Hic Rhodus, hic saltus.

2006.10.06
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江戸牛込馬場下横町の名主の末子として生まれた夏目漱石(1867年~1916年)は、晩年の子として疎まれたせいか生後1年で養子に出された。しかし、9歳のときに養父母が離婚したため夏目家に戻るものの、幼心にも疎外感を味わう日々を送ることとなる。漱石の人間観に大きな影響を与えた出来事であった。

帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)を卒業した1893年に、高等師範学校(現在の筑波大学)講師に就任。その後、松山中学(現在の愛媛県立松山東高校)・第五高等学校(現在の熊本大学)などの教壇に立った後、1900年にイギリスに留学。帰国後の1903年には、第一高等学校(現在の東京大学教養学部)の講師に就任。同時に、小泉八雲(ラフカディオ=ハーン)の後任として東京帝国大学文学部で英文学を講ずるようになる。その後、 『吾輩は猫である』 『坊つちやん』 を出版するなど、作家としての地位も確たるものにした。他方、英文学研究に対する疑問や不安が募り、1907年には一切の教職を辞して朝日新聞の専属小説家となったのである。

このあたりから漱石の作風は変化し、日本の近代社会に潜む矛盾や葛藤を正面から描き出そうとする傾向となった。 『三四郎』 のヒロインを通じて問われた個の自立と我執の問題は、さらに 『それから』 『門』 の三部作に発展し、愛をめぐる人間心理の明暗を執拗に追求するテーマの端緒を開くことになった。 『私の個人主義』 ( 2006/05/25の記事
漱石の「こころ」
明治天皇の死と乃木希典(のぎまれすけ)の殉死を契機に書かれた 『こころ』 は、徹底した自己否定を貫いている。他者と自己を同時に傷つけるエゴイズムの限界を見極めた主人公は、「明治の精神」に殉じて自ら命を絶つ。漱石が、我執を捨てて諦観にも似た調和的な世界に身をまかせる 則天去私 の心境について語り始めたのはこの頃からであった。日常生活の我執をえぐる 『明暗』 の連載を開始したが、胃潰瘍の悪化により途絶。漱石の死により未完に終っている。

夏目漱石『ビギナーズ・クラシックス近代文学編・漱石の「こころ」』(角川文庫)





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最終更新日  2006.10.09 09:49:27


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