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「ディア・ハンター」は嫌いな映画である。俳優も、キャメラも、音楽も、演出もすべてにおいて完成度が高いのである。この映画を最初に見たときは、まだ「地獄の黙示録」は公開されておらず、これを見ながら「『地獄の黙示録』は、地獄のような戦場の描写は、この作品を上回るであろうか」と考えていたほどであった。しかし、ベトナム戦争において加害者であるアメリカが、ここまで「アメリカ人も被害者という側面もあるのだ」という主張をしていいのかと、非常に腹立たしく、嫌悪感をいだいたのであった。以来、この作品は嫌いな映画のトップクラスに君臨しており、次にこの映画を見て、この「嫌い」がどのように変化していくのかという点が、ここ何年もの私の最大の関心事であった。「午前十時の映画祭」で、やっとその検証の場が叶えられたわけで、改めて見て、どうであったかと、マイケル・チミノ監督には、ベトナム戦争がどんな戦争であったのかの関心は全くなかったのではないかという点を強く感じたのである。ひとつの世界(共同体)が、社会の出来事(ここではベトナム戦争)によって、どのように変貌、あるいは崩壊するか、そのこととそれを構成する個々人の変化が、どのように関係づけられるのかを描いたものではないだろうか。結婚式のシーンが延々と25分ほどもあるが、そのシーンから多少無理なこじつけをやってみると、これはアメリカローカルの庶民版「山猫」ではなかろうか?そういう解釈の方が、ベトナム戦争論的解釈より非常にすんなり受け入れられるというのが現在の私のこの作品への評価である。「ディア・ハンター」とは、また、何年後かにお会いしたい。
2011年11月06日
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「未来を生きる君たちへ」という教育映画のような題名で、これは見る意欲をなくすのであるが、デンマーク語の原題は「復讐」とか「報復」という意味。英語版の題名は「In a Better World」。見た後の感想としては、「未来を生きる君たちへ」は、少年2人への大人たちの祈りのようなものであり、「In a Better World」は、憎悪と争いが絶えないこの世界への祈りを感じる。極めて今日的な内容で、世界中の人々が見るべき映画ではないかと感じた。
2011年11月05日
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この映画の登場人物たちが活動する基盤は「協同組合」であるが、この「協同組合」については、井上ひさしの「ボローニャ紀行」に登場する「組合会社」のことではなかろうか。この本によるとボローニャの人々は何かあるとすぐに組合会社をつくり行動するとあるが、これはイタリアのすべての当てはまるようだ。この映画をみながら、「組合会社」(協同組合)をつくり自活していく風土が、精神疾患の人々もまた社会の中で、それぞれが持っている技術や個性を活かした生き方が出来るのだと思った。映画「人生、ここにあり」は、人は誰も自分の個性や特技を活かして生きる権利を持つということが実現できる社会になるためには、どのようであるべきかということを考えさせた作品である。
2011年11月04日
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先日のおくんち見物に来られた外国映画輸入配給協会の事務局長から強く推薦された作品のひとつ。「人生、ここにあり」とは、なんとも教訓的な人生論を聞かされどうなつならない題名であるが、原題は「やれば、できるさ!」で、まさにその通りの内容である。この映画の背景にある精神病院が閉鎖されるというのは、精神病院を使わないで、患者たちを支えるという考え方があり、それを実現するしくみだという。精神疾患で心を病んでいるというが、ここに登場する人達は、みな私たちの周辺にいそうな、また会社の中にも必ずいそうな人達ばかりである。つまり精神疾患とは何かということである。この映画に登場するのは、その患者たちが、寄木細工で床を仕上げる技術で生きていこうとするのであるが、廃材を使った寄木細工というのが極めて暗示的。極めてデリケートな、ちょっと間違えれば、問題になりそうなテーマを実に明るく、それも見せ掛けの明るさではなく、そこにある問題や悲劇もきちんと描いている点が素晴らしい。イタリアという国の奥深さと思慮深さを見せられた思いである。
2011年11月03日
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「ゴッド・ファーザー」と「ゴッド・ファーザーPART2」、共にパーティーのシーンが冒頭にある。この二つのパーティーの在り様、そして描き方が、この2作品の内容を示している。第2作目の会場は第1作目より広い会場で豪華になっているはずなのであるが、どこか寒々しい。イタリア人独特の味がなくなってアメリカナイズされている。マイケルが統率する時代は、ビトの時代と全く異なる局面に入っていることを示している。だからこそ、最後の部分の、もうじき帰宅する父親を待つ兄弟たちの様子を描いたシーンが非常に生きてくる。これらのパーティーのシーン、食事のシーンの基は、ヴィスコンティの「山猫」にあることは明らかである。
2011年11月02日
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「午前十時の映画祭」で「ゴッド・ファーザーPART2」を見る。シリーズ化した場合、続編がつまらなくなるケースが多い中でこの作品は例外的に完成度をあげている。最初の「ゴッド・ファーザー」の存在を無視して、この「PART2」を独立した作品としても極めて完成度の高い作品だと思う。私が、この映画を見るのは、おそらく三度目くらいであるが、人間の記憶のあやふやさを見る度に感じる映画でもある。ストーリーは既に承知して見ているのであるが、場面の登場の順序や場面などが毎回微妙に違うのである。少年時代のドンがアメリカへやってくる回想シーンはもっと中盤かと思っていたら、ほぼ冒頭なのであるし、ロスが射殺されるシーンは空港の広いターミナルかと思っていたら、案外とキャメラが寄っていたし、ラストのマイケルは部屋の中で沈んだ表情を見せてドアが閉まっていくのかと感じていたら、そうではなかったなどかなり違う。これらの錯覚は、おそらく私自身がドラマに夢中になって、頭の中にもうひとつのドラマを創りあげていたのではなかろうかと思った。次回、見るときにはまたまた変わったものになるのではと、期待するのである。それにしても、この作品のアル・パチーノの存在感と貫禄は、ただものではない。大御所のリー・ストラスバーグに対して対等にわたりあっている。この作品、全編にわたり保身と縮小のドラマを大スケールで描いている点が素晴らしい。
2011年10月31日
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ポール・W・S・アンダースンという監督は、「バイオハザード」、「エイリアン VS. プレデター」、「デスレース」を観ると腕のいい娯楽映画の監督であるが、本作でも、その腕は発揮されている。娯楽映画として宣伝するなら、このレベルは最低限欲しいところ。ミラ・ジョボヴィッチが主役かと思ったら、あくまでもダルタニアンと三銃士が主役である。しかし、ミラ・ジョボヴィッチも、重要な脇役として活躍。私が見たのは2D・字幕版であるが、いかにも3D効果を意識したキャメラワークやアングルの連続。飽きさせない演出で客をひっぱっていく。クリストファー・ヴァルツのリシュリー卿は予想通り適役であるが、悪役のオーランド・ブルームはハンサムであるが、凄みがないのが残念。やはりアラン・ドロンは凄かったと改めて認識。ダルタニアンももうちょっと魅力が欲しいが、まあ、田舎から出てきたばかりの半人前という設定ならこれでもいいかというところ。いくつかの欠点はあるものの、飛行船の戦闘など派手な見せ場の連続で、気晴らしの映画鑑賞には最適な作品である。
2011年10月29日
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ユナイテッド・シネマに置いてある「猿の惑星・創世記 ジェネシス」のチラシには、「泣ける」と「涙」の文字が全面的に覆っている。ここまで泣ける「猿の惑星」を観ることになるとはこんなにも泣いたことはありません始めから終わりまで泣き通しでしたまるで難病悲恋映画の宣伝文句ではないか。「猿の惑星・創世記」を観て泣く人がいても、それは全くかまわないのであるが、しかし、ここまで言うか?それを配給会社が取り上げて、こんなに宣伝するか?もしかして、「泣ける」ということが名作、観るべき映画、観て満足する映画の条件と思っていないのか?
2011年10月28日
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小説「猿の惑星」の原作者は「戦場にかける橋」のピエール・ブール。「戦場にかける橋」では、図らずも日本兵を善人に描いたことが悔やまれ、それがきっかけかどうかは定かではないが、日本人を猿に描いたのが小説「猿の惑星」であったと言われている。今回の映画を見ると、もし、これが日米貿易摩擦が激化し、日本人が金にものを言わせて次々とアメリカの資産を買いあさった時期に、この映画が作られていれば、この作品はもっと話題になり、議論になったのではなかろうか。映画の中ではアルツハイマーの治療薬の実験台になったチンパンジーが知能を持って、という展開であるが、これが戦後、アメリカから自由と民主主義を与えられて経済大国になったとの喩えに描かれたという批評が出るのは容易なこと。ただし、それ以上のものはなく、日本人に対する揶揄や批判は読み取れないので、この作品は「日本人へのあてこすりである」とするのは見当違いであろう。
2011年10月25日
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クロード・ルルーシュ監督の「パリのめぐり逢い」のイヴ・モンタンのキャスティングは、もしかしたら、この映画からインスパイアされたものではなかろうか?アンソニー・パーキンスは、この映画の撮影は「サイコ」の直後であり、監督としては、「サイコ」を意識したのではなかろうか?この映画のパーキンスはすごいと思う。その後、アンソニー・パーキンスは、役柄を拡げることができずに俳優としては悩んだようであるが、それは「サイコ」ではなく、むしろ普通のお坊ちゃん育ちの青年を演じた「さよならをもう一度」の影響が大きかったのではなかろうか?
2011年10月24日
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衝撃的なラストが伝説的作品となった68年の「猿の惑星」は、チャールトン・ヘストンが主演であることも手伝って、壮大なエピック・ロマンともなった。今回の作品は、その序章ともいうべき内容。猿が支配する地球はいかにして生じたのかについて描いている。この作品、技術と演出は、大変よく出来ているのであるが、残念ながらスケール感に乏しいのである。一都市を舞台にした動物パニック映画のレベルであり、それであれば、これは傑作なのであるが、地球全体が猿に支配されるプロセスを描いたことにはならない。確かにラストに全世界に伝播する過程が絵解きされるが、あの程度の描写ではチープではないか。もっと衝撃が欲しいところである。本作品は、おそらく続編があるのであろう。それを期待しようではないか。
2011年10月23日
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この映画は一人の女性と二人の男性による三角関係のラブロマンスであるが、この映画が最も描いているのは、40代の肉体を持つイングリット・バーグマンである。この作品の撮影中、彼女は45歳であり、演じている女性は40歳という設定。「カサブランカ」や「誰が為に鐘は鳴る」などの20代の若き美人女優とは違ったバーグマンである。容貌、肌、肉体、歩き方などすべてに中年の表情が顕れている。そうしたものを抱えたバーグマンの苦悩が、そのまま主人公ポーラを演じるのに相応しい。いや、むしろ、中年期のバーグマンの苦悩が、ポーラを演じさせたのかも知れない。まさにこの時期でなければ、この映画への出演は、単に演技力を発揮するだけの仕事であったかも知れない。この「さよならをもう一度」はラブロマンス映画という枠を超えて、40歳代のバーグマンのドキュメンタリー映画となっている。
2011年10月22日
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「マーラー君に捧げるアダージョ」も「ショパン愛と哀しみの旋律」も、わかりやすい物語である。特に、前者では、マーラーの曲がなかなか親しみにくいものであり、更にはフロイトが登場するのであるが、全体的には、そのような難解さはない。こうしたわかりやすさを、「昼メロ調」と揶揄することも可能であるが、私はそうは思わなかった。わかりやすくすることで、マーラーやショパンの天才であるがゆえの苦悩に接することができ、また、同時に彼らの作品を聴いてみようという気にさせたのである。これまで敬遠していたマーラーの交響曲第8番、アルマ・マーラーに捧げたというこの曲はやはり聴いてみたいし、ショパンがサンドとの交際期間に作曲した作品も、またリストの作品も改めて聴いてみたい。
2011年10月17日
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ジョルジュ・サンドとショパンの最初の出会いの瞬間を描いたシーンは、彼らの未来を暗示させる。サンドを演じたダヌタ・ステンカという女優、私が抱くサンドのイメージ通りである。あまり馴染みがないが、「カティンの森」で大将夫人を演じた女優。ここでも印象的であった。「カティンの森」は長崎では公開済みであるが、10月30日には「長崎国際平和映画フォーラム」で再度公開されるので、これは改めて見る機会出来た。
2011年10月16日
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ピアノの詩人と称され、繊細な作品が知られているショパンは、若くして病死したことから、弱弱しいイメージがあるが、この映画で描かれるのは、情熱的なショパンである。冒頭から理不尽な支配者への反抗と大国に支配されるポーランドの想いが激しく描かれ、この部分で激しく、疾走するショパンのイメージが示される。そんなわけで、その後のジョルジュ・サンドとの出会いからの描写も説得力ある展開。サンドとの愛の生活は想像以上のひどさであったが、そうした中で「英雄ポロネーズ」や「舟歌」などの名曲が生まれたのであるから、これは「マーラー君に捧げるアダージョ」でも感じたことであるが、恋愛と創造力の関係は不思議なものである。それにしても天才であることの代償とはなんと大きなことか。
2011年10月15日
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ナチスによるユダヤ人虐殺については、「何故、このようなことが起きるのか」という思いにかられる。しかし、このような差別や虐殺は、その後も現在も数多く起きている。「黄色い星の子供たち」を見ながら、あるいはユダヤ人虐殺をテーマにした作品を思い出してみると、そこには権力者への阿りと、それに同調することでの周辺との波風立てない生き方というものがあるように感じた。また、ユダヤ人を差別しても決して社会正義に反するものではないという論調も世間に流布して、それにみんなが同調していたということもあるのだろう。こうしたことは現代の日本でもたびたび起きていることを知っておくべきであろう。
2011年10月13日
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ナチスのユダヤ人虐殺というだけで十分にショッキングなのであるが、それにフランスが手を貸していたということもまた、あまりにもショックである。こうしたことが具体的な一人一人の人間にどのように影響を与えるのかが描かれる、この映画の終盤にこそこの映画の白眉である。収容所から脱走する決意をする少年ジョーが、友人に「両親はどうするのだ?」と問われて、「あきらめた」と答えるシーン。戦後、アネットと再会したジョーとノノ。ノノの顔には笑顔はなかった。眼は幼い子どもとは思えない死んだようであり、無表情であった。子どもが子どもでなくなること。それが戦争であり、ユダヤ人虐殺であったということの残酷なまでの描写であった。
2011年10月12日
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この映画はフランスがナチスのユダヤ人虐殺に手を貸した、加担した事実を描いたものである。フランスにとっては負の事実であり、あまり公表したくないことであろう。そのようなことを描いた作品を、なんとゴーモンという伝統ある映画会社が配給していることに注目しておきたい。製作にどの程度関わったのかは判らないが、この点には驚いた。これは日本で言えば、朝鮮人の強制労働や従軍慰安婦を描いた作品を東宝や松竹が配給するようなものである。過去を直視する歴史認識の違いであろうか。この映画を見て、私はまず、このことを考えさせられた。「黄色い星の子供たち」のような映画は日本でも製作できるかも知れないが、果たして、それを東宝や松竹は配給するであろうか?
2011年10月11日
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「麗しのサブリナ」でオードリー・ヘプバーン演じるサブリナのハートを射止めるのは、ハンフリー・ボガートである。このとき、ボガート55歳。ウィリアム・ホールデンは36歳。ヘプバーンの25歳に対して、年上である。その後、ヘプバーンが共演することになるゲーリー・クーパー、フレッド・アステアも年上で、作品の上では年の差カップルを演じることになる。では、彼女がリードされるだけの存在であったかというと、そうではなく、きちんと主張する人物を演じている。そのバランスは見事で、これはあくまでも推測であるが、ここにはおそらくヘプバーンをいかに売り出すかという映画会社なりの方針が貫かれているのであろう。この傾向はなかなか興味深いが、こうした作品が生み出された社会的背景とは何であったのだろうか。
2011年10月10日
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「ローマの休日」に続くオードリー・ヘプバーン主演の2作目。ここでは、お抱え運転手の娘が、彼らを雇っている金持ちの次男に片思いをし、やがてパリに行って洗練されて帰ってくる。そこからは兄弟二人の間の恋の行き来。この物語の中にその後の彼女の主演作品の要素がすべて出揃っている。この2作品で、その後のヘプバーンのイメージを決定づけたのではなかろうか。彼女の場合、そのイメージが負担になることなく、ほぼそのイメージを活かしたキャリア形成となったことは奇跡的なことかもしれない。但し、これは観客の立場からの意見であり、彼女自身がどのように思っていたかは判らない。下手な監督が演出すると陳腐というか、醜悪になりかねないこの物語を見事に演出したビリー・ワイルダーの映画術には、ただただ敬服するばかりである。ヘプバーンにとってスタートにおいてウィリアム・ワイラー、ビリー・ワイルダーという名監督に出会ったことは幸福というべきであろう。
2011年10月09日
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偉大なる作曲家グスタフ・マーラーの伝記映画かと思ったら、確かに伝記映画には違いないのだが、マーラーの悩みの聞き手が、なんとフロイトという設定のびっくりするような設定。「起きたことは事実であるが、どのように起きたかは創造である」というフレーズが表示されるが、この映画のねらいは、まさにそこであろう。そこを認識しなかったら、この映画は昼メロ調の判りやすいが、底の浅い作品と評されておしまいであろう。このような悲劇的な苦悩があったからこそ、あのような名曲が生まれたとすれば、創造とはなんとすごいものであることか!
2011年10月08日
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もし、日本の幼稚園で哲学のクラスを開設するという案が出たら、もしかしたら、かなりの反対が出るのではないか?子どもらしさがなくなる。理屈っぽい子どもになる。特定の思想を押し付けるな。社会に出て役に立たない哲学より英語を教えろ。というのが予想される反対理由。これは「哲学」への偏見であり、間違った認識なのであるが、おそらくこういう意見は根強いのではないか。映画「ちいさな哲学者たち」に描かれているようにあの年齢から自ら抽象的なことを考える習慣を身につけることが、その子どもたちのその後の人生に大きなプラスの影響を与えるのではなかろうか。それは子どもたち個人だけではなく、そのような人が集まったまちや国自体が変わってくるのではなかろうか。
2011年10月06日
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哲学のクラスを設けて、子ども達が自分で考える力を養成するユニークな教育方法が採られているパリ郊外にある幼稚園の活動とその状況を追ったドキュメンタリーである。もし、これを日本でやろうとしたら、子ども達の親たちや周辺の方々はどんな反応を示すのであろうか?私はこのような試みは日本でも実施されていいと思う。日本でこのようなことをやっている幼稚園はあるのだろうか?子ども時代から、愛について、人種について、生きることについて、自分と他人との関係について、このように自分で考える機会があり、それが習慣になることは、大人になって大きな成果となるのではなかろうか。ここに描かれた幼稚園児たちは、大人になって、様々な問題をかかえる社会の中で、きっと良き社会人となって解決に立ち向かうのではなかろうか。今、社会に必要なものは何かを示してくれた映画であったと思う。
2011年10月05日
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ジェームス・スチュワートは第二次大戦中は爆撃機のパイロットとして活躍し、大佐まで昇進したという経歴の持ち主。戦後復員したとき、映画会社は彼を主演の戦争映画を企画しようとしたが、「本物の戦争を見てきた人間が、戦争映画に出たいと思いますか?」と言って断ったという。フランク・キャプラもまた戦争によってショックを受けた。そんな二人によって創られた作品が「素晴らしき哉、人生!」であるとは納得である。この映画は時代が生んだ映画といえよう。もしかしたら、ジェームス・スチュワートはオーディー・マーフィーのように扱われるスターになったのかも知れないと思うと非常に複雑な思い。
2011年09月28日
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冒頭から「夜の大捜査線」や「華麗なる賭け」を彷彿とさせるアメリカン・ニューシネマ・テイストの画面。これらの作品に共通しているのは、ドキュメンタリータッチの画面の中でヒーローやヒロインを見事に格好良く描き出していることだ。それに大きく寄与したのが編集者としてのハル・アシュビーであることは言うまでもない。そのハル・アシュビーが、この作品では監督であり、ザ・ローリング・ストーンズのメンバーたちがいかに素敵なスターとして撮られているかは期待以上のものがある。コンサート会場を縦横無尽に動くキャメラが捉えたミック・ジャガーたちの姿、そして、それぞれのキャメラ位置から撮られた場面が切れ目なく繋がっていく様は、名編集者ハル・アシュビーの面目躍如である。これはコンサートのドキュメンタリーというより、ザ・ローリング・ストーンズを主人公にしたアクション映画と言ってもいいのではないか。
2011年09月27日
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24日は、「午前十時の映画祭」で「素晴らしき哉、人生!」を見た後に、ほとんど時間をおくことなく、「ザ・ローリング・ストーンズ レッツ・スペンド・ザ・ナイトトゥゲザー」を見たのである。つまりハシゴ観賞。一方はクラシックなモノクロの劇映画であり、もう一方は音楽ドキュメンタリーである。全く異質のものを続けて見たわけであるが、お互いにマイナスに作用することなく、どちらも印象深く心に刻まれている。優れた映画というものは、そういうものだと言ってしまえば、おしまいであるが、もしかしたら、この2作品の間には共通したものがあるのかも知れない。また、フランク・キャプラとハル・アシュビーとに共通点があるのかも知れない。ハル・アシュビーをフランク・キャプラの世界から探ってみるのも面白いのかもしれない。ハル・アシュビーはアメリカ映画の変革期に登場した作家であるが、「素晴らしき哉、人生!」もまた、終戦直後という時代の変革期に生まれた作品であることを考えれば、この2作品には共通する何かかがるのかも知れない。いろいろと考えさせてくれた映画体験であった。
2011年09月26日
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この映画はアメリカ映画の代名詞的存在であり、同時に黒澤やスピルバーグが敬愛する作品であり、またアメリカの大学の映画学部では教科書的な扱いを受けているという具合に最高の扱われ方をしている作品であるが、公開当時は興行的に惨敗で、フランク・キャプラ引退の遠因にもなった作品である。この作品で最も観客に衝撃を与えるのは、主人公ジョージ・ベイリーが生まれなかった世界を見せる場面である。この地獄巡りのようなシーンの異様な迫力は、おそらくキャプラの戦争体験が生み出したものであろう。人間はひとつ何かが違ってくると、このように変貌するという暗示である。だからこそ、ラストシーンの感動が強くなるのであるが、当時の戦争をくぐりぬけた観客には白けるものであったのかも知れない。
2011年09月25日
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二人の男が何やら準備をしている。そして、その二人が道を歩く若い女性を誘拐し、隠れ家のベッドに縛り付ける。ここまでをスピーディーに一気に見せる。セリフなどない。この無駄のない導入部で私はひきつけられ映画の世界に引き込まれる。この映画の登場人物は誘拐する男二人と誘拐された女性1名の3名のみ。これは主要人物が3名ということではなく、画面に登場するのが3名ということなのである。やがて、誘拐は突発的なものではなく、計画されたものであることが判ってくる。3名のそれぞれの関係もわかってきて、そこから計画の綻びが生じてくる。それがサスペンスを生み出す。登場人物が3名だけであるから、主軸となるストーリーのみに集中して無駄がない。101分という上映時間もちょうどいい。この映画、予想もしない傑作である。成功の要因は、3人の行動のひとつひとつが的確に描かれ、そこから次の展開へつなげていくシャープな編集と省略の見事さである。物語のテーマは「崩壊」である。何が崩壊するのかは実際に映画を見ていただくしかない。タイトルにある「失踪」は、原題も同じであるが、もしかしたら、「失踪」はラストから始まるのではなかろうか?エンドタイトルのデザインも見事であった。
2011年09月24日
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先日、「午前十時の映画祭」で「ザッツ・エンタテインメント」を見て思ったのであるが、数多くのMGMミュージカルの名場面を見ながら、なんと場違いにもスタンリー・キューブリックの作品を連想させた。構図などが、そっくりの場面があるのだ。題名は忘れたが、「シャイニング」を連想させる場面があったし、キャメラワークが、「2001年宇宙の旅」や「現金に体を張れ」にあったぞと思わせるものがあった。「恋愛準決勝戦」で、フレッド・アステアが、部屋の中で床から天井までを自由に歩き回るシーンは、「2001年宇宙の旅」の中で宇宙船でスチュワーデスが歩く場面で再現されていたではないか。この2作品の監督は共に「スタンリー」。キューブリックは、これらの作品群から何らかの影響を受けているのではなかろうか、とそんな想像をめぐらせることが出来たのも、この映画の楽しさであった。
2011年09月23日
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「バンド・ワゴン」という映画を初めて見た。これが、これほどに楽しい映画とは思わなかった。もちろん評価の高い映画であるとは知っていたが。この楽しい映画の一部と、たまたま同時期に見た「赤い靴」と重なる部分があって、それは何かというと芸の追及と個人的な人生における幸福の追求の選択のことである。「赤い靴」は極めてシリアスであり、残酷なお話しなのであるが、この「バンド・ワゴン」では全くそのようなことは感じさせない。選択の結果も、選択するにあたってのパートナーの態度が全く違うのである。もちろん、楽しいミュージカルという装いもある。きびしい状況を描いても、そこを洗練された楽しさで包んで観客をリードする技術が、特にMGMミュージカルでは優れていたのではないか。そうしたことが「思想的には深みはない」が、長年にわたり、多くの観客に映画の楽しさを提供したことには間違いない。
2011年09月22日
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アメリカ映画においてはミュージカルと共に戦争映画と西部劇は娯楽映画の定番であり、これらはアメリカ映画の最も得意とするジャンルとなった。戦争映画と西部劇が何故、活性化したのかというと、それは敵を描いてきたことである。この場合の敵はナチスであり、あるときは日本軍であり、また共産主義であり、インディアンと名付けられた先住民である。ただ、こうした敵の存在が常に有効かというと、そうではなく先住民に対する意識の変化は西部劇というジャンルを衰退させ、ナチスや共産主義が悪役であることも万能ではなくなってきた。現実の国、地域、あるいはイデオロギーを敵とみなすことが、世界を相手にしている映画ビジネスでは不具合となる場合が多く、そうなると取り扱いが安全な敵としてはエイリアンだけであろう。「スカイライン・征服」や「世界侵略・ロサンゼルス決戦」という映画は、そうした新たな取り扱いが安全で安心できる敵を設定した「新時代の戦争映画」というべきであろう。
2011年09月21日
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「赤い靴」はマイケル・パウエルとエメリック・ブレスバーガーの共同監督作品であるが、この作品について最も寄与し、存在感があるのは、撮影監督のジャック・カーディフであろう。ジャック・カーディフといえば、監督としても活躍しており、メジャー作品も手がけている。そのひとつ、1968年の「あの胸にもういちど」は、アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグの小説「オートバイ」を当時流行のサイケ調の斬新なタッチで描いた作品でキャメラマンとしてのジャック・カーディフのセンスが随所に光っている傑作であった。アラン・ドロン主演で売り込んだはずが、いつの間にか、これはマリアンヌ・フェイスフル主演作として語られるようになった作品である。この映画でヒロイン、レベッカが乗るハーレーとペイジが履く赤い靴とは同じ意味を持つのではなかろうか。彼女らがめざすところへと連れていってくれるもの。それがレベッカにとってはハーレーであり、ペイジにとっては赤い靴であったわけだ。そして、ラストも共通している。「あの胸にもういちど」はジャック・カーディフ監督による「赤い靴」なのではなかろうか。
2011年09月20日
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この映画のジャンルをどのように言うべきであろうか。地球を攻撃する宇宙人との戦闘を描いた内容であるから、SF映画としてもおかしくはないが、実際にこの映画を見ても、SF映画とはとても言い難い。SF映画に必要なセンス・オブ・ワンダーは全くなく、内容としても宇宙人との戦闘である必然性は全くない。これは、凶悪なアパッチ(敢えてこのような表現をとらせていただく)に包囲された開拓民を救出する騎兵隊であっても、ナチスドイツ軍から友軍を援助する為に出向いた小隊であってもいいわけだ。もちろん、最近のアフガニスタンやイラクを舞台にしてもこの映画は成立する。そのように考えると、この映画は例えば、かっての人気テレビシリーズ「コンバット」が、SF映画のスタイルをパッケージにして再登場したということだろう。
2011年09月19日
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ナタリー・ポートマンがアカデミー主演女優賞を獲得した「ブラック・スワン」のDVDが発売され、そのほとんど同時期に長崎では「第8回浜んまち映画祭」の9月上映作品として「赤い靴」が登場。まさに「黒と赤の対決」なのであるが、これは断然、赤、つまり「赤い靴」の勝利であろう。途中の15分にもわたる「赤い靴」のバレエシーンが素晴らしく、この場面だけでも一見の価値である。このシーンが、この物語のすべてを語っており、また、魅力でもある。色彩の鮮烈さは期待通りで、それは色自体の力というより色とそこにある光との調和が画面の中の色彩の魅力である。「スタジオこそ、本当に自分たちが発揮すべき心理的演技を引き出せる場」とは撮影監督のジャック・カーディフの言葉であるが、俳優の演技と作品の外観である色彩効果が見事に発揮された作品といえよう。
2011年09月18日
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「気になる映画」であったが、その予感は的中。冒頭の木洩れ陽に覆われた森の中の情景が例えようもなく美しく、このファーストシーンで映画の世界にひきつけられる。その画面のタッチが、この映画の世界や展開のタッチを示しており、それは寸分の狂いもなく、描かれ、展開していく。映像美とは、この映画の為にあるようなもので、その情景が主人公の少年の孤独感や不安感をそのまま反映している。この作品は主人公の少年ユスフの成長を描く3部作の完結編だという。是非、最初の2作品も見たい。
2011年09月17日
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「ザッツ・エンタテインメント」で判るようにMGMが製作したミュージカルは、まさに夢の世界の物語であり、それは観客にとって現実からの逃避であった。ヒーローとヒロインが活躍する物語はジャンルを問わず、逃避の役割を果たしており、ミュージカルに限ったことではないのであるが、生身の人間のドラマの中に歌や踊りを入れる構成は、まさにありえない夢物語であり、現実逃避ドラマとしては最適の形態であったわけだ。こうしたことを考えると「ウエストサイド物語」がいかに革新的なミュージカルであったかよく判る。日本映画で「仁義なき戦い」が任侠映画とプログラム・ピクチャーを壊滅させたように、この「ウエストサイド物語」は夢のミュージカル映画を壊滅させたのではなかろうか。また、その数年後に登場する「キャメロット」も、理想郷崩壊の物語を重厚な画面が、重苦しい展開となり、夢のようなミュージカルとはならなかった。「キャメロット」は、アメリカン・ニューシネマ誕生の時期であり、ミュージカルというジャンルもまた、その時代の波にもまれたわけである。
2011年09月15日
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MGM創立50周年を記念して製作されたMGMミュージカルの名場面集。ミュージカル映画の楽しさが判る実に楽しい作品であるが、同時にMGMという映画会社の厚み、すごさが伝わってくる。ミュージカル映画というジャンルは日本映画にはない。そしてハリウッドでもこのジャンルは、ほとんど絶滅状態である。しかし、かって、これだけの作品群が存在し、しかも、それらが多くの観客たちをひきつけたという事実そのものに圧倒される。これはもしかしたら映画史の奇跡なのかもしれない。
2011年09月14日
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人間とバンパネラとの恋は、例えるならば、モンターギュ家とキャプレット家との恋のようなもの。この映画の中でオーウェンが学校で「ロミオとジュリエット」の映画を見る場面は、この映画「モールス」の象徴的な場面である。しかも、映し出されるのは、夜明けに恋人たちが別れる場面。夜明けに別れざるを得ないのは人間とバンパネラの恋人たちの宿命である。実に象徴的な場面である。連想される映画としては「扉をたたく人」もある。リチャード・ジェンキンスが重要な役で出演しているからではないが、「扉をたたく人」の原題が「The Visitor」であり、この「モールス」の原題が「Let Me In」であることと通じるものがあり、よくよく考えると、内容も禁じられた相手との恋であることを考えると、「モールス」と「扉をたたく人」とは内容としても通じるものがる。バンパネラの物語は、旅の物語であり、また、これは決して恐怖の物語ではなく、癒すことの出来ない孤独感の物語である。
2011年09月12日
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捕虜になった女性兵士ミーナを護送するアーロは、裁判所のエーミル判事に希望を持っていた。人文主義者としての彼なら捕虜に対して公正で寛大な判決を下すのではないかという期待である。しかし、そのエーミル判事は、タカ派の、あるいは根っから軍人などとは比較にならないくらいの怪物的な人物であった。戦争という状況の中で知性など、軽く吹っ飛ぶという残酷な事実を描いたということであろう。
2011年09月10日
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「チェルノブイリ・ハート」を見ながら、同じくドキュメンタリー映画「ダーウィンの悪夢」を思い出した。どちらも人間の欲望の為、経済的利益の為に一部の人々にそのしわ寄せが行く、しわ寄せなどという大人しい表現ではだめで、これは命の危機、命を失う事態に追い込まれるというもの。こうした犠牲者のことを全く考えることなく、ものごとが進んでいく、そして、それを止める人がいないという恐ろしさ。「チェルノブイリ・ハート」は非常に悲しく、絶望的になる映画であるが、現代に生きている者としては必見。長崎セントラル劇場では本日(9日)まで。
2011年09月09日
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ロバート・ワイズという監督をどのように評価すれば、いいのだろうか?「ウエストサイド物語」と「サウンド・オブ・ミュージック」によってミュージカル映画の巨匠と呼ぶこともあるが、これは正しいのか?「ウエストサイド物語」の魅力は、ジェローム・ロビンスの力によるものではなかろうか?その彼が不在の「サウンド・オブ・ミュージック」はミュージカル映画としては合格ラインギリギリのレベルである。続いてジュリー・アンドリュースと組んだ「スター!」は、ミュージカルというより映画としての魅力も全くない凡庸以下の作品であった。このように書くとロバート・ワイズを大嫌いなのかと思われそうであるが、そうではない、むしろ好きな作家である。良心的な社会派であり、リアリズム重視の作家でありながら、SF的な作品にも果敢にチャレンジする姿勢が非常に好きな作家であった。「ウエストサイド物語」と「サウンド・オブ・ミュージック」の間に撮って、あまり話題になっていない「たたり」や「スター!」の後の「アンドロメダ・・・」、そして晩年の「オードリー・ローズ」や「スタートレック」に彼の最も得意なジャンルではなかろうかと思うのである。
2011年09月08日
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「サウンド・オブ・ミュージック」を見て、非常に気になることがある。トラップ一家は、無事に脱出できて、その後のことはご存知の通りである。男爵夫人、マックス、そして電報配達のロルフは、ナチスの時代をいかに過ごし、どのように戦後を迎えたのだろうか?
2011年09月07日
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この作品はロバート・ワイズ・プロダクションの作品であるから、彼自身の意思は反映されているはずである。この作品が、どのようにしてロバート・ワイズ監督作品として実現したのか、その経緯を知りたいところである。これは持ち込み企画で、彼が監督をするようになったのか、あるいは彼自身がこの映画化に積極的であったのか。この映画の良さは、展開の滑らかさである。編集は大ベテランのウィリアム・レイノルズであるが、かっては名編集者として「市民ケーン」を手がけたロバート・ワイズの力も寄与しているのであろう。結婚式のシーンから幸福な音色の鐘の音を積み重ねて、それが次第に荘重な重い鐘の音となって、ザルツブルクを行進するナチの軍隊が描かれるまでの流れは見事である。この映画は、ミュージカル作品としては不合格スレスレながらも、ロバート・ワイズらしい演出が冴えるのは、一家が国外脱出を決意してからの終盤の展開である。それまでの明るく軽快な展開から夜間撮影を主体としてサスペンスフルな画面の連続となる。もしかしたら、この映画でロバート・ワイズらしい演出が発揮されるのは、この終盤だけなのかも知れない。それでも全編にわたって楽しめるのはロバート・ワイズをはじめとする職人的映画術によるものであろう。
2011年09月06日
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昨年、秋に「午前十時の映画祭」で「ウエストサイド物語」を見たので、今回は、それを参考にしながら観賞。冒頭のアルプスの山頂からキャメラがずっと降下して緑の草原を歩くジュリー・アンドリュースを捉えるまでは、明らかに「ウエストサイド物語」のファーストシーンの繰り返しである。そこからジュリー・アンドリュースが主題歌を歌い、修道院に慌てて戻るまでは、ワンシーン・ワンカットだと思っていたら、違うのですね。それでも編集があまりに滑らかで、そうだと言われても信じてしまいそうだ。修道女たちがマリアを、どのように扱うべきかを歌う「マリア」は、「ウエストサイド物語」の「アメリカ」のような掛け合いの面白さをねらったのかもしれないが、修道女たちではあのようなダイナミックな動きはできない。この作品をロバート・ワイズが、どのような意図で製作したのかは判らないが、「ウエストサイド物語」からは格段にレベルダウンである。その最大の要因は、ジェローム・ロビンスの不在というより。登場人物たちに対立軸がないことである。強いて言えば、ナチのオーストリア併合前夜ということで親ナチ派と反ナチ派の対立があるが、さほど大きな効果は生んでいない。ミュージカルとして歌はいいのであるが、踊りについては、ほとんど魅力的なものはない。それでも、この映画が観客をひきつける力を持っているとすれば、ジュリー・アンドリュースと七人の子供たち、そして舞台となっているオーストリア、ザルツブルクの美しい風景の力である。様々な欠陥がありながらも、やはりまた見ようと思わせる不思議な、奇跡的な映画である。
2011年09月05日
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この作品の原題は「掟」とか「命令」という意味であるという。このことを知って、この映画を見ると、この物語が持つ複雑さとどのように展開するのか判らないその一種の無軌道さが、実は意図的なものであることが判る。フィンランド内戦という日本人にはなじみのない悲劇的な出来事が背景になっているが、捕虜となった女性兵士、彼女を護送する兵士、そして彼女の裁判を行う判事という3人の物語は、戦火の中の敵兵士との愛というドラマから異様な予想外の展開を示しながら、人間の本質的タイプの物語として描かれる。「掟」とか「命令」というものが人間をどのように変えていくのか、あるいはそれとどのように向き合っていくのかを描いた極めて身近な物語である。
2011年09月04日
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生まれ育った故郷に永久に住めなくなる、それがなくなるということはどのようなことだろうか?何の落ち度もないのに、故郷を追われ、永久に住めなくなるとはどういうことなのか。それだけではない、生まれながらにして、あるいは突然の永久に治ることのない病になる。まさに理不尽である。そのような理不尽が、未だに改善され、そこにいる人々が救われる見込みはない。科学技術への盲信が、いつか人々に災いをもたらすとはよく言われるが、その対象が、どうしてあの子どもたちであり、村人なのだ?これはチェルノブイリだけのことではない。日本でも起きて、あるいはこれから起きることである。
2011年09月03日
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テロを決行しようとするマイケルランダーを演じるブルース・ダーンは好演で、おそらく彼の代表作になるのではないか。マイケル・ダーンは国家に対する恨みを持っており、このテロはアメリカという国家に対する復讐の意味もある。ベトナムで捕虜になり、大変な苦痛を強いられてきたにも関わらず、帰国後の状況について、決して恵まれたものではない、その有様もきちんと細かく描かれる。この映画「ブラック・サンデー」はダイナミックな演出が見所であるが、実はマイケル・ランダーについての繊細な描写が説得力を与えている。テロ決行直前、スーパー・ボウルの競技場に流れるアメリカ国歌を聴き、彼が一瞬ビクリとして、ひるんだような表情を見せる場面があり、そこが印象に残る。これはブルース・ダーンの演技力でもあるのだが、フランケンハイマーの演出力にも注目したい。非アクション映画の「さすらいの大空」が傑作なことでも、それは証明された。
2011年09月02日
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「フレンチ・コネクション2」はジョン・フランケンハイマー監督の傑作のひとつであるが、この作品の見せ場は何と言ってもポパイ刑事の疾走シーンである。ポパイ刑事の執念が、息づかいと肉体の動きと共に伝わってくる。屋外アクション・シーンの名場面といえよう。それを更にダイナミックにしたのが、「ブラック・サンデー」におけるマイアミでのホテルから海辺に至る屋外の追跡シーンである。人質、銃撃、車が走る路上、人ごみとスリルを生み出す要素をすべて描いての迫力満点の場面である。アクションシーンというものはダイナミックな分、どこかに軽さがあるのだが、この2作品に共通するのは、重量感である。それは追う者と追われる者との執念を描いているからであろう。人間の執念を描くこと。それはフランケンハイマー監督作品の最大の特長であり、美学である。
2011年08月31日
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「午前十時の映画祭」で公開された「ブラック・サンデー」はついに8月26日に終了。とうとう1回しか見ることが出来なかったが、鑑賞後1週間経てもまだ興奮はさめない。この映画の主役はイスラエル諜報局のカバコフ少佐であるが、物語はテロを計画するマイケル・ランダーを軸として展開する。マイケル・ランダーを演じるブルース・ダーンが、ベトナムで捕虜になり屈辱の体験を経て帰国しながらも家族と祖国の裏切りに静かな怒りを燃やす男を見事に演じている。これは、まさにもうひとつの「タクシー・ドライバー」というべき内容である。「タクシー・ドライバー」は76年で、「ブラック・サンデー」は77年。この時期のアメリカがどのような状況であったのかがよく判る。ジョン・フランケンハイマーは、そうしたアメリカの状況を告発したり、批判するのではなく、堂々たる娯楽映画に仕立て上げた。そこをフランケンハイマーの限界とみるかどうかは意見の分かれるところであり、私自身もどのように評価するかは不明である。
2011年08月27日
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森の中にある古い屋敷に愛犬と共に住む老嬢アニェラを描いたこの作品を見ながら、「2001年宇宙の旅」を思い出した。光の洪水を抜けて不思議なロココ調の部屋にたどり着いたボーマン船長は、あの部屋で、このアニェラのように生きていったのだろうかと思ったのである。この「木洩れ日の家で」の老朽化した家のいたるところに彼女の過去の思い出が、その祖先の思い出が、そしてポーランドの歴史が堆積されている。しかし、この映画には過去の出来事は登場しない。アニェラの記憶の一部が少しだけ描かれるが、それは明瞭なものではない。過去がたびたび語られるが、その実態は全くといっていいほど描かれることはない。それは、常に語られるが、その実体は、全く登場しない「レベッカ」のようである。これは、ストーリーを追うというより、物語の中のアニェラと一緒になって、映画の中に入り込み、感じる映画である。その意味では「ツリー・オブ・ライフ」にも似ている。「感じる映画」の中に入り込むことを後押しするのが、独特の美しさを持ったモノクロ画面なのである。
2011年08月25日
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