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皆さんあの主題歌を覚えてますよね?セブンーセブンーセブンー♪この3つめのセブンーと唄っているのが、当時ザ・ワンダーズにいた尾崎さんなのでした。(アンダーネームのジ・エコーズ名義)他に番組内で流れる挿入曲でもコーラスをしているそうで、別のいくつかの子供番組主題曲も手掛けていました。解散後、彼の大ヒット曲となった「また逢う日まで」には、そのワンダーズのメンバーたちがコーラスで参加したそうです。
May 17, 2008
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仕事から帰って、久々にレコードプレイヤーを棚から下ろす。何枚か聞きたかったアルバムをレコード棚より引っこ抜いて赴くままにターンテーブルにのせる。中でも本日特に気持ちよかったのは、バタフライボールだ。英パープルレコードより発表されたこのレコード、往年のパープルファンなり70年代ものを色々と聴かれている方ならご存知かもしれない。ディープパープルのメンバーが才人揃いなのは今更語る事でもないが、ジョン・ロードやロジャー・グローバーがその溢れる才能を自分たちのバンド以外にも作品化しているよね。このバタフライボールもそんな作品の一つなのだけど、元は英国で制作されたミュージカルアニメ作品の為のソングブックといった趣のアルバム。内容は非常にバラエティに富み、ポップな作品がたくさん詰まっている。全ての楽曲制作とプロデュースをしているロジャーの実力も空恐ろしい。参加ミュージシャンもパープルファミリーに留まらず実力者揃いで幅広い。オイラの好きな曲は、オープニングのロジャーのシンセが鳴り止むとマーティン・フォードらのオーケストレーションの軽快なテンポ、派手なトランペットに導かれグレン・ヒューズのソウルフルな歌が気持ち良いGET READY。そして、ミッキー・リーの歌いっぷりがケヴィン・エアーズっぽく印象的なNO SOLUTIONもコミカルな味わいのあるイイ歌だ。ジュディ・カールの歌うARANEAも凄くキャッチーだし、ジミー・ヘレムスのWAITINGもメロディが素晴らしい。他の歌い手もリサ・ストライクやトニー・アシュトン(!)、バリー・セイント・ジョン、エディ・ハーディン、無論ロニー・ジェイムス・ディオもハードに時にソウルフルに歌っているし、デヴィッド・カヴァーデルもいいなぁ。そして、クォーターマスやハードスタッフでパワフルなヴォーカルを聴かせていたベテランのジョン・ガスタフスンもイイ感じ。バックもモ・フォスター、レイ・フェンウィック、アン・オデル、エディ・ジョブソン、マイケル・ジャイルス等など。日本じゃ当時東芝から発売されていたが、その後も再発されたりしてたね。発表から25周年記念のCDも出ているようだ。ハードロックを期待すると肩透かし食らうかもしれんが、良質でハイクオリティなポップミュージカル。パープルファミリーのヴォーカリスト達が、ハードナンバー以外を歌わせても半端じゃない奥深い実力を持っているのが良く判る。良いアルバムですな。
May 28, 2005
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今から50年前、ニール・イネスやスキャフォールドのメンバーらが集まった音楽とコントの合わさったプロジェクト、グリムス。そのステージ活動の初期においてドラムスを演奏してたマイケル・ジャイルズの姿が確認できる唯一の画像に彩色。おまけ、マクドナルド&ジャイルズ画像
Apr 4, 2022
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先ほどニューヨークタイムズが報じたアランの死亡記事で、死因は心臓発作と報じられました。ロンドンの会長によると娘のルイーズさんが昼食に出て自宅へ戻るとすでに亡くなっていたそうです。以前より心臓病を患っているというニュースが伝えられておりましたが、その悪化が彼の命を奪ったわけですね。遺族によるアランの葬儀費用を捻出する為のクラウドファンディングは現時点で10万ドルを超えました。おそらく十分にアランの葬儀は賄えるようになったと思います。今後我々ファンは彼のベスト盤などを手にすることでご遺族のサポートができると思います。アランの在りし日の姿を振り返りますアランの訃報を伝えた米紙が意外な事実を記事で報じました。彼の実の父親は実は判らないのだそうで(※2018年11月16日追記、その後両親の名の出てる記事では判明しました。アランは母ヴェラ・ホールズワースと父ジョシュア・ホリンズの間に生まれた息子だったそうです。)、SamおじいさんとElsieおばあさんによって育てられたのだそうです。彼の紹介記事ではよく父親がジャズピアニストでと書かれてきましたが、それは実の父ではなく、親代わりだったおじいさんを指したことだったようです。おじいさんもまた労働者でその生活は貧しいものだったそうです。ジャズピアニストというのもセミプロ活動だった可能性が高いです。(右側でおもちゃのサックスを吹くのがアラン)時代はまだビートルズが大人気だった60年代前期、17歳からギターを本格的に始めたアランはいくつかのローカルバンドで演奏を開始します。ルックスが良く地元ではアイドル人気も得ていたようです。(※2018・11・22追記:その後の見つけたいくつかのインタビューで、14歳の時ギターをプレゼントされたの事)この画像、オカッパに近い髪型からして1966-67年あたりだろうか?レコードデビューバンドのイギンボトム70年代初頭のソウルバンド「グレン・サウス・バンド」時代。昼間工場に勤めながら。夜は仲間とバンド活動をしてたようです。イギンボトム時代からの仲間の話ではこのバンドは7カ月演奏していたそうです。(うちアランが参加したのは三か月ほどの模様)翌72年には60年代末英国北部での演奏家ユニオンツアーで同じステージに立ったサキソフォン/フルート奏者レイ・ウォーリーから連絡が入り「まだ演奏しているのかい?」と尋ねられています。工場勤めしながら演奏していたアランをロンドンへ呼び寄せたのも実はレイだったようです。72年春からはレイの家に居候し、彼からおこずかいをもらい、ロンドンのミュージシャンのたまり場で多くのミュージシャンに紹介されていたそうです。その過程でジェイミー・ミューアらとサンシップを組んだり、レイとその仲間たちパット・スマイスと演奏したり、イアン・カー名義のアルバム、ベラドンナのセッションへ参加。アランがクラブ:ロニー・スコッツでのギターフェスティバルで注目されたのは1972年9月13日で確定。噂を聞いたジョン・ハイズマンがテンペストにアランを誘ったきっかけにもなっているギグで、ロバート・フリップがアランを称賛したと言われてます。共演はバニー・ケッセルとジョン・ウィリアムス。ダブルベースにロン・ハーマン、ドラムスにナイジェル・モリス。ケッセルからアランは「どんな弦を使ってるんだい?」と不思議がられたと当時の記事が伝えてました。テンペスト時代1973年、この時点ではまだトレモロアームを使用してなかったアラン。このバンドを抜ける直前、新加入したオリー・ハルソールと共演し、その変態ギタープレイに影響を受けたのでしょう。アランは多くのバンド遍歴を重ねましたが、それは彼が気まぐれだったからというよりも彼のあふれんばかりの才能から、様々なバンドからの引き合いが絶え間なくあったことの裏返しでもあったと思います。実際、彼の70年代のギグ記録を記載したサイトでは常に複数のバンドを掛け持ちしていたことが読み取れました。彼が短期間だけとはいえ一つのバンドにだけ契約で縛られていたのは、UK在籍の頃だけだったようです。ソフトマシーン1974-75ソフトマシンに在籍してた頃もいくつものセッションへと参加してます。トニー・ウィリアムスやジャック・ブルースとの共演。近年公開されたパット・スマイスとの1974年コラボ映像ライフタイム在籍時。このバンドで二枚のアルバムと初ソロ作を制作しツアーも行いましたが、バンドを抜けた時、英国への帰国費用の為、マネージャによってアラン愛用の白のSGが売り飛ばされてしまったそうです。GONGBILL BRUFORDソロアルバム セッションUKBRUFORDジョン・アンダーソンやジャック・ブルースらとのオールスターバンドアラン・ホールズワース・バンド1994年、キアヌ・リーヴスの大ヒット映画「スピード」のサントラにアランが参加してた件について。セッションには参加したが、実際映画を鑑賞したアランには自分の音は聞こえなかったそうです。どうりてサントラいくら聞いてもわからないはずです。一応参加はしたから映画のエンドロールやサントラ盤にアラン・ホールズワースの名が残されてるようですが、彼のソロを期待して映画を見たりCD聞いても彼のプレイは聞けないようです。映画でのクレジットでLが一個足りてないのはご愛嬌という事でw※2018年2月13日追記:アランがギターを始めてからの使用ギターが語られたインタビューから。61年頃最初は何か判らんフラットトップ→カール・ヘフナー・プレジデント→ハンク・マービンに憧れてストラトキャスターを半年→それを売ってギブソンSGをほぼ10年間。(2019年6月15日追記◆最初のSGは赤、イギンボトム解散後に売却し、ヴァイオリンとカールヘフナーのColoramaを購入するも全く使い物にならず。白いSGカスタムに買いなおしたそうです。テンペスト時代に一部写真にあるES-335はヴォーカルのポール・ウィリアムス所有。アランはこれを弾いて気に入り、そのままレコーディングに使用したそうで、その後のソフトマシーン参加時にもレコーディングでSGカスタムとともに使用されたのだとか。)SGカスタムは渡米して初ソロアルバムの頃まで使ってましたが、英国に帰国する際マネージャーに飛行機代として売られてしまったそうなので、そこまでがアランのSG時代だったと言えるんでしょうね。70年代前半画像には他にも335やレスポールを弾く画像が残されてはいますが、彼にとってのメインはこの時代SGであったと言えるのかもしれません。BrufordのころにサブギターながらSGをまたまた弾いてましたね。
Apr 19, 2017
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キースが亡くなった日と公式に地元警察が発表した3月10日の翌日、音楽界はその死を悼み、様々な音楽関係者が世界中から弔文を発しました。 1960年代キースがプロ活動しはじめた頃、同じ時期に後期ウォリアーズに加入したブライアン・チャットン氏。その後、フィル・コリンズらとのフレイミング・ユースを経て、元ナイスのリー・ジャクソンのジャクソン・ハイツに加入し素晴らしい楽曲と歌声/演奏を残されました。 ジャクソン・ハイツの通算4枚目のラストアルバムでは、キース・エマーソンもMOOGの貸し出しと音色のセッティングで参加しており、この当時ジャクソンを介してチャットンとエマーソンは知り合った訳です。 これ以後もチャットンは数々のバンドやセッションに参加し、80年代にはボーイズ・ドント・クライで商業的な成功も収め、今も現役で活躍中です。キースとはいくつかの音楽制作での共演もありました。 前置きが長くなりましたが、チャットン氏がニュースの第一報を聞いた3/11に出した追悼文を毎度の意訳で。ブライアン・チャットン「キースのご家族、息子たちアーロンとデーモン、前夫人エレノアに深くお見舞い申し上げます。私は彼の大ファンでした。彼は本当に凄かった。キースよ安らかに。」おまけ:ウォリアーズ時代からの友人ジョン・アンダーソンとブライアン・チャットン氏。
Apr 11, 2016
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ビートルズのハンブルグ時代からデビュー直前までの経緯を本人と当時の友人たちの証言で振り返っていた。面白いのはペースメーカーズとか他のグループの連中の証言では「ピートのドラムは最高」とか「バスドラの音が良かった」とかピートの擁護発言が多かった事。ただ、肝心の当時の音はトニーシェリダン関連やスタークラブ音源やらオーディション音源くらいで他は当時の他のグループが演奏した楽曲が使われていたので、知らない人は勘違いしそうな構成だったのが妙に気に掛る。番組の終盤でピート自身が驚いた事にアンソロジーに在籍時の曲が10曲収められている事に対し、嬉しいような寂しいような複雑な顔をしていたのが印象的だった。番組ではビートルズを辞めさせられた後の63年に出演したマニアならご存知のTV番組を取り上げてたのがより一層痛々しさを浮き上がらせていたね。再デビュした60年代中期には彼もリーゼントをさすがにやめている。あと、ショックだったのはいまだに他のビートルズメンバーから「その後一度も連絡が無い」とのことである。アンソロジーにピートのプレイを収録したくらいだからてっきりもう関係修復しているのだとばかり思っていたが。。。この番組で面白かったのは、ロッキンベリーズやサーチャーズ等当時の共演していた他のバンドの証言。中でも後にクォーターマス等で活躍したベテランのジョン・ガスタフソン(番組ではジョニーとでていたが)が当時いたデッカ・レコード所属のビック・スリーのメンバーとして証言をしていたのにビックリしたわ。イエスのジョン・アンダーソンやクリムゾンのイアン・ウォーレスのいた「ウォーリアーズ」が64年頃にデッカからデビューしているが、ジョン・ガスタフソンみたいにメジャー・デビュー前のビートルズと同じステージでツアーしたというのは後のプログレ勢でも珍しいよね。ただ最近の彼の顔はすっかり英国叔父様な雰囲気でクォーターマスの頃のような野生味は微塵もなかったけどwで、ピートの演奏なのだが彼の頑固さが音にもファッションにも色濃いのはご存知の通り。彼の母親のバンドへの貢献と介入という二律背反も事実。やはりいずれバンドを追われる運命だったのかも。。。彼の演奏に参加したラヴ・ミー・ドゥは、ちと内容が厳しいよねぇ。実際、プロデューサーサイドからの注文にもカチンときたとか言ってたし。現在、音楽活動を再開させている彼のバンドが後期ビートルズ風の演奏を繰り広げているのが何とも言えない。長年の苦労のせいか音楽的に裾野の広さを感じさせるだけに。
Aug 27, 2005
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初期ウルトラシリーズの名作「ウルトラセブン」において、地球防衛軍の熱血漢を好演していた元俳優でアクターズプロモーション社長の阿知波信介さん(本名:信雄 のぶお)が4日に亡くなられた。葬儀は近親者のみで行われたそうである。60年代から多くの作品で快活な若者役で活躍されていたが、三船プロ入社後マネージャーに転身。80年代以降は多くの俳優を擁するアクターズ社長として有名で、一時期は女優の多岐川裕美さんとも結婚なされていた。数多い所属俳優陣には初代ウルトラマンで知られる黒部進さんとその娘の吉本多香美さん(ティガに出演)というのも何やら多くの俳優に慕われた社長ならではか。個人的には麻丘めぐみや秋野ヨウコのイベントPAを担当した際に会場で恰幅のいいスーツ姿とあの笑顔を見かけたのが思い出される。スタッフ達が「ソガ隊員だ!」と騒いでいたことも・・・今夜のTOKYOMXテレビで放映されたウルトラセブン「第四惑星の悪夢」は奇しくもソガ隊員が主人公となるエピソードだった。ご冥福を御祈り致します。阿知波信介:主な作品映画血と砂(1965)太平洋奇跡の作戦 キスカ(1965)殺人狂時代(1967)連合艦隊指令長官 山本五十六(1968)肉弾(1968)待ち伏せ(1970)赤毛(1969)激動の昭和史 沖縄決戦(1971)郷愁(1988、制作)樹の上の草魚(1997、製作協力)他TVウルトラセブン怪奇大作戦青春とはなんだ東京バイパス指令戦え!マイティジャックコートにかける青春他
May 7, 2007
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ナイス時代のキースと度々イベントやツアーで共演する機会のあったディープ・パープル。その当時を回顧しながら。リッチーがキースへの追悼文を発表しています。「キース・エマーソンの悲しい知らせを聞きました。彼は私のお気に入りのキーボード奏者の1人でした。彼がナイスにいた時分、ツアーで一緒にもなりました。ステージ上の彼はいつもエキサイティングで。もちろんジョン・ロードも彼がお気に入りで、アメリカでの演出を愛してました。彼がいなくなったことは惜しまれる事でしょう。P.S,多くの人が知ってる事ではありませんが、ジミ・ヘンドリクスはELPとも共演したがっており実現したならHELPと呼ばれたかもしれませんが、まあこれはあくまで内輪の噂で明確な根拠はありません。」 HELPのうわさは古くからよく雑誌などでも伝えられた噂でしたが、真相は元エクスペリエンスのミッチ・ミッチェルがエマーソン+レイクと組む話をしていた中でミッチが「もしかしたらジミも参加するかも」程度で話した事が、廻りまわってまことしやかに伝聞されて事実の様に言い伝えられてるのが真相のようです。実際このときジミと組んでいたとしたら、ドラマーはミッチな訳ですからパーマーがいない限りHELPになる訳がありませんので、HELPという呼称についてだけは後付けで面白おかしく造られた部分になるのでしょう。 エマーソン本人も自伝で「当時のジミは黒人とだけ組むと公言していたので、実現はしなかっただろう」と述べてました。解散直前の1970年当時のナイスを捉えた音声なし8ミリフィルム映像。ジミが一緒にツアーを廻ってたナイスを8ミリカメラでよく撮影していたというのもこんな映像だったのかもしれません。 ネット上には解散直前のナイスがディープパープルのステージに乱入して共演したという音声もありますが、根拠が希薄な為本物の音声という確証はありません。 1989年アルメニア大地震の救済チャリティーとして行われたロック・エイド・アルメニアの「スモーク・オン・ザ・ウォーター」にキースがクリス・スクワイア他大勢のミュージシャンと参加していましたが、ここでリッチーと図らずも共演する形となりました。実際会えたわけじゃないでしょうけどw-----------------スティーヴ・ハケット「キース・エマーソンの悲劇的なニュースを聞いて、非常に悲しいです。彼は華麗なミュージシャンであり、素晴らしい名手であり、ショーマンでした。その上、彼はとてもイイ奴でした。ジャック・ブルースと彼とジャムをやったものです。 またキースは、90年代初め私の妻ジョーの映画ソウルスケイプスの音楽をやってくれました。彼の逝去は非常に惜しまれる事でしょう。皆さんに心をこめてスティーヴ」
Mar 17, 2016
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Mick Judge and his Jurymen は、1962年に結成され、1965年まで存在したバンドで、アランはバンド末期に加入したようで彼が次のバンド、クルセイダーズに加わる前のバンドでした。彼が1965年にSGを購入する前、半年間だけローンで買った青のストラトキャスターがこれなのかも。ちなみにモノクロ撮影では、青色は色温度の都合で白っぽく写ってしまいます。カラー化も試しますが、こんな感じ😂アップでw
May 15, 2022
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ロバート・フリップも協力したことで知られるキース・ティペットのビッグバンド企画、センチピード。 Youtube上には以前から70年代半ばの再結成映像はありましたが、この映像は初めてです。Centipede - Keith Tippett Big Band (1970) フィルムで撮影されてるのでステージ上が暗いですが、とても貴重な映像ですね。ジュリーさん踊りまくってますしw 飛行機移動や衣装やコーラスの顔ぶれで見る限り1970年11月のフランス・ボルドー、アルハンブラ・シアターでのステージではないかと思われます。裸ドラマーはワイアットらしいですね。 ただライトを浴びたがらないフリップが見つかりません。。。 この演奏時はまだボズ・バレルはセンチピードのヴォーカル隊に参加してないみたいですね。映像を見る限りジュリー、マイク・パトゥ、ひげのズート・マネー、あと一人背中だけ見える女性ヴォーカルはマギー・ニコルでしょうか?ボズのクリムゾン加入が何月か不明なのでこのステージにはいなかっただけかもしれませんが。 ボズが90年代に残したインタビューによると、このセンチピードに参加したことでフリップに紹介されたそうです。キース・ティペットが仲介とか意外ですね。 ボズ自身が1966年、ティペットグループを組む以前のマーク・チャリグとサイドワインダーズで短期間活動を共にしましたし、そもそも彼自身がジャズ好きなのも手伝ったのでしょうか。 センチピードに関わったのは1/3がロック系、1/3がジャズ系、1/3がクラシック系という風な表現でボズはこのプロジェクトを語っていましたが、その多くが1970年当時ロンドンのマーキー・クラブへの出演で既に顔見知りだったと言うのがありますね。このプロジェクトが後に様々な分野へ発展した人材交流の場になったと考えられるのも新たな視点だなと感じました。人をかき集めたキース本人は大変だったみたいですがw■2015年4月4日追記■ センチピードのコンサート活動は、1970年11月15日Lyceum ライシアムでデビューイベントを行ないましたが、ボズはその前月の14日にはまだ自身のバンド、ミラーズでマーキーに出演していました。この11月にMirrorsは解散したと言う事なので、その後以前のバンド仲間で旧知のマーク・チャリグあたりからプロジェクト参加を呼びかけられたのかもしれませんね。 キース・ティペットが50人規模の大プロジェクトをやるに際し、あちこちに声を掛けていたので、そういう中での合流だと考えられるでしょう。ティペットグループもマーキー常連でしたしね。 この上記センチピード映像はフランス・ボルドーでの2日間、20日か21日のいずれかだと思われます。 その後12月、ティペットはシンビオシスで活動し、翌1971年1月からセンチピードでのコンサートを再開しましたので、その間のリハなどでボズが顔合わせをしていた可能性があります。 センチピードの71年コンサート記録は以下の通りとなってます。1971年1月30日、ランチェスター・アーツ・フェスティバル3月7日、ブリストル大学6月16日から19日、アルバムレコーディング10月14日ロンドン・ロイヤル・アルバート・ホール(フリップの代役でオリー・ハルソールがギター)12月19日ロンドン・レインボウ・シアター キング・クリムゾンのアルバム、アイランズのセッションが、この間7月8月に行われていました。 今回もややこしい記事にお付き合いいただきありがとうございます。頭がこんがらがって何度か修正をしております。余談: この当時を振り返ってボズは「キング・クリムゾンがどんな音楽をやってるか知らないで参加した。」等と話していました。「逆にイアン・ウォーレスはよく知ってて参加した。」ともw 音楽性も知らないで参加というのも無茶な人ですねw■2015年4月6日追記■オリー・ハルソールが1971年10月センチピードのロイヤル・アルバート・ホール公演に参加した事について語っているメロディーメーカー71年11月6日記事です。http://www.pattofan.com/OllieHallsall/mm11-6-71.htm関連記事:Boz Burrellが60年代に在籍したTea Time Four等バンド活動についてhttp://plaza.rakuten.co.jp/chop100/diary/201410020000/
Mar 29, 2015
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レフト・バンクのマイケル・ブラウンが立ち上げたバンド、ストーリーズの唯一の全米ヒットチャート1位の曲。元々はエロル・ブラウンの手による歌で、ホットチョコレートが全英TOP10に送り込んだヒットソングで、元歌のプロデュースはミッキー・モストとアレクシス・コーナー。ストーリーズが取り上げたのは、その半年後でビルボード73年8月25日から9月1日にNo.1を獲得している。いわゆるスタンダードナンバーとなっており、イギー・ポップやボンジョビ等も演奏している。最近では、映画「ゾディアック」でも採用されCD「Zodiac (Songs from the Motion Picture)」にもストーリーズ・ヴァージョンが収められている(注※サウンドトラックスコアCDでは無い)。YOUTUBE動画Stories1973テレビCMストーリーズのヴォーカルだったイアン・ロイドの今年の演奏。Brother LouieBrother Louie - Stoires(オリジナル、サウンドイメージ)メロトロン・バンドとしてのストーリーズの代表的ナンバーDarling - Stories現在、CDは1STと2NDの2イン1物とブラウン脱退後の3RDが出ている。 Stories/About Us(2in1CD)Stories←試聴有り IAN LLOYD & STORIES/Traveling Underground (3RD)以前3RDを紹介したもの。
Oct 20, 2007
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リンダ・ルイスのファースト・ソロアルバム。今まで取り上げたもんだとばかり思っていたが、どうやらHACIENDA VIEW(1979)を5年前に取り上げたのですっかりやったもんだと勘違いしてたらしい。5時に夢中!5月14日放送のゲストだった加藤紀子さんが、番組中に大ファンである「リンダ・ルイス」を連呼してたのを観て思い出し、確認したらやはり取り上げてなかったという落ちでしたwLinda Lewis / Say No More (1971) Reprise K 44130 70年代後半時点で、彼女のセカンドLPにして名作の名高い「ラーク(Lark)」は結構人気があったが、こちらの最初のソロ作品は既に廃盤で日本に入ってきてた枚数もラークより格段に少なく、入手が難しかった故に探し出すのにそれなりに手間を要した記憶がある。サウンド的にはフォーキーなセカンドより、サウンドにバラエティの多様さがある作品で、次作同様によく練りこまれた素晴らしいサウンドプロダクション。歌も演奏も素晴らしいが、今聴いても録音の丁寧さ、仕上げの的確さとミュージシャン共々スタジオワークも相当いい。人によってはLarkと並ぶ傑作と推す人もいるが、あながち言いすぎだとは思えない。LPをPCに取り込んで、ノイズを取り除きリスニング用に調整しながら久しぶりに散々聞き込んだが、ほんとよく作りこまれていると改めて感心した。(偉そうですみません)One side1 For Mama (Lewis)2 Come Along People (Lewis)3 The Same Song (Samwell)4 Hampstead Way (Lewis)5 Peters Garden (Lewis)6 We Can Win (Lewis-Samwell) The other side1 Funky Kitchen (Lewis)2 Follow the Piper (Lewis)3 Donkey's Years (Lewis-Samwell)*4 I Dunno (Lewis)5 Magic in the Music (Lewis)6 Hymn (Lewis)上の写真の通り、リンダを支えるバックのメンツは、当時としてかなり豪華で参加ミュージシャンが玄人好みな連中ばかりなのもこのアルバムの魅力。クリス・スペディングがカラフルなギターサウンドを聴かせる他にも、ショーン・フィリップスとマイク・イーガンのギタープレイも派手さは無いが堅実で実にいい音をさせている。マクドナルド・アンド・ジャイルズ消滅後、一時期心療内科に通院していたイアン・マクドナルドが、センチピードとほぼ同じ時期に音楽に復帰した頃のセッションでもあるが、イアンのフルートのプレイも実に華やかで色っぽい。もしかしたらフルートのみに絞ってだと、クリムゾンでのプレイにも匹敵するほど縦横無人に活躍してるかも。一部の曲でハービーマン風のフラッターやブレスで吹いているのは時代性かw 個人的にはドラマーやパーカッションなどのプレイのセンスの良さも気に入っているが、止めを刺すのがベース。必殺変態ベーシストのルイス・セナモですよ、お父さんw これだけでも聞く価値はありますよね。曲によってはセナモが踊るように弾いてる様が目に浮かぶようです。現在CDで復刻されてはいませんが、ベスト盤にこのLPの数曲が収められておりますので、それで聴くのもいいかもしれませんが、LPを入手される場合はGemmやebay等海外通販サイトが見つかりやすいでしょう。日本国内の相場は1万5千円前後。海外でも8000円程度から上は3万円以上と状態で価格に差があります。下のベスト盤には、この1stからA-4,6,B-1,3,4の5曲が収録されています。楽天市場ベスト・オブ・リンダ・ルイス / リーチ・フォー・ザ・トゥルース[枚数限定][限定盤] 1350円
May 31, 2010
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「King Crimsonのリード・ヴォーカルの座に就き損なった歌い手」と言えば、バンド初期に何人かいましたね。 250ポンドでポセイドンでの歌入れセッションが内定しつつも、クリムゾンの所属事務所EGのマーク・フェンウィックが用意したアルバムを聞いたフリップが「スタイルがクリムゾンじゃない(彼の決め台詞のひとつらしいw)」と決断した事であっさり却下されたエルトン・ジョンを思い浮かべる方もいらっしゃることでしょう。後あったのはブライアン・フェリーでしたねー。 あともう一人、シド・スミスさんによるクリムゾン伝記本で書かれていた人がいましたね。ミュージカル「ヘアー」のオリジナルキャストだった「ピーター・ストレイカー」。せっかく契約交渉も進んでいたのに、相手方の所属プロダクションが提示した額が余りに高額だったので話にならなかったというアレですw このストレイカーさん、1943年生まれのジャマイカ人歌手/俳優。丁度この頃売り出してた新鋭の一人だったのでしょうね。だからこそ事務所も強気だったのでしょうか?この後に舞台版のロックオペラ「トミー」に出たり、アラン・パーソンズ・プロジェクト作品に参加など、映画やテレビ・舞台で活動された人だったようです。所属してる代理人が吹っかけたのでしょうから彼本人には罪はないと思いますがw最近のお姿だとイメージが違うでしょうから、1969年に唄ってる映像を探してみました♪Peter Straker - Aquarius (live in London, 1969) こちらは1972年のソロアルバムからPeter Straker - Before I've Said A Word (1972) かなりパワフルな歌いぷりですね。ただ彼がポセイドンのめざめで唄ってるイメージはちょっと湧かないと言うか何と言うか。もし彼が参加していたら、ハスケルにフリップがクリムゾン加入を口説いてた際うっかり口走った「リズムセクションを黒人で固める」路線に・・・いや、さすがにその前に「それはクリムゾンじゃない」とフリップが言うでしょうけれどもw ■3月28日追記■ 資料を漁っていたら1969年8月8-10日にプランプトンで行なわれた第9回ナショナル・ジャズ・ブルース・アンド・ポップ・ミュージック・フェスティバルにクリムゾン、ナイス、ピンク・フロイド、ソフツなどのバンドに混じって、ヘアーのロンドンオリジナルキャストによるショーもあったようです。そういう意味でもストレイカーさんは当時かなり注目を浴びていた人物だったといえるのでしょうね。 ■3月31日追記■ 重ねての追記、見辛くなりどうもすみません。ツイッターでストレイカー氏の件をココモJP様から「ストレイカーをマネージメントしていたMAMは当時トム・ジョーンズやギルバート・オサリバンを抱える有力な会社だったので、クリムゾンに強気の金額提示したのでは」とご指摘をいただきました。 調べるとMAMは1970年当時最も成功した会社の一つだったようで、正式にはマネ-ジメント・エージェンシー・アンド・ミュージック・リミテッドという音楽代理店だったようです。レコードレーベルも所有し活動しましたが、後にRCAに吸収され、クリサリスに移され、現在カタログの所有権はEMIにあるようです。1970年はビッグビジネスに成長した音楽業界でミュージシャンを巻き込んだ訴訟が相次いだ時代でしたから、クリムゾンはこのややこしい権利関係に巻き込まれなかっただけある意味幸運だったかもしれないですね。 情報ありがとうございました。余談:今回の調査でピーター・ストレイカーの次作1977年セカンドアルバムに、77年当時ゴードン・ハスケルとビーチェンパレスの地下レストランで一緒に歌っていたマイク・アリソンが楽曲提供しており、その音楽出版クレジットがシャドウズのブルース・ウェルチ音楽出版と判明。 そもそもハスケルとトリオを組んでいたマイク・アリソンが一緒に作ったデモテープをウェルチに持ち込んで採用され、77年(たぶん夏から秋)にハスケルがクリフ・リチャードのツアーでバック演奏をするきっかけとなったわけです。映像は77年10月24日オランダ、ロッテルダム、デ・ドーレンというホールでの公演。ストレイカーというとどうしても往年の特撮ドラマ「謎の円盤UFO」のストレイカー指令を思い浮かべちゃいました。だからどーした。な、なんでもありません。。。======== もうひとりのなり損ねたひと ======== 最初にクリムゾンのヴォーカルになり損ねた中にブライアン・フェリーの名も書きましたが、彼の場合はゴードン・ハスケル離脱後、つまりリザード後の内紛時の候補の一人でした。この時期クリムゾンは散々オーディションを行い、メンバーは有象無象の参加者相手に相当疲弊をしたそうですが、その候補には彼らの所属事務所EGの2代表の片割れ、ジョン・ゲイドンも含まれていたことについて以前少しだけ取り上げました。(ゲイドンと言えばクリムゾン、ELP、Tレックス、ロキシー・ニュージックを売り出した立役者でしたね。EGが業界に顔が利いたというのは彼の手腕も大きかったのでしょうね。) ジョン・ゲイドンがクリムゾンのマネージメント業に付く以前、60年代半ばにマイク・ダボらと共に組んでいたバンドが、ア・バンド・オブ・エンジェルスで、シングル盤も数枚出していたそうです。この時のジョン・クリスチャン・ゲイドンの担当はギターとヴォーカル。 中でも1964年、ジョン・アンダーソンやイアン・ウォーレスの「ウォリアーズ」も出演した音楽映画「Just for you」には彼らエンジェルスも出演していました。 Youtubeには1965年にゲイドンがギターを弾いてコーラスで唄ってた当時の映像がありました。A Band of Angels - Not True As Yet (1965) John Christian Gaydon (vocals, rhythm guitar) 当時のゾンビーズっぽいイメージを感じる演奏ですが、やはりクリムゾンのフロントマンという感じでは無いのでしょう。彼の起用も却下されたわけですw 最後に、2012年にアップされたEG創始者ジョン・ゲイドン氏がキング・クリムゾンを語る動画です。John Gaydon and EG Management sign their first kings EGからは70年代に離れてしまったゲイドン氏が話をしているのが興味深いですね。
Mar 25, 2015
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2枚目のポセイドンから4枚目のアイランズまでは、バンドの不安的な時期も手伝って70年代のKing Crimsonの作品には、ゲストミュージシャンのプレイがかなりウェイトを占めている楽曲もあるのはご存知のところ。ジャズ系のキース・ティペット一派、元メンバーの再登用、クラシック系、Yesからのジョン・アンダーソン他。中でもクラシック系ミュージシャンの中で際立つのが、オーボエで印象的な仕事を残しているロビン・ミラー。リザードでの薄暗闇に灯明を掲げるようなプレイが心象的だが、70'sクリムゾンのラストアルバムREDにも再度呼ばれ美しいオブリガードを奏でている。オーボエを使用しているロック作品もクリムゾン以外に数あるわけだが、なんかピントのボケた使い方がされてる事もないわけじゃない。個人的に昔、ブラスバンド部の友人がオーボエのリードには苦労していたので、気苦労の多い楽器なのかもしれない。ロビン・ミラーの参加したクラシック作品となると、検索する事でいくつかヒットする。やはり収録曲はオーボエの為の楽曲が収められているようだ。http://tower.jp/artist/694747/Miller,-RobinCDのタイトルからスコティッシュ・チェンバー・オーケストラ公式サイトを閲覧したが、ロビン・ミラーはここのメンバーではなかったのかもしれない。オスカー・シュムスキー同様客演扱いになってるようです。彼の参加したCDは、上記リンク以外にアマゾンなど他の通販サイトでも入手可能。Youtubeで検索してみたが参加当時のものは無いようです。以下のは参考資料程度でScottish Chamber Orchestra - Violin Concerto No. 2 in E majorhttp://www.youtube.com/watch?v=sBDOGBsKibI
Jun 6, 2010
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まだ公開されてませんが、所有者が近日中の公開を予告してました。演奏するオリジナルメンバー全員が映る映像は、未だ観たことが無いので公開を待ちたいですね。
Jul 30, 2024
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GGF関連の記事でコチラから勝手にリンクさせていただいているTropel's Page様のサイトで、LPジャケットをスキャナーで取り込む手法とソフトを紹介されているのを読みました。当方ではまだ試してませんが、なかなか素敵な感じです。これで真夏や真冬にカメラで悪戦苦闘しながらLPレコードの撮影しなくても済みそうですね。LPジャケットをA4スキャナで取り込むhttp://tropel.fc2web.com/Olivia/Computer/Scanning/index2.html私も折を見て試したいと思いました。
Oct 16, 2015
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70年代のKing Crimsonにおいて印象的なコルネット・プレイを聞かせたMarc Charig氏。その近年の活動を伝える映像を中心に、現在YOUTUBEでアップされている動画を収集してご紹介します。Mark Charig, Georg Wolf, Jörg Fischer (2 fragments) ive in Wiesbaden beim "schöner hören"-Festival (Kooperative New Jazz Wiesbaden), Januar 2010.Bloombox (Mark Charig, Martin Speicher, Georg Wolf, Jörg Fischer)20.09.2013, Alte U.B. Giessen (Germany)Bloombox 2013 (Mark Charig, Martin Speicher, Georg Wolf, Jörg Fischer)Schlachthof, Kassel 21.09.2013Mark Charig, Georg Wolf, Jörg Fischer (4min) 24.01.2014, DarmstadtMark Charig, Georg Wolf, Jörg Fischer (6min)Mark Charig, Georg Wolf, Jörg Fischer (7min)チャリグ氏らのCDはこちらでメールオーダーできるようです。sporeprint label:http://www.joerg-fischer.net/sporeprint.htmlPaypal利用ができるので購入も簡単ですね。興味のある方は是非。キース・ティペット・セプテットのテレビ出演映像?(またはビデオソフトか)こちらはチャリグ氏の他にニック・エヴァンス、エルトン・ディーン両氏もご出演。KEITH TIPPETT SEPTET - JAZZ CAFE (1986)
Sep 16, 2014
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前回のYES三代目ドラマー、トニー・オライリーに引き続き、初期イエスでビル・ブルーフォードが1968年9月下旬に抜けて11月下旬に復帰するまでの間バンドに関わったドラマーの件です。 大学に戻る為ビル・ブルーフォードが抜けた1968年9月下旬のわずかな間だけYESにいたDave Pottsさん。一体何者なのでしょう?と思いちょくら調べてみました。 若き日のデイヴ・ポッツさんは、1966年にクライン・シェイムズ(綴りが微妙に違う同名の米国バンドでない英国の方のCrying Shames)に参加してたそうです。メンツの入れ替わりが激しいバンドだったので時期的にリッチー・アンド・クライン・シェイムズの頃のようですね。ポッツが参加したとき既にバンドはTOP20のヒット曲を持っていましたが、後から加入した彼はそれらのヒット曲で叩いてないそうです。このバンドもブライアン・エプスタインに飼われてたバンドだった様で、バンド初期にはジョー・ミークが制作で関与していたそうです。 その後ポッツは1967年にニューキャッスルで結成されたスキップ・ビファティ(Skip Bifferty)というアンダーグラウンドバンドに参加。オジー・オズボーンの嫁シャロンの父がマネージャーだったバンドで、グラハム・ベルが在籍したことで知られ、後のイアン・デューリーやクラッシュに連なる人脈を持つバンドらしいです。 ポッツはコチラも長続きはしなかった様で、68年発表のアルバムにポッツの名は微塵もありませんでした。 ブルーフォードが大学に通いだしYESから離れた1968年9月、実はジョン・アンダーソンと住んでいたそうなんです。このポッツ氏がw そういう縁かよと突っ込みたくなりますねw この頃バンドがドラマーを探してたということもあり1週間弱一緒にリハを行ったそうです。(海外サイトではポッツの参加期間について、売り出し中で連日演奏してたYESが1週間ほどギグを行わなかった9月22日から27日がその時期ではないかと考察してるサイトもあります。)参考サイトYES GIGS 1968http://www.m-ideas.com/sullivan/Yesgigs.htmlList of Yes concert tourshttps://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Yes_concert_tours リハがひと段落した週の終わり、当時YESをマーキーで売り出してくれてたクラブ・マネージャー、ジャック・バリーを交えてディスカッションが行われることとなったそうで。その際、ジャック・バリーからクーバスのトニー・ケリー(トニー・オライリー)を使うよう提案があり、どちらがやるべきかドラマー同士でも話し合われたのだとか。 ポッツ「トニーは22歳で僕はまだ18歳、彼の方がレベルが高かった。僕も22歳になればもっと上手くなれたのだろうけど。」 その後あちこちのバンドを渡り歩いたそうで、フランプトンズ・キャメルやロイ・ヤング、グラハム・ベル(ポッツが抜けた後にアラン・ホワイトが参加w)、テン・イヤーズ・アフター、そして後期のラヴ・アフェアーなど。 (画像中央がDave Potts) その後、レイ・トーマスやバルビ・ベントンのアルバムに参加、ピーター・フランプトン(カムズアライヴが大ヒットした頃のツアー)やオジー・オズボーンなどとツアーで演奏し、1980年からはプレイング・マンティスで活動していたそうです。(かなり日本でも知られたバンドなのだそうですが、ヘビメタ関連はわからないのでこの辺でw) なんだ、結構ご活躍されてるじゃありませんかポッツさん。キャリアも相当長いですね。決して無名のそこらに転がってるなんちゃってドラマーじゃなかったのです。 結局68年秋のデイブ・ポッツとイエスの関係は、同居人アンダーソンつながりで練習参加した程度だったのでしょうね。アイランズ制作前のキング・クリムゾンのオーディションでベースに決りながらも辞退したリック・ケンプ同様、正規メンバーになる以前のリハ参加程度だったようです。 ポッツ氏の参加作品で日本でも知られてるものというと、プレイボーイレコードでデビューしたバルビ・ベントンの1978年4枚目アルバムAin't That Just the Wayがありますが、レコードを所有して無いのでどの曲に参加してるか判らないです。ロジャー・グロバーのプロデュースでサイモン・フィリップス他メンツも凄いのでちょっと探してみようかなとw あとお祈りカマキリことプレイング・マンティスの1981年アリスタから出たアルバムでも全面叩いてるそうです。(バッキング・ヴォーカルのクレジットもあるそうでw)プレイング・マンティスは2015年11月に来日するそうですが、当然初期メンのポッツさんはおりませんし着ませんw プログレ人脈だと元ムーディ・ブルースのレイ・トーマス作品From Mighty Oaks (1975)にも参加してますが、個性的かと聞かれるとんー。一応貼っておきますのでご参考に。RAY THOMAS - High Above My Head ※10/17追記Mandrake Paddle Steamerマンドレイク・パドル・スチーマーの末期、ヴォーカルとギターが抜けた後のトリオ編成時にポッツ氏は参加してたようです。調べるほど微妙過ぎるバンド暦が出てくる人ですね。ツイートで「絶妙にブレイク直前などの時期ばかりを渡り歩く、コージー・パウエル先生とは真逆の人生~('ε'*)」と的確なご指摘を受けましたwホントそうですね。※2016/10/25追記その後の調べで、ビルがYESを一旦抜けたのは1968年8月末日のギグ。後任のトニー・オライリーが初参戦したギグが1968年9月6日のマーキーと判明。デイブ・ポッツはビルが抜ける事が判った時点で同じフラットに同居してたアンダーソンらから、リハーサルに誘われてたのでしょう。結局、バンドに正式加入したのはオライリーで、ポッツさんはリハのみだったようです。オライリーが最後にYESと演奏したのは11月18日。。11月5日ブレイスでのギグは、一日だけイアン・ウォーレスが叩いたという事が判りました。
Oct 16, 2015
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かってのフロントマンだったルー・グラムに対し、来年アルバムデビュー40周年のフォリナーはオリジナルラインナップで何かやらないのかとABCラジオが質問したのだそうです。ルーは「そういうのが出来たらいいよね。何かの形にこだわる必要は無いと思う。」と過去の因縁も考え慎重に語ったようです。 2013年のソングライター殿堂入りで和解し、以後定期的に連絡を取りあっているというミック・ジョ-ンズとルー・グラム。ミックは「40周年はオープンマインドでいこう」と述べており、具体的な話はまだなようです。元メンバーでは、一昨年ガンで亡くなったベース奏者エド・ガリアルディを除けば他のメンバーはまだご存命。ルーもオリジナルメンバーが集結できる最後のチャンスかもと言ってるだけに、実現したらいいですね。 今のところこの件についてイアン・マクドナルド氏本人の反応はネット上に確認できてません。今は参加してるHoney Westの今年発売予定アルバムの作業中なんでしょうね。
Mar 6, 2016
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「キング・クリムゾンの16枚組ボックスセット『THRAK BOX』から「The Race」の未発表音源が聴けるビデオが公開」というニュースですが、以前両面DVDで発売された「デジャ・ブルーム」収録の映像と同じですよね?音が同一かどうかは、親友にDVD貸したまんまなので未確認ですw
Aug 21, 2015
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