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当ブログ2月13日の欄に川崎市・福田市長のインタビュー記事を引用したところ、wolfさんの次にナナシイさんの、次のようなコメントが書き込まれました。今日はそのナナシイさんのコメントについて、考察してみたいと思います。ナナシイさんのコメントは、次の通りです;>少数派が圧倒的多数派にヘイトスピーチを投げつけたところで、そんなものはその場限りで終わりで、痛くもかゆくもないものであり、それは単なる「嫌悪の表現」に過ぎず、条例反対派が珍重する「表現の自由」の範囲内であると言えます。 じゃあ逆に日本人が韓国や中国国内で現地の人に向かってヘイトスピーチを投げつける事は、現地の人にとっては痛くも痒くもないだろうから容認できますかって聞いたら、佐原さんは絶対キレ散らかすと思うんですけど、その辺どうなんですかね? キレないまでも容認できないとは思いません? 何度でも繰り返しますが、社会的立場の強弱、多数派であるか否かで同じことを言ってもある時はヘイトスピーチにならず、別の時にはなる、などと言う事はありません。それはただの悪しき二重基準に過ぎず、都合よく自分の否定したい相手に対するヘイトを悪い事ではないと思い込みたいだけの、卑劣で薄汚い人間失格のゴミ以下の発想です。 佐原さんがこうやって攻撃されるのは、相手が何者であり尊重すべきであり、攻撃的な言葉を投げかけてはいけないのだという事を理解できず、また非難と批判の区別もつかない社会のボトムズであるからです。 最初のセンテンスは、日本人が韓国へ行って、例えば「韓国人は臭い」とか「アタマ悪いんじゃないか」とか、そういうヘイト表現で喚いたりすることを、容認できるのか、という質問のように思われますが、これは、容認するもしないも、基本的に人には表現の自由というものがあるのですから、それを私が「規制」することはできないと思います。逆に言えば、そんなことは彼の勝手であって、私は関係ない、という態度をとると思います。そんなヤツに関わりを持ちたくないし、、、。 ちなみに、数年前に韓国の空港で酒に酔って暴言を喚き散らして空港警察にお世話になった日本人国家公務員がいましたが、まあ、一応、暴言でも嫌悪発言でも少数派がいくら喚いても、その程度という教訓だと思います。 コトほど左様に少数の者が社会の秩序を乱すようなことがあれば、それに対処する法律は整備されているということでしょう。 最後のセンテンスでは、ナナシイさんが私を攻撃する「理由」の説明とのことですが、これも色々勘違いがごちゃ混ぜになっているように思われます。「相手が何ものであれ尊重すべきであり、攻撃的な言葉を投げかけてはいけない」というのは、これは常識の問題であって、当然私は理解しております。しかし、これはモラルなのであって、全ての人々に法律のように強制できるものではありません。その上、世の中にはモラルの範囲内で行動するという「規範」を守り切れずに「爆発」する人もいるわけで、その「爆発」が他人の権利を侵害するようになったら、そこは法律で規制できる、というのがヘイトスピーチ対策法の考え方なのだと、私は思います。
2020年02月16日
当ブログ14日の欄に「不快感で中止 許されない-表現の不自由展」を書いたところ、wolfさんから次のようなコメントをいただきました。佐原@スタバさんへお返事ありがとうございます。まず前回書き漏らしましたが、私個人としては、憎しみも人間の根源的な感情であり芸術の源泉になりうる以上、美術表現としてヘイトを締め出すべきではないと考える立場であり、公開中止にも反対です。しかしながら、仮にヘイトが規制の正当な理由となりうるなら、慰安婦像は微妙だけれど、昭和天皇や安倍首相、戦死者に対するものは確実にヘイトと考えます。で、純粋に疑問なんですが、いったい誰と戦っているんですか?軍が慰安所の設置運営を推進関与していたことや、そこで働いていた性サービス嬢の存在および意に反して従事していた人が存在することを否定している人はいないと思いますが。>もう二度と戦争はしないという考えを新たにするとおっしゃっている以上、公娼制や売春に対する反対ではなく、軍事関連を意識されていると解釈しますが、軍が推進していたこと自体は、公娼制度があった時代のことであり、勤務地と経営者、客層の違いだけかと思います。流石に親に売られたなんてのは昨今はあまり聞きませんが、借金のカタや色悪に騙されて風俗に堕ちたなんてのは現在もよく聞くはなしで、当時無かったはずはなく、とはいえこれも業者の問題で、軍関連と関係なく居ただろうし、やはり慰安婦が何かの象徴となる理由になりません。このため、慰安婦像が象徴しているものは、国家による強制連行や残虐行為としか考えられませんが、この点に関しては証拠が無く元慰安婦の証言しかない状況で、その証言には荒唐無稽な物も多く、確定した事実といえる状態ではありません。この点については「ありもしない捏造」という意見を否定できず、「虚構によって日本人の名誉を傷つける」という主張は成り立ちます。不戦の誓いを新たにするために日本中に立てるならば別のものにすべきです。事実が確定しておらず、論争になっているものを推し進めるのは、あえて平地に乱を起こそうという意図と捉えられ本来の意図から大きく離れるだけで益はない上、事実が想定と違った時には「虚構によって日本人の名誉を傷つけて回った」責任を負う羽目になってしまいます。 (2019年08月15日 00時12分33秒)このコメントに対する私の返事は、次のとおりです。>私個人としては、憎しみも人間の根源的な感情であり芸術の源泉になりうる以上、美術表現としてヘイトを締め出すべきではないと考える立場であり、そういう「立場」はおかしいと思います。憎しみも人間の根源的な感情であり芸術の源泉というのは、その通りです。しかし、ヘイトはそれとは同じではありません。ヘイトを法律を作ってまで、禁止しなければならない理由があります。それは、2016年に施行された「ヘイトスピーチ対策法」に述べられてますが、「本邦外(日本国外)出身者への差別的意識を助長し又は誘発する目的で公然とその生命、身体、自由、名誉又は財産に危害を加える旨を告知する行為、本邦外出身者を地域社会から排除することを煽動する不当な差別的言動」であるから禁止されなければならないのです。したがって、単なる「憎しみ」をヘイトとする考えは、認識違いであり思考を混乱させる「元」です。>仮にヘイトが規制の正当な理由となりうるなら、慰安婦像は微妙だけれど、昭和天皇や安倍首相、戦死者に対するものは確実にヘイトと考えます。それも、ちょっとズレていると思います。昭和天皇や安倍首相は、第一、本邦外出身者ではありません。また、彼らは権力者の座にあるというポイントも重要です。彼らに向かって「死ね」とか「日本から出て行け」などと言ってみたところで、意味がありません。そのような言動で彼らの生活が変化することなどあり得ないからです。しかし、本邦外出身者にとってヘイトスピーチは生命、財産を直接的に脅かされる危険性に満ちた「実害」です。だから、政府も法律を作って防止する必要があるのです。その一方で、昭和天皇や安倍首相に対して、あなたがヘイトと見間違うような激しい罵声が浴びせられるのは、彼らに対する政治的批判が昂じてのことであって、本来は政治的な批判が「元」なのであり、ヘイトスピーチとはまったく別物であると、こういうことです。>で、純粋に疑問なんですが、いったい誰と戦っているんですか?私としては、誰かと戦っているつもりはありませんが、敢えて言えば、憲法を蔑ろにして戦前体制を復活させようとする勢力と戦わなければならないという自覚はあります。憲法にも、第何条だったか、憲法が保障する基本的人権は国民の「不断の努力」によって維持されるというようなことが書いてあったと思いますが、その「不断の努力」です。>借金のカタや色悪に騙されて風俗に堕ちたなんてのは現在もよく聞くはなしで、当時無かったはずはなく、とはいえこれも業者の問題で、軍関連と関係なく居ただろうし、やはり慰安婦が何かの象徴となる理由になりません。その認識はちょっと、実態を理解するにはあまりにも「不足」だと思います。当時の日本には公娼制度がありましたが、未成年の女性を「公娼」にすることを禁ずる法律もありました。しかし、軍は公娼として働く女性は多くが梅毒などに感染していたため、兵隊に感染が広がることを避けるために、性的経験のない若い女性を集めたということも判明しています。したがって、慰安婦問題は戦争があったために起きた問題であり、このような悲劇を繰り返さないということは、戦争をしてはいけないということになるわけです。>このため、慰安婦像が象徴しているものは、国家による強制連行や残虐行為としか考えられませんが、この点に関しては証拠が無く元慰安婦の証言しかない状況で、それも何か、誤解というか認識不足というものでしょう。こういう基本的なことは既に研究しつくされており、その結果が出版もされており、それらを元に国連からの勧告も出されておりますので、勉強してみるのが良いと思います。>この点については「ありもしない捏造」という意見を否定できず、「虚構によって日本人の名誉を傷つける」という主張は成り立ちます。いや、それはもはや成り立ちません。この春、「主戦場」という映画が話題になりましたが、あの映画の中で、藤岡信勝とか加瀬秀明とかが「慰安婦の証言はコロコロ変わる」とか「信用できない」とか、その他様々「慰安婦否定論者」が言いたい放題言った後で、監督は逐一ファクトチェックしていくのですね。で、彼らの発言がことごとく「ファクト」によって否定される。見ていてスッキリする映画でした。>事実が確定しておらず、論争になっているものを推し進めるのは、あえて平地に乱を起こそうという意図と捉えられ本来の意図から大きく離れるだけで益はないという認識も間違いです。現在の歴史学会に慰安婦問題に関する論争はありません。吉見義明氏を中心とする学者グループがまとめた研究結果がもはや定説となっており、これを批判したり覆そうとする論文はこの十数年間に皆無です。唯一、慰安婦にされた被害者の人数が確定出来ないだけであって、その他の慰安婦の実態、日本軍と日本政府の法律上の責任など、すべて研究しつくされて、その上で国連の勧告も出ております。したがって、「平和の少女像」設置は「人権尊重」と「二度と戦争はしない」ことをアピールする運動として極めて有効であると考えます。
2019年08月16日
当ブログ7月27日の欄に、週刊朝日臨時増刊号のデイビッド・ケイ氏の「日本のメディアは忖度せず、連帯して安倍政権と戦え」という記事を引用したところ、Pulfield@LogOut さんからは、次のようなコメントをいただきました;タイトル:マスコミの正義って誰が証明し担保するんでしょ? >日本のメディアは忖度せず、連帯して安倍政権と戦え-----まるでマスコミ=正義、安倍政権=悪の権化と言ってますねぇ…そのマスコミの正義って誰が証明し担保するんでしょうね?その「我こそ正義」って思い上がり、傲慢さこそがマスコミへの不信を拡大してることにマスコミが気付かない限り、彼らが真のジャーナリズムとなる事は無いでしょうね。○思い上がりの例その1 AP通信東京支局の記者・影山優理さん「私達記者は正義。がんばる」に対する反応 http://togetter.com/li/941887○思い上がりの例その2 朝日新聞欧州特派員記者、警察の「被害者遺族から匿名の要望有り」に対して「被害者の人となりや人生を関係者に取材して事件の重さを伝えようという記者の試みが難しくなる」と批判 https://twitter.com/shiho_watanabe/status/758178708859527168当ブログ7月27日のコメント欄から引用先ず最初は、タイトル、>タイトル:マスコミの正義って誰が証明し担保するんでしょ? 私が思うに、マスコミは報道機関ですから、その報道機関に対し「こいつらは本当に正義なのか? 悪ではないのか?」という問題の立て方がおかしいと思います。報道機関で働く記者たちは朝日新聞でも産経新聞でも、それぞれの記者が「これは報道する価値がある」と考えて、取材し裏を取り記事として印刷するのであって、そういう活動に対し、「これは正義か? 悪か?」という設問は、あまり意味がないと思います。ただし、報道も人間のすることですから、時には間違いが起きることもあり、誤報として関係者が責任を取らされることもありますが、それは「正義ではない証拠」というわけではなく、不幸にして起きた不祥事というものでしょう。ただ、どんな報道に対しても、私たちは盲目的に信じるのではなく、常にメディアリテラシーに注意を払うべきなのであって、誰かが証明して担保してくれてるから安心して信用できるなどというものではないことは言うまでもありません。>まるでマスコミ=正義、安倍政権=悪の権化と言ってますねぇ…政治権力は放置すると腐敗するというのは、古今東西の人類が経験してきたことであって、そのためにマスコミによる権力監視が重要であるというのは、日本だけではなく欧米の常識です。その上、総務大臣が番組内容によっては電波を止める、などという暴言を吐いて首相がそれを是認するのですから、報道を抑圧しようという安倍政権の姿勢は明白であり、国連特別報告者が、民主主義を守るためにはマスコミは安倍政権と戦うべきだと発言するのは当然と思います。その他、思い上がりとか傲慢とか、いろいろ指摘していますが、何万何千といる報道関係者の中には、能力や感性など様々な人たちがいるのですから、中にはとんでもない失敗をする人もいるのは、致し方のないところであって、そういう点だけを取り上げて、「これがマスコミの本質だ」というような言い回しは、必ずしも本質を言い当てているとは言えないのではないか。結局、この「マスコミの正義云々」という議論は、個々の警察官の不祥事を指して「警察の正義って誰が証明し担保するんでしょう?」と言ってるようなものではないかと思います。
2016年08月01日
子どもの貧困とその対策について、東京工業大学教授の弓山達也氏は3日の東京新聞コラムに、次のように書いている; 6月18日から25日までの6回連載の「新貧乏物語-子どもたちのSOS」が、読み応えがあった。「重い虫歯20本 治療なく溶け・・・」(18日)、「『パン買ってください』売り歩き」(19日)、「教材費800円『払って』言えない」(21日)など、折しも連載の最中に高額な海外出張費や公費の私的利用等で辞任に追い込まれた都知事が無念の表情で見上げる同じ空の下で、かかる賀因があるのかと思うとがくぜんとするばかりである。 むろん貧しさば子どもたちの責任ではない。そして親たちの多くも離婚や病気や子どもの障害など、運命に翻弄(ほんろう)されて生きている。パン1個、給食のない時は1日2食の生活。こうした壮絶な生活もさることながら、子どもたちが貧しさゆえに地域でも学校でも、そして家庭でも孤立せざるをえないことに胸が締め付けられる。家庭環境が違いすぎて話題についていけない、いじめや孤独、欠席気味、学習の遅れ、その先に容易に予想される更なる貧困の連鎖を何とか断ち切りたい。 今月より本欄を担当させていただくので少し自己紹介になるが、現在、大学院生と安藤泰至編『「いのちの思想」を掘り起こす』をヒントに、「いのちの思想」を体現したり、表明したりした人物を1人取り上げて毎週報告会をしている。 教員の私がとりあげたのは1958年に出版されてベストセラーになった当時10歳の少女の日記『にあんちゃん』である。作者の安本末子は在日韓国人で、両親は他界、長兄は炭鉱労働者、長姉は奉公で、次兄(にあんちゃん)と小学校に通っている。傘がなかったり、教材が調達できなかったりで学校に行けないエピソードは本連載そのままである。 しかし、決定的に違うのは誕生会に呼んでくれる級友や教材をそっと工面してくれる教師や身寄りのない子らをサポートする近隣住民の存在である。そして、末子はその中で子どもを亡くした母親や自分より貧しく差別されている親子に対して、いたわりとおもいやりの心を育んでいく。信頼やネットワークが社会の効率性を高めるというソーシャルキャピタル論が議論されて久しいが、共苦共感の助け合いの世界がここにはある。 「新貧乏物語」の連載後半では、少しだけ光が見えてくる。それは中学校の入学式で友達をつくろうと勇気をもって話しかける女の子(22日)や夢を語り始め高校進学を決めた男の子(25日)の姿である。 この子たちが自らの力で自分の未来を切り開いていけることを信じ、そしてそれを最大限支援できる社会体制を作ることが我々の使命であると決意したい。(東工大教授)2016年7月3日 東京新聞朝刊 11版 5ページ「新聞を読んで-貧困の中の一筋の光守れ」から引用 この記事で弓山氏が言及しているベストセラー「にあんちゃん」は、私も子どものころ映画を見た記憶があります。私のおぼろげな記憶では、NHKラジオでも連続ラジオドラマで放送していたような気がします。主題歌の歌詞に「青いなすの花」という文言があったような気がしますが、何かの思い違いかも知れません。記録によれば、この映画はその後文部大臣賞を受賞したとのことで、在日は国民健康保険に加入できないというような差別的な政策が存在する一方で、生活が困窮する在日の人たちへの救済策が各自治体で実施され始めた頃と思います。このような歴史を知らない者が、在日に特権があるなどと言い出すのは、実に嘆かわしいことです。
2016年07月31日
権利行使の自由がままならない一方で、責任や義務が増大していきそうな日本の若者について、関西学院大学准教授の貴戸理恵氏は、3日の東京新聞コラムに次のように書いている; 「子ども」とはどのような存在だろう? そう聞かれれば「幼くかわいい」「学校に通う」「未熟なので責任が免除される」など、ぜまざまな事柄が思い浮かぶだろう。「大人」はその反対だ。成熟した心身を持ち、教育を終え、仕事や家庭を持って社会的な責任を果たす。そんなイメージだろうか。 だが子どもと大人の境目は、実際にはとても曖昧だ。法制度的な面だけを見ても、「ここまでは子ども、ここからは大人」という境界ははっきりしない。たとえば、刑事責任が問われるようになる年齢は14歳。労働は15歳から。結婚は、女性は16歳、男性は18歳から可能になる。18歳になると運転免許や「アダルト」が解禁される。同時に児童福祉法の「児童」ではなくなり、買春禁止対象から外れる。20歳は民法上の「成年」とされ、これ以降お酒やたばこが許される。そして少年法が適用されなくなり、罪を犯せば実名で報道されるようになる。 今年から18歳・19歳の人びとが選挙で1票を投じうるようになった。これまで選挙権は、民法上の成年に伴う大人としての権利だった。「選挙権と成人式はセット」と考える年長世代には、不思議な感じがするかもしれない。 ところで、大人になるとは、この国の一人前の構成員と見なされることであり、権利と義務の両面が伴う。そしてこの権利と義務のバランスシートは、過去20年で子ども・若者にとって不利になったといえる。 たとえば2000年、少年法が定める刑事責任年齢が16歳から14歳に引き下げられた。他は変わらないまま、責任だけが強化されたわけだ。また、1990年代半ば以降に進行した若者雇用の劣化は「仕事に就き自分の家族を持つ」という当たり前の自由な大人への扉を「狭き門」にしてしまった。それを後押ししたのは経済界と政治だ。つまり、大人としての責任は早いうちから課され、大人の自由の方は獲得できる可能性が狭められてきたといえる。それを思えば、18歳選挙権は若者の権利・自由を拡大することであり、望ましい方向性である。ひとりでも多くの若者に行使してほしい。 一方で、その意義は、限定的だ。今回増える18歳・19歳の有権者は約243万人で全体の2・3%。生活を改善する政治的手段が若者に与えられたとはいえない。権利と義務のバランスシートのマイナスが解消されたとか、ましてやプラスに転じたわけではないのだ。 危惧されるのは、このような限定的な権利と引き換えに、今後若者に対して「国家に貢献する義務」が求められる危険性だ。 国民国家の歴史を見れば、参政権は徴兵の義務とセットで与えられてきた。18歳選挙権と引き換えに、若者を国家の兵力として動員しようとする議論が今後、出てこないとも限らない。 だから今、確認しておく必要がある。現代の若者の権利と義務のバランスシートは、まだまだ実質的に権利が少ないほうに傾いたままだ。選挙権付与を根拠に「義務も増やすべきだ」とするのば不当である。 そして、当然のことだが、教育機会の平等や雇用・生活保障の整備など、若者世代の利益を実現していく責任が、年長世代にもあり続けることは言うまでもない。(関西学院大学准教授)2016年7月3日 東京新聞朝刊 11版S 4ページ「時代を読む-若者の権利は充足されたか」から引用 学校を卒業したら就職してお金を貯めて自分の家族を持つという当たり前の自由が、経済界の要請で労働基準法を骨抜きにするという自民党政治の結果、叶わぬ夢となりつつあるのは重大な問題です。自民党政権は、それでも足りないとばかりに、労働者派遣法をさらに改悪して、一定数の労働者を生涯派遣社員として働かざるを得ないような状況にしています。民主主義の国においてこのような状態を是認してよいわけがありません。こういう状況を改善していくためには、子どものときから、我々は生まれながらにして「権利」をもっているのだという教育が必要です。就職を目前にした高校生や大学生には、「労働者の権利」についても、詳細に学習させて明確な権利意識を確立させることが、やがてこの国の労働者の生活を豊かにし、活発な消費活動を引き起こし、経済の繁栄につながるという「大局観」が大切と思います。
2016年07月28日
一度は安倍政権によって訪日を拒否された国連特別報告者のデービッド・ケイ氏は、その後春になって訪日・調査を実現しました。その調査結果と今後の日本の課題について、ケイ氏は「週刊朝日」のインタビューに応えて、次のように述べています;「表現の自由」に関する国連特別報告者として今春、訪日したデービッド・ケイ氏(米国)が独占インタビューに応じた。9日間の滞在で政府関係者、ジャーナリストらを調査し、「日本では報道の独立性が重大な脅威に直面している」との暫定報告書をまとめたケイ氏が語った警告とは-。 - 来日中、放送法第4条にある、番組の政治的公平性を理由に放送局の「電波停止」に言及した高市早苗総務相との面会は実現しませんでした。テレビ局はどう抵抗すべきですか。”政治的中立”という意味を、政府は未だに定義していませんが、報道が中立でないと政府が判断した場合、停波を命じる権限があると主張しています。これはメディアが政府に対し、会社として感じる圧力に他なりません。会社が自己防衛の必要性を感じ、その会社で働く記者へと波及し、一線を越えないように注意しろという”忖度(そんたく)”のメッセージがあらゆる形で送られます。政府による規制で報道が一極集中型になってしまうことは、大きな課題です。 - 報告書で「放送法第4条を廃止して独立した機関に委ねるべきだ」と記していますが、具体的にどんな機関を思い描いていますか? 政府から独立した規制委員会です。委員は政府、民間などのステークホルダー(利害関係者)から指名されるとしても無党派で、政治的な問題ではなく技術面の問題を主に検証するといった組織にするべきです。米国のFCC(連邦通信委員会)もモデルとしてはふさわしいです。PCCは5人の委員のうち3人以上は同じ政党から選出してはいけないという条件などがあるからです。公的機能でもあるので、政府はある程度関与しなければなりませんが、政府だけでなく、多様な社会的機関が参加する仕組みができればいい。日本は政府に規制権限が偏りすぎています。 - 秘密保護法は多くの国にありますが、日本の記者はどうやって対処すればいいでしょうか? 国家機密は深刻な問題です。リベラルな民主的国家であれば、安全保障や重要なインフラに関する機密情報へのアクセスに問題はつきものです。どの政府も当然、国家機密を保護する一方で、法律で秘密指定を明確にしなければなりません。しかし、日本の法律は、その区別をはっきりしていないことが問題です。もう一点は米国も同じですが、国家機密を漏洩すると厳しい罰則が科せられること。罰則が、すでにジャーナリストを萎縮させています。記者が秘密保護法に抵触したら、仕事を失う危険性もあります。日本の特定秘密保護法では、報道・取材の自由に十分に配慮すると記されているが、この書き方では、私がジャーナリスト側の弁護士だとしたら、特定の情報収集には関わらないようにアドバイスするでしょうね。ジャーナリストが保護される範囲が必ずしも明確ではないですから。政府の独断で秘密の定義が変わるのではなく、市民の情報アクセス権を侵害しない第三者機関を監視機関とする必要があります。 - 日本には国会・官庁などで取材活動する大手メディア各社の記者が親睦、または共同会見などの取材に便利なように組織した「記者クラブ」という任意組織があります。その制度にも問題があると報告書にありますが、米ホワイトハウスにも記者クラブに似た報道協会があります。 ホワイトハウスにも報道協会はありますが、違いがあります。それは、ホワイトハウスの報道協会は日本の記者クラブ制度ほど閉鎖的ではないこと。限られた報道機関にだけしか情報提供しないというより、むしろ誰にでも情報提供することを前提にしています。記者には協会以外にも、政府関係者に通じる窓口が複数あります。米国の報道協会は、ジャーナリストを支援する情報アクセス権を提唱するためにあるので構造が大きく違います。一方、日本の制度は閣僚や大手メディア企業の既得権益のためにアクセス権を限定しています。ホワイトハウス報道協会では逆で、新しいメディアやフリーランスに対してオープンにすべきだと言っています。日本ではフリーランスや新しいメディアが記者クラブにアクセスするのは困難を極めます。ホワイトハウス報道協会のホームページでは、ある程度の透明性が担保されています。昨年だったか、もっとアクセス対象を広げるために、ホワイトハウス記者会見の運営の仕方を見直すべきだと要求したこともあります。◆記者の終身雇用問題は構造問題 - 日本のジャーナリストは連帯すべきだと訴えていますが、何が必要ですか? ジャーナリストによる機関で、ジャーナリストだけでなく、ジャーナリズムやアクセス権のための支援体制です。権利のために支え合い、仲間のために提言する仕組みが必要です。今は、ジャーナリスト間での仲間意識が感じられません。朝日新聞の例からもわかるように、政府から厳しく批判されたり間違えたりすると(ジャーナリストでも間違えることはあります)、他社から激しい攻撃に遭います。国によっては、ジャーナリストが一丸となって報道の仕方を見直したり、報道規制や抑圧に抗議する委員会があります。こうして連帯したら、政府は、放送法を盾に電波停止をちらつかせるようなことができなくなるでしょう。 - 安倍政権は民主主義国家なのになぜ、記者を抑圧したり報道の自由を侵害しようとするのでしょう。 どんな政治家でも政府でも、国民に向けてのメッセージは管理するものです。自分の政府に対して調査してほしいなんて言う政治家はいませんからね。その意味では、日本政府の態度は至極当然です。しかし、民主主義社会では、メディアは国民のための政府の監視役であるはずです。政府を懐疑的に見る必要があり、調査対象と捉えるべきです。メディアの仕事は市民に情報提供することですが、ときに政府の思惑と対立することもあります。だからこそジャーナリストには、政府規制や圧力に抵抗できるような法律や体制が必要なんです。日本のメディアの組織構造に問題があるので、市民の知る権利のために調査報道したり、職務を全うしたいと思っていても、うまく実現できないようです。 - その構造の問題とはどのようなものですか? 日本の記者の多くは、大手メディア企業の従業員として入社します。その会社で10年、調査報道をしてきた記者でもある日、営業、人事部に異動になることもあります。これが会社を優先するインセンティブなので、ジャーナリストの流動性はあまりありません。日本の記者は終身雇用制が基本で、ひとつの会社に非常に長く勤めます。欧米では記者が頻繁に転職します。会社とのつながりが強いというのも、ジャーナリストが自分の意見を発信しづらかったり、自分で判断しづらい大きな原因でしょう。大手メディアは給料が高いこともあわせて、必要以上に社内で波風を立てたくないという強いインセンティブにもなっているようです。その一方で日本は最近、ネットメディアが活気にあふれています。多くの人は大手メディアがタブー視し、報じない情報をネットで得ていると思います。<デービッド・ケイ> 米カリフォルニア大学アーバイン校教授で国際人権法や国際人道法が専門。国連の特別報告者は大学教授や弁護士ら専門家が任命され、北朝鮮やイラン、ミャンマーなど特定の国や、子どもの人身売買など特定のテーマをめぐる人権状況について調査にあたる2016年7月7日 週刊朝日臨時増刊号「朝日ジャーナル」 34ページ「日本のメディアは忖度せず、連帯して安倍政権と戦え」から引用 一連の記者の質問の中で最後から2番目の質問は、見方によってはかなり間抜けな質問にも見えます。「日本は民主主義の国なのだから、そういう国の政府が記者を抑圧したりするわけがないのに、どうして安倍政権は抑圧するのでしょうか?」などと、子どものようなことを言われれば、大の大人がイラッとするのは当然と思いますが、そこは国連特別報告者は冷静に大人の対応をしてくれて「いや、政治家というものはどんな国でもメッセージの管理はしたがるものなのであって、一般的には安倍政権だけがおかしいというわけではない」と説明しています。但し、特定秘密保護法のようにジャーナリストを処罰するような規定を置くのは行き過ぎであること、ジャーナリストが政府の圧力や規制をはねのけて戦えるような法律の整備が必要であることなど、今後の日本政治の課題が浮き彫りになっていると言えます。それにしても、政府を監視し批判するのが記者の仕事と言いながら、その新聞社のトップがたまに首相と酒を呑んだりメシを食ったりしていたのでは、その下の記者に政府批判の記事を書けと言っても中々難しいのではないでしょうか。やはり、社長たるもの、自社の記者が記事を書きやすいように行動を自重する必要があると思います。
2016年07月27日
右翼団体「日本会議」と関係が深い日本大学教授・百地章氏が監修した漫画「女子の集まる憲法おしゃべりカフェ」には、登場人物が「子どもに下手に権利なんて覚えさせちゃダメ」などと発言するシーンがあると、6月18日の朝日新聞が報道している; 「自分で稼いで食べているわけでもない子供に下手に『権利』なんて覚えさせちゃ駄目よ! ろくな大人にならないわ」 日本会議政策委員の百地章・日本大学教授が監修した冊子「女子の集まる憲法おしゃべりカフェ」には、47歳の主婦が、こんなふうに叫ぶ場面がある。 大人の従者とみて導くか。独立した権利の主体とみるか――。二つの「こども」観の対立が各地で起こっている。 東京都日野市の元市議の渡辺眞(ただし)氏は2006年ごろ、日本会議の地方議員ネットワークで呼びかけ、自発的に「子供権利条例に反対する全国地方議員の会」を結成。地方議員50人以上が加わり、情報交換した。 渡辺氏が危機感をもったきっかけは、「子どもの権利」で著名な大学教授が、同市に講演に来たことだった。「子供にも当然権利があると思うが、子供権利条例がいう『ありのままの権利』や『意見を尊重される権利』などは、子供の未熟な欲望を拡大してしまう」と感じた。■「自然発生的」な反対運動 激しい反対運動で、権利条例が11年に頓挫した広島市。運動の中心になったのは、「『広島市子ども条例』制定に反対し子供を守る教師と保護者の会」だ。日本会議広島を連絡先の一つとしているが、PTA連合会のOB会や教員団体など20団体以上が名を連ね、署名活動などをした。この会の代表は、元全国高校PTA連合会長で、一般財団法人「日本教育再生機構」理事の女性だ。 日本教育再生機構の理事長八木秀次氏は当時、「危ない!『子どもの権利条例』」と題した冊子やDVDを作成。反対運動の参考資料になった。だが、憲法24条の改正なども訴え、日本会議の主張と近い八木氏も、「日本会議の役員ではなく、講演や原稿の執筆を依頼している」(日本会議)だけだという。 広島市では、権利条例を推進する集会に参加して危機感をもった数人が、喫茶店などで集まったのを機に、議員への働きかけを始め、反対する会の結成につながった。会の代表だった元全国高校PTA連合会長の女性はこう振り返る。「日本会議が中心になったわけでもない。様々な立場の人たちが、自然発生的に集まってきた」 こうした反対運動について、日本会議は「地方議員の独自の動きに協力したことはあるかもしれないが、中央から指示したことはない。草の根の動きは把握しきれない」とする。■「子供」か「こども」か こんな動きもある。 13年6月、文部科学省と文化庁は、「子供」と「子ども」が混在していた公文書の表記を、「子供」にするよう周知徹底した。 この前月、日本会議国会議員懇談会副会長の下村博文・前文科相に、「子ども」を「子供」か「こども」に統一するよう求める要望書が手渡された。朝日新聞が情報公開請求で入手した要望書には、漢字と仮名の交ぜ書きは「国語破壊」「文化破壊」につながる――とある。 要望書を出した団体名や個人名は非開示だった。 文化庁国語課によると、申し入れ後、ルールを調べるように下村氏から指示があり、「子供」が原則だとして周知したという。下村氏は取材に応じなかった。 「子供」は「供」の語例として常用漢字表に載っているが、国語課は「『子供』の『供』には従者の意味があるという教育評論家の説が広がり、『子ども』が使われるようになっていたのではないか」という。 3月には、日本会議国会議員懇談会の衆院議員が、国会で教科書の中の交ぜ書きについて質問し、子どもの「ども」の根拠について尋ねていた。 一連の動きについて日本会議は、「まったく関与していない」としている。 日本会議の考え方に近い人たちが緩やかに連携し、各地で多様な運動を広げている。2016年6月18日 朝日新聞デジタル 「『子どもの権利』拡大認めず 日本会議から広がる運動」から引用 日本政府が国際社会に促されてようやく「子どもの権利」条約を批准したというのに、現場の親や教員が「子どもに権利を教えるな」と言うなど、あきれ果てた民度というものではないでしょうか。子どもの権利を認めると「子どもの未熟な欲望を拡大する」というのは、そう思っている大人の「教育観」が未熟なのであって、こういう「未熟な大人」にどう自覚を促すか、政府の新たな課題と言えそうです。
2016年07月25日
年老いた妻の介護に疲れた夫が起こした殺人未遂事件について、6月26日の東京新聞は、次のように報道した; 埼玉県警西入間署は25日、介護中の妻を殺害しようとしたとして、殺人未遂の疑いで、埼玉県坂戸市浅羽、無職○○○○容疑者(87)を逮捕した。妻の○○さん(85)は搬送先の病院で死亡が確認され、署は殺人容疑に切り替えて調べる。 逮捕容疑では、同日午前零時40分ごろ、自宅一階の寝室で、○○さんの鼻や口を手で押さえるなどして、殺害しようとしたとされる。調べに同容疑者は「妻を殺そうとしたのは間違いない。10年ぐらい介護し、疲れたのでやってしまった」と容疑を認めているという。 署によると、同容疑者は「妻の首を絞めて殺した」と自ら110番。駆け付けた署員が介護用ベッドの上であおむけに倒れている○○さんを発見した。夫妻は2人暮らしで、自宅敷地内の別棟に長男家族が住んでいる。 ○○さんは約10年前から体力が衰えて歩行が難しくなり、同容疑者が主に介護に当たっていた。○○さんは4月から同県鶴ケ島市内の老人保健施設に入所していたが今月上旬、自宅に戻っていた。2016年6月26日 東京新聞朝刊 11版S 29ページ「殺人未遂容疑で87歳の夫を逮捕」から引用。尚、文中の加害者被害者の氏名は引用者の判断で伏せ字とした。 この記事が示すような、介護に疲れた人が引き起こす不幸な事件は時折ニュースとして伝えられます。その一方で、行政から我々に伝えられる「介護の心得」は「自助、互助、共助、公助」となっており、最も優先されるのは「自助」、自発的に生活課題を解決すること、となっています。そう言われるとどうしても、自分の妻のことは自分で面倒見なくては、という思考回路に閉じ込められて、上の記事のような悲劇に行くつくことになるのではないかと思います。十分な経済力があって、大家族で生活できるような立場の人々であれば「自助」を最優先で快適な生活を送ることは可能かも知れませんが、上の記事に見るような、同じ敷地内に息子夫婦が別棟に住む、といった程度の「経済力」では、とても満足な「自助」は難しいのであって、私たちは、もっと「公助」の門戸を広げるべきだと思います。乳幼児の保育と高齢者の介護は社会が担う、そういう社会を、私たちは目指すべきだと思います。
2016年07月05日
男女平等や女性の社会進出が如何に大切か、作家の雨宮処凛氏は17日の「週刊金曜日」コラムに次のように書いている; 6月4日、国会周辺に赤いファッションの女性たちが集まった。その数、5000人。 3回目となる「女の平和 国会ヒューマンチェーン」である。 すっかり「女の平和」のイメージカラーとして定着した感のある「赤」だが、もともとはアイスランドの運動に触発されてのものだった。1975年、アイスランドの女性たちは地位向上を求めて大統領府に集まる。その時に身につけていたのがレッドストッキング。その動きは5年後、民選による世界初の女性大統領を誕生させ、現在、アイスランドは男女平等ランキング1位。女性がもっとも住みやすい国と言われている。 そんな「女性に優しい」アイスランドの成立に大いに貢献したレッドストッキング運動。話には聞いていたものの、最近、初めて映像でその運動を観る機会があった。映画『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』の中に、当時の映像が出てきたのだ。 一斉に休暇を取り、家事を放棄して大統領府前に集まる大勢の女たち。その姿は、「自分たちが未来を変えるのだ」という確信に満ちている。そうして映画は、現在のアイスランドを描いていく。企業の役員の40~60%は女性でなければならないなどの決まりがあり、男女平等の政策がとられる国。そんなアイスランドはリーマン・ショックの際にその影響をもろに受け、銀行が軒並み破綻するわけだが、女性経営者の銀行だけは唯一黒字経営を続けていたという。実績を何よりも重視する男性と違い、「わかるもの」しか扱わなかったことが功を奏したのだ。 マイケル・ムーアは、観客に語りかける。「もし、”リーマン・ブラザーズ”が”リーマン・シスターズ”だったら?」 博打のようなマネーゲームも、その先の破綻もなかったかもしれない。 映画は、気持ちいいほどに男女平等や女性の社会進出の大切さを訴える。それだけではない。イタリアの有給休暇は8週間であることや、スロベニアの学費は無料で学生たちは借金とは無縁で学んでいること、学力世界一のフィンランドの子どもたちに宿題などなく、自由な時間こそが大切にされていることなどが描かれる。いずれもアメリカの、そしてこの国の為政者にとってあまりにも都合の悪い事実ばかりだ。「女性の活躍」「一億総活躍」などというあの人は、もう観ただろうか?2016年6月17日 「週刊金曜日」1092号 20ページ「風速計-『女の平和』とマイケル・ムーア」から引用 アイスランドの企業役員は60%が女性でなければならないと書くと、それでは男性差別じゃないかという反論が予想されるが、私はそういう反論は間違いだと思います。これまでに何千年もの間、男性がずっと女性を差別してきて今の環境があることを勘案すれば、最低でも今後100年間は、「女性60%」を継続して初めて本当の男女平等の社会環境が整うのだと思います。スロベニアでは学生が学費のことを心配しないで勉学に打ち込めるというのは、素晴らしいことです。わが国でも政権交代の後、「せめて高等学校までは無償で」という制度が始まったのでしたが、自民党政権に戻ったら、いろいろ条件をつけて「そう簡単には出さないぞ」という制度になってしまったのは残念なことです。財政負担という理由があるのかも知れませんが、スロベニアが日本に比べてそんなに裕福な国でもないところを見ると、どうも自民党政権は「社会には格差が必要」と考えているのではないかと思います。例えば、安保法制の本格的な実施が進むにつれて自衛隊応募者が減少しても、一定数の貧困層が存在すれば、経済的な優遇措置を実施することで人員補充が楽にできるとか、そういうことを考えているのではないかと思われます。そういう政策に比べれば、「高校までは全員無償」という政策のほうが、まだ夢があって若者も明るい未来を指向できるというものではないでしょうか。
2016年06月30日
神奈川新聞・石橋学記者の「偏ることの大切さ」を主張する論考が、17日の「週刊金曜日」に掲載された;特定秘密保護法の成立以来、報道規制だけでなく、自己規制さえ目に付くのが新聞社。そのなかで報道の自主性を貫くと政権から「左翼」「偏向」と名指しされる。最前線で現場を取材する記者が、圧力に屈しない姿勢を語る。 弊紙「時代の正体」シリーズについて、記事が偏(かたよ)っているという批判に対して「偏っていますが、何か」と応える論考を書いたのは昨年10月のことだった。一つの論は立場や考えが違えば偏って受けとめられるのは当然で、政権の悪口ばかり書くなと言うのなら、ジャーナリズムの役割なのだからやめるわけにはいかない、そして、民主主義にとって大切なのは多様性であるとして、私は続けた。「だから空気など読まない。忖度(そんたく)しない。おもねらない。孤立を恐れず、むしろ誇る。偏っているという批判に『ええ、偏っていますが、何か』と答える。そして、私が偏っていることが結果的に、あなたが誰かを偏っていると批判する権利を守ることになるんですよ、と言い添える」 平たく言えば、偏向批判とは「お前の言っていることは気に入らない」と言っているにすぎず、ためにする批判なのだから取り合う必要もなく、だから記者は思うとろを書いていけばよい--それは自分たち自身に向けた戒めのメッセージでもあった。 両論併記の体裁にこだわるメディアの「中立病」が言われる。空疎な論さえも同じ土俵に引っ張り上げて対置して、結果、「お前の言っていることは気に入らない」が、さも真っ当な意見であるかのように仕立て上げられてゆく。批判を恐れ、中立という隠れみのに逃げ込む保身にとどまらない問題がそこにはある。◆「差別に中立はない」 私が偏ることの大切さを強調するのは、ヘイトスピーチの取材を続けていることと無縁ではない。川崎で繰り返されるヘイトデモの被害にさらされている在日3世の崔江以子さん(チェカンイジャ 42歳)が国会の参考人意見陳述で訴えたのも「偏ってほしい」だった。「差別に中立はない。中立とは放置すること。国にも差別をなくす側に一緒に立ってほしい」。それは人間の存在を否定する人権侵害を前にしてなお、表現の自由を絶対視し、規制に慎重論を唱えるメディア、あるいはネット右翼の攻撃にさらされることを恐れ、報じることもないジャーナリズムの姿勢に向けられたものでもあるに違いなかった。 ヘイトスピーチ解消法は5月24日に成立し、6月5日、川崎市における差別主義者のデモは中止に追い込まれた。抗議のカウンター市民が車道に体を横たえるシットインを敢行し、行く手を阻んだ結果だった。人権侵害を未然に防ごうという社会の良識はここに示された、と私には映った。一部メディアはしかし、喧嘩(けんそう)を目の当たりにした通行人の「反対する人も冷静になれないものか」「いがみ合っていて怖い」というコメントを紹介し、ここでも両論併記の体をとろうとしていた。それはまるで抗議の人にも問題があり、差別をする側にも理があるかのような印象を与える記事になっていた。 この「どっちもどっち」という態度が差別を温存し、へイトスピーチが街中で横行する事態を招く一因となったという悔いが私にはある。差別主義者たちのデモは、目的が政治的主張にあるのではなく、実際は「朝鮮人をたたき出せ」のシュプレヒコールがなされるのだから「在日コリアンをおとしめ、殺害までをあおるヘイトデモ」と書く。「在日特権を許さない市民の会」は名称自体がデマを拡散させるものだから「市民団体」ではなく「人種差別団体」と書く。偏るとは自ら思考し、判断することだ。有効で説得力を持った批判はそこからしか始まらない。 時の権力が批判を封じるためにメディアをコントロールしようとするのはいまに始まったことではない。統制される側の、批判することを放棄する思考停止にこそ問題の本質がある。いしばし がく・『神奈川新聞』報道部次長。2016年6月17日 「週刊金曜日」1092号 20ページ「偏っていますが、何か」から引用 政府批判の記事ばかりを掲載する新聞を、世間では偏向している新聞というらしいが、これは間違った発想で、権力を批判するのが新聞の仕事であれば、政府批判ばかりということは、真面目に仕事をしているということであって、批判される筋合いではなく、むしろ賞賛されて然るべきというわけです。政府批判を快く思わない人には、何を言ってるのか理解ができないかも知れませんが、しかし、これが本来の常識というものではないかと思います。「中立・公正」というのは、理念としては良いのかも知れませんが、これがもし、政府が報道機関に守らせるということになった瞬間に「中立・公正」ではなくなるわけですから、やはりあの高市大臣の「停波」発言は間違いだということになります。ヘイトスピーチ対策法案の審議中に参考人として国会に呼ばれた在日の方は、政府に対して「差別に関して、政府は『中立』の立場に立つのではなく、自分たちと同じ『差別をなくす側』に立ってほしい」と謂わば国に「偏向」を要請したわけで、国はこれを受け入れ、差別をなくす側に立ちヘイトスピーチ対策法を成立させました。国家機関の一部である警察は、今はまだ「中立」の立場にあるように見えますが、遠からず「差別をなくす側」に立つことになると思います。
2016年06月29日
イギリスのEU離脱問題国民投票の「騒動」にかき消されて目立たなくなってしまったスイスの国民投票について、1日の東京新聞コラムは次のように書いていた; 6月5日、スイスで世界初となる重大決定が国民投票にかけられると伝えられる。最低生活保障(ベーシック・インカム)制度の導入の是非という実に壮大な問いである。 政府が全国民に対し、最低限の暮らしに必要なお金を毎月、無条件で生涯を通じて支給する仕組み。大人には2500スイスフラン(約28万円)、子供には625スイスフラン(約7万円)を配る案が出ているという。 難問は財源の確保。勤労意欲がなえるとか移民が押し寄せるという反対論も根強い。対して、年金や失業手当といった社会保障給付の廃止や増税策で実現可能と賛成派。物価高に見合う支給額への引き上げ要求もある。 食べるのに困らなければ、人生の選択肢は豊富になる。趣味や娯楽に興じるのも、学問や社会責献に精を出すのも、さらなるお金儲(もう)けに走るのも自由。貧困格差は解消し、子育てや家族の世話も容易にでき、人工知能が跋扈(ばっこ)しても心配はない。夢物語だろうか。 国民投票の意義は、労働から解放された人間らしさを見つめ直すことにあると思う。人間の存在価値を生産性のみで測る市場経済はもはや弊害。そんな問題意識を共有したい。 翻って日本の「一億総活躍プラン」。少子高齢化に立ち向かうとして、国民を労働に駆り出す発想である。成長なくして分配なしとさえ言い切るブラフ。人間の価値は稼ぐ力が全てと響くこちらは悪夢の物語。(大西隆)2016年6月1日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「私説 論説質から-『1億総活躍』の息苦しさ」から引用 全ての国民を生活苦から解放するというベーシック・インカムの制度は、たとえて言えば、かつて人々がロシア革命に期待を寄せた「希望」に匹敵する壮大な構想で、初めて話を聞いたときは誰しもがトマス・モアの小説を想起したのではないかと思います。そんな夢物語を、関係者の努力で「国民投票」という「現実」にまで漕ぎつけたということは、そこまで人々の認識が進んだと考えていいのではないでしょうか。残念ながら、投票結果は反対が「70%」で、まだまだ「そんな制度では労働意欲が失われる」という心配を払拭できなかったということのようですが、今後私たちが人類としていろいろ経験を積んで、それなりに環境が整って、人々の考えももう少し進めば、やがては賛成多数で実現する時代が来るのではないかと思います。「人間の価値は稼ぐ力が全て」というのは、あまりにも一面的で寂しい発想というものでしょう。
2016年06月27日
来月から施行される大阪市のヘイトスピーチ対策条例について、6日の神奈川新聞は次のように報道している; 大阪市は7月1日、特定の人種や民族への差別をあおるヘイトスピーチ(憎悪表現)の抑止を目的とした全国初の条例を全面施行する。国のヘイトスピーチ対策法には「表現の自由」を侵害する恐れがあるとして禁止規定や罰則がない。市条例は団体・個人名の公表などを盛り込んでおり市は実効性が高いと強調。ただ在日コリアン団体からは「本当に抑止になるのか」との不安も聞かれる。 「理念法なので(抑止のための)具体的な措置が取れない」。国会で対策法が成立した5月24日、記者団に感想を聞かれた吉村洋文市長は市条例の方が進んでいると胸を張った。 市条例の特徴は、ヘイトスピーチと認定する仕組みと具体的な抑止策を盛り込んだこと。市民や市内に通勤・通学する人から市に被害の申し立てがあった場合、市は学者ら有識者で構成する審査会に諮問。審査会は「加害者」の意見を聞く機会を設けた上で答申し、市長がヘイトスピーチと認定するかどうかを判断する。 ヘイトスピーチと認定すれば、市長はその団体や個人名を市のホームページなどで公表できる。また街宣活動だけでなく、印刷物やインターネットを利用した誹誘(ひぽう)中傷も対象とし、ネット上の画像や動画はプロバイダーに削除を働き掛けるなど、拡散防止措置を取るとしている。 大阪市のNPO法人「コリアNGOセンター」の郭辰雄代表理事は条例を歓迎しつつも「事後的な制裁にとどまり、予防策がない」と指摘する。川崎市が5月未、ヘイトデモの主催団体に公園の使用を不許可とした事例を引き合いに出し「大阪市ももう少し踏み込んでほしい」と訴える。 また申し立てをすれば報復されるのではないかとの心理が働く可能性があると指摘し「支援や後援がなければ申し立てのハードルは高い。条例を市民がどう活用できるかが課題だ」と強調した。2016年6月6日 神奈川新聞朝刊 A版 21ページ「大阪市ヘイト条例 7月施行」から引用 この記事によると、大阪市のヘイトスピーチ対策条例は被害者の申し立てがあって初めて機能するもので、場合によっては被害の申し立てがしにくいケースもあり得るのではないかとの心配もあるようですが、そこはやはり、一般の市民が「ヘイトスピーチは許されない」という共通の認識をもつことが大切だと思います。また、国が制定したヘイトスピーチ対策法を根拠に事前に公園使用を不許可にした川崎市の対応が評価されている点も、今後を考える上で大変重要と思います。
2016年06月21日
川崎市の5日のヘイトデモが市民のカウンター行動によって中止に追い込まれた経緯について、6日の神奈川新聞は次のように報道している; 「デモは中止になりました」。県警警察官のアナウンスに、沿道は歓声と拍手に包まれた。5日、川崎市中原区で計画された「川崎発-日本浄化デモ第三弾!」は出発直後に中止となった。行く手を阻んだのは、差別に反対する意思を示そうと集まった市民たち。県警も表明の場を確かに守った。ヘイトスピーチの根絶を訴え続けた在日コリアン3世、崔江以子(チェカンイヂャ)さん(42)は「私たちは法で守られる存在だと示された」。示されたのはこの社会全体の意思なのだと思えて、涙がこぼれた。(報道部) 小雨が降る住宅街。開始予定時刻の午前11時半を回り、デモ隊が動きだす。10メートルほど進み、足止めされた。その先で100人近い市民が車道に体を横たえ、行く手を阻んだ。 デモ隊に向き合う警官隊も路上の人たちに手を掛けることはない。沿道からの「ヘイトスピーチをやめろ」の声が大きくなる。ほどなく、主催者の津崎尚道氏がデモを中止することを県警側に伝えた。 午前10時前。デモ集合場所の中原平和公園に抗議のカウンター行動をしようと人々が集まってきた。市民団体「『ヘイトスピーチを許さない』かわさき市民ネットワーク」の三浦知人事務局長(61)は「在日コリアン集住地区の川崎区桜本を狙った過去2回に続く『日本浄化デモ第三弾』とうたっている以上、差別に反対する意思を示そう」と呼び掛けた。国会議員、県議、市議を含め、その数は県内外から千人規模に膨れ上かった。 同11時ごろ、津崎氏が姿をみせた。崔さんが駆け寄る。1日に手渡そうと試み、受け取ってもらえなかった手紙を持参していた。 前夜、思いも新たに「共に生きよう 共に幸せに共に安寧に」というプラカードを作った。 わが街桜本を標的にした津崎氏の2度にわたるヘイトデモで受けた心の傷を訴え、5月24日にヘイトスピーチは許されないと宣言するヘイトスピーチ解消法ができた。法の後押しで、川崎市は同30日、津崎氏に公園使用不許可の判断を下し、横浜地裁川崎支部も6月2日にヘイトデモを禁じる仮処分を決め、桜本は守られた。それは社会福祉法人職員として自身も携わる、互いの違いを豊かさとして認め合う共に生きるまちづくりの理念が認められたのと同じ意味を持っていた。 共生の理念は誰より、民族の違いをもって排斥を叫ぶ津崎氏に届けたかった。 <津崎さん。私たちの出会いは悲しい出会いでした。 津崎さん。私たち出会い直しませんか。 加害、被害の関係から、今この時を共に生きる1人の人間同士として出会い直しませんか。 加害、被害のステージから共に降りませんか> 「桜本の街は、差別をやめてもらえれば津崎さんとも共に生きる準備はできている」という崔さんの覚悟と決意の表れとして、手紙の最後に自身の携帯電話の番号を記した。 手紙は県警の仲立ちもあり、直接手渡すことができた。直後に聞いた「デモ中止」のアナウンス。崔さんは長男中根寧生(ネオ)さん(13)と抱き合い泣いた。国、自治体、司法に続き「警察にも守ってもらえた」。そしてこの日も差別に反対する意思をともに示してくれた多くの人たち。わが街で、わが子の目の前で「ゴキブリ朝鮮人、死ね、殺せ」と言われた絶望が、「きょう、みなさんと一緒に希望によって上書きされた」。◆「川崎モデル」全国に - ヘイトスピーチ解消法に詳しい師岡康子弁護士の話 ヘイトスピーチ解消法はデモを不許可とする根拠としては不明確だが、同法の成立で国の態度が明確に変わった。国は反差別の立場に立ち、法務省はこの日、「ヘイトスピーチ許さない」との巨大電光掲示板を掲げた車を出動させた。警察はデモ主催者に中止を促し、これまでのカウンターを敵視する態度を改めた。カウンターは、同法が求める「不当な差別的言動のない社会の実現に寄与」する努力(3条)そのものであり、国はカウンター行動を尊重すべきことになったといえる。国と市民がともに反差別の立場にたち、ヘイトデモを中止させ、人権侵害を許さなかった意義は大きい。今後、川崎市、裁判所も含め、反差別に全社会的に取り組んだ「川崎モデル」が全国に広がることが望まれる。2016年6月6日 神奈川新聞朝刊 A版 21ページ「共生へ 希望貫く」から引用 この記事によれば、ヘイトデモの主張は「日本浄化」、カウンターの主張は「共に生きよう」というもので、一般的な社会通念に照らしてもヘイトデモの主張は、私たちの社会が受容できるものではありません。それどころが、今月施行されたヘイトスピーチ対策法は、国民に対し不当な差別的言動がない社会の実現のために努力するように規定しているのですから、法律に規定された「努力」を実行しているカウンター側の市民の行動を「それは違法行為だ」などと言って警察が取り締まるわけにはいきません。つまり、市民のカウンター行動には国の後ろ盾が存在することに、今月からなったのであって、これを「道路交通法違反だ」とか「人治主義だ」とか言って攻撃するのは「オレは在特会の味方だ」と公言するようなものです。
2016年06月20日
今月5日に予定されながら当日市民の反対にあって中止になった在特会のデモについて、一旦は許可を出しながら当日になって「中止」を説得した警察の対応について、6日の東京新聞はその背景を次のように書いている; 在日コリアンへの差別的言動を繰り返す団体が川崎市中原区で計画していたデモが5日、市民らの反対にあって中止となった。ヘイトスピーチ対策法の施行が後押しになった形だが、同法には罰則がなく、憲法が保障する「表現の自由」との兼ね合いもあり、今後どこまでヘイトスピーチが抑止されるかは不透明だ。 「差別は反対」「帰れ」。中原区のデモの出発地点には数百人の人が集まり、主催者団体に抗議を繰り返した=写真。神奈川県警の説得もあり、デモの中止が決まると涙ぐむ人も。在日コリアン3世の崔江以子(チェカンイジャ)さんは「私たちは法によって守られるべき存在だと示された」と語った。 在日コリアンが多く住む川崎区で、民族差別をなくす活動を進める社会福祉法人「青丘社(せいきゅうしゃ)」の三浦知人事務局長は、「ヘイトスピーチに対する憤りを表現できた。市民一人一人の力に敬意を表したい。時代の大きな流れだ」と喜んだ。 横浜地裁川崎支部は今月2日、青丘社の訴えを認め、主催団体の男性に対し、青丘社の事務所から半径500メートル以内でのデモを禁じる仮処分を決定。川崎市も団体の公園使用を認めず、法施行によってヘイトスピーチを止めようとする機運は高まりつつある。 しかし課題も。県警は今回、団体が約6・5キロ離れた中原区での道路使用許可を申請すると認めた。県公安条例は「公共の安寧に直接危険を及ぼさない限り許可する」と規定。県警が過去に不許可とした例もなく、事前に内容に踏み込み不許可とするのは難しいとの判断からだ。 県警幹部は中止に「ほっとしている」としつつ、今後も同様の申請があった場合は「許可して警備するしかない」と明かした。警察庁は対策法施行を受け、違法行為に厳正に対応するよう全国の警察に通達したが、同法には罰則がなく、現場で侮辱罪や暴行罪などの違反を確認して取り締まるしかないのが実状だ。 ヘイトスピーチ問題に詳しい師岡康子弁護士は「今後も警察は対策法に基づきデモ主催者に中止を促し、差別を許さない市民の行動を専重すべきだ」と継続した対応を求める。<ヘイトスピーチ対策法> ヘイトスピーチをなくすため、国や自治体に相談体制の整備や教育、啓発活動の充実を求めた法律。差別意識を助長する目的で著しく侮辱することなどを差別的言動と定義し「許されない」と明記している。憲法が保障する表現の自由を侵害する恐れがあるとして、罰則や禁止規定はない。5月24日に成立し、6月3日、施行された。2016年6月6日 東京新聞朝刊 12版 26ページ「ヘイト中止『対策法が後押し』」から引用 この記事が示唆するように、今月から施行されたヘイトスピーチ対策法は緩い法律なので、これだけで「デモ不許可」という警察権力を行使するのは難しく、現実のヘイトデモを抑止するには市民の「実力行使」が必要と理解する必要があるのではないでしょうか。当ブログの常連さんの中には、道路をふさいだ市民のカウンター行動は違法だなどと重箱の隅をつっつくような議論をする人もいますが、これは大局的に判断して、人権侵害という犯罪に対する「正当防衛」と見なして警察は取り締まりの対象としなかったと考えるのが妥当と思います。今回のケースでカウンター行動の違法性を唱えるのは、在特会擁護論に直結するという自覚が必要です。
2016年06月19日
在特会のヘイトデモが市民の抵抗により中止になった事件について、6日の東京新聞は市民の声を次のように報道している; 在日コリアンらの排除デモを繰り返していたとされる団体が川崎市中原区で5日に計画していたデモの中止。これまで「差別をやめろ」などと抗議や反対の声を上げ続けてきた人々からは「市民の力が差別行為を食い止めた」と喜びの声があがった。(横井武昭) この日午前、同区の中原平和公園前の道路では、国旗などを掲げてデモを行おうとする団体を、大勢の反対する市民らが取り囲んだ。「あらゆる場所で差別にNOを」「いつまでも共にこの街で」など、さまざまなプラカードを掲げ、「デモ解散」「帰れ」と声を上げた。路上に座り込んで、デモが進むのを防ごうとする人々もいた。 県警幹部によると、危険や混乱の防止の観点から県警がデモの主催側に中止を助言。午前11時半過ぎに警察官が「中止になった」とマイクで告げると、市民らから拍手が起きた。 現場には「『ヘイトスピーチを許さない』かわさき市民ネットワーク」のほか、多くの市民が駆けつけた。横浜市の女性会社員(36)は「(ヘイトスピーチ)対策法ができてもデモが許可され、民衆が黙っているとやりたい放題になってしまう。子どもたちのためにも大人が阻止しないといけない」と語った。 中止後、集まった人々を前に在日コリアン三世の崔江以子(チェカンイジャ)さんがマイクを握った。「1月にあったデモの『絶望』が今日、『希望』で上書きされた」。差別のない社会を体現するために集まった一人一人の顔を見つめ、涙が抑えきれなかった。崔さんの中学生の長男が「ヘイトスピーチを根絶するようにこれからもがんばりましょう」と語ると、ひときわ大きな拍手が起きた。 在日一世の趙良葉(チョウヤンヨプ)さん(79)も「ほっとした。表現の自由といっても、『死ね』『殺せ』と人間を虫けらのように言ってはいけない。心の中に傷ができて治らないんです」と訴えた。 ネットワークの三浦知人事務局長は「ヘイトスピーチの具体的な解決は地域社会の中で行わなければならない。これからが出発点だ」とカを込めた。 市民団体「のりこえねっと」共同代表の辛淑玉(シンスゴ)さんは「(今回のデモは)法律や民主主義に対する挑戦だった。ここを止めなかったら全国に飛び火する。だから、どんなことがあっても止めようと思っていた。国籍を超えた多くの人たちの良心はこんなにも大きかったんだとあらためて思った」と意義を語った。2016年6月6日 東京新聞朝刊 18ページ「市民の力で食い止めた」から引用 上の記事では「子どもたちのためにも大人が阻止しないといけない」と発言してますが、これは大切なポイントだと思います。将来子どもたちが「在日を差別するのも表現の自由だ」などと間違った考えを持たないように、ここで現代の大人がしっかりと、しても良いこと悪いことのけじめを見せておくことは大事だと思います。また、この記事では、警察はあくまでも「危険や混乱の防止の観点から中止を助言した」と言ってますが、誰に遠慮してものを言っているのか、裁判所が川崎区のデモを禁止したり市が公園使用を不許可にしたことを考慮すれば、ヘイトスピーチ対策法に則り、堂々と「デモ不許可」にしてよい事例であったと思います。
2016年06月18日
ヘイトスピーチ対策法が施行されて間もなく予定されたヘイトデモが、市民のカウンター行動で中止に追い込まれた事例に関連して、6日の毎日新聞は、各自治体のヘイトデモ撲滅に対する取り組みについて、次のように報道している; 法務省が3月公表した実態調査(2012年4月~15年9月)によると、ヘイトデモの発生のピークは13、14年だが、「沈静化したとは言えない状況」にある。こうした中、スタートした対策法は国にヘイトスピーチ解消の責務を、自治体には努力義務を課しているが、その「努力」には温度差がある。 5日に中止となった川崎市内のデモでは、市は事前に、主催者側が集合場所として申請した公園2カ所の使用を許可しなかった。対策法が定義する「差別的言動」に当たると判断したためだ。市人権・男女共同参画室は「難しい判断だった。新法なしに不許可は出せなかった」。仮処分決定と同様、市が対策法の趣旨を最大限生かそうとしたことがうかがえる。 逆に、名古屋市では先月29日、同市中区の公園を出発点にヘイトデモが行われた。「(利用申請の)書類に不備がない」ことが許可の理由だった。河村たかし市長は翌日の記者会見で「何をしてもいいというわけではないが、表現の自由も大事」と述べた。 独自の取り組みを進める自治体もある。大阪市では7月1日、ヘイトスピーチ抑止に向けた全国初の条例が施行される。市に被害の申し立てがあれば、国際法学者や弁護士らでつくる審査会が「ヘイトスピーチに該当するか」を調査。答申を受けた市長が「該当する」と判断した場合、その内容と団体・個人名を市のホームページで公表する。ネット上の差別的な書き込みも施行日以降に残っていれば対象になる。吉村洋文市長は「法律は(被害者救済のための)具体的な措置がなく不十分。市条例には盛り込まれており、抑止になる」と強調する。【太田圭介へ三上剛輝、岡崎大輔】2016年6月6日 毎日新聞朝刊 14版 3ページ「各自治体 試行錯誤」から引用 ヘイトスピーチ対策法が施行されてまだ日が浅いせいか、川崎市、名古屋市、大阪市と、その姿勢がまちまちです。名古屋市の河村市長はデモの申請書の記載に不備が無ければ許可するという、まるで今回の神奈川県警の対応と似てますが、それでも今となってはヘイトスピーチ規制法が存在するのですから、在特会も滅多なことはできないでしょう。また、罰則つきの条例を制定した大阪市の吉村市長の自信満々のコメントは印象的で、この問題について解決に向けて最先端を走っているという自負が感じられます。
2016年06月17日
民族差別を煽ることを目的にした団体が、横浜地裁からはデモ禁止を命じられ市役所からは公園の使用を禁止されたため、場所を変更してデモをやろうとしたところ、市民の抗議にあって、結局中止に追い込まれたと、6日の毎日新聞が報道している; 在日コリアン排斥を訴えるヘイトスピーチを繰り返し、川崎市から公園2カ所の利用を不許可とされた団体が5日、同市中原区でのデモを開始直後に中止した。ヘイトスピーチ対策法が3日に施行された直後の行動だったが、集合場所付近で反対する市民らともみ合いになり、神奈川県警からやめるよう説得された。 午前10時過ぎ、デモ参加者約20人が公園前に集結。これに、在日コリアンや市民ら数百人が「違法なへイトスピーチはやめて」などと抗議した。現場に警察官数百人が出動し、県警は11時過ぎ、「道路が騒然として安全が確保できない。けが人が出たら大変なことになる」などとデモ中止を説得。11時半過ぎに主催団体が中止を決めた。逮捕者やけが人は出なかった。 主催団体は過去2回、同市川崎区の桜本地区でヘイトスピーチを行い、5日のデモもネット上で公表。市は公園の使用を許可せず、横浜地裁川崎支部が2日、市内の社会福祉法人がデモ禁止を求めた仮処分で「人格権への違法な侵害」としてデモを禁じる決定を出した。主催団体は会場を中原区に移し、道路使用許可を受けていた。【太田圭介、国本愛、木下翔太郎】2016年6月6日 毎日新聞朝刊 14版 1ページ「川崎ヘイトデモ中止-警察が説得」から引用 この記事ではヘイトデモの参加者は20人となってますが、実際に集まったのは40人くらいいて、しかし、カウンターの市民のあまりの多さにビビってしまい、デモの隊列を組んだのは20人だったということのようです。これに懲りて、金輪際ヘイトデモは止めたほうがいいと思います。
2016年06月16日
怨霊思想にみる日本の伝統的倫理観と現代社会について、哲学者の山内節氏は5日の東京新聞コラムに、次のように書いている; 古代の日本の人々を恐れさせたものに、怨霊があった。謀略などによって無実の罪を着せられて死んだ人の霊が、怨霊となって崇(たた)るという考え方である。もっとも有名なのは菅原道真の怨霊だが、人々は怒れる霊を鎮めるために、さまざまなことをしている。 その怨霊は、関係のゆがみが生みだしたものだった。ゆがんだ関係のなかで死を迎えたために成仏できず、怨霊になったと考えられていたのである。だから怨霊を鎮めるためには、ゆがんだ関係を自然な関係に戻さなければならなかった。怨霊を神として祀(まつ)ったり、官位を授けなおしたりしたのは、ゆがんだ関係を修復し、自然な関係に戻すための努力だった。 古代の人たちは、関係のゆがみを何よりも気にしていたのである。もしも関係のゆがみが怨霊を生みだすのであれば、今日の社会は、怨霊だらけになってしまうだろう。自然と人間の関係もゆがんでいるし、非正規雇用が4割に近づいている雇用関係もゆがんでいる。人間同士の関係も、地域社会の関係も。自然な関係を探す方が難しいくらいだ。そしてこのゆがみが、ときに自然や人間を追い詰める。 日本の伝統的な道徳観や倫理観は、ゆがんだ関係を自然な関係に戻そうとする意志とともにあったのである。そのことをとおして、自然と人間の関係のあり方や、人間同士の関係、一人一人と社会の関係のあり方をみつけだそうとしてきた。とすると、私たちは問わなければならない。今日の企業や労働の世界に、ゆがんだ関係は発生していないだろうか。最近では企業のデータ偽造や、実質的な粉飾決算が問題になったりしているが、そういうことが生じてしまうのは、企業組織のなかに、ゆがんだ関係が定着してしまっているからではなかったか。 日本の米軍基地の大半を沖縄に押しつけている現実は、ゆがんだ関係がつくりだしたものとはいえないだろうか。そもそも日米地位協定自身が、ゆがんだ日米関係の産物ではないのだろうか。後世の人たちに国の借金を押しつけている現状も、ゆがんだ世代間関係をあらわしてはいないだろうか。 いま私たちに求められているものは、ゆがんだ関係を自然な関係に戻す努力なのである。それが政治の課題であり、経済や経営の課題でもあるはずだ。とともにそれは私たちの課題でもある。そのためには、ゆがんだ関係に気づく力と、自然な関係をみつけだす構想力が求められている。 戦後の日本は、ひたすら経済発展を追い求めてきた。経済が発展すれば誰もが豊かになり、日本も大国になっていくと考えてきたといってもよい。だが現在では、さまざまなゆがんだ関係が社会のなかに堆積し、それが人々に不安や苦痛を与えるようになってしまった。子どもを育てられない社会はどこかがゆがんでいる。年をとることに不安を覚えなければならない社会もどこかおかしい。社会をつくりだしている関係のどこかがゆがんでいるから、そういう問題が起こるのである。 もしかすると、ゆがんだ関係が怨霊を生みだすということに怯(おび)えていた古代の人たちの方が、正常な精神をもっていたのかもしれない。いま私たちに必要なことは、ゆがんだ関係を正していく精神をもちながら、政治や経済、社会と向き合うことである。(哲学者)2016年6月5日 東京新聞朝刊 12版 4ページ「時代を読む-『ゆがんだ関係』正す努力を」から引用 この記事は哲学者らしい深い思索に裏打ちされた大変興味深い文章です。「非正規雇用が4割に近づいている雇用関係」は「ゆがんだ関係」であるという指摘は、現代の政治家はどう聞くでしょうか。労働法を改悪して、非正規雇用も違法ではないということにしたのは、人件費を限りなくゼロにしたいという資本の要求に応えたもので、表向きは御用学者などが「働き方の多様化」だのときれい事をいって、まるで労働者側に「非正規雇用」の希望があるかのような言い方をしたものでしたが、そんな働き方を希望するのはごく一部の、他に生活費を賄う経済力を持っている特殊な人々だけに過ぎません。大部分は自らの労働によって生活費を稼ぐ立場であるにも関わらず、企業の都合で非正規雇用の立場に甘んじなければならないというのでは、これはやはりゆがんだ雇用関係と言わざるを得ません。また、日本と沖縄の関係の歪みといえば、これは薩摩藩による琉球処分にまでさかのぼって検討するべき問題ではないかと思います。明治以降、西欧から入ってきた近代科学によって、「怨霊」などというものが存在しないことは証明されましたが、しかし、昔の人々が「怨霊のしわざ」と考えた「問題」は現代でも時折世の中を騒がせているのですから、私たちも「ゆがんだ関係」を是正する努力は必要なのではないでしょうか。
2016年06月11日
最近の日本で起きている出来事について、法政大学教授の山口二郎氏は22日の東京新聞コラムに次のように書いている; オリンピック招致を巡る不正資金疑惑は、日本という国が底なしに腐食していることを物語る。東京招致への最大の障害は、福島第一原発事故による放射能汚染への外国の懸念だった。 この問題を覆い隠す粉飾工作として、安倍首相の「アンダーコントロール」発言とコンサルタントへの資金提供は結びつく。表における虚言、裏での買収工作。絵に描いたような腐敗である。 人口減少と財政赤字の日本が世界的な宴を催して経済の浮揚を図り、人心を明るくしようとしても、宴の準備に体力を使い果たし、宴を楽しむどころではない。後には、巨額の請求書が待ち構えている。仮設競技会場の整備費は当初試算の4倍の3000億円に膨らむという新聞報道もあった。 こんな腐食した国で、安倍首相が全能の権力者のごとくふるまうのは滑稽である。彼が行政府のみならず、立法府の長だと自称したのは、議会の多数派の親玉として法も自分の意のままに作り替えられると言いたかったのだろう。しかし、自分の都合の悪いルールは無視してもよいというおごりこそが、日本の腐食の根源である。 政府が粉飾をすれば、日本を代表する企業でも検査データのねつ造やら不正経理が横行する。日本が文明の崩壊に向け、急坂を転がり落ち始めたという危機感を私たちは持たなければならない。(法政大教授)2016年5月22日 東京新聞朝刊 11版 29ページ「本音のコラム-文明の終わり?」から引用 エンブレムの疑惑や聖火台の位置や、さまざまな「話題」を提供した東京五輪招致の問題は、ついにフランスの警察が贈収賄の疑いで捜査を開始する事態となり、慌てた招致委員会の責任者が「不正なカネの支払いではなく、正当なコンサルタント料の支払いだった」と説明したのであったが、しかし、その支払先はすでに解散してしまっている。正に絵に描いたような「表では虚言、裏では買収工作」ではないのか。マスコミと世間の目が、これ以上この問題に集中しないように、テレビは毎日桝添知事が、家族旅行に行った先でも都庁の幹部と会議をしてたとか、政治資金で趣味の絵画を購入したなどというくだらないニュースの「報道」に明け暮れている。そして、政府がこんな調子だと企業も、不正経理で傾きかけた東芝とか、クルマの性能試験を誤魔化した三菱自動車、岩盤に届かない短い杭のせいで傾き欠けているマンションとか、やっぱりこれは「急坂を転がり落ち始めている」のではないでしょうか。
2016年05月31日
家族の食事に政治資金を流用したなどというレベルの低いスキャンダルに明け暮れるマスコミを揶揄するかのような「物語」を、文芸評論家の斎藤美奈子氏が、18日の東京新聞コラムに書いている; ある日、側近を呼んで黒幕はいった。「あいつは目障りだ。今のうちに潰(つぶ)したほうがいい」 標的にされたのはI知事だった。Iは東京五輪招致でそれなりの働きをしたが、招致活動が終わればもう用はない。 2013年11月、国会は特定秘密保護法の審議のヤマ場を迎えていた。Iの一件は国民の目を国会からそらすのにも役立つだろう。Iは医療法人からの資金提供疑惑で追い込まれ、辞任した。 次のM知事は、党を割って出た要注意人物だった。が、先々を考えて党はMを支援し、当選させてやったのである。 ところが、Mも勝手な振る舞いが目立ちはじめた。14年7月、韓国を訪問したMはP大統領と会談し、16年3月、新宿区の都所有地を韓国大学校増設に充てるといいだした。黒幕はいった。「あいつも邪魔だな」 5月、Mは政治資金の使途が明るみに出て窮地に立たされた。パナマ文書や五輪招致の裏金問題は二番手、三番手の話題に降格した。仮にMが辞任し、7月の参院選と知事選が重なれば、知事選候補者を巡る報道一色になって国政選挙はかすむだろう。投票率は落ち、与党が大勝し、そして次の知事の席には・・・。 国立競技場、エンブレム、2人の知事、裏金疑惑。ああ、呪われた東京五輪! ちなみに黒幕の正体は誰も知らない。(この物語はフィクションです)(文芸評論家)2016年5月18日 東京新聞朝刊 11版S 25ページ「本音のコラム-呪われた五輪」から引用 「呪われた五輪」というからには、「黒幕」が世界に向けて言い放った「アンダーコントロール」という「大嘘」も織り交ぜてほしかったと思います。マスコミが都知事の政治資金流用などというせこいスキャンダルで騒いでいる間に、安倍政権は「取り調べの可視化」と称して検察・警察に都合の良い動画だけを法廷に出せるような法律を成立させ、市民に対する盗聴もやりたい放題という具合に改悪してしまいました。このまま安倍政権が継続すれば、私たちの民主主義は風前の灯火です。
2016年05月25日
80代の女性が「嫁」という言葉に対する違和感について、18日の東京新聞投書欄に次のように書いています; 4日暮らし面に「嫁から嫁へ受け継ぐ味」という見出しで、愛知県設楽町の伝統食・五平餅が紹介された。私は「嫁」という字が見出しで大きく躍っていることに違和感を持った。 「嫁」は、戦後あまり使われなくなった語である。憲法24条で「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦は等しい権利を有する」と規定されて、結婚は家のためにするのではないという考え方が憲法で保障されたからだ。 結婚式場でも「○○家」という表示がなくなった。憲法24条は「家長制度」に泣いた戦前の女性には福音と言える規定だった。それが最近は「嫁が、嫁が」と言う男性タレントが出現するなど一般に使われるようになった。また、戦前に戻らぬよう心したい。2016年5月18日 東京新聞朝刊 11版 4ページ「発言-戦前思い出す『嫁』に違和感」から引用 80代と言えば戦前体制の下で幼少期を過ごし、戦後になって新しい憲法の下、世の中がどのように変わったか身をもって体験した世代であり、私は戦後に生まれた者ですが、この投書には少なからず共感を覚えます。「嫁」という言葉は、「嫁にやる」とか「嫁をもらう」というように、まるで猫の子をやったりもらったりするようなニュアンスで、女性の人権を軽くみる戦前の思考様式そのもので、現代では「嫁姑問題」を表現するときにのみ用いられる言葉だと思っております。戦後70年たっても、年配の人々の中には昔風に「嫁」などと言う人もいなかったわけではありませんが、私と同じ年代の人たちはあまり使わなかったと思います。ところが、ここ10年くらい前からか、テレビに出る若いタレントのみなさんが、わざと「嫁」という言葉を使って粋がっている様子には強い嫌悪感を感じます。バラエティ番組といえども出演者には節度をもって行動してほしいものです。なお、この投書では「結婚式場でも○○家という表示はなくなった」と書いてますが、私の見聞きした範囲では、どの結婚式場も葬儀場も○○家という表示をしているように思います。しかし、これれは別に昔風の「家長制度イデオロギー」の復活を意味しているわけではなく、単に「丁重な雰囲気」を演出する目的でやっていることのように思います。
2016年05月24日
政治家の演説の決まり文句について、同志社大学教授の浜矩子氏は、8日の東京新聞コラムに次のように書いている; 世の中では、ゴールデンウイークが終盤にさしかかっている。その中で、筆者は、指折り数えるのが恐ろしいくらいの締め切り群団と格闘している。全くの身から出たさびだから、文句はいえない。だが、気分は黄金ではなく鉛。 それはともかく、締め切りとのバトルの中であれこれ調べていて、あることに気づいた。日本の政治家たちが演説などを行う際、「国家国民」あるいは「国家、国民」という言い方をする。 まずは、安倍晋三総理大臣についてみよう。安倍内閣が発足して以来の首相年頭所感、所信表明演説、そして施政方針演説の3文書を調べた。その中に、上記の表現が3回登場する。次の通りだ。 「国家国民のために再び我が身を捧(ささ)げんとする私の決意・・・」(2013年1月、所信表明)。「公務員には、・・・国家国民のため能動的に行動することが求められています」(同10月、所信表明)。「全ては国家、国民のため、・・・」(同2月、施政方針)。 こうした一連の言い方が、どうしても引っかかる。なぜ、「国家国民」なのか。どうして、国が先に来るのか。民主主義体制下において、国家は国民に奉仕するためにある。国民を差し置いて、国家を先にもって来るのは、国家の仕組みである政府の責任者として、認識がお門違いなのではないか。 ひょっとして、これは安倍内閣に固有の認識と表現なのか。そう勢い込んで、さらに調べてみた。 ところが、この推理は間違っていた。過去の歴代内閣の下でも、総理大臣の発言の中に「国家国民」の言い方が登場している。政党の別を問わない。民主党政権下の各種首相発言の中にも、これが出て来る。してみると、これは公式文書における確立した用法なのだろう。 さて、こういうことでいいのか。公式文書に関する言葉の使い方には、それなりの背景があるはずだ。国際的な一定の共通認識も形成されているだろう。それはそれで受け止めるとして、それでも、やっぱり「国家国民」には疑念が残る。 国民無くして、国家無しだ。国民国家を英語でいえば、”nation state”である。nationとしてのまとまりを持つ人々によって、stateが構成される。世界に、”stateless nation”と呼ばれる人々は存在する。国家無き民だ。国家無き民は悲しくもあるが、ダイナミックでもある。例えば、華僑などはそのダイナミズムの筆頭格の代表者たちだろう。 絶対に存在してはならないのが、”nationless state”だ。民無き国家。民に奉仕しない国家。民を踏みにじることで存立する国家。そのような国家による揉欄(じゅうりん)から、国民を解放する。その方向に向かって、国々の歴史は前進して来たはずである。 今、我々はこの歴史的歩みの最前線に位置しているはずだ。それなのに、なぜ「国家国民」というのか。国々の経済規模を測る尺度に、「国民所得」という概念がある。これを集計するための道具として「国民経済計算」の体系が用意されている。これも英語でいえば、”System of National Accounts”である。決して”System of State Accounts”ではない。「国家所得」とか、「国家経済」などという言い方はない。こんなネーミングが定着する日が来てはならない。(同志社大教授)2016年5月8日 東京新聞朝刊 12版 4ページ 「国民無くして、国家無し」とは、まったくその通りで、わが国の主権者は国民なのだから当然である。しかし、戦前はこれが逆さまで、この国は畏れ多くも天皇陛下様が統治しており、国民はこの有り難い国家を守るために命を捨てる覚悟を求められ、抵抗するものには容赦のない鉄拳制裁が下される国柄であった。そのような社会にあって演説する政治家は、誰もが競って自分こそが国家に命を捧げる覚悟で仕事をする人間であることをアピールする目的で「国家国民のために」と声を張り上げたわけである。戦争に負けて、世の中の仕組みが変わり、国民が主権者になったにも関わらず、未だに政治家が「国家国民・・・」という言い方をするのは、昔風の言い回しで自分の演説にハクをつけるつもりでいるのではないかと思います。その演説を聞く聴衆のほうも、いちいち言葉の端々にまで神経を使うこともなく暢気に聞いてきたのかも知れませんが、今後は少しずつ「国民主権」の国柄に相応しい演説に変えていってほしいと思います。
2016年05月21日
デマとウソとデタラメが氾濫するインターネットの情報に対し、少しでも実情を周知していこうと有識者が活動を始めた、と8日の東京新聞が報道している; 「辺野古(へのこ)に基地を造らないと中国が攻めてくる」「沖縄の経済は基地に依存している」-。沖縄県の米軍基地問題に関する誤解がインターネット上にまん延しているとして、沖縄国際大の佐藤学教授ら有志9人が反論のための小冊子を作り、ネットでの公開も始めた。 「基地」や「海兵隊」「中国」「沖縄経済・財政」など8テーマ、計56の設問に答える形。米軍普天間(ふてんま)飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古移設で沖縄の基地負担は軽減されるとの見方には「沖縄の中で基地を動かしても、日本全国に占める米軍集中の割合は変わらない」と指摘した。 辺野古に米海兵隊の代替施設を造らないと沖縄が中国の軍事力の脅威にさらされるとの説に対しては「海兵隊が沖縄にいるかどうかは中国の軍事戦略にほとんど影響ない」と否定した。 沖縄経済の基地依存への反証として、県民総所得に占める基地関連収入の割合は沖縄本土復帰時の1972年の15.5%から最近は約5%に減少しているデータを紹介している。 内容は特設のサイト(http://okidemaproject.blogspot.jp)で公開。小冊子の申し込みもできる。2016年5月8日 東京新聞朝刊 12版 4ページ「『辺野古』への誤解 反論します」から引用 「それってどうなの? 沖縄の基地の話。」は、政治・経済・安全保障のそれぞれの専門家が正確なデーターを基に、分かりやすく説明しているので、本当の沖縄の姿を理解する上で大変役に立つと思います。
2016年05月20日
日本総合研究所の池本美香氏は、最近の新聞報道について、4月24日の東京新聞に次のように書いている; 女性が参政権を初めて行使した衆院選から70年を迎えた4月10日、1面トップで報じられたのは「女性議員比率なお156位」だった。経済協力開発機構(OECD)加盟34カ国で最下位、韓国の111位も大きく下回る。 ほかにも女性と政治に関する記事が多く、考えさせられた。議員割合が低いだけでなく、衆院選の投票率は、1969年以降女性の方が高かったが、2009年以降は男性の方が高いという(8日特報面)。9日7面ではウルグアイ前大統領ムヒカ氏の講演詳報で「政治の放棄は少数者の支配を許すことにつながる」とあったが、政治から遠ざかっている女性こそ耳を傾けるべき言葉に思えた。 なぜ女性の政治参加が海外にこれほど後れをとっているのかについて、分析があったのもよかった(10日13面)。クオータ制によって女性議員比率が上がってきたことは知っていたが、立候補の際に必要となる供託金が衆・参選挙区では300万円と、世界一高額であるとは知らなかった。韓国は135万円、イギリスは8万円、調べてみたらアメリカ、フランス、ドイツには供託金制度がないそうだ。 漠然と政治に期待できないと感じていたが、政治家が悪いというより、選ぶ仕組みが悪いのかもしれない。保育所問題や安保法施行などに対して、デモなどで行動する女性が増えている。立候補や投票という政治参加のハードルを下げれば、女性が参加し政治が変わる可能性がある。 子どもに関して、さまざまな問題があることも気になった。子どもがいる世帯の所得格差の小ささが41カ国中34位で、アメリカや韓国より格差が大きいとは驚いた(14日6面)。小児科学会の推計では、虐待で死亡した子どもの数は国の集計の3倍にのぼり、多くの虐待死が見逃されている可能性があるという(8日夕刊1面)。 10日特報面では、15~34歳の自殺死亡率が先進7カ国で最悪の水準でありながら、自殺予防教育の義務化が見送られたことを知った。20年ほど前にニュージーランドを訪問した際、子どもの権利の実現を目的に国が設置した機関で、子どもの自殺予防が課題だと熱く語られたことを思い出す。数が少なく、声が小さい問題は後回しになりがちだからこそ子どもに焦点を当てて丁寧に検討すべきだ。 組み体操で頭蓋骨骨折の重傷を負った児童が、組み体操廃止の決定に「やっと安心」(2日夕刊9面)とあった。6日の投書「学校は勉強したり、友人をつくることが大切で、軍隊やサーカスではないのだ」に共感した。ムヒカ氏の言葉にもあったが、これからも「何が大切か」を考えさせる記事を期待したい。(日本総合研究所主任研究員)2016年4月24日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「新聞を読んで-大切なことを伝える」から引用 泡沫候補の乱立を防ぐためには、少々の高額供託金もやむを得ないと思っておりましたが、世界一高額とは知りませんでした。アメリカ、フランス、ドイツはゼロとは、つくづく「大人の国」なんだなぁと思います。また、「政治家が悪いというより、選ぶ仕組みが悪い」というのは、うなずけます。全有権者数の4分の1の得票で3分の2の議席が獲得できるという制度は、やはりおかしいですから、元の中選挙区制に戻すべきだと思います。組み体操を廃止する学校が増えてきたのは朗報というべきです。そもそも学校は学校保健安全法によって児童生徒の安全確保を義務づけられているのですから、大けがのリスクが伴う運動会の競技を、そのまま放置しておくべきではないと思います。
2016年05月15日
ドラマや小説に描かれる警察像と現実の警察との乖離について、作家の赤川次郎氏は4月17日の東京新聞に、次のように書いている; テレビをつければ、相変わらず刑事ドラマの花盛りである。人気ドラマの「相棒」を始め「捜査一課長」なる、そのものズバリのタイトルも。「科捜研の女」とか「女検事」を始め2時間もののサスペンスドラマのシリーズを入れたら、一体「警察関係」のドラマはいくつあるのか見当もつかない。 小説の世界でも同様、警察小説は大流行で、「正義の味方」の刑事オンパレード。しかし、果たして現実の警察の姿はどうなのか。 「警官に首絞められた」(4月8日「こちら特報部」)には、ヘイトスピーチに抗議しようとした女性の首を警備の警察官が絞めた事件が取り上げられている。はっきりと写真が残っているので、警察側も「故意ではなかった」としながらも認めざるを得なかった。国家公安委員長が謝罪したが、河野太郎氏でなかったら、果たして謝罪したかどうか。 もともとヘイトスピーチのデモの警備に関しては、海外メディアの駐在員からも「明らかにへイトスピーチ側を守っている」との指摘があった。ヘイトスピーチがいかに理不尽で、国際常識に反するものかは4月7日の「こちら特報部」にも詳しいが、自民公明が提出予定のヘイトスピーチ対策法には罰則がないだけでなく、禁止、違法化の規定すらない。これで世界に向かって「日本は人権を尊重している」と言えるのか。 テレビのサスペンス物では、犯人の告白はなぜかいつも海岸の崖の上ということになっている。あれがテレビ制作者の「日本の民主主義は崖っぷちだ」という思いのあらわれだったら大したものだが・・・。 NHKの良心とも言うべき「クローズアップ現代」は国谷キャスターが降板。「クローズアップ現代+(プラス)」になって、1回目が「野球賭博」で「選手独占告白」では民放のワイドショーと少しも変わらない。「山口組」や「中国経済」など硬派の話題もあるが、ゲストの選び方には「当たりさわりのなさ」が覗(のぞ)いている。今のところは「クローズアップ現代-(マイナス)」と言った方がいい。 ただ、ここで「保育園での死亡事故」が取り上げられた直後、同様の子供の死亡が相次いだ。昼寝中うつぶせになっての窒息死が、多いというが、原因が保育士不足にあるのは明らかだ。まず保育士の給与を大幅に上げて、専門性を持った保育士を育成しなければ、問題は解決しない。 そんなことは子供にも分かる理屈なのに、政府は保育園の定員をふやし、待機児童を減らすという。子供の事故死は減らなくても、選挙対策になればいいのか。 今、民主主義までもが、「窒息」させられようとしている。(作家)2016年4月17日 東京新聞朝刊 5ページ「新聞を読んで-正義の警察像は崖っぷち」から引用 ヘイトスピーチは人権を侵害する行為ですから、「言論表現の自由」で保護される権利ではあり得ず、犯罪として取り締まりの対象とされるべきです。したがって、国会や都議会などは大阪市を見習って、早急にヘイトスピーチ規制の法令を施行するべきで、行政がそういう方針を示してはじめて現場の警察官も「人権」について学習し、ヘイトスピーチに対する正しい対処の仕方を習得するものと思われます。また、この記事の後半では保育園問題に言及してますが、この記事が指摘するように、問題は保育士の待遇であり、20年くらい前に株式会社の保育園事業への参入を認めた時点から始まった問題です。子どもの出生率低下が「問題」であるなら、国は昔のように保育士を公務員として優遇するくらいの思い切った待遇改善をする必要があります。それを、保育園の建物すら増やさず子どもの定員を増やして誤魔化そうなどとするのでは、怒った母親がキレテ「日本死ね」と叫びたくなるのも理解できるというものです。
2016年05月09日
TBSテレビが新手の右翼団体に脅迫されて抗議の声明を出したことについて、4月13日の朝日新聞は次のような社説を掲載した; TBSテレビが先週、「弊社スポンサーへの圧力を公言した団体の声明について」と題するコメントを発表した。 この団体は、「放送法遵守(じゅんしゅ)を求める視聴者の会」というグループだ。TBSの報道が放送法に反すると主張し、スポンサーへの「国民的な注意喚起運動」を準備するとしている。 TBSのコメントは、次のような要旨を表明している。 「多様な意見を紹介し、権力をチェックするという報道機関の使命を認識し、自律的に公平・公正な番組作りをしている」 「スポンサーに圧力をかけるなどと公言していることは、表現の自由、ひいては民主主義に対する重大な挑戦である」 放送法の目的は、表現の自由を確保し、健全な民主主義の発達に役立てることにある。コメントは、その趣旨にもかなった妥当な見解である。 声明を出した団体は、昨秋からTBS批判を続けている。安保関連法制の報道時間を独自に計り、法制への反対部分が長かったとして政治的公平性を欠くと主張している。 しかし、政権が進める法制を検証し、疑問や問題点を指摘するのは報道機関の使命だ。とりわけ安保法のように国民の関心が強い問題について、政権の主張と異なる様々な意見や批判を丁寧に報じるのは当然だ。 テレビ局への圧力という問題をめぐっては、昨年6月、自民党議員の勉強会で「マスコミを懲らしめるには広告料収入がなくなるのが一番」などとの発言があった。政治権力による威圧であり、論外の発想だ。 一方、視聴者が言論で番組を批判するのは自由だ。テレビ局は謙虚に耳を傾けなくてはいけない。だが、この団体は、放送法を一方的に解釈して組織的に働きかけようとしている。 TBSの「誠意ある回答」がなければ、「違法報道による社会的な負の影響」への「加担」を防ぐ提言書をスポンサーに送ると通告。ネットでボランティアを募り、企業の対応によっては「さらに必要な行動をとる」とも予告する。これは見過ごせない圧力である。 番組を批判する方法は様々あり、放送倫理・番組向上機構(BPO)も機能している。にもかかわらず、放送局の収入源を揺さぶって報道姿勢を変えさせようというのでは、まっとうな言論活動とはいえない。 もし自律した放送局が公正な報道と権力監視を続けられなくなれば、被害者は国民だ。「知る権利」を担う重い責務を、メディアは改めて確認したい。2016年4月13日 朝日新聞デジタル 「社説 TBS批判 まっとうな言論活動か」から引用 「放送法遵守を求める視聴者の会」という団体名は、あたかも市民団体であるかのような装いではあるが、放送法に記載された倫理規定を逆手にとって言論・報道の自由を奪おうという主旨であるから、これは明らかに民主主義に敵対する団体である。このような団体を野放しにしておいては、やがて被害は国民に及ぶから、この度の件を一回限りの社説で終わらせずに、警察が暴力団を監視するように、マスコミ各社はこの団体を監視する必要があるのではないだろうか。
2016年05月07日
東京新聞の権力監視はうまく機能しているか、「新聞報道のあり方委員会」では次のような議論が交わされた; -本紙はアべノミクスと武器輸出の問題を関連付けて報じ、国の形が変わっていくことを示してきた。こうした権力監視の報道について意見を。 魚住 東京新聞の権力監視のスタンスはずっと評価している。継続的に取材している武器輸出問題の記事は、非常に優れた報道だ。あと十年ほどすると、恐らく日本の産業構造は相当変わっているだろう。今、進んでいるのは経済と軍事の一体化だ。このまま進んでしまうと集団的自衛権の行使以上に日本の未来を決めてしまう。専守防衛の廃棄のような形になるのではないかと懸念する。 元旦に掲載した中古武器輸出の検討の記事をはじめ、国内での武器展示会、国際協力銀行が武器輸出に関して投融資を考えていることなどは、もっと報じられていい重要な問題だ。人数や手間を掛け、紙面も多く割いて東京新聞のこれからの報道の核に据えてほしい。 田中 政府は安全保障と関係なく、経済活性化のために武器を輸出しようとしているが、国連などを中心に今、取り組んでいる武器の撤廃や縮小の流れに逆行することになる。経済のためなら良いという風潮が、将来のためになるのかという視点が必要だ。 武器が転売された後、国家間の関係性が変われば、自分たちに被害が及ぶ可能性もある。例えばイラン・イラク戦争で米国はイラクに兵器を供与したが、イラクはその後、クウェートに侵攻した。武器をまき散らすと、手に負えないようなことも起こる。経済のために武器を売ることの本質的な意味についても解説してもらえると、記事がより分かりやすくなる。 吉田 3月9日夕刊で、絵本作家の松本春野さんが寄稿した「福島に寄り添うということ」という記事が気になった。放射線の問題を徹底的に調べた上で、帰還を決めた福島県の人たちのことを応援してほしいというメッセージだった。しかし、こうした意見は脱原発の思いを持つ人々の一部から権力側だとみなされ、バッシングを受けることもあるという。 実情を知らない外部から「危険だ」と言われ、傷ついているというのが恐らく福島の人たちの実感であり、実相だろう。松本さんの記事もそういう実相を伝えていた。原発報道に関しては権力監視も重要だが、現場の実感や実相を丁寧に扱い、その上で脱原発をしっかり打ち出してほしい。 木村 政権の監視は当然大事だが、日常生活の中の権力も監視してほしい。昨年8月に東京都中野区で劇団員の女性が殺害された事件で、警視庁は近隣住民や関係者ら千人以上から任意でDNAの提出を受けたというが、そんなことをしていいのか。確かにひどい事件で、犯人を捕まえないといけないが、捜査の仕方としてデュー・プロセス(法に基づく適正手続き)の考え方が見られない。 例えば、DNAの任意提出を拒否した人に対し、警察が「あなたが犯人ではないか」と疑ったなら、それだけでデュー・プロセスにはならなくなるだろう。米国なら無罪になるのではないか。日常生括の中の権力を監視することについて、僕らは相当おろそかにしている気がする。 菅沼 武器輸出問題の記事は相手が必死に隠している機密事項というのではなく、それまでだれも取材をしてこなかった分野。新聞記者に問題意識がなかったため、取材していない分野が他にもある。安保法制下になったことをとらえ、問題意識と取材力に磨きをかけたい。 深田 新聞の権力監視は、皆さんから指摘が出ているように要するに国民の知る権利の代行。読者には知る権利があり、それを代行して私たちは取材し伝えているということ。その意識を常に再認識して報じていかないといけない。2016年4月6日 東京新聞朝刊 11ページ「専守防衛 置き去り懸念」から引用 この記事によれば、国連は武器の撤廃や使用範囲の縮小といった事業に取り組んでいるとのことですが、そういう方針や取り組みに対してアメリカ政府やNATOはどういう態度を取っているのかというような点も報道してほしいものです。現在は世界の一部に「核兵器撤廃」の声があり、「核なき世界」などと演説して賞をもらった大統領もいるのに、現実には「核なき世界」はまだまだ絵に描いた餅状態が続いている。この問題はやがて解消されるべきであって、核兵器のみならず全ての武器が撤廃される日を目指して、私たちは声を上げていくべきだと思います。
2016年04月30日
昨日の欄に引用した中村一成氏のインタビュー記事の後半では、在特会ができた背景とヘイトスピーチ規制法の必要性について、次のように述べています; 中村さんは日本人と朝鮮人との間に生まれた。「書くことでこの一部になる」という言葉は、その人となりと切り離せない。 「母親が在日二世です。私はハーフというか、ダブルの三世にあたる。幼いころから、在日とか、ヤクザのような人たちと触れ合うことが多かった。その中で弱い立場への搾取の構造なども見えていた」 新聞記者時代は日常業務をこなすかたわら、マイノリティーの現状などについて独自取材を続けた。差別される人たちへの支援活動にも取り組んだ。 今にして思えば、新聞記者として過ごした1990~2000年代は、在特会に代表されるレイシスト(人種差別主義者)の揺藍(ようらん)・台頭期だった。 91年8月、元慰安婦の金学順(キムハクスン)さんが初めて実名で証言した。日本政府は、93年の「河野洋平官房長官談話」、95年の「村山富市首相談話」で戦争責任を認めた。 一方で保守派の巻き返しも活発化する。戦没者への追悼決議が全国の地方議会で相次ぎ、97年には「新しい歴史教科書をつくる会」が結成され、歴史修正主義に拍車がかかる。02年に北朝鮮が日本人拉致を認めると、政府レベルでも在日差別が公然化した。 06年9月には第一次安倍政権が発足した。そして同年12月に在特会が設立され、京都事件へとつながっていく。中村さんは「保守派による揺り戻し、『北朝鮮』たたき、安倍政権発足の流れの中で誕生したのが在特会だ」とみる。 メディアが京都事件を軽く見る中、在特会の蛮行はエスカレートする。京都事件の主犯が中心となって10年に起きたのが、徳島県教職員組合襲撃事件だ。朝鮮学校へのカンパを「募金詐欺」と曲解し、事務所に乱入した。13年には、在日コリアンタウンの東京・新大久保や大阪・鶴橋でヘイトデモが過激化した。 中村さんがメディアと同様に問題視するのが警察だ。「ヘイトスピーチ問題は警察問題」と断じる。 京都事件では、襲撃犯の器物損壊や威力業務妨害を傍観し、その後のヘイトデモを100人単位の機動隊員で護衛した。「デモをめぐる警察の対応は、警察法にある『公平中正』とは対極。徹底してカウンター(抗議)側を規制し、レイシストの暴力的な差別行為を完遂させている」 レイシストが憎悪する「朝鮮人」「サヨク」は、警察も敵視する。もともと両者の思想的親和性は高いが、ここまで警察とレイシストが一体化するのは、行政組織の規範となるヘイトスピーチ規制法がないからだ。「警察の恣意(しい)性を狭める要素としても、法規制が必要だ」 法規制をめぐる議論でついて回るのが「表現の自由」の問題である。だが、中村さんは「表現の自由とか内容規制とかを言う人は、それで何か言った気になっているだけだ。軽薄に聞こえる」と指弾する。 「同じ社会の成員が、属性に対する罵詈(ばり)雑言を浴びずに済むという当たり前の安全安心を得られないことをどう考えるのか。人間性の否定を我慢するしかないのか。それなのに表現の自由と言われても、私には『国民様』の自由と権利としか映らない」 とはいえ、市民運動弾圧などに乱用されないか。中村さんは「危険な言い方かもしれない」と断った上で「乱用されたらされたところから、新たな闘いを始めるしかないというのが本音だ。現状、あのデモを止めるには逮捕を覚悟するしかない。法規制は必要だ」。 「表現の自由」の問題を声高に持ち出すのは自民党である。自民党こそが、朝鮮学校への補助金カットや高校無償化除外など「上からの朝鮮差別」を推し進めてきた。 「駅前で人権擁護のティッシュを配るような、効力のない法律では意味がない。乱用よりも、ヘイトスピーチ抑止の実効性を本当に担保できる中身になるのかを心配するべきだ」<デスクメモ> 在特会の実態を暴いたのが、安田浩一さんの『ネットと愛国』とすれば、被害とその超克を余すところなく伝えたのが、中村一成さんの『ルポ 京都朝鮮学校襲撃事件』だ。ルポの前段である月刊誌の連載を読んだとき、憤りで手がわなわなと震えた。書き手としての非力さを思い知らされた瞬間でもあった。(圭)2016年4月3日 東京新聞朝刊 11版 29ページ「警察の恣意性 狭めねば」から引用 自民党という政党は、普段からテレビ局をどう喝したり、気に入らない記事を書く新聞を「潰せ」と言ってみたりで、「言論・表現の自由」の大切さなど歯牙にもかけない言動をしている政党であるが、こと「ヘイトスピーチ規制」に関してだけ、突如「言論の自由」を言い出すというのは、あまりにも露骨な「ご都合主義」につい笑い出したくなってしまう。また、この記事が指摘するもう一つの問題は警察の恣意的態度である。これは今に始まったものではなく、60年代の昔から、あるいはもっと前からか、学生運動のデモには暴力的な対応をする一方で右翼のデモには護衛の役目を果たしてきている。警察のこのような偏った姿勢を是正するためにも、ヘイトスピーチ規制法は必要である。
2016年04月22日
私たちはヘイトスピーチとどう対峙すべきか。ジャーナリストの中村一成氏は、3日の東京新聞インタビューに応えて、次のように述べている; ヘイトスピーチ(差別扇動表現)の法規制をめくる議論がヤマ場を迎えている。旧民主党などは昨年5月に「人種差別撤廃施策推進法案」を参院に提出しているが、ここに来て自民、公明両党も対案の検討を急ピッチで進めている。ヘイトスピーチとどう対峙(たいじ)すべきか。この問題の原点ともいえる京都朝鮮学校襲撃事件などを取材したジャーナリストの中村一成さん(46)に聞いた。(佐藤圭、白名正和) 2009年6月、「在日特権を許さない市民の会」(在特会)が主導するデモが京都市内で繰り広げられた。毎日新聞大阪本社の学芸部で記者をしていた中村さんは一市民として抗議活動に駆けつけた。「ゴキブリ、ウジ虫、朝鮮人」。 ヘイトスピーチを生で聞くのはこの時が初めてだった。 「京都の在特会系デモでは最大の200人が参加したが、250人が沿道から囲んだ。抗議側の総括は『勝った』『凌駕(りょうが)した』だった」 ところが、沿道で若い女性が泣きじゃくっている。たまたま買い物に来た在日コリアンの女子大生だった。「なぜこんなことを言われなければならないのか」と繰り返した。「勝ったなんて言えなかった。『しまった』と思った。ヘイトスピーチ問題に関わるようになったのは、いくつかの『しまった』なんです」 この差別扇動デモから半年後の09年12月4日、最大の「しまった」が起きる。在特会会員らが、京都市の京都朝鮮第一初級学校(現・京都朝鮮初級学校)の前で「スパイ養成機関」「密入国の子孫」などと怒号した。数日後、中村さんは職場で、会員らが動画サイトに投稿した襲撃の様子を見た。「トイレで吐きました。人はここまで下劣になれるものかと」 在特会会員らは翌10年1月14日、3月28日にも差別街宣を強行した。学校側の刑事告訴を経て主犯格4人が逮捕され、全員の執行猶予付き有罪判決が確定。学校側が起こした民事訴訟でも、一審・京都地裁判決(13年10月)、二審・大阪高裁判決(14年7月)とも街宣活動を人種差別と認定し、在特会側に計約1260万円の賠償を命じた。同年12月に最高裁で確定している。 しかし、これほどの事件を発生時に報じたメディアは、毎日新聞も含めてほとんどなかった。「デスクたちは、紙面が汚れるとか、在特会を増長させるとか言い訳をしたが、要するに抗議されるのが煩わしかった。そこで強行に紙面化を主張しなかった私も恥は一生抱えていく」 ようやく京都事件の取材を本格的に始めたのは12年秋、京都地裁で加害者の本人尋問が始まるころである。中村さんはフリーランスに転じていた。 被害者を描くことに注力したが、子どもや保護者らの精神的ダメージは想像を超えていた。「細かい部分は忘れても、その時の感情はどこかに突き刺さっている。それが突然湧き上がってきて、インタビューを中断することもあった」 裁判には最終的に勝ったが、従来、日本の官憲から迫害されてきた在日コリアンにとって司法は、差別にお墨付きを与える場でしかなかった。それでも法廷闘争を選んだ。中村さんは「親が子どもに残せるのは『スジ目』」と強調する。 「我慢するという選択肢は取らなかった。子どもの尊厳を守るためです。この闘いを記録したいと思ったし、書くことでこの一部になりたいと思った」 なかむら・いるそん ジャーナリスト。1969年11月、大阪府寝屋川市生まれ。95年に毎日新聞入社後、高松支局、京都支局、大阪本社社会部や学芸部勤務を経て、2011年からフリー。名前の読み方は「本来の読み方でなく通称名」だが、自らのアイデンティティーを示すために約15年前から使っている。著書に『ルポ 京都朝鮮学校襲撃事件<ヘイトクライム>に抗して』(岩波書店)、『声を刻む 在日無年金訴訟をめぐる人々』(インパクト出版会)など。2016年4月3日 東京新聞朝刊 11版 28ページ「ヘイト法規制 中村一成さんに聞く」から引用 この記事によれば、従来の日本の裁判所は在日に対する差別を肯定する判決を何度も出してきているらしい。しかし、いくら民度の低い社会とは言え、これだけ人権意識が高まれば、何時までも時代錯誤の判決ばかりではみっともないと感じたか、この度の京都朝鮮学校襲撃を行った在特会に有罪判決が出たのは、私たちの社会の進歩の証である。また、野党は一年前にヘイトスピーチを規制する法案を提出していたのに対し、与党も参院選を前に、ポーズだけでも格好をつけるべく法案を提出してきた。この機会に、マイノリティの人権といえども尊重される社会へ前進することを期待したい。
2016年04月21日
関西電力高浜原発3・4号機は去年の4月に一度「再稼働は不可」との仮処分が決定したのであったが、その後、同じ裁判所の別の裁判官がその決定を取り消して、無理矢理再稼働したのであった。ところが、今度は原発の地元ではない滋賀県の大津地裁が、稼働中の高浜原発3・4号機を止めさせる仮処分決定を行った。この画期的な決定に関連して、弁護士の宇都宮健児氏はその意義を、3月25日の「週刊金曜日」に次のように書いている; 東日本大震災・東京電力福島第一原発事故から5年が経つのを前にした3月9日、大津地裁(山本善彦(やまもとよしひこ)裁判長)は、滋賀県の住民が申し立てた仮処分申請事件で、関西電力高浜原発3・4号機(福井県高浜町)の運転を差し止める画期的な仮処分決定を出した。 福島の第一原発事故後、司法が原発の運転差し止めを命じたケースは、関西電力大飯原発3・4号機(福井県おおい町)に関する2014年5月の福井地裁判決と関西電力高浜原発3・4号機に関する2015年4月の福井地裁の仮処分決定(なお、この仮処分決定に対しては関西電力が異議申し立てを行ない、異議審で仮処分決定を取り消す決定が行なわれている)であった。 原発の運転を差し止める福井地裁の判決と仮処分決定の裁判長は、いずれも樋口英明(ひぐちひであき)裁判長であった。しかしながら、今回は樋口英明裁判長とは別の山本善彦裁判長が原発の運転を差し止める仮処分決定を出した。今回の大津地裁の仮処分決定は、今後の原発差し止め訴訟に大きな影響を与えるものと思われる。「発電の効率性をもって、これらの甚大な災禍と引き換えにすべき事情であるとはいい難い」として効率よりも憲法が保障する人格権を重視し、稼働中の原発について運転を差し止める仮処分決定を出したのは、全国で初めてのことである。 また、今回の大津地裁の仮処分決定は、原発立地県ではない隣接する滋賀県の住民が申し立てた仮処分申請事件で、原発事故被害の広域性を考慮して原発の運転の差し止めを認めた仮処分決定であることも画期的なことである。 さらに、今回の大津地裁の仮処分決定が、国家主導の具体的で可視的な避難計画が早急に策定されることが必要であり、この避難計画をも視野に入れた幅広い規制基準が望まれるばかりか、福島第一原発事故という過酷事故を経た現時点においては、そのような基準を策定すべき信義則上の義務が国家にあると判示していることも、重要な指摘である。 今回の大津地裁の仮処分決定は、建屋内の調査を踏まえた福島第一原発事故の原因究明が十分に行なわれないまま、「再稼働ありき」で原発の再稼働を進めてきている政府や電力会社の原発政策に対し、重大な警鐘を鳴らす決定と言える。2016年3月25日 「週刊金曜日」1081号 9ページ「風速計-画期的な大津地裁の仮処分決定」から引用 この度の大津地裁の仮処分決定は、原発反対運動を進める人たちに大いに勇気を与える決定だったとのことで、反原発をサポートする大物弁護士も「原発は、一度動き出してしまえば、もうお手上げで、稼働する前に勝訴判決を勝ち取れなければ諦めるしかない、というのが今までの常識だったが、今や稼働中であっても裁判所が命令すれば止めることが可能と分かったのは画期的だ」と言っていたのが印象的です。今回の決定を出した裁判官は、べつに原発を目の敵にするわけでもなく、現在の原子力規制委員会や関西電力は国民が納得できるような安全性の説明ができていないから、稼働してはならないと命令したのであって、十分に納得できる説明があれば、いつでも再稼働を許可するという立場である点も抑えておく必要があると思います。また、避難計画も、実際に事故が起きたときは、避難者は県境を越えて逃げることになるので、そういう避難計画を自治体に任せたのでは、十分な計画にはならないから、これは国が主導して具体的な避難計画を策定する必要があると指摘している点も重要です。国民の生命と財産を守るのは政府の責任ですから、原発事故の避難計画についても、しっかり対策を講じてほしいと思います。
2016年04月17日
国の交付金で運営されている国立大学は式典で国歌を斉唱するべきだという馳文科相の発言を、法政大学教授の山口二郎氏は、3月27日の東京新聞コラムで次のように批判している; 国立大学の卒業式で国歌斉唱をしないという大学に対して、文部科学相は「恥ずかしい」と批判した。政府から交付金をもらっているのだから恭順の意を示せということである。 恥ずかしいのはどちらだ。金をやっているのだから言うことを聞けというのは、何とも品性に欠ける発想である。大学の交付金は文科相の私財ではない。国民の税金を使わせてもらっていることへの感謝は、もっと実質的な研究、教育の成果によって具体化すればよい。大学とは、独立した研究者がものを考え、知的に自立した人間を育てる場である。 反抗と刷新は表裏一体である。旧弊に反旗を翻すのは、若い世代の役割である。明治時代後半、維新を知る世代はいなくなり、若者は学校制度の中で立身出世のための学問に専念するようになった。 この時、ジャーナリストの三宅雪嶺は「独立心を憎むの官吏が教育を監督し、独立心を憎むの教員が授業を担当していては」、独立心を持つ人間は育たないと慨嘆していた。そして、当時の教育が「有識有能の奴隷精神」を涵養(かんよう)すると批判した。 せっかく18歳選挙権を実現しても、高校生の政治活動を届け出なければならないというお達しを促す県もあると報じられている。現代の教育行政を担当する官吏も、よほど奴隷精神が好きなのだろう。(法政大教授)2016年3月27日 東京新聞朝刊 11版 29ページ「本音のコラム-奴隷精神」から引用 明治維新から何十年も経って、維新を体験していない世代が増えた頃、三宅雪嶺が批判したような教育体制で育った当時の若者は、みな体制順応型で「お上は批判するものではない」というような者ばかりだったようです。しかし、もし昔から日本の若者がそういう考えをもつのが普通だったとすれば、明治維新などは実現不可能だったわけで、そういう観点から、三宅雪嶺は当時の教育体制を批判したものと考えられます。その結果、三宅の批判の甲斐も無く体制順応型の国民が増えたために、その後の軍部の暴走を止めることができず、1945年8月15日の結末を迎えることになってしまったというわけです。したがって、式典でどのような歌をうたうかうたわないか、そんなことはそれぞれの大学の自主性に任せるものであって、文部科学大臣に「歌え」と言われて唯々諾々と歌い出すようになってしまえば、この先ろくなことにはならないということのようです。
2016年04月16日
青森県の核燃料再処理工場は、これまでに何十回も竣工予定を先延ばししてきており、もはや永久に完成はしないとの予測が有力になってきているが、この度、アメリカ政府高官が「再処理事業は経済的に合理性はないから、すべての国がこの事業から撤退することが喜ばしい」とコメントしたと、3月27日の東京新聞が報道している; 【ニューヨーク=北島忠輔】米国で31日に始まる核安全保障サミットを前に、原発の使用済み燃料を再処理してプルトニウムを取り出し、再利用する核燃料サイクル事業に米国が神経をとがらせている。背景にあるのはオバマ大統領が問題視するプルトニウムの大量保有だ。核兵器6千発分相当の48トンを抱える日本は核燃料サイクル事業実現で減らすと強調するが、めどが立たない現状に米国が疑問を呈した形だ。 米上院外交委員会が17日に開いた公聴会。国務省で国際安全保障や核不拡散を担当するカントリーマン次官補は「再処理事業に経済的合理性はなく、核の安全保障と不拡散に懸念をもたらす。すべての国の撤退が喜ばしい」と言い切った。AP通信は「異例の踏み込んだ発言」と報じた。 オバマ氏は「テロリストの手に渡らないよう努力している分離済みプルトニウムのような物質を絶対に増やし続けてはいけない」と述べている。 1977年に再処理事業から撤退した米国は他国の参入を止める一方、日本には1988年に定めた日米原子力協定で例外的に認めた。協定期限は2018年7月。いずれかが再交渉を求めなければ自動更新される。米国には期限前に問題提起する狙いがあった。 背景には事業を請け負う認可法人を設ける日本側の法制定の動きが指摘されている。鈴木達治郎・長崎大教授は「法律は、使用済み核燃料が出たら再処理費用を積み立てると規定。必要以上に持たないとの合意に反すると米側がみなした可能性がある」と話す。 公聴会で民主党のマーキー上院議員は「(事業認可を求める)韓国の後追いを促し、北朝鮮の核保有を防ぐ米国の努力を台無しにする危険がある」と更新交渉の必要性を指摘した。<米国のプルトニウム回収>オバマ大統領は2009年、「核なき世界」を訴えたプラハ演説で、各国が保有する核物質がテロなどに悪用されるのを防ぐため、管理を強化する考えを示した。日本やドイツ、ベルギー、イタリアなどにあるプルトニウムが対象となっている。 日米は14年の核安全保障サミットで、冷戦期に英米仏が日本に提供した研究用プルトニウム331キロの返還に合意。今月22日に英国の輸送船が茨城県東海村を出港した。ところが運搬先のサバンナリバー核施設がある米サウスカロライナ州の知事が「住民の安全と環境保護のために受け入れられない」と反発。5月ごろに到着する輸送船が滞留する恐れが出ている。2016年3月27日 東京新聞朝刊 12版 2ページ「減らぬ日本のプルトニウム」から引用 使用済み核燃料の再処理事業については、アメリカは既に40年前に撤退したもので、その後日本がその事業を始めることを承認したのは、もし日本が独自の技術開発で成功すれば自国もそれに便乗できるという計算があったのかも知れませんが、結局40年待っても、未だにいつから稼働できるのか、まったく見通しが立たないし、仮に数年後に完成が見込めるとしても、その後の稼働に経済的な合理性がないのであれば、やっても無駄ということであるから、これはやはり早めに事業を断念するのが利口というものだと思います。
2016年04月14日
アメリカにはマフィアのような組織犯罪を取り締まる法律があって、これが実際のマフィアだけではなく、有害情報を正しく伝えないで利益を上げたたばこ会社にも適用されたことがあるそうで、これが今度は、地球温暖化はCO2のせいではないと主張する石油関係企業にも適用するべきだという声が出ていると、ジャーナリストの木村太郎氏が、3月20日の東京新聞コラムに書いている;■学者20人連署で書簡 「地球は温暖化してはいない」と言うと罰せられることになるかもしれない。 と言っても米国の話だが、ロレッタ・リンチ米司法長官は9日、上院司法委員会で気候変動を否定するものを処罰することを考えていると次のように証言した。 「我々はこの問題(気候変動を否定すること)について議論を尽くし情報も収集してきました。そこで、米連邦捜査局(FBI)に対しこの問題が訴追の対象となりうるかどうか検討を命じました」 実は、昨年9月、米国で気候変動の危機を訴えている学者20人が、連名でオバマ大統領に書簡を送り次のように訴えていた。 「(石油、石炭などの)化石燃料業界と、その支持者たちは書籍や新聞記事を通じて(気候変動などないと宣伝する)不正行為を行っています。これを今直ちに差し止めないと、米国や世界は地球の気候を安定させる機会を逸し取り返しのつかない悪影響を残すことになります」■RICO法適用求め 学者たちは化石燃料業界の行為は、喫煙の危険を隠していたたばこ業界と同じだとして、たばこ業界を追及した「威力脅迫および腐敗組織に関する連邦法(RICO法)」を化石燃料産業にも適用すべぎだと訴えていた。 RICO法は、もともとマフィアなどの組織犯罪取り締まりを目的に制定されたが、米司法省はこの法律を根拠に大手たばこ各社を訴え、2006年ワシントン連邦地裁はたばこ業界が喫煙の有害性を十分理解できないよう申し合わせて消費者を欺き収益を上げてきたと断じ「低タール」「ライト(軽い)」などという表現も禁ずる判決を下した。 学者たちは、化石燃料業界と気候変動を否定するものたちもマフィアのような犯罪組織だと処罰を求めたわけだが、RICO法では有罪になると最高20年の禁錮刑または25万ドル(約2800万円)の罰金が科せられる。■共和党候補は否定的 これに対して気候変動に疑問を呈してきた人たちの間からは当然反発が起きているし、言論の自由の原則からも反対論を封じ込めるのはおかしいという議論もあり、現実にRICO法が適用されるまでには曲折がありそうだ。 それはともかくとして、この間題が米大統領選の候補者選びの最中に取り上げられたのは、意図的だったかどうかは別にしても興味深い。民主党のクリントン、サンダース両候補は地球温暖化に危機感を表明している一方、共和党の候補はおおむね否定的で特にトランプ候補に至ってはツイッターでこうつぶやいて話題になっている。 「地球温暖化という考えは、中国が米国の製造業の競争力をそぐために発明したものだ」 トランプ大統領が誕生したら、逆に気候変動説が糾弾されることになるのかもしれない。 (木村太郎、ジャーナリスト)2016・3・202016年3月20日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「『温暖化は疑問』は処罰対象?」から引用 この記事もなかなか考えさせられる点が多い。アメリカのたばこの箱には有害性を警告する厳しい表現が使われているのに比べて、日本のたばこはかなりソフトな表現になっているので、さすがアメリカは進んでいるなあと思ったものでしたが、実はアメリカのたばこ会社も裁判で負けるまでは、なるべく有害性には触れないでいこうとしていたとは意外です。大統領候補のトランプ氏がいう「地球温暖化は中国の発明」というのは、まったくのウソで、温暖化二酸化炭素説は欧米の気象学者が言い出したことであって、京都議定書が策定された当時は、中国は発展途上国の立場からCO2削減に協力はできないと主張していたものでした。そういう国際情勢に対する確かな認識も無いような人物が大統領になって、果たして国としてやっていけるのかどうか、アメリカの皆さんにはよく考えてほしいものです。
2016年04月11日
原発事故を起こして何万人もの人々を避難生活に追いやっている加害者の東京電力が、被害者に対する補償に誠意ある態度を見せない裏には、安倍政権の後押しがあると、作家の赤川次郎氏が、3月20日の東京新聞コラムで論評している; 思い出せ。2011年3月12日のあの瞬間を。 福島第一原発の建屋の屋根が吹っ飛び、白煙が上る映像。あれを見たとき、「日本は終わりだ」と思った人は少なくないはずだ。小学生の子を持つ知人夫婦は、急いで子供1人を飛行機に乗せ、沖縄の友人のもとへと送り出した。大人は仕方ないとしても、子供だけは放射能から守りたい。 それはあの日の多くの大人たちの思いだったのではないか。おそらく、東京電力の社員にも自民党の議員にも、そう願った人はいたはずだ。 しかし、5年たった今、日本はどうなっただろう。 最も腹立たしかった記事は原発ADR(裁判外紛争解決手続き)についての「こちら特報部」(3月12日)である。原発事故被害者のためのADRは、手間や費用のかかる訴訟によらず、文部科学省の原子力損害賠償紛争解決センターへ申し立てることで、スムーズな賠償を実現するものだ。東京電力は、ここで示される和解案を「尊重する」と誓っている。 ところが現実には東電は和解案の受け入れをしばしば拒否。怒った被害者は東電を提訴している。この東電の強気の裏に安倍政権があるのは明らかである。 被害者への賠償や生活再建は後回し、原発再稼働と原発の海外輸出に力を入れる政治が東電を後押ししている。さらには、あの大事故で、誰一人責任を問われなかったことが、東電のおごりにつながっている。 3・11から5年、テレビや新聞は地震や津波で家族を失った人々の、今も癒えない悲しみの姿であふれた。しかし、真にジャーナリズムが目を向けるべきは、今も収束しない原発事故の状況であり、放射能汚染の実態の方ではないのか。大津地裁が稼働中の高浜原発に停止命令を出したのは、わずかな希望の光である(3月10日1面)。 同じ3月10日の「こちら特報部」に、東京・中野の女子高生が安保関連法に反対する地元でのデモを行うという記事があって、うれしかった。それというのも、このデモのコースに当たる地下鉄新中野駅は、私が長く住んでいた所だからである。杉山公園、鍋屋横丁といった地名に、懐かしさと、この女子高生を応援したい思いを抱いた。 NHKの「クローズアップ現代」(女性たちの”戦争”)はイスラム国(IS)に奴隷として売り買いされるヤジディ教徒の女性たちの凄絶(せいぜつ)な現状を捉えていた。レイプされ、全身にガソリンをかぶって火をつけ大やけどを負った女性の、正視するのもつらい姿。これが戦争なのだ。 若い女性たちが、戦争を自分のこととして捉えれば、弱者が最も悲惨な立場に追いやられるという点で、戦争も原発事故も違わないことが分かるだろう。(作家)2016年3月20日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「新聞を読んで-弱者が最も追いやられる」から引用 事故を起こした福島原発は今も地下水が放射性物質を海に流し続けており、海洋汚染は進行中である。原発と海岸の間の土壌を凍らせて巨大な止水壁にする工事はまもなく完了する予定になっているが、このような巨大な凍土壁は未だかつて作った経験もなく、目論み通りの結果が得られるという保証はない。壊れてしまった原発の後始末も遅々として進まず、今の予想では廃炉の工事が完了するのは40年後とのことだから、今年の新入社員が定年退職するころに終わるかどうかといったところである。一度事故になると、このような事態になるのであるから、ドイツやイタリアが決断したように、日本も原発は止めるべきである。
2016年04月10日
原発事故から5年たって、政府は放射能汚染で避難生活をしている人々に行っていた支援を打ち切ろうとしている。被災者は、居住環境を元に戻してほしいはずであるが、これ以上いくら費用をかけて除染しても放射能汚染はゼロにはできないので、政府は勝手に「安全基準」を決めて、その「基準」以下の地域には多少の汚染が残っていても我慢して帰還しろ、それを拒否して避難生活を続けるなら、それは個人の勝手だから政府としての支援はしないと、こういう理屈である。このような政府の弱者切り捨てのやり方を、法政大学教授の山口二郎氏は、3月13日の東京新聞コラムで、次のように断罪している; 「3・11」から5年たった。津波で破壊された海辺の町は、かなり再建されている。しかし、原発事故で生活を奪われた人々は一層深い窮地に追いやられている。 安倍政権は原発事故で放射能に汚染された地域でも、かなり放射線量が下がってきたので、避難していた人々に事故以前にいた街に戻るよう促す帰還政策を進めている。避難していた人々への支援も打ち切ろうとしている。これ以上避難するのは「自主」避難だから、面倒は見ないというわけである。 これは、ギリシャ神話に出てくるプロクルステスのベッドという話そのものだ。プロクルステスという追い剥ぎは旅人を自分の家のベッドに寝かせ、ベッドからはみ出す手足を切り取るという残虐な趣味を持っていた。 現代日本における法令や予算が狭いベッドであり、そこにくくりつけられた旅人は原発事故の被災者である。安倍政権はベッドからはみ出す部分を切り捨てようとしているのである。被災者を支援するための政策ではなく、被災地は問題がなくなったという格好をつくるための政策である。 私たちが人間でありたいなら、安倍政権の残虐を許してはならない。東京電力の元幹部は強制起訴され、刑事責任が追及される。安倍政権に対しては、われわれ自身が政治的責任を追及していかなければならない。(法政大教授)2016年3月13日 東京新聞朝刊 11版 29ページ「本音のコラム-人間であること」から引用 原発事故による放射能汚染のために自宅に住めなくなった人たちは、日本全体から見ればごく少数であるため、マスコミも取り上げようとしないが、そういう少数者に対する政府のやり方は、あまりにもひどい仕打ちであり、黙って見過ごすことはできないので、せめてギリシャ神話の例にたとえてでも、政府がやろうとしていることがどういうことなのかを訴えたいという山口教授の意図を、私たちは重く受け止めるべきです。
2016年04月08日
知日派のジャーナリストとして知られる元ニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラー氏は、日本のメディアの特徴について、3月13日の東京新聞インタビューで、次のように述べています; 東日本大震災から5年。津波の被害、東京電力福島第一原発事故とその後の混乱に、今も熱い視線を注ぐ人がいる。米紙ニューヨーク・タイムズ前東京支局長のマーティン・ファクラーさん(49)。学生時代を含め日本滞在19年になる知日派のジャーナリストは「事故の現実を闇の中に放置してはいけない。まだ終わっていない」と、日本のメディアに呼び掛ける。(五味洋治)◆ あの事故から五年になりました。 残念なのは、いまだに事故に関して、基本的なことが分かっていないことです。自衛隊、米軍の役割は何だったのか。東電は原発から撤退する計画があったのか。社会全体の関心も低下してしまいました。再稼働に反対、賛成ということではありません。得るべき教訓を得ないといけない。原発事故に関して三匹の猿(見ざる、言わざる、聞かざる)になってはいけないのです。◆ 「吉田調書」(東電福島第一原発の故吉田昌郎元所長に対する政府事故調の聴取記録)をめぐる報道の影響があるのでは。 そう思います。調書を最初に報道した朝日新聞は、一連の報道を取り消しましたが、これは必要なかった。訂正でよかった。吉田所長の証言内容があいまいだったため、朝日新聞は記事のニュアンスを間違ったことは事実ですが、原発の管理がどれだけ悪かったかという、もっと大きい問題があったんです。記事取り消しによって、本当の問題が消えてしまったのです。◆ 日本のジャー」ナリストに物足りなさを感じるということですね。 ジャーナリストの役割は、調査して政府や権力者と違うストーリーを伝えることです。原発事故後、そういう努力が多く見られた時期があります。しかし最近になって全体的に調査報道が減ってきました。政府の言われた通りに書く。そういう報道ばかり増えています。吉田調書のような目に遭わないようにリスクを避けているのではないですか。ジャーナリストの仕事はファクト(事実)を調べて組み立て、意味を加えていく。映画を作ることに似ています。難しくて危険な作業です。一つでも間違えば権力側は責めてくる。しかし萎縮してばいけない。◆ 安倍政権のメディア戦略をどう見ますか。 メディア戦略のレベルが高いですよね。その高さに、正直言って日本のメディアが追いついていない。日本の新聞報道を見ると、権力へのアクセス(接触)が大事です。経済産業省が近く、ある発表をする。これを他より早く書くとスクープとして扱われる。そこを政権側が知っている。安倍首相も自分への単独インタビューを効果的に使っています。私から見ればまったく価値のない記事ですが、そういう心理をうまく利用しています。ただ、数カ月前と比較すれば、メディア側も気がついた気がする。もう少し独立性を発揮しようとしている。◆ 例えば。 NHKクローズアップ現代のキャスターである国谷裕子さん、テレビ朝日、報道ステーションのキャスター、古舘伊知郎さんといった政権に批判的な人が相次いで番組から姿を消します。これに対して、メディア側から批判的な記事が出始めていますよね。◆ 米国でも同じような状況がありました。 イラク戦争をめぐる報道ですね。確かに米国のメディアの失敗でした。日本は3・11(東日本大震災)が国家的危機でした。9・11(米中枢同時テロ)後の米国も同じだった。イラク戦争が起きる前、当時のブッシュ大統領はリーク(機密を意図的に漏らすこと)をうまく使い、ニューヨーク・タイムズも含めてイラクに大量破壊兵器がこんなにあるということを報道させました。イラク戦争が始まるまで、政権への批判的な記事はあまり出なかった。リークを求めるあまり、うまく利用されたのです。 ところが大量破壊兵器などなかった。 みんな政府にだまされたと気がついた。それからブッシュ大統領のやり方に怒って批判を始めた。今もプッシュ政権は、歴代の政権と比較して人気のない政権です。アクセスを重視するジャーナリズムと、調査重視のジャーナリズムの調和は難しいものです。ニューヨーク・タイムズにはピュリツアー賞を受賞したジェームズ・ライゼンという記者がいます。ブッシュ政権が、2005年、米国家安全保障局(NSA)による令状なしの通信傍受を暴く記事を書きました。この報道が行われるまで約1年間、社内で激しい論議があった。報道すれば、政府の監視が弱まって、テロとの戦いの障害になるかもしれない。万が一テロが起きれば、われわれは責任を取れるのかという意見でした。◆ 結果は。 記事になりました。国民には知る権利があるという結論でした。米国では調査報道にもともと長い伝統がありますからね。ただ最近は国家の監視も強化されています。ライゼンさんの場合も、米政府は彼の電子メールや携帯の記録を調べ、その結果イランの核開発に阻する米国の作戦の情報をライゼンさんに漏らしたとして、中央情報局(CIA)の元職員を逮捕しています。日本も特定秘密保護法で、国家が同じような力を持とうとしています。◆ なぜ記者の仕事を選んだのですか。 歴史をリアルタイムで書く。しかも受け身ではなく、自分から見に行く。それを読者に伝える。この大事な使命を、権力に任せたくなかったのです。自分で見て、自分で判断して、自分でストーリーを組み立てたい。それが記者の仕事で、もっともわくわくするところですから。◆ 一番印象的な取材は。 やはり福島原発の取材ですね。調査報道の力を感じました。いわゆる「原子力村」は、都合のいい情報だけを出していた。そんな時私たちは、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)を事故当時、政府が公開しなかったことを記事で指摘しました。私たちの記事で日本国内に波紋が広がりました。情報隠しがあったとして、原子力に対する不信が高まったのです。ファクトの力を感じました。◆ 日本で調査報道は、やりにくいですか。 そんなことはありません。テーマはたくさんあります。制約はあるでしょうが、問題はメディア側のやる気でしょう。日本のメディアは、昔の家電メーカーと同じです。よく似たニュース(製品)を流している。もちろん競争はあるものの、あくまで枠の中の競争。ところが今の家電メーカーは全く違っています。オンリーワンを目指し、特色ある製品を出していますぺそういう革命がメディアにも必要でしょう。◆ ネットが普及する中で新聞の役割は。 ネットにはいろいろな意見が出ていますが、信頼できるものは少ない。こういう時代にこそ、経験のあるプロの力が必要です。他がやらないオンリーワンの報道をすること。これが新聞が生き残る道でしょう。私は、日本のメディアのあり方を批判することもありますが、日本の記者たちに、「もっといい仕事ができるよ」と激励し、協力をしていくつもりです。<インタビューを終えて> インタビューの後、ファクラーさんの新刊が出た。「安倍政権にひれ伏す日本のメディア」という刺激的なタイトルで、発売後、メディア関係の書籍として売り上げ一位となった。 日本で仕事をする中で見聞きした「記者たちのおかしな取材、不思議な報道、記者クラブメディアの特殊さ」(同書)がテーマだが、「愛する日本への恩返し」でもあるという。 日本を米国のような機密だらけの国にしてはいけない。官製情報ではなく、新しい事実の発掘を-。そんな呼びかけだ。今回のインタビューにも、その熱っぽさがにじんでいた。 マーティン・ファクラー 1966年米国アイオワ州生まれ。台湾と日本で、中国語と日本語を習得。ウォールストリート・ジャーナル、AP通信社などを経て2009~15年までニューヨーク・タイムズ東京支局長を務め、日本と朝鮮半島の取材に当たった。12年、福島第一原子力発電所事故の調査報道で、自身を含む東京支局スタッフが、「日本の当局が隠蔽(いんペい)した一連の深刻な失敗を力強く調査した」としてピユリツァー賞国際報道部門の次点に選ばれた。 現在は日本再建イニシアティブ(東京)主任研究員。早稲田大では招脾(しょうへい)研究員として調査報道を教えている。著書に『崖っぷち国家日本の決断』など。2016年3月13日 東京新聞朝刊 21ページ「あの人に迫る-権力に屈するな 独自色発揮せよ」から引用 この長文の記事は、我々の日常であまり気にかけなかった事柄について、中々含蓄のある指摘が随所にちりばめられていて、読み応えのある記事になっていると思います。日本のメディアは、家電メーカーがやってきたように、だいたい他社と同じような内容で歩調を合わせる傾向があると言ってますが、これはおそらくメディアや家電メーカーに限らず、日本人の行動原理に根ざしているのではないかと思われます。公の場で何か意見を求められたり、なんらかの意思表示が必要なとき、周りの皆さんはどうかなと周囲を見回して、みんなと調和しやすい態度を表明する、したがって本音はある程度抑制されても仕方がないという態度だと思います。しかし、新聞もインターネットと競争する時代になれば、新聞ならではの強みを発揮していかないと勝ち残れないということでしょう。 また、ジャーナリストの職業的使命についても教訓的なエピソードが披露されています。政府が国民の通話を盗聴しているという事実を、うっかり報道してテロリストの行動に有利な結果を招いていいのか、それよりも国民の知る権利のほうが優先するのではないか、報道関係者にはこのような真剣な問題意識が期待されます。
2016年04月06日
福井県に設置された原子力発電所について滋賀県の裁判所が運転停止の決定をしたことに関連して、規制基準の抜本見直しを求める投書が3月24日の東京新聞に掲載された; さる3月9日の大津地裁による高浜原発3・4号機の運転停止決定は、未曽有の福島第一原発事故を念頭におけば、極めて妥当である。原子力規制委員会が定めた規制基準は当初から問題が多かった。私は特に2点を強調したい。 その1は、福島の事故原因を究明せず拙速に設定したこと。当局と東京電力は、津波による全電源喪失に伴う冷却機能の停止が原因だとするが、これには世界的に異論がある。国会事故調は「地震動による破損がなかったとは結論できない」と断じた。また、英国科学専門誌「ネイチャー」478号も紹介した、事故による核分裂生成物質の全地球規模拡散に関するA・ストール氏らの国際調査研究は、津波到達以前に原子炉機器が破損していた可能性を指摘する。原因究明がない時点での基準は科学的姿勢に欠け、説得力がない。 その2は、住民避難計画が基準の対象外になっていること。この住民避難の課題は、「原子力災害対策指針」により「防護準備区域」などが定義づけされたが、避難計画の妥当性審査は規制基準にはなっていない。審査当局や原発事業者の責任回避といえよう。国際原子力機関(IAEA)や米原子力規制委員会(NRC)は、住民避難の課題を原発立地の基準・規則に定める。ショーラム原発(ニューヨーク州)は完成後、住民避難計画が不適という理由で、営業が許可されず廃炉となった。 事故の因果関係を究明反映する科学性を貫き、未来にも安全を保証する責任性を負うのでなければ、原発を審査・運用する資格はない。規制基準は、抜本的に見直すべきである。2016年3月24日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「ミラー-原発規制 抜本見直しを」から引用 この投書が指摘するように、大津地裁の運転停止決定は極めて妥当な判断であったと思います。福島原発の事故原因がはっきりしないのに、そういう事故を未然に防ぐ基準を作ったなどと言っても論理的に説得力を欠き、単に「世界で一番厳しい基準だ」などと根拠もなくお題目を唱えていても、それで事故を防ぐというのは単なる精神論に過ぎません。また、規制基準に「事故の際の避難計画」の項目が含まれないことに対しては、元米原子力規制委員会(NRC)に勤務した経歴をもつ人物が、は朝日新聞のインタビューに「常識的に考えらえられない」と驚いた様子で応えていました。やはり、原発の規制基準については、事故後に作ったものだから当然前回の事故は未然に防ぐ仕組みになっているだろうなどという楽観論は捨て、欧米の専門家の意見も入れて、しっかりした基準に作り直す必要があると思います。
2016年04月05日
君が代に代わるもっとマシな国歌を、と主張する投書が、18日の東京新聞に掲載された; 今や卒業式の季節、そしてすぐに入学式の季節が来る。この季節を前に、2月20日の特報面「式典の春 国歌NO」の記事で、国立大学の多くが式典で「君が代」の斉唱を行っていないということを知った。意外な現実である。 学習指導要領などを通して、文部科学省の強力な影響が及ぶ小中高校においては、式典での君が代斉唱の要請は断れないようだ。一方、大学では自主的判断に任されていて、国立大学においてすら、君が代斉唱はまれであるそうだ。 この事実は、君が代の日本社会における立ち位置をいみじくも示している。まずは、君が代はいまだに先の戦争の記憶を引きずっていると思う。これに加え、私の全く主観的な感想にすぎないが、その歌詞や旋律が大変厳粛で奥ゆかしくはあるが、人々を元気づけるようなものではないからではないか。もっと明るい快活な国歌があってもいいのではないだろうか。2016年3月18日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「発言-明るい国歌を取り入れては」から引用 この投書は、国立大学で君が代が歌われていないのは以外だと言ってますが、国立であろうとなかろうと、大学は学問研究の場であって、国益追求の機関でもないわけですから、式典だからといって君が代を歌わなければならない理由はないと思います。そもそも学問研究は人類一般の福祉向上に資するものであるべきで、「国」に拘っていたのでは、あまり立派な研究にはならないのではないでしょうか。 ただ、私たちの社会における君が代の立ち位置という指摘は、よく考える必要があると思います。歌詞や旋律が厳粛なのは結構ですが、やはり今から試合だというときに聞かされたのでは、少なからず気分がトーンダウンするのではないでしょうか。アメリカやフランスの国歌のような、元気が出る歌がいいいと思います。フランス国歌というと、「敵軍兵士の血を、我々のブドウ畑の肥やしにしてやれ」というような野蛮な表現があると批判する向きもありますが、あれは、フランス革命に恐れをなした近隣の王国からの反革命戦争に対向し、革命を守る闘いに立ち上がった兵士を励ます歌詞だったという歴史的背景に理解が必要と思います。
2016年04月03日
裁判所が「忘れられる権利」を認めたことに異議を唱える大学生の投書が、16日の東京新聞に掲載された; 2月28日の本紙に「忘れられる権利」が裁判所に初認定されていた、との記事が出ていた。一定期間経過後は、インターネットに残り続ける個人情報を削除することによって、過去の犯歴を忘れられる権利があるというのである。 過去の犯罪歴が公開されることで、更生が妨げられるというのは分からないでもない。生活の平穏の維持が困難になることもあるだろう。しかし、それでも私は「忘れられる権利」を認めることには慎重になるべきだと考える。 なぜなら、過去の犯罪歴といった情報は「私的な」情報ではないからである。よほど軽微な犯罪でない限り、それは誰にとってもアクセス可能という意味での公共的な情報である。私たちは過去に起きた犯罪についての情報に自由にアクセスし、議論の対象とする自由が、憲法上、保障されているはずである。裁判所という国家権力の担い手がこれらの情報を削除するよう命じることによって、私たちが公の情報に自由にアクセスすることが妨げられはしないか気がかりである。国家が情報を操作してわれわれ国民を無知の状態に追いやるという点で、秘密保護法と重なっているように思う。 また、決定文を実際に読んだわけではないため断定は避けたいが、「平穏な生活が阻害されるおそれがあり、その不利益は重大」という主張もかなり一面的ではないかと思う。公の情報にアクセスできずに自由な言論空間が縮小してしまうことの方がよほど重大な社会的不利益ではないのか。 私は「忘れられる権利」に反対である。私たちにも過去の犯罪を「忘れない権利」がある。2016年3月16日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「ミラー-『忘れられる権利』慎重に」から引用 私はこの投書の主張は間違っていると思います。不幸にして犯罪を犯してしまった者は、裁判にかけられて相応の刑罰を受けた後に更生し、社会に復帰します。それを、この投書は、一度犯罪を犯した者はたとえ更生した後であっても、本人が死ぬまで「前科者」として差別していこうと主張しているわけで、人権尊重の時代にこのようなことを主張する者がいるというのは大変残念なことです。このたび裁判所が認めた「忘れられる権利」とは、過去の犯罪の記録を一般市民が簡単にアクセスできる状態に放置して、刑期を終えて更生した者の平穏な生活を妨害する事態を改善するという意味であって、警察や裁判所の記録も一切なくすというわけではありませんから、この投書が主張するような「公の情報にアクセスすることが一切禁止される」などというものではありません。古来よりわが国には「罪を憎んで人を憎まず」との諺もあり、一度犯罪を犯した者であっても、本人に更生の意志があるのなら、私たちは社会として暖かく迎えるべきです。
2016年04月01日
若者の就職難が続く韓国では、貿易協会が日本に就職するように呼びかけていると、1日の産経新聞が報道している; 就職難にあえぐ韓国の若者の日本への就職を支援しよう-。韓国貿易協会は、深刻化する若者の就職難を受け、こんな方針を打ち出した。韓国・聯合ニュースが伝えた。 同協会は、すでに26日に日本の就職情報会社マイナビ、韓国の求人情報サイトのジョブコリアと業務協約を結び、ソウルで「日本就業成功戦略説明会」を開催。今後は日本での就職を希望する求職者に役立つ教育を行うほか、7月には日本企業を招き、採用博覧会を開催する予定という。 韓国統計庁によると、韓国の昨年の失業率は3.6%で、最近では2010年(3.7%)に次ぐ悪さだった。 特に若年層(15~29歳)の失業率は9.2%と、前年から0.2ポイント悪化し、1999年に統計の基準が変更されて以来の高さとなった。2016年3月1日 産経ニュース 「『韓国の若者よ、日本で就職しよう!』韓国協会が支援方針」から引用http://www.sankei.com/economy/news/160301/ecn1603010031-n1.html わが国は少子高齢化の影響からか、保育園を増やそうにも保育士が足りないとか高齢者介護もヘルパーの人材が不足とか、求人難が言われているところですので、労働力の不足という問題を抱えるわが国にとって、韓国から職を求めてやってくる若者には期待がかかります。古くからわが国は、大和朝廷の成立や律令国家の構築などの際に朝鮮半島からやってきた渡来人の貢献に助けられた経緯もあるわけで、これからも、朝鮮半島と日本列島の人的交流が極東アジアの繁栄に貢献するものと思います。
2016年03月25日
粉飾決算という犯罪を犯していながら、経営者は誰一人法的責任を問われず、経営再建策としては「粉飾」の大本だった子会社ウェスチングハウスの事業とフラッシュメモリーを主力事業としていく。これまで業績を上げてきた医療機器部門は売却し、これを支えてきた優秀な社員は全員リストラ、という異常な事態となっている「東芝」について、2月7日の「しんぶん赤旗」コラムは、次のように論評しています; 日本を代表する総合電機メーカー、東芝の粉飾決算とリストラが大きな関心をよんでいます。長年にわたる利益の水増しを暴露された東芝が、その不正をきちんと正さないままに大規模な従業員のリストラ策を打ち出し、それによって不祥事の幕引きを図ろうとしているからです。 東芝は、いまだに粉飾決算の全容を明らかにしていません。昨年9月の修正決算で、2248億円もの粉飾をしていたと認めましたが、その後さらに大きな粉飾が暴かれたのです。10年前、東芝が相場の3倍以上の高値で買収したアメリカの子会社ウェスチングハウス(WH、原子力大手)が、赤字で約1600億円もの減損を出していたことを、東芝は隠していました。 東芝は、今後WHが高収益をあげるからと、連結決算に約3500億円の「のれん代」を計上してきました。当然それを減額しなければならないのに、今なお3400億円余の「のれん代」を計上し続けています。これは明らかに粉飾です。 粉飾決算は重大な犯罪です。 かつてカネボウが2000億円の粉飾をした時には、経営陣の逮捕や上場廃止のきびしい措置がとられました。しかし、はるかに大規模で悪質な東芝の粉飾に対しては、金融庁が課徴金を課しただけで、公的機関による捜査や取り締まりは行われていません。その背景として指摘されているのが、安倍政権と東芝との親密な関係です。 たとえば、粉飾で中心的な役割を果たした佐々木則夫元社長は、第2次安倍政権の発足とともに、経済財政諮問会議や産業競争力会議の民間議員に就任しています。経団連副会長にも納まって、首相とともに原発の輸出や再稼働を推進してきた人物です。 東芝の不正に厳正に対処しようとしない安倍政権は、粉飾をまともに反省しようとしない東芝経営陣とともに、日本の経済システムや企業経営に対する世界の信頼を、取り戻すことができないほど破壊しつつあります。 東芝のリストラ策は、スマートフォン用フラッシュメモリー事業と原子力事業の二つに経営資源を集中する、なかでも原発輸出に重点をおく、というものです。そのための事業資金を得るために、将来有望な事業も医療機器のような黒字事業も売ってしまう、優れた多数の社員も解雇してしまう、というのです。人員削減は1万600人としていますが、今後大きく膨れあがる可能性が高いと言わねばなりません。 しかし、これは、原発というリスクの高い事業に社運をかけた経営の失敗を、さらに大規模に繰り返そうという自滅的政策です。 安倍政権が強引に進めている原発推進政策に協力するために、経営を破綻させ、従業員の職を奪い、家族の生命を危険にさらす・・・。こんなリストラ策が許されてよいものでしょうか。 大木一訓(おおき・かずのり 日本福祉大学名誉教授)2016年2月7日 「しんぶん赤旗」日曜版 20ページ「経済これって何?-粉飾反省せず従業員犠牲に」から引用 アメリカでは企業として利益を出せないので売却するというウェスチングハウスを、相場の3倍のカネを積んで買収したのは不思議なことで、さらに買収後、見込み通りの利益が出せないからといって、その赤字を隠して決算したというのも不思議な話です。普通なら、赤字部門は事業を縮小して経費を節減し、赤字を極力圧縮する努力をするものでしょう。その上、粉飾がバレて経営再建が必要となったとき、普通なら赤字部門を整理して処分し、利益が出ている部門をさらに拡大強化するのが常道と思いますが、大赤字の元凶である原子力部門を中核にして再建していくというのは、上の記事が指摘するように、これは自滅への道を選択したということではないでしょうか。それにしても、総理大臣と個人的に親しい場合は、犯罪を犯しても何のお咎めも無しというのは、それでも日本は法治国家と言えるのでしょうか。
2016年03月14日
海外では風力発電が盛んで、昨年一年間に新設された風力発電の発電能力は原発60基分に相当し、現実に風力発電の発電量は原発を追い越したと、2月21日の東京新聞が報道している; 世界の風力発電の発電能力が2015年末に14年末比17%増の4億3242万キロワットに達し、初めて原子力の発電能力を上回ったことが、業界団体の「世界風力エネルギー会議」(GWEC、本部ベルギー)などの統計データで明らかになった。 15年に新設された風力発電は6301万キロワットと過去最大で、原発約60基分に相当する。技術革新による発電コストの低下や信頼性向上を実現し、東京電力福島第一原発事故などで停滞する原発を一気に追い抜いた形だ。日本は発電能力、新設ともに20位前後で、出遅れが鮮明になった。 GWECは「風力発電は化石燃料からの脱却を主導している。世界で市場拡大の動きがあり、16年は、より多様な地域で導入が期待できる」としている。 「世界原子力協会」(WNA、本部英国)の調べによると、原子力の発電能力は16年1月1日時点で3億8255万キロワットとなり、風力が5五千万キロワット程度上回った。 国別の風力発電能力の上位5カ国は中国(1億4510万キロワット)、米国(7447万キロワット)、ドイツ(4495万キロワット)、インド(2509万キロワット)、スペイン(2303万キロワット)。日本は304万キロワットだった。 日本は25万キロワットで、前年の13万キロワットより増加したが、小規模にとどまっている。2016年2月21日 東京新聞朝刊 12版 2ページ「風力発電能力 原発抜く」から引用 わが国の風力発電も、2014年の新設が13キロワット、2015年の新設が25万キロワットと2倍近い伸び率と胸を張りたいところであるが、米国や中国に肩を比べるほどの経済規模から言えば、あまりにも小規模で完全に出遅れてしまった。廃棄物処分の問題一つとっても、原発よりは風力のほうが国土の狭い日本には適しているのであるが、このまま原発推進でいけば、やがては放射能列島になってしまうのではないか。これ以上放射性廃棄物を増やさないためにも、原発は止めるべきだ。
2016年03月10日
テレビの報道が偏向しているなどと攻撃して、その根拠にデタラメなデーターをグラフ表示した広告を読売新聞に載せたペテン師・小川榮太郎について、ジャーナリストの山口政紀氏は、2月26日の「週刊金曜日」に次のように書いている; 2月13日付『読売新開』朝刊に、《視聴者の目は、ごまかせない。ストップ!”テレビの全体主義”》と大書した1ページ意見広告が掲載された。広告を出したのは「放送法遵守を求める視聴者の会」。昨年11月にもTBS 「NEWS23」キャスターの岸井成格(きしいしげただ)氏を非難する広告を『読売岩産経新聞』に出した。 今回の標的は各局の主要な報道番組。広告はNHKと民放5社の計6番組について、特定秘密保護法案と安保法制の国会審議が終盤を迎えた5日間の「両論放送時間比較」を円グラフにして表示。全番組の賛否放送時間は、秘密保護法案では「反対」74%、安保法制では「反対」89%だったとし、《誰が国民の「知る権利」を守るの? TVの電波は独占状態!》と攻撃した。 個別の番組では、安保法制に関するニュースで、テレビ朝日「報道ステーション」が「反対」95%、「NEWS23」が「反対」93%だったとして、両番組を際立たせた。驚いたのはNHK「ニュースウオッチ9」も「反対」68%だったこと。籾井勝人(もみいかつと)会長も「そんなはずはない」とあわてたのではないか。 何を判断基準に、どういう調査をしたら、こんな数値になるのか。グラフには「日本平和学研究所調べ」と記されているが、調査方法は明示されていない。放送時間のうち、法案の説明部分(=安倍政権の主張)は「賛成」と数えず、法案賛否のコメントだけ集計したのか。法案の問題点をほとんど報じなかったNHKの「反対意見放送68%」はそれ以外に説明がつかない。 この「日本平和学研究所」は昨年10月に登記された一般社団法人で、代表理事は小川榮太郎(おがわえいたろう)氏。彼は「視聴者の会」の事務局長でもある。つまり、グラフのデータは、ほぼ自作自演。 では小川氏はどんな人物か。1967年生まれの文芸評論家で、主な著作は『約束の日-安倍晋三試論』(2012年、幻冬舎)、『国家の命運-安倍政権奇跡のドキュメント』(13年、同)。 彼は作家・小松成美(こまつなるみ)氏との対談(小松氏のプログに掲載)で、「3・11」直後、《次期首相は安倍晋三氏が適切であるという啓示が降り》、「安倍再登板運動」を開始、「創誠天志塾(そうせいてんしじゆく)」という私塾活動、SNSや著作を通じて《安倍さんの声がより多くの人に拡散するお手伝い》をしたと語っている。ちなみに創誠天志塾月例会の初回テーマは「僕は、安倍晋三を総理にする!」、特別ゲストは安倍昭恵氏だった。 その返礼か、昨年11月11日、東京都内で開かれた小川氏の新著出版を祝う会には、安倍首相本人が出席し、あいさつした。つまり、二人はそういう関係だ。 高市早苗(たかいちさなえ)総務大臣は2月8日、衆院予算委員会で「政治的公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合、電波停止もあり得る」旨答弁した。この質疑のきっかけになったのが、「視聴者の会」が昨年11月、岸井氏、TBS、鎗務省に送った「放送法4条の遵守」を求める公開質問状だ。そして、安倍首相は高市答弁を追認した。自身の親衛隊に放送番組を攻撃させ、国会で取り上げてテレビ局を萎縮(いしゅく)させるアベ式メディア支配工作?「視聴者の会」の意見広告費は、『読売』の2回分だけで推定約1億円。昨年11月に発足したばかりの会が、どうやってこんな巨額を調達したのだろう。 一方、『読売』は「視聴者の会」の実態を承知で広告を載せたのか。2月14日付『読売』社説は《放送局の自律と公正が基本だ》とし、高市発言を《言わずもがなではないか》と批判した。ならば、巨大な部数を持つ紙面に、「放送局の自律」を敵視する意見広告を載せるべきではない。やまぐち まさのり・「人権と報道・連絡会」世話人、ジャーナリスト。 高市大臣の停波発言を批判した読売新聞社説は大変立派であったが、社説でどんなに立派なことを言っても、やっていることがこれでは、やはり読売新聞の品格は疑われる。こういうことでは、やはり、大学入試を作る先生たちも、試験問題には、読売よりも朝日の記事を引用するほうが無難だと考えるわけだ。小川某というペテン師が去年の秋に、にわかに怪しげな研究所を立ち上げて1億円以上ものカネを積んで新聞広告を出した、そのカネはどこから出たのか、興味深い。自民党はメガバンクから巨額の融資を受けており、利払いも巨額であるが、その分は銀行から政治献金として受け取っているから負担はなく、そういうカネがこういうペテン師に流れる可能性も否定はできない。昔、ドイツの大資本はヒトラーのナチスに資金協力した過去があるが、現代日本のメガバンクも同じ道をたどろうとしているのではないか、検証が必要である。
2016年03月04日
大逆事件はわが国最大のえん罪事件であるが、その事件の首謀者として処刑された幸徳秋水を堂々と弁護した徳冨蘆花の直筆の嘆願書の展示を見学した法政大学教授の山口二郎氏は、14日の東京新聞コラムに次のように書いている; 先週、熊本に行った折、徳富蘇峰(とくとみそほう)、蘆花(ろか)兄弟の資料を展示した記念館を見学した。そこで、蘆花が大逆事件の際に、幸徳秋水などの被告人の助命を明治天皇に向けて訴えた嘆願書の直筆原稿を読み、深い感動を覚えた。その中で蘆花は、幸徳たちは放火や殺人を犯した犯罪者ではなく、日ごろ世の中のために考え、行動した志士であると弁護した。立場や思想は違っても、国や人民のために真剣に行動する者に対する敬意が原稿にあふれていた。 人間誰しも批判、攻撃を受ければいい気持ちはしない。しかし、こと権力者の場合、そうした自己愛は捨ててもらわなければならない。権力はしばしば腐敗、暴走するものであり、人民の生命や自由を脅かす。だから批判を受けることは権力者の宿命である。また、真摯(しんし)な批判を聞くことは、為政者が軌道修正を図り、統治を成功させるために有益でもある。 高市早苗総務相が、テレビが不公平な報道をした時には、電波の停止を命じることもあると繰り返し発言した。公平、不公平は誰がいかにして判断するのか。一連の発言には、権力に逆らう報道を威嚇するという意図が見え透いている。 メディアはこんな脅しに屈してはならない。明治憲法下でさえ、蘆花は大逆事件の被告を擁護した。今の憲法は、自由を保障しているのだ。(法政大教授)2016年2月14日 東京新聞朝刊 11版 29ページ「本音のコラム-蘆花の嘆願書」から引用 この記事が示すように、権力というものは腐敗しやすく、また暴走しやすいものであるから、常に国民の監視と批判が必要で、それに耐えられない者はその仕事に不適格というものである。したがって、テレビも新聞も政府批判は当たり前のことなのであって、その批判が「公平か不公平か」を政府が自分で判断するとなれば、これは明らかに「不偏不党」の原則に反する。したがって、高市大臣の言い分は法の主旨に照らして間違いなのであって、テレビ局を威嚇する目的で持論を繰り返したものと思われる。
2016年02月26日
新聞が調査したところでは、一昨年に新たに不登校となった小中学生の割合が過去最高だったとのことで、文部科学省も「不登校の未然防止」の対策を検討することになったという報道に対し、関西学院大学准教授の貴戸理恵氏は、安易な数値による判断とそれに基づいた対策が、かえって児童生徒を不幸にする危険があると、14日の東京新聞コラムで、次のように主張している; ある新聞社の独自分析で、2014年度に新たに不登校になった「新規不登校」の小中学生の全生徒に占める割合が、過去最高だと報道された。6万5807人が新規不登校であり、一日180人の小中学生が新たに学校に行かなくなった計算だという。専門家は「未然防止」の必要性を指摘し、文部科学省もそのための支援策を検討中とされる。 「新しく不登校になる子どもが増えているから、それを未然に防がねば」というのはわかりやすい。だが、ちょっと待ってほしい。 確認したいのは「全体として不登校が増えている」わけではないことである。学校基本調査によれば、不登校になる中学生の割合は、2000年代以降はずっと2%台後半で、多少の揺れを含みつつ一定に推移している。14年度も他の年度と比べて必ずしも高くない。それを踏まえれば「新しく不登校になる子どもの割合の増加」は「不登校のままでいる子どもの割合の減少」と関わっている。実際に、中学校において「前年度から継続して不登校であった生徒」の不登校生徒全体に占める割合は減ってきており、02年度に54・7%だったのが一四年度には49・6%になっている(文科省「問題行動調査」)。 ここから読み取るべきは「不登校が増えている」という「量」の変化ではなく、それが子どもにとって、より「入りやすく離れやすい」一般的な道になりつつある、という「質」の変化ではないか。 不登校の状況が「悪化」したという数値データは、人びとの注目を集めやすい。長期欠席の出現率を歴史的に見とおせば、1970年代半ばから四半世紀ものあいだ、学校に行かない子どもは一貫して増えてきた。教育問題に関心のある年長の方なら、90年代ごろまで毎年、「不登校の数・割合が、また過去最悪を更新した」とセンセーショナルに報道されていたのをご記憶ではないだろうか。不登校は、それを通じて人びとが独自の教育批判を展開する「ネタ」になってきた面がある。 だが、これを繰り返してはならない。重要なのは、現在不登校の状態にある子どもや、不登校の経験を持っている若者の現実を踏まえ、当事者の利益を考えることである。今回のデータに対し「新規不登校の増加」と必要以上に反応し、性急な「未然防止策」が取られれば、当事者の不利益につながることもある。たとえば、いじめ被害者が自らを守るために学校から撤退する場合や、さまざまな負荷を抱えて学校に行くことが困難になっている場合など「未然防止」によって、新たに不登校になるハードルを上げるよりも「さらりと休める」ことが本人にとっては重要なときもある。 繰り返すが、上記のデータからは「不登校がより多くの子どもにとって義務教育のどこかで経験する一つの道になっている」という現実が見てとれる。そうであれば、不登校になる子どもを減らすよりも「不登校になっても本人が不利益を被らない環境」をつくることの方がより重要ではないか。 学校に行かなくても、フリースクールや自宅で勉強できる。不登校の自己を否定することなく他者とつながる「居場所」を持てる。本人のペースで学校や職場に移行できる。重要なのはそれらであって、数字を減らすことではない。(関西学院大学准教授)2016年2月14日 東京新聞朝刊 12版 4ページ「時代を読む-不登校 未然防止よりも・・・」から引用 貴戸氏の指摘はもっともである。本来であれば、児童生徒はいじめ被害から身を守るために、必要ならいつでも学校を休んでいいのだという共通の認識をもつべきであって、不登校になった生徒が後々社会的不利益を被らないようなシステムを作ってあげるのが社会の役目というものである。「少々のいじめにあっても我慢して学校に行く」ような対策を考えるというのは本末転倒だ。
2016年02月25日
新潟県では県知事が原発の再稼働について慎重な姿勢を示す一方で、地元の経済界は再稼働することによる経済的な波及効果が期待できるという意見が上がっているらしいが、新潟大学と新潟日報の共同研究によると、過去40年間の事実として原発の立地地区が他の地区よりも景気が良かったなどということは無かったことが明らかになったと、14日の東京新聞が報道している; 東京電力柏崎刈羽原発が地元・新潟県柏崎市の産業に与えた影響について、新潟日報社は原発建設前の1975年から直近まで約40年間の各種統計データを集計し、新潟大学経済学部の藤堂史明准教授(43)と共同で分析した結果、立地による経済効果は限定的だったことが分かった。原発の建設期に地元の建設業が一時的に総生産を伸ばしたものの、基幹産業である製造業のほか、サービス業、卸売・小売業への波及効果はデータ上、見えなかった。 東電が再稼働を目指す柏崎刈羽6、7号機は原子力規制委員会による審査が最終段階に入っている。経済界などからは、原発が立地地域に及ぼす経済効果を強調し、再稼働を求める声が上がっている。だが、今回の分析結果は、そうした「経済効果説」に疑問符を突きつけた形だ。 県統計などを使い、柏崎市の市内総生産額(89年までは純生産額)や製造品出荷額等などの75年から直近までの推移をまとめ、分析した。全国の推移や、柏崎と人口がほぼ同規模の新潟県三条、新発田の両市の推移と比較して検討した。 柏崎を支える製造業の総生産額=グラフ参照=を見ると、原発建設期の70~80年代は上昇傾向にあるが、原発が全基完成したのと同じ97年から大きく落ち込んだ。製造品出荷額等の推移もほぼ同様の傾向だった。 ただ、製造業が盛んな三条も柏崎に似た推移を示していた。さらに、全国の出荷額等の動きも柏崎にそっくりで、原発立地の効果が柏崎の製造業に及んだ形跡は見られなかった。 サービス業と卸売・小売業の総生産額も新発田、三条とほぼ同じ推移をしており、原発立地によって柏崎だけが特別伸びた様子はうかがえない。建設業だけが原発建設期に三条、新発田よりも総生産額を大きく伸ばしており、一時的な効果はあったとみられる。【 市内総生産(純生産)と製造品出荷額等 】市内総生産は、1年間に市内の各産業の生産活動で生み出された価値を推計し、金額で示したもの。そこから設備機器などの資産価値の目減り分を考慮し、除いた額が純生産。製造品出荷額等は、1年間に工場などでつくられた製品の出荷額や、他社製品を加工した賃料などの合計金額。2016年2月14日 東京新聞朝刊 12版 1ページ「原発経済効果は限定的」から引用 この記事が示すように、原発を稼働すると町全体が景気よくなるなどというのは根も葉もない噂に過ぎず、そのようなデマに騙されて原発を再稼働するのは、国民の平和に暮らす権利を損ねるというものである。新潟県の泉田知事は福島の原発事故の後、一貫して事故の原因をはっきりさせ責任を明らかにした上でなければ、再稼働はするべきではないと言っており、これは正論である。安倍政権は、原子力規制委員会の審査は世界一厳しいもので、これに合格すれば安全は保障されると言っているが、当の規制委員会委員長は、技術的に基準に適合しているかどうかを判断しているだけであって、適合していれば安全を保障できるというものではないと、明確に否定しているのであるから、県民の命を預かる泉田知事の主張は当然と言える。
2016年02月24日
在日朝鮮人韓国人に対するヘイトスピーチの動画を公開していた「ニコニコ動画」が、法務省の要請を受けてこれを削除したと、14日の東京新聞が報道している; 在日朝鮮人に対する差別的言動などのヘイトスピーチ(憎悪表現)の動画がインターネット上で公開されているのは人権侵害に当たるとして、法務省が複数のサイト管理者に削除を要請し、一部が応じていたことが、関係者への取材で分かった。ヘイトスピーチによる人権侵害を抑止するための法務省の措置が、動画削除につながった初のケース。 法務省は昨年12月「在日特権を許さない市民の会(在特会)」の元代表にヘイトスピーチをしないよう勧告するなど、抑止の取り組みを強めている。今回は被害者側の申し立てに基づく要請で、勧告と同様に強制力はない。 関係者によると、問題となった動画は2009年11月、東京都小平市の朝鮮大学校の校門前で在特会メンバーが「朝鮮人を日本からたたき出せ」と大声を出している内容など。動画配信サイト「ニコニコ動画」などを通じて公開されていた。 法務省は名誉毀損(きそん)やプライバシーの侵害があると判断した動画や書き込みについて、プロバイダーなどに発信者情報の開示や削除を求めており、この動画も削除を要請。13日までにニコニコ動画を含む複数のサイトが「人格権侵害」などの理由で削除した。◆人権侵害一定の歯止め-国主導常態化には警鐘 法務省の要請に応じ、複数のサイトがヘイトスピーチの動画を削除したことは、差別的発言の拡散への一定の歯止めになると見込まれる。だが、削除要請の具体的基準は示されておらず、行き過ぎた対応が表現の自由の制限につながらないよう、慎重な対応を求める声もある。 ブログや会員制交流サイト(SNS)の普及に伴い、インターネット上での人権侵害を訴える声は増加している。2014年に法務省が被害の申し立てを受けたのは過去最高の1429件に上り、10年間で約7倍となった。 法務省によると、14年にプロバイダーやサイト管理者に書き込みなどの削除要請をしたのは152件。中学生を「死ね」と中傷する動画が掲載されたケースでは、投稿サイトの管理者に学校側が削除依頼しても応じてもらえなかったが、その後法務省が要請し、削除につながった。 同省幹部は「申し立ての件数はどんどん増えているが、侵害の認定が難しかったり、管理者とのやりとりに時間がかかったりすることも少なくない」と対応の難しさを打ち明けた。 ヘイトスピーチの動画削除について、ネット問題に詳しい落合洋司弁護士は「自分で解決できない被害者を救済するために今回のような対応は必要だが、行き過ぎると表現の自由への介入になる。節度を持ち、控えめに行使していくことが求められる」と指摘する。 青山学院大の大石泰彦教授(メディア倫理)は「昨今のヘイトスピーチの状況を見れば、今回の対応はやむを得ない」としつつ、「被害者が特定できなくても関連団体が差し止め訴訟を起こせるなど、新たな制度をつくるべきだ。公権力が主導してネット空間が浄化されるスタイルが根付くのは危険で検閲性も高く、どのような言葉が入れば削除要請をするかなど、基準を明確化する必要がある」と話している。2016年2月14日 東京新聞朝刊 12版 31ページ「ヘイトスピーチ動画 削除」から引用 このたびの法務省の要請でヘイトスピーチの動画が削除されたことは、私たちの社会の人権意識を向上させるという意味で喜ばしいことです。ただ、専門家が危惧するように、明確な基準もなしに法務省官僚の判断に依存するのは、危ない橋を渡るような危険性を伴いますから、可及的速やかにヘイトスピーチの基準を定めた法律の整備が必要です。大阪市の条例などを参考にして議員立法をするのが良いと思います。
2016年02月23日
最近日銀が始めた「マイナス金利」について、法政大学教授の竹田茂夫氏は、4日の東京新聞コラムに次のように書いている; 2000年前後に日銀はデフレ克服のためゼロ金利や量的緩和の非伝統的金融政策をとり始めた。米国や欧州の中央銀行も後を迫ったが、これは中銀の役割の転換につながった。従来、その役割は物価安定や金融危機対応に限定されていた。株価や為替相場は権限外でもあった。 今や中銀は自己破壊衝動(バブルやデフレ)に突き動かされる市場経済を基盤で維持する重責を担わされ、何でもありの状況だ。すでに量的緩和は財政ファイナンス(国債引き受け)と化し、金融政策と財政は一体化している。円安と株高という黒田日銀の「成功」が、日銀現執行部を政治任用した安倍政権を支えるという構図だ。 だが、日銀は人口減少とグローバル化という内憂外患には無力だ。実際、インフレ期待で消費や投資を喚起するというもくろみは完全に失敗。円安と株高で輸出増と消費増は生じなかった。年初来の株価乱高下はマイナス金利でも沈静化できない。さらに、マイナス金利にも民間銀行の現金保有コストによる下限があり、無限には引き下げられない。 この先はどうか。金融抑圧(資本・金利・銀行の規制)を強めつつ、年金基金と示し合わせて株価維持操作を行ったり、ヘリコプター・マネーという究極の手段もある。途中で市場と国民の信頼を使い果たすかもしれない。(法政大教授)2016年2月4日 東京新聞朝刊 11版S 29ページ「本音のコラム-マイナス金利」から引用 日銀総裁に黒田氏が就任してから、金融の量的緩和を実行して円安を誘導し株価も高騰したのであったが、それでも景気は回復しなかった。そこで日銀はゼロ金利からマイナス金利へと突き進むのであるが、そんなことをしても景気が良くなるわけがないことは素人にも分かる。人々の雇用が安定して収入に余裕が出て来なければ、誰も新製品を買おうとか、旅行に出かけようなどと考えるわけがない。大企業を減税で優遇すれば、余ったカネを設備投資や賃金のベースアップに回すだろうというのは、何の根拠も無い作り話に過ぎず、労働者の賃金は毎年減少しているのが現実である。規制緩和をやれば景気が良くなるという話も、過去にはそういう現象があったのかも知れないが、今となっては、大型バスの運転経験のないドライバーも規制が無くなったので運転をさせられて、その結果、前途ある若者が何十人も事故死することになっている。この先はどうなるか。年金基金を使って株価維持を図るなどというのは、年金の支払いのためにプールしたカネをこれ以上減らされてはかなわないから、止めてもらいたい。やはりこの、資本主義経済というのは、放っておけば自己破壊衝動に突き動かされてバブルになったりデフレになったりするもののようだから、これを資本家や投資家の勝手にさせないで、民主的規制をかける方向へ転換しないことには将来がなくなるのではないかと思います。
2016年02月20日
川崎市では差別主義の団体がヘイトスピーチのデモを行ったが、市民がカウンターの行動に立ち上がり、デモが在日の人たちの居住区に進むことを阻止したと、1日の東京新聞が報道している; 在日コリアンらへのヘイトスピーチ{差別扇動表現)のデモが31日、川崎市川崎区内であり、これに反対する市民らが抗議活動を行った。ヘイトスピーチを根絶するために団結して立ち上がり、「差別に反対」と大声で訴えた。(横井武昭) ヘイトスピーチが市内で行われたのは12回目。今回は、市内外の市民団体で1月中旬に結成した「『ヘイトスピーチを許さない』かわさき市民ネットワーク」が反対運動を呼び掛け、約500人が駆けつけた。 同区の富士見公園で始まったヘイトスピーチに対し、市民らは公園を囲むように集結。各団体の代表者らが「差別は絶対に許さない。皆さん仲良くしましょう」と抗議の演説をした。 JR川崎駅付近まで歩いて約一時間半続いたヘイトデモには、沿道からプラカードや横断幕を掲げて「差別はやめろ」「川崎守れ」と声を上げ続けた。在日コリアンが多く住む桜本地域の近くにデモが来ると、路上に座り込むなどして同地域への進行を阻んだ。 終了後、在日の母親を持つ中学1年の男子生徒(13)は「差別はやめろと言ったのにデモの人には通じず、すごく悲しい」と語った。ネットワークの結成を呼び掛けた社会福祉法人「青丘社」の三浦知人事務局長は「今日を第一歩に、ヘイトスピーチ根絶への歩みを確かなものにしたい」と力を込めた。2016年2月1日 東京新聞朝刊 22ページ「差別から川崎守れ」から引用 ヘイトスピーチの主張は社会的弱者の人権を侵害する暴力的な言動で、これは明らかに公共の福祉に反する行為ですから、本来はこういう行動を取り締まる法令が必要です。日本では民主主義が始まってまだ70年と歴史が浅いため、これらの法整備が立ち後れているのは残念なことですが、大阪市では既にヘイトスピーチを禁止する条例を制定しました。川崎市も可及的速やかに、必要な法整備をすることが望まれます。伝聞によれば、当地では差別主義団体がヘイトスピーチのデモ計画をウェブに公表したことを受けて、市民団体が「『ヘイトスピーチを許さない』かわさき市民ネットワーク」を立ち上げたときの結成集会には、市内のボランティア団体やその他の市民団体、労働組合等が集まり、社民党、共産党、公明党、その他のグループからも市会議員が出席して挨拶したとのことで、私たちの社会の未来を照らす希望の光だと思います。
2016年02月09日
最近の新聞記事について、日本総合研究所勤務の池本美香氏は1月20日の東京新聞コラムに次のように書いている; 「東京新聞にダメ出し会議 まとめ編」(17日32面)では、9回にわたるダメ出し会議で読者から受けた提言や注文について、その後の進展状況を記者が〇、△、×で自己評価。他人を批判するのは得意だが、自分が批判されることには慣れていない新聞記者が、読者の声を聞こうとする姿勢に好感が持てた。 なぜ新聞を読むのか。「試験に出るから」「社会人として、社会の動きを知っていないと恥ずかしいから」など、一方的な情報収集の手段と考えられる傾向が強まっているように感じる。ダメ出し会議では「子どもに新聞作らせたら?」「読者がもっと参加できたら」「投書欄充実させるのも手」「見出しで内容もっと詳しく」など、読者とともに作る新聞が念頭に置かれている。そのためには「分かりやすく」も強く期待されていることがうかがえる。 投稿欄には重要な指摘が多い。「『開かずの踏切』改善を」(19日5面ミラー)は、前の駅に到着もしていない電車のために踏切が閉めっぱなしで、25分も足止めされたことを伝えた。投稿をもとに記者も取材し、事態の改善につなげることこそ、新聞の存在意義ではないかと思う。 先日の雪では駅ホームへの入場制限で、改札口から一時間以上一人も入場させないことに、外国人と思われる乗客が「一人も入れないのはおかしいよ」と駅員に詰め寄る場面に遭遇した。これに対し「他の方もお待ちなのでお待ちください」との返答。一個人の苦情は無力だ。納得のいく説明をせず多くの人をひたすら待たせることは許されるのか。こうした些細(ささい)なこともぜひ追及してほしい。 「退屈なニュース番組」という高校生の投稿も鋭い指摘だった(20日5面ミラー)。米国のニュース番組ではアナウンサーとゲストの熱いディスカッションを楽しめ、自分の意見を確立させることもできるという。日本のニュース番組は、社説「キャスター降板 何が起きているのか」(21日)で、「自由闊達(かったつ)であるべき放送ジャーナリズムの衰退」が懸念されている状況。公平中立ばかりでは、自分の意見を確立する手助けにはならない。ニュース番組がそのような状況であればなおさら、新聞は記者も、読者も、有識者も、自由にものを言える場であってほしい。 皆が意見を言えるようにするには、情報をわかりやすく伝えることが重要。英政府発行の書類には、平易な英語を使っている旨が記載されていた。専門用語の多用などで読む気をなくし、意見や批判が出なくなることを避けるねらいだ。自分の意見を持ち、自由闊達に議論できる人を育てるため、子ども向けの分かりやすい新聞の刊行も検討いただきたい。(日本総合研究所主任研究員)2016年1月20日 東京新聞朝刊 5ページ「新聞を読んで-新開の存在意義」から引用 この記事が指摘するように、テレビやラジオの番組はいちいち「公平中立」など気にしないで、様々な立場から多様な意見を自由に採り上げるべきであって、一日なり一週間なりの放送全体をみて「公平中立」に配慮すればいいのだと思います。そのようにして、視聴者は色々な立場の意見に接して、自らの意見を確立することが可能になるのだと思います。
2016年02月08日
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