書評日記  パペッティア通信

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Jan 16, 2006
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カテゴリ: 政治




内容をコンパクトにまとめておきましょう。

● 全羅道差別は、植民地時代以降の産物
● 近代史上稀な没落農民の流出をまねいた産米増殖運動


古来、本貫が「郡県」であらわされたように、 植民地時代になるまで政治単位「道」は大きな意味をもたなかった 。第一次大戦後、日本における重化学工業化の進展は、朝鮮半島に都市労働者層の「食糧供給基地」としての役割を与えるべく、産米増殖運動を展開させることになった。それは、1930年代には、没落農民270万人の地域外流出をまねき、済州島では全人口の1/4が日本に移住するほどであったという。 「反逆者の湖南(全羅道)民」という両班社会に限られていた言説は、ソウルなどに流入した湖南民が、酷薄な都市社会を生き延びるため、社会の底辺で強力な同郷結合を取り結ぶ姿によって、地域差別として広く社会全体に共有・強化されていった ものらしい。その差別意識は、朝鮮戦争直前~戦中にかけての全羅道を中心としたパルチザン抗争、 戦前の湖南財閥の衰退 、高度成長下・湖南民のソウル大量流入によって、いっそう強化されることになったという。

● 韓国権威主義体制を支えた、朝鮮戦争時における報復殺戮の横行
● 「抜粋」「四捨五入」改憲等の強権李承晩政権を下ろしたい米国


「八・一五」解放直後、各地の民族主義者によって、左派主導で作られた自治委員会は、徐々に米軍政当局と対立を深めてゆく。「親日派」の傷をもつ右派は、その情勢をみてアメリカ軍政当局と李承晩に接近。1946年2月、ソ連軍支配下、北部に成立した臨時人民委員会は、徹底した 「土地改革」を断行することで、「越南民」とよばれる80万人もの難民を生みおとした という。彼らは徹底した反共主義者となり、南における左右両派の勢力関係は覆された。朝鮮半島信託統治をめぐって、反信託(右派)と賛信託(左派)が真っ二つに割れる中で、軍政当局は、反信託のラインでの左右合作を提案。これに反発した朝鮮共産党のゼネストは、軍政当局の大弾圧、「十月抗争」(1946年10月)という争乱を生んだ。これに巻きこまれる形で、済州島では「四・三」事件が勃発、全住民の一割が武装勢力・軍隊によって殺害されたという。これ以降、左右両派は、決定的に対立するとともに、右派優位が現出。1948年8月、大韓民国が成立することになる。議会に基盤がなく、しばしば北進統一を叫び軍を越境させた李承晩。南進統一をねらう金日成。 朝鮮戦争とは、中華人民共和国成立に伴う朝鮮人部隊の北朝鮮復員と、南における左右内紛に刺激された金日成によって、低強度紛争が内戦へとエスカレートしたものらしい 。朝鮮戦争の過程で、韓国は左派に対して、北朝鮮は右派に対して、報復殺戮をおこった。北朝鮮では、 「十字軍」米軍の到来をみて、土地を奪われたクリスチャンが、「サタンの手先」である住民の大虐殺

● 南朝鮮労働党党員の前科をもつ朴正煕を支えた岸信介ら満州人脈
● 五・一七クーデター後、「第五共和国」が展開したなりふり構わぬ恐怖政治


経済レベルこそ最貧国だが、教育・メディアでは先進国に劣らない水準にあった韓国。1960年4月、学生・市民を中心とした反李承晩街頭デモは、李の退陣(四・一九学生革命)をもたらし、「第二共和国」へ移行させたものの、翌年、陸軍将校・朴正煕らによる「五一六クーデター」によって打倒されてしまう。朴政権下の第三共和国の技術官僚は、「超官庁」経済企画院など、日本仕込みの国家主義色の強い支配の下、国内の社会勢力に煩わされることなく、経済合理主義、IMF協調路線、輸出志向工業化路線の舵をとる。 アメリカにとって日韓基本条約は、ベトナム戦争に軍事支援をおこなった韓国に対する、経済支援の一部肩代わりさせるもの (依然として、韓国投資の半分は米国が占めた)という指摘はなかなか斬新といえるでしょう。高度経済成長は、インフラ整備と生活水準の底上げという光をもたらす一方で、首都圏・嶺南地域の一極集中、インフレと都市労働者層の貧困といった、社会矛盾を爆発させた。あやうく三選に失敗する所だった朴正煕が断行した「維新体制」(1972年)は、米ソ・デタントの流れの中では、人権抑圧という批判をかわすことはできなかった。アメリカを後盾にした金泳三や学生運動・在野勢力は、強硬な反朴正煕闘争を展開する。デモと軍隊出動で騒然となる中、1979年10月、朴正煕は暗殺。大統領権限を代行した崔圭夏政府の下、翌年2月民主化運動指導者が釈放され、「ソウルの春」が到来した。世に言う「三金(金大中・金泳三・金鍾泌)時代」が幕をあげるものの、3者の足並みはなかなか揃わない。学生・労働運動の高揚を前に、全斗煥陸軍将校たち「ハナ会」を中心とした新軍部は、「五・一七クーデター」を敢行する



光州事件は、1980年代には全羅道光州を民族民衆運動の聖地にするとともに、 民主化勢力に反民主勢力やアメリカに対する「非和解」的態度を採らせることになった 。民主化勢力には、学生を中心としたNL(主体思想)派と、労働者中心のPD派、2つの対立があったらしい。87年「六月抗争」という韓国史上最大の反独裁・民主化運動は、何十万ものデモ隊で新軍部を包囲、現在まで続く「第六共和国」への移行を勝ち取った。ところが、その勝利は地域主義への道もきりひらき、民主勢力の分裂と盧泰愚政権誕生を産んでしまう。最初の「文民政権」金泳三は、軍部の政治的影響力を清算したものの、グローバル化の流れの中で経済危機を招いてしまう。経済危機の中、保守勢力分裂による「漁夫の利」で成立した金大中政権。その誕生には、全羅道には止まらない、 南北分断の中で抑圧されてきた、すべての周縁的な存在の復権が託されていた という。また、嶺南出身・党非主流でありながら光州(湖南)予備選で勝利した盧武鉉の大統領選勝利にも、そうした願いがこめられていたという。盧武鉉政権では、光州事件の再評価のみならず、済州島「四・三事件」の真相究明など、 過去、国家のおこなった不法行為や人権侵害に対する清算が進められた 。それは、親日派究明・強制連行・朝鮮戦争時民間虐殺・甲午農民戦争(1894年!!!)にまで及ぶ。そうした動きの総決算こそ、これら特別法を総括する母法となる「過去史法」の制定。真相究明・責任追及・補償を効率的におこなえるようにしたという。この法律は、保守系野党の抵抗があったものの、島根県の竹島条例の世論の憤激から、抵抗できず通過させられてしまったという裏話(実は日本の右翼が原因)もたいへん面白い。


う~ん、ちっともコンパクトじゃないぞ(笑)。
本格的な通史。それだけに、まとめるのが困難を極めてしまい、
申し訳ない。

それはさておき、情報も物資も封鎖される恐怖の中で、光州市民による絶望的な「解放区」の建設とその瓦解(光州事件)は、涙なしには読むことはできません。解放後現出した「自治委員会」と光州市民の立ちあげた自治的組織に、あたかもパリ・コミューンを幻視せんとする視点は、賛否はともかくとして、斬新でとても興味深いものがあるでしょう。「 誰かが自分をアカにしようとしている!!! 」。そんな脅迫観念にかられ、精神病にかかる人が続出した、軍政期の韓国社会の抑圧。その一方で、それに自らを過剰適応させて「韓国国民」となろうとする済州島民などの姿。冷戦時、最前線にあった韓国の苦悩の歩みが、摘出されていて、たいへん素晴らしい。



い・いかん。
たしかに面白いのよ、これ。
韓国史の苦難を知らない人には、ぜひご一読ください。

評価 ★★★☆
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Last updated  Feb 20, 2006 10:05:32 PM
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無題  
myuuta さん

(Jan 17, 2006 07:59:27 AM)

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