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―その3―
病院の一室で、草太に見守られて沙織は目を覚ました。
「あなた...。」
ぼんやりと目を開いた沙織の手を草太がしっかりと握っている。
「赤ちゃん、無事だったよ。」
「あなた...?」
「類子さんのお陰だ。あの時類子さんがいてくれなかったら...。」
「あなた、赤ちゃんのこと...!」
「聞いたよ。お喜久さんからも、先生からも。」
「君と僕の子だ。」
「えっ?」
「あの日、ホテルで君を抱いたのは沢木さんじゃない。僕なんだ。」
「...?!」
何が何だか解らず混乱した様子の沙織をベッドに寝かせたまま、草太は上体を屈め、肩を抱いた。
「確かに最初、あの部屋を訪れたのは沢木さんだ。けど、電話の後、部屋に戻ったのは沢木さんじゃない。暗闇の中、君を抱いたのは僕なんだ。」
あまりの驚きに沙織は声も出なかった。
「あの人がどんなつもりでそんなお膳立てをしようとしたのか...。
仲直りのチャンスをくれたのかもしれないし、反対に君を陥れることになったかもしれない。結果次第では僕たちの間は破綻してたかもしれないが...。
でも、そんなことはどうでもいい。
とにかく赤ちゃんを授かったんだ。やり直そう。」
沙織の涙が頬を伝った。
「あなた...。」
草太の肩に両腕を回すと、幸せをかみ締めるように呟いた。
が、次の瞬間、沙織は草太を強引に押し戻した。
驚く草太に、沙織は慙愧に堪えない面持ちで訴えた。「私...、類子さんに酷いことをしてしまった...。
取り返しのつかない酷いことを...!」
「沢木さん...!」
訪問を告げる内線電話を手にしたまま振り返る槐を前にして、部屋に入るや否やいきなり草太は土下座した。
「槐さん、許してください...!!」
一体何のことなのか見当もつかないまま、驚きの表情を隠せないでいる槐に向かって、草太は床に頭をすりつけたまま言葉を続けた。
「あの茶会の数日後、類子さんの身に起こった出来事は沙織の差し金だったんです...!」
草太の言葉が、声も出ない程の衝撃で、槐の脳天を打ちつけた。
「許してください、槐さん...!
何度手をついても足蹴にされても、償えないのはわかっています!
けど、沙織にそんな卑劣な真似を...、汚い真似をさせたのは僕です!僕が彼女をあそこまで追い詰めたんです...!!」
床についた草太の両手が握られ、ワナワナと震える。
「...どうか沙織を許してやって下さい。
沙織が僕と類子さんの過去を知ってしまった時、僕は彼女の苦しみに少しも気付いてやれなかった...!そればかりか、更に関係を重ねようと...。」
草太は一度槐を見上げると、再び床にこすらんばかりに頭を降ろした。
「事の発端は僕なんです!僕が類子さんを誘ったばっかりに、沙織にあるぬ誤解をさせてしまった...!
僕の責任です。僕を気の済むまで殴ってください...!!」
「草太!おまえ...!!」
槐は左手で草太の襟元を掴んで上体を起き上がらせると、頬を向けた草太の顔面に向かって拳を振り上げた。
が、寸でのところでとどめると、掴んでいた襟元を離し、草太を床へのめらせた。
「出て行ってくれ...。
頼む!出てってくれ...!!」
草太から顔を背けると肩で喘ぎながら槐は叫んだ。
かろうじてデスクの前まで歩むと、崩れるように椅子に腰掛けた。どさっと音をさせて頭から背もたれに寄りかかると、片手で顔を覆った。
類子の身に起こった不幸が、自らの事業の失敗に端を発していると思うと、居た堪れなかった。自分の見通しの甘さ、ふがいなさが類子を辛い目にあわせたと思いが槐を苦しめた。
「類子、許してくれ―。」
槐は天を仰いだまま、目頭を押さえた。
「済まない、俺のせいだ。」
リビングの入り口に立ったまま、百香と遊んでいる類子の姿をじっと見つめながら、呟くように槐は言った。
「何?どうしたの、やぶからぼうに」
いつもより早くマンションに戻った槐に、類子は驚きながらも、笑顔で答えた。
「ああ、きょうは夜から木工理建設の会長さんの喜寿祝いのパーティーだったわね。ごめんなさい、すぐ支度するわ。」
優しく一言二言百香に言い聞かせると、類子はそそくさと準備に向かった。
その場に立ち尽くしたまま、槐はぐっと目を閉じ、拳を握りしめた。
―済まない、類子!
心の中で槐は詫びた。
タキシードに着替え、百香の相手をしてやっていた槐に、類子の準備を手伝っていたレイが声をかけた。
「類子さんの支度ができたわよ。」
顔を上げた槐の前にドレスアップした類子が立っていた。
ベルベット地にモール刺繍やビーズのフリンジがあしらわれたソワレは、腰の部分からサテン地に切り替えられ、身体のラインに沿って流れて、類子の美しさを際立たせている。
「さ、行ってらっしゃい。槐ったらあまりの美しさに声も出ないようね。」
レイに茶化されても返す言葉がないくらい、槐は類子の美しさに今更ながらに呆然と見とれていた。
会場に着くと、二人の姿は人々の視線を集めずにはいられなかった。
美しい妻と、杖をつく美しい夫。
槐は、会の主役と主催者に簡単な挨拶を済ますと、人々のさざめきから離れ、ひと気のないテラスに一人居た。
この季節、わざわざこちらまで出向いてくる客はまずいなかった。時折、マイクを通したスピーチの声や、拍手の音が響いてくる。
見上げると、街の明かりに照らされ決して暗くはならない都会の空にも、いくつかの冬の星座をかろうじて認めることができた。眺める槐の胸に、初めてゲストとして訪れた数年前の不破山荘でのパーティーが思い出される。
室内ではワルツの演奏が始まったようだった。
一通り挨拶を終えた類子がシャンパンのグラスを二つ持って、テラスの方に向かってきた。
類子の大きく開けられたデコルテは、クリスタルのシャンデリアのキラキラとした光に栄え、一層輝きを増している。
類子がグラスを差し出した。
「疲れた?」
「いや。」
二人は手摺りに寄りかかって並ぶと、シャンパンを口にした。
会場内に目を移すと、招待客が思い思いに踊っている。
泡が立ち上っては消えてゆく琥珀色のシャンパングラスの先に、人々の姿を漠然と追いながら槐は呟いた。
「踊ろうか?」
「え?」
槐は類子と自分のグラスを側の小さなテーブルに置くと、テラスの手摺りに腰をもたれかけさせたまま、右手を類子の前に差し出した。
類子は少し驚いたように槐を見上げたが、左手を差し出すと、その上に軽く重ねた。
反対側の手を組み、類子を引き寄せると、槐は右手を類子の背に回して、曲に合わせて小幅にステップを踏んだ。
「槐...。」
一緒になってから、ダンスをしたのはこれが初めてだった。
類子の結い上げられた髪からふわっとこぼれる後れ毛が槐の鼻先をかすめる。
類子は槐にそっと身体を預けた。
互いの息遣いが、胸の鼓動が、直に伝わるほど寄り添うと、目を伏せて音楽に身体を乗せた。
類子もまた、山荘での一夜を思い出さずにはいられなかった。槐の肩に頬を寄せながら、一度は振り払った幸せに今は身を委ねている喜びをかみ締めずにはいられなかった。
曲が終わると、類子は任せていた上体を起こした。
組んでいた手をほどきかけると、槐がその手をとった。そして、手のひらに自分の唇を寄せ、押し当てた。
槐のいとおしむかのような熱い口付けが、類子の身体の芯を奥底から疼かせる。
「...あっ...」と思わず声を洩らしそうになって、類子は必死で耐えた。
槐はそのまま、しばらく目を閉じて、唇を当て続けた。
口許から離しても、その手をほどこうとはせず、じっと眺め、そして囁いた。
「―傷は、もう...?」
槐の視線が類子の手のひらから瞳に移された。
類子は槐を見つめると、ゆっくりと口許をほころばせた。
「―ええ、もう平気よ。どこにも傷なんて残ってやしないわ。」
槐は類子の顔を凝視しながら、頬や額にかかる後れ毛を両手でそっと撫で上げた。
「きれいだ。
―きれいだ類子。
ここに居る誰よりも。いや、世界中で一番...。」
「何を言ってるの。」
類子は少しはにかんだ様子で、目を細めた。
「山荘に行かないか?」
「えっ、パーティーは?」
「たまにはすっぽかすのもいいさ。」
「槐。」
槐はいたずらっぽく目配せして類子を見下ろすと、その手をとった。
終わり