま「ルール」となっただけのもので、その場で「それは承知できません」などとは、とても言えない、そういう現実が、伊藤氏には理解ができていない、と言うことではないかと思います。しかも、この期に及んで尚、環境省側は改める気はないらしいというのだから、前途は多難と言うほかありません。
2024年06月04日
入学試験問題や教科書、学習参考書等に自らの著作物の文章が引用されることが多い神戸女学院大学名誉教授の内田樹氏は、最近引用される文章の傾向について、5月12日の東京新聞コラムに、次のように書いている; 私の文章は入試によく使われる。中学入試から大学入試、国家試験までさまざまである。国語の教科書にも採択されている。今朝は著作物複製許諾書類7枚にサインした。模試や過去問集への採録許諾である。さすがに1日7件は過去最多である。なぜこんなに多いのか考えた。 作問するのも教科書を編纂するのもほぼ全員が教員である。だから、これは教員のうちに「子どもに読ませたい文章」として私の書き物を選択する人が多いと推し量って過たないであろう。では、どんなところを読ませたいのか。 ◇ ◆ ◇ 以前は教育について論じたものがよく採択された。私の教育論は「教員の仕事を減らせ。教員にもっと自由裁量権を与えろ。子どもたちの相対的優劣を査定するな」という割と過激なものだが、この主張に少なからぬ現場の教員たちが内心ではひそかに賛同している。そして「世間にはこんな変なことを言っている人もいるみたいだね」と素知らぬ顔で子どもたちに読ませていると推察される。しかし、今日来た許諾申請は私の近著からの引用で、それは教育論ではなく、「コミュニズムとは何か」について論じた箇所であった。それを小学校6年生対象の模試に使うというのである。なんと。 その文章の中で、私は「豊か」という形容詞は私財についてではなく、公共財についてのみ用いられるべきだと書いていた。仮に成員のうちの誰かが天文学的な富を私有して、豪奢な消費活動をしていても、誰でもがアクセスできる「コモン」が貧弱であるなら、その集団を「豊かな共同体」と呼ぶことはできない。 コモンというのはかつてヨーロッパにもあり、日本にもあった村落共同体の共有地・入会地のことである。囲いのない森や草原で、村人たちはそこで木材を伐採したり、家畜を放牧したり、鳥獣を狩ったり、果樹やキノコを採ったりすることができた。私財が乏しい人でも、豊かなコモンを持つ共同体に属していれば、健康で文化的な生活を送ることができた。 だから、ある社会が豊かであるか貧しいかを決定するのは全資源のうちのどれだけがコモンとして利用可能か、その比率である。私財を増大させることより、コモンを豊かにすることを優先する生き方のことをもし「コミュニズム」と呼ぶのであるなら、私は「コミュニスト」である。そう書いた。 ◇ ◆ ◇ 今、世界で最も豊かな8人は貧しい37億人と同じだけの富を私有している。この非人間的なまでの格差の拡大を「新しい封建制」と呼ぶ人もいる。どう考えても、富を再分配して公共財を豊かにする必要がある。 ただし、これはかつての「コミュニズム」とは違う道を進む。新しい「コミュニズム」は富者強者に向かって「公共のために私財を供出しろ。身を削れ」と強制することはしない。それはソ連や中国で前にやって失敗した。私たちが学んだのは、公共財を構築するためにまず身を削るのは「おまえ」ではないし、「やつら」でもなく、「私」だということである。私財を差し出して公共財にする人たちが「新しいコモン」を構築する。そんなのは「空想的社会主義への退化」だとマルクスから叱られるかもしれない。だが、そこからもう一度始めるしかないところまで世界は退化しているのである。2024年5月12日 東京新聞朝刊 11版 4ページ 「時代を読む-模試に出るコミュニズム」から引用 この記事が指摘しているように、世界に先駆けて実行されたロシアや中国の共産主義革命は、不当に利益を独占しがちな資本家の権利を国家権力で制限して労働者階級の利益に供するというシステムの構築を試みたのであったが、この方法ではうまく行かなかったのは誰の目にも明らかである。しかし、ロシアや中国で失敗したからと言って、それは共産主義思想そのものがダメだから失敗したというものではなく、理想を実現するための「手段」がまずかったから失敗しただけのことである。したがって、私たちは過去の失敗に学んで、極端な貧富の差をなくして、すべての人々が豊かな生活を享受できる社会の構築を、もう一度目指すべきだと思います。そういうことを書いた文章を、小学6年生から読んでいれば、やがて大人になった頃には今よりはましな世の中が出来上がるかも知れません。是非、そうあってほしいと思います。
2024年06月03日
公立の小中学校では新任の教員が離職するケースが頻発し、全国的に教員不足に拍車がかかっている事態について、各地の教育委員会や政府が、若手の教員の「働き方」について種々の支援策を打ち出していると、11日の朝日新聞が報道している; 各地の教育委員会や文部科学省が、公立学校の若手教員の支援策を次々に打ち出している。学校現場では、新卒でも学級担任など責任の重い業務を担うことも多く、サポートが不十分な状態に置かれて心を病むケースが後を絶たない。若手支援の強化が喫緊の課題となっている。(編集委員・氏岡真弓、山本知佳、本多由佳)■採用1年未満での退職増加 「教育実習で行った小学校が『1倍速』だとしたら、赴任した学校は『3倍速』だった」。昨年、関東地方のある県に教員として採用されながら12月で退職した男性(24)は言う。 実習校は小規模校で、他の教員も丁寧に教えてくれた。だが、教員として赴任した学校は大規模校。職員室に教員は多いが、「パソコンに向かう背中が『忙しいので声をかけないで』と言っているようだった」。 2学期になると、担任していた3年生の学級の児童たちが教室を頻繁に飛び出し、そのたびに副校長に捜してもらった。自分の指導力不足で職場に迷惑をかけているように感じて気分が重くなった。通勤で朝、車に乗ると吐き気がして学校に行けなくなり、心を病んで退職した。「管理職には助けを求めにくかった。少し年齢が上の先輩が声をかけてくれたらとは思うが、いつも忙しそうだった」と振り返る。 公立学校の若手教員をめぐっては、その負担の重さが指摘されてきた。文科省が2022年度に実施した教員の勤務実態調査では、平日の労働時間(在校等時間)が最も長かったのは男女とも30歳以下だった。休職・離職状況などに関する文科省の調査によると、採用から1年未満で辞める新任教諭も増えている。22年度は前年度比98人増の635人で、うち精神疾患を理由に辞めたのは229人。いずれもデータのある09年度以降で最多だった。 採用されたばかりの教員が学級担任など負荷の重い業務を任されることも多い。近年はベテラン層の定年による大量退職が続き、それに伴う大量採用で若手が増加。支援が不十分との指摘もされてきた。■先輩に接し方指南 こうしたなか、東京都教委は今年度から小学校で、新人の相談役に「新規採用教員メンター」として年齢の近い先輩教員をあてる仕組みを導入した。都教委によると、昨年度採用した公立学校の新任教諭の4・9%にあたる169人が同年度内に退職。過去10年で最多で、離職に歯止めがかかっていない。 この3月には若手教員との接し方などを助言するガイドブックを作成した。そのなかで、「どんな先輩・上司が尊敬できないか」を若手5280人にアンケートした結果を紹介。「指導するときに感情的(高圧的)になる」「人によって態度を変える」「相談しづらい雰囲気を常に出している」との回答が多かったとし、「感情的、高圧的な態度をとる先輩や上司は尊敬されない」と指南している。 鳥取県教委も昨年度から本格的に、新任教員のいる全小中学校で20~30代を中心としたメンターチームを組織し、身近で相談しやすい先輩として声をかける取り組みを始めた。 一方、高知県教委は今年度から、新卒教員をできるだけクラス担任にしない▽担任になる場合はサポート教員を配置する、という取り組みを始めた。県教委の担当者は「教員のなり手が不足するなか、せっかく縁あって高知の先生になった若手だけに、辞めないように育てたい」と話す。 文科省は現在、学校現場に優れた人材を確保するための策を中央教育審議会(文科相の諮問機関)で検討している。若手教員の支援強化も焦点の一つで、4月に具体策を打ち出した。 柱の一つは、若手教員のサポートをする新たな職を設けること。現場で行われてきた若手支援を職務として明確化。給与も新職は一般の教諭より高くすることを検討している。また、新任教員に学級担任を持たせないなど各教委の取り組みを財政面で支援する考えだ。 このほか、小学校の5、6年生で導入されている教科担任制を3、4年生へ広げることも検討している。小学校では高・低学年の担任をベテランが受け持ち、3、4年生の担任を若手教員が受け持つことが少なくないという。教科担任制の拡大は3、4年生の学級担任が受け持つコマ数を減らすことにつながるとして、各地の教委から「若手の負担減につながる」と歓迎の声が出ている。2024年5月11日 朝日新聞朝刊 13版 31ページ 「教委・国、若手教員へ支援策続々」から引用 新卒の若い教員が前途に希望を失って離職する理由は、労働環境が貧困で人手不足のために長時間労働になること、しかし労働基準法で決められている時間外労働に対する「残業手当」が、教職員には支給しないという「悪法」があるために、現実の公立学校の教員が時間外労働で支給される「手当」は、民間企業のサラリーマンの「手当」の4%に過ぎない。この「4%」を最近、政府の諮問機関である有識者会議が「4%から10%」へ、という提言を出したところ、一部のメディアは「これで先生たちの待遇も改善される」などと朗報であるかのように報道していたが、実際には民間サラリーマンの残業手当のわずか10%しか支給されないという「理不尽」は依然として残ったままで、とても「改善された」などと喜ぶような雰囲気ではない。新卒の先生には1年生や6年生ではなく、あまり手のかからない3年生、4年生を担当させるだの、先輩の教員との接し方をアドバイスするだのといった、まるで「子どもだまし」のような「対策」を「国も教育委員会も真剣だ」などと持ち上げるような記事を書いてないで、これは労働条件の問題なのだから、労働組合が待遇改善の戦いに立ち上がらなければ、何も解決しないのだという、「問題の本質」を議論するべきです。国や教育委員会に対するおべんちゃら記事を書いても、問題は何も解決しないと思います。
2024年06月02日
昨日の欄に引用した山口正紀著「メディアが市民の敵になる」(現代人文社)では、著者が読売新聞記者として取材し記事を書きながら、「週刊金曜日」にも記事を書き、それが社論を逸脱する内容であったことを理由に人事異動を命じられた経緯について、次のように書いている; 「個人的なことは政治的なこと」というフェミニズムの合い言葉に依拠して、今回は私の「個人的なこと」を書かせていただきたい。 私は読売新聞社に入社して今年で満30年になるが、1月末で「編集記者職」を解かれ、「営業渉外職」に職種変更される。所属でいえば、メディア戦略局データベース部から、同局メディア事業部への異動だ。 この配転の目的は、ただ一点。私に「読売新開記者」と名乗らせないこと。具体的に言えば、『週刊金曜日』「人権とメディア」欄に記している私の肩書き『「人権と報道・連絡会」世話人・読売新聞記者』から、「記者」をはずさせることである。これは、私の「憶測」ではない。私に異動を通告した部長が、明言した「事実」だ。 原因もはっきりしている。私が『金曜日』で書いてきた「日朝交渉報道」批判に関して、読売新聞社に外部からかかってきた「圧力」である。 2002年9月、私は『金曜日』に《「日朝交渉」報道/問うべきは日本の侵略責任》など2本の記事を書いた(本書147頁)。同月下旬、私は局次長から呼び出しを受けた。 話の要点は、(1)日朝交渉に関する私の『金曜日』記事に関し、関係者から社の広報部に「苦情」が來ている(2)広報部では「記者個人の言論の自由の問題」として対応したが、社内で問題になっている(3)『金曜日』の肩書きから「読売新聞記者」をはずし、「ジャーナリスト」に改めてもらいたい――というもの。局次長は、「わが社には、社論に反する内容を社外メディアで書くことを禁じた社内規定はなく、今のところ君を処分することはできない。しかし、このままでは、新たな規定が作られることになるかもしれない。そうなれば、他の読売記者も社外でモノを書きにくくなるのではないか」とも言った。 私は一瞬、「他の記者に迷惑がかかるとしたら」と思いかけたが、すぐに考え直した。「社論に抵触するような内容の記事は、ジャーナリストの肩書きで」という指示に応じれば、結局は新たな社内規定が作られたのと同じことになるではないか。 私が社外メディアに報道批判の文章を書く際、「読売新聞記者」と明記しているのは、大手メディアに所属しながらメディアのありようを批判している私の立場を、読者にきちんと示す責任がある、と考えてきたからだ。同時に、新聞記者が「会社主義」にとらわれず、自由にモノを言う「新聞記者の言論の自由」を守りたい、との思いもある。私は、そんな気持ちを局次長に伝え、「肩書き変更」の意思はないと答えた。 それから2ヵ月後、「曽我さん家族インタビュー」記事をめぐって、「『週刊金曜日』バッシング」が起きた。その直後、部の上司から「こういう時期だから、『金曜日』の記事は慎重に、日朝問題にはなるべく触れないで」と”自粛要請”された。私は、こういう時期だからこそ、「日本拉致(らち)記者クラブ」と化した報道のありようを問うべきだと考え、《拉致報道とバッシング/翼賛メディアの報道統制だ》(12月13日付、本書163頁)を書いた。 数日後、部長から呼び出された。「『金曜日』のことですか」と聞くと、部長は「そうではない」と答え、「単なる人事」の話を始めた。だが、私の担当業務は、誰かが簡単に代行できるものではない。5年近く「明治」以来の紙面をデータベース化する仕事に携わり、その経験で培った専門知識・ノウハウで、実務責任者として重要キーワードの設定などデータベース作り全般をリードしている。 私は、部長が現場の実態を知らないのだと思い、私の異動に伴う業務上の支障を縷々(るる)説明して再考を求めた。さらに2日後、私の業務内容を詳細に記したメールを送り、「これを引き継ぐには最低でも半年以上の実務経験が必要」と再検討を要請した。 その翌日、部長は前言を翻(ひるがえ)し、この人事は「『金曜日』問題」をめぐる社上層部の判断だと、私に「編集記者職」から「営業渉外職」への変更を通告した。業務に支障をきたしてでもやらねばならぬ「対外向け」人事! 私は10年前、「ロス疑惑」報道批判と三浦和義さん支援に対する懲罰人事で、取材部門をはずされ、記事を書けなくなった。それは社内の問題だったが、今度は違う。「苦情」という形で圧力をかけてくる「関係者」への屈服。この「関係者」がだれかは想像に難くない。日本新聞協会の新聞倫理綱領には、こうある。 《新聞は公正な言論のために独立を確保する。あらゆる勢力からの干渉を排するとともに、利用されないよう自戒しなければならない》山口正紀著「メディアが市民の敵になる」(現代人文社刊) 166ページ「外部の圧力で『記者職』剥奪」から引用 私が「週刊金曜日」で山口氏の記事を読んでいた頃は、あまり熱心な読者ではなかったからか、山口氏が読売新聞の記者であるとの認識はなく、この記事を読んで、読売の部長が「わが社には、社外の出版物に社論と異なる主旨の記事を書いたからと言って懲罰を課すような規則はない」と、なかなか物わかりの良いリベラルな人物が管理職だったのだなぁと感心しました。そう言えば、今でこそ読売新聞は「政府の広報紙みたいだ」などと陰口を叩かれているものの、その昔は読売新聞大阪社会部は朝日新聞顔負けの社会正義を前面に押し立ててリベラルな記事を書いていた時代もあったなぁと思い出しました。しかし、山口記者の説得を試みた(?)部長氏も、表向きはリベラルな発言をしながら、しかし、本音では「上司風を吹かせて圧力をかければ、山口記者も会社にとって不都合な記事を外部の出版物に書くようなことを止めるかも知れない」と踏んでいたわけで、このような上司としての行動様式は読売に限らず、朝日にも産経にも、日本の新聞社には共通の現象なのかも知れないと思いました。それにしても、拉致事件をめぐる政府や世論の動向を批判した記事について読売新聞に「圧力」をかけてくる組織とは何なのか? それは、自民党か内閣官房か。新聞協会の倫理綱領には「あらゆる勢力からの干渉を排するとともに、利用されないよう」と明記されているにもかかわらず、ちょっと「圧力」がかかると業務に支障をきたしてでも、その「圧力」に屈してしまう「本末転倒」の価値観が、日本人の行動様式の基底にしみ込んでいるのだなと思いました。
2024年06月01日
押入れを整理していたら、20年前に現代人文社という出版社から出された山口正紀著「メディアが市民の敵になる」という本が出てきた。こういうものを見つけると、だいたいはいつ頃どういう経緯で買う気になったものだったか、すぐ思い当たるのだが、最近は記憶力が減退しているせいか、何も思い出すことがなく、ただ山口正紀という人は「週刊金曜日」にコラム記事を書いてる人だったということだけ、辛うじて思い出した。彼の記事は「週刊金曜日」の中でも、とりわけ鋭い世相批判が目立つ論調だったが、この本を読み進めていると、つぎのような一節に遭遇した。小泉純一郎首相(当時)が朝鮮民主主義人民共和国を訪問し、初の首脳会談の場で金正日総書記が「拉致事件」を認め、謝罪したため、日本では国内世論が騒然とした頃の一文である; 9・17日朝首脳会談から、まもなく4ヵ月になる。この間ずっと私の脳裡(のうり)を一つの問いがめぐり続けている。日本人・メディアは、なぜ植民地支配の問題に沈黙を続けるのか? その答えのいくつかを、2002年末、都内で開かれた「植民地支配の責任を問う!『9・17』を語り在日朝鮮人の再生を目指して-12・14集会」で、さまざまな発言から得た。「平壌(ぴょんやん)宣言」以降、在日の立場から発言・行動している「2003年在日宣言委員会」が主催した集会だ。 最初の発言者、作家の金石範(キムソクボン)さんは30年前、強制連行による奴隷鉱山労働を描いた『糞と自由と』(作品集『鴉の死』所収)で、私に植民地支配とは何かを教えてくれた人だ。敬愛する老作家は「過去の歴史をないものにしようとする動き」を指弾した。 「国交正常化は拉致(らち)問題のためではない。植民地支配が終わった時点で取り組むべきものだ。日本人は戦争も、被害者の立場でしか考えてこなかった。いつも、ひどい目にあったと言うばかりで、加害の自覚を持っていない。マスコミのやり方は歴史を全部カットするものだ。過去のない日本なんてない。歴史健忘症でさえなく、意識的に忘れようとする歴史抹殺(まっさつ)だ。日本人は、いつのまに正義のピュアな存在になったのか」 社会学者の鄭暎惠(チョンヨンヘ)さん(大妻女子大学)は、在日朝鮮人へのいやがらせの背景にふれ、こう語った。 「日本政府は在日に対して何をしてきたのか。問題は植民地支配の清算だけではすまない。私たちは今、破綻(はたん)する日本社会のしわ寄せを受け、そのスケープゴートにされている。関東大震災でも朝鮮人はスケープゴー卜にされた。朝鮮人を殺さなければ自分が殺されると思った日本人がいた。私たちは、国なき民としての生き方を考えなければならない。9・17以降、日本国籍を取るうとする人が増えているという。それでどんな忠誠を誓わされるのか。在日同化政策は、植民地支配を告発する人間をなくしてしまおうとしている」 作家の徐京植(ソキョンシク)さんは、平壌宣言で小泉首相が表明した「植民地支配への反省」に疑問を投げかけた。 「たとえば3・1独立運動(1919年)の後、1万人の朝鮮人にムチ打ち刑が科せられた。我々は、その痛みとともに生きている。また、たとえば治安維持法によって、植民地支配に抵抗した数千人の朝鮮人が弾圧された。小泉首相は、本当にこれらを反省しているのか。いや、それ以前に、日本人はこうしか事実を知っているのか。知ってもいないことを反省できるのか。小泉首相の反省は空文句にすぎない。我々在日は、日本がやったことを問い続ける生き証人の役割を果たさねばならない」 戦争を被害としてしか語らない。メディアは歴史を抹殺する。閉塞(へいそく)し、破綻する社会のスケープゴートを作る。植民地支配の反省すべき事実すら知らない。それが、在日の人々の目に映った私たち日本人の姿だ。 フロア発言にも胸を衝(つ)かれた。 「私は、平壌宣言に在日の存在はないと感じた。私らはいったい何なのか。自分の人生、親の人生、その苦痛は何だったのか。言い分はいっぱいある。我々在日はこうである、という主張を堂々と出していこう」(集会を主催した男性メンバー) 「日本は朝鮮の南北分断に加担し、分断から利益を得た。自分たちが有罪であると認識することなく、拉致事件の背景も掘り下げず、北には血の通った人間かいないかのような報道ばかり繰り返すのは許されない」(名古屋市から参加した若い男性) 「私たち在日は、今も日本の植民地支配から解放されていない。日本に拉致されて来たまま。北も日本も似たようなものだ。私は日本人拉致被害者に、同じ立場の者として手紙を書いた。権力の道具にされず、北との自由往来を両国政府に求めてはどうかと」(川崎市の高齢の男性) 「拉致、拉致、拉致。毎日の報道に夜中、独り涙している。こんな日本に、子どもや孫を住まわせなくてはならない。だから、近くにいる日本人一人一人に、本気で私自身のこと、在日のことを話していこうと思っている」(町田市の高齢の女性) 「見えない存在」にされてきた在日朝鮮人を完全に抹殺する報道テロ。「消えたチマ・チョゴリ」が象徴だ。 その在日の人々が「植民地支配の清算は、私たちがやるしかない。南北両政府にもメッセージを伝えて行こう」(主催者)と、動き始めた。 それでもなお、日本人、マスメディアは、過去に沈黙を続けるか。<2003年1月10日>山口正紀著「メディアが市民の敵になる」(現代人文社刊) 165ページ「植民地支配への沈黙を問う」から引用 私も、拉致問題に関する報道に接するたびに、加害・被害の立場を逆にしたもっと大規模な事件が戦前にあったことには一切触れずに、日本人が被害にあった事件だけを針小棒大に取り上げて大騒ぎするのは如何なものかと、いつも感じますが、日本のメディアは20年前も現在も、戦前のことには沈黙を決め込み、現代のことだけを書き立ててこと足れりとしているのは、残念なことだと思います。政治や報道の分野がそのような状況であるなら、あとは映画とか文学とか、展示会に慰安婦像を飾るとか、そういう分野から「歴史認識」を構築していくという「道」があると思います。
2024年05月31日
日本政府は国内の自治体や学術機関と共同でアイヌ語普及のキャンペーンに取り組んでいるとのことで、その進捗状況について、5日の東京新聞「こちら特報部」は、次のように報道している; 北海道の公共空間で「イランカラプテ」(「こんにちは」に相当)などのアイヌ語のあいさつが一般化し、それ以外のアイヌ語表記も広がりを見せる。ただ、どこまでアイヌ民族の自己決定権の保障につなかっているか。アイヌ語の使用を阻む根本原因は何か。改めて考えた。(木原育子) 4月中旬、札幌市の北海道大キャンパス。「アイヌ シサム ウレシパ ウコピリカレ ウシ」と書かれた事務局前に立った。 一体どんな意味か。アイヌ民族でもある、北海道大の北原モコットゥナシ教授が説明してくれた。シサムは「和人」、ウレシパは「協力して生活する」、ウコピリカレは「共同で良くする」、最後のウシは「場所」を意味するのだという。 訳したのは、同大に2022年度に新設された「アイヌ共生推進本部」のこと。「アイヌ語の使用は明治以降に凍結状態にされたため、新しい言葉は造語する必要かおる」と北原教授が説明する。 キャンパス内では、北原教授や学内の研究者らが協力してアイヌ語への翻訳を進め、今年1月からは構内の循環バスでアイヌ語でのアナウンスを始めるなど、アイヌ語表記や耳への浸透を広げている。 そもそもアイヌ語は近代以降、同化政策の一環で話す機会が奪われ、09年には国連教育科学文化機関(ユネスコ)によって「極めて深刻な消滅の危機にある」と指摘された言語だ。 北海道が17年にアイヌ民族を対象にして行った調査では、アイヌ語で「会話ができる」と回答したのはわずかO・7%。一方で「積極的に覚えたい」「機会があれば覚えたい」は60・4%に上った。 「アイヌ語は大学の授業や各地のアイヌ語教室など、依然特別な場でしか学習できない。アイヌ語復興は、アイヌ語を公共空間で用いることが第一歩」と北原教授は語る。 国も、13年に自治体や学術機関などとともに協議会を設置。「イランカラプテ」キャンペーンと銘打ち、アイヌ語普及を進めてきた。18年からは、北原教授が発案し、国が後押しする形で、アイヌ民族が多く暮らす日高地域を走る道南バスで、全国初のアイヌ語の車内放送を実現させた。 停留所をアイヌ語に翻訳した平取町教育委員会職員の関根健司さん(52)は「言語は文化の根源。言語に触れることはその民族の文化に触れることそのもので、多くの人に学びを深めてもらえたら」と語る。 世界では、先住民族の言語を公用語にする取り組みは進むが、アイヌ語や沖縄の琉球語を公用化する動きは極めて乏しい。 何が阻んでいるのか。前出の北原教授は「アイヌ語の使用拡大は、マジョリテイーがそのことを許容することが必須だ」と和人側の問題だとする。「日本語や日本的価値観のみを至上のものとしてきた近代以降の思想を変えなければ、アイヌ語の教育機会を整えても、内面化した劣等視やトラウマのために、アイヌ語を使おうとする人は増えないだろう」とし、「先住民族は他の場所からやってきたわけではなく、のみ込まれた状態。アイヌ民族の権利は保障されないで、共生という言葉だけが独り歩きしている」と続ける。 アイヌ語表記だけでいいのか。恵泉女学園大の上村英明名誉教授は「空港や車内放送などの公共の場で、先住民族の言葉を多用するのは、先住民族とともにあるような良いイメージを与えるが、ある種の文化盗用でもある。特にアイヌ民族の権利問題の実態とかけ離れている点が懸念される」と指摘。「表面上のアイヌ語表記だけでなく、権利回復を抜本的に議論する機会にするべきだ」と話した。2024年5月5日 東京新聞朝刊 11版 14ページ 「こちら特報部-アイヌ語公用化、なぜ進まない?」から引用 私は現役サラリーマンだった頃は、年に数回、北海道に出張することがあったが、そのころは公共の場所にアイヌ語の表示を見ることはなかった。政府が急に「アイヌ語普及」に取り組みだしたのは2013年というから、それは私が退職した年である。それにしても、経緯も知らずにいきなりこういう記事を読むと、何か木に竹を接いだような違和感を禁じえません。アイヌ語普及の事業を始めるに当たっては、明治以来日本政府がアイヌの人々に日本語使用を強制したことを、相手が納得する形で謝罪するという「儀式」(または、手続き)が必要だと思います。そのような「儀式」があって始めて、当のアイヌの人々も、また日本人も「これからは、日本語だけではなくて、アイヌ語も、この国で通用する言語なのだ」という認識を持つに至るのであって、そこを素通りして、いくら「アイヌ語キャンペーン」と言って騒いでみても、「笛吹けと踊らず」になるのは自然なことだと思います。
2024年05月30日
今年の「ミス日本」コンテストでグランプリを受賞した女性はウクライナで生まれた人で幼いころに来日して以来、長く日本で教育を受け生活しており、コンテストの主催者は十分に応募資格を検討し吟味した後の審査であり、ご本人は普通に日本語を話し日本国籍を保有しており、何の問題もないという判断だったのに、いざ受賞が決まると、「(見た目が)日本人らしくない」などと受賞者を中傷する声が湧き上がる事態となった。そこで4月10日の朝日新聞は、「『日本人』を決めるのは」と題して3人の有識者のコメントを掲載したのであったが、そのうちの一人で社会学者の福岡安則氏は、次のように書いている; 日本人とは何か。それは定義不能で、問題設定そのものが虚偽だと思います。 定義可能なのは、国籍法による「日本国民」だけです。にもかかわらず、自分が典型的な日本人だと信じているこの国のマジョリティーは、まるで自明であるかのような「日本人」という観念を保持しています。 その観念を「血統」「文化」「国籍」の3要素で類型化してみましょう。すべてそろった「純粋な日本人」のほか、いずれかの要素を欠く日系移民1世、帰国子女、帰化者、中国残留孤児、民族教育を受けていない在日コリアン、アイヌなどが抽出できます。 このうち、日本の多くの人が抱く日本人像は、なお「純粋な日本人」にほぼとどまっています。そして3要素の中で明らかに重視しているのが血統です。ノーベル賞受賞者のうち真鍋淑郎さんら3人は米国籍を持つ米国人なのに、政府もメディアも「日本人」としてカウントしていることが、それを表しています。 ただ、ここでいう「血統」は、生物学的概念というより、「血統意識」に過ぎません。日本列島には有史後も様々な人が渡来し混合したので、純粋な日本民族なるものは存在しない。本質的な「日本文化」を定義することも不可能です。 でも、多くの日本人は、この国にいる人々の多様な背景を見ないことにしているかのようです。在日コリアンへの扱いが典型ですが、戦後日本の定住外国人政策は、完全な「排除」でも、権利の平等化を伴う「同化」でもなく、従属的位置に固定する「抑圧」でした。これは現在、外国ルーツの国民に対してマジョリティー日本人が示す姿勢やまなざしに通じているように思います。いわば厄介者の「2級市民」にしてしまう回路です。 教えていた大学のゼミで「在日の人たちはなぜルーツを隠すのか」と素朴な疑問を口にした学生がいました。しかしゼミ生の中に当の在日コリアンがいることを知ると、絶句しました。 出自を明らかにしにくい社会を多数派がつくっていたこと、無関係と思っていた差別に自らが加担していたことに、気付いたのです。ましてや東アジアと遠いルーツと外見を持つ人たちは隠しようもなく、更なる生きづらさを抱えて日々を過ごしているでしょう。 自分が「日本人」であることを疑ったことがない人こそ、日本人とは誰なのか、無意識の抑圧者になっていないか、自問すべきです。(聞き手・石川智也) *<ふくおか・やすのり> 1947年生まれ。埼玉大名誉教授。著書に「在日韓国・朝鮮人」「聞き取り もうひとつの隔離」など。2024年4月10日 朝日新聞朝刊 13版 13ページ 「耕論・『日本人』を決めるのは-『純粋な民族』なんてない」から引用 多くの日本人は、昔からこの列島に暮らして来た日本語を話す者が「日本人」なのだと思い込んでいるが、それは「幻想」に過ぎず、実際にはマンモスが生きて活動していた時代から、この列島には南から北から、様々な人々がやって来ては住みついたり、さらに何処かへ移動したり、という歴史を繰り返してきたので、話す言葉は違っても遺伝子的には共通項が多く、従って見た目では東アジアの人々は同じような顔つきをしており、話しかけて返ってくる言葉を聞くまでは中国人か韓国人か日本人かは、判別できないのが実情なわけです。生物学的にも「純粋な日本人」という定義は存在しないということですから、妙な幻想にこだわって少し様子が変わっている人物を異端視するようなことは止めるべきだと思います。
2024年05月29日
裏金事件が起きたというのに、それでも「抜け穴」を温存した規正法改革案にこだわり続ける自民党は、この先も与党としてやっていけるのかどうか、政治学者のジェラルド・カーティス氏は4月2日の朝日新聞で、次のように述べている; 初来日から60年、ずっと日本政治を間近に見続けてきた米国の政治学者で、コロンビア大学名誉教授のジェラルド・カーティスさん。裏金問題で混迷する自民党の機能不全に「政治の創造力が失われている」と厳しい目を向けています。――現状をどう見ますか。 「最近よく耳にするのが『マグマ』という言葉です。国民の不満がたまっていて、いつどういう形で爆発するかわからない。いずれにせよ、このままでは収まらないでしょう。私は今こそ政治が変わりうる時だと思うのですが」――怒りのマグマの原因はどこにあるのでしょうか。 「この20年間、日本の社会は大きく変わりました。コーポレートガバナンス(企業統治)改革やマイナンバー、インボイス(適格請求書)などで透明化やデジタル化を進めてきました。ところが自民党は全く透明化されない。この社会と政治の乖離(かいり)が国民の怒りを招いています」 「日本社会には不平等も広がっています。いくら株価があがっても、暮らしはちっとも良くならない。それなのに、政治家は還流されたお金を懐に入れ、全く違う世界にいるように見られている。不平等への憤りも、政治を変える原動力になる可能性があります」――岸田文雄首相は、宏池政策研究会(岸田派)の解散を決めたり、衆院政治倫理審査会に自ら出たりしています。 「首相として生き残るため、破れかぶれの行動でしょう。でも話の説得力がなくて、支持率は上がらない。自民党は謝罪をしたり、処分を検討したりしますが、本当に必要なのは自民党政治の透明性を高める抜本的な改革をすることです。そこに踏み込まなければ、有権者の憤りは収まらないでしょう」 「派閥を解消したら、自民党の運営をどうやってするのか。政党助成金を幹事長が一手に握ることになり、圧倒的な力を持つでしょう。会社なら監査役がいますが、自民党には透明性を保つシステムがありません。あるべきガバナンス(統治)システムを考えないで派閥を解消すれば混乱を招きます」◆与野党も政界そのものが「半昏睡状態」―― 一方で、野党への支持も伸び悩んでいます。 「たしかにそうですが、世論調査で半数以上を占める無党派層が、次の総選挙になった時、どういう投票をするかはわかりません。自民党にお灸を据える気持ちで、支持していなくても野党に投票するかもしれず、自民党はそれを恐れています」――早期の衆院解散はあると思いますか。 「岸田首相がポストを手放さないために、国会会期末の6月までに衆院を解散する可能性はあります。このままでは9月の総裁選に出られないでしょうし、出ても負ける公算が大きい。自民党は生存本能が強いので、総裁選に女性をたて、初の女性首相を誕生させて次の総選挙を乗り切ろうとするかもしれない。それで自民党が過半数をとれば、裏金問題は忘れ去られ、結局、何も変わらないことになります」 「それでも自民党自体のガバナンスは崩れており、問題は残ります。それなのに具体的にどうするか誰も声をあげないし、誰も動こうとしない。与党も野党も、政界そのものが『半昏睡(こんすい)状態』に陥っているようです」――政権交代が必要ですか。 「やはり政治に動きがあった方がいいでしょう。たとえ安定政権をつくるのが難しく、結果的に短命になったとしても」――自民党を中心とする日本の保守政治がダイナミズムを失ったと思いませんか。 「もともと日本の保守政治は様々な考え方を包含する非常に幅の広い概念でした。自民党の一党支配の中でも、誰をリーダーにするかをめぐって激しい競争があり、政策をめぐる緊張感もあったのです」 「たたきあげで選挙民の声を重視する『党人派』と、省庁出身で政策通の『官僚派』の対立もありました。争いながら手を組んで、野党が政権をとれないようにしてきたのです。でも近年、こうした保守政治は変質しています。党人派という言葉は死語となり、党内の競争が失われてしまいました」◆熱意も匂いもなく、失われた政治の創造力――大きな転機は、いつだったと思いますか。 「1994年の政治改革でしょう。中選挙区が廃止され、小選挙区になったことが大きい。あれから30年、中選挙区制の良さは失われ、小選挙区の悪い面ばかり目立っています」――どういうことですか。 「中選挙区の良さは、一党支配という政治状況の中で、党内で激しい競争があったことです。自民党の候補同士が争い、党内での新旧交代が起きていました。お金がかかりすぎるから改革は必要でしたが、小選挙区制が間違いだったとその時からずっと思っています。党内の競争をなくして世襲の増加につながっている。当面は少なくとも『小選挙区で負けても勝つ』という比例区の重複制度を廃止し、日本の政治風土に合う比例代表制を考えるべきだと思う」――そのせいか、政治家も小粒になりましたね。 「70年代には派閥のリーダーである『三角大福』(三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫)が争いましたが、当時は派閥のリーダーがメンバーのお金の面倒をみていたわけです。そういう元来の派閥政治がなくなったのは当然ですが、派閥そのものは残りました。今の派閥は集団指導と言われますが、実際は誰も責任をとらない仕組みです。資金を作るためメンバーがパーティー券を売って、ノルマを超えた分を還流してもらうなど、昔の派閥政治からすれば惨めな姿に見えるでしょう」 「総じて今の議員からは、良い意味で昔のような政治家の匂いがしません。元首相の大平や中曽根康弘ら、教養と歴史観のあるインテリの政治家も少ない。社会を変えようというエネルギーと熱意、勇気が欠けています。裏金事件が起きているのに、まともな改革案は出てこない。こうした傾向が続けば、政治の創造力は失われていくばかりでしょう」――人間味のある政治リーダーが見当たりませんね。 「これほど自民党に強いリーダーの少ない時代はありませんでした。竹下登がリクルート事件で首相を辞めた直後、『もっと長く首相を務めたかったけど、政治は昔のようにいかなくなった。これは時代の変化だから仕方がない』と話していました。自らの地位に執着せず、将来を見通して消費税を導入したのは、政治家として尊敬できる決断だったと思います」 「小泉純一郎元首相も負けることを恐れなかった。2005年の郵政解散の直前、私に『自分は首相をいつ辞めてもいい。だけど首相をしている限り、やるべきと思うことをやる』と言っていました。首相で居続けることより、自分の思いを実現しようとしたのはリーダーらしい行動だったと思います」◆変わらぬ政治、まず有権者が行動を――保守とリベラルの対立と言われますが、それ以前の問題かもしれませんね。 「そもそも今の時代に、保守やリベラルという言葉を使って政治を語ること自体に無理があります。日本の保守は幅の広い概念だし、言葉自体が古くなっている。また、私の思うリベラルはリアリスト(現実主義者)でなければならないので、世の中の変化に応じて変わっていきます。今の時代は外交も内政も、現実的に対応する政治が求められていると思います」――日本の政治は変わることができると思いますか。 「コロナ禍で3年間、日本を離れましたが、日本に戻ると、政治家も評論家も3年前と同じ議論をしていてがっかりしました。世界はものすごく早いスピードで変わっているし、日本も大胆に変わらなければ手遅れになってしまいます。日本の変化はペースが遅すぎて、世界とのギャップが広がるばかりです」――変わらぬ政治に変化を促すため、必要なことは。 「まず有権者が行動しなければ政治家は動こうとしません。時間の経過とともに批判も収まって結局は『何も変わらない』と思っているのかもしれない。国民はいつまでこういう政治を許しているのでしょうか」 「裏金問題への国民の怒りが、本当に日本の政治を透明化させる力になるか。このままでいけば、いずれマグマが噴出してポピュリズムに席巻される恐れもあります。増税の必要性には口を閉ざし、ナショナリズムと結びついて国を誤りかねません。いまの政治はそういう危険を抱えています。変えるかどうかを決めるのは、最終的には国民の責任なのです」(聞き手・小村田義之) ◇<ジェラルド・カーティス> 1940年生まれ。専門は日本政治、国際関係学、比較政治学。著書に「代議士の誕生」「日本の政治をどう見るか」「政治と秋刀魚」「ジャパン・ストーリー」など。2024年4月2日 朝日新聞朝刊 13版S 13ページ 「オピニオン-失われた政治の創造力」から引用 新型コロナ感染症の騒ぎで3年間留守にした日本に戻ってみたら、日本の政界は3年前と同じ議論を続けているのを見てびっくりしたという「感想」が、今の日本が如何に世界の進歩から遅れているかを示していると思います。このような時こそ野党は頑張って政権交代に立ち上がるべきところ、国会に「政治資金パーティを禁止する」条項を含む規正法改正案を出しておきながら、実はその野党幹部は今月、自ら政治資金パーティーを開催する予定だったことが明らかになるなど、どこか「本気度」が感じられない残念な野党ですが、それでもとにかく政権交代を実現し、この国の政治をまともな軌道に乗せることが、国民の務めであることを自覚したいものでございます。
2024年05月28日
名古屋市長の河村たかし氏が戦死した戦前の日本人の「死」を道徳的行為だなどと時代錯誤の発言をしたことについて、5日の朝日新聞社説は次のように批判している; 名古屋市で14日、「なごや平和の日」の式典が初めて開かれる。空襲犠牲者らを悼む日を、という高校生の提案を受け、河村たかし市長が動いた。しかし、その河村氏が看過できない発言をした。 「祖国のために命を捨てるのは高度な道徳的行為だ」と記者会見で語ったのだ。 哀悼の気持ちは、深いのだろう。「死は無意味なんですか」「犬死にですか」。繰り返した言葉から、せめて犠牲を高く位置づけたいという思いが感じられる。 実際、戦争のさなか、「祖国」や「高度な道徳」のために犠牲に耐えようとした人もいただろう。しかし、それをいま、為政者の側が持ち出すことには疑問がある。美しい言葉のもとに大勢の人が、死を強いられた歴史から目を背けるわけにはいかない。 あの戦争の犠牲者は日本だけで310万人、アジア諸国などを入れると、2千万人以上とされる。 国家が起こした戦争だが、自治体も若者を戦場に送り出し、市民に戦争協力を呼びかけた。河村氏はその自治体の長だ。政治が二度と人々を戦争に駆り立てないと反省し、不戦を誓うのが役割だろう。 河村氏はウクライナやパレスチナで続く戦闘などを例に国連の無力をいい、国を守ることの意義を説く。それが現実政治と言いたいらしい。 しかし、ロシアやイスラエルでもいま、政府に抗議し、反戦や非戦を唱える人たちがいる。彼らに対し、道徳的に低い、とは誰も言わないだろう。人が守るべきものは何か。我々はどこに価値を置くべきか。考え抜くことは貴重な営みである。 あの時代、日本の政治指導者も大義を唱えた。だが、誤算のすえに、取り返しのつかない膨大な犠牲と破壊がもたらされた。二度とこの惨禍を繰り返さない。その決意から、戦後の日本は出発した。 むろん、敗戦はあまりに惨めな現実だった。直視したくないという願望は、ずっと残っている。惨禍の記憶が薄れ、経済成長が陰るいま、過去を美化する欲求が、より強まっている。その風潮こそが、河村氏に問題のある発言をさせるのだろう。我々は歴史を顧みる勇気をもたなければいけない。 国を守る意義について、河村氏は、「(学校現場でも)考えないといけない」とも話した。だが、教育への政治介入は決して許されない。これもあの戦争の教訓だ。 戦争を振り返り、何をどう考えればいいのか。戦後79年にして始まる、なごや平和の日が投げかける問いである。2024年5月5日 朝日新聞朝刊 14版 6ページ 「社説-河村市長の発言 戦争は道徳で語れない」から引用 祖国のために命を捨てるのは高度な道徳的行為だという文句は、戦前の大日本帝国政府が学校教育を通じて日本人に叩き込んだイデオロギーであり、教育勅語もこのイデオロギーを国民に受け付ける手段の一つであったが、戦後の日本では国会が教育勅語の廃止を決議したことにより、このような「考え」も日本人は捨てることにしたという事実を、河村たかし氏は再度学習しなおしたほうが良いと思います。 戦前の日本は、現在の南北朝鮮を植民地支配し、中国の領土の一部を占領して傀儡国家「満州国」をでっちあげ、さらに東南アジアや南太平洋の島々を日本領として占領しましたが、日本のこのような不当な行動を阻止するために、中国のほかに米英蘭の連合国軍とも戦う羽目になりました。このような戦争に動員されて亡くなった日本人の「死」が、「高度に道徳的な」わけがありません。侵略戦争に動員されて死亡した人たちは気の毒ではあっても、客観的にどのような戦争に動員されたのかを考えれば、それは残念なことですが、無駄な犬死にであったと認めざるを得ません。その責任は昭和天皇を始めとする戦争指導者にあることを、私たち日本人は再認識する必要があります。今また、日本の支配勢力は経済活動の面で中国やインドの台頭に押されて落ち目になった経済を、兵器産業で挽回しようと試みだしていますが、戦前の二の舞にならないように監視の目を強めていく必要があると思います。
2024年05月27日
先月、陸上自衛隊のX公式アカウントが「大東亜戦争」という戦時中の言葉で投稿し、世間の批判を浴びて削除するという事例が発生した。その件に関連して、毎日新聞専門記者の栗原俊雄氏は、自らは「大東亜戦争」という用語は使わない理由を、4日の同紙に次のように書いている; 79年前の戦争が改めて注目されている。発端は4月5日、陸上自衛隊第32普通科連隊(さいたま市)が公式X(ツイッター)で、硫黄島(東京都小笠原村)の戦いに関連して「大東亜戦争最大の激戦地」と表記して投稿したことだ。「侵略戦争を正当化するのか」「当時の政府の閣議決定で認められている。何の問題もない」などと論争になった。 政府は「大東亜戦争」という呼称を公式には使用していない。同連隊は8日、この表記を削除した。木原稔防衛相は9日の記者会見で「激戦の地であった状況を表現するため当時の呼称を用いた。その他の意図はなかったと部隊から報告を受けた」と説明した。 大日本帝国(帝国)は米英などと戦争を始めた4日後の1941年12月12日の閣議で、37年から続いていた中国との戦争を含めて「大東亜戦争」と名付けることを決めた。敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)は「大東亜戦争」の呼称が軍国主義と緊密に関連するなどの理由で公文書での使用を禁じた。52年のサンフランシスコ講和条約でその使用禁止は失効した。それゆえ今日、その呼称を使うのは自由だ。 * * 私は本紙で帝国の戦争に関する記事を1000件以上書いているが、「大東亜戦争」という呼称を使ったことはない(引用を除く)。GHQが禁じようが禁じまいが、使うべきではないと思っている。二つの意味で、不適切だと考えるからだ。 まずは、空間的な不適切さ。帝国は中国との戦争が続く中、米英などとの戦争にも踏み切った。典型的な二正面作戦だ。軍事力では、国力ではるかに勝るアメリカを屈服させられないと、当時の帝国の為政者たちも自覚していた。純軍事的にみれば、正気の沙汰とは思えない(どうやって戦争を終わらせるつもりだったのかという「終戦構想」については稿を改めて論じたい)。 開戦後、帝国は国力に到底見合わないほど戦線を広げた。東はハワイ、西はビルマとインドの国境。北はアリューシャン列島、南はオーストラリアまで。「東亜」とは一般的に東アジアを指す。「大」をつけて範囲を広げたとしても、東南アジアを含む程度だろう。37年以降の戦争が「大東亜」に収まらないのは明らかだ。 もう一つは歴史認識の問題だ。「大東亜戦争」という呼称は帝国が自らの戦争につけたものであり、それは帝国が標ぼうした「大東亜共栄圏」「欧米が植民地支配しているアジアを解放するための戦争」という歴史観につながっている。 しかし、本当に植民地を解放するならば、もともと他民族が暮らしていた地域、たとえば台湾、満州国、あるいは朝鮮、さらには第一次世界大戦の結果事実上の植民地としていた南洋諸島を「解放」すべきだった。が、帝国にそのつもりはなかった。開戦後、日本軍は東南アジア各地を占領して軍政を敷くことになるが、狙いは「治安の恢復(かいふく)、重要国防資源の急速獲得及び作戦軍の自活確保」(「戦史叢書 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯5」)だった。各地域の独立より優先すべきは、戦争を継続するための石油などの戦略物資を獲得することであり、現地に派遣された軍がそこで活動できるための環境整備だ。 さらに注目すべきなのは、43年5月31日の「御前会議」(昭和天皇が臨席する国策決定会議)で決まった「大東亜政略指導大綱」だ。占領地域をどうするかの方針が書かれている。そこにはビルマ、フィリピンを速やかに独立させる、とある。一方でマライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは「帝国の領土と決定し重要資源の供給源」と位置付けている。現在のマレーシア、シンガポールやインドネシア各国に相当する地域を「我が領土とする」ということだ。「各地域が安定したら独立させる」という将来像はなかった。つまり、「大東亜共栄圏」は「植民地解放」というより日本のための「植民地再編成」構想だったのだ。 * * 連合国との戦争といえば、「太平洋戦争」という呼称が長く一般的だ。ただ、前述のような広大な戦域を包括することはできない。「アジア・太平洋戦争」という表現が80年代半ばごろから、アカデミズムなどで使われてきた。地理的にいえば、これが実態に近い。 私は「日本の第二次世界大戦」「第二次世界大戦下の日本」と表記している。「昭和の戦争」と称したメディアもあったが、定着はしなかった。時代区分で戦争を表現するなら、この呼称が妥当だろうか。 いずれにしても、「大東亜戦争」を歴史用語として使うことは、幻想としての「アジア解放のための戦争」史観を肯定することになる、と私は思う。だから、これからも使わない。(専門記者)2024年5月4日 毎日新聞朝刊 13版 7ページ 「現代をみる-『大東亜戦争』と言わない理由」から引用 この記事が述べるように、「大東亜戦争」という用語は当時の日本の戦争指導層が連合国側を欺くと同時に、戦争に動員される日本国民をも欺く目的で作り出した言葉であり、敗戦後に上陸したGHQが「使用禁止」としたのは妥当な政策であったし、過去の侵略戦争を反省した(ことになっている)戦後の日本政府が使用していないのは、正しい方針だと思います。それを、今時自衛隊の公式アカウントが「大東亜戦争」などと言い出すのは、日ごろから桜井よしこだの竹田恒泰だのという右寄りの人物を研修会の講師に呼んだりしているからであって、自衛隊幹部の責任をこそ追及するべきであると思います。
2024年05月26日
全米のかなりの数の大学で、学生たちがイスラエル支援をやめろとの声を上げて抗議活動を行っていることについて、ジャーナリストの北丸雄二氏は3日の東京新聞コラムに、次のように書いている; 「ブリキの兵隊とニクソンがやってきて」で始まり「オハイオで4人が死んだ」の連呼で終わるニール・ヤングの『オハイオ』は、1970年、米オハイオ州ケント大学でベトナム反戦集会の学生たちに州兵が発砲、4人を射殺した暴挙を歌ったものです。68年のコロンビア大学反戦運動も70年公開の青春映画『いちご白書』で描かれました。 ベトナムとガザの違いはあれど、半世紀以上前と同じ光景が今、全米数十もの大学で再現されています。イスラエルによる無差別攻撃に抗議する若者たちVSイスラエルに反対できない既成権力の構図――年1千万円も珍しくない学費を元手に、米国の大学はこの10年のイスラエル投資で計530億円も利益を上げ(米教育省)、学生側は自分たちの払う学費を大量殺人や入植事業に使わせるなと軍産イスラエルとの断絶を要求している。バイデン大統領も長年の政治家生活でユダヤ系から莫大(ばくだい)な献金を受けてきました。 11月の大統領選がこれでさらにまた予測不能です。前回のバイデン当選を支えたZ世代でも今18~22歳の学生たちはトランプ政権当時は10~14歳。あの狂騒は自分ごととしては知らない。民主主義を守るために支持をと訴えるバイデンこそが現在の若者には反民主主義に映る。その陰でトランプの後ろの「ブリキの兵隊」チームが眈々(たんたん)と前回以上の政変を狙っています。(ジャーナリスト)2024年5月3日 東京新聞朝刊 11版 19ページ 「本音のコラム-『ブリキの兵隊』計画」から引用 今から50数年前に、ベトナム戦争に反対する学生たちにオハイオの州兵が発砲して4人の学生が死亡するという事件がアメリカでありました。そういう事件の後も、アメリカ政府はベトナム戦争を継続し、結局抵抗する現地のベトナム軍を制圧することは出来ずに、パリ協定で米軍がベトナムから撤退し、その後、北部ベトナムを実効支配していた政権が南部ベトナムを支配していた傀儡政権を倒してベトナム全土を統一する結果となったのでした。しかし、ベトナム戦争で手痛い失敗をしたアメリカは、それにも懲りずに世界のあちこちに軍事紛争を起こしては軍隊を派遣するということを繰り返しています。巨大な軍需産業を抱えた国家の宿命というものではないかと思います。それにしても、アメリカの大学は学生から集めた授業料をまとめてイスラエルの企業に投資して莫大な利益を上げているというのも、呆れた話です。研究と教育の機関が経済活動も行って、赤字になったり黒字になったり、その時に応じて教育内容にもムラがあるというのでは、果たして教育機関としてそれでいいのか、大いに疑問を感じます。また、トランプ氏のような無神経な人物が傍若無人な言動をするよりは、少しは紳士的なバイデン氏のほうがましではないかという発想の前回の米大統領選挙とは打って変わって、今回はうわべだけ紳士的でも、イスラエルの暴虐に「やめろ」とは言えない大統領では、今年の選挙は勝てそうもありません。その辺の風向きをしっかり計算しているトランプ氏は「オレだったら、ガザの紛争はすぐに止めさせられる」などと自信たっぷりに言ってますから、「トランプ再選」は日を追って実現の可能性が高まっているように思われます。
2024年05月25日
憲法記念日にちなんで、新聞各紙が憲法改正に関する世論調査を行い発表したことについて、毎日新聞専門編集委員の伊藤智永氏は、4日の同紙コラムに次のように書いている; 憲法記念日の3日、憲法改正に関する各紙世論調査の数字は一見バラバラだった。単純に改憲賛成を比べると、毎日新聞の27%に対し、読売新聞では63%。回答者が社論の違いに合わせたのでは、といった勘ぐりは誤りだ。質問を子細に読み比べると、むしろ明確な世論の姿が立ち現れる。 読売は、単刀直入に「今の憲法を改正する方がよいと思いますか、しない方がよいと思いますか」と尋ね、「改正する方がよい」63%、「しない方がよい」35%、「答えない」2%だった。 実は、護憲派と見られている朝日新聞の調査結果もあまり変わらない。質問は「いまの憲法を変える必要があると思いますか、ないと思いますか」。「必要がある」53%、「必要はない」39%。 朝日は9条について詳しく聞いている。まず単純な賛否。「9条を変える方がよい」32%、「変えない方がよい」61%。 ところが、「9条の1項と2項をそのままにして、新たに自衛隊の存在を明記する」自民党改憲案については、「賛成」51%、「反対」40%。矛盾する答えをした人が一定数いる。意外ではない。同じ現象は昔から見られた。日本人の繊細で意志的な「9条観」が、そこには確かにある。 一方、改憲は現実の政局と密接に絡む。岸田文雄首相は「改憲への思い入れは薄い」と周囲も認めるのに、政権延命の野党分断策として、繰り返し改憲への意欲を公言し、改憲条文案の議論加速を国会の演説で公約している。 共同通信は、「岸田首相が9月までの自民党総裁任期中に意欲を示す改憲の国会議論について」尋ねた。「急ぐ必要がある」33%、「急ぐ必要はない」65%。 これは、毎日の調査と重なる。質問は「岸田首相の在任中に改憲を行うことに賛成ですか」。「賛成」27%、「反対」52%、「わからない」20%。 朝日は「国民の間で憲法を変える機運がどの程度高まっていると思いますか」と聞き方を変えた。「高まっている」は、「大いに」4%、「ある程度」24%。「高まっていない」は、「あまり」55%、「まったく」15%。 つまり、世論は改憲に理解を持っているが、9条の変え方には迷いが残っているので、改憲案を発議する国会で、野党第1党も同調する合意作りを望んでいる。 国民投票が対決型だと、憲法を巡って日本でも「トランプ型分断」が起きかねない。改憲を実現するには、主導する政治家に、反対党からも信頼される風格と度量が必要ということだ。(専門編集委員)2024年5月4日 毎日新聞朝刊 13版 2ページ 「土記-憲法改正に必要なのは」から引用 この記事は、結論の部分で「世論は改憲に理解を持っているが、9条の変え方には迷いが残っている」と、文学的な表現をしているが、「憲法改正」というテーマについてこのような他人事のような表現で片付けるのは如何なものかと思います。憲法であれ法律であれ、このままでは将来問題になる、ということがはっきりしていれば、私たちは積極的に「改正」について話し合いをするべきであるし、ひるがえって、具体的な問題があるわけでもないのに「制定してから時間も経ったし、そろそろどこか改正でもしていい頃だ」などと「理解を示して」改正を希望する者たちに任せてしまうなどと言うことは、断じてあってはならないことで、その辺をしっかり踏まえて論評してほしいものです。
2024年05月24日
日本政府が国会に諮ることもなく、独断で勝手に武器輸出に踏み切ったことについて、東京大学名誉教授の小野塚知二氏は9日の朝日新聞に、次のように書いている; 政府は英国、イタリアと共同開発する次期戦闘機について第三国への輸出を解禁した。賛否が割れるなか、憲法の精神を踏まえた議論が置き去りにされていないか。平和国家を掲げてきた日本は、武器輸出大国へと変貌(へんぼう)を遂げようとしているのか。(聞き手・小村田義之)■「売らない」倫理的価値、大切に 小野塚知二さん(経済学者)――日本が武器を輸出できる「普通の国」になるのは、「愚者の選択」だと指摘してきましたね。なぜ愚かだと思うのですか。 「そもそも日本にとって望ましいのは、国民の消費が伸びて発展するという消費主導型の経済です。ところが、武器輸出は投資主導型で、国が投資し続け、赤字国債が増えて、一部の兵器企業だけがうるおう。健全な経済とは言えません」 「さらにいえば、抑止力が成り立つのは相手次第です。抑止力とは、相手がこちら側の力を恐れるか否かに依存しており、こちら側で一方的に決めることはできないのです。日本が軍備を増強したところで、中国や北朝鮮、ロシアが態度を変えるでしょうか。むしろ硬化して、安全保障環境が悪化するはずです」――武器移転の歴史を研究してきて、そう思うわけですね。 「歴史的にみると、武器移転は金銭的対価を伴わず、貸与・無償供与という形をとることが多いことに気づきます」――なぜですか。 「相手国を支配下に置くためです。武器をいったん受け取ると、その武器を使う兵士の訓練や修理・補給など、ずっと縁が切れなくなる。このため最初は貸与であっても十分商売が成り立ちます。武器移転にはそういう側面もあるのです」――武器によって守られる平和もあるのでは。 「言うまでもなく、武器は破壊や殺傷を目的とした道具です。その手段が広まれば戦争の危険性も高まると考えるのが自然です。本来は国の目標や戦略があって、そのための手段が決まるはずですが、実際は武器の存在によって、逆に国の戦略が規定されてしまう」――武器の拡散が実態を規定してしまうと。 「たとえば米国社会で銃の危険を感じるのは、銃規制が緩いためです。規制の厳しい日本では考えられません。軍事でも武器が広まれば危険が増え、平和の条件が損なわれる。武器移転はできる限りない方がいい。素朴な理屈ですが、そこが基本線です」――「軍事と外交は両輪」と言われます。 「日本外交がそういう考えだとすれば悲劇的なことです。軍事に頼らず、言論、文化、民間外交も含めていかに戦争を回避し平和を維持するか。それを考えるのが外交術でしょう。はなから軍事に頼むだけなら外交の敗北だと思います」 「日本の周辺には残念ながら、兵士の生命の政治的・社会的費用が低く、人権も民主主義も言論の自由も制約された国があります。兵士の損耗が政府や軍の責任になりにくい国は、いくらでも兵力を投入できます。こういう相手とは『戦争をしない』という前提をまず立てた方がいい。この場合に、抑止力を強めれば安全保障が成り立つと考えるのは、何か錯覚しているか、国内向けに勇ましいことを言いたいだけです」――日本は武器輸出大国になると思いますか。 「思いません。武器輸出は日本にとって最も不得意な分野です。戦後の日本は武器を輸出したり、訓練をしたり、修理・補給をしたりしてきた経験がなく他国の信用がありません。日英伊の次期戦闘機の共同開発も『対等なパートナー』と考えるのは幻想でしょう」 「米国の存在もあります。次期戦闘機の開発でいい技術が出れば、米国が介入するでしょう。米国は日本に圧力をかけ『技術を出せ』という。英伊からみれば、日本は米国の介入を呼び込む『トロイの木馬』になる可能性さえあるのです」 「日本が米国から自立して武器を開発生産し武器輸出大国になれるというのは妄想です。米国は安保体制下でそれを決して許さないでしょう」――武器輸出の問題は、日本の国のありようにもつながっていますね。 「実をいうと、今回の議論は世界の常識からはかけ離れています。軍事に関するものはすべて武器であり、殺傷能力の有無など関係なく輸出できるというのが常識なのです」 「でもそれが議論になること自体、この問題が日本にとって重要であることを示しています。『武器を外国に売らない』ことが、大切な倫理的な価値になっている。それは憲法9条の普遍的な理想に基礎付けられているわけです。武器輸出で平和国家の価値を傷つけ、ボロぞうきんのように捨ててしまうなら、日本の安全保障に負の影響を与えます。そうであれば、閣議で決められるようなことではなく、少なくとも徹底した国会審議が必要でしょう」 *<おのづか・ともじ> 1957年生まれ。東京大学名誉教授・特任教授。経済史家。主な書籍に『経済史』『第一次世界大戦開戦原因の再検討』『日英兵器産業とジーメンス事件:武器移転の国際経済史』など。2024年5月9日 朝日新聞朝刊 13版S 13ページ 「交論・武器輸出と『平和国家』 この記事は、政治思想や平和主義というような観念論の専門家とは一味違って、日本が今さら戦闘機を売ると言っても戦後の80年のブランクがあるから、もはや戦闘機販売の「ノウハウ」を失っているのだから、「売る」と言ってみても「買う」と言ってくれる国は、もうないだろうとの「説」は、なるほどと思います。この狭い島国で、軍事基地を強化すれば脅威を感じる近隣の国々はそれを上回る軍備増強をするであろうことは明白で、そのような軍拡競争は「平和実現」よりは「偶発戦争の勃発」の危険性のほうがはるかに大きいと思います。そもそも、この狭い列島に50数基の原発を作ってしまったのだから、相手側を「ミサイル攻撃」をする気にしてしまった時点で、この列島は人が生活できる環境ではなくなるのですから、今からでも政権交代を実現して、「敵基地攻撃能力」などという無駄なものは撤回する方針に切り替えるべきであり、自衛隊は「専守防衛」に徹し、中国、ロシア、朝鮮民主主義人民共和国との間で地の利を生かした外交関係を確立し、太平洋の向こうのアメリカとはそれなりの距離を考慮した関係にしていくのが、これからの日本の進むべき「道」だと思います。
2024年05月23日
パレスチナ人に対するジェノサイドを止めようともしないイスラエルを、欧米主要国の指導者は何故支援し続け、やめさせようとはしないのか、そのカラクリについて文筆家の師岡カリーマ氏は4日の東京新聞コラムに、次のように書いている; 先週、爆撃で死亡したガザの女性の胎内から赤ちゃんが救出されたと書いたが、その原稿が私と特報部の手元を離れた直後、すでに亡くなっていたことが伝えられた。 スーダン、コンゴ、ミャンマー、ウクライナ・・・、理不尽な暴力に苦しむ人は各地にいる。それでもガザという不条理を訴え続けるのはそれが、普段は人権の守護戦士を気取り、世界の良識の代表のような顔をしている欧米諸大国の指導者の了解と援護のもと、白昼堂々と犯されているからだ。 アイルランドのジャーナリスト、D・クローニンが、フォンデアライエン欧州連合委員長の会見の場で「ジェノサイド支援」に抗議したとき、委員長が始終浮かべていた小馬鹿(こばか)にするような薄笑いは、不気味に象徴的だった。それが象徴するのは、人権や正義といった立派な理念は万人のものではなく、特権の輪からこぼれ落ちた人々が無慈悲に切り捨てられる世界構造だ。ガザはその究極の縮図でしかない。 欧米各地(日本も)で抗議運動を続ける大学生たちは、ガザが他人事(ひとごと)ではないと気づいている。だからその運動は、強権的な警察国家さながらに抑圧され、多くの学生が不当に逮捕されている。露骨な言論統制の動きも数多く伝えられている。ガザの蹂躙(じゅうりん)がまかり通る世の中では、誰も安全ではない。誰も自由ではない。若者たちは気づいている。(文筆家)2024年5月4日 東京新聞朝刊 11版 17ページ 「本音のコラム-なぜ、ガザか」から引用 人権とか正義という理念は、地球上に暮らす全ての人間に共通の理念であり、国連憲章にもそういう主旨が書かれていたように思ってましたが、それはとんでもない勘違いで、もし国連憲章にそう書かれていれば「将来はそうなるといいね」といった程度の意味であり、西欧主要国の政治指導者が「地球上に生活する全ての人間の権利を尊重する」などということは、考えていない、ということのようです。パレスチナの地にイスラエルの建国をみとめようと西欧の首脳が集まった席で、「パレスチナには既に居住する民族がいるのだが、それはどうするか?」との問いに、当時の英国首相だったチャーチルは「そこに以前から犬が住んでいたからと言って、我々がその犬の権利を考慮する必要はないだろう」と言い放ったのは、「今までは、ユダヤ人に我々と同等の権利を認めて来なかったが、今後は認めることにしよう。しかし、パレスチナ人については、それはまだ早い」というような意味だった、と解釈することができます。それは、不当な考え方であり、私たちは国連憲章や日本国憲法に明記された、「あらゆる人々の権利を尊重する社会」を実現する必要があると思います。
2024年05月22日
愛媛県の片田舎の町で、議会多数派が提案した議案に対して何回質問しても納得できる満足な答弁が得られず、多数派が質問を遮って採決するというので、納得できない議員が採決時に退場すると、それを問題視した議会多数派が、退場した議員に対して「問責決議」をするという事件があった。それを問題視した少数派の市民団体が「安易な問責決議」に異議を訴える署名運動を行い、議会に提出したところ、多数派のボスと見られる古参の議員が、その署名簿のコピーを持って、署名した市民の家を一軒一軒訪ねて「どういうつもりで署名したのか」などと恫喝して回るという事件があった。ジャーナリストの藤野かな氏が、「週刊金曜日」1470号に、次のように書いている; 愛媛県・愛南町。人口約1万9000人の小さな自治体に対し、今年3月末に違憲判決が出された。町議会の議決に疑問を抱いた住民らが署名を集めて説明を求めたことについて、署名者の個人情報を入手した町議会議員が家を訪ねてまわるという圧力をかける行為をしたためだ。住民の提訴がなければ、請願権や表現の自由を侵害する行為が認識されず、放置されてしまっただろう。 2022年1月、高知との県境に位置する愛媛県南宇和郡愛南町で、1人の町議が民主主義の根幹を脅かす行動を取った。住民グループの要望書に添えられた賛同者の住所と氏名が記載された紙を手に、1軒1軒訪問してまわったのだ。 本当に署名したかを確かめるためだった-。そう主張する石川秀夫議員の行動を、裁判所は「表現の自由や請願権を侵害しており憲法に違反する」と指弾。識者も「法令意識が低い行動だ」と唖然とした。◆発端は理不尽な問責決議 そもそも、住民が要望書を提出するきっかけは何だったのか。愛南町議会では、21年12月17日、石川議員が金繁典子議員に対する問責決議を提出し、議決された。過去、採決を2回退席したことなどが問題とされたが、金繁議員は退席理由を「資料の内容と質疑の答弁が不十分で判断ができない」と丁寧に説明していたのだ。 意思表明として国会でも行なわれる採決時の退席の何がおかしいのか。議事録を読んでみても納得できる理由はなく、議会の多数派が結託して1人の議員を追いやる構図は、いじめとしか思えない。 決議の対象とされた金繁議員は、同町初の女性議員だ。トップ当選し、1期目から多数派に迎合せず、積極的に質問して議会の改革に努めている(本誌23年3月17日号で紹介)。ベテラン議員たちは自分たちの既得権や支配力が失われるのではないかと彼女の存在を疎み、恐れたのだろう。 住民グループは、根拠なく問責決議を行なうことは議員活動を抑圧する危険があるとして住民380人の署名を集め、議会に十分な説明を求める要望書を提出した。グループの代表吉田かおるさんは決議を「理不尽だと思いました。今後もそういうことをするのかどうか聞きたかった」と話す。◆萎縮効果を認めた重要性 要望書を提出した日の午後、吉田さんのもとに同級生から電話がかかってきた。「大丈夫か?石川が(名簿を)持ってまわりよるで」。当時の町議会議長から要望書を見せられた石川議員は、添付の名簿を手に、知人宅を訪問し「何でしたん」「本当か」と聞いてまわっていた。 住民グループはすぐに議長に抗議した。吉田さんは「うちにも来るんやない。署名しなければよかった」と賛同者に言われ、「愛南町では署名してくれる人がいなくなってしまうのではないかと思った」と当時のショックを振り返った。愛媛大学教育学部の中曽久雄准教授(憲法学)は石川議員の行動について「個人情報の目的外利用はしてはいけないと社会では浸透しているのに、非常識だ」と指摘し、名簿を見せた議長の行為も「軽率だった」と非難する。 要望書に署名した住民男性(80歳)は精神的苦痛を受けたとして22年、町に慰謝料50万円を求める国家賠償請求訴訟を提起。町は「(石川議員の)政治活動の自由も憲法上保護する必要性がある」「正当な政治活動で意見封じが目的ではない」などと争っていた。 今年3月25日、松山地裁宇和島支部は、石川議員の一連の行動を「署名行為を萎縮させる効果を生じさせる態様」で「表現の自由を制約する行為」と認定し、町に5万円の支払いを命じた。 議員から問い合わせがあったことを知り、今後は署名しないでおこうと、表現行為を差し控える――中曽准教授は萎縮効果をこのような空気感のようなものだとする。「萎縮効果をどのように権利侵害として認定するかは実務上困難だったが、本判決は態様からダイレクトに萎縮効果を認めている。今後表現の自由を考える上では重要な判決だ」と意義づける。◆「十分な説明」はまだない 町議会は判決を受けて全議員を集めた全員協議会を開催。控訴しない方針を決定した。一方、原告男性は、石川議員に署名の名簿を見せ、コピーすることも黙認した議長にも責任があるのに、その責任が認定されなかったのはおかしいなどの理由で高松高裁に控訴した。 定年を機に京都から愛南町に移住した原告男性は「町議会議員としての基本的な知識が欠けている。自然条件は良いところだが、このままでは若い人が出て行く。もっと住民が発言力を持たなければ」と裁判にかける思いを語る。 県庁所在地の松山市から車で約3時間かかる人口1万9000人足らずの町の議会では、法治主義ではなく地縁血縁や感情論が優先されていた。地元紙の記者が1人しか常駐せず、メディアの監視も十分だったとは言えないだろう。 今年4月時点で、要望書で依頼した「議会が町民へ問責決議についての十分な説明を行う」ことは実現していない。1議員の軽率な行動が耳を傾けるべき町民の真摯な声をかき消してしまった。 380人の署名について吉田さんは「圧力がかかったらいけないから短期間で集めようと3日位で集めた」と明かした。この言葉に、町の空気感が集約されているように感じた。議会側に署名運動が見つかれば、つぶされるかもしれないと無意識に思うのだという。それでも「言いたいことの言える町に変わるところが見たい」と、声を上げる人々がいることに希望を見出す。2024年4月26日・5月3日合併号 「週刊金曜日」 1470号 36ページ 県庁所在地から車で3時間もかかるような田舎では、民主主義の憲法に変わってからもうすぐ80年になるというのに、いまだに町を牛耳っているつもりの「ボス」が時代遅れの親分風を吹かせて、気に入らない署名運動に応じた有権者を一人ひとり脅して回るというのは、まったく呆れ話です。一審の判決に対して、町議会が全員協議会で控訴しない方針を決めたのは立派であるが、提訴した有権者が言うように、有権者から受け取った署名簿のコピーを議員に渡した議長の責任も重大であり、不問には出来ないはずで、控訴は当然だと思います。このような裁判によって、真の民主主義が日本の隅々まで浸透することを願います。
2024年05月21日
先月行われた衆議院補欠選挙の結果について、文芸評論家の斎藤美奈子氏は1日の東京新聞コラムに、次のように書いている; 自民全敗、立民3勝。東京15区、島根1区、長崎3区で争われた衆院補選(4月28日)は有権者の良識が示される結果になった。注目すべきは「ゆ党」と揶揄(やゆ)される自民の補完勢力も同時に負けたことだろう。 まず東京でも長崎でも負けた維新。さしものゆ党も関西以外では通用しなかった。維新はしかし大阪府大東市長選(4月21日)でも負けている。大阪万博の失態などでメッキが剥がれたか。馬場代表はぜひ代表の座にとどまり、さらに党勢を落としてもらいたい。 東京では都民ファと国民民主が推薦した乙武洋匡氏も落選した。しかも5位。候補者の女性スキャンダルや小池都知事の学歴詐称疑惑などが逆風になったとしても、当初自民も推薦予定だった通り、都民ファも所詮(しょせん)は口ーカルゆ党だ。7月の都知事選もぜひこの調子で負けてもらいたい。 立民の勝利は共産党や市民との共闘の成果である。政権交代を目指すなら、有権者が求めているのは自民に対抗できる野党共闘であることを肝に銘じてもらいたい。 その意味で今補選の陰の敗北者は芳野友子会長率いる連合だろう。共産党を拒否する一方、連合のメーデー中央大会(4月27日)に岸田首相を招く異常さ。立民に連合を切れと促す前に連合の正常化を求めたい。内部から「芳野おろし」の声は上がらないのか。それが不思議。(文芸評論家)2024年5月1日 東京新聞朝刊 11版 17ページ 「本音のコラム-補選後の要望」から引用 立憲民主党はいまいち国民に訴える「力」がひ弱なイメージで、この党はやる気があるのかなぁという印象をぬぐえないのだが、一応今回の国政選挙は「全勝」したことは喜ばしい。上の記事が言うように、品性下劣な言動が目立つ馬場議員にはこのまま維新の代表を継続して、「維新の正体」を有権者に理解させる役割を果たしてもらいたいと思います。また、今回の選挙の「勝利」は自民党批判票が割れないように共産党が立候補を見送るという選挙戦術を用いたことが有効に作用したという点も、有権者は自覚するべきです。連合の「吉野問題」は、昔の民社党の流れをくむ「同盟」系の労組が問題の核心なのだから、同盟系の労組を排除した新しい団体を立ち上げるのが、問題解決への近道だと思います。
2024年05月20日
先月下旬に自民党がまとめた政治資金規正法改正案とは如何なるものか、現代教育行政研究会代表の前川喜平氏は4月28日の東京新聞コラムに、次のように書いている; 23日に自民党がまとめた政治資金規正法改正案。議員本人に確認書の交付を義務付けることで「いわゆる連座制に近い」と説明するが、議員が処罰され公民権を停止されるのは、(1)会計責任者が不記載や虚偽記載で処罰され、(2)議員が必要事項の確認をせずに確認書を交付した場合に限られる。「しっかり確認はしたが、不記載や虚偽記載はわからなかった」と言い抜けることが可能で、連座制には程遠い。 議員が政党からもらって好き勝手に使う「政策活動費」には手を付けず、企業・団体献金の見直しもしない。要はこれまで通り大企業から金をもらい自由に使う仕組みを温存したいのだ。 金を出す側の十倉雅和経団連会長も「政治にはお金がかかる」と企業献金の廃止に反対する。金で政策を買う金権政治を温存したいのだ。 自民党の金権政治は、法人税を下げて大企業を優遇し、500兆円を超えるもうけ(内部留保)をもたらす一方、消費税を上げて庶民を苦しめ、インボイスを導入して零細事業者を苦しめた。アベノミクスが招いた止めどない円安で、輸出企業は荒稼ぎし、庶民は物価高騰に苦しむ。 自民党と経団連の関係はまるで悪代官と越後屋だ。悪代官が居座る限り金権政治が庶民を苦しめる。黄門様は現れない。国民が悪代官を成敗するしかないのだ。(現代教育行政研究会代表)2024年4月28日 東京新聞朝刊 11版 17ページ 「本音のコラム-金権政治を成敗する」から引用 自民党自身が思いつく政治資金規正法改正案というのは、如何に抜け穴を用意するかという点がポイントで、国民の目をごまかすためのノウハウを駆使して作るものだから、その実態は上の記事が指摘する通りであり、ろくなものではありません。経団連会長がまことしやかに「政治にはお金がかかる」と、自民党のために「援護射撃」をするのも、一億やそこらのカネをつかませれば、500兆円もの現金が転がり込む仕組みになっているからなのだという「現実」を、我々はしっかりと認識し、このようなカラクリで不利益を被っている国民として、これでいいのかどうか、よく考えるべきです。
2024年05月19日
ガザのパレスチナ人に対するジェノサイドを止めようとしないイスラエル軍について、文筆家の師岡カリーマ氏は、4月27日の東京新聞コラムに次のように書いている; 爆撃で死亡したサブリーンの遺体から、赤ちゃんが救出された。予定日より10週間早く生まれた女児の容体は安定しているという。誕生直前に両親と姉を爆撃で亡くした彼女に残された家族は若いおじさん1人。「みんな普通の民間人なのに、一瞬にして住民登録簿から抹消されてしまった」とうなだれた。死者の数だけ遺された悲劇がある。この2人がお互いの支えとなり喜びとなり、穏やかに暮らせる日が早く来ることを祈らずにはいられない。でも実際には、どちらも明日は保証されない。医療設備が乏しいガザで未熟児は生き永らえないかもしれないし、天涯孤独の孤児になるかもしれない。 同じころ、ガザ南部の病院跡に集団墓地が見つかった。ハマスの拠点だとして、イスラエル軍の攻撃を受けていた所だ。発見された300を超える遺体には子どもも含まれ、また拷問や生き埋めの痕跡が見られる遺体もあったという。「ガザに無辜(むこ)の市民などいない」とイスラエル国防相が言ったのは、ハマスによる去年10月の奇襲攻撃の5年以上前のことだった。 イスラエル軍は関与を否定。潔白に自信があるなら、国際機関による調査を認め、外国メディアの締め出しをやめればよい。集団墓地発見が報道された直後、米連邦議会上院はイスラエルなどへの支援法案を可決、バイデン大統領の署名で成立した。(文筆家)2024年4月27日 東京新聞朝刊 11版 17ページ 「本音のコラム-新たな命が運ぶ絶望」から引用 ハマスがユダヤ人のコンサート会場にミサイルを打ち込む5年も前に、ユダヤ人の国防相は「ガザには無辜の市民などいない」と言ったそうだが、ユダヤ人の目にそう見えるのは、ユダヤ人がパレスチナの人々が住む土地にやってきていきなり建国宣言をして、そこに住んでいたパレスチナの人々の土地と家屋を略奪し迫害するという不当行為を、戦後の80年間継続してきたその結果なのであって、ユダヤ人こそが諸悪の根源でありユダヤ人は「人間の皮をかぶった悪魔」なのだと思います。その昔には、ナチス・ドイツによってジェノサイドの対象にされたという過酷な歴史をもっているからと言って、現在のイスラエルの暴虐を容認し、支援までしている欧米の政府首脳の言動は、正気の沙汰ではないと思います。
2024年05月18日
13年前の東日本大震災で炉心がメルトダウンした福島第一原発は、その後の廃炉作業が予定どおりには進んでいない。当事者の東京電力は廃炉作業について、どのような見通しを持っているのか、東京新聞論説委員の飯尾歩氏が東京電力の担当者にインタビューした様子を4月24日付け同紙に掲載している; 福島第1原発の廃炉に向けた「中長期ロードマップ(工程表)では、燃料デブリ(溶融核燃料)の取り出しに2021年中に着手し、51年までに廃炉を完了するとしています。ところが数硝の試験採取さえ、失敗が続き、先行きは見通せません。果たして廃炉はできるのか。東京電力福島第1原発廃炉推進カンパニーの高橋邦明リスクコミュニケーター(RC)に聞きました。【飯尾】 デブリの取り出しは、廃炉への長い道のりの「最難関」ですが、事実上の「出発点」と言ってもいいと思います。2号機からの試験採取が3たび延期され、事故発生から13年もたってなお、耳かき1杯分、数グラムの採取ができないような状態ですね。51年の完了は、到底無理だと思うのですが。【高橋】 われわれとしては、口ボットやドローンを炉内に入れて、情報の蓄積や解析を続けています。蓄積された映像などからデブリの形状や分布状況が、これまでの作業の際に付いた口ボットなどへの付着物からデブリの性状、放射線の強さなどが、徐々にではありますが、明らかになりつつあり、どんな口ボットをどう使って、どこをどう攻めればいいかが、絞られてきています。蓄積された情報に基づいてロボットの調整や製作も進めています。デブリの取り出しに関しては、具体策が見えつつあると言ってもいいと思います。【飯尾】 現時点では、「中長期ロードマップ」の見直しは必要ないと。【高橋】 ロードマップというのは政府が定め、改定するかどうかも政府が決めることなので、われわれは現場で得た情報を逐次報告する立場にしかないですが、試験的な取り出しの遅れによって、緊急的に見直すことはないと考えます。【飯尾】 政府も東電も、たまり続ける汚染水を処理して海に流すことが「廃炉のために避けて通れない」と強調し、漁業者らの強い反対を押し切って、海洋放出に踏み切りました。放出が始まったことにより、廃炉作業はどのように加速するのでしようか。【高橋】 デブリの処理を効率的に進めていくには、さまざまな関連施設を建設する必要があります。そのためには、汚染水のタンクを解体し、スペースをつくらなければなりません。とりあえず、デブリを処理するための環境整備が加速します。【飯尾】 一時的な保管施設や作業ロボットの基地などが必要になるのでしょうが、いつから建設が始まりますか。【高橋】 すぐにも始めたいところではありますが、タンクの解体作業には、まだ着手できておりません。本年度の後半ぐらいには取りかかる計画です。【飯尾】 汚染水の発生は止められますか。【高橋】 地下水をくみ上げ、遮水壁で囲むなどして、汚染水の発生量は、事故当初の日量約600トンから90トン程度に減っていますが、デブリを取り出さない限り、冷却のための注水が必要なので、なかなかゼロにはできません。【飯尾】 やはり、デブリがかぎですか。汚染水といえば、汚染水をALPS(多核種除去設備)で処理する際にこしとられて残る汚泥状の高濃度放射性廃棄物の保管と処分が、このところ問題になっていますよね。今後、デブリの取り出しや原子炉の解体作業などが進むに連れて、さまざまな性状を持つ膨大な”核のごみ”が排出されることになるはずです。使用済み核燃料の中間貯蔵施設や最終処分場の建設をめぐって各地でトラブルが起きる中、最終的な受け入れ先はあるのでしょうか。処理水のように海に流してしまうわけにも、いかないでしょうし・・・。【高橋】 現時点では一般に、まずは発電所の中で管理して、最終処分はその後ということになりますが、大型廃棄物の保管庫や、かさを減らす焼却設備を設置して、保管、処理を進めており、28年度中に瓦礫などの屋外一時保管の解消を目指しているところです。【飯尾】 今後どれだけ”ごみ”が出るかによって、保管場所など必要な施設の規模や性能、最終処分の方法も変わってくるはずです。焼却処理が追い付かないと、汚染水のタンク同様、廃炉作業の妨げにもなりかねません。発生量の見積もりはされていますか。【高橋】 具体的にどれだけという試算は、今のところ立てておりません。◆「やらなければならないこと」【飯尾】 廃棄物対策一つ取っても、道のりははるかに遠く、「ロードマップの達成は不可能」「廃炉の最終形が見えない」などという声も高まっています。どの時点で、何をもって「廃炉の完了」となるのでしょうか。これもやはり、政府が決めることなのですか。【高橋】 このような大事故の後始末をどうするか。原発の敷地が最終的にどうなるか。世界的に前例がないことだけに、今の段階では、われわれにも思い描くことができません。福島の復興という観点からも、政府と弊社だけでなく、みなさんと相談しながら、決めていくべきことだと思っています。【飯尾】 分厚い放射線のとばりの中で、歴史上例のない手探りの作業。それがいかに大変なことであるかは理解できるものの、残念ながら、実際の廃炉作業に関しては長く足踏み状態が続いているという印象はぬぐえません。あらためて今後の展望について聞かせてください。【高橋】 当初の予定から遅れているのは確かです。そのような印象を持たれても、仕方がないとは思います。しかし、廃棄物の管理や汚染水対策など、「本丸」であるデブリの攻略に向けての環境整備は進んでおり、後戻りはしていないのも事実です。ロボットが思うように動かなかったり、原子炉の土台部分が損傷していたり、予期せぬトラブルも発生しています。これからも起きてくるでしょう。しかし、次の工程に影響が出ないよう、一つ一つきっちり対処した上で、スケジュールにとらわれず、新たな知見を取り入れながら、一歩一歩着実に、安全に、前に進んでいかなければならないと思っています。【飯尾】 先日、政府の原子力損害賠償・廃炉等支援機構(NDF)から、30年代に、3号機で始める予定の本格的なデブリの取り出し作業に向けて、空気に触れた状態のデブリに水をかけながらロボットアームを使って取り出す「気中工法」を軸に、デブリを固めてから取り出す「充填固化工法」の併用が提案されました。この案で現状が打開できるかどうかはさておき、最後にうかがいます。福島第1原発は、本当に廃炉にできますか。【高橋】 いずれにしても、実行するのは現場。われわれ現場の責任です。やれるかやれないかという問題ではなく、福島の復興と発展のためにも、やらなければならないことだと思っています。★解説★ メルトダウンした福島第1原発1~3号機には、溶け落ちた核燃料などが固まった高線量の燃料デブリが、880トン堆積すると推定されている。政府と東電が掲げる「中長期ロードマップ」によると、2021年中に2号機で耳かき1杯分の試験取り出しに着手。その後段階的に規模を拡大するとしているが、着手できていないまま計画から3年経過している。<たかはし・くにあき> 1993年、東京電力入社。2011年から福島第1原発の使用済み燃料プールや原子炉冷却設備の設置を担当。16年、福島本部復興推進室のリスクコミュニケーター(RC)、18年、立地地域部のRCを経て、23年7月から現職。廃炉の現状を広く伝える役割を袒う。2024年4月24日 東京新聞朝刊 12ページ 「デブリ攻略 道のりはるか」から引用 原発事故は自動車事故などとは比べようもない大規模な事故で、しかも放射線被害という普段経験することのないやっかいな「災害」であるという位にしか、素人には理解ができていないのだが、政府と東京電力が昨年だったか、これまで地上に保管してきたALPS処理水をいきなり「海洋放出」すると言い出したときは、我々は単に「地上に保管するスペースがなくなったから海に流すのだろう」と思ったものですが、上のインタビュー記事を読むと、どうやらメルトダウンした炉心から取り出す「デブリ」等の高線量放射性廃棄物を保管するスペースを確保する目的だったらしいことが分かります。しかし、この記事から感じられるのは、当初の予定からは遅れているし、いつ頃からデブリの取り出し作業が始められるか、見通しもまだ立たない状況ではあるが、「しかし、やらなければならないのだ」という精神論だけで、今は頑張ってます、というような大変心もとない事態であることをひしひしと感じました。
2024年05月17日
自民党の裏金問題が持ち上がったとき、誰が言い出したのか安倍晋三が派閥の会長になった時に「裏金はもうやめよう」と提案したのだったというまことしやかな噂が流れたのであったが、そのことについて毎日新聞専門編集委員の伊藤智永氏は、4月27日の同紙コラムに次のように書いている; 安倍晋三元首相が存命だったら、自民党派閥の政治資金パーティー裏金問題はどうなっていただろう。自分は派閥を離れていたので知らなかったが、会長になって政治資金収支報告書に記載しない還流をやめさせた、長年の悪慣行をおわびすると頭を下げて案外乗り切っていたかもしれない。 東京地検特捜部が1月、安倍派・二階派・岸田派幹部の立件を全員見送り、「トカゲのしっぽ切り」で捜査に幕を引いた時、東京地検の新河隆志次席検事が記者会見で奇妙な説明をした。 捜査は、安倍派幹部と会計責任者の職員が共謀して億単位の不記載を続けたとする市民からの告発を受けて行われたと報じられてきたが、特捜部は告発を受理していないので、派閥幹部の立件そのものを見送り、そもそも不起訴処分にもしていないというのだ。 大半のメディアが黙殺する中、1月20日付本紙朝刊だけは見出しを立てて特筆した。「あくまで特捜部が独自に捜査する過程で今回の事件に広がった。告発に基づいて捜査したわけではないため、必ず不起訴処分にする必要はない」という検察幹部の解説を紹介し、「共謀の有無は、不起訴処分の当否を審理する検察審の対象外となる可能性がある」と組織防衛優先の姿勢に疑問を呈している。 一方、昨年末から流布しているのは2021年11月に派閥会長になった安倍氏が、22年4月に突然幹部を集めて英明にも裏金中止を指示したのに7月に殺されてしまい、残された派閥幹部が言いつけを守らず裏金作りを続けていたというストーリー。賢人の遺言を守らなかった愚か者は誰だ、と犯人捜しに関心が集まった。 還流は二十数年前からあったとの証言が有力だ。長く集金の看板だった安倍氏が何も知らなかったとは解せない。安倍氏は当時なぜ急に順法精神に目覚めたか。 地元支持者を「桜を見る会」に毎年招待し、報告書に記載しない裏金を費用の一部に充てていたとして、後援会代表の公設第1秘書が罰金100万円を命じられたのは周知の通り。20年9月に首相を辞めてから1年以上無役だったのは、自らの不起訴処分が検察審で不起訴不当議決され、再び不起訴となるのを待っていたからだ。 安倍氏は3度目の首相の座を狙っていた。「桜」の泥を辛うじて拭った直後、「裏金」の沼に足を取られたらそれも遠のく。自分は立件されなくても、取り巻きが親分の名声で数億円をむさぼっていれば、腐敗権力のシンボルには違いない。持ち上げすぎるのは考えものだろう。(専門編集委員)2024年4月27日 毎日新聞朝刊 13版 2ページ 「土記-安倍びいきの引き倒し」から引用 安倍晋三が存命だったら、自民党派閥の政治資金パーティー裏金問題はどうなっていたか。それは、他の自民党議員と同様に、自分以外の誰かのせいにして「自分は一切知らなかった」「秘書が勝手にやって、報告もしなかった」と言ったに違いないと思います。実際に、彼は「桜を見る会」問題のときにそのように検察官に説明して無罪放免になって、濡れ衣を着せられた秘書は罰金100万円を支払っている。しかも、最高責任者に無断で事務所のカネを違法な有権者接待に使ったことにされた秘書は、そのことで責任を問われて懲戒免職になることもなく、罰金100万円を支払った後もそのまま安倍事務所に勤務を継続したという「オチ」まで付いているのだから呆れる。そのような人物が何を血迷ったのか、「裏金はやめよう」と一度は口にしたかも知れないというのは、その裏にはまた何があったのかなかったのか、真相が明らかになるのは現役の安倍派幹部が引退するまで待つしかないだろうと思います。
2024年05月16日
経団連の十倉会長が「政治にはお金がかかる」と発言したことについて、4月24日の東京新聞は次のように報道している; 自民党の裏金問題に関して企業団体献金のあり方が問われる中、経団連の十倉雅和会長の23日の会見で、かつて経団連会長に就きながら清貧の生活ぶりで知られた土光敏夫氏と十倉氏との考え方の違いが鮮明になる場面があった。十倉氏は、企業団体献金の廃止を求める声が高まっていることについて「政治にはお金がかかる。(廃止するよりも)透明性を高め、ルールを守るという実効性を伴った制度にするかを与野党で議論すべきだ」と述べ、献金廃止に反対の考えを示した。 一方の土光氏は1974年に経団連会長に就任した際の会見で「政治にはお金がかかる」と述べたうえで「だが、お金をかけすぎると民主主義を破壊する」と強調。造船疑獄で自らが逮捕された経験もあり、「企業は政治献金をすべきではない」を持論として経団連が政治献金に関与しないよう政治改革に全力で取り組んだ。 こうした土光氏の例を記者から質問された十倉氏は「私も、政治にお金がかかるからといってなんぼでも(献金を)出すというのではない。政治にお金がかかるという根源的な問題をどうとらまえるか、国会で議論をしてほしいということだ」とあくまでも廃止論と距離を置いた。(久原穏)2024年4月24日 東京新聞朝刊 12版 6ページ 「経団連会長『政治にはお金かかる』」から引用 金がかかるのは政治に限ったことではなく、商売でも芸術でもスポーツでもなんでも何かやろうとすれば金がかかるのは当たり前の話だ。そして、国会では「政治には金がかかるから」というので税金から必要な金をだすことに話し合いの結果、なったわけで、国会で決めた範囲内の金で各党とも活動をすれば、別に何の問題もないのである。しかし、そのようにして話し合いで決めた「政治資金」だけでは足りないのが自民党で、何故足りないのかと言えば、自民党という政党は他の立憲民主党や共産党のように「働くみなさんの生活向上のために頑張ります」という、多くの有権者の気を引くような「思想」や「スローガン」というものがなく、実際にやることと言えば大企業への減税と、その穴埋めとしての庶民への課税という「悪政」だから、いざ選挙となると、「思想」や「スローガン」を訴えることが出来ず、仕方がないから有権者を集めては飲ませ食わせるということをやるしかないわけで、しかし、それは法律が禁じている「買収」行為だから、政治資金報告書には「有権者に提供した飲食費」などと書くわけにもいかず、いきおい報告書には記載しないという「違法行為」をするしかない、これが自民党だということを、私たちはしっかり認識し、こういう違法行為をする団体に政権を任せておいていいのか、真剣に考えるべき局面にきていると思います。
2024年05月15日
岸田首相が訪米して、国会が承認したわけでもない「防衛方針」をバイデン大統領と話し合って勝手に共同声明を出したことについて、防衛ジャーナリストの半田滋氏は4月21日の「しんぶん赤旗」に、次のように書いている; 10日に発表された日米共同声明をどうみるか――。防衛ジャーナリストの半田滋さんに聞きました。(田中一郎記者) 岸田政権は2022年12月に敵基地攻撃能力の保有を盛り込んだ安保3文書を閣議決定しました。その中で敵基地攻撃能力について、「日米共同でその能力をより効果的に発揮する協力態勢を構築する」(国家防衛戦略)ことを決めました。 今回の日米共同声明は、その具体化です。 焦点の「指揮・統制の枠組みの向上」(共同声明)について、その具体的中身の検討を日米は進めています。 日本側は陸・海・空の3自衛隊を一元的に指揮する統合作戦司令部を創設する計画です。それに対応する米軍側の態勢がどうなるか。現在の在日米軍司令官は米空軍の中将が務めていますが、陸・海・空・海兵隊を統合指揮する権限はなく、平時で「思いやり予算」などを日本側と調整する行政官に近い役割を擅っています。その司令官を格上げして統合指揮が可能な大将にするなどの案が報じられています。 問題は、こういった組織がどうなるかより、米軍と自衛隊がどういう戦略、戦術を進めようとしているのかです。◆報復で日本に壊滅的被害も 敵基地攻撃能力保有の理由とされているのは、周辺諸国のミサイル戦力の増強です。迎撃して撃ち落とす「ミサイル防衛」だけでなく、相手のミサイル基地への攻撃も必要だというものです。 米軍は統合防空ミサイル防衛(IAMD)として、ミサイルの迎撃と敵基地攻撃を組み合わせたシステムを推進しています。「統合抑止」の名で、これに日本を含む同盟国も組み入れようとしています。 北朝鮮のミサイルは10分程度、中国からは12~15分程度で日本に着弾するとみられます。 その対処の際にIAMDに参加した日本が「ミサイルが飛んできたので敵基地攻撃をどうしましょうか」と米軍と協議している余裕はありません。相手国のミサイル基地などの情報は圧倒的に米軍が握っていますから、「相手国のどの基地にトマホークを撃て」といった米軍の指揮のもとで自衛隊がトマホークを撃つということにならざるをえません。 日本には憲法9条があり、自衛隊の武力行使は「必要最小限度」という定めがあります。しかし米軍には、そんな制限はありません。米軍の指揮下に入れば、米軍の都合でどこまでも敵基地攻撃はエスカレートするでしょう。そうなれば相手からの報復攻撃で日本は壊滅的被害を受けることになりかねません。 米国から見れば、敵基地攻撃の一部を自衛隊が担い、報復攻撃による被害も分かち合い、その分米側の被害も少なくて済みます。 5年間で43兆円の軍事費を決めた安保3文書のもとで米国製兵器の爆買いもさらに進めようとするでしょう。岸田政権は”宗主国”のアメリカ様のために国民の命もカネもささげようとしています。だから米国は岸田首相を国賓待遇で迎えたのです。「売国奴」と批判されても仕方ないといいたいですね。2024年4月21日 「しんぶん赤旗」 日曜版 7ページ 「圧倒的情報握る米軍 日本はただ従うだけ」から引用 政府が敵基地攻撃能力が必要だと考える理由が「周辺諸国のミサイル戦力が増強されているから」とのことであるが、文言だけで判断すればこれはまるで子どもが思いつくような屁理屈である。中国や朝鮮の核ミサイルが日本を恫喝する目的で準備されているとは考えられない。中国や朝鮮にしてみれば、日本を恫喝して敵対するよりは、平和な外交を基にして通商関係を構築するほうがはるかにメリットが大きいことは明らかである。しかし、それでは満足できないのがアメリカで、自国の軍需産業を儲けさせるには世界のどこかで「戦争」をしなければならない「運命」を背負った国だから、そんな国と「安保条約」などを結んだのが間違いの元だったのだ。今からでも遅くはない。日本は、憲法の平和主義に立ち返って、安保3文書の無効を宣言するべきだ。日本に米軍基地を置いて国土防衛の手段にした時代は、東西冷戦の消滅と同時に終わったのだから、日本はアメリカに対して日米安全保障条約の終了を通告し、国内のすべての米軍基地を直ちに返還するよう要求するべきだ。それが実現した暁には、中国や朝鮮も米軍に無駄な神経を使うこともなくなり、ASEANのような近隣同士の安全保障体制を築くことも可能になると思います。
2024年05月14日
安倍派の議員だけ処分して、自分と二階議員の件は知らん顔という岸田首相の裏金問題への対応について、元自民党議員の三ツ矢憲生氏は4月21日の東京新聞で、次のように発言している; 自民党派閥の政治資金パーティー裏金事件を受け、党が処分した議員のリストに、岸田文雄首相や二階俊博元幹事長らの名前はなかった。公平さに欠ける内容に党内外から不満が噴出。共同通信社が13~15日に実施した全国電話世論調査でも、首相が処分されなかったことに「納得できない」と答えた人が78・4%に上った。こうした状況を首相の元側近はどう見ているのか。岸田派(宏池会)に所属していた三ツ矢憲生元衆院議員(73)に聞いた。(坂田奈央)――首相は自身を処分しなかった。 「おかしいと思う。裏金事件は安倍派と二階派だけの問題だと、人ごとみたいになってしまっている。岸田派も不記載のお金が3千万円以上あった。さらに元会計責任者は立件された。『事務的なミス』で3千万円とは、ちょっと常識的には考えられない」――岸田派会長だった立場としての責任もあると。 「あると思う。例えば短期間でもいいから総裁を辞めると言うべきだった。党の役職は停止しても、首相を続けることは可能だから。トップは何かあった時に責任を取るためにいる。潔さとか覚悟が感じられないのは残念だ」――他の議員への処分内容をどう見るか。 「離党勧告や党員資格停止は、その間に選挙があれば『実害』があるのだろうが、それ以外はほぼ影響がなく、実質的な処分になっていない。そもそも肝心の真相が究明されていない。裏金が何に使われていたのかが一番肝だ」――選挙の年に裏金の額が多かった。 「地方議員も含めて自民党という組織の、特に選挙時の対処が関わる話ではないか。普通の選挙はすべて表の金でやれるはず。それができないことをやるから、ああいう格好(還流)でやったんじゃないか」――政治への信頼を回復するためにやるべきことは。 「政治改革だ。だが私に言わせれば政治資金規正法すら守っていないだけの話。だから罰則の強化を考えた方がいい。法律に限らず大臣規範も守っていない。岸田さんは首相になってから(2022年に)パーティーを7回もやって1億何千万円も集めた。『勉強会だ』と言うが、詭弁(きべん)だ。自分たちがルールを守らないのに、国民がついてくるはずがない」――首相は「国民、党員が判断する」という言い方をしている。 「選挙で判断してもらうという意味だとしか考えられない。他に国民に判断する材料はないのだから」<みつや・のりお> 1950年、三重県伊勢市生まれ。東大教養学部卒業後、75年に旧運輸省(現国土交通省)入省。 2003年衆院選に自民党の藤波孝生元官房長官の地盤を継いで旧三重5区(現在は三重4区)から出馬し初当選。 21年まで6期務めた。2期目から、岸田文雄首相が最後の会長を務めた「宏池会」に所属。財務政務官、外務副大臣、自民党政調会長代理などを歴任。2024年4月21日 東京新聞朝刊 12版 3ページ 「裏金『首相の処分 必要』」から引用 この記事で、元議員の三ツ矢氏は至ってまともな意見を述べているが、これはすでに引退した議員だから言えるのであって、現職でこのような発言をしたのではすぐに懲罰の対象にされて、次の選挙では公認してもらえないとか、すさまじい圧力が加えられるのが自民党なのだろうと思います。三ツ矢氏が言うように、岸田氏も自分の「裏金問題」をも、安倍派議員同様に処分の対象とし、「党の役職停止、1か月」とか恰好をつければ、少しは世間の評判も良くなったであろうと思いますが、いかんせん彼にはそんな度胸はなく、このままずるずるとぬるま湯のような政治状況が続くのは残念なことです。
2024年05月13日
当ブログの5月2日の欄に引用した小池都知事の学歴詐称問題を論じた前川喜平氏のコラムの続編が、4月21日の東京新聞に掲載されて、前川氏は次のように論証している; 先週の本欄で僕は、小池都知事の学歴詐称とその隠蔽工作の疑惑について、メディアがカイロへ行って真相を確かめるべきだと書いたが、問題はそう簡単ではなく、もっと複雑かつ重大だということが分かってきた。 日本のメディアがカイロ大学に取材しても、おそらく「小池は卒業した。声明は大学が出した」と答えるだろう。この問題を追及してきた作家・黒木亮氏によれば、同大学と小池氏は「同じ穴のムジナ」であり、彼女の卒業証書は「プレゼントの証書」なのだという。エジプト通のジャーナリスト・浅川芳裕氏によれば、彼女が「エジプ卜のパパ」と呼ぶ軍閥政治家・ハーテム氏の権力による「超法規的な卒業証書」だという。 小島敏郎氏は記者会見で、問題は通学や試験の実態、成績証明書、同級生などを含む「卒業実態」の有無だと強調した。僕の言葉で言えば小池氏は「裏口卒業」なのだ。それは北原百代氏が証言する小池氏の「学業」の実態や、アラビア語に通じた黒木氏が小池氏のアラビア語を「大学教育を受け、試験を突破できたとは到底思えない」と評していることからも十分推認される。 重大なのは、小池氏がエジプト政府とカイロ大学に「生殺与奪を握られている」(浅川氏)ことだ。それは「大きく国益を損ねる状態」(小島氏)なのである。(現代教育行政研究会代表)2024年4月21日 東京新聞朝刊 11版 17ページ 「本音のコラム-政治家小池百合子の命運(2)」から引用 エジプト政府の高官が東京都知事の弱みを握っているというのは、確かに由々しい事態と言えるかもしれないが、要は小池都知事は「裏口卒業」で「自分は大卒」と言ってるとのことだから、そういう手合いは自民党には山ほどいるのではないかと推察されるから、「公職選挙に立候補して、学歴を詐称するのは犯罪だ」と大上段に構えた立場からすると、実に「拍子抜け」である。「裏口卒業」のもっとも典型的な事例は安倍晋三氏で、彼は成蹊大学4年のとき、卒論ゼミに只の一度も出席しなかったため、担当の教授は彼に卒論の「単位」を認めなかったので、当然彼は留年するだろうと思っていたら、なんとその年の3月末に発表された卒業生名簿に立派に名前が記載されていたので驚愕したと、週刊金曜日の取材に応えて話した記事を、このブログにも引用した記憶があります。「裏口卒業」をした人物が、2度も総理大臣になるのが日本の「実情」なのだから、都知事になるくらいのことは「朝めし前」と言ったところなのだと思います。そんなことよりも、今日のXでは、小池都知事の定例記者会見があったのに、どの新聞の記者も先日の補選で小池氏が押した乙武洋匡氏が落選したことに関する質問を一切しなかったのは異常だと、フリーのジャーナリストが訴えていたが、そういうメディアの変な「遠慮」のほうが、この国を変な方向に導く危険性をはらむ大問題ではないかと思います。
2024年05月12日
押入れを整理していると、10年前の「週刊金曜日」が出てきた。そこには、当時編集委員だった佐高信氏が当時の日教組を批判して、次のような巻頭コラムを書いていた; 6月13日、山形県の小学校長会で講演した。演題は「いま、日本を読む」。講師紹介には『週刊金曜日』編集委員、とある。地元だから頼まれたとも言えるが、2006年11月17日号の本欄で「委員長不在」と批判してから、ほとんど接触してこない日教組本部と比較して考えるところがあった。 一般的に労働組合の(特に幹部の)集まりに呼ばれて話す時より、経営者の会で話す方が雰囲気がいい。 いつか、同じく本誌の編集委員だった椎名誠から、労働組合に呼ばれて話していたら、うるさかったんだけれども、ああいう時は怒っていいんですか、と尋ねられた。 それで私は、厳しく注意して下さい、と言ったのだが、聞く雰囲気でないことが少なくない。後ですむ連絡を、目の前で事務局がこそこそやっていることもある。 それと比較すると、経営者は貪欲に聞こうとしている。現状に危機感を抱き、何か変えようと思っているからだろう。 しかし、労組の幹部、とりわけ日教組本部の幹部は危機感が薄く、変えようとする姿勢は見られない。負けているのに、なお守り続けているサッカーチームのようだ。 だから、私の批判を厳し過ぎると思い、敬遠するのだろう。たとえば、原発を本気でなくしたいなら、日教組(と自治労)は連合から脱けろと私は主張しているが、そうしなければ、日教組(と自治労)は原発に賛成しているのと同じになってしまう。そこをあいまいにして、連合は原発に反対していないとしても、自分たちは個人的には反対だなどというごまかしは通用しない。 8年前に日教組は「教育基本法改悪阻止」を掲げて闘っていた。しかし、日教組が組織として推す民主党は完全に腰砕けだった。衆議院の教基法を審議する委員会の民主党議員で、真っ向からそれに反対する議員はいず、自民党顔負けの「愛国」論議を展開する議員ばかりで。驚きを通り越して呆れてしまったのを覚えている。 それで、本欄にこう書いた。 「民主党の議員の中にはそうした人も少なくないからと言えばそれまでだが、なぜ、日教組は民主党に働きかけて、まともな議員に変えさせようとしなかったのか。公明党が”下駄の雪”のように自民党にくっついているのと同じく、日教組は民主党の”下駄の雪”になってしまったのか」2014年6月20日 「週刊金曜日」 996号 9ページ 「風速計-校長会と日教組」から引用 日教組がまともな組合活動をしていた頃は、組合出身の国会議員がいたりしてそれなりに社会的な存在意義をアピールしていたのであったが、「連合」が発足したころから活動の様子がおかしくなり、教職員が時間外労働を強いられても普通の労働者のような時間外手当を支払わなくてもよいという変な法律が出来たり、教育実習に来た学生がびっくりするような長時間労働を改善しようとする動きもなく、正に負けている試合にも関わらず単にゴールを守ることしかしないサッカー・チームのような事態が10年前から始まっていたのであった。しかし、そういう矛盾した事態をこれからも続けるのではなく、少なくとも「原発反対」の「旗」をおろさないのであれば、せめて「連合」からは脱退するくらいのことは実行して、足元の矛盾の解消からスタートして、やがては世の中の矛盾解消の「道」へ歩を進めてほしいものです。
2024年05月11日
陸上自衛隊の公式Xが「大東亜戦争」という呼称で投稿した問題に関連して、歴史家で学習院大学教授の井上寿一氏は自衛隊発足当初から旧陸海軍で要職を務めた人物が影響力を行使してきた事実について、4月20日の毎日新聞に次のように書いている; 今月5日、陸上自衛隊第32普通科連隊の公式X(ツイッター)が、さきの大戦を「大東亜戦争」と呼称したことで議論を引き起こした。9日の記者会見で木原稔防衛相は、政府が公文書で「大東亜戦争」と使用することは原則としてない旨を述べた。それにもかかわらず、自衛隊ひいては防衛省の歴史認識が問われることになった。 1月8日には陸上自衛隊の高級幹部数人が公用車で東京・九段北の靖国神社を訪れ、制服姿で参拝した。旧陸軍将校と元陸自幹部による組織、偕行社の新春賀詞交換会に出席した際のことだった。翌9日にも今度は陸上自衛隊の「航空事故調査委員会」の幹部が靖国神社を参拝している。参加は強制ではなく、私人としての参拝だったとの説明にもかかわらず、不信を招く行動として批判された。 一部の自衛隊の関係者ではあっても、なぜさきの大戦を「大東亜戦争」と呼び、靖国神社を参拝しているのか。自衛隊の創設時にまで歴史をさかのぼって考える。 戦後日本の再軍備過程における旧軍人の関与はよく知られている。たとえば吉田茂首相(当時)の顧問の辰巳栄一元陸軍中将や、服部卓四郎元陸軍大佐であり、あるいは陸海軍の大将・中将クラスの旧軍人が衆参両院の国防族議員となって、影響を及ぼしていた。 彼らにとってさきの大戦とは「大東亜戦争」のことであり、靖国神社の参拝に何の疑問も抱いていなかったにちがいない。警察予備隊から警備隊、自衛隊の創設は、旧陸海軍の復活と言っても過言ではない。このように旧軍と自衛隊は強く結びついていたとわかる。 他方で関係者のなかには「大東亜戦争」を肯定するだけでなく、反省する旧軍人もいたことに注目したい。たとえば敗戦直後に幣原喜重郎内閣によって設置された政府機関の戦争調査会において、岡田菊三郎元陸軍少将が「世界から言わせれば悪いことをしたのかもしれないが、悪いことは悪いなりに、何とかもっと上手にできなかったか」と帝国陸海軍の戦争指導を批判している。あるいは偕行社の雑誌「偕行」連載「証言による『南京戦史』」最終回(1985年3月号)で、編集部執筆責任者の加登川幸太郎元陸軍中佐が南京事件をめぐって「中国人民に深く詫(わ)びるしかない」と記している。 しかし旧軍との連続性を持つ自衛隊に対する国民世論の警戒感は強かった。自衛隊創設(54年)後の50年代における世論調査によれば、再軍備は賛成よりも反対の方が上回っている。さらに70年代の革新自治体の時代になると、革新首長は「自衛隊は憲法違反だから市民ではない」として、自衛官とその家族の住民登録を拒否したり、自治体主催の成人式に自衛官を出席させなかったりした(佐道明広「自衛隊史論」)。 平和な時代の軍人は肩身が狭い。第一次大戦後、国民に軍人蔑視の感情が高まった。青年将校の結婚難、徴兵忌避者の続出、「カーキ色の服は往来でも電車の中でも」「国民の癪(しゃく)の種」になっていた(岡義武「転換期の大正」)。 第二次大戦後も同様である。「70年安保」の頃のフォークソング「自衛隊に入ろう」(高田渡)は風刺ソングだった。自衛隊の社会的な地位は低下した。このような状況のなかで旧軍人がさきの大戦を反省的に振り返ることは困難だった。旧軍人の一部の「大東亜戦争」批判が共有されることはなかった。 年月の経過とともに、世代交代が進む。偕行社においても旧軍人に代わって、直接の戦争体験を持たない元自衛官が主流になる。元自衛官のなかには旧軍の「謂(い)われある汚辱を反省」する志向もあった。しかし旧軍と自衛隊の「誇り」を取り戻すとの目標を掲げたことで、偕行社の戦争認識は「歴史修正主義」に接近する(角田燎「陸軍将校たちの戦後史」)。 今年1月の靖国神社参拝と4月のX投稿の「大東亜戦争」の背景にあったのは、以上のような自衛隊をめぐる戦後史だった。 今日では国際安全保障環境の緊張もあって、国民の意識は変わっただろう。内閣府の世論調査(2023年3月)によれば、自衛隊に「良い印象を持っている」32・3%、「どちらかといえば良い印象を持っている」58・5%となっている。 ところが自衛隊の役割への期待は「国の安全の確保」78・3%よりも「災害時の救援活動」88・3%の方が上回る。ここには自衛隊の本務と国民の意識との間に微妙なずれがある。 このギャップを埋めるにはどうすべきか。国民レベルで自衛隊の本務への理解を促しながら、自衛隊も政治的な中立性から逸脱することなく、近代日本の戦争指導を批判的に振り返り、歴史認識を深めることが求められている。(第3土曜日掲載)◆井上寿一(いのうえ・としかず)1956年生まれ。学習院大教授(日本政治外交史)。同大学長など歴任。著書「矢部貞治」など。2024年4月20日 毎日新聞朝刊 13版 8ページ 「近代史の扉-『大東亜戦争』と靖国」から引用 この記事が言うように、70年代の世論は戦争で酷い目にあったという記憶がまだ鮮明に残っていたから、国防上の必要などと言っても所詮は「武装集団」は戦争の道具であって、そんなものはなければ、それだけ国民も無駄死にを強要される確立も下がるという合理的な判断があり、国民の自衛隊に対する視線は冷たいものであった。それが、近年「良い印象を持っている」という「反応」が増えたのは、「国防の上で頼りになるから」という積極的な印象ではなく、災害時の救援活動に好感をもつというだけのことで、世論を正確に政治に反映させるのであれば、自衛隊は武装を解除して「災害救助隊」に名称も目的も変更して、国内に限定せず近隣諸国の災害にも対応するという組織にすれば、東アジアの平和に、積極的に貢献できるわけで、これが本当の「積極的平和主義」というものであろうと考えます。
2024年05月10日
イスラエルがシリアのイラン大使館を空爆し、それに対する報復としてイランがイスラエルをドローン攻撃したことについて、文筆家の師岡カリーマ氏は4月20日の東京新聞コラムに、次のように書いている; 在シリアのイラン大使館がイスラエルによるとみられる攻撃を受け、イラン革命防衛隊高官を含む軍事関係者などが死亡(民間人の死者も出た。自分たちの住む街で普段通りの日常を送っていた人たちだ)。イランはこの挑発に乗ることなく、「イランのイスラエル攻撃が近い」と繰り返すアメリカに肩透かしを喰らわせれば格好が付いたのに、報復を息巻く傘下の民兵集団らの内圧に耐えられなかったらしく、大規模なミサイル・ドローン攻撃を仕掛け、ほとんどが撃ち落とされた。ほぼ実害のない攻撃は意図的だったのだろうが、イスラエルに被害がなくても、パレスチナが間接的に被った害は甚大だ。 案の定、ガザでの殺戮(さつりく)により国際的圧力にさらされていたイスラエルは「敵に囲まれた永遠の被害者」役に返り咲き、それを容認する偽善が露呈して形勢が悪くなっていた「主要先進国」たちも再び道徳的優越感に浸れる新展開に喜々として、ガザでのジェノサイド関連ではついぞ聞かれなかった「制裁」という言葉を早くもイランに対しては振りかざす。今もガザでは1日に100単位の市民が死傷しているのに、加害者はこれで悠々と被害者ヅラできる。この罠(わな)にはまるも地獄、はまらぬも地獄の状況を自ら作ったのはイランだ。そして今度はイスラエルがイランを攻撃との報道。愚の応酬が、罪なき民の命を弄ぶ。(文筆家)2024年4月20日 東京新聞朝刊 11版 21ページ 「本音のコラム-愚の応酬」から引用 今、イスラエルがガザの住民に対してジェノサイドを行っているのは、ハマスがイスラエル市民のコンサート会場にミサイルを撃ち込んがことが原因で、それに対する報復という「建前」でイスラエルはガザに軍隊を派遣しているのだが、イスラエルの軍隊によるパレスチナ市民の殺害はハマスのミサイルによるユダヤ人犠牲者数をはるかに超えており、イスラエルは明らかに「やり過ぎ」なのだから、ここは当然、イスラエルに対して武力行使を止めろと言わなければならない状況です。しかし、バイデン大統領他、多くのアメリカの政治家は莫大なユダヤ人の政治献金で選挙に勝って今日がある政治家だから、イスラエルに対してはこれっぽっちも「NO」とは言えない、情けない奴らなのだ。アメリカの政治家は、このように「金づる」という弱みがあるからと「理解」できるわけだが、ドイツの場合は理解が難しい。ドイツでは、正義感あふれる若者は「イスラエルはやり過ぎだ。止めさせなければならない」と叫んでデモをすると、政府も大新聞も「イスラエル批判はイコールユダヤ人差別だ。許されないことだ」と言って、警察はデモ参加者を逮捕する。人命尊重の考えはかけらもない、倒錯した考えが何故、堂々とまかり通るのか、まったく理解できません。
2024年05月09日
株式市場では株価が史上最高を更新していることについて、4月28日の「しんぶん赤旗」は次のように論評している; 株式市場は、日経平均株価指数が2月22日にバブル期の最高値を超え、3月4日には史上初めて4万円台となり、その後も3万7千円台の株価が続いています。庶民の暮らしは物価咼騰で苦しいのに、なぜ株価だけが上がったのでしょうか。 ◆ ◆ ◆ アベノミクス(安倍政権の経済政策)以来、10年以上も続く超低金利で、預貯金などに比べて株の利回りが相対的に有利となり、株価上昇につながってきました。日銀は「マイナス金利政策」をやめることを決めましたが、低金利政策それ自体は当分続ける方向です。これが株式投資を促進しています。 日米の金利差を要因とする円安も株高の一因です。グラフのように、アベノミクスが始まった2012年末に比べて株価は4倍近くにもなっています。この間に「円安・ドル高」が進んだため、ドル換算でみると2・6倍程度にしかなっていません。海外投資家にとって日本株はまだ「割安」なため、海外投資家の日本株購入が増え、これが株価を引き上げています。 大企業は史上最高益を更新したうえ、その利益を賃上げに回すのではなく、配当や「自社株買い」による株主還元を強めています。23年度は、エネルギー取引などで大もうけした三菱商事が8000億円もの自社株買いを決めたのをはじめ、千社近い上場企業が自社株買いを決め、合計は過去最高の10兆円超となっています。企業が自社の株を買えば、市場に出回る株数が減りますから、その分、1株当たりの価格は上昇します。 ◆ ◆ ◆ 生成AI(人工知能)などの新技術への期待から、半導体をはじめとしたIT企業などの株価が上昇し、アメリカの株価も史上最高値を更新しています。この影響が日本にも現れているという事情も重なっています。 「NISA」(少額投資非課税制度)が今年から改定され、これまでの非課税期間の制限がなくなって長期投資が可能になり、上限額も引き上げられたことで、個人の株式投資が増えると予想されていることがあります。 いまの株高は、決して国民の暮らしや日本経済が良くなった結果ではありません。むしろ、株高の要因となっている円安は物価高騰で暮らしを圧迫し、消費も冷え込む一方です。アメリカの株高についても「バブル」との指摘も出ており、いつまでも続くわけではありません。株高の要因のいくつかが失われれば、再び株価が大きく下落する可能性があります。 ヘッジファンドなどの大口投資家は、借りた株を高く売っておいて、株価が下がってから買い戻す「空売り」という手法で、株価下落局面でももうけをあげられます。海外の投機マネーは、日本株の下落を虎視眈々(こしたんたん)とねらっているともいわれます。 NISA拡充を機に株式投資を勧める宣伝も多く見られます。素人が株高局面で投資を始めれば、投機マネーに食い物にされ、株価下落で大きな損失を被るおそれもあるので注意が必要です。<垣内亮(かきうち・あきら)日本共産党政策員会>2024年4月28日 「しんぶん赤旗」 日曜版 30ページ 「経済これって何-株価、なぜ史上最高値に」から引用 日本がまともな経済成長をしていた頃は、サラリーマンの給料も順調にベースアップされて、普通のサラリーマン家庭には自家用車にクーラーにカラー・テレビがあるのが当たり前で、証券会社もしきりにコマーシャルを流していたものだったが、昨今の「株高」はかつてのような「景気の良さ」に裏打ちされたものではなく、日銀の政策金利や為替差益が要因で起きている現象ですから、「史上最高値」などという言葉に浮かれている場合ではありません。企業が利益を上げたのであれば、そこに働く労働者は当然の見返りを要求して所得を増やし、消費活動を活性化して社会全体の経済成長に貢献する、そのようなサイクルを実現するべきだと思います。
2024年05月08日
先の大戦で米軍の空襲を受けた名古屋市では、名古屋城の天守閣が消失した他、多くの市民も空襲被害に巻き込まれて犠牲となったのであったが、その犠牲者を追悼し平和を大事にしようという趣旨の「なごや平和の日」を市の条例で制定したことについて、河村たかし市長は何かピントのずれたコメントをしたと4月23日の朝日新聞が報道している; 名古屋市の河村たかし市長は22日、市が条例で定めた「なごや平和の日」の意義を問われ、「(戦争で)死んでいった人たちに思いを寄せないといけない」と述べたうえで、「祖国のために命を捨てるのは高度な道徳的行為だ」と発言した。 河村氏はこの日の記者会見で、空襲で名古屋城天守が焼失した5月14日を「なごや平和の日」に制定し、平和を祈念する式典を開催すると発表した。その際、戦闘が続くウクライナやパレスチナ自治区ガザに言及。「国に命を捧げるのは、大変勇気のあること。『サンキューベリーマッチ』と言わなきゃ、みんなの福祉も平和も保てないんじゃないんですか」と持論を展開した。 さらに、学校現場でもこうしたことを「一定は考えないといけない」と主張。「国が守られるのは当たり前であるとの考え方は、日本にものすごい不幸を導く」と強調した。 ただ、河村氏は会見終了直後、記者団に「(命は)捨てない方がよい。誤解してもらってはいけない。『捨てよ』とあおっているわけではないが、残念ながら戦争は起こる」と釈明した。(寺沢知海)2024年4月23日 朝日新聞朝刊 14版 27ページ 「祖国のために命を捨てるのは道徳的行為」から引用 河村たかしという人物は、いつもこういう馬鹿げた事件を起こすが、この人のどこが気に入って名古屋市民は市長に選ぶのか、まったく理解に苦しみます。「なごや平和の日」条例案にしても、市議会が市長のいない所でひそかに審議したわけではないだろうに、彼の頭の中では空襲の犠牲者は「国を守るために、自分の命を差し出して敵と戦った」という文脈を勝手に作り上げて、「祖国のために命を捨てるのは道徳的行為」と、ありもしない作り話をでっちあげて得意になっている。名古屋であれ東京であれ、国を守るために「敵と戦った」わけではなく、為政者の失政のせいで生活圏に敵機が侵入し焼夷弾を投下して大火を起こし、多くの国民が命を失った事件です。それを、「為政者の失政の責任」を棚上げして、空襲で命を失った市民を「祖国のために命を捨てた」などとありもしない「美談」に仕立て上げるのは、死者に対する冒とくであり許されない発言です。そもそも、先の大戦は、中国侵略を始めた日本に対し、「侵略を止めるように」と呼びかけた欧米諸国に対し、その呼びかけを無視して侵略戦争を進めた日本に、今度は経済制裁と称して石油や鉄鋼の輸出禁止という「経済制裁」を発動したために、それではと言うので、こんどは東南アジアに進軍して支配下に置くという「戦争」でした。このような「侵略戦争」で近隣諸国に被害をもたらした戦争の、どこに「高度な道徳的行為」があると言うのか。川村たかしの道徳論は、完璧に破綻してると言うほかありません。
2024年05月07日
2000年代の日本では、それまで「上下・主従」の関係だった国と地方自治体の関係が、地方自治法の改正によって「対等・協力」の関係に変わり、国から地方への財政支援などもそれぞれの地域の実情に合わせたきめ細かな支援が可能になったわけであったが、最近の全国知事会の様子はかつての積極的な姿勢が失われ、下手をすると国の言いなりになりそうな危惧を感じると、沖縄タイムスの阿部岳・記者が4月19日の「週刊金曜日」に書いている; 日本維新の会だけがまともなことを言っている。この事態を、どう考えるか。「沖縄タイムズ」と「朝日新聞」が今月、沖縄を除く46度道府県知事への合同アンケート結果を報じた。沖縄駐留米軍の受け入れに関する質問に、大阪府の吉村洋文氏(維新共同代表)は「国から要請があった場合は市町村とも協議していく」と応えた。 維新は橋下徹氏が共同代表だった2013年にも、米軍輸送機オスプレイの訓練の一部を大阪府の八尾空港で引き受ける考えを示したことがある。地元が反対し、立ち消えになった。 今回の吉村氏はもっと慎重で、受け入れ意志の有無は選択肢を選ばず無回答。自由記述で、打診があればいったん検討すると答えたにすぎない。それだけで目立つのは、残りの45氏が全員、受け入れの「意志はない」と言い切るか無回答だったからだ。 45氏の中には、国政野党の支持を受ける知事もいる。だが、誰かが日米安保体制に反対しているという話はない。米軍基地の必要性も認めている(沖縄の玉城デニー氏もそうだ)。 問題は、基地の70%が沖縄に集中していること。圧倒的不平等を是正する再配置の話がくるなら、吉村氏のように少なくとも検討するのが筋ではないか。安保体制の「恩恵」を享受しながら「負担」を言下に拒否する45氏は、この点において新自由主義とパフォーマンスの維新政治にも劣る。「国と沖縄の間でどうにかしておいて」という本音を隠す定番の言い訳は「外交、防衛は国の専管事項だから」。今回の調査でもそう記す知事が目立った。しかし、外交と防衛が一義的に国の責任だとしても、その過程で住民の生命、財産、人権が脅かされるなら、抵抗することはむしろ自治体の責務であるはずだ。 だから沖縄県は辺野古新基地建設に反対し続けている。一方、国はあらゆる脱法的手段を駆使し、司法のお墨付きを得た。最終的に昨年末、史上初の代執行で県の権限を奪い、自ら工事続行を認める手続きをした。 この代執行について聞くと、岩手県の達増拓也氏だけが「どちらかといえば不適切」と答えた。「どちらともいえない」が25氏、「無回答」が17氏。「適切」も青森の宮下宗一郎、秋田の佐竹敬久、群馬の山本一太の3氏いた。圧倒的多数が静観している。 2000年の地方分権一括法で、国と地方の関係は「上下・主従」から「対等・協力」に変わった、はずだった。沖縄県が再び国の「下」「従属的立場」に置かれた今、他府県は国と「対等・協力」な関係でいられるだろうか。 今国会に、地方自治法改正案が提出されている。非常事態の際、国が地方に指示を出して従わせることを可能にする。今でも感染症法など個別法に指示の仕組みがあるが、それを無限定に広げるものだ。 この地方自治の危機に、全国知事会は驚くほどおとなしい。指示の必要性に「理解」を示し、「必要最小限度」にするよう提言して終わっている。 2000年代の「闘う知事会」は歴史のかなだ。沖縄の自治破壊を座視してきた「闘わない知事」たちは、日本全体の自治破壊もまた、見過ごそうとしている。<あべ・たかし>沖縄タイムス記者。2024年4月19日 「週刊金曜日」 第1469号 12ページ 「阿部岳の政治時評-『闘わない知事』たち、地方自治破壊を座視」から引用 日ごろはアンチ・リベラルな発言とパフォーマンスで票を集める維新の会も、米軍基地問題に対する「対応」は、全国知事会の中では目立って、人として正しい「言動」をしているように思えます。日本の国土面積の1%に満たない沖縄県に、在日米軍基地の7割が集中していて、その米軍基地が日本にとって安全保障上必要というのであれば、それを沖縄県にだけ押し付けるのは不公平以外の何ものでもありません。逆に言えば、沖縄県民にも他の県民同様に基地の騒音に悩まされずに暮らす権利があるのですから、「米軍基地は必要」と言いつつ「地元に米軍基地を誘致する気はあるのか」との問には「No」と答えたり無回答だったりするのは、人間として如何なものかと思います。私は個人的には、米軍基地は日本にないほうが東アジアの緊張緩和に役立つと思うので、即刻日米安保条約の破棄をアメリカに通告するべきだと思います。もともとアメリカが日本に軍事基地を置いたのは、スターリン時代のソ連が勢力圏を武力で拡大する政治的方針を掲げていたことに対応することが目的だったのであり、「日本防衛」は単なるリップサービスに過ぎないものだったと思います。今は、そのような敵対勢力も消滅し、ウクライナに侵攻したロシアはNATOの東方進出を阻止するのが目的であり、朝鮮人民民主主義共和国のミサイル実験はアメリカとの話し合い実現のための「圧力」が目的であり、日本のような近隣諸国を武力侵攻するのが目的というわけではありません。したがって、「国防」に必要なのは専守防衛の自衛隊であって、米軍並みの「世界の警察官」が必要なわけではありません。日本は平和憲法の精神を実現するために努力することが、世界の平和に貢献する道だと思います。
2024年05月06日
裏金事件をテキトーにごまかして訪米した岸田首相は、アメリカ政府のいいなりの共同声明を発表し、それを日本記者クラブで元駐米大使の杉山晋輔が解説したことについて、毎日新聞専門編集委員の伊藤智永氏は4月20日の同紙に、次のように書いている; 「米国と一緒にいることの覚悟が示された。同盟とは、守るべきものを共に守るために戦うこと。必要なら銃を取ってでも、命を懸けてでも守ることである」 岸田文雄首相の米議会演説と日米共同声明の意味を、杉山晋輔元駐米大使は17日、日本記者クラブでこう解説した。外務省とすり合わせて会見に臨んだというから、政府見解の代弁である。問題は、何をどこまで守るのか。 日本の国土・国民だけでなく、自由と民主主義・市場経済・人権・法の支配といった理念を守るというが、今や米国内でさえ、それらは格差や分断、二重基準や大国の独善によって揺らいでいる。 まして杉山氏は、聞き逃せない核心をしれっと言った。 「この同盟に基づいて、日米安全保障条約に依拠する場合も、そうでない場合も、日本近傍の地域、北朝鮮や台湾海峡の平和と安定のため米国と戦うと共に、グローバルに米国のパートナーとしてやっていくことを表明した」 安保条約の対象範囲でない地域や情勢でも、地球上のあらゆる事態に米国と共に命を懸ける? 米国の世界戦略に巻き込まれる恐れについて、杉山氏は「概念が分からない。日本の平和に重大な影響があるから、自分のためにいろいろやるんで、何も嫌々巻き込まれるんじゃない。嫌ならやらないんですよ」と言う。 共同声明は、中国とフィリピンが衝突する南シナ海「紛争」について「中国の力と威圧に強く反対する」と明記した。すでに米海兵隊が常駐している。自衛隊も加勢を求められるのか。 翌日、防衛官僚出身の柳沢協二元内閣官房副長官補(安全保障担当)に会った。「自衛隊が米インド太平洋軍の一翼を担って出動するかのようだ。政治メッセージではとどまらなくなる。そんな余力はないし、かえって日本有事を近づけかねない」と批判する。 台湾有事でも、日本が事前協議で在日米軍基地からの戦闘機発進に応じれば日本参戦を意味する。米軍の要請を断れば同盟崩壊だ。「どちらも嫌だから、絶対に戦争にしない外交をするしかない」。ところが、当の元外交官は「銃を取れ、命を懸けろ」と言う。 政治家がぼんやりしていると、こういう倒錯が起きる。首相や与党だけではない。国会で、野党の過半は会談結果を評価した。 柳沢氏は「国防とは国が国民を守るのではなく、国民が国を守ること。守りたい国を作るのは政治の役割。戦争になったら何を失い何を得るのか、政治家は説明すべきだ」と説く。(専門編集委員)2024年4月20日 毎日新聞朝刊 13版 2ページ 「土記-銃を取れ、命を懸けろ」から引用 岸田文雄がやったこと、杉山晋輔が解説したことは国会が承認したものではなく、首相が勝手に閣議決定をしただけの、言わば軽挙妄動であり、憲法に照らして考えれば明らかな憲法違反である。憲法は国が軍隊を持つことを禁止しているのだから、米軍の軍事行動に対等な立場で参加できる組織(イコール軍隊)を保有することは憲法違反である。ただでさえ人手不足の自衛隊が、今後は米軍の指揮下で殺し合いもしなければならない「職業」ということになれば、そんな馬鹿げた職業よりは少しはましな仕事はほかにあるだろうと、誰しもが考えるはずで、そもそも我々の税金を憲法違反の事業に支出することを、我々は許してはならないと思います。
2024年05月05日
バスの運転手が人手不足のため、首都圏でも1日の本数を減らす事態となっていると、4月17日の東京新聞が報道している; 4月からの時間外労働(残業)規制を受けてドライバー不足が深刻化し、各地のバス会社で減便が相次いでいる。コロナ禍の利用者減少や燃料費の高騰で逆風の中、政府も対策を掲げているが、2030年度には全国で3万6千人のバス運転手が不足するとの試算も。運転手の処遇改善を図りつつ、高齢社会に不可欠な地域の足を守るには。(山田雄之) 「横浜市営バスでは、乗務員不足により運行の確保が困難になったため、平日の日中から夜間を中心に減便します」――。同市は12日、保土ヶ谷営業所が運行する平日のバスの本数を22日から減らすと発表した。12路線で計77本。1日には290本の大幅な減便に踏み切ったばかりで、月内で2度目となる異例の措置だ。 「利用者には大変申し訳ない」と担当者。今年に入り同営業所の20~50代の運転手9人が転職を希望するなどして相次ぎ離職。他の営業所から応援をもらって対応したがまかないきれず、苦渋の決断となったという。「今後も離職者が出る可能性はあり、運行本数を回復させるのは難しいだろう」と見通す。 茨城県のバス会社大手、茨城交通も1日から水戸市など12市町村を走る路線の一部を減らした。利用が少ない路線を中心とし朝夕のピーク時はできる限り維持したが、残業規制に伴い「運転手の拘束時間を減らすため、減便せざるを得なかった」(同社)という。 運送業の働き方改革や労働環境改善を目的とした「改善基準告示」が1日施行された。具体的にはトラックやバス、タクシーの運転手を対象に「年960時間以下」などとする残業上限が導入された。 これに伴い、バス運転手の不足は広がっている。「コロナ禍で運行本数が減った際、運転者が別業種に出ていったまま戻らなかったのが大きい」と日本バス協会(東京)の担当者。協会は昨年9月、24年度は2万1千人、30年度には3万6千人の運転手が不足すると試算した。 同協会は問題解消のため、外国人運転手の活用制度や、運賃支払いのキャッシュレス化の環境整備などの支援を国に要望。政府も3月、外国人労働者の在留資格の「特定技能」の対象にバスなどの運転手を追加することを閣議決定した。 関西大の宇都宮浄人教授(交通経済学)は「目先の対策でしかない。低賃金と長時間労働を是正しなければ根本的な解決にはならない」と批判する。運転手不足の背景には処遇の問題があるという。23年版交通政策白書によると、バス運転手は全産業平均と比べて労働時間は約1割長いのに、年間所得額は約2割低い399万円。女性の割合は1%台にとどまる。「早朝や深夜勤務もあり、人命を預かる重要な仕事だ」とも話す。 東洋大の岡村敏之教授(交通計画学)は、バス運転手の不足は以前から続く構造的な問題とする。残業規制で顕在化した問題も「運転者の労働条件を改善するために必要な一歩。解決策は運転に必要な大型2種免許の取得者を増やすしかない」と唱える。 利用者にとって厳しいバスの減便。運転手不足などを解消する策はあるのか。宇都宮氏は「欧州のように自治体がバス事業者と契約を結んで路線バスをしっかりと運行してもらう仕組みを導入し、賃金アップを図るべきだ」と主張する。岡村氏も運転手の処遇改善が前提としつつ、「われわれ利用者もバスの減便や運賃値上げをある程度は受け入れながら、バスを活用していくべきだ」と社会の意識や行動の変容を促した。2024年4月17日 東京新聞朝刊 11版 18ページ 「こちら特報部-首都圏でも「減便」 地域の足守るには・・・」から引用 バスの運転手不足の原因は、この記事が訴えるように「他の産業の労働者に比べて、労働時間は1割多いのに年間所得は2割少ない」からであり、このような低賃金加重労働を放置してきた企業・自治体・労働組合の責任である。日本でも70年代は日本社会党に指導された労働組合が「総評」という組織に結集して、スト権を確立した上で賃上げ交渉をしたものであったが、あの頃から産経新聞などは「公共交通機関で働く労働者は、やたらにストを打つのではなく、少しは一般市民の迷惑も考慮するべきだ」などと書いていたが、あれが間違いの元凶だったと思います。公共交通機関の労組がストを打たなくなって30年も経つと、気が付いた時は労働時間が他の産業より1割も長いのに収入は2割安い、などという馬鹿げた結果になっている。70年代に盛んにストを打って闘った労働組合は、単に自分の給料を上げるための闘いだっただけではなく、「市民の足」を守る闘いでもあったのだということを、今更ながら思い知るべきだということです。
2024年05月04日
欧米も韓国でさえも、経済成長とともに労働者の所得も向上しているのに、何故日本だけが労働者の所得が伸び悩んでいるのか、東京新聞編集委員の久原穏氏は4月17日の同紙に、次のように書いている; 今春闘は、大企業の大幅賃上げに続き中小企業も全体として高い賃上げが見込まれている。デフレからの完全脱却に史上最高値の株高と、経済界には明るいムードが漂う。 だが、そんな経営者の姿を鼻白んで眺めている。30年にわたり賃金を抑制してきたことも忘れ、しかも今回の賃上げは激烈なインフレと人手不足に背中を押された、いわば僥倖(ぎょうこう)だからだ。もう賃金を渋るような経営では立ち行かないことを覚悟すべきである。 「2年連続で高い賃上げを実現したのは評価するが、翻って過去30年もの間、賃上げしなかったのはなぜなのか」 3月下旬、経団連の十倉雅和会長の会見で、こう質問した。今更過去のことを問うても詮無いが、世界的にも例がない長期にわたる賃金抑制の総括を聞いてみたかった。 十倉氏は「犯人捜しをしても」と切り出し、人ごとのような答えを返した。この20~30年はデフレが続き、企業は設備過剰、人員過剰、借入金過剰を抱え、国内投資を控えた。経済が停滞し消費も賃金も上がらなかった――。 極め付きは「従業員の雇用確保を図るということを、労働組合も企業もやったわけです」。賃上げよりも正社員の雇用を守ることを、組合と合意のうえ行ったと強調した。 しかし、経団連は毎年の春闘で経営側の指針をつくり「ベアは論外」などの大号令で「ベアゼロ時代」を主導したのではなかったか。 賃金抑制の歴史はこうだ。1990年代は、円高基調のために日本の賃金水準は国際的に高く、中国の台頭もあって企業は人件費削減に走る。大手企業の賃上げ率(定期昇給とペースアップ、経団連調べ)は90年の6%近くから99年は2%まで低下。 2000年代、業績が低迷した電機大手は定期昇給さえ凍結。ベアはおろか定昇まで危うくなった。 労働問題に詳しい山田久・法政大大学院教授は「この頃に企業の人件費負担は十分軽減された。しかし、何十年もコスト削減優先の経営を続け、それが日本経済の弱さにつながった」と指摘する。 つまり、賃上げは短期的には企業の負担を増すが「それによって不採算部門を整理し、成長分野へ投資する構造改革が進む。賃金を上げなかったから構造改革が遅れ、成長できなかった」というのだ。 その後、日本は「賃金も物価も上がらない」という通念が定着。安い賃金、安い物価、安い金利と、すっかり「安い国」に変貌してしまった。 今回、急激なインフレと異次元の人手不足が転機を呼んだ。転職志向の急速な高まりもあり、賃金や初任給を引き上げざるを得なくなった。 かつての「人件費はコスト」「コストは削減すべきだ」という経営はもはや通用しない。賃金に加え、教育訓練など人への投資を怠る企業は人材が集まらない。大手、中小企業を問わず、険しい時代の幕開けである。(編集委員)2024年4月17日 東京新聞朝刊 12版 6ページ 「視点・私はこう見る-人件費はコストではない」から引用 労働団体の総評と同盟が合併して連合になって、あまり時間が経たない頃の春闘の季節に、「賃上げよりも雇用の確保を優先する」などと称して、ストをしなくなった時期があったのを、私も記憶している。多分、経団連が「賃上げよりも雇用」などと言い出して、連合はまんまと騙されて、スト権を確立しない、ドイツ風に言えば「物乞い交渉」をする時代になったわけです。その結果、欧米や韓国でもそれなりに賃金が上がったのに、気が付けば日本だけが取り残されてしまっている。労働者の所得が伸びなければ、国内消費も冷え込んで、経済成長はマイナスになり、ただ大企業の金庫には、本来労働者の所得になったはずの「現金」がうなるように溜まってしまっているのが、今の日本です。日本の経営者は「人件費をコストと考えるのは間違いだ」ということを、学んで肝に銘じないことには、やがて日本は没落し、中国や韓国の属国として生きて行くほかない事態が待っていると心得るべきでしょう。
2024年05月03日
4年前の都知事選挙直前に「女帝 小池百合子」という本が出版されて、困った小池氏は当時側近だった人物に相談したところ、その相談相手が知り合いの元ジャーナリスに「彼女は間違いなくカイロ大学を卒業している」との文章を書かせて、それを駐日エジプト大使館のフェイスブックに掲載させて、世間はそのフェイスブック掲載の「文書」を信用したので、小池氏は目出度く都知事選に勝利したのであったが、今度はその4年前に相談にのった人物が「文芸春秋」に、「実は、あのときはこうだった」と白状してしまったため、小池氏の学歴詐称疑惑がさらに深まったのであるが、それについて、現代教育行政研究会代表の前川喜平氏は4月14日の東京新聞コラムに、次のように書いている; 小池百合子東京都知事の学歴詐称疑惑が再燃している。火を付けたのは小池氏の元側近小島敏郎氏とカイロでの元同居人北原百代氏が文芸春秋5月号に寄せた手記だ。 小島氏によれば、前回の都知事選前の2020年5月末に出版された石井妙子著「女帝 小池百合子」でカイロ大学卒業の学歴を虚偽と指摘され狼狽(うろた)えた小池氏が、小島氏の発案により、元ジャーナリストA氏に文案を作成させて、小池氏のカイロ大学卒業を証する同大学長名の「声明」を作成、駐日エジプト大使館のフェイスブックに載せてもらったのだという。これは私文書偽造罪に該当する疑いがある。 「声明」は単に小池氏の学歴を証するだけでなく、卒業証書の信憑(しんぴょう)性に疑義を呈することは「名誉毀損(きそん)であり、看過することができない」と警告し、モハメドオスマンエルコシト学長のサインと大学の公印らしきものが記されていた。同大学のホームページを見ると、確かに現学長の名は「モハメド・コシト博士」となっている。 犯罪の疑いが生じた以上、検察はカイロへ飛んで大学当局及びコシト学長から事情を聴取すべきだ。検察が動かないならメディアが行って真相を確かめるべきだ。 選挙公報で学歴を偽れば公職選挙法違反にもなる。政治家小池百合子の命運が尽きる日も近いかもしれない。(現代教育行政研究会代表)2024年4月14日 東京新聞朝刊 11版 19ページ 「本音のコラム-政治家小池百合子の命運」から引用 この記事は政治家小池百合子の命運が尽きる日も近いかもしれないと結んでいる。一連の状況から判断すれば、そのように文章を締めくくるのは自然なことに思われるが、しかし、世間の現実は予想もしなかったような展開を見せることも、よくあることだから、今回の「学歴詐称疑惑」もどう転ぶかは予断を許さない。今のところ、小池氏はだんまりを決め込んでいるが、このまま何も言わずに都知事選に突入は、ちょっとあり得ないようにも思われるし、いずれにしてもわが国政界が、少しでも「法の支配」を重んじる方向に進んでほしいものだと、つくづく思います。
2024年05月02日
国立社会保障・人口問題研究所が先月発表した将来推計によると、2050年の日本は5軒に1軒が65才以上の一人暮らし世帯になるとのことだったが、この結果について社会学者の上野千鶴子氏は4月13日の毎日新聞に、次のように書いている; 「おひとりさまの老後」などの著書がある社会学者の上野千鶴子さんは、世帯数の将来推計をどう読んだのか。高齢単身世帯が増えるという結果に、このままでは「孤立と貧困」の未来が見えると指摘する。【聞き手・黒田阿紗子】◆社会保障、個人単位に 推計結果は、ほぼ予測の範囲内で驚きはない。高齢の夫婦が死別で単身になり、高齢の親と暮らす初老の子の世帯が親を失い単身になる。そして中高年の「単身高齢者予備軍」、つまり非婚の男女が高齢化する。これらが全て関わっている。 今のままでは男性の高齢単身世帯は「孤立」、女性の高齢単身世帯は「貧困」が深刻な問題になるだろう。孤立と貧困が重なるケースもあると思う。 家族は最強の社会関係資本(人と人の関係性を資本として捉える考え方)だが、結婚・出産しない人が増えた。経済要因だと言われるが、その背景には保守的な結婚観がある。男性は「妻子を養わなければならないから経済力がつくまで結婚の資格がない」、女性は「家事・育児を全て背負わなければならない」というもので、これがある限り結婚のハードルは高い。 また、子どもが成長すれば家族は世帯分離をするのが当たり前になった。高齢者が家族に依存しなくてすむように、孤立と貧困を防ぐための税と社会保障制度の脱家族主義化が必要だ。 日本の社会保障制度は世帯単位制で、問題がある。東日本大震災では、被災者への支援金が世帯主にまとめて支給されたことに批判が集まったが、約10年後の新型コロナ対策(として1人10万円が支給された)特別定額給付金も、世帯主一括給付で変わらなかった。 世帯単位から個人単位にするには、戸籍制度を含めた抜本的な変更が必要なので、マイナンバー制度が導入された。しかし政府への信頼感の欠如と大きなミスで、また先送りされた。 もう一つ必要なのは、住宅対策だ。非正規雇用を増やしたため、これから高齢の低年金・無年金者が大量に出て、生活保護の申請が増えるだろう。安心して暮らせる住まいを確保する必要があるが、日本は公共住宅の供給が極端に少ない。 だから、増えている空き家を自治体が借り上げ、シェアハウスのようにして低家賃で貸していけばいい。東京の豊島区が先導して取り組んでいる。そこにケアマネジャー(介護支援専門員)を付ければ、孤立死は防ぐことができる。 一番恐れているのは、都会で高齢者が孤立し、貧困のうちに取り残されることだ。実例がある。新型コロナの感染が拡大した時、自宅で治療を受けられないまま亡くなる患者が相次いだ。あの「在宅療養という名の放置」を見て背筋が寒くなった。能登半島地震の被災地でも、避難所から半壊の家に戻った途端、支援が届かなくなった。家にいることが自己責任として放置された。 私は「在宅ひとり死」は不幸ではないと言ってきたが、これから出るのは「在宅難民」、つまり「在宅という名の放置」になりかねない。 人口統計はかなりの精度で当たるのに、もう何十年も政治は無為無策だった。少子化対策と同じく時限は迫っている。2024年4月13日 毎日新聞朝刊 14版 4ページ 「社会保障 個人単位に-社会学者・上野千鶴子さん」から引用 この記事は大変興味深い。最近の若者が結婚を躊躇する理由として、男性は「妻子を養うのが男の義務だから、経済力がつくまでは結婚できない」、女性は「家事・育児を全て背負わなければならない」と自分も世間もそう考えているから結婚は望まない。こういう表現にしてしまうと、「政府の政策がいけないから若者が結婚を躊躇し、結果的に少子化→人口減少となる」という理屈が、少し弱められて、「古い考え方にとらわれるのはやめて、男女が平等の立場で力を合わせて新しい時代の家庭像を作り上げるべきだ」という、「意識改革」の問題になってしまうような気もするが、しかし、世の中、やはり「先立つものはカネ」なのだから、大企業の労働者だけの「賃上げ」ではなく、中小企業も含めた労働者全体の所得を増やす政策を実施しないことには、「少子化→人口減少」は避けられないのだと思います。
2024年05月01日
イスラエルによるパレスチナ人大虐殺を無条件で支援してきたアメリカのバイデン大統領は、調子に乗ったイスラエル軍がガザに食料支援をするアメリカ人を殺害したことに激怒して、ネタニヤフに「いい加減にしないとアメリカからの支援は打ち切るぞ」とどやしつけたところ、翌日にイスラエル政府は「ガザ北部への援助物資ルートを一時的に開放する」と発表したのであった。そのことについて、文筆家の師岡カリーマ氏は13日の東京新聞コラムに、次のように書いている; ガザで食料支援を行っていたNGO職員の車両が次々とイスラエル軍に爆撃され、米国・カナダニ重国籍者1名を含む7人が亡くなった事件は、これまでになくバイデン米大統領を怒らせた。イスラエルのネタニヤフ首相との電話会談で民間人の保護を迫り、改善がなければ(無条件に継続されてきた)イスラエル支持の方針を見直す可能性も示唆したという。 その直後、イスラエルは、ガザ北部への援助物資ルートを一時的に開放すると発表した。これらの展開からいやでも導き出される結論は(1)アメリカの兵器と支援が可能にした軍事作戦の開始から半年で3万3千を超えたパレスチナ人死者や200人近い援助関係者の犠牲はやり過ごせたバイデン氏にとっても、国内で批判されるであろう1人の米国人の死は重いということ(2)イスラエル支援を見直すという警告ひとつで頑ななネタニヤフ首相に物資搬入の拡大を認めさせることができるのに、餓死者が出てもそれをしなかったバイデン政権の責任はとてつもなく重いということ。それに歩調を合わせた「同盟国」たちの責任も。そして「同盟国」政府の立場を改めさせることができずにいる私たちの責任も。この惨状は、もっと早く、電話一つで止められるはずだった。 改めて、自らガザに赴き、命懸けで援助にあたる人々に、敬意と感謝を捧げたい。(文筆家)2024年4月13日 東京新聞朝刊 11版 21ページ 「本音のコラム-その血は誰の手に」から引用 第二次世界大戦が終わる頃に西欧諸国の首脳がシオニズム運動に結集したユダヤ人がパレスチナに建国することを承認しようという議論をしていた時、パレスチナを植民地支配していたイギリスのチャーチル首相(当時)は,パレスチナにユダヤ人の国を建設すると言っても、今そこに住んでいる人々のことはどうするんだ、という質問に対して「昔からそこに犬が住んでいたとしても、犬に先住権を認める必要はない」と、パレスチナ人を犬呼ばわりして先住権を認める必要はないと公言したのであった。欧米にはいまだにアラブやアフリカ、アジアを見下す習慣が根強く残っていて、今もなお、ユダヤ人のパレスチナ・ホロコーストを批判すると「そのような反ユダヤ主義は認められない」と、批判される始末である。どこに「ボタンのかけ違い」があったのか、実に不思議な話である。
2024年04月30日
野党議員が群馬県の前橋地検高崎支部に出かけて、同支部に保管されていた100年前に出された朝鮮人虐殺事件について犯人の日本人に懲役1年6か月の判決を言い渡した「判決文」を確認した上で、このような判決が出ているということについて異論はないかと質問したところ、林官房長官が意味不明な回答をしたと、10日の東京新聞が報道している; 1923年9月―日の関東大震災後の朝鮮人虐殺を巡り、林芳正官房長官は9日の参院内閣委員会で、判決文の原本が残る群馬県で起きた朝鮮人殺害事件について「裁判所の認定が正しいかどうか評価する立場にない」と述べ、政府として事実認定の明言を避けた。立憲民主党の石垣のり子議員の質問に答えた。 石垣氏は前橋地検高崎支部が保有する判決文の原本を確認した。事件は大震災直後の9月4日、当時の群馬県倉賀野町(現高崎市)で発生。駐在所に保護されていた20歳の朝鮮人男性を「不逞(ふてい)鮮人」とみなした群衆が引きずり出し、刀で喉を刺して殺した。被告4人には懲役1年6月などの判決が出た。 石垣氏は「風説を信じ朝鮮人を虐殺した日本人が裁判で判決を受けたことに異論はないか」と確認を求めたが、林氏は一般論と前置きして「政府として、裁判所の認定した事実について、正しいかどうかといった評価を加える立場にない」と述べた。 関東大震災後に「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などの流言が広がり、多くの朝鮮人や中国人が日本人に殺害された。野党議員らは、これまでも公文書を基に虐殺について見解をただしてきたが、政府は「事実関係を把握できる記録が見当たらない」との答弁を繰り返してきた。2024年4月10日 東京新聞朝刊 12版 3ページ 「政府、判決文現存でも認定避ける-関東大震災、群馬の朝鮮人虐殺」から引用 林官房長官の答弁は、安倍晋三や岸田文雄と同じで、極めて不誠実なごまかし答弁である。質問した石垣議員は、100年前の判決文の評価を官房長官に尋ねたのではなく、「このような判決が出ているという事実を認識しているのかどうか」を尋ねたのであるから、答えは「承知している」または「知らなかったが、今聞いてそのような事実があったことを知った」のどちらかであり、「その判決文をどう評価するか」などとは尋ねていない。官房長官は勝手に質問の主旨をすり替えており、不当な答弁と言わざるを得ません。これがまた、外国の裁判所が日本人に対して不当な判決を出したというケースであれば、「当該判決は不当だと思う」というような見解を述べることは出来るかも知れないが、自国の裁判所が外国人に対する日本人の犯罪を裁いた「判決」で、裁判所が事実に反する判決を出しているわけでもないのに、「事実確認」を迫られて答えをはぐらかさなければならない官房長官というのは、まともではないと思います。なぜ、100年前の当該判決をそのまま認められない如何なる事情があるのか、別の機会にでも聞いてみたいものです。
2024年04月29日
硫黄島の戦没者追悼式に参加したことを「X」に投稿し、硫黄島を「大東亜戦争最大の激戦地」と表現したことについて、10日の東京新聞社説は次のように批判している; 陸上自衛隊の部隊がX(旧ツイッター)への投稿で、アジアへの侵略戦争を正当化する文脈で使われることが多い「大東亜戦争」という表現を用いた。陸海の隊員が靖国神社に集団参拝したことも明らかになっている。過去の戦争を美化する歴史観が自衛隊内で広がっていないか憂慮する。 陸自大宮駐屯地(さいたま市)の第32普通科連隊は5日、日米が戦った硫黄島(東京都小笠原村)の戦没者追悼式への参加をXの公式アカウントに投稿した際「大東亜戦争最大の激戦地」と記した。この表現は8日に削除した。 日本は1941年12月の開戦直後、アジアの解放を名分に「大東亜戦争」と呼ぶことを閣議決定した。戦後「大東亜戦争」の呼称は連合国軍総司令部(GHQ)に禁じられ、現在は日本政府も一般に公文書では使用していない。 代わって「太平洋戦争」の表現が定着したのは、破滅的な敗戦につなかったアジアへの侵略と植民地支配を戦後、幅広い日本国民が反省したからにほかならない。 同様に自衛隊も現行憲法の下、旧軍と制度的に断絶する形で発足した。にもかかわらず、陸自部隊が公式アカウントで一時的とはいえ「聖戦思想」を疑われかねない投稿をしたことは深刻である。 懸念はこれにとどまらない。海自司令官と幹部候補生学校卒業生らが昨年5月に、陸自幹部ら22人が今年1月に、靖国神社を参拝した。もちろん隊員にも信教の自由はあり、防衛省は私的参拝と結論付けて問題視はしていない。 しかし、参拝が強制でなくてもA級戦犯を合祀し、先の戦争を正当化する神社に自衛隊員が集団参拝した事実は残る。内外から歴史観を疑問視され、憲法が定める政教分離にも抵触しかねない。 内閣府による最新の世論調査では、自衛隊に「良い印象を持っている」は90・8%に及ぶ。文民統制の下、防衛と災害救援、国際貢。献を積み重ねてきた結果だ。 一連の言動は自衛隊が築き上げてきた信頼を自ら損なうことになりかねない。防衛省・自衛隊は疑念を招く言動は慎むよう隊員への指導・教育を徹底すべきである。2024年4月10日 東京新聞朝刊 11版 5ページ 「社説-自衛隊の歴史観を憂う」から引用 この社説が言うように、大東亜戦争という名称は、当時の日本政府が泥沼にはまった日中戦争で欧米からの経済制裁のために石油が輸入できなくなったので、それならということで、英仏の植民地になっていた東南アジアを日本の支配下において石油を只で略奪しようとの目的で始めた戦争だったわけで、それを国民に説明するのに「英米に支配された東南アジアの同胞を助けるのだ」と真意を偽って、新たな侵略戦争に国民を駆り立てる手段として作り出したのが「大東亜戦争」だったのであり、戦後間もない日本人はそのことを知っていたから、自然に「大東亜戦争」などという者はいなくなり、「太平洋戦争」という呼称が定着したものである。それを、今時「大東亜戦争」などと言い出すのは不届き千万、責任者ともども厳重な処分にする必要があると思います。自衛隊の一般隊員が、このような間違った言葉遣いをする原因は、普段の隊員研修の講師に竹田恒泰とか桜井よしこのような右翼デマゴギーを招へいしているためであり、自衛隊幹部の責任も問われてしかるべきだと思います。
2024年04月28日
自民党内で広く行われていた「裏金事件」と呼ばれる政治資金規正法違反事件は、岸田首相が主導権を握って39人の議員を形ばかりの「処分」にすることで、軽くごまかした状況になっているが、そのことについて現代教育行政研究会代表の前川喜平氏は、7日の東京新聞コラムに次のように書いている; 裏金問題で自民党が39人の処分を発表したが、選挙に影響する「離党勧告」と「党員資格の停止」は塩谷立、世耕弘成、下村博文、西村康稔、高木毅の5氏だけ。「党の役職停止」以下は実害のない軽い処分だ。 1人だけ「党の役職停止」でも困る人がいた。岸田文雄総裁自身だ。岸田派と二階派は派閥で裏金づくりをしていたのだから、会長は処分されて当然なのだが、二階俊博氏の「不出馬表明」のおかげで、岸田氏は自分自身を処分から外すことができた。見返りは、地元和歌山で対立する世耕氏への重い処分と武田良太氏ら二階派幹部への軽い処分だろう。武田氏と地元福岡で対立する麻生太郎副総裁は、武田氏への重い処分を求めたそうだが、岸田氏は二階派への配慮を優先したのだろう。 裏金づくりの中心人物と目される森喜朗氏も不問に付された。代わりに生贄にされた塩谷氏は次の選挙で引退を余儀なくされるだろう。軽い処分で温存されたのは萩生田光一氏だ。安倍派を継ぐ者として遇したのだろう。岸田氏は電話で森氏に事情聴取したそうだが、実は処分の相談をしていたのではないか。 すべては自民党というコップの中の泥仕合だ。何の解決にもならない。本当の課題は、パーティーも含めた企業・団体献金の禁止と政治資金の使途の透明化だ。審判を下すのは国民である。(現代教育行政研究会代表)2024年4月7日 東京新聞朝刊 11版 17ページ 「本音のコラム-コップの中の泥仕合」から引用 岸田首相がメインになって「裏金事件」を調査し、責任に応じて「処分」の軽重を決めるというのは、文字通りに実施されれば「解決した」と言えるかも知れないが、メインになって調査する人物も、実は「裏金事件」を抱えていて、しかもその「ご本人」は処分を免れるという実態が、国民の前に丸見えになっているのだから、これは「茶番劇」以外の何物でもないわけです。しかし、新聞もテレビも表立ってそのことを「批判的」に報道することはしない、これではわが国の「政界浄化」の実現はほど遠いと言わざるを得ません。「審判を下すのは国民」と言っても、その国民に自民党政治の腐敗の実態を周知するはずのメディアが、その機能を発揮しないことには、国民に適切な判断材料を提供することはできず、相変わらず選挙事務所で飲み食いの接待を受けた支持者が、今まで通りに自民党に投票していたのでは、何の解決にもならない事態が継続されます。「これではダメだ」と思った有権者が、投票に出かけて野党に投票するという行動を起こさないことには、まともな民主政治は実現しないのだということを、私たちは自覚する必要があります。
2024年04月27日
アメリカは表向き「民主主義」を標榜しておりながら、その内実は巨大資本に支配されており、巨大資本の利益にかなう政策を第一とするのがアメリカ政府の基本的ルールである。しかし、その結果はカール・マルクスが「資本論」に書いたとおり、資本家が栄えて労働者は搾取された結果、多くの労働者が疲弊してラストベルトと呼ばれる地域で貧困生活を強いられているのが現実である。そのラストベルトに住む恵まれない労働者階級を味方につけて大統領になったのがドナルド・トランプ氏で、彼は恵まれない労働者を救済するために、中国の工場でiPadを製造して世界中に販売して利益を上げているアップル社に対し「iPadの製造を、中国の工場からアメリカの工場に移動できないか」と相談を持ちかけたりしたのであったが、トランプ氏の提案は資本主義の理屈に合わない「提案」だったので、アップル社が彼の提案に応じることはなかった。それでも、トランプ氏は「アメリカの国家財政を少しでもアメリカ国民のために」との意図から、「アメリカは『世界の警察官』の役割を止めるべきだ」と発言し、NATOから離脱しようとしたこともあった。そのようなことを考えるトランプ氏だから、今年の大統領選挙で再び大統領になれば、今度は「日米安保はもう止めよう」と言い出すかも知れない、との観点から、神戸女学院大学名誉教授で凱風館館長の内田樹氏は、7日の東京新聞コラムに、次のように書いている; 米大統領選はドナルド・トランプとジョー・バイデンの2度目の対戦となりそうである。3月の世論調査では、バイデンが1ポイントリード。しかし、多くの有権者は態度未定である。勝敗を决する「激戦州」では逆にトランプが3ポイントリードしている。トランプが2度目のホワイトハウス入りする可能性はかなり高い。2期目のトランプは何をしでかすのか、世界中が固唾をのんで見守っている。 ◇ ◆ ◇ トランプは予備選中に「プーチンと談合してウクライナ戦争を24時間以内に終結させる」「パリ協定から離脱する」「すべての輸入品に10%の関税を課す」などの政策を支持者たちには示唆している。欧州の指導者たちは米国が北大西洋条約機構(NATO)から脱盟すること、ウクライナを見捨てること、気候変動にコミットしないこと、前例のない保護主義的貿易を展開する場合に、どう対処したらよいのか、すでにその準備を始めている。 翻って、日本メディアで「トランプが大統領になった場合に日本にどんな被害が及ぶか」についての予測が載ることはまずない。誰が大統領であろうと、とにかく対米従属さえしていれば政権は安泰だと高をくくっているのだろう。 しかし、欧州諸国が米国のNATO脱盟のリスクについて備え始めている時に、日本だけが米国が安保条約を廃棄する可能性をゼロ査定しているとしたら、ずいぶん気楽なことだと言わねばならない。日米安保条約は一方の締結国が宣言すれば1年後に自動終了する。そして、米国には在外米軍基地の縮小や廃止を主張する議員が少なくないのである。「自分の国は自分で守れ」というのはリバタリアンとしては当然の主張だ。 そもそも戦後の在日米軍基地はソ連侵攻を想定して配備されたものである。だから、北海道には米軍基地がなく、ソ連から一番遠い沖縄に基地が集中している。それなら日本列島がソ連軍に蹂躙された後も米軍主力は無傷で残るからである。だとすれば、米国が対中戦争を想定して基地を配備するなら、最前線である沖縄と南西諸島はできるだけ自衛隊に委ね、米軍主力はグアム=テニアンの線まで退くのが合理的である。 ◇ ◆ ◇ 日本の左派は「米国が始める戦争に日本が巻き込まれるリスク」を語るけれど、ホワイトハウスはむしろ「台湾や韓国や日本が偶発的に起こした対中戦に米国が巻き込まれるリスク」を憂慮していると思う。 仮に日中間で軍事衝突が起きた時、米国は参戦するだろうか。トランプ大統領なら「参戦拒否」すると私は思う。議会でも「アメリカ・ファースト」の議員たちが「日本のために米国の若者が死ぬ必要はない」と言い出し、世論もそれに同調するだろう。しかし、万一「日本有事」に際して米国市民に死傷者が出てしまうと、そうも言ってられない。いやでも中国を相手に戦争を始めなければならなくなる。 だから、米国が中国との戦争を絶対に回避しようと願うなら「日本有事」で米国市民が一人も死なないことがどうしても必要になる。最も確実な方法は日本列島から全米軍基地を撤収することである。「日米安保条約」が機能しなくなる日に備えて、日本人も「日米同盟基軸」以外の道を考え始めるべき時が来ている。2024年4月7日 東京新聞朝刊 11版 5ページ 「時代を読む-日米安保条約が廃棄される日」から引用 第二次世界大戦が終わった時点ではスターリンが指導するソ連が武力で社会主義圏を拡大する危険性があると考えたアメリカが、沖縄に軍事基地を置いて社会主義圏の拡大を阻止する作戦だったが、それから80年も経ってソ連は崩壊し、共産党が政権を運営する中国も実質は資本主義経済システムで国家を運営しており、「社会主義VS資本主義」というイデオロギー対立で戦争になる危険性はなくなったと考えて間違いないと思います。今、戦争の原因になっているのは、アメリカを総本山にする資本主義勢力が、その支配権を認めようとしないロシアを追い詰める目的でNATOを東方に拡大する政策を進めた結果、ウクライナに米軍基地を置く構想が具体化するに及んで、ロシアが「待った」をかけたのがウクライナ紛争ですから、その点では、資本主義経済のルールを受け入れて米国企業の生産工場を国内に有する中国が、イデオロギー問題が原因でアメリカと戦争をするということは、もはやあり得ないと考えて間違いはないと思います。しかし、世の中に「戦争」がなくなると食い詰める運命の米国軍需産業は、中国の内政問題である「台湾問題」に無理やり介入し、隙あらば台湾限定の「局地戦争」を起こして糊口をしのぐ作戦であり、「台湾・韓国・日本が偶発的に起こした対中戦争に米国が巻き込まれる」など、言いがかりも甚だしいと思います。これからの日本は、沖縄の米軍基地の歴史的役割が「終了した」ことを明確に内外に宣言し、米軍基地撤退の交渉を米国政府に提起するべきです。その上で、近隣諸国には日本が軍事的脅威にならないことを明確に宣言し、自衛隊は専守防衛に徹すること、敵基地攻撃能力の保有などもってのほかであるなどを国会で決議し、平和国家として東アジアの平和に貢献する方針を明らかにするのが、これからの日本がすすむ道だと思います。
2024年04月26日
ウランやプルトニウムを高速増殖炉で燃やせば発電しながら燃料を増やすことができるなどと称して高速増殖炉「もんじゅ」を開発したはずだった「動燃」では、実は管理職が公安警察と連携して職員の私生活を監視し、処遇に差別をつけるという違法行為が行われていたが、そのことを裁判に訴えた元労働者が、一審で勝訴したことを、4日の「週刊金曜日」が次のように報道している; 旧「動力炉・核燃料開発事業団」(以下、動燃)の元職員らが2015年7月、個人の思想や信条に着目した不当かつ差別的人事処遇などを受けたとして、動燃を後継する国立研究開発法人日本原子力研究開発機構(以下、機構)を相手に起こした損害賠償請求訴訟の判決が3月14日にあった。水戸地裁(廣澤諭裁判長)は原告の元職員(当初4人。後に2人追加)について、提訴前3年以内の損害に限定したうえで差別があったと認定。約4700万円を原告の元職員5人に支払うよう命じた(退職が早かった原告I人については賠償請求権の時効を理由に棄却)。 元職員らは突然裁判を起こしたわけではなかった。動燃では1974年に再処理工場内で発生した転落死亡事故をめぐって労働組合がストライキを行なうなど、職員の間からも安全性を求める声が上がっていた。原告らも被曝しないための勉強などを、それぞれ労組を通じて熱心に推進。76年に動燃労組中央執行委員長だった円道正三(えんどうしょうぞう)氏が動燃所在地である茨城県東海村の村議会議員選挙に立候補した際には同氏を応援したほか、内部の不正に抗議したりしたことから、動燃からは「非良識派」として敵視されるようになった。 たとえば本来みなプルトニウム等の放射線を取り扱う技術職だった原告らが枢要業務から外されたり、業務に必要な研修の機会を与えられなかったり、洗濯係などの雑務や、人形峠(岡山県)の事務所に飛ばされたまま定年まで30年前後留め置かれたりもした。職位も一定に据え置かれ昇級も止められ、同期や同学歴の職員との比較で退職時までに約3000万円の賃金格差も発生。2005年には、有志数人がそれぞれ所属部署の部長や課長に不当な処遇を是正するよう要望書を提出したが、機構側は「差別の事実はない」として応じなかった。 ところが13年8月、『原子カムラの陰謀』が発刊され、高速増殖炉「もんじゅ」での1995年の事故の調査中に亡くなった西村成生(にしむらしげお)さん(当時動燃本社の総務部次長。自殺と報道)の自宅から、当時の動燃が警察や公安と連携のうえで組織的に思想弾圧や差別・選別、懐柔工作等を行なっていた実態を克明に記した資料(西村資料)が大量に発見されたことが明らかに。これを受けた機構の労組は機構に対し差別処遇の是正とそれまでの損害を補償するよう要求。しかし機構が「調査したが差別の事実は見えなかった」と対応しなかったことから裁判が始まった。◆認められた「西村資料」 裁判では動燃による差別政策と昇級差別の有無、その真偽の根拠となるべき西村資料の認定が主要な争点となった。同資料について機構は「誰によって、いかなる目的で作成したかが不明であり、一担当者が個人的に記した手控え又はメモの類」「意図的な改変が加えられた可能性」などを主張したが、裁判所は「極めて詳細かつ正確」な情報が多く「記載されている異動案の多くが実施されている」ことなどから信憑性を認め、動燃による差別政策を認定した。 判決後の報告果会で原告弁護団の平井哲史(ひらいてつふみ)事務局長は「西村資料に基づいて旧動燃による差別政策をしっかりと認定していただいた点については高く評価をしたい」としつつ、賠償の対象期間が提訴前の3年以内に限定されたことや、その消滅時効によって棄却された部分については「再度見直して頂いて旧動燃に償わせる判決を」として、控訴する方針を示した。原告らは、差別が組織的に行なわれたと裁判所が明確に認めたことや、当初被告側が「不知」としていた西村資料が証拠として認定されたことへの喜びを語った。 機構は翌15日に控訴。取材に対し「機構として申し上げることはない」とし、控訴理由については「今後裁判の中で説明させていただきたい」と繰り返すのみだった。 原告の支援者らは、発言抑制や差別が横行する環境が「もんじゅ」の失敗、さらには東京電力の福島原発事故にも密接に関連していると指摘する。闘いの舞台は今後、東京高裁に移る。(稲垣美穂子・フリーランスライター)2024年4月5日 「週刊金曜日」 1467号 6ページ 「きんようアンテナ-原子力産業、問題の根源を断罪」から引用 原子力発電は、「原子力」が発見されて大量殺りく兵器に利用されたりそのエネルギーで発電する技術が開発された当初は、あたかも科学の最先端の技術であるかのように喧伝されたが、その実態は、核分裂で生じるエネルギーで水を沸騰させて生じる水蒸気でタービンを回してその軸に固定した磁石をコイルの中で回転させて電気エネルギーを取り出すという、中学生が思いつくような発電方法であり、とても「ハイテクノロジー」からはほど遠い代物である。したがって、実際に核分裂によって生じた熱量のおよそ2割り程度が電気エネルギーになっているだけで、残りの7~8割りのエネルギーは余剰のエネルギーとして冷却用の海水によって海に捨てられているのが実態であり、経済効率の点からも、産業として成り立つものではなく、直ちに全ての原発は廃炉にして、太陽光や風力、潮力の発電に切り替えるのが、我々の子孫に安全な生活環境を提供する「道」である。それにしても、動燃で長年に渡って差別された労働者が、その差別を跳ね返して、雇用主に対して不当労働行為を認めさせる判決を勝ち取ったことは実に喜ばしいことである。控訴審でもしっかりと道理を尽くして、悔いのない結果を勝ち取ってほしいと思います。
2024年04月25日
国会で法案について審議する意味は、さまざまな角度から種々検討を加えて、より完璧な法律の制定を目指すという「目的」があったはずですが、安倍政権以来の自民党政治では国会で与野党の議論がまったくかみ合わず、政府与党の答弁は中身がまったく欠落しており、外観上は何か応えたような恰好をしながら、その中身は空っぽで、実質何も応えていない。それで一定の時間が過ぎれば、数に任せた強行採決で可決されるという仕組みで、数々の悪法が成立しているが、今また、国民の自由を縛る悪法が成立しようとしている事態について、ジャーナリストの青木理氏が7日の「しんぶん赤旗」に、次のように書いている; 経済秘密保護法案(重要経済安保情報保護法案)が国会で審議されています。問題点をジャーナリストの青木理さんに聞きました。(田中倫夫記者) 経済秘密保護法案を一言でいえば、特定秘密保護法(2013年成立)の大幅強化・拡大版です。特定秘密保護法が対象とする「秘密」は(1)防衛(2)外交(3)スパイ防止(4)テロ対策―の4分野。その指定は時の政府が行い、市民には何が秘密かも秘密という不透明さで、刑事罰付きの秘密保持義務を課されるのは主に公務員でした。 それが今回は「経済安全保障」にかかわる「重要情報」を政府が指定し、秘密保持義務を課される対象は大小を問わぬ民間企業の社員、技術者、研究機関や大学の研究者などへと一挙に広がります。防衛関連産業などはもちろん、重要インフラやサイバー、人工知能(AI)、先端半導体等々、民生と軍事の両目的に使用できる技術-デュアルユース(軍民両用)の分野も対象となる。 しかも「秘密」の具体的な範囲が示されていないため、対象は際限なく広がりかねず。「漏洩(ろうえい)」者には最大5年の拘禁刑が科され、その「教唆」や「共謀」も処罰されます。ならばメディア記者や各種の市民運動まで刑事罰に問われかねません。◆病歴や酒癖も もう一つ大きな問題は、「セキュリティークリアランス」(適性評価)制度を導入し、「秘密」情報を扱える民間人、技術者、研究者らを調査・選別することです。 特定秘密保護法も同様でしたが、相当機微なプライバシーが調べられます。犯歴や精神疾患などの病歴に加え、借金などの経済状況や酒癖、さらには配偶者や家族、同居人の身上や国籍まで調査対象とされます。 特定秘密保護法の際の議論では、配偶者が米国籍なら問題ないが、中国籍や朝鮮籍だったりするとアウト、などという話が政府関係者から伝わってきました。明白な国籍差別、人権侵害です。 調査には本人同意が必要、といいますが、たとえば企業や研究機関の社員が「適性評価を受けてくれ」と言われて断れますか? 断ったら担当を外されるかもしれない。結果的に優秀な技術者、研究者が排除され、自由な企業活動や研究開発がシュリンク(縮小)していくことにもなりかねません。◎公安の活動に”お墨付き” 特定秘密保護法と同様、この法案は警察庁警備局を頂点とする公安警察の活動に新たな権限、相当に強力な”武器”が与えられることにもなります。 従来は公安警察が一般市民のプライバシーをむやみに調べれば批判されるので隠密にやっていた。私が30年近く前に公安警察を取材していた当時、彼らは中央省庁の幹部などはもちろん、基幹産業の内部に「共産主義者」や「左翼」がいるかをひそかに調べていました。事件や犯罪の嫌疑もないのにです。ある意味で法的にグレーな活動でした。 今回の法案はそれに公的なお墨付きを与え、グレーな活動を「合法的」に堂々とやれることになります。 今度の法案も何が秘密なのかわからず、メディアや市民団体にとってはいつ”地雷”を踏むかわかりません。 何が秘密かがわからず、「知りたい」「教えてくれ」と聞きまわれば、それが秘密漏洩の「教唆」や「共謀」になりかねない。国民の知る権利や市民運動が制限されてしまいかねないのです。◎冤罪が横行 経済活動脅かされる 今回の法案の″露払い役”になったのは、内閣に設置された「セキュリティ・クリアランス制度等に関する有識者会議」です。昨年秋の答申に沿って法案は作成されました。 会議のメンバーには北村滋・元国家安全保障局長がいます。故・安倍晋三氏の最側近で公安警察の外事部門を歩んだ人物です。同氏は最近、『外事警察秘録』という本を出しました。そこでは、特定秘密保護法成立のためには″メディア対策が大事だ″として「読売」主筆代理らに「反対の論陣を張らないでくれ」と頭を下げにいったということが公然と書かれています。 「経済安保」の動きをめぐっては、警視庁公安部の信じがたい暴走も起きています。「大川原化工機」事件です。優秀な技術を持つ同社が中国や韓国に化学機器を不正輸出した、と社長らが逮捕され、1年近くも勾留され、しかし初公判直前に検察が起訴を取り消す醜態を演じた冤罪(えんざい)事件です。 その背後には「経済安保」の旗を振るなか、組織拡大をもくろむ外事部門の存在意義をアピールしたい公安警察の思惑がありました。こんな事件が横行すれば、日本の産業を支えてきた中小企業や技術開発がつぶされてしまいかねません。 時の政権と警察の一体化が強まり、この十数年で特定秘密保護法や共謀罪法、通信傍受法(盗聴法)の大幅強化など、かねてから公安警察が欲しくてたまらなかった治安法が続々と整備されています。こうした「警察国家」化と防衛費の倍増など「軍事大国」化への動きはもちろん表裏一体、同時進行的なものと捉えて批判の目を注ぐべきです。<あおき・おさむ> 1966年生まれ。共同通信記者を経て、フリーのジャーナリスト、ノンフィクション作家。『日本の公安警察』『日本会議の正体』など著書多数。新著に『時代の反逆者たち』(河出書房新社)2024年4月7日 「しんぶん赤旗」 日曜版 31ページ 「経済秘密保護法案、ここが問題」から引用 この記事の終わりのほうで取り上げている「大川原化工機」事件は、お菓子の製造工程で砂糖その他の調味料を噴霧する装置が、テロリストに悪用されれば「細菌戦」の武器になる、などという荒唐無稽な「言いがかり」で、さすがの検察官も「こんな低レベルな言いがかりで裁判に勝てるわけがない」と直前になって提訴を取り下げたのでした。しかし、この低レベル公安警察に言いがかりをつけられた会社役員・数名は一年近く身柄を拘束され、そのうちの一人は持病を悪化させて死亡するという事態にまでなりました。このように、公安警察などというものが大きな顔をするようでは、国が滅びます。本当は「オウム真理教事件」が終わった時点で公安警察も廃止するべきだったのに、無駄に組織を温存してこの後も国の発展の方向も歪ませる危険性が大きい組織ですから、遠からず対策を考えるべきだと思います。
2024年04月24日
岸田政権は自民党の裏金問題で国会が紛糾する事態を悪用して、防衛費倍増の可否をまったく議論することなく数の力で強行採決するという「暴挙」に及びました。しかも、そのことを表立って批判するメディアもないという状況を、ジャーナリズム研究者の丸山重威氏は7日の「しんぶん赤旗で、次のように批判しています; 裏金事件の真相解明もないまま与党の自民、公明両党は3月28日、「岸田軍拡」を推進する2024年度予算案を強行しました。総額112兆。防衛費は7・9兆円で「審議の不足は明らか」(信濃毎日新聞30日付)なままの成立です。 岸田文雄首相は28日の会見で「重要施策を全速力で実行」と発言。「読売」(30日付社説)は「不信の払拭へ成果を出す時」とエールを送ります。 しかし、1976年から2014年まで、平和国家として国際紛争の助長を回避するため武器輸出を原則、全面禁止していた日本。次期戦闘機の第三国輸出の閣議決定(26日)は「国民的議論なき原則の空洞化」(「朝日」27日付)です。「安全保障政策の大きな転換・・・にもかかわらず、根本的な問題が議論されていない」(「毎日」同)のです。 「東京」(28日付)は「平和主義の堅持を掲げながらも、憲法9条に基づく専守防衛からの逸脱を続ける。憲法解釈の恣意(しい)的な変更を起点とする安保法が日本を再び『戦争ができる国』『軍事大国』に導く」と批判します。 テレビが全体として岸田大軍拡を掘り下げないなか、TBS系「サンデーモーニング」(31日)は「平和国家日本・・・?」との特集を組みました。 同番組で、コメンテーターの寺島実郎氏(日本総合研究所会長)は「発言力の小さい国でも自己主張するには『筋道の通った主張』が大事。国際社会で日本が持つ筋道はやはり非核・平和。新時代に向け国際社会で日本の役割は何か、自問自答していかないといけない」と表明。 ジャーナリストの青木理氏も「三木内閣外相の宮沢喜一氏は国会で『(日本は)武器を輸出して稼ぐほど落ちぶれちゃいない』と言いました。逆に言うと、今はそこまで落ちぶれていることになる」と指摘しました。 メディアがこの「筋」を見失わないように、と願うばかりです。(まるやま・しげたけ=ジャーナリズム研究者)2024年4月7日 「しんぶん赤旗」 日曜版 31ページ 「メディアをよむ-平和国家の筋道どこに」から引用 自民党政権が日々、国会を無視して勝手な法案をどんどん採決していく事態に対し、メディアがただ単に「批判」をするだけで、終わりという状況ではまずいのではないかと思います。メディアが批判をしたときに、政権がそれを気にして少しは反省し、批判的な意見にも耳を傾けてより良い政治を志すというのであれば、メディアの批判も民主的な政治の運営に一定の役割を果たしていると言えるわけですが、今の自民党政権は「メディアの批判など、いいたけりゃ言わせておけばいいのであって、こっちはそんなことお構いなしに、やりたい放題やるだけだよ」という姿勢をあらわにしているのですから、もはや「批判」などは何の役にも立ちはしないと知るべきです。こうなってしまったからには、もはや「批判」などで事足りる事態ではないのであって、メディアはその本来の能力を発揮して、全国民に広く「倒閣運動に立ち上がれ」と檄を飛ばすして、実力で阻止する以外に自民党政治の横暴を止める手段はないのだという「啓蒙活動」を始める段階に差し掛かったと思います。
2024年04月23日
全7253件 (7253件中 1-50件目)