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Chapter 3-8「透、物騒なことは考えるな。隣の小部屋がなんのためにあるのか知ってるだろう。ちゃんとこちらの様子を伺って、いつでも出て来られる態勢で待機している。」ドアの向こうに誰が居るかは、透にも判っていた。「修二は胸をやられたらしいが、お前はどっちがいい―?胸か、頭か―。」「兄貴をやったのも、お前の差し金だったのか―?!」赤井の言葉が、透を更なる奈落の淵に陥れた。「修二には昔から手を焼かされてな。頭は切れるし、腕っ節は強いし。」赤井は透に銃口を突きつけたまま、じりじりと躪るようにして上体を起こしていった。「わしは、全治三ヶ月程度の痛みを味わってもらう程度でいいと言ったんだが、スナイパーの奴がな...。顔はいいし、目だってたから、妬まれたんだな。」『片岡が集めた男たちは、赤井の息のかかった連中だったのか―!』透は今更ながらに、赤井という怪物の底知れない怖ろしさに、慄然とするしかなかった。「ひ、一つきいていいか?」向かい合うようにして喉元に銃口を突きつけられたまま、透は赤井を見た。「オレが、鍵の行方をとうとう喋らずに消されたなら、次はるり子も狙うのか?」「るり子―?別れたと言ったばかりじゃなかったのか。なんだ、まだ未練でもあるのか。」「るり子は何も知らない。この件については何も関係ない。だからるり子には...。」「分った、約束しよう。あいつには手は出さん。」「2000万で...、手を打つ。」透は腹を固めた。「鍵は印鑑と一緒に、ある場所に隠して保管してある。勿論、現金と引き換えだ。取引の方法は―」 * * * * * * * * * * * * * * ―『逃げるしかない』『幸い例のものは、オレの手にある決してみつかりっこないところに―それがどこなのか判らないうちは命の保証だけはされてると思っていい―』透は逃亡を決め込んだ。ジャケットを羽織ると、るり子との思い出の詰まるテラスハウスを後にして、修二の車に乗り込んだ。「どこへ逃げる―?」エンジンをかけようとして、ルームミラーに付けられたストラップのような飾りが目に付いた。透は手を伸ばすと、それを外してシャツの胸ポケットに仕舞いこんだ。透は車を走らせた。海沿いの道をひたすら逃げた。気が付けば、赤井の別荘の方向に向かっている。『オレは、どこに行こうというんだどうするつもりなんだ出直して、はした金を手に入れて高飛び...?片岡を地獄に落とす...?』河口近くの扇状にひろがる町の上をまたぐように架けられた、緩い坂道の続くバイパス橋を登り始めると、フロントガラスの向こうに、青い海が広がった。ふいに透の胸に、るり子がストラップを付けたときのことが甦った。 ―あなたの幸運のお守りになりますように。橋の中ほどにさしかかった時、透はいきなりブレーキを踏んで、車を路上に停止させた。暫くの間、躊躇っていたが、決心すると、ポケットからバタフライナイフを取り出した。「兄貴、ごめん...!」運転席のシートを引き裂くと、更に、中のウレタンを切り分けるようにナイフを突き刺し、底を探るように片手を突っ込んだ。『こいつのために...』引き出された透の手には、鍵と印章入れが握られていた。透は無造作に座席の上に転がすと、警察に電話を入れた。「路上に車が放置されている。」『決めた』ドアを閉めると、透は駆け出した。『オレはもう逃げない』上着を脱ぐと、手に持ち替えて、今来た道を引き返した。ポケットの中で、ストラップが躍る。「るり子...!」青空の下、潮風を一杯に受けながら、全力で走った。 終わり
Nov 9, 2007

Chapter 3-7外国人バイヤーの仲間割れによる取引の失敗という不測の事態を受けて、警察からも追われる身となった片岡の行方は杳としてしれなかった。透は、赤井なら、地の果てまで片岡を追いかけるだろうと考えた。『やはり狙うは赤井だ―。やるか、やられるか...!』透は赤井の出所に合わせて、赤井興産の本社に行くと、面会を申し込んだ。予想に反して、赤井は透の面会をあっさり受け容れた。『あの男は、なんと言うだろう...』かつて幾度となく開けては閉じた社長室の扉の前に、透は立った。生唾を飲み込み、覚悟を決めたかのように深く息を吸い込むと、ドアノブに手をかけ、力強く扉を押し開けた。赤井が、正面に待っていた。部屋の中ほどで革張りのサロンチェアに腰掛けて、両膝の間にステッキを立て、上に手を重ねた格好で透を見据え、出迎えた。―「小僧、久しぶりだな。」出所したばかりということなどみじんも感じさせないスーツ姿で、ゆっくりと立ち上がると、窓際のデスクのところまで歩み、葉巻を取った。ステッキを突いてはいるものの、獄中での生活は、却って赤井の身体を強靭にし、精悍な顔つきに変えたよう思われた。「お前、るり子と一緒になったそうだな。」「でも、別れました。」「そうか、もう、別れたか―。」赤井は、カラカラと、大きな声で笑うと、葉巻を口にした。『赤井のペースに巻き込まれてはいけない』、と、透が交渉の口火を切ろうとしたとき、くゆらされた煙の間から、赤井の鋭い眼光が透に向けられた。「ところで、お前の用というのは、あの駅前の第一興業不二銀行の貸し金庫のことか―?」透は息をのんだ。戦慄が、全身を駆け抜けた。『ど、どうしてそれを...?!』「どうやってお前に連絡をとろうかと思っていたら、お前の方から出向いて来てくれるとは...。長い間ご苦労だったな―。」「はっはっはぁ...、驚きの余り、声もでないか...?!」赤井は、嘲るように、肩をゆすって笑った。透が目を見開いたまま、声も出せずにいるのを見て取ると、赤井は満足そうに言葉を続けた。「最近は、個人情報保護法がどうしただの、守秘義務がどうとか煩いらしいが、銀行の支店長など、嵌めて締め上げれば簡単なもの。だが、さすがに、銀行強盗や窃盗までするわけにはなかなかいかなくてな―。」そう言うと赤井は再び大笑いした。「銀行の貸し金庫という安全なところに保管してもらっているなら、慌てて取り出す必要もなかろうと、考えを改めることにしたんだ。おかげで、検察にバレずに済んだ。」足元がぐらぐらと揺れる。肩で大きく息をしながら、透はやっとの思いで立っていた。「知って、いつから知って...?!」うわずった渇いた声で、辛うじて透の口から絞り出されたのは赤井への質問だった。「お前があの計理部長をたらしこんだことまで―、わしは知っていたさ。」赤井の言葉が透を震撼させた。脳裏に、るり子の言葉が甦る。 ―「気をつけて。 あの人にとって他人は利用するために存在するようなもの。 あの男が情けをかけたり、親切心だけで動いたりなんかするものですか。」切り札を出そうとして気負いこんだ透の足を掬うどころか、赤井の言葉は、次々と苛烈な衝撃となって、畳み掛けるように透を襲った。『あの時から、もう既に、オレは赤井の監視下にいたという訳か―』赤井に拾われて以来、秘書として甲斐甲斐しく勤め、赤井興産の中枢奥深くに身を潜めていたつもりでいた自分が、なんとも滑稽に思えてきた。驚かすつもりが、逆に驚かされる―。透は、ただ呆然と、その場に立ち竦むしかなかった。混乱した頭に、透はなんとか冷静さを取り戻そうと努めた。呼吸を整え、それまでの経緯は捨て去り、腹を括って居直ることにした。どうにかこうにか平静さを取り繕うと、動揺を隠すかのように威高な態度で切り出した。「そ、そこまで、解っているなら、話が早い。いくら出す―。」赤井に圧倒されまいと、眦を決して、相対した。赤井は透の方をちらとみると、葉巻を吸い込んだ。「そうさな、1000万か。」「1000万?ばかにするのもいい加減にしてくれ!」あまりの金額の低さに、透はすかさず噛み付いた。「片岡か...、誰か他の金を出してくれるヤツに売ってもいいんだぜ!」「片岡...?はぁーはっはっはっは...!ヤツもよく働いてくれたが、今頃は...。」ひくっと、赤井の口角の片方が上がった。「や、やったのか...?」「ヤツには2億円の保険をかけていてな。」透の背筋を、冷たいものが走った。その表情を見て、赤井は歯を見せて不敵に笑った。「冗談だ、小僧。一昨日の夜から連絡がとれなくなっているらしい。警察にまで追われる身になってはな。ま、いずれ捜し出してやるさ。」『やはり、この男は怪物なのか...』透は赤井に、底知れぬ恐怖を覚えずにはいられなかった。『消されずにいるには、条件を飲むしかないのか...?』「では、2000万でどうだ、これ以上は上げられん―。」「どうだ、小僧?!」赤井はステッキを振り上げると、透の顎の下に突き付けた。醜悪な顔を更に歪ませ、じりじりと迫り寄って来る。「手の打ちどころを誤ると、やっかいなことになるぞ。」赤井はステッキの切っ先を、くいっと透の喉に押し付けた。「オ、オレはもう、あんたの運転手じゃない...!」そう言って、ステッキを振り払おうとした透を、赤井は背後から打ち据えた。思わず膝を折り、床に手を付いた透の背中に、更に二、三度、振り下ろす。「...くっ...!」奥歯を噛み締め、頭を上げようとした透の項を、ステッキの柄が押さえ付けた。ステッキで押さえ込んだまま、身体を少し屈めると、赤井は地の底から響くような声で耳打ちした。「2000万だ―、それ以上は出せん。」赤井は以前の主人と使用人の関係そのままに、透に要求の呑ませようとした。「くっ、くそっ...!この野郎...!!」透は片手でステッキを振り払うと、赤井をかわして、組み敷こうとした。が、透がステッキを払うが早いか、赤井は懐から拳銃を取り出すと仰向けの体勢で、自分を押さえ込んだ透の喉元に突きつけた。 続く
Nov 8, 2007

Chapter 3-6赤井の出所を目前に控え、何度か片岡から取引についての提案がなされてきた。片岡から提示される金額は、透にとって、十分とは言い兼ねるものだった。が、何が何でも赤井の出所までにかたをつけたがっている片岡にとっては、それが、精一杯の出し得る金額であるらしく、これ以上交渉を長引かせても、限界があるように見受けられた。透は何とか片岡を出し抜いて、赤井と連絡が取れないかとも考えたが、看守の居る面会室で話を持ちかけるのは、どう考えても不可能と思われた。手持ち資金のない片岡の提案は、赤井の密貿易取引の仲介に際して、金額を操作して、赤井の闇の会社から金を出させるというものだった。「明後日、埠頭で、赤井の部下が、外国人相手に大掛かりな取り引きを行う。売り主の一人として、取引に立ち会ってもらいたい。取引は現金で行われる。その一部を回す。」「―わかった、いいだろう。」透は片岡の提示した金額で納得した訳ではなかったが、金をせしめると同時に、取引が済んだ後、どうやって片岡を陥れるかということに関心が向けられていた。『片岡を赤井に売ってやる―!!』* * * * * * * * * * * * * * 『時間だ―』透はシャワーの栓をひねった。天井に取り付けられた真鍮のシャワーカランから勢いよく水が噴出す。項に水を受けながら、透はきょうの段取りを頭の中で一つ一つシミュレートしてみた。頭を上げ、目覚まし代わりに顔面に浴びる。『片岡...、見てろよ...』軽く手で顔をぬぐいながら、見るともなしに外を眺めた。髪からしたたる水が頬を滑り落ちてゆく。透は再びシャワーカランの下に立つと、肩に水しぶきを受けながら、意識を集中させていった。バスタオルを腰に巻いて出てくると、透は洗面台の前に立った。白い陶器のカップでシェービングフォームを泡立てる。ブラシで丹念に鼻から下に塗りつけ、泡をぬぐうようにT字剃刀を滑らせた。剃り終わって剃刀を軽く水洗いすると、透はじっと鏡の中をみつめた。そこには修二の姿があった。『兄貴...』透は修二と同じ歳になっていた。ワイシャツを着る。ネクタイを結ぶ―。最後に眼鏡をかけ、取引の場所に向かおうとしたそのとき―、不意に携帯が着信を告げた。「もしもし」「おいっ!一体何やってるんた!」「何のことだ?」「取引はどうなった!!」「今から行くところだ」「しらないのかっ!!テレビを見てみろっ!!」透はテレビを点けるとチャンネルを切り替えた。―...とされる現物が発見されておらず、グループの一味によって持ち去られたものとみて、県警と海上保安庁が共同で捜査に当たっています。なお、警視庁ではグループの背後に外国人の...―画面からは取引の失敗を告げるニュースが流れていた。「どういうつもりだ!持ち逃げされたんだぞ!聞いてんのか!おいっ!貴様っ!」透はあの日のことを思い出した。ダーツバーの地下のビリヤード室で、修二を待っていた夜のことを。 ―『ナメやがって』脳裏に記憶が甦る。透はキューを突いた。『片岡―』球が散らばる。『必ず捕まえてやる』くわえ煙草のまま、場所を変え、キューを持ち直す。『できなければ―』次の球に狙いを定め、構える。『オレは...』時間だけが過ぎていった。待っても待っても修二は来なかった。募る焦燥感を紛らわすため、酒をあおり、徒に杯を重ね、ゲームを続けた。『るり子にあんな辛い目をさせてまで...』―「くそっ!」透は携帯を力まかせに床に叩きつけた。 続く
Nov 4, 2007

Chapter 3-5だが、透の行動は改まるどころか、ますますエスカレートしていった。ある日るり子が夜勤から帰ると、見知らぬ若い女がベッドの上で、下着姿のまま髪をとかしていた。「おばさん、だれぇ?」二十歳になるかならないかの女がるり子の方を振り向いた。「あ、あなたこそ誰なの?ここで何をしているの?!」「だってぇ、おにいさんが泊まってもいいって言うんだものぉ。」透は全く悪びれた様子もなく、アルコールの入ったグラスを片手に、ベンチにもたれかかったまま、成り行きを見守っていた。「あたし、帰るぅ。」二人の間に挟まれていたたまれなくなったのか、若い女はそそくさと服を着るとバッグを抱えて出て行った。「透!これは一体どういうこと?!」玄関が閉まると、るり子はツカツカと透の方に歩み寄って、グラスを取り上げるとテーブルの上に置いた。透は無言のまま、立ち上がってグラスに手を伸ばそうとした。「まだ飲むつもり?!」その手をるり子が掴んで争った拍子に、ベンチの隣のサイドテーブルに置かれていたボトルが倒れ、床に転げ落ちた。トクトクと中身が流れ出る。「何するんだ!」顔色を変えて、透がるり子に掴みかかった。そのまま濡れた床にるり子を押し倒すと、るり子の上にのしかかった。片手でるり子の両腕をねじ上げ、もう片方の手で、2,3個ある上着のボタンを外し、カットソーをたくし上げる。「何をするの?!嫌!やめて!!」両足で挟み込んで下半身の自由を奪うと、るり子の下着を引き剥がそうとした。抗うるり子のキャミソールの下から、白い乳房がこぼれる。「お願い、やめて!」るり子は渾身の力を込めて、突き飛ばした。二日酔いで、足元のふらつく透は、簡単に尻餅をついた。「何、お高くとまってるんだ。元運転手じゃ嫌なのか?」るり子は体を起こすと、透をきっと見据えた。「...私のこと、嫌になったのはあなたの方でしょ?!」「あんただって、じいさんの相手ばかりしてて、若い男の身体が恋しかっただけなんだろ!!能無しの捨て犬は、やっぱりダメだって、後悔してんじゃないのか?!」「私たち...、もう終いね...!」目を潤ませて、それだけ言うと、るり子は上着を羽織って駆け出した。透は腰を落とした状態で、手を伸ばして床に転がったボトルを取ると、そのままあおった。口に含みきれなかった液体が、顎を伝って首筋を流れ落ちる。「―るり子...!!」ボトルを投げ捨てると、透は片膝に顔を伏せ、肩を震わせた。* * * * * * * * * * * * * * 目が覚めた。傍らにるり子はもういない―。外は雨だった。透は起き上がると、ベンチに腰掛け、傍らに置いてあった写真立てを手にした。フレームの中で、るり子と自分が笑っている。窓辺に立って外を眺める透の目に、涙が滲んだ。そっと写真を抱く透の胸に、るり子との楽しかった日々が甦る。『君を守るために―』透は写真を抱いたまま、じっと雨を眺めていた。 続く
Nov 3, 2007

Chapter 3-4 翌日、透は珍しくるり子をドライブに誘った。「今度の日曜、確か二人とも休みだったろ?」「ドライブ?あの車で?」「ああ、海かどこか...。」「...それなら、あの海に行ってみたいわ。」「赤井の別荘がある...?」「そう、もう三年にもなるのね。なんだか懐かしくて...。」「分かった。」次の休日、朝から二人は修二の車で思い出の場所に向かった。青空に、刷毛ではいたかのような筋状の雲がうっすらと浮かぶ、穏やかな日和だった。海岸線に沿って、西へ西へと進むと、昼前には目的地に到着した。「あのレストラン、あるかしら。」「あのケーキ屋は?」二人は思い出の記憶を手繰るように、自分達を急速に結びつけた二週間の、軌跡を辿った。「そうだ、ビューティー・トラップはまだ居るかしら。」「行ってみよう。」乗馬クラブに行くと、ビューティー・トラップは以前と変わりなく、繋がれていた。「るり子、いたよ、ビューティー・トラップ、いたよ!」透は先に立つと馬の方へ駆け寄った。「オレだよ、憶えているか?」そう言いながら、透は馬の額を撫で擦った。「ビューティー・トラップ、憶えてる?私よ!」続けて駆け寄るるり子を馬は懐かしそうに迎えた。透は厩務員に頼んで、鞍をつけてもらうと、馬場を何周か、駆けさせて貰った。久しぶりの乗馬で、ややぎこちない透のことを嫌がりもせず、相変わらず、ビューティー・トラップはよく駆けた。夕暮れが徐々に迫りつつある頃、透は、ビューティー・トラップの汗を冷ましてやるかのように、海に連れて行き、砂浜を歩かせた。季節外れの誰も居ない浜辺で、ビューティー・トラップを傍らに、透は一人で、水平線を眺めた。薄く広がる雲が僅かに茜色に染められていく。刻々と変わり行く景色を、透は遠い目をして見つめながら、独り言ちた。―「さよならをしよう。」帰り際、助手席に乗り込むと、るり子は、つい今しがた近くの雑貨屋で買ってきた、ガラス玉のついたストラップのようなものを取り出してきた。「かわいいでしょ?ガラスの中にふくろうのような形をしたトンボ玉が入っているの。」るり子はルームミラーに取り付けると、無邪気な表情を透に向け、にっこり笑った。「あなたの幸運のお守りになりますように。」「ありがとう。」ガラス玉から視線を落として、自分の方に向けられた透の笑顔が、るり子には少しいつもと違って見えた。「邪魔だったかしら?」「いや、そんなことないさ。さあ、帰ろう。」透はキーを回すとエンジンをかけた。 * * * * * * * * * * * * * * いつも変わらない日常が始まるかのように思えた。けれど、あの日以来、透の様子は目に見えて変わっていった。「あなた、私のカード使って、30万引き出したの?」「ああ、ちょっと使わせてもらった。今度給料が入ったら返すから。」無断でるり子の預金が引き出されることが何度か続いた。「一体何に使ったの?」「何だっていいだろ!」もちろん返されたことはなく、問い詰めると逆に切れられた。帰る時間が深夜になることもあれば、前後不覚になるほど酔っ払って帰ってくることもある。るり子が一言何か言えば一々食って掛かるほど、ギスギスした態度をとるようになった。「一体...、何があったの?」るり子は透の肩に手を置くと、優しく問いかけた。「うるさいな!保護者ぶるなよ!」振り向きざまに強く手を払われ、るり子はバランスを崩して、床に倒れた。「そんなにオレがバカに見えるか?頼りなく見えるのか?オレのことを信用できないっていうのか?!」憤怒の表情で透はるり子を見下ろすと、その襟元をつかんで、床に突き伏せた。倒ったるり子を引き回すと、雑言を浴びせる。まるで別人かと思われるような透の豹変ぶりに、るり子は戸惑うばかりだった。「どうしたというの、透...。一体何があったの...?」 続く
Nov 2, 2007

Chapter 3-3 透は、赤井と片岡のどちらから金を引き出してもよかった。ただ、修二のことを思うと、どうしても片岡を許す気にはなれず、出来るなら、片岡を苦しめ恨みを晴らしたいと思っていた。『そもそも、片岡は、自分が横領した分の補填を含めて、赤井を強請るつもりだった...ところが、仕事を依頼した修二の兄貴に知られてしまって...』透は最初から順序立てて考えてみた。『水谷がるり子と話していた、赤井興産の息の根を止めかねない事実...それがオレの手の中にある...しかもそれは同時に片岡にとっても致命傷―兄貴は1億になるかもしれないと言っていた―2億、3億...?片岡から出させるかそれとも直接、赤井と交渉するか...』検察がとうとう切り崩すことの出来なかった、赤井グループの存亡に関わる疑惑とは何なのかを、るり子に訊くのは、透にはさすがに憚られた。が、結局、他に良い手立てを見いだすことも出来ないまま、徒に何日かが過ぎていった。「るり子、...その、教えてくれないか?赤井は何をしてたんだ?」透はためらいがちに切り出した。「何って?」「本当は、インサイダー取引事件はほんのきっかけにすぎなかったときいている。検察は赤井のもっと重大な罪を立件したがっていたって...。」「密輸よ。あとは、闇金融、政治家への贈収賄とか...。」今頃そんなことをきいてどうするのかという表情で、るり子はあっさり答えた。「表でも、法律すれすれのあこぎな真似をしてたのは有名だけど、この前摘発された架空取引や簿外取引、所得隠し以外にも、それこそ...。密貿易は単なる関税逃れの場合もあるようだけど、国外持ち出し禁止の美術品や拳銃、麻薬取引...。最近は覚せい剤だけじゃなく、MDMAなんかの合成麻薬も扱っていたようよ。」「じゃあ、赤井が隠したい裏口座があるとしたら...。」「あるでしょうね。恐らく。資金洗浄用の口座が―。」―『マネー・ローンダリング...!!』「あの男、表の顔は会社経営者だけど、やっていることはヤクザと同じ。ずっと以前から闇社会と繋がっていたのよ。」『あの架空名義の通帳類は、マネ・ロンの証拠というわけか...!』今までも、赤井の伴をして、どれだけあくどい所業を積み重ねてきたか知っているつもりでいた。が、四六時中仕えていた自分にも見せることのなかった裏の顔の存在に、透は改めてその怪物ぶりを思い知らされた。『オレは兄貴と違って、腕っぷしに自信があるわけでもないし、交渉術に長けてる訳でもない...』透は修二の銃の腕前や、企業買収や株式売買、会計監査等に関する書籍が並ぶ本棚を思い出した。『慎重に、余程上手く運ばないと、いいようにあしらわれて、はした金を手にするのが関の山だ...いや、それだけならまだいいオレ一人ぐらい、闇に葬るなんてことは、赤井にとっては何でもない筈―』透はそれまで、多額の金を引き出すだけなら、手持ち資金の少ない片岡より赤井の方が御し易く、片岡への相応な報復も期待できるのではいかと考えていた。しかも出所したばかりで、グループ企業全体の存亡がかかっている赤井の、何がなんでも手に入れなければならないという逼迫感は、横領疑惑を糊塗し、経営コンサルタントとしての社会的地位を保全することが動機の発端だった片岡の比ではないだろうと決めてかかっていた。『取引に成功したとしても...、しかし、その後、どうなる...?高飛びの用意もしなければ...るり子はどうする...?』透の脳裏を数年前の出来事が過った。『オレには、るり子を守りきれる自信がない...!』 * * * * * * * * * * * * * * 赤井の出所が半月後に迫ったある日、透とるり子は珍しく連れ立って買い物に出かけた。紙袋を手に、店を出たるり子に、急に後ろから猛スピードで車が近づいてきた。「危ない!」後から店を出た透が、るり子を歩道側に突き飛ばした。すれすれのところを走り抜け、車はそのまま去って行った。「るり子、大丈夫か?!」「ええ...。」るり子を起こしてやると、手を取り、怪我がないかを確かめた。「ひどい運転ね。」るり子は、やや怒気を含んだ口調で、車の走り去った方を見ながら言った。ぶちまけられた袋の中身を拾い集める透の頭を、不安が掠めた。『まさか、片岡...』が、ことはそれだけでは済まなかった。事故の日以来、透の一番の気がかりはるり子の身の上だった。るり子の出勤日には、勤務先まで送り迎えするようにしていたが、ある日、自分の仕事の方が遅くなってしまい、追いかけるようにして、自宅に向かった。もうそこに見える、というところまで来たとき、るり子の悲鳴が響いた。「るり子―!!」二人の男に腕をつかまれ、るり子は車の中に引きずり込まれようとしていた。透が駆け寄り、二、三発食らわすと、男たちはるり子の拉致を諦め、すぐに走り去って行ってしまった。「るり子、大丈夫か?!るり子!!」透の腕の中で、るり子は傷ついた小鳥のようにガタガタと震えていた。「いったいどうして...?どうして私なんか...!」『済まない、るり子―!』先日の事故に続く、片岡からのメッセージであることは明白だった。「片岡っ、お前、るり子に...!」「驚きましたなあ、まさかあなたの恋人があのるり子夫人だったとは...。」「彼女は何の関係もない!」激昂する透に、片岡はとぼけた調子で返したが、すぐに声を落として迫ってきた。「一度目と二度目は警告だ。でも、三度目は...。そうそう、修二はお前を庇って...。」電話を切った透の手が、わなわなと震えていた。自分ではなくるり子を狙った片岡の卑劣さに憤りを感じるとともに、るり子の身を守る困難さを身に沁みて感じずにはいられなかった。 続く
Nov 1, 2007

Chapter 3-2 ある日、仕事中の透のもとに、一本の電話がかかってきた。「はい、もしもし。」「久しぶりだな。」―『片岡か?!』電話を聴く透の表情がみるみる強張っていく。「似合ってるぜ、そのスーツ。」「―?!今どこだ、どこにいるんだ!」「慌てんなよ。すぐにその生活を壊しに行ってやるよ。」「おい!」一方的にそれだけ喋ると、電話は切れた。拘置所ですれ違って以来だった。片岡が修二を殺ってまで欲しがっていたものを簡単に諦めるとは思ってはいなかった。『が、なぜ今頃...』そんな時だった。二人のもとに、服役中の赤井がもうすぐ出所するとの知らせがもたらされた。検察は当初から把握していた以上の証拠を出すことはできず、結局、公判開始後はとんとん拍子に進み、結審することとなった。赤井は執行猶予なしの懲役三年の実刑判決を言い渡されたが、未決拘留期間を算入され、実質二年余で、刑期が満了することになっていた。「今の私には何の関係もないことだわ。」るり子は何の感慨もなさそうだった。ただ、最後に水谷が言い残して言った言葉を伝えるべきかどうかだけを、迷っていた。『そうか、そういうことか...』赤井の出所を前に、片岡が必死になって探し物の行方を追って、漸く透に辿り着いたのだと想像できた。数日後、再び片岡から連絡が入った。「例のものの行方については、修二が死んだことで半分諦めていたんだが。」「...どうやって判った?」「苦労させられたぜ。この三年。修二の女のところまで家捜しして...。」「赤井が出所するそうだな。」「きいたのか?」「だからあんたはその前になんとか見つけようとしてもう一度―。」「その通りだ。もう一度一から洗い直してたら...。坊や、貸し金庫の使用料、どうなっているのか、知らなかっただろ?偶然、あるところを当たっていたら、使用料の督促状が手に入ってな。」『使用料...?!』うかつだった、と、透は自らの暗愚さを悔いた。「修二は普通預金から引き落とすようにしていたらしいが、こんなに長く借りるとは考えてなかったろう。引き落とし残高が足りないとのお知らせが舞い込んできたのさ。」その後あの貸し金庫の存在が、片岡によって、弁護士を利用するなどして、調べ上げられたということは容易に推測できた。「まさか、あの一匹狼の修二が代人申請してたとはな。しかも、それがあの時の小童とは...。」片岡は電話口で、透を小ばかにしたように鼻先で軽く笑った。「いくら出す?」透は先手必勝とばかりに切り出した。「お前、修二のようになりたいのか?」透は片岡の言葉を無視して続けた。「片岡さん、買い手は何もあんただけじゃない。オレは別に赤井に買ってもらってもいいんだぜ!」一瞬片岡は息を呑んだ。「お、お前、あれが何だか解っているのか?」「ああ、兄貴が懇切丁寧に教えてくれたさ。」透はうそぶいた。「あれが世に出たら、赤井興産が終わりだっていうことまで...!」片岡は、チンピラ同然の透がそこまで詳細を理解しているらしいことに、少し驚いた様子だった。が、すぐに態勢を立て直すと、機嫌をとるように取引を提案してきた。「修二のことは申し訳ないと思っている。どうだ、1000万で―。」「1000万―?」鼻白んだ様子で、透は切り替えした。「片岡さん、あんた兄貴のこと、今、申し訳ないと言ったとこだな。あんただって、兄貴を殺ってわざわざ面倒なことを引き起こすつもりはなかった筈だ。それを...。兄貴の慰謝料と損害賠償を考えただけでも、1000万だなんて、よく言えたものだな!」「そ、それは修二の方が途中で裏切って...。わ、わかった、少し考えさせてくれ。」それだけ言うと、片岡は電話を切ろうとした。が、間髪を入れずに透は続けた。「片岡さん、オレはあんたのことも知ってるんだぜ。あんたはあれが赤井の手に渡る前に、なんとか数字を操作して帳尻を合わせたいと思っているんだろ。ざっとみただけでも、2億、3億はありそうじゃないか―。」一瞬、片岡が顔色を変え、言葉を失ったのが、電話口の透にも伝わった。「わ、分かった、悪いようにはしない、考える。」透がそこまで強気で出てくるとは思っていなかったらしく、苦々しげにそう言うと、一先ず電話を切った。 続く
Oct 31, 2007

Chapter 3-1 白いコットンブランケットに包まれて、透は目を覚ました。窓から明るい朝の光が差し込む。枕元の腕時計で時間を確認すると、軽く伸びをして起き上がった。郊外の洒落たテラスハウスを借りて、透とるり子は住んでいた。円高の折、輸入住宅業者が開発した小さな庭付きの、北米風の連棟家屋で、取っ手一つ壊れても取り寄せに苦労しなければならないような不便さはあったが、そのデザイン性の高さや、モジュールの違いによる若干広めの間取り、機能的な造り、緑に囲まれた静かな環境に、二人は満足していた。「ねえ、起きたの?」キッチンから、るり子の声が掛けられた。「ああ、起きたよ。」窓際に置かれたダイニング・テーブルで、きょう1本目の煙草をふかしながら、透は新聞に目を通す。「ほらっ、新聞とたばこはおしまいにして!」「うん、そうだな、食べよう。いただきますっ!」トーストにベーコンエッグを載せると、透は大口を開けてかぶりついた。口の周りに付いたケチャップと半熟の卵を、るり子がテーブル越しにナフキンで拭ってやる。「いいよ、子供じゃないんだから。」が、透は同じことを繰り返す。るり子は何度も拭いてやった。「はい、ありがと。はい、ありがと...。」赤井の家を出て二年半が経っていた。 るり子の離婚に際しては、世間は妻名義の財産保全のためなどと色々取り沙汰することを忘れなかったが、結局、るり子は自分の身の回りの物以外は赤井名義に変更して、一から透との生活を始めたのだった。るり子は病院にパート勤務し、透は、大手建設会社で店舗デザインの勉強をしながら、営業マンとして忙しく働いていた。たとえ実情が小間使いでも、赤井興産の正社員であったことは、透に辛抱強さや社会人としての常識を身につけさせ、就職を有利にしていた。「るり子、きょう、遅番だったよな?オレ早く帰れるから、晩ご飯作っておくよ。」「ホント?ありがとう。でも、豚の角煮はまた今度にしてね。日付が変わってから頂かなくちゃならないわ。」「わかってるよ、きょうは米もまだ研いでないから...、そうだな、ブロッコリーのぺぺロンチーノ!」「お得意料理ね、嬉しい。でも、それだけじゃ嫌よ。」「後は何かみつくろってくるさ。」以前の透なら、食べたか食べてないかわからないような有り様だった。修二のところに居る時でも、外食か出前、あるいは修二が作ることがほとんどで、透が調理できるものといえば、レトルトカレーか即席麺ぐらいしかなかった。今では、るり子がいない時は代わりに作れるくらい料理の腕も上げ、家のインテリアを変えてみたり、クリエイター気取りでちょっとした小物を作るなど、昔からは考えられないほど地に足のついた、充実した日々を送っていた。「帰ったら、先に洗濯物、取り込どいてね。」「ああ。」るり子は、スーツ姿で黒い鞄と携帯を持って出かける透を見送った。お互い、こんな暮らしをする日が来ようとは考えてもみなかった。そこには高級なシャンパンも宝石も毛皮も、スリリングな駆け引きもなかったが、穏やかで幸せに満ちた暮らしがあった。 続く
Oct 30, 2007

Chapter 2-8 赤井の第一回公判の期日が決まった。赤井はどういう訳か、保釈申請をしなかった。弁護士と経営顧問の片岡に何かを吹き込まれたり、入れ知恵をされるぐらいでは、自分の意志を曲げない性格だったが、すっかり腹を括り、検察の出方を探りながら対決する決心でいるようだった。相変わらず、「保釈金に回す金があるなら、獄中からでも増やしてみせる」と豪語するなどして、マスコミを賑わせたりしていた。「そう、やっぱり赤井はそんなことを...。」退職を決めた水谷が、るり子の元を訪れた。赤井がマスコミに向け、はったりともとれる強気な発言をするのに反して、赤井興産グループの内情はガタガタだった。赤井という、常人とは違う、たたき上げのワンマン社長がいなくなった今、巨艦を指揮できる代わりの者はいなかった。その上事件をきっかけに、粉飾決算等の今まで闇に埋もれていた事実が次々と出てきて、いくつもあった赤井のグループ会社はタガが外れた桶のように、解体、身売りを余儀なくされた。今や、赤井興産グループは、創業当時からグループの基幹をなす、金融、不動産、貿易、運輸、土木建築部門等を残し、縮小されようとしていた。水谷もまた、自ら退職を願い出て、何年か仕えていたるり子に挨拶に来たのだった。「今回、検察の手がそこまで及ぶかどうかはまだ分りません。私もそこまでは詳しくないので...。その件のことは入院中の計理部長と社長周辺のほんの一握り方しかご存知ない筈です。」「そのことが、もし、検察にわかったら...。」「赤井興産は終わりです。」るり子と赤井の忠実な部下だった水谷は、退職に際して、最後に自分の知り得る秘密をるり子に注進に来たのだった。「それから...、もう一つ。」水谷は続けた。「経営顧問の片岡さんに気をつけて下さい。」「片岡さんに...?!」「あの方には、ずっと以前から横領疑惑があります。以前から度々片岡さんを介した送金の一部が不明になるということがあったんです。ざっと、見積もっても、2億、3億...。」「横領―?!」途中から、透はドアに耳を押しつけて水谷とるり子の会話を聞いていた。『そうか、兄貴はその証拠を掴んだんだ...!』るり子の母の死で、透の計画は頓挫したままになっていた。交渉の的を片岡か赤井に絞ることさえ出来ないでいた。「ありがとう、水谷さん。あなたも、どうかお元気でね。」部屋から出てくると、るり子は水谷を見送った。 * * * * * * * * * * * * * * 水谷の去って行った数日後、るり子はいつものように透の運転で、拘置所の赤井の許へ面会に行った。るり子が赤井と会っている間、透は駐車場に車を置いて、玄関脇の喫煙所で、待っていた。正門前にタクシーが止まって、二人のダークスーツの男が降りて来るのが見えた。弁護士と片岡だった。透は驚いたが、すぐに平静を装うと、透の脇を通り過ぎようとした片岡に、声を掛けた。「その節はどうも...。」透に気付いた片岡は、それが誰なのか暫く思い出せない様子だったが、次の瞬間、目を見張り、表情を強張らせた。「しゅ、修二...?!」『い、いや、まさかそんな筈は...』凍りついたように棒立ちになった片岡の前に透は立ちはだかると、顔を寄せて囁いた。「修二の兄貴がどうなったのかは、あんたが一番よく知っている筈じゃなかったのか?」「あ、あの時の小童か...?!」片岡はかすれた声を辛うじて絞り出した。前を歩いていた弁護士が振り向いた。「片岡さん、どうされたんですか?」不敵な笑顔を残すと、透は身を翻して、その場から立ち去り、片岡が建物の奥に入っていくのを確かめて車に戻って行った。暫くすると、るり子が帰って来た。透は後部座席のドアを開け、るり子を迎えた。「今度は、いつ面会に来られるんですか?」エンジンをかけながら透が尋ねた。「次はないわ。」「えっ?」「多分、もう来ない―。」透は視線を上げると、ルームミラーに映るるり子の顔を覗きこんだ。「離婚届けを渡してきたわ。」透は振り向いた。「彼は承知してくれた―。」るり子の左手の薬指から指輪が外されていた。その夜、るり子は家政婦の作る夕食を断り、自分で簡単なカナッペ類を用意して、テラスでワインを傾けていた。部屋着のまま、手摺りにもたれかかり、一人くつろぐるり子の許を、透は訪れた。「赤井はああ見えて、私にはそんな悪い人じゃなかったのよ。父に押し付けられたような私を、親子ほど歳がちがうのに、ちゃんと妻として扱ってくれた。入院中の母の治療費やなんかも、みんなあの人が面倒をみてくれたのよ。でも、やはり、あの男は噂どおり...。」『噂どおり...?』先日の水谷との会話が透の頭を過ぎった。母親が亡くなったことだけではなく、水谷が去り際言いのこしていったことが、るり子に離婚の決意を促したように思われた。「...私が離婚を切り出しても、彼は二つ返事で納得してくれたわ。」「...これからどうするんだ?」透は部屋の方を向いて、るり子の横に並んだ。「どうしようかしらね...。」グラスを傾け、夜景を見ながら、類子は呟いた。透は、真剣な眼差しでるり子の方に向きなおった。「るり子、一緒に暮らそう。どこか、知らない町で―。一から始めるんだ。」 chapter-3 へ続く
Oct 26, 2007

Chapter 2-7「...もう、帰らないとね。」二週間ほど経って、るり子が言った。瞬間、透は胸に小さな風穴が開いたような痛みを覚えた。「明日...、ビューティー・トラップにお別れを言わないと。」るり子は遠い目をして呟いた。「これが本当に最後になるかもしれないし―。」透は一抹の淋しさのようなものを感じながら、るり子の姿を見つめた。次の日の午後、透とるり子はビューティー・トラップを引いて浜辺へ出た。透は波打ち際を何度か往復して駆けさせた。馬にも馴れ、的確に指示を出してよく走らせるようになってきたところだった。「よーしよし...、よく走った。」透は馬の首筋を何度も擦りながら、ねぎらった。「あなたはビューティー・トラップに気に入られたようね。」るり子も、透が愛馬に好かれたことが嬉しそうな様子だった。二人は手綱を引き、たわいもない話をしながら、名残惜しげにビューティートラップとの最後の散歩を楽しんだ。そろそろ引き返そうと、防風林の松並木を通り抜け、厩舎に隣接する広葉樹の林に囲まれた広い牧草地まで来たときだった。一休みさせようと、馬を手頃な木に繋ぐと、ふいに明るい陽射しの中、小粒の雨がパラパラと落ちてきた。「狐の嫁入りだ。」二人は慌てて木の陰に駆け込んだ。空を見渡しても、雨雲らしき雲はなく、ただ雨粒だけがキラキラと輝きながら降り注いでくる。枝を傘代わりに、大木の根元に腰を下ろすと、そのままやり過ごすことにした。が、雨はすぐにやむことはなく、細かいガラスビーズをこぼしたかのように辺りを覆い続けた。透は、片膝を抱え、雨粒が馬の背やたてがみをしっとりと濡らし、その栗色を次第に濃くしてゆくのを眺めていた。馬は、雨に濡れながら、時折尻尾を大きく振ったり、ぶるる...と鼻を鳴らしたりしながら、静かに草を食み続けている。「あんた、あの時、どうしてオレを助けようと思ったんだ?」赤井邸に帰ってしまえば、きっともうきけなくなると思って、透は尋ねた。少し間をおいて、るり子が答えた。「味方が欲しかったの。」「じゃ、あんたはオレを利用しようとして...。」「そうね...、最初はそうだった。」透は少し憮然とした表情をした。「でも、それだけじゃないの。」るり子はくすっと小さく笑うと、透の瞳を覗き込んだ。「本当はあなた、捨てられた仔犬のような目をしてたから。」透は一瞬バツの悪そうな顔をした。が、すぐに笑顔で返した。「じゃ、あんたはかわいい忠犬を手に入れたってわけだ。」静寂の中、馬の草を食む音と、幽かな雨音だけが二人を包む。るり子は透から瞳を逸らすと、うつむき加減に目を伏せた。その唇に、そっと触れるか触れないかの微かさで透は唇を重ねた。小雨に身体を湿らせながら、木漏れ日が模様を描く草地の木陰で、二人は唇を合わせ続けた。「るり子...。」その夜二人は結ばれた。 続く
Oct 25, 2007

Chapter 2-6 初七日が過ぎた。誰の目にも、母を失ったるり子の疲弊ぶりは、明らかだった。沈鬱な表情で、部屋から出ることもなく、透が用意する食事も殆ど手がつけられないまま返されてきた。「こんなことじゃいけない。」透がそう思い始めたころ、るり子が呟いた。「...海が、見たいわ...。」透は目立たないようにるり子を駅に連れて行くと、有無を言わさず、列車に乗せた。家路を急ぐ通勤客らに混じり、特急列車で西へ向かった。透が連れて来たのは赤井が所有する海辺の別荘だった。到着したときは暗くてわからなかったが、翌朝目覚めると、目の前に青い空、そしてどこまでも青い海が広がっていた。ほっとしたのか、るり子は軽い熱を出して二、三日床についた。氷やレトルトのお粥を用意するなどして、透はかいがいしくるり子の世話をした。「お世話をかけるわね。」「いいさ、どうせ行く所もない。あんたのそばか、赤井のそばか...。あんたか赤井の世話をするのがオレの仕事だ。給料はまだ出てる。」「...やさしいのね。」「誰だって一人ぽっちは嫌だろ。」気候がそうさせるのか、海辺の隠れ家で、るり子は次第に健康を取り戻していった。特定の人以外、ほとんど二人を知る者はなく、傍目には、ただの恋人同士としか映らなかった。透はるり子の体調を見計らって、浜辺に誘い出した。るり子を伴って、砂浜に出ると、透ははしゃいだ。波打ち際で、寄せ来る波と戯れた。「あんたも、来いよ!」泳ぐには肌寒かったが、明るい陽射しが二人を包んだ。波に近づいては逃げる―、波とじゃれ合うるり子の顔には笑顔が浮かび、時折笑い声がこぼれた。一度、裾を濡らしてしまうと、もう構うことなど何もなかった。透は浅瀬をどんどん進んでいった。水はあくまで透明で、遮るもののない日差しは、白砂の上に波の影を映していた。 ―明日の今頃は、遠い南の空の上だ。「兄貴...、南の海へ行くの楽しみにしてたな...。」碧空を見上げる透の胸に、修二の面影が去来した。帰り際、思い出したようにるり子は言った。「この近くに厩舎があるの。馬に乗ったことある?」透にはるり子の変化に、ほのかな嬉しさを覚えた。翌日、二人は赤井が馬を預けてある乗馬クラブへ行った。透は初めて乗馬を体験した。「この子はね、ビューティー・トラップっていうの。私の一番のお気に入り。」さすがにるり子は透より上手く、早足で馬場を何周か駆け回った。「内腿が張って痛い...。」「それはちゃんとしたフォームで乗れてる証拠。」お互い立場を忘れ、まるで恋人同士のような二人がそこにいた。ビューティー・トラップはるり子の心を癒したようだった。走らせるだけではなく、何度か厩舎に通い、馬の世話をしているうちに、るり子の内面に元気が戻って来つつあるのを透は感じた。「今夜はエスニック料理なんかどう?近所に見つけたんだ。」「それもいいわね。」二人はそれぞれタイ風の鍋料理をオーダーした。「お鍋は一つでいいですね。」「いえ、別々に...」と、透が言うより早く、るり子が店員に返事をした。「ええ。」たったそれだけのことが、透には嬉しかった。るり子との間の壁が次第になくなっていくように感じられた。遠乗り。馬の世話。浜でのランチタイム。水遊び。慣れない自炊。買い物。別荘の手入れ。隠れ家での二人だけの生活は、二人の距離を縮め、それまで二人の心の中に在ったトゲトゲしさのようなものを溶解していった。 続く
Oct 24, 2007

Chapter 2-5るり子の願いも空しく、その夜遅く、るり子の母親が亡くなったとの連絡が入った。遺体は自宅に帰ることなく、直接、葬祭場へ運ばれ、翌々日荼毘に付された。本来ならば社長夫人の母として、盛大な葬儀になったところであろうが、時期が時期だけに、水谷の手配の元、ひっそりと密葬だけが執り行われた。わずかに親戚だけが集まる、簡素な式だった。るり子の実家で待機していた透の許に、斎場からるり子たちが戻ってきたときには、辺りはもうすでに薄暗くなりかけ、パラパラと雨が降り出していた。透は門の前に佇んで、るり子たちを迎えた。黒塗りの車がゆっくり停止すると、傘を差し掛け、車のドアを開けた。透が手を差し出すと、るり子は素直に、位牌を持っていない方の手をその手に預けた。降りる際、片足が大きな砂利石の上に乗り、一瞬るり子がよろめいた。透は握る手にぐっと力を込めて支えると、傘を差しながら両手をるり子の肩に添え、玄関まで導いた。三々五々親戚たちも帰ると、広い屋敷に、るり子と透の二人きりが残された。仏壇の前の、お骨を安置した白い布を被せた祭壇を背に、るり子は透の方を向いて、頭を下げた。「色々ありがとう。あなたにはすっかりお世話になってしまって...。もう帰ってもらっても大丈夫...。」「あんたは、どうするんだ...?」「私...?」るり子は少し考えると、「しばらく、ここに居るわ。向こうの家には帰れないもの。」と、返事をした。「何だか冷えるわね。」透には、たとえ生まれ育った家だとしても、ガランとした古い屋敷は、一人で居るにはいかにも広く、淋し過ぎるようにように感じられた。辛うじて、電気や水道は通っているものの、室内は目立った調度品もなく殺風景で、障子やカーテンは色あせ、雨戸は締め切られたままだった。かつては立派であったと思わせる庭も荒れ放題で、売り払われることを免れた電燈や、欄間や床柱、天井や床材の板目などが僅かに建築当時の面影を伝えていた。「長いこと誰も住んでいなかったから、暖房器具、どこに仕舞ってあるのか、探さないと...」明るく気丈に言うと、るり子は立ち上がった。が、溢れる涙を止めることは出来ず、透の前で落涙した。「...!」今まで張りつめていた緊張の糸が切れたのか、るり子は涙をこらえることが出来なかった。その場に座り込んで、嗚咽をこらえ切れないでいるるり子の許に、透は後ろからいざり寄った。そぼ降る雨音だけがシトシトと響くほの暗い室内で、透はすすり泣くるり子の肩を優しく撫でさすってやりながら、落ち着くのを待った。次第に、闇が部屋全体に垂れ込めてきた。徐々にるり子が落ち着きを取り戻すと、透はどこからか綿の毛布を探し出してきて、るり子を覆った。明りもつけずに、二人は毛布にくるまり、部屋の壁にもたれながら、肩を寄せ合った。辛うじてお互いの顔の輪郭がわかるくらいの薄暗がりの中で、時間だけが過ぎていく。二人はまんじりともせず、雨音をきいていた。「あなた、この前、どうして赤井と結婚したのか、私にきいたわね...。」口を開いたのはるり子の方だった。「私の実家、昔は結構お金持ちだったのよ。」ポツリポツリとるり子は身の上を語り始めた。「母はお嬢さん育ちで、言われるままに入り婿の父と結婚したの。祖父は一代で財を成すほどのやり手で...。父は、母の父、つまり私の祖父に、頭が上がらなかったんでしょうね。なんとか大きな事業を成功させて見返したいと思ったのか、無理に手を広げて。そこへ丁度バブルに踊る銀行がどんどん融資枠を拡げてきたの。ところが銀行は、バブルがはじけるとそれを不良債権とみなすようになって、手の平を返したように、やっきになって回収し始めたわ。困った父は言葉巧みに近づいてきた赤井から融資を受けるようになって...。」るり子の話は続いた。「当時、私はもう進学も諦めて看護学校に通っていた。最初は親切面してお金を貸していた赤井もそのうち本性を表すと、次々と担保物件を差し押さえるようになって。父は飲んだくれて荒れるようになり、何も出来ない母は病気がちで伏せるようになったの。着物も、祖父が集めた蔵の中の骨董品も、みんな手放した。それでも全然足りなくて...!」「借金でがんじがらめになった父は、私を赤井に差し出すことで、借金を帳消しにしてもらったのよ。」『そうだったのか...。』「父と結婚したばかりに母は...。結局何一つ、いい目を見せてあげることができなかった...。」るり子は潤んだ目を見開いたまま上を向くと、軽く鼻をすすった。透は、毛布の上から、るり子の肩を抱き寄せると、ぐっとその手に力を込めた。 続く
Oct 23, 2007

Chapter 2-4赤井はかねてから、闇社会との取引が取り沙汰されていた。今回の検察の逮捕容疑は、その全容を解明する入口に過ぎない筈だった。透は赤井に直接取引きをもちかけることも考えた。『しかし、片岡はどうする―?あの日兄貴は、片岡自身の悪事の証拠を握ったような口ぶりだった。しかも、片岡は兄貴を殺った―!』が、そんな折も折り、るり子の許に、元世話係りだった水谷から一本の電話が入った。「入院中のおかあさまの具合が急にお悪くなり、集中治療室に移されたということです。」カシャンと音がして、床に携帯が落とされた。「奥様、どうなされたのです?」「く、車を出して...。」るり子の声は震えていた。「お願い、今すぐ車を出して!」電動でゆっくり開かれてゆく赤井邸の扉に、表門付近を取り囲んだ報道陣が色めきたった。車に向かってカメラの放列から、一斉にフラッシュが焚かれた。るり子は顔を背け、後部座席に身を伏せるようにして、病院に向かった。病院で、るり子は殆どの時間を、集中治療室の前の長椅子で過ごした。母親の容態は思わしくなかった。もうずっと長いこと入院しているとのことだったが、ここにきて具合が急変したのだった。水谷だけが、時々、様子を見に病院に来ては、赤井の状況や様子を伝えたり、着替えを運んだりしていたが、とにかく、会社の方が大騒ぎで、他にるり子のことを構っていられる社員などいなかった。赤井との不釣合いな結婚に目をつけたマスコミは、赤井興産の事件だけではなく、るり子までをも標的にした。ワイドショーは、画像処理も行わずにるり子の映像を流すようになり、週刊誌は、結婚の経緯や理由、るり子自身の経歴についてまで、あることないことを書きたてた。病院に詰めるるり子の目や耳にも、それらの放送や、見出しが、否応なく飛び込んでくる。そればかりか記者は病院にまで押しかけ、病院中の衆目に晒されることになった。るり子の疲労は頂点に達していた。母親の容態は変化せず、周りへの迷惑、好奇の視線がるり子をいたたまれなくしていた。「帰るわ!車を回して頂戴!!」透がたしなめるのも構わず、るり子は玄関に走り出た。が、救急車両でない車は、出入り口まで近寄せることは出来なかった。「奥様、こちらです!」透は押し寄せる報道陣を掻き分け、るり子の元に走り寄った。もみくちゃにされながら、るり子に自分の上着を被せ、両肩を抱きかかえるようにして、車のところまで連れて行った。ワイドショーのインタビュアーやカメラの放列を押し切って、車を発進させた。後部座席を狙ったフラッシュの光が途切れることなく浴びせられる。透は追跡の車をまくため、左折を繰り返しながら走ると、赤井邸へは帰らずに、湾の西側の最近開発されつつあるベイエリアにやって来た。海沿いの道路を挟んで、緑地帯の奥に建設中のビルが並ぶスポットに辿り着くと、護岸に、車を停めた。空を映して、海の色は雲っていた。透は類子の側の窓を開けると、自分も運転席の外に出た。「煙草、吸っていいですか。」「私にも一本頂戴。」煙が昇りながら風に溶けてゆく。風に髪を弄らせながら、二人は暫く無言のときを過ごした。ちゃぷちゃぷと岸辺に軽く打ち付ける波の音に混じって、遠くを飛ぶ飛行機や、建設現場の工事の音が風に乗って響いてくる。透は、車にもたれて、ただぼんやりと、海を見ていた。「あんた、どうして赤井と結婚したんだ―?」寄せては返す波を眺めながら、つい気を許して、ずっと不思議に思っていたことを口にしてしまった。るり子が赤井に惚れて結婚したとは到底思えなかった。金の為というには媚びた様子もなく、社員から恐れられている赤井と対等に口をきき、ときにはいいようにあしらっている。到底愛があるとは思えなかったが、憎み合っていると言い切れるだけの関係にも見えなかった。「私はね、赤井に売られたのよ。」透がふとこぼしてしまった独り言のような不躾な質問に、思いがけずるり子から答えが返ってきた。「負債を抱えた父親に。」透は言葉もなかった。時折るり子の中に見え隠れする淋しさの正体のようなものが、なんとなくわかったような気がした。 続く
Oct 22, 2007

Chapter 2-3数ヶ月が経った。相変わらず透は赤井の小間使いのような存在だった。しかも、赤井だけではなく、るり子の身辺の世話まで、任されるようになっていた。透の仕事が増えるに従って、それまで赤井とるり子の世話をしていた水谷という透と同世代の男の仕事が、本社業務に移行していった。るり子は不思議な女だった。自分の味方なのかそうでないのか、透には測りかねた。「オレと組まないか?」あるとき、試しにるり子に訊いてみた。るり子と二人きりのときは、透は相変わらずぞんざいな口の利き方をした。「あんただって、あの傍若無人で他人を人とも思わないジジイにはもう飽き飽きしてるだろう。じいさんにちょっとばかり早く逝ってもらって、財産山分けしないか?」「あなたみたいな顔だけの男に何が出来るっていうの?」きっと透の方に向き直ると、るり子は鼻先で笑った。「赤井グループを束ねるのはあの男だから出来るのよ。放っておいても毎日金の卵を産み続けるガチョウを絞める気はないわ!」るり子の返事は手厳しかった。「あなたなんか連れていても、人にはペットの子犬を連れているとしか映らないでしょうね。」透に返す言葉はなかった。るり子の言う通りだった。『後で吠え面かくなよっ』いつか赤井興産という巨象を根底から揺るがしてやる、と透は心の中で思った。 * * * * * * * * * * * * * * が、意外にもその日は早く訪れた。赤井興産を揺さぶったのは透ではなく、地検の特捜部だった。カメラとテレビカメラの放列が、十重二十重に赤井の会社と自宅を取り囲んだ。何が起こったのかわからないでいるるり子と透に、テレビのニュース映像が状況を伝える。赤井が逮捕された。表向きの容疑は、証券取引法違反と法人税法違反だった。株のインサイダー取引をきっかけに、検察は架空取引や簿外取引、所得隠し疑惑にまで捜査の手を入れようとしていた。『あれはどうなるんだ―?検察はあれを証拠として欲しがっているんじゃないのか?検察があれを見つけたら、オレには一銭も入ってこないいや、でもあれは見つかりっこない筈―だったら、どうなる?証拠がみつからないということは、赤井を助けることになるのか?それより、あの通帳と帳簿がなくなっていることに赤井はまだ気付いていないのだろうか?』 ―けれど、あれはそんなもんじゃねえ。 なぁ、片岡さん、見る者が見ればわかるんだよ―透は修二が電話で話していた内容を思い出した。『架空取引や簿外取引、所得隠しの証拠だと言っていたでも、それだけじゃない...?もっと大変なものだと判ったから、兄貴は電話の男を強請った?』聞きかじった言葉の片鱗を繋げるようにして透は考えた。『―今が赤井から、直接金を引き出すチャンスなのか?』社長逮捕の報道に、本社もグループ会社も上を下への大騒ぎになっていた。赤井には直接連絡がとれず、情報が錯綜する中で、テレビの報道がるり子たちにとって一番の情報源だった。テレビが映す本社の家宅捜索開始と同時に、るり子と透が居る本宅でも、検事の指揮の下、新しい段ボールを抱えた事務官達が一斉になだれ込んできて、二人の目の前で、証拠と思われる物品を次々と押収していった。マスコミに囲まれて、身動きできないでいるるり子の元に、社員達が、今後の対策を練ったり指示を与えたりしに、入れ替わり立ち替わりもみくちゃにされながらやって来た。「片岡さん、よくいらっしゃってくれたわ。」『片岡―?』その中に透が普段見かける男達とは毛色の違う、落ち着いた、中にベストを着込んだダークスーツの男がいた。「もう、私、どうしたらいいのか...。」「ご主人は財産類の保全について何かおっしゃってられましたか?」「いえ、私には何も...。」透は、お茶を出しに席をはずしたるり子に尋ねた。「あの方は?」「ああ、片岡さんよ。赤井興産の経営顧問で、ご自身もコンサルタント会社を経営されているの。」一瞬、透は息を呑んだ。『片岡―!!あいつだ、兄貴をやった...!あの夜の電話の相手は片岡といった!!』早鐘を打つかのように、心臓が激しく鼓動する。透の頭に修二の電話や、修二が殺られた時の状況が蘇ってきた。透は隙間からそっと部屋を覗いて、自分に銃口を向けさせた男を思い出そうとした。『右腕の金時計...!』背を向けて、目の前の立っている男の袖口から、金無垢の時計が覗いていた。『あんな東南アジアでしか売ってないような24金の時計、そうそうつけてるヤツがいるものか間違いない...!』透は確信した。 続く
Oct 21, 2007

Chapter 2-2夜半過ぎ、雨が降り出した。雨粒が激しい音を立てて窓ガラスをたたく。透はシーツにくるまり、まんじりともせずに雨音を聞いていた。―『伏せろっ!透!』自分の目の前で血飛沫を飛ばしながら崩れていった修二の姿が、頭から離れない。『なんで、オレなんか庇ったんだ、なんで...!!』『兄貴、兄貴...!』心の中で透は何度も修二をよんだ。『助けてくれ、兄貴、オレを一人にしないでくれ...!』見知らぬ邸宅の一室で、透はシーツを頭から被ると、幼子のように身体を丸め、慟哭した。 * * * * * * * * * * * * * * 透は熱が下がっても何くれとなく理由をつけて起き上がれない風を装った。この先自分がどうなってしまうのか判らない恐怖に、怯えていた。「お前、行くあてがないのか?」ある日、出て行く様子のない透を、見透かしたかのように、はげ頭の赤井社長が尋ねた。その通りだった。それどころか一歩表に出ればいつ蜂の巣にされるか分からない。ドサクサに紛れてそのままになっている貸し金庫の鍵と印鑑の安否も確かめたかったが、自分が一体どうすればいいのか、何から始めればいいのか、皆目分検討がつかないでいた。「お前、わしの下で働かないか?」「えっ?」「わしの秘書でどうだ。」赤井はにっと笑った。 元々いつまでもホストを続けてられると思ってはなかった。満足に高校も出ていない自分が、上場企業の社員になれるのなら、運転手でも鞄持ちでも構わなかった。透は、赤井興産の中枢奥深くに入り込んで身を潜めるのも悪くない―、と考えた。透は、また、拾われた。 * * * * * * * * * * * * * * 透は身体が回復すると、まず、修二が住んでいた部屋の大家に電話を入れた。「ああ、修二さんの車ならガレージに置いたままだ。どうしたものか気になってたところだ。」大家は透から連絡が入ったのをこれ幸いとばかりに、荷物と車を押し付けた。透は修二の車のために車庫を借りた。車は、何事にもあまり執着しなかった修二の唯一の道楽だった。公道では滅多にお目にかかれない、1970年前後に製造された気難し屋の国産車を、修二は、乗りこなすだけではなく、手をかけ、楽しそうにいじっていた。あの日以来、そのままになっていた修二の車のボディーを、透は心ゆくまで磨いた。拭き終えてから内部を隅々まで眺めると、ハンドルを、ルームミラーを、ギアを、シートを...、透は修二の温もりを確かめるかのように、愛おしげにその手で撫でた。『兄貴...』シートに置かれた手の甲に、涙が一粒、ポタリと落ちた。翌日から、透は赤井興産の社長付き社員として働くようになった。予想した通り、秘書とは名ばかりで、車の運転、鞄持ち、食事の世話、着替えの手伝い...、赤井の身の回りの世話が透の仕事だった。少しでも、赤井の気に入らないことがあれば怒号や拳が飛んでくる。『まるで、ヤクザの舎弟だな』透は思った。『でも、今に見てろ』貸し金庫にしまってある通帳と書類の存在が、陰で透を優位な気持ちにさせていた。「どうやら夫はあなたに利用価値があると思ったようね。」二人きりのとき、るり子がすれ違いざま、囁いた。『まさか、オレのことを知って―?』「気をつけて。あの人にとって他人は利用するために存在するようなもの。あの男が情けをかけたり、親切心だけで動いたりなんかするものですか。」『それとも、一般論での忠告か―?』るり子の真意はよく判らなかった。『それでもいい』透は思った。『切り札の出し方さえ間違わなければ―』 続く
Oct 20, 2007

Chapter 2-1「小僧、起きろ―。」あれから何時間経ったろう。うっすらと開いた透の目に、綺麗に磨き上げられた高級な男物の革靴と、その後ろに、ドレスの裾から覗く白いハイヒールが映った。身体はそのままで、目だけをゆっくり上にあげていくと、頭のはげあがった、シルバーに近い白のタキシード姿の男と、豪奢なロシアン・セーブルのストールをまとったイブニングドレス姿の女が透を見下ろしていた。「おい、お前、どこから入りこんだ。」険しい表情で男が訊いた。「このビルは俺が借金のカタに差し押さえたビルだ。近くを通ったついでにどんな様子なのか見に来たら―」「怪我をしているようね。」女が口を挟んだ。「応急手当ぐらいは出来るわ。」「おい、るり子!」「あなた、水谷さんに、パーティー会場から折り返してこちらへ迎えに来てくれる様、おっしゃって下さるかしら。地下駐車場で待ってるって。斉藤様ご夫妻にはあなたから宜しくお伝えして。」男は女の気紛れには慣れている風だった。「酔狂なことだな。」鍵の束を手渡すと、勝手にしろとばかりに背を向け、先にエレベーターで下りて行った。るり子とよばれたイブニングドレス姿の女は、透の側に寄ると、脇を支えて立ち上がらせた。『ゴージャスな女だな』切羽詰った状況の中でも、透は女の値踏みをすることを忘れなかった。『三十...、いやそれより若いか...?金なら、使い方に困るくらいもってそうだ』透は運転手付きの車に乗せられると、監視カメラがあちこちに設置され、ぐるりと高い塀をめぐらせた、モダンで瀟洒な邸宅の、簡易な家具や家電類の揃った使用人が詰めるような小部屋に連れて行かれた。ソファーを兼ねたシングルベッドに向かい合わせに腰掛けると、るり子は透の傷の具合を確かめた。「これなら、外科手術の必要もなさそうだわ。」「...あんた、看護婦か?」「昔はね。」るり子は、片肌脱ぎになった透の腕を取って、救急箱から薬品や道具を取り出すとテキパキと手当てをした。「身体が熱いわ。熱があるようね。しばらくは安静ね。起き上がれるようになるまで、ここにいてもいいわ。」包帯を巻き終わると、袖に腕を通してやった。「一体、何をしたの?」何の傷なのか見透かしたような口ぶりで、るり子は尋ねた。「安心して。何の怪我かなんて誰にも言ったりしないわ。」救急箱を片付け終わって、立ち上がろうとしたるり子の腕を、ぐっと引き寄せ、いきなり透はキスをした。「何をするの!」るり子の平手が透の頬を打った。「傷の手当てのお礼としては、大したふざけようね。」「あんた、あの男の情婦か?」るり子はぷっと吹き出すと、大きな声で笑った。「あの男がヤクザにでも見えて?あれでも上場会社のオーナー社長よ。赤井興産って聞いたことあるでしょ?私はその社長夫人。」透は絶句した。『オレは、赤井の懐に飛び込んでしまったのか―?!』 続く
Oct 19, 2007

Chapter 1-6指示されたとおり小一時間ほど待っていると、透の携帯に修二から連絡が入った。「俺だ。今裏のビルの入口にいる。いいか、俺の言う通りにしろ。」「あ、ああ。」透はようやくほっとすると、電話を耳に当てたまま立ち上がった。「厨房へ入れてもらって、勝手口から外へ出るんだ。路地を左に曲がって...。ああ、隣のビルとの間をまっすぐ裏の通りの方へ抜けて...。非常階段があるだろう。柵を越えて上るんだ。二階以上だと、非常口の扉が開いている筈だ。中のエレベーターを使って、地下の駐車場へ降りろ。それから管理人室の前を通って階段で一階に出る...。」透は修二の指示に従い、階段を上って行った。内側から鍵を回して難なく鉄の扉を開くと、ぱあっと、明るい外の景色が目の前に広がり、逆光のなか、公衆電話の前からこちらを見ている修二の姿が目に入った。「兄貴...!」口許を綻ばせ、携帯をとじながら、透が駆け寄った。と、同時に、修二の背後からバラバラと二、三人の男達が修二を取り囲むように走りよってきた。「透、逃げろ!」とっさに受話器を投げ出すと修二は駆け出した。思わず透は修二の後を追った。「追え、追うんだ!」追いかけてくる男達に、最後尾のサングラスをかけた地味なダークスーツ姿の男が指示をとばす。「待て、待たないと撃つぞ!」銃口が二人の足元を狙う。乾いた発射音がして、手元の狂った銃弾が透の肩を掠めた。二人は転がるようにして近くの雑居ビルに駆け込んだ。「野郎...!」修二は9ミリのオートマチック銃を取り出すと安全装置を外し、スライドを後ろに引いた。「ばか、死なせてどうする!」追っ手の後ろから男の怒号が飛ぶ。修二は一旦物陰に隠れると、照準を追っ手の足に合わせて引き金を引いた。追っ手がもんどりうって膝を抱えて転がる。「撃つな!やめろ!」後ろの男が叫ぶが、熱くなっている男達の耳には入らない。「この野郎...!!」男の一人が透の背に狙いを定めた。「伏せろっ、透!」腕を押さえて片膝立ちになってしまった透を修二が庇った。同時に銃声がして、修二の身体が受けた衝撃が、透の背にまで伝わった。「あ、兄貴...!!」振り向く透の背を掠めながら、修二の身体がスローモーションのように崩れて行く。「あ、兄貴、兄貴ーー!!」瞳を見開いたまま、修二は頭から仰向けに透の足元に倒れこんだ。胸を抑える修二の手の下から、どくどくと赤い血が噴き出し、修二の黒いシャツと上着にどす黒い染みを拡げていく。やがて脇を伝って床にまで達すると、透の足元近くまで床を赤く染め上げた。『ト、オ、ル...。』唇が透の名をなぞった。透の顔を見つめながら、修二はゆっくりと瞼を閉じる。 ―よせては返す波の音...。 透きとおった水、つき抜けた青い空、降り注ぐ太陽の光ー 日差しを身体一杯に浴びて、透が笑った―一瞬、修二の口許が笑ったかのように見えた。が、その目は二度と開かれることはなかった。『あ、兄貴!兄貴...!!』声を出すことも出来ずに、透はそのままその場に腰を落としてうずくまった。『な、なんで兄貴が...、ウソだろ、兄貴...?』呆然自失の透を両脇から何なく男たちが捕まえる。「なんで...、なんでなんだ、兄貴ーーー!」叫ぶ透の前に、男が立った。「手間をかけさせやがって。」地味なダークスーツの男の右腕から覗く金無垢の時計が、ぼんやりと透の目に映る。「ぼうや...、返答次第ではどうなるか、わかるな?」男の言葉が透を正気に返した。『透、逃げろ―!』修二の言葉が透のなかにこだまする。透は油断していた男たちの腕を、力いっぱい振り払うと、わき目も振らず駆け出した。ビルの裏を通り抜け、塀をよじ登り、鉄柵をくぐり、配管に足をかけ、夢中で駆けた。腕の傷のことなどお構いなしに、細い通路や路地をぬって、外の螺旋階段を駆け上った。やがて透は見知らぬビルの最上階に辿り着いた。耳を澄ましても、もう追っ手の足音は響いてこない。昼なお薄暗く、半ば廃屋のようなビルの奥まった細い廊下のドアの前で透は力尽きた。壁に寄りかかると、その場にずるずると座り込んだ。傷が熱をもってじりじりと痛む。 「兄貴...、どうしてなんだ。どうして、オレなんかを庇って...!」透はそのまま廊下に倒れこんだ。『兄貴、兄貴...!』 が、修二はもういない―。次第に透の意識は遠のいていった。 chapter-2 へ続く
Oct 15, 2007

Chapter 1-5『俺は―いつここへ来てしまったんだろう。逃げなくては―』気が付くと修二は港にいた。周囲が明るく白んでくる中で、ようやく意識を取り戻した。ハンドルに顔を伏せ、何が起こったのか、何をすべきなのかを思い巡らせた。「どこに隠したんだ。」修二はエンジンをかけ、車を発進させた。 * * * * * * * * * * * * * * 透は、その夜店には出勤せず、ダーツバーの地下の、日頃暇さえあれば屯しているビリヤード室で修二を待っていた。 帰りが予定より遅いことに心配になった透は、何度か修二の携帯に電話をかけた。取引に何か手違いがあったような様子だったが、夜半過ぎ、ようやく、相手を追い詰めたような返事が返ってきた。が、その後、修二の携帯は繋がらない。 『兄貴、どうしたんだ、兄貴...!』 透は待った。電波の届かないところに居るのか、電源が切られているのか、電池が切れたのか...。焦燥感が透をさいなむ。『大丈夫だ。きっと兄貴のことだから大丈夫』そう自分に言い聞かせはするものの、電話一本がつながらないということが、こんなにももどかしいことはなかった。透はもって行き処のない不安と苛立ちで一杯になりながら、一晩を過ごした。夜が明けた。店が閉まり、透は憔悴しきった表情で、仕方なく部屋に戻り、ドアを開けた。「部屋が、メチャメチャだ...!」まるで泥棒にでも入られた後のように、部屋中が荒らされていた。引き出しからあらゆるものが引き出され、壁に貼られたものはすべて剥がされ、足の踏み場のないぐらい、床一杯に、ぶちまけられていた。呆然と立ち尽くす透の携帯に、ようやく、修二からの連絡が入った。「逃げろ、透。」冒頭、ビーッという音がして、それが公衆電話からのものであることが伺えた。「あ、兄貴?」「逃げるんだ!」いつもとは違う修二の様子に、透は修二がただならぬ事態の渦中にいることを悟った。「兄貴?!どういうことなんだ、兄貴!」「逃げるんだ、今すぐ!!」「今すぐって...、」「透、空港だ!どこでもいい、とりあえず出国するんだ!」「い、嫌だ、俺も兄貴と一緒に行く!」透は必死に訴えた。「俺と一緒だと、危険なんだ!!」「兄貴、オレを見捨てるのか?!」透は、今修二と別れたら、二度と会えないような気がした―。「...わかった。迎えに行く。階下の喫茶店で待ってろ。奥のテーブルで...。近くまで行ったら指示するから、目立たないようにしてるんだ。」 続く
Oct 14, 2007

Chapter 1-4気だるい午後の太陽が差し込む部屋、ヘリコプターの音がビルの頭上をかすめて行く。朝、帰って来て、そのままベッド代わりのソファーで休んでいた修二は、やや煩わし気に目を開けると、おもむろに手を伸ばして脇においてあった腕時計をとり、時間を確かめた。上半身を起こして、煙草を口にすると、一服くゆらせる。煙草が修二の頭を徐々に覚醒させていく。「兄貴...、起きてる?」中を伺うかのように透がやって来た。「透...、いい頃合に来てくれた。」「例のもの、ちゃんと仕舞っておいてくれたか?」「ああ、ちょっとやそっとのことでは見つからないところに。」「行かなきゃな。」決心したかのように修二は起き上がると、目覚ましのシャワーの栓をひねった。身支度を整え、最後に腰のベルトに拳銃を挟みこむ。「明日の今頃は、遠い南の空の上だ。」親指でキュッと透の頬に触れると、修二は部屋を後にした。 * * * * * * * * * * * * * * 「ああ、俺だ。―いや、大丈夫。やっとみつけた。もう逃がしはしない―」携帯を切ると修二は男を追った。「おまえのおかげで俺は...」クラッチを踏んでギアを入れ替えると、徐々にアクセルを踏み込んでいった。ドスン!鈍い音をさせて車が何かにぶつかった。 続く
Oct 13, 2007

Chapter 1-3計画があらかた練り上げられると、修二は透を連れて、駅前の銀行に出向いた。すでに話は通ってあるのか、ロビーで暫く待っていると、カウンターの中から行員が修二を呼んだ。「少し待っててくれ、いや、お前も来るか?」「何するの?」「貸し金庫を借りる。」「へえっ、凄いね、兄貴こんな銀行と取引あるんだ。」「ばか言え、預けるほどの金なんかありゃしねぇよ。それに銀行ってところはどれだけ大金を積んでも信用がなければ金庫なんて貸しやしない。」「へーっ。」「来な、社会勉強だ。」手続きを進めていく中で、行員は修二にきいた。「代人申請はなさいますか?」「代人申請?」「きょうお越しになられてるのは弟さんで?」行員がそう言うのも無理はないくらい、二人はよく似ていた。一瞬修二は考えると、退屈そうに成り行きを見ていた透の方を振り向いた。「おい、透、お前、代人申請しとくか。」「何、それ?」「俺の代わりにお前でもOKってやつさ。」「ふーん。」「死んだらお前が金庫を開けてくれ。」興味がなさそうな透に、冗談を言いながら修二は手続きを済ませた。銀行を出ると透は修二にきいた。「ねぇ、代人申請をしてないと本人以外は貸し金庫開けられないんじゃ、合鍵作っても意味ないじゃん。」「確かに、いまどきの新しいシステムの貸し金庫では、カードも要れば暗証番号も要る。が、あの店はまだ旧式で、印鑑照合さえパスすればそれで済む。赤井興産は株式会社だ。法人申請してある。社員ならOKだ。」そう言うと、修二は見たこともない名前の名刺と社員証を取り出して見せた。 * * * * * * * * * * * * * * 「兄貴、やったぜ!」数日後、部屋で待つ修二の元に透が息せき切って駆け込んできた。透はその日、女が銀行から出て来るのをずっと待ち伏せしていた。昼下がり偶然の出会いを装い、先日の非礼を詫び、後悔の気持ちを伝え、言葉巧みにホテルに誘った。睡眠薬を使う手間もなしに、女がシャワーを使っている隙に鍵と印鑑を盗み出し、外で待機している男に手渡した。事が済むとルームサービスを装ってコーヒーを運んできた男から物を受け取ると素早く元通りバッグに戻した。「透、よくやったな!」修二は、透の前髪をくしゃっと掴むと破顔した。「もぉー、女はうぜーから嫌なんだよな、しつこくて...。終わったあともあーだこーだって...。最後は勤務中だろって言ってやって...。」「分かったよ、透、分かったよ。」二人はじゃれあいながら事が上手く運んだことを喜び合った。 * * * * * * * * * * * * * * 暫くして、修二は髪型を社員証の顔写真に似せ、サラリーマン風のスーツ姿で、まんまと貸し金庫から書類と通帳を盗んできた。「これが再び同じ銀行の金庫に仕舞われるとは赤井の社長も思わないだろう。」「あれっ、中身、ついでに仕舞ってこなかったの?」「ばか、俺がそのまま俺に戻って隣の金庫に仕舞えるか!」「あはは、そりゃそうだね。」修二は自分の借りた金庫に入れる前に興味深げに書類と通帳を眺めていた。深夜、透が仕事から戻ると、修二が誰かと携帯で話をしていた。「あんた、あれが赤井の裏帳簿代わりって言ってたな。ダミー会社による架空取引や簿外取引、所得隠しの証拠だと。けれど、あれはそんなもんじゃねえ。なぁ、片岡さん、見る者が見ればわかるんだよ。他の証拠品と照らし合わせたら、流れの不明な金があるっていうことも。あんた、赤井から金を引き出すって言ってたけど、ひょっとしてあんた自身が隠蔽しなきゃならない事があるからなんじゃないのか?」電話を切ると、修二は透が立っていることに気が付いた。「透、100万が1億になるかもしれないぞ。」「1億...?」「口止め料としては、安いものさ。」透は金額の大きさとともに、リスクの大きさを感じずにはいられなかった。 続く
Oct 12, 2007

Chapter 1-2修二はこの辺りの裏社会では知らない者のない存在だった。透に詳しいことはわからなかったが、目つきの鋭い若い男たちがしばしば出入りしていた。外では見るからにその筋らしい男たちと会っていることもあれば、身なりのいい紳士然とした男や、ダークスーツをきちんと着こなしたサラリーマン風の男と会うこともあった。女が訪ねてくることもあった。そんなとき透は部屋を出されるが、女を泊めることはなかった。透は相変わらず短期間で店を替えながら気侭にホストを続けていた。工業高校を出るか出ないかで就職して以来、一所で長続きしたことはなかった。一度は好きな自動車の整備工場に就職したこともあったが、それも一年になるかならずやで辞めてしまい、転々としながら身を落としていった。キャッチ、美人局、男娼―。警察のやっかいになり留置所に泊まったのも、一度や二度ではなかった。「ねえ、いいだろ...?」 ベッドの上で暇を持て余して、透は修二の背中に声をかけた。振り向いた修二を、甘えるようにしなを作り、上目遣いに見上げて誘う。透は、自分がどうすればどう見えるかすっかり心得ていた。人を落とすテクニックは長年の生活で身体に染み付いてしまっていた。「お前、きょうは同伴と言ってたんじゃないのか?」「いいんだよ、あんなババア、待たせときゃいい。そんなことより...」他人の客をとろうが、客との約束をすっぽかそうが、遅刻をしようが、修二という後ろ盾を得た透に、制裁を加えられる者はいなかった。「支配人がさり気なく俺に皮肉を言いやがる。」「あのババア、もう金が底を尽いているのにしつこくて。たかがOLのくせに。」「ババアの癖にOLなのか?」「ババアじゃ風俗に売り飛ばすこともできやしない。金の切れ目が縁の切れ目だってことがわかんないのかね。俺と寝たい一心なんだ。」透はくるりと寝返りをうって仰向けになると、やれやれといった表情で、修二を見上げた。「ほら、赤井興産という、屋上に看板の立ったビルがいくつもあるだろ?そこの計理士さ。金庫番に生涯を捧げたような女―。」「おい、お前、本当かそれ?!」修二が顔色を変えて透の元に駆け寄った。「ど、どうしたのさ。」透が思わずたじろぐほど修二の顔色は変わっていた。「赤井興産の金庫番っていうのは本当なのか?!」「あ、ああ...。経理部長してるとかって...。真面目だけが取柄で、肩書きもらって...。」「透...、その女と寝てくれ。」「えっ?!」「上手くいったら50や100万の金では済まない。」「あ、兄貴、俺を売るのか?」「そんなことは言ってやしない。一回でいいんだ、一回で。」透は世話になっている修二のためなら、女と寝るのも「仕事」と割り切ることにした。 * * * * * * * * * * * * * * 数日後、二人は、駅前の銀行の近くで、キャリア・ウーマンを気取った50がらみの黒いパンツスーツ姿の女を確認した。髪型は何年来も頑固に変えたことのなさそうなストレートのセミロングスタイルで、凝り過ぎたアイメイクと濃い朱色のマッドな口紅が彼女の一層彼女の年齢を強調していた。上半身をブランド物の時計や、大振りのアクセサリーで飾り立てているのに対し、足元は不釣合いなほど履き古されたパンプスで、ヒールは潰れ、ところどころ革の地色が覗いているような有様だった。「あの女に間違いないな。」「ああ。」「彼女は、赤井興産の金庫番だ。けど、金の流れまで知ってる訳じゃない。男と違って変な野心を持たないから、社長が全幅の信頼を置いて任せてる。昔は社長の女だったのかもしれない。」「まさか、あのババアが?!」 「彼女はほぼ毎日、銀行に通ってる。あのバッグの中には通帳と印鑑が入っている筈だ。そして、貸し金庫の鍵も。」「銀行帰りか、銀行に行く前か、どちらでもいい。とにかく、あのバッグを持っているときにホテルでもどこでもいい、シケ込んで欲しいんだ。」「真昼間か...。」「彼女のカバンから貸し金庫の鍵と印鑑を盗み出して欲しい。30分、30分あれば偽造できる。人をやるから渡してほしい。」「偽造?」「ああ、ニセの印鑑と合鍵を作る。出来たら現物は返す。」「やれるか?」それくらいお手のもの、とばかりに透は修二の方を向くと、頷いた。「念のため、薬用意して。すぐに眠れて、すぐに目が覚めるヤツ。」 続く
Oct 11, 2007

Chapter 1-1「小僧、起きな―」ゴミ収集業者の車の操業音が遠くから近づいてくる二丁目の歓楽街、ゴミ袋に埋もれて気を失っている若い男に、5つばかり年かさにみえるもう一人の若い男が声をかけた。あちこちで電線のカラスが呼応しあい、高く上った陽がビルの谷間にやや短目の影をつくっている。座り込んでいる男は20代半ばかそれより若いくらいで、目の横や口許にあざをつくり、髪はくしゃくしゃに乱れていた。シャツのカフスピンは外れ、胸元のボタンもかろうじて二つ三つが留められているだけで、少し離れた路上に、ポケットチーフのはみ出たスーツの上着が放られていた。「おい、立てるか?」うっすらと目を開けたのを認めると、言葉を続けた。「お前、何、やったんだ。」徐々に意識を取り戻し、状況を把握した若い方の男は、自嘲気味にふっと軽くせせら笑うと、差し出された手に掴まった。「オンナのことで揉めて、袋叩きだ。」汚れて皺くちゃにはなっているものの、一見地味そうな黒スーツは、ところどころ光の当たり具合によってラメが輝き、シャツの襟の形は微妙に凝られていた。襟元や袖口にちゃらちゃらとアクセサリーが見え隠れし、きれいに手入れがなされた指にシルバーの指輪を嵌めたその姿は、生業を想像させるには十分だった。「ついでに、オンナのところを追い出された。」なんとか立ち上がった男は、前かがみになって軽くズボンをはたくと、顔だけ男の方に向けながら視線を下から上へ流すようにして、もう一方の男の瞳を捕らえた。一階が店舗になっている雑居ビルの階上の、事務所か住居か判らない様な部屋が、声をかけた男のねぐらだった。若い方の男は、シャワーを借り、傷の手当てを済ませた。柄物のシルク地っぽいバスローブや下着も借りて、こざっぱりした姿になると、部屋の主が声をかけた。「腹、減ってないか?」二人は、階下の喫茶店に注文して持ってこさせた軽食を平らげた。部屋の主は、自分が吸うついでに傍らの男にも煙草を勧めた。自分の煙草に火をつけると、直接、煙草の先同士を近づけた。 「いいか...?」向かい合わせに顔を近づけながら、部屋の主は尋ねた。『やっぱり、そんなことか』代償を求められたことに、若い男は却って安堵した。返事をする代わりに、若い男は二、三度煙草をふかすと灰皿に押し付け、ゆっくりと軽く目を閉じた。唇に唇が触れた。若い男が下になってゆっくりとソファーに横たわると、重なった男の唇が首筋を辿った。腕が上の男の背に回され、その白くしなやかな指がシャツをたくし上げていくと、下から、谷川を流れてくる男に、今まさに手を差しのべ、救おうとしている白衣観音の彫り物が現れた。若い男が目覚めたとき、日はすっかり落ち、エスニックな柄の薄いカーテンを通して、点滅するネオンが部屋のオレンジ色の壁にその青や赤の光を映していた。傍らにもう一人の男はおらず、間仕切りの向こうの二畳ばかりの簡易なキッチンで何かを作っている様子が伺えた。暫くすると、いい匂いをさせて、部屋の主はソファーの前の小さなテーブルに切り落とした生ハムとチーズを何切れか載せた皿と、ソテーしたチョリソが盛られた皿を持ってきた。「イケル口か?」赤ワインを出してくると、若い男の前にグラスを置いて、なみなみと注いだ。「お前、なんていうんだ?」「透。」「俺は修二だ。」「ねえ、しばらくここに居てもいいかな...?」「―ああ。」透は修二に拾われた。 続く
Oct 10, 2007
高杉瑞穂氏のファーストDVD 「Montage」、発売!「Montage」、発売記念イベントの時、高杉氏かポニー・キャニオンの藤田プロデューサーが、「ストーリー作ったの読み隊」なんておっしゃったとかどうとか...。(済みません、伝聞です。事実を大きく歪曲してるかも...。)で、調子に乗って書いてみました。「Montage of Invention」DVDのシーンをお題に出された、順番入れ替えありの「あいうえお作文」みたいな感じです。わたくしなりに、コラージュしたというか切り貼りして補充?「Montage」のDVD、ご覧になってるのを前提に書いてますので、DVDとかぶるシーンはそっけないほど描写不足というか、さらっと流しています(だって、わたくしの場合、どんなに書いても映像にはかなわないし、くどくなるだけ...。)。「あー、あのシーンね」、って、思い浮かべて、脳内補完しながら、お読み下されば幸いです。
Oct 9, 2007

―その3―病院の一室で、草太に見守られて沙織は目を覚ました。「あなた...。」ぼんやりと目を開いた沙織の手を草太がしっかりと握っている。「赤ちゃん、無事だったよ。」「あなた...?」「類子さんのお陰だ。あの時類子さんがいてくれなかったら...。」「あなた、赤ちゃんのこと...!」「聞いたよ。お喜久さんからも、先生からも。」「君と僕の子だ。」「えっ?」「あの日、ホテルで君を抱いたのは沢木さんじゃない。僕なんだ。」「...?!」何が何だか解らず混乱した様子の沙織をベッドに寝かせたまま、草太は上体を屈め、肩を抱いた。「確かに最初、あの部屋を訪れたのは沢木さんだ。けど、電話の後、部屋に戻ったのは沢木さんじゃない。暗闇の中、君を抱いたのは僕なんだ。」あまりの驚きに沙織は声も出なかった。「あの人がどんなつもりでそんなお膳立てをしようとしたのか...。仲直りのチャンスをくれたのかもしれないし、反対に君を陥れることになったかもしれない。結果次第では僕たちの間は破綻してたかもしれないが...。でも、そんなことはどうでもいい。とにかく赤ちゃんを授かったんだ。やり直そう。」沙織の涙が頬を伝った。「あなた...。」草太の肩に両腕を回すと、幸せをかみ締めるように呟いた。が、次の瞬間、沙織は草太を強引に押し戻した。驚く草太に、沙織は慙愧に堪えない面持ちで訴えた。「私...、類子さんに酷いことをしてしまった...。取り返しのつかない酷いことを...!」草太は真っ直ぐ槐のオフィスの社長室に向かった。「沢木さん...!」訪問を告げる内線電話を手にしたまま振り返る槐を前にして、部屋に入るや否やいきなり草太は土下座した。「槐さん、許してください...!!」一体何のことなのか見当もつかないまま、驚きの表情を隠せないでいる槐に向かって、草太は床に頭をすりつけたまま言葉を続けた。「あの茶会の数日後、類子さんの身に起こった出来事は沙織の差し金だったんです...!」草太の言葉が、声も出ない程の衝撃で、槐の脳天を打ちつけた。「許してください、槐さん...!何度手をついても足蹴にされても、償えないのはわかっています!けど、沙織にそんな卑劣な真似を...、汚い真似をさせたのは僕です!僕が彼女をあそこまで追い詰めたんです...!!」床についた草太の両手が握られ、ワナワナと震える。「...どうか沙織を許してやって下さい。沙織が僕と類子さんの過去を知ってしまった時、僕は彼女の苦しみに少しも気付いてやれなかった...!そればかりか、更に関係を重ねようと...。」草太は一度槐を見上げると、再び床にこすらんばかりに頭を降ろした。「事の発端は僕なんです!僕が類子さんを誘ったばっかりに、沙織にあるぬ誤解をさせてしまった...!僕の責任です。僕を気の済むまで殴ってください...!!」「草太!おまえ...!!」槐は左手で草太の襟元を掴んで上体を起き上がらせると、頬を向けた草太の顔面に向かって拳を振り上げた。が、寸でのところでとどめると、掴んでいた襟元を離し、草太を床へのめらせた。「出て行ってくれ...。頼む!出てってくれ...!!」草太から顔を背けると肩で喘ぎながら槐は叫んだ。かろうじてデスクの前まで歩むと、崩れるように椅子に腰掛けた。どさっと音をさせて頭から背もたれに寄りかかると、片手で顔を覆った。類子の身に起こった不幸が、自らの事業の失敗に端を発していると思うと、居た堪れなかった。自分の見通しの甘さ、ふがいなさが類子を辛い目にあわせたと思いが槐を苦しめた。「類子、許してくれ―。」槐は天を仰いだまま、目頭を押さえた。「済まない、俺のせいだ。」リビングの入り口に立ったまま、百香と遊んでいる類子の姿をじっと見つめながら、呟くように槐は言った。「何?どうしたの、やぶからぼうに」いつもより早くマンションに戻った槐に、類子は驚きながらも、笑顔で答えた。「ああ、きょうは夜から木工理建設の会長さんの喜寿祝いのパーティーだったわね。ごめんなさい、すぐ支度するわ。」優しく一言二言百香に言い聞かせると、類子はそそくさと準備に向かった。その場に立ち尽くしたまま、槐はぐっと目を閉じ、拳を握りしめた。―済まない、類子!心の中で槐は詫びた。タキシードに着替え、百香の相手をしてやっていた槐に、類子の準備を手伝っていたレイが声をかけた。「類子さんの支度ができたわよ。」顔を上げた槐の前にドレスアップした類子が立っていた。ベルベット地にモール刺繍やビーズのフリンジがあしらわれたソワレは、腰の部分からサテン地に切り替えられ、身体のラインに沿って流れて、類子の美しさを際立たせている。「さ、行ってらっしゃい。槐ったらあまりの美しさに声も出ないようね。」レイに茶化されても返す言葉がないくらい、槐は類子の美しさに今更ながらに呆然と見とれていた。会場に着くと、二人の姿は人々の視線を集めずにはいられなかった。美しい妻と、杖をつく美しい夫。槐は、会の主役と主催者に簡単な挨拶を済ますと、人々のさざめきから離れ、ひと気のないテラスに一人居た。この季節、わざわざこちらまで出向いてくる客はまずいなかった。時折、マイクを通したスピーチの声や、拍手の音が響いてくる。見上げると、街の明かりに照らされ決して暗くはならない都会の空にも、いくつかの冬の星座をかろうじて認めることができた。眺める槐の胸に、初めてゲストとして訪れた数年前の不破山荘でのパーティーが思い出される。 室内ではワルツの演奏が始まったようだった。一通り挨拶を終えた類子がシャンパンのグラスを二つ持って、テラスの方に向かってきた。類子の大きく開けられたデコルテは、クリスタルのシャンデリアのキラキラとした光に栄え、一層輝きを増している。類子がグラスを差し出した。「疲れた?」「いや。」二人は手摺りに寄りかかって並ぶと、シャンパンを口にした。会場内に目を移すと、招待客が思い思いに踊っている。泡が立ち上っては消えてゆく琥珀色のシャンパングラスの先に、人々の姿を漠然と追いながら槐は呟いた。「踊ろうか?」「え?」槐は類子と自分のグラスを側の小さなテーブルに置くと、テラスの手摺りに腰をもたれかけさせたまま、右手を類子の前に差し出した。類子は少し驚いたように槐を見上げたが、左手を差し出すと、その上に軽く重ねた。反対側の手を組み、類子を引き寄せると、槐は右手を類子の背に回して、曲に合わせて小幅にステップを踏んだ。「槐...。」一緒になってから、ダンスをしたのはこれが初めてだった。類子の結い上げられた髪からふわっとこぼれる後れ毛が槐の鼻先をかすめる。類子は槐にそっと身体を預けた。互いの息遣いが、胸の鼓動が、直に伝わるほど寄り添うと、目を伏せて音楽に身体を乗せた。類子もまた、山荘での一夜を思い出さずにはいられなかった。槐の肩に頬を寄せながら、一度は振り払った幸せに今は身を委ねている喜びをかみ締めずにはいられなかった。曲が終わると、類子は任せていた上体を起こした。組んでいた手をほどきかけると、槐がその手をとった。そして、手のひらに自分の唇を寄せ、押し当てた。槐のいとおしむかのような熱い口付けが、類子の身体の芯を奥底から疼かせる。「...あっ...」と思わず声を洩らしそうになって、類子は必死で耐えた。槐はそのまま、しばらく目を閉じて、唇を当て続けた。口許から離しても、その手をほどこうとはせず、じっと眺め、そして囁いた。「―傷は、もう...?」槐の視線が類子の手のひらから瞳に移された。類子は槐を見つめると、ゆっくりと口許をほころばせた。「―ええ、もう平気よ。どこにも傷なんて残ってやしないわ。」槐は類子の顔を凝視しながら、頬や額にかかる後れ毛を両手でそっと撫で上げた。「きれいだ。―きれいだ類子。ここに居る誰よりも。いや、世界中で一番...。」「何を言ってるの。」類子は少しはにかんだ様子で、目を細めた。「山荘に行かないか?」「えっ、パーティーは?」「たまにはすっぽかすのもいいさ。」「槐。」槐はいたずらっぽく目配せして類子を見下ろすと、その手をとった。 終わり
Mar 26, 2007

―その2―「お珍しい。あなたがお越し下さるとは...。用がありましたら、私の方から参りましたのに。」すっかり柳原開発の重役の顔が板についてきた草太は、オフィスの応接室の一つで槐を迎えた。「個人的な用件で申し訳ないんだが」促されて革張りのソファーに腰掛けると、槐は包みをテーブルの上に出した。「君の奥さんからことづかったよ。類子に渡してくれと。」「何なんです?」「忘れ物だそうだ。」包みを開けた草太もまた、一瞬動き止め、目を見張った。「が、類子はそんな忘れ物をした憶えはないと言う。」言葉を返せないでいる草太を、槐はじっと見守った。 「奥さんは、君と類子の仲を疑っている―。」「沢木さん...!」「説明してくれないか。どういうことなんだ?」槐は責めるのではなく、諭すように弁明を求めると、草太の言葉を待った。草太は槐を背にして窓際に立つと、外に向かって頭を下げた。「...、許してください。槐さん...。」真一文字に結ばれた草太の口から最初に漏れたのは謝罪の言葉だった。「あの日、柳原開発の茶会の日...、僕は類子さんに関係を迫りました。」槐は驚いたように顔を上げ、草太の背中を注視した。「でも、でも、それだけなんです。僕は...、あの人を抱けなかった...!」草太は肩を震わせ窓枠に手をついてうな垂れた。「僕はまりも興産の件であなたが資金繰りに困っていることを知っていた...。それで、銀行融資の保証人になることか柳原開発からの直接融資を引き換えに、類子さんに...!」槐の心臓が早鐘のように鳴った。「追い詰められた類子さんは決心して一旦は御自分で帯を解かれました。でも、僕は抱けなかった。あの人との思い出を自分で踏みにじるような卑劣な真似をしていることに気付いたんです...!」槐はぐっと震える拳を握り締めた。「わかった、草太...。」苦渋の表情でそれだけ言うと、納得したかのようにもうそれ以上類子のことで草太を問い詰めようとはしなかった。シンとした部屋に、時折草太の眼下を走行する車の音だけが響く。槐は足袋の包みに目をやりながら、もう類子のことには触れずに草太夫婦の問題に話を移した。「君たち夫婦の間がどうだろうと、知ったことではないが...。だが、こちらまで火の粉をかぶるのはごめんだ。」 「奥さんはかなり参っておられるようだが...。」「...。」「奥さんとの仲は続けたいと思っているんだろう?」「それは...、勿論です。別れるつもりはありません。けど...。」「仲直りしてもらわないと、俺も困る―。」その夜遅く、槐は沙織の待つホテルの部屋を訪れた。「待っていてくれたんですね。」「きっと来てくださると信じてましたわ。」ソファーに腰掛けると槐は沙織の手を取った。「辛い日々をお送りなんですね。」「沢木さんにお話をきいてもらってどれ程楽になったか...。」「沙織さん...。」沙織は目を閉じると、やや顎を突き出すようにして槐の方を向いた。手を握り合ったまま、槐は沙織の気持ちに呼応するかのように、そっと唇を重ねた。「私を...ふしだらな女とお思いにならないで下さいましね。忘れたいんです。辛いこと、何もかも...。」一度唇を離して、沙織は潤ませた目で槐を見つめて呟くと、その胸に体を預けた。槐は沙織の肩を抱くと、ベッドにいざない、優しく横たわらせた。見つめあい、優しくキスを交わす。「沢木さん...。」沙織の胸のボタンを一つずつ外しながらキスを繰り返す槐の背に沙織の腕が絡みついた。目を閉じて、沙織がささやく。「お願い、忘れさせて...。」槐の手が沙織の足を伝い、スカートのファスナーを下ろしにかかったとき―、テーブルの上に置かれていた槐の携帯電話のバイブレーターが着信を告げた。「失礼。」槐は電話をとると、カードキーをドア横のキーボックスから抜き取って、廊下に出た。暗闇の中に沙織は放置される格好となった。「済みません―。」大して時間を置かずにドアが開いて槐の声がした。カードキーをボックスに差し込まず、そのまま沙織の許まで来ると、真っ暗な中で沙織を掻き抱いた。草太と沙織の仲は相変わらずのまま、数週間が過ぎようとしていた。沙織は憔悴しきったような表情で日々を送っていたが、あの日以来、槐を呼び出すこともなかった。「若旦那さま...。」沙織を小さい頃から母親代わりのように慈しみ手塩にかけて育ててきたばあやのお喜久が、見るに見かねた表情で草太に声をかけた。「こんなことを私が申し上げるのは僭越かと存じますが...。」「お喜久さん。」「お嬢様は...若奥様は、若旦那様だけを愛していらっしゃいます。沙織様には若旦那様だけしかいらっしゃらないんです。」「わかってるよ、お喜久さん。」「どうか、沙織さまに優しくなさってあげて下さいませ。」草太はお喜久に軽く微笑みながら頷いた。いつもとは何か違うお喜久の執拗さを感じながらも行こうとする草太のスーツの袖を、お喜久の細い指が掴んだ。「お待ちください...!お嬢様の...月のものが、遅れています...。」「えっ...?」同じ頃、類子は沙織から、槐と密会したホテルの庭園に呼び出されていた。「沙織さん、どうなさったの。急にこんなところへ...。」「類子さん...。」どんよりとした寒空の下、沙織は類子を伴って少し庭園を歩いた。「私、赤ちゃんができましたの。」「まあ、それは...。」おめでとうと言いかけた類子の言葉を遮った。「沢木さんの子です。」「えっ?」二人は足を止めて対峙した。「沢木の...?」「そう、この子の父親は沢木さんです。私、二ヶ月前、ここのホテルの一室で沢木さんに抱かれましたの。間違いなく沢木さんの子です。」「ご主人は...。」「あの人とはそういう関係にありませんでしたもの。少なくともあのお茶会の日以降は。」「沙織さん...!」沙織から呼び出しの連絡があったとき、類子はそのことに触れられずいることは出来ないであろうと予感していた。槐が足袋を忘れ物だと託された日から、いつか沙織から茶会の日のことについて問い質される時がくると覚悟していた。沙織は必死の形相で類子に訴えかけた。「類子さん、私、あのお茶会の日、旅館の離れの間で何があったか知りたいんです!」「沙織さん...。」「...ごめんなさい、沙織さん。」類子は少しの間言いよどんでいたが、心を決めると何もかも正直に包み隠さず沙織に告げた。「私、沢木の会社のことしか考えていなかったわ。一番傷ついたのはあなただったのに。」「ご主人との関係は、わざわざ自分から言い出すことでもないから黙っていたけれど...。本当にあなた方には幸せになって欲しかったの。」「沙織さん...?」沙織は無言のまま、辛うじて立っている風だったが、二、三度前後に上体を揺らすと、そのまま芝生に倒れこんだ。「沙織さん?沙織さん!沙織さん!」真っ青な顔をして目を閉じ、類子の呼びかけにも応じない。沙織の白いコートの下の方にじんわりと赤い染みが広がって行く。「沙織さん!しっかりして!沙織さん!!」 ~後編~その3 へ続く
Mar 19, 2007

ーその1― ―それにしてもあの男たちは、だれ...?目的は、何...?恨み?不破じゃあるまいし、槐は誰かに恨まれるようなことをしているの...?翌日、東京のマンションに戻った類子は、すっかり自分を取り戻し、気丈に振る舞っていた。が、ふとした瞬間、心の片隅に追いやった筈の小さな胸の疼きが、類子の手を止めさせ、思いを巡らせる。―目的は、何だ...?書類を目にしていても字面だけを追っていることに気付いた槐は、諦めて書類を投げ出すと、デスクに肘をつき目の下で指を組んで考えを巡らせた。類子をマンションに送り届け、百香の安全を確認すると、その足でオフィスに向かい、会社にも何も起こってないことを確認した。―俺をおびき出すのが目的かとも思ったが...。類子に暴行を加えることだけが目的なら、ご丁寧に場所を知らせてきたりはしないだろう。まるで、見つけてくれと言わんばかりに...。俺に発見させるためか?類子の姿を見せつけるのが目的なのか...?「ちょっと出てくる。」自ら法務局へ向かい、事件のあったビルの土地と建物の登記簿謄本の写しを請求した。しばらくして窓口で渡された書類を目にして槐は驚いた。所有者の欄には柳原開発の子会社の名が記載されていた。―まさか、草太...?!「こちらですわ。およびだてして申し訳ありません。」そんな折も折、槐の許に、沙織から会いたいとの申し入れがあった。時間通りに行くと、ホテルのラウンジの奥まった席で、すでに沙織が待っていた。「突然のことで驚かれたでしょう。」「いえ、ご無沙汰しています。先だっては妻をご招待下さってありがとうございました。皆様、お元気そうで何よりです。」挨拶を済ませると、槐は沙織の向かいの席に腰掛けた。「それで、きょうは何か...?」「沢木さん...。」沙織は思いつめたような面持ちで、一度は槐を見つめたが、何も言い出せないまま、目を逸らした。うつむき加減で、外の景色に目をやりながら、「突然こんな話をするのは何なんですけど...。」言い難そうに口を開いた。「沢木さん...、ご存知でした...?奥様とうちの主人とのこと...。」「えっ...?」沙織は槐の方に向き直ると、訴えかけるような目で槐を見上げ、そして、意を決したかのように口を開いた。「奥様とうちの主人が今も深い関係にあるということを...!」「今も...、ですか?」「わたくし、知ってしまいましたの...。主人が、不破さんの生きてらっしゃるときから奥様とそういう関係にあったということを...。」沙織はハンカチを握り締めると更に続けた。「知ってしまったときはショックでしたわ。でも、結婚してからは会ってはいないと信じてたんです。類子さんも沢木さんとご結婚されてとてもお幸せそうでしたし...。」沙織は目からポロポロと大粒の涙を流すと、濡れたまなざしを槐に向け、唇を結んで震わせた。「柳原さん、ちょっと外へ出ませんか。」槐は目立たないよう庭に誘うと、ハンカチを口に当て嗚咽のとまらない沙織をかばうようにして歩調を合わせた。ひと気のない木立の陰で立ち止まると、「沢木さん...、私どうしたら...!」沙織は堰を切ったかのように、槐の胸に突っ伏し、泣きじゃくった。掛ける言葉が見つからず当惑気味に立ち尽くしている槐のことはお構いなしに、沙織は槐の胸に顔をうずめ、嗚咽を漏らし続ける。しばらくして沙織が落ち着きを取り戻すと、槐は近くのベンチに沙織を座らせた。「あの、お茶会の日...、主人と奥様は離れの一室で会ってたんです。」「しかし、それだけでは...。」「いだきあっているのを見たものがおりますわ。」「...。」「もう、私どうしたらいいのかわからなくて...。主人のことは信じたい。信じたいんです。でも...。」再び沙織は肩を震わせ、しばらくの間うつむいていた。涙で濡れた顔を上げると、沙織はぎゅっと下唇をかみ締め、上目遣いに槐を見つめた。「どうかしてるってお思いかもしれませんが、沢木さんの他に相談できる人がいなくって...。」潤んだ瞳が槐を捉える。「これからも相談に乗っていただけますか...?」「...私でお役に立てるなら。」槐の手が沙織の手をそっと包んだ。別れ際、沙織は思い出したかのように、包みを取り出した。「これ、奥様の忘れ物です。」「何なんです?」「足袋です。お渡し下さいますでしょうか。」「足袋...ですか...?」「また、お会い下さいますわね...。」夕食後、ダイニングの片付けを終えた類子の傍らで、槐はコーヒーを飲みながら話しかけた。「きょう、柳原の若奥様に会ったよ」「沙織さんに?」「茶会の時の忘れ物、渡してくれるよう頼まれた。」「―忘れ物?」類子が包みを広げると、出てきたのは真新しい足袋だった。「私、足袋なんて忘れないわ。それにこの前は野点だったし、履き替えることも...、!!」類子の、はっと何かに気付いたかのようなかすかな動揺を、槐は見逃さなかった。「この前の茶会、草太に会ったのか?」「この前...?この前は女性ばかりの集まりだったから。...でも、会ったわ。」「類子、思い出したくない話かもしれないが...。あの、例の廃業したホテルは柳原開発のグループ会社の所有物件だったよ。」「柳原開発...?まさか草太が...?草太があの一件に関わっているとでも...?」「何か心当たりでもあるのか?」「い、いえ...。」「こんな新品、忘れ物だなんて、柳原さんも何か勘違いされたんだろう。俺から返しておくよ。」槐は類子の手から足袋を受け取ると包みに戻した。―どうしたものか...。自室に戻りデスクの前に座ると、槐はいつものようにパソコンを起動させた。が、少しばかりキーボードをたたいたかと思うと、画面の先に視線を移して、漠とした面持ちで思案した。その数日後、同じホテルの庭園で、再び沙織と槐は会っていた。「試したんですか?私たちを...。」槐は厳しい眼差しを沙織に向けた。「類子は足袋なんか忘れていないと言っている。それにあの足袋はまだ新品だった。」「ごめんなさい、沢木さん。私、どうしてもあの二人が潔白だという証が欲しかったんです。それで、類子さんが弁明してくれたら、と思って...。」「弁明?足袋でですか?」「だれかが抱き合ってるのを見た、というのは嘘なんです。」沙織は槐から顔を背け、肩を震わせた。「私...、類子さんが部屋で着物を着直しているところを...、主人に足袋を履かせてもらっているのを見たんです...!」「あなたが?」「類子さんは何もおっしゃらなかったんですね?どうしてそんなことになっていたのか何も、何も...。」沙織はこうべを垂れ、槐に寄りかかってきた。「ああ、私、気が狂いそうなくらい、毎日辛くて辛くて...。」槐は暫くの間、優しく沙織の肩を抱いて撫でさすってやっていた。やがて、沙織は目に一杯涙を溜めて槐を見上げると、怯えるような表情で訴えた。「沢木さん、私を助けて...。」「柳原さん...。」「沙織って、呼んで下さい。今の私には頼れるのはあなただけ...。」槐は少し驚いた風だったが、沙織の目を見つめて言った。「沙織さん...、ホテルに部屋を取ってあります。今夜あなたさえよければ、もっと詳しくお話をお伺いしますが...。」「沢木さん...。」「待っていてくれますか?」手に部屋のカードキーを握らすと、沙織の口元が少し緩んだ。「腹いせに俺を落とそうというのか...?」一旦、沙織と別れると槐は草太のオフィスに向かった。 ~後編~その2 へ続く
Mar 9, 2007

誰もいない山荘に着くと、槐は灯りを点しながら抱えるようにして類子を二階に連れて行き、上着でくるんだままの類子をベッドの端に腰掛けさせると、部屋続きの浴室のバスタブにお湯を張った。「温まるんだ。」バスローブを用意して類子の側らに置くと、部屋を出た。槐の階下に降りていく足音だけが屋敷に響く。 脱力状態のまま動く気にもなれずしばらくぼうっとそのままでいた類子だったが、槐の上着をはずすと、のっそりと立ち上がり、浴室へ向かおうとした。服を脱ごうとして初めて、類子は自分の姿が目に入った。見上げると髪を乱し、化粧の剥げた自分の顔が窓に写りこむ。急に怒りと惨めさがこみあげてきて、身体をわななかせながら、破れたストッキングを、汚れたスカートを、ボタンのとれたブラウスを、キャミソールを、下着を、荒々しく脱ぎ捨てると、ゴミ箱に投げ入れ、押し込んだ。バスタブに浸かると、身体のあちこちがちりちりと痛む。今まで気付かなかったが、手足のあちこちや顔に、擦過傷や、青い打撲痕ができている。ところどころ関節が痛む。身体の内部にも心にも疼痛を感じずにはいられなかった。「生娘じゃあるまいし、あんなことぐらい...」そう思おうとした。「あんなことぐらい、平気だわ」「...でも、槐には見られたくなかった...」両手で顔を覆うと、さらに深くバスタブのなかに身を沈めた。じっと浸かっていると、先刻、自分の身に突然起きたあの忌まわしい出来事が甦ってくる。いくら振り払おうとしても振り払いきれない記憶。身体のあちこちに残る男たちの感触。洗っても洗ってもそれらの足跡を拭い去ることができなかった。類子はシャワーの下に立つと、バルブを全開して、針のようなしぶきを全身に浴び続けた。槐の用意してくれたバスローブをまとって浴室から出ると、槐が部屋に戻っていた。「飲むといい。」類子をベッドの隣の椅子に座らせると、両手で包み込むように、温めたワインのグラスを握らせた。「何か食べないと...、と言っても、ワインとクラッカーぐらいしかなかったが。」そう言いながら自分のグラスにもワインを注ぎ、ベッドの端に腰掛けた。類子が思いつめたように、ゆっくりと重い口を開く。「槐...、私ね、私きょう...、」「話さなくていい。」「男が二人...、」「言わなくていい...!」グラスを持ったまま、槐は類子に背を向けた。明々と灯されたシャンデリアの光と、山荘を覆う静寂さとが二人を包む。類子の掌のなかで、口をつけられないままワインが冷めてゆく。じっとグラスに注がれていた瞳から、涙が滲みでた。「くやしい...。」「くやしい、くやしい...!」つぶやきが怒りに変じて、類子の身体を突き上げる。グラスを投げつけると、そばにあった枕の縫い目を引き裂いた。中身の羽毛が一面に舞い上がる。さらに枕をベッドにたたきつけると大声で泣きながら突っ伏した。「許さない!あんな奴ら...!」「くやしいぃー!わあぁぁ...!」全身を波打たせ、類子の口からとめどなく激しい嗚咽がもらされる。槐は終始無言のままだった。「忘れろ」ともいわなければ、「大丈夫だ」とも言わなかった。責める言葉もなければ、いたわりやなぐさめの言葉もなかった。類子の肩に手をやるでもなく、抱き起こすでもなく、しばらく類子を見下ろしていた。 が、やがて衝動に突き動かされたかのように、グラスを置くと類子を引き寄せ、嗚咽のとまらない類子の口を自分の口で無理やり塞いだ。両手で類子の頬を挟み、強引に唇を貪る。嗚咽と口づけの激しさに息もできないでいる類子のことはお構いなしに、荒々しく舌をねじ込ませ、類子の舌に絡みつかせた。類子の後頭部は槐の左手で捕らえられ、類子があらがえば諍うほど、半乾きの髪が槐の長く美しい指にからみつく。 唇を離すことを許さないまま、槐は右手を類子の背に沿って滑り降ろした。バスローブの裾をたくし上げ、きょう類子が恥辱を受けたばかりの場所へ、後ろから指を這わせ、侵入させようとする。「いや...、槐、やめて...!」口を塞がれたまま類子は叫ぶ。が、更に強く吸い上げられ、声にはならない。「お願い、やめて!」そう叫びたかったが、槐の唇が許さない。顔を背け、こぶしを振り上げもがこうとしたが、槐は全身で抱え込んで、抵抗を許さなかった。 そのままベッドに倒れこみ、槐は類子の足を抱えると容赦なく一気に正面から押し入った。烈しく、何度も類子をさし貫く。類子には槐の気持ちが測りかねた。―優しくされれば却って辛かったかもしれない。でも、できればそっとしておいて欲しかった。せめて傷が癒えるまで一人にしておいて欲しかった―。 いつもなら求めてやまない槐の口づけも、身をとろけさせる様な愛撫も、今の類子には不快なものでしかなかった。あのような現場を目の当たりにした後でなお、自分を抱くという槐の仕打ちに、軽い嗜虐性のようなものすら感じられる。言葉では何も表現されない分、類子には身体で責められているようにも受け取られた。が、反面、汚されてしまった身体をこうして求めてくれることに、愛されている悦びが感じられないわけではない。 男の性への憎悪と嫌悪、屈辱と悔しさ、槐に対する申し訳なさと心の片隅に存在する嬉しさ...。様々な思いが複雑に交錯し、ないまぜになって混乱した類子の頭は、思考を停止し、そのうち、槐に抗うことを諦め、流されるまま槐を受け容れるようになっていった。やがて、類子の身体は槐の動きに応え、四肢を槐の身体にしがみつかせる。徐々にあえぎ声を高まらせ、身体の奥底から突き上げてくるものを表出するかのように、咽から間断なく細い叫び声を発し、上気させた顔に恍惚の表情を浮かび上がらせていった。「雨...?」夢うつつのなかで類子は雨の音をきいたような気がした。...が、それは隣室で槐が使っているシャワーの音だった。うとうとと眠ってしまっていたが、さっきから、まだ何十分も経っていない。類子はバスローブの前を合わすこともなく、ベッドに仰臥したまま、けだるそうに首だけ傾け、槐のシルエットを目で追った。部屋の照明は少し落とされ、浴室が明かりで煌々と照らされている。ぼんやりとした記憶のなかで、つい先刻行われた槐との営みが思い出される。 登りつめて果てた後、槐は、類子の手の平に擦り傷を認めると、この上なく優しく口づけた。手の甲にも、肘にも...、傷跡を認めるとひとつひとつ優しく丁寧に口づけてゆく。身体を起こして脛にも膝にも足の甲にもゆっくりと口づけると、最後に類子の頬の傷跡に口づけた。「槐...。」今さっきまでいた槐のぬくもりを求めて、類子はシーツに唇を寄せる。 バスローブを羽織って、槐が出てきた。飲みかけのワインを一口飲むと、類子が目を覚ましているのに気が付いた。「なんだ、起きてたのか。飲まないか?」類子は微かに笑みを浮かべて軽く頭を振った。槐は寛いだ姿で、ゆっくりとワインを空けた。 「来いよ。」槐は類子にドレッサーの前に来るよう促した。椅子に座らすと、後ろからそっと類子を抱きしめる。「見ろよ、きれいだ...」鏡に類子の姿を映して肩越しにささやく。「この瞳も...」「この唇も...、髪も、胸も...」槐の言葉が、ひとつひとつ類子の身体に烙印をおしてゆく。「この手も、この腕も...」頬を寄せたまま、両手で類子の肩を抱いて静かに立たせる。バスローブの前がはだけ、類子の身体のずっと下の方まで鏡の中に映りこんだ。「きれいだ、類子...。」後ろから、唇や顎先で類子の髪を掻き分け、かすかに触れるか触れないかの口づけを繰り返しながら耳元でそっと囁く。槐は類子の前で腕を交差させると、包み込むようにやわらかく抱きしめた。そのまま、類子のバスローブを肩から落とし、ゆっくりと類子の腕に沿って手を滑らせる。手首を掴むと鏡の前に手をつかせ、上体を少しのめらせた。「類子...、きれいだ、類子...。」類子の肩越しに、鏡に映る類子の表情を、身体を、愉しみながら、耳から首筋、肩にかけて唇を這わし、何度も何度も口づけた。その度、類子の身体を戦慄が駆け抜ける...。一度登りつめてまだそれほど経っていない類子の身体が、再び槐を受け容れるのはそう難しいことではなかった。槐は掴んだままの類子の両手首を後ろに引き寄せ、何歩か後ずさりすると、そのままベッドへ倒れこんだ。 後編へ続く
Mar 2, 2007
あの茶会から数日後の夜、柳原開発の若夫婦宅の食卓には、妻の沙織によっていくつかの品が並べられていた。「さ、あなたどうぞ、召し上がれ。」「へぇ、全部君が作ったの?美味しそうだな。」夫の草太は、妻を見上げると軽くニコッと笑って早速、揚げ出し豆腐の器を手にした。一口口に運んだが、「なんだこれ...。」思わず吐き出し、咳き込んだ。揚げ出し豆腐と思ったのは台所用スポンジに衣をつけて揚げたものだった。「あら、お口に合わなかったかしら。」沙織は相変わらず微笑んで返す。「じゃ、こちらはいかが?」差し出されたのはよく見るとゴマ豆腐に良く似た石鹸だった。見れば栗御飯の栗にみえたのは割られた黄色い消しゴムで、他の小鉢や汁椀にも怪しげなものが盛られている。「一体...。」信じられないという顔つきで沙織を見る草太を前に、ばあやのお喜久が進み出て、沙織に告げた。「若奥様、クリーニング屋が先日出したものを持ってまいりました。仕舞っておいてよろしゅうございますか。」和服の半襟と、その上に足袋を重ねたものが、二人の間に差し出された。足袋...!草太の目に足袋が飛び込んできた。「そうね、お願いするわ。」夫の様子を気にするでもなく、子どもの頃から慣れ親しんでいるばあやに、沙織は何事もないようにサラリと指示する。まさか、沙織...。呆然と立ちすくむ草太に、沙織の視線が無言のままじっとりと絡みつく。「沙織...、」ようやく咽の奥から声を振り絞るが、沙織は答えない。誤解だ、と言おうとしたが、何を見たのか、何を知ってるのか...。草太の頭の中を色々な思いと出来事が混乱して錯綜する。やましいことが全くないわけではなかった。この前の茶会の日、類子との間に何があったのか説明する方がよいのか否か、逡巡している間に沙織は料理を片付け始めた。結局、何も言えないまま、草太は料理のことを怒るのも忘れて、沙織の後姿に目をやることしか出来なかった。 柳原家で、そんなことがあった数日後、会社で仕事中の槐もとに、レイから電話が入った。「え、まだ幼稚園のお迎えに行ってない?類子はいつも通り出たんですか?」かなり前に出たはずの類子が、まだ着いてないと幼稚園から連絡があったとのことだった。「わかりました。とりあえず戻ります。」槐は後のことを指示すると、自宅マンションへ向かった。マンションへ着くと、すでに代わりの者を迎えに行かせて、百香が帰っていた。「パパ、ママどうしたの?」「槐、幼稚園の前にこれが落ちてたって...。」レイが槐に時計を差し出す。それはこの前の誕生日に槐が類子にプレゼントしたものだった。「何か事故にでも巻き込まれたんじゃないかしら...。」レイも心配そうに槐を見る。「警察に連絡した方がいいのでは...」、という話になったとき、突然、槐の携帯電話から、類子からのメールを告げる着信音が響いた。けれども、そこには槐には全く覚えのない住所が書かれていただけだった。折り返し、類子に電話をしてみるが、電源が切られていて繋がらない。「とにかく、行ってみます。」運転手に場所を告げると、槐はまるで指示されたかのようにその場に向かった。示された住所に着くとすでに夕闇が迫ろうとしていた。そこは、植栽は枯れ果て、看板も表示も取り外され、廃墟とはいわないまでも、すでに閉鎖されたホテルか何かのような建物だった。「社長、よかったらこれを...。」車を待たせて入っていこうとする槐に、運転手が懐中電灯を手渡した。エントランスは閉まっている。地下駐車場への入口だけが、まるで唯一の出入口であるかのように、青白い蛍光灯に照らされて口を開けている。槐は懐中電灯を点すと、注意深く入っていった。内部は当然薄暗く、槐の足音と杖の音だけが反響する。時折吹き込む風がペットボトルや紙くずなどを転がしてゆく。太いコンクリートの柱が連なる奥の一箇所に薄ぼんやりとオレンジ色の電燈が灯るのを認めると、とりあえずその場所をめざして足早に進んで行った。懐中電灯の光が床に転がる廃棄物やゴミなどを一つ一つ照らし出す。丁度柱の影で真っ暗になっていたところで、槐の懐中電灯の光がまだ新しい靴の片方を浮かび上がらせた。「類子?!」近くを照らすともう片方が転がっている。そして、ハンドバッグ。「類子?!類子いるのか?!」「槐...?槐なの...?」暗闇のなかで、類子の細く弱々しい、つぶやくような声がかろうじて槐の耳に届いた。思わず、声のする方に向けられた槐の懐中電灯が、類子の姿を捉えた。擦り切れたストッキング、汚れたスカート、ボタンをはずされ大きく無造作にはだけられた胸、乱れた髪...。「見ないで...。」「いや、私を、見ないで...!!」光から顔を背け、全身を硬くして拒否をする。後ろ手に縛られ、地面に横たえられた類子の姿は、その身に何が起こったかを推察させるには十分だった。槐は懐中電灯の光を類子から逸らして置くと、類子の手首の束縛を解き、周囲に散らばっていた類子のものを寄せ集めた。「類子、歩けるか?」後ろから自分の上着をかけて包み込むように類子を覆うと、そのままゆっくりと立ち上がらせた。抱きかかえるようにして外に向かって歩み始めたが、放心状態の類子を支えるのは、杖が必要な槐にとってはかなり難儀なことだった。入口の手前まで来ると、そこに類子を残し、槐だけが一人車に戻って行った。「運転手は帰した。」しばらくすると、槐自らが運転して、類子の居るところまで車を回してきた。前に回って肩を抱くようにしてそっと助手席に座らせる。上着の上からシートベルトを留めてやると、運転席の方に回り、自宅で待機しているレイに電話をかけた。「...、ええ、ちょっと気分が悪くなったみたいで。まだ辛そうなのでしばらく様子を見ます。今夜は帰れないかもしれませんが心配なさらないで...。百香のこと頼みます。」槐は自宅へは戻らず、類子を乗せて山荘へ向かった。 中編へ続く
Feb 25, 2007

「類子さん、お願いだ。会いたい―。」あの柳原開発のパーティーの後、類子の携帯に幾度となく草太からの電話がかかってきた。「柳原さん、もう電話はおよしになって。」最初はそう言って切っていた類子も、最近は草太の声を聞くことすらしない。草太の苦悩日曜だというのに邸内が慌しい。社員があたふたと出入りする。「槐、どうしたの...?」「どうやら取引先のまりも興産が週明け会社更生法の適用を申請するらしい。」「ええっ、あのまりも興産が...?それで、債権回収の目処は...。」「わからない、まだ調査中だ。」「そんな...、ここまで順調にきてたのに...。」「まりも興産の経営自体は健全な筈だ。ただ、その取引先が...。とにかく、今は明日の発表を待って...。取引銀行との協議もその後だ。」「ママ、どうしたの?」「大丈夫よ、百香、心配しないで。」自分にも言い聞かせるように告げると、類子は百香を連れて自室に戻った。会社の資金繰りをなんとかするため奔走していた槐だが、銀行から色よい返事を聞くこともなく一週間が過ぎた。「くそぅ!」受話器を置くと、苛立ちを隠せずデスクをたたく。「槐...。」「...ああ、類子、済まない。」部屋の入口で立ちすくむ類子に気が付くと槐は椅子に深く腰掛け、大きくため息をついた。「コーヒーはどう?」「ありがとう。」槐の焦燥感から事態の重大さが伝わってくる。コーヒーが口をつけられないまま冷えていく。「こんなときに...。」デスクに肘をついて額を手の平で覆う。「どうしたの?」「メインバンクの湖北銀行がMijuho銀行と経営統合することになった。Mijuho銀行から新たに出向してきた役員がこれまでより審査を厳しくする方針を打ち出したらしく、今までなら下りた融資も難しくなるかもしれない。」「そう...。」「けど、心配はいらない。なんとかする。」「...。」「ああそうだ、明日は柳原開発の奥様主催の茶会だったんじゃないのか?」「そうね、でもこんなときだから...。」「いや、行っておいで。ずっと前からのお誘いだったじゃないか。」急に欠席してあれこれ詮索されるのも気がかりで、類子は渋々茶会へ出席することにした。 翌日、後れ毛ひとつなくすっきりと髪を結い上げ、所々に刺繍の縫い取りのある綸子の訪問着を着た類子は、柳原夫人主催の茶会を訪れた。有名な旅館の庭園を貸し切っての野点の席で、沢木夫人として類子はにこやかに歓談し、役目を果たした。 一段落したころを見計らって、小春日和に誘われるように類子は一人席をはずした。招待客の談笑する声を後にして庭を散策する。秋とはいえ紅葉にはまだ早かったが、樹齢を重ねる松の大木や石灯籠、流れる小川や石橋は十分招待客の目を楽しませた。 漆喰塗りの塀に沿って大きな庭木の物陰にさしかかった時、ふいに類子の着物の袖を翻らせてさっと手首を掴み、建物の陰に引き込む者がいた。「草太!」が、声にはならなかった。抱きすくめられ、唇で唇を塞がれる。壁に身体を押し付けられ身動きできないでいる類子の裾を、草太の膝が割って入る。「...やめて!やめてって言ってるでしょ!」無理やり身体を突き放すと、肩で息をしながら類子は草太を睨んだ。「...ここに来れば会えると思った。」「何を言ってるの?!私はもう沢木の妻よ!」「...前は不破の妻だった。」「この間のパーティーであなたに会ってから、忘れられない。」「行くわ。」類子は踵を返すと元の方に歩き出した。「待ってくれ、類子さん!」一瞬の沈黙の後、「...、槐さん、今、困っているでしょ。」類子は歩みを止めた。「もし、あなたが離れの楓の間に来てくれたら、相談に乗らないでもないですよ。」呆然と立ちすくむ類子に草太は部屋の鍵を渡した。「来るのも来ないのも、あなたの自由だ―。」 庭の喧騒から離れて類子は離れの座敷にいた。「あなたが、きょう私の願いをきいてくれたなら、柳原開発が沢木コーポレーションの債務の連帯保証人になってもいい。あるいは、直接融資をしても...。」類子はぐっと唇を噛み締める。 「ご主人への操立てか、ご主人の会社の窮地を救うか―、女神の天秤にでもかけますか?」そう言うと草太は奥の間の襖を開けた。床が、皺一つなく延べられ、枕が二つ並べられている。類子は一瞬はっと目を見張って息をのんだが、顔を草太の方に向けると憎々し気に睨みつけた。が、暫くすると、決心したかのように無言で立ち上がり、「好きにするといい」とばかりに帯締めを解いた。帯揚げを落とすと緞子の帯がうねうねと類子の足元に広がる。伊達巻を、腰紐を解くと、着物を肩から落として、類子は奥の間の布団の上に仰臥した。襖を閉めて、草太は足元に立つと、長襦袢姿の類子を見下ろした。足先で、類子の裾をめくり、足を拡げる。「類子さん、全部脱いで。」怒りと恥ずかしさで類子はワナワナと身体を震わせ、思わず顔を背けた。が、やがて布団の上に起き上がると潔くすべてのものを脱ぎ捨て、草太に挑むように向き直った。草太は類子を押し倒し、深く激しく口づける。類子は黙って無表情のまま人形のように草太のされるがままになっていた。ふと、「...草太...。」類子が呟いた。「あの頃も...。」類子の頬を涙が伝う―。「...類子さん...。」類子の涙が草太の心を突いた。幸せだった、楽しかった年月が脳裏によみがえる―。草太は身体を離すと、ゆっくりと起き上がった。「ゴメン、類子さん。」そう言うと類子の身体に長襦袢をそっとかけた。 草太は襖を閉めて、次の間で類子を待った。庭の方も次第に落ち着きを取り戻し、陽が徐々に傾いていく。長襦袢姿で出てくると、類子は草太の背後で着物と帯を元通りに着付け、少し乱れた髪をなで付けた。「草太...。」草太は類子に背を向けたまま外を向いている。「安心して。きょうのことは誰にも言わない。」「...ごめんなさい。あなたの気持ちには...。」「融資と保証人の件、ご主人なら御自分でなんとかされるでしょう。それに、柳原開発の助けをかりたとなれば、傘下に下るも同じこと。あの人がそんなこと許す筈がない。」「それじゃあ...。」草太の背中にそう言いかけて、類子は自分の足を見て気が付いた。「ああ、足袋履くの忘れたわ。」「そそっかしいね、類子さんも。」軽く微笑むと、草太は奥の間から足袋を探してきて類子に手渡した。「ありがとう。」類子は受け取ると畳に膝をついたが―「先に着物を着るとね、足袋がはけない。」鼻先でくすっと自嘲した。「しようがないなぁ。」草太は類子を縁側の籐椅子に座らせると、差し出された類子の右足に足袋を履かせ、コハゼを留めた。同じように左足にも履かせ、コハゼを留めようとしたが―。「草太?」手を止めた草太に類子は声をかけた。類子の左足にポタリと草太の涙が落ちた。両方の手で抱えた左足に頬を寄せ、肩を震わす。「草太...。」上体を起こし、ぎゅっと類子を抱きしめると「愛してた。愛してたのに、どうして...。」「...どうして...。」類子の胸に崩れた。類子はじっと草太を抱きしめてやっていた。夕陽が茜色に二人を染め、座敷に長い影をつくる。「さようなら、類子さん。」「さよなら、草太。」類子が先に部屋を出た。見送る草太―。 終そんな二人を物陰から見つめる目があった―。
Feb 19, 2007

閑静な宿―川でずぶ濡れになった二人は、とりあえずそう遠くない旅館の世話になることにした。元は政治家か財界人の別荘か何かであったらしく、山を背に広大な庭のある凝った造りの建物で、廊下で他の客と往きあうこともない。有名人がお忍びで使うことも多いらしく、仲居の応対も心得たものだった。「不破の命日が夏でよかったわ。冬だったらあやうく凍えるところだった。」髪を無造作に束ね上げ、浴衣姿で類子が浴場から戻ると、先に部屋の風呂から上がって縁側の椅子にもたれ寛ぐ槐の姿があった。西の空が少しずつ染まりかけている。 「レイさんは元気?百香ちゃんは?」「レイさんは相変わらずさ。百香も幼稚園に行くようになってからすっかりオマセさんだ。」二人の様子を懐かしく思い浮かべると類子は微笑んだ。「そういえばこの前、澪さんが山荘に来たよ。」「澪さんが?」「ロスに行ったと思ったら向こうですぐ結婚したそうだ。」「可愛い赤ちゃんを連れて―」と言いかけて、槐は言葉をのんだ。「そう、澪さん結婚したのね。」 「冷たいものでも...」槐は立ち上がってミニバーの方に向かおうとしたが、テーブルに足を引っ掛け、倒れこんでしまった。「大丈夫!?」あわてて駆け寄り、抱き起こそうとする類子の目に、はだけられた槐の胸元から右脇腹の銃弾の傷跡が飛び込んできた。 ―二年前のあの山荘での出来事がフラッシュバックする。思わず、類子は身体をそむけ、両手で耳を塞いで肩を震わせた。「類子―」類子の様子に少なからず動揺した槐だったが、すぐにその訳を察すると、類子の前に回り、ゆっくりと向き直らせると、覆っていた両手を優しくはずした。そしてそっとかき抱くと、「類子、大丈夫だ、類子...。」耳元で囁きながら、類子の髪を、肩を、この上なくやさしく撫でさすった。包まれるように抱かれた類子の頬や胸に、合わせられた槐の胸のあたたかさと規則正しい鼓動が伝わってくる。しばらくして落ち着きを取り戻した類子は、槐の手を取ると自分の胸に押し当て、その瞳をじっと見上げてつぶやいた。「...あなたが、生きていてよかった...。」満々と湛えられていた涙が頬をつたってこぼれ落ちた。 夜―少し開け放たれた障子の間から月明かりが差し込むだけの部屋で、二人は寄り添うように身体を横たえていた。サラサラと風に揺れる木々の葉音だけが響く。うとうとと夢うつつのなかにいた槐は、類子が自分の肩にあずけていた頭を持ち上げる気配に気が付いた。「眠れないのか。」片肘をついて上体を起こすと類子を見上げた。「...ええ...。」類子は枕元の水差しに手を伸ばすとグラスに水を注いだ。「あなたも飲む?」「いや、いい。」風に乗って遠くにかすかに浪の音がきこえる。白く皓々と冴えわたった月の光が、起こした二人の上体を照らした。槐の着崩れた浴衣の襟元から、夜目にもはっきりと脇腹の傷跡が照らし出される。その傷跡に...類子は水を飲み干したばかりの湿った唇を近づけると、そっとやさしく口づけた。槐は思わず眉を寄せ、軽くまぶたを閉じると、一瞬かすかに低く呻いた。先刻とは違い、いとおしむように唇を寄せた類子は、更に指先でなぞり、掌で包みこむように優しく触れつづける。傷跡を離れた唇は、ゆっくりとすべるように槐の胸、首筋を経て、唇に到達し、そっと重なった。織物が擦れる音をさせて、類子は前で結ばれていた帯の結び目を解いた。槐が両腕を伸ばして、類子の肩から浴衣を滑り落とすと、類子の裸身が月明かりに晒された。腰の辺りに帯や浴衣を纏わり付かせたまま、上体を伸ばし、槐の頬を両側から包み込むようにはさむと、更に深く口づける。槐はそのままゆっくりと布団に身体を沈めた。しばらく類子に口づけされるがままになっていたが、やがて類子の手首を掴み、身体を反転させて組み敷くと、もどかしげに自分と類子の浴衣を剥ぎ取った。槐の唇が、髪をかきわけながら類子の首筋を辿ってゆく。類子の両腕もまた、その動きに応えるかのように槐の後頭部と背中に絡められた。やがて槐のきれいな長い指が巧みに類子の身体を開いてゆく。じっとりと類子の両足の内側が汗ばんでくる。徐々に槐の唇が類子の身体を下りてゆき、胸の辺りにさしかかったとき、槐の前髪がサラリと落ちて、類子の胸をかすめた。「...あっ...」そのかそけさに思わず身をのけぞらせ、類子は咽の奥から細く絞るような声を上げた。「類子...。」槐は上体を離すと、月明かりに照らされたすっかり上気した類子を眺め下ろした。類子の瞳は潤んで切なそうに槐を求めている。いとおしさがこみ上げて、思わず類子に口づけた。執拗に、その柔らかい感触を愉しむかのように、幾度となく吸い続けていたが、やがてそのまま自分が仰臥し、類子の上体を自分の上に引き上げ、片脚をかけさせた。槐の手は類子の腰にそっと添えられ、槐の求めを察した類子は導かれるまま槐の腰を跨いだ。射し込む月の研ぎ澄まされんばかりの青白い光が、反り返る類子の裸身を照らし出し、浮かび上がらせる。 朝―槐が目を覚ますと、すでに夏の陽は高く上がっていた。傍らに類子の姿はなかった。去ってしまったのではないかという不安にかられて跳ね起きると、類子の姿を求めた。壁をつたいながら、次の間を抜けて、縁側に出ると、浴室から湯を使う気配がするのに気がついた。勢いよく引き戸を開け放つと、立ち上る湯気の中に、檜の浴槽の低く幅広い縁に腰掛けて、足を伸ばしてくつろぐ類子の姿が認められた。窓の格子の間から差し込む光と、張られた湯にキラキラと反射する光を受けて輝く類子の眩しさに、槐は一瞬呆然と立ちすくんだ。「すまない。どこに行ったかと思って...。」それだけ言うのが精一杯だった。ふりかえって後ろ手に戸を閉めると、槐の脳裡に昨夜の情景がよみがえった。自分の腕の中で、白く透き通った肌を月光に晒して、息もきれぎれにあえぎ、身をよじらせ、崩れこむ類子の姿が―。暫くすると、浴衣をまとって類子が戻ってきた。座敷の鏡台の前に足を流して横座りすると、襟足を大きく広げた。昨夜の名残りの痕跡が映りこむ。隠しかねて困惑している様子の類子を、槐は後ろからそっと強く抱きしめると、自分がつけたその痕に唇を押し当てた。「...あ、」かすかに類子の身体が反応する。そのまま類子の存在を確かめるかのように左手を身八つ口から滑り込ませると、唇を首筋に沿って伝わせ、やがて類子の唇を捉えた。重ねられた唇から熱い吐息が洩らされ、浴衣の下では血潮が脈うつ。小鳥の囀る声だけが響く静寂のなか、まるでそこだけ時間が止まったかのように、二人は身じろぎもせず唇を合わせ続けた。「お客様、車が着きましてございます。」玄関前の玉砂利が敷きつめられた駐車場に、黒塗りのハイヤーが止まっていた。「今、御杖をお持ちいたします。「いいえ、いいのよ。」類子は仲居の気配りに感謝しながらも押しとどめた。類子は槐に肩を貸すと、幸せそうに槐の目をじっと見上げた。「一生、...あなたの杖になるわ。」一瞬、驚いたように槐の表情が崩れた。後部座席に二人を乗せると車は進んだ。二人は手を重ねたまま無言だった。槐は外の景色を見るかのように類子から顔をそむけた。そして涙をこらえた。 終
Feb 16, 2007

昨年の夏、いつものように新しい昼ドラが始まりました。-「美しい罠」「ダラダラと見続けるのは止そう。」いつもと同じような気持ちで見始めました。大富豪の財産を狙う男女-槐と類子-の物語。「また、突っ込みどころ満載の笑わせてくれそうなのが始まったわ。財産奪うなんて成功する筈ないじゃない。」とりあえず、第一回話を見て、その次休んで、また見だして...。クセにならないように適当にとばしながら視聴を続けておりました。ところが、今までのドロドロとは違い、サスペンス的な展開。繰り返される、切ない寸止め抱擁...。あ、これって結構、面白い?それでも録画しておくほどではなくて、後半は、すれ違う二人に見るのが辛くなることもしばしば。「お預けくらわすのもいい加減にして。」いよいよ、最終週。やっと二人の心と体もつながって、急にこちらの気持ちも最高潮に!ところが、大詰めで不幸が二人を襲い...。以下は公式HPへの書き込みです。「美罠」は二人の心がすれ違うだけでなく、心の奥がわかりかねるわ、罠が一杯ではらはらさせられるわでフラストレーションたまり放題!最終回に至ってまで、「まさか槐、死んじゃいないよね。」「まさか槐の赤ちゃんじゃないよね。」「まさかこのまますれ違いってことはないよね。」と息をつかせぬ展開でした。(しかも、槐の「愛してる」の後、類子、類子、返事は?と、食い入るように見入っていると、青い空とシャボン玉...。引っ張る、引っ張る!)お陰様で最後の最後に一気に感動を放出!でも川の中のシーンで欲求が満たされたのもつかの間...、次の瞬間、もう観られないという新たな欲求不満の深い淵に突き落とされてしまいました...!三ヶ月にわたる永い永い欲求不満がやっと解消されたかと思ったら、キスシーン一つでジ・エンド!最終回を見終えて、すっきりするどころか、感動の情熱を持て余す結果となってしまったのです。とりあえず、番組HPへの書き込みというものを初めて経験致しました。HPの内容も、遡って、余すところ無く、毎日読んで...。それだけでは飽き足らず、個人の方のサイトを探しては面影を追い続け...。DVD発売が決定するまでは、「もう、二度とみられないの...?」という気持ちもあり、貪る様に拝見させていただきました。皆様、凄いっ、凄いっ、と興奮させられっ放しで。(本当に、お世話になりました。)昼ドラHolicさまのところでは、公式HPのストーリーより、ずっと詳しいストーリーを(特に見逃した回を補充するのに助かりました。現在は別ブログで「槐目線で見る『美しい罠』」をご執筆中。Favorite Blog」からどうぞ)。仔うし。INNUENDO.0さまのところでは、大爆笑のコメとキャプを。「パロマ~!」ユエさまのところでは、独特の切り口による考察とキャプを。(しかも本編より槐が切なくイケて見えるというフィルターまで、頂戴してしまって)そして、覗き見るだけだった私が、初めて書き込ませていただいた、文学とお笑いと○○チシズムと槐に対する愛が、縦横無尽に交錯するとんとんさまの○○部!川の中でずぶ濡れになった二人にどうしても幸せになって欲しくて、とうとう自分でその続きを書いてしまい、とんとんさまのお部屋に投稿させていただきました。以来、3ヶ月...。偉大なとんとん部長の庇護の許、一部員として部室を荒らし放題にして楽しませていただいております(申し訳ございませんっ!色々な恩恵にも預からしていただいてるというのに...!)。部員の皆様の暖かいコメに支えられて、その後も拙いお恥ずかしい投稿作品を発表させていただきましたが、時間が経つにつれ、手直ししたいところが多々目立つようになり、ついでにデコレーションも、と思い立ち、新しくこのような部屋を作ってみた次第です。最初の一編は持て余した情熱を注ぎ込んで。後の二編は部活動のやりとりのなかで、ひょんなことから冗談で、作ったお話です。素人の書いた全くのお目汚しではございますが、よろしければ、「こんなのもあり?」と、ご覧下さい。...アップ、もう少し待って下さいね。
Feb 14, 2007
昨年の秋から、「バロッコな日々」というブログを書いてます。ドラマ「美しい罠」と「高杉瑞穂氏」に嵌り中です。表ブログと名前が少し違っているのは、単に「ココ」という名前だけでは、あまりにも沢山同じ名前の方がいらっしゃって、登録に苦労したというだけのことで…。こちらは、今まで作成したものを修正・装飾・保管するために作りました。他にも何か活用方法がないか考え中です。
Feb 1, 2007
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