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この二人には全く共通点はないのだが、あいついで、大きな存在が亡くなった ということで。クライバーのことは、きっと数多くの方が書かれるだろうし、書いておられるので、単なる個人的思い出を…(といっても日本で彼を聴く機会は録音含めても限られてるのでそれもきっとダブるだろうが…こんな「現代の」演奏家も珍しい…)。クライバーは、文字通り「新星のように」現れたのが、もう30年ほど前か。登場の頃をリアルタイムで知るわけではなく、ベートーヴェンの交響曲の2枚が評判になっていた頃に、ちょうどクラシックを聴き始めたので、クライバーの5番は、デフォルトに近い。当時は、音楽の畳み方や、テンポの動かし方(伸び縮み)よりも、生々しくリズムを刻むウィーンフィルの弦楽器の音質や、各楽器の輪郭がはっきりしていること、颯爽としたテンポが印象的だった。FMのエアチェックだったのだが、ある意味「FM乗り」の良い録音(音質)だったかもしれない。今にして思うと幼い聴き方かもしれないが、彼の演奏で、5番の楽しさを知った気がする。7番も時期にしては5番の次の年位には聴いたのだが、ベーム=ウィーンフィルやカラヤン=ベルリンフィル(どちらもFMライブただしモノラルラジカセ)で曲を大分知ってから、聴いたので、その際立った「演奏の特徴」が5番よりも遥かに鮮明に印象づけられた。リズムとテンポの動きがシンクロしているので、加速・減速の迫力があり、リズムは当然克明、そして古楽器演奏がほぼ無かった時代にあっては、各楽器が対比的に演奏する様もとても新鮮だった。2楽章の末尾がピチカートだったのはビックリしたけど。(それから遥かに後年、オケで自分がホルンを吹く段階で、この演奏のスゴさ(=強引にドライブしている様でいて、実は、「息」が合理的なので、演奏そのものも細部まで克明)に、改めて気づくのだが。)実は「カルメン」も初めて見たのがこのクライバー=ウィーン国立歌劇場(NHK教育テレビ…ビデオなんて高嶺の花の時代)で、オペラが始まってからは、曲そのものに魅了されたが、前奏曲が終わっていわゆる「運命の動機」を振るクライバーのカッコ良さは衝撃的だった。今ほど「動画」の無い時代だったので、それが初の「動くクライバー」。考えてみれば「オテロ」もいまだに「映像」で見た事あるのは、彼の来日公演のみ…というわけで(音は大分いろんな人のを聴いたけど)、少なくとも「世紀の巨匠」というだけでなく、彼は、僕にとって「音楽受容」の導き手でもあった。今ほど情報も映像も無かった時代だから、よりそうした性格が出たのだろうが。アバドと振り分けたミラノ・スカラ座の来日公演で、イタリアオペラの魅力に開眼した方も僕らの世代では多いのではないだろうか。その後、ブラームス4番、シューベルトの3・8番をFMを通して聴き(後年CDで入手したが)、TVでニューイヤーコンサートの映像と音を楽しみ、「こうもり」「椿姫」などのオペラ(録音・販売年代はこれらの方が実は古いが)もCD時代になって楽しんでいる。「椿姫」は、ご存知イタリアオペラの大名曲で、聞かせどころ満載のオペラだが、彼の演奏は、ドイツの歌劇場というせいもあるかもしれないが、イタリアオペラによくあるように、「出発点」と「目標点」を決めて、途中は自由に跳ねるというような演奏流儀ではなく、一旦完全にコントロール下に置いた上で、揃って躍動させるような「ドライブ感のある」演奏なので、イタリアオペラの演奏としては、僕としては意外なのだが、「指揮者」を感じさせる演奏になっている。個人的には構成の明確な交響曲以上に、「指揮者クライバー」の特徴・クセがナマで出ている演奏のようにも思える。人によっては「彼にしては生硬である」との評も聞くので、これらは聴き手によって印象はそれぞれかもしれないが。彼のナマはもう20年も前に大阪に来たときに、ベートーヴェンの4・7番というプログラムで接する事が出来たが、バチあたりなことに、7番およびアンコールの「こうもり序曲」の印象は鮮烈なのだが、4番は「あっというまに」終わってしまったなあ…という感じだった(これは聴き手の問題なのだとは思うが)。ちなみにCDになっている彼の4番は、ご存知の通り「鬼気迫る」同曲の代表盤であると僕も思っている。ずっと「若い世代の旗手」的なイメージの彼だったが、壮年期以降、突然のキャンセル事件が何回かあって、登場回数も減ってしまい、「まぼろし」「わがまま(=天才の証左としての=非難の意味でなく)」「変人(=同左)」の存在とされていたのだが、今から考えると、体調が優れなかったのかもしれない。ふと、まだ「エネルギッシュな天才」クライバーがウィーンフィルのニューイヤーに2度目に出演した映像を見た母(特にクラシックに詳しくもなく、クライバーという名も特別意識もしてない)が「この人、身体悪いんとちゃう?」と言ったとき、「あのクライバーがそんな…。棒をあまり振らないのはこの人の流儀やし…」と思ったのだが、その後、実はこの素朴な「実際に見えてるものに対する感想」が正しかったかもなあ…と思ったことも、今日訃報を聞いて併せて思い出した。「今まで、かけがえのない時をありがとうございます」 と、この場で、氏に言わせてもらいたい。森嶋通夫氏については、高名な研究者であり、こちらも経済学の研究者の方々が、たくさんのコメントや解説を書いておられ、これまた、僕としては、単なる個人的な思い出を述べるしかないのだが(よく知っている人にはなんということは無い…)、まあ、これも「日記」であり、自分としての思い出を書き留めておきたくなったので、問題は無いだろう。問題提起や論文ではないので…。氏については、ロンドン大学の現役教授だった最後か直後の頃に日本で講義も少し聞いたことがあるが(その頃はミセス・サッチャーの政経分離主義・独立市場主義を、非現実と批判しまくっていて(ミセス・サッチャー=西郷隆盛説とか)、そのせいで、ノーベル経済学賞がとれなかったと言われてた頃。60歳位だったはずだが、「上品にして、やんちゃ」という感じだった)、僕が最も氏で、まとまった文章・情報を受け取ったのは、論文ではなく、独特の視点の経済学通史である「思想としての近代経済学」。NHKで放映され、後に岩波文庫になった。近代経済の躓き石である「反セイ法則」にも触れており、また高田保馬の「勢力」を導入した経済学も紹介するなど、独自の興味深いまとめになっている。サミュエルソンなどのまとめとは大分違う視点だし、経済学の研究者にとっては、こうした「読み物」よりも、より計量経済での功績を挙げるのだろうが、僕としては、参考になった著作であった。多くの公共事業や「事業制度」そのものが、この「反セイ法則」のワナにかかり続けていることを思うと、氏の指摘は(経済学からすれば当然のはずだろうが)正鵠を得たものであった。戦後のマルクス経済学者からは「反動」として追い出され、自らもマルクス経済学「派」とは真っ向から対立し、セイ法則の影響下にある新古典派経済学者を根本理論で批判し、政治的な言動では、保守派の陣営からは「革新派」と見なされ、ロンドン大学の名誉教授になってからも、サッチャリズムの破綻を予言し主張していた。この「経済ブロック」の考え方から、アジアにおける日本の孤立を危惧していたのも、左翼右翼というよりも、EUに終始消極的であったイギリスでの思いが下敷きになっていたのだろうと思うし、また、歴史の流れを見ての発言だったろうと思う。最近の一部の若者に流行っている「戦争・軍備を否定するヤツは、皆”自然に仲良くなれると信じてる”だけのヤツで、アカ」的決め付け論から行けば、氏は「アカ」にされてしまうのだろうと思うと、氏が、戦後、マルクス経済学派に追い出されたパターンと酷似しており、大いなる皮肉を感じる。「学問・理論」は「意見・主張」から、価値独立でなければならない、との立場を厳格に貫きながら、その相互の情熱については、生き方として重視する、そして、それらの判断基準を、研究を通して、見出し、証明し、提示する、そういった生き方をされた方のように思う。彼は、決して、僕の師匠でもなんでもないし、政治や教育に対する仮説と主張は、やや「やんちゃ」なところもあるような気もするが(高名な理論経済学者にしては)、「色分け」の犠牲者として日本を離れ、まさに、自らの力と意思で、理論を構築し、「色分け」を否定しつつ、「言いたいことは言う」と言い、そのリスクは一身に受ける…という生き方は、独特の「心意気」に満ちたものとはいえるかもしれない。亡くなられて、改めて、情熱を持ちながらも、冷静で理論的な考察 の大切さと、氏の「やんちゃさ」「人なつっこさ」を感じさせる「面構え」を思い出す。(注:決して、個人的知己を得ていたとかではないので、あしからず。その点は、クライバーも同様。)
2004.07.20
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那覇よりも暑い大阪で、「ヒートアイランド」が話題になっている。単純にかつ理屈っぽく言えば、一定のまとまりをもった地域で、熱を蓄積してしまい、その地域の気温が上がってしまうということであり、素朴に言えば、「田舎に比べて、街中は暑いなあ」ということである。こうした現象は相当以前から言われており、また観測上も現れていたものではあるが、近年の余りの夏季の温度上昇から、再度、注目されているものだ。僕もこれまで、「街中は木がほとんどないし、どんどん暑くなる一方だ」と思っては来たし、例えば、東京都や兵庫県などは、あくまでも届け出義務の範囲で、罰則も「公表」どまりとはいえ、大きな規模の建物の緑化を義務付けた条例をつくった。 (ただし、先ごろの「年金国会」を通過した「都市緑地法」により、 市町村が、建築物の緑化率の最低義務を指定することができる権限を与えられたので (地区計画&地区整備計画による) 今後、都道府県が同様の条例を作ると、違法性の疑義がある。 (→大阪府知事は、「新条例の制定による規制」を記者会見していたが???))日本中の大都市はヒートアイランドに悩んでるようで、大阪や東京では、役所やその研究所が「計画」や「報告書」を出している。役所の「計画」は、皮肉に見れば、いくらでもバカにはできるのだが、一方、その分野の「入門者」「超初心者」としては、実は、「これまでの一般的な課題整理」の報告書としてみると(つまりレビューとしてみると)なかなか便利にできていて、しかも近頃では、インターネットですぐ見られるので、大阪の住民としても、全国の役所や研究所の報告書がすぐ見られるのはありがたい。色々発展的な考察の前にはまずは「定食メニュー」というわけである。そうしたもので見ると、ヒートアイランドは、都市というまとまりのある地区で「熱の発生」と「熱の蓄積(放熱しない)」が大きいために起こることとされている。また、因果関係の証明が完全とは思えところもあるのだが(全てが解明・説明されていないのは、自然現象の解明なので致し方ないところはある…)起こっている現象は 1:ここ10年で、大阪の「暑い地域」は大阪市内の真ん中あたりから外へ拡がっている 2:このことは、「ヒートアイランド化」(「熱の発生の増大」と「熱の蓄積の増大」)を示すということだそうだ。であるから、対策としては、 A:熱の発生を少なくする B:熱の蓄積を少なくするの大きく言うと2つになるようだ。ここまでは、現象の解説と定義および、の段階での感想としては、「1:」「2:」「A:」「B:」の各々は、特に違和感なく受け容れられるのだが、そして、大阪なら大阪というところが、「暑い(熱い)地域」である理由として、「2:」であることもそうなのだろうと思うのだが(森林地域と比べて というレベルでは) (1)ここ10年くらいの、「猛暑化」の進行が、どこまで、「ヒートアイランド化」によるものなのか、 (2)主に、熱の発生によるものなのか、 それとも、 熱の蓄積によるものなのか (3)熱の発生 と 熱の蓄積 の 量的な割合はどうなのだろうか?(また、過去・他地域と比べてどうなのか?)というあたりがさしあたっての疑問である。 (=原因・対策も異なるかもしれない ということ(答えはまだ・・・))また、「夜が気温が下がらない」ということと、「最高気温が高い」ということも微妙に、現象が異なるように思う(=原因・対策も異なるかもしれない)。あと、まだ調べている最中なので評価は自分としても固まっていないのだが、「技術面」でも疑問が湧いている。「解決技術」として最近注目されているものとして、 ・地中熱ヒートポンプ ・屋上緑化の推進があるのだが、それらへの疑問または成立条件についての疑問が湧いてきている。これはまた、調べてから・・になる。ただ、とくに「地中熱ヒートポンプ」については、夢の技術のように言われているのだが、どうしても、今のところ、腑に落ちない。主な気がかりとしては、 ア:地下水の温度上昇 イ:冷媒の漏出または管敷設による地下水の外気露出が起こり、汚染・腐敗が生じないだろうか? ということが単純にまず心配である。 (もちろん、 イ2:閉鎖した冷媒管を用いずに地下水をくみ上げて還流 なんてことをしたら、「イ:」どころのリスクではない・・・。)また、 ウ:大気圏内という「閉鎖系」で、 しかも地中といってもほとんど「地表近く」での「熱収支」においては、 長期的には、過剰な熱の発生という状態は変わらず、 むしろ、「抑止」を失った使用が進む・・・ということも心配な気がする。これらの影響は「量」によって、答えは異なるはずだが、 「都市が熱くなるのが、緩和されるほどの熱が、地下水に与えられる」という状態を 一応考えた場合に・・・。 昔の人は、「海が汚れる」とか、「大気全体が汚れる」なんて、想像もつかなかっただろうし、 「地下水をくみ上げたら地盤が下がる」なんてことも… (まぎらわしいが、これは過去の技術導入時の折の比喩であり、地中熱ヒートポンプそのものは地盤沈下は無いはず) 「屋上緑化(および、緑化の推進)」については、ヤルことそのものが熱環境として害になることはないと僕も思うのだが、水の供給という面で、本質的かつ必然的な疑問点がある気がする。そして、「緑が減ったから熱くなった」という「主因説」についても。これは、上記の(2)(3)の疑問点とも連動する。。。それは、またこんど。(訪問の方々・・ 今日は、まだ「答えの無い問い」で、申し訳ありません。)
2004.07.17
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首相が、国権の最高機関で、根拠不十分なアメリカ等の武力侵攻を「全面的に支持」し、多くの人の命が失われる結果を招き泥沼化していても、責任を国民から問われない国、そして、国権の最高機関で、国連の査察を否定して「必ずある」と明言した「大量破壊兵器」の存在がアメリカやイギリス政府の調査により、やはり、過ちであったことが明らかになっても、自らの発言根拠も責任も問われない国、そして、こうした責任を自らは認めすらせず、「大義の戦争」という前提で、しかも、「サマワは、東京より安全かも。ヘルメットも要らないくらい」との発言をも前提として、日本の若い人達(自衛隊員)を送り込んでも、その責任も問われないし、批判も特にはされない国、しかも、自衛隊を送り込んだ意図も、イラクの人達のために、最善の方法を考えた結果・・・とは思いがたく、「日本が行っているイラクへの貢献」の内、緒方貞子さんらが開戦前から指摘しておられる民間同士の活動・支援を無視し、連携もせず、「自衛隊派遣」の「機会」に利用しただけにすら見えるのに、「自衛隊」を大事に思っている人達からすら、批判されない、そんな国。僕は、そんな国の道をこれからも進んでいくのは、賛成できない。僕も、開戦前より、「殺しあう道」を選ぶのは、際限の無い殺し合い・憎しみあいの道をはじめてしまうことであり、決して、「ケリをつけて、さっぱり」する道ではない、ということを、思いもし、言っても来たが、まさに、今、世界最強の国が総力を挙げて攻めて、かつ攻め続けている結果が、今のイラクだ。もちろん、僕ら国民が選んだ代表である首相が、全面的に支持し、証拠もあると今でも国会で明言した状態になっている、その結果だ。しかも、僕らの知り合いまたは、知り合いの知り合いくらいの真面目な日本人がたくさん、イラクに送られて危険にさらされている(非戦闘地域 とのことだが)。今回の選挙にあたり、いろんな「争点」はあるといえばあるし、逆に、「どこでも同じ」「誰でも同じ」そう思えてしまう・・・。しかし、「BESTは誰か?」「全面的に支持するのはどこか?」というものばかりが選挙ではない。「特定の問題についての自分の意見は、どこに入れれば、”国民の主張”とうけとめられるのか?」「最悪のシナリオを回避するには、どこに”今回は”入れればよいか?」そのことを、真剣に考えて、「出来るだけのことをする」のが、有権者の務め。責任だと思う。、このことについては、上記の僕の意見から、真っ向反対の人達でも、すなわち、僕と正反対の主張の党派に投票しそうな方でも (多分、国民への責任とか、正当性とか、行為の目的 についての意見の相違というよりも、 「自衛隊派遣に反対してるヤツ」という「結論」で、僕のことを色分けされるかもしれないが。)同意してくれるだろう。そう、「誰でも同じ」と決め付けるのは、「逃げ」でしかない。現在の日本という国、そして、将来の日本という国に対して、最低限の「責任」を、ぜひ、果たしたいし、果たしてほしい。繰り返すが、僕と正反対の考えの方も。ちゃんと筋道を立てて。。。
2004.07.11
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本日(7月10日)日記を書いたのですが、以下のレスの通り、僕の全く知らない他所で、ある方が他の方と意思疎通を図れなかったことについて、再三、書き込みいただきました。その方が、どこかでとにかく、自分の見解を書きたいという気持ちはとてもよく伝わる書き込みなのですが、僕の日記と全く関係の無いことですので、僕の日記を読んでいただく方からして、読みにくいですし、そもそも、僕に当事者能力のある話でも事実関係を知ってる話でもないので、僕が、論争したり、説得したり、ましてや、勝ち負けを決めるような話ではありません。そんなわけで、早々に切り上げて削除させていただきたいのですが、思いをもって書き込みをいただいており、なぜか、削除することに対して、議論の対象でもない僕が「有利になる」というお考えも示されておりますし、色々な相手が掲示板を閉鎖したり、書き込みを削除した場合に容赦なく各所で非難されているようですので、書き込みの方をしばらく残して、日記を7月11に移行しました。これで、特に僕としても削除する必要は無くなります。僕としても、このように日記を動かすことになってしまったのは残念です。(本来の11日の日記は9日に書きます。)既に、書き込んでいただいた、お客様にはご不快とご迷惑をおかけします。管理人として、おわびいたします。追記:その後、「削除をしてもよい」旨の、某S氏様からの、御赦しを頂きました。ただ、既に日記を引っ越して各々に書き込みがなされトラックバックもなされた後ですし、これから非難中傷などのやりとりが展開されることもないでしょうから、特に削除する必要はなくなりました。(某S氏様が、削除の御赦しを下さったことということ、および、せっかく、御赦しを下さったのに、僕が削除しないことについて、気分を害されたことについては、某S氏様の意に沿わない点、御赦しください。)
2004.07.10
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世間では「参議院で何をやっても、衆議院で決まるから、おんなじだ…」と言われる。ごく短期的には、そうかもしれない。しかし、参議院は、やはり、国会である。法律や議決事項を、「審議」する過程では、重要な「質問」や「確認」がなされ、それを、政府等が責任を持って「答弁」する。そして、それらは、正式に「議事録」に記録される。その「議事録」は、次の議会で、議員の確認署名が必要とまでされている。(これは時代や国によっては、議事録を捏造しようとする「必要」が生じかねないこと、そして、それを国民の代表によってチェックさせようとしていること、 を示している。)法律を使う際にも、これらの立法時点での確認事項は、法解釈を行う重要である。単純に、国会答弁にあるから、裁判に勝つ・負ける というようなものではないが、「立法主旨」を国民にはっきり責任を持って示すもの、の重要なひとつである。参議院で、的を得た議論がなされることそうなることは、ものすごく、意味のあることなのである。(インターネットで、国会議事録が検索できるようになって、 ますます、現実的に、意味のあることとなった。 これは、自衛隊やら原発やらという「ネット好み」の話題に限らず、 例えば、著作権法、都市計画法、建築基準法などの場合ですら、本当に有用なのである。)逆に言えば、「カーボンコピー」とか言われながらも、「もし参議院が無ければ、ラクやろうなあ」と思う方々が少なからず居られる ということである。というわけで、妙に悟った気にならず、主義主張は色々おありの方々、どの方も、ぜひ、投票して、主権者としての権利と責任を果たすこと、それは、全ての「議論」の基本である、と思う。ほんとうに・・・・。(記述日 7月11日=日付がズレた事情は、7月10日の日記を参照下さい。書き込みされた方のせいというわけではないのですが、混乱を避ける措置として、7月11日が埋まってしまいましたもので…(;^_^A )
2004.07.09
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昨日は、早く仕事が終わったので、チェコの「アフラートゥス木管五重奏団」を聴きにフェニックスホールへ。ホルンの若き名手ラデク・バボラクを聴くのが主な動機。仕事帰りとしては、とても聴きやすい曲が並んでいることも、心魅かれた。木管五重奏という地味な分野で、最近の大阪での常として、当日券は余裕と思っていたのだが、「最後の1枚」を奇跡的に買えた(開演15分前着)。後で、コネがあるのか、3席増やしたものの、正々堂々の完売というのは、頼もしい限り(&当日券しか無理な僕としては危うい!)。しかも、10代半ば~20代前半の「若者」も多かったのも、なにやら、とてもうれしかった。思い返すと、僕らが彼らくらいの年頃には、大阪のクラシックの客は、大フィルでも、若い客がたくさん居たような気がするが、このごろは、大フィル、さらに「大阪センチュリー交響楽団」(←室内管弦楽団だが、丁寧な演奏をする楽団)などは、退職後の高齢者の方もしくは、招待券で来た会社の役員か議員の講演会か…という感じの客層が目立つ。外来有名オケはもっとひどいかも…。よく「まあ、結構なお席をありがとうございますぅ」「いいや、なになに」みたいな会話が聞こえる。金持ちが楽団を支えるほどの金を、自分の金から「バァン!!」と出す代わりに、自分や身内も楽しむ というのは、ある意味、「パトロン」「谷町」としての「王道」だが、「エエモン」だけを「つまみぐい」するのは止めてほしいものだ。閑話休題、バボラクは、まだ20代前半の頃、同じフェニックスホールでソロを聴いて以来。今は、当年とって28歳の若いベルリン・フィルの首席ホルン奏者だが、18歳でチェコ・フィルの首席、20歳でミュンヘン・フィルの首席。したがって、まだまだ若い「にいちゃん」だった前回でも、すでに、一流オケのトップ奏者ではあったのだが、今回、木管五重奏団の一員として聴いて(数日前にソロリサイタルもやったが残業で行けず)、5年前からしても、格段の進歩をとげていたように思う。そもそも、「バボラクのホルンが!」というよりも、この五重奏団、音楽も、響きも、「完璧」と言っていい演奏だった。フレージングも、タイミングも、テンポ感も、まさに「一糸乱れぬ」もので、「生身の人間」が、一本一本の管楽器から出す音が、その場で、絡み合い、溶け合い、「ひとつの音楽」をつくっていく。その中に、「危うさ」や「難しさ」に対する「いたわり」は、全く無用だった。ただ、聴き手は、その音楽に身をゆだね、絶妙の響きの変化にのみこまれ、全く無理が無く揃った「歌」に心を同調されるのみ。きっと、管楽器をやったこと無い人が聴けば、「木管五重奏って、簡単で、楽しくて、きれいな曲ばっかりなんや…」と思うことだろう。そして、難しさを知るものにとっては、生身の「人」が「出来ること」のスゴさに、尊厳と尊敬を覚える、そんなレベルの演奏だった。1曲目は、モーツァルトの「魔笛」序曲。冒頭の和音から、とてもきれいで、揃っていて、「!」と思わされたが、そのまま、軽やかなリズムが刻まれ、もともと木管五重奏のための曲のよう。 (このリズムの「音」もまた全く無理がなく美しい(「タンギングが大変やなあ」などとは全く思わされない)フルートが、アンサンブルの核をとりつつ、各奏者が、「ひとつの音楽」を紡ぐ。2曲目は、ハイドンのディヴェルティメント。あのブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」の主題となった聖アントニーのコラールを第2楽章に持つ佳曲だ。こちらは、より各楽器の音色や表情をゆっくり楽しめる。どうして、こんなに、各人がのびのびと、しかも、一緒にひとつの緻密な音楽をつくることができるのだろう。コンサートマスター的なフルートのリードもさることながら、オーボエのとても上品な音色と表情、それでいて、自在なダイナミクスのコントロールも極めて印象的。ファゴットも普通ならテクニック上、突出しがちな楽器だが(重くなったり)全くそんな場面はなく、自在なテンポと表情で、ナマで聴ける最高水準ではないだろうか。しかも、ホルンや他の木管を溶け合わすような倍音の多い音色とバランスも、コントロールが行き届いている。クラリネットは、至近距離で聴くには不利な楽器だが(息を終始もらしながら吹く)、やはり無意味に突出することはなく、「1枚リード楽器」として一角をしっかり支える。音色的には、5人の中での、スパイス役とも言える立場かもしれない。東欧でイメージされる、「ビブラートの多い、やや音程の幅の広い(音程の甘い)」という演奏とは全く異なる。音色感は、とても暖かく、統一もされ、「巧さ」や「存在感」をことさらアピールしあったりはしないが、音程・響きの感覚はシャープにフォーカスされている。もちろん、リズムも。こうした特長は、次のラヴェルの「クープランの墓」で、さらに遺憾なく活かされた。「5本の楽器」であるがゆえに、和音の移り変わり、そして、独特の和音そのものの響き方がよりシャープに聴き取れる。少しでもズレたら、奏者にしたら血も凍る思いがするような、絶妙の和音も、なんなくキメる。キメるという感じすら、実際には受けない。ただ、「そこにあるように」「あたりまえに」鳴る。 (管楽器を吹き、格闘し、幾度と無く、「血の凍る思い」を経験した人間からすると、 それだけでも、神業であり、「キメた」という感覚がするけども。)第1曲「プレリュード」のテンポの設定は、オケやピアノで聴かれるものよりも、ややゆっくり目で始まったが、これは、テクニック上の問題ではなく、解釈の上でのこと。しかも、そのおかげで、響きの移ろいが、しっかりと感じられる。終曲「リゴードン」の攻撃&超絶とも言えるテンポとの対照を考えてのことだろう。実際、リゴードンは、各楽器の性能の違いや不自由さを全く感じさせず、テンポもそして音量感の調整も、自由自在。軽快にして、力感あふれた快演。(中間部では、民謡を連想させるオーボエの懐かしい歌も、本当に美しい音色とフレージング。)休憩の後は、ドボルザークのオーボエを軸とした懐かしさを湛えた小品「ワルツ イ長調 op.54-1」の後、弦楽四重奏曲第12番 ヘ長調 op.96「アメリカ」の木管五重奏曲編曲版。これは、「試み」と思うだけでも、驚異なのだが、各楽器の音色を使い分けた、見事な編曲。ただ、これを、まとまった音楽にするには、各楽器が自在にこなすテクニックと音色の対照と融合、そして、音楽の設計とセンスが揃わないと、「ひとつの曲」には到底聴こえないだろう。もともと、弦楽器4本でやるべきものを、音色も異なり、性能としても本来弦楽器よりも自在さを欠く管楽器が演奏するのだから。それを、彼らは、まさに「水を得た魚」のように演奏した。音色が異なることにより「楽器間のかけあい」は、より鮮明になる。しかも、何度も言うように、各楽器の「事情」を微塵も感じさせないので、通常なら弱点になるリスクの方が遥かに大きいそうした音色の対照・鮮明なかけあいが、原曲では見出しがたかったほどの新たな魅力を生み出していた。この曲が4つの楽章からなる ということを、とても感謝したくなった。「ひとつの曲」でいながら「4つの曲(楽章)」を、どのように演奏し、どのように楽しませてくれるのか、そして、各場面でどのような音色や表情を見せてくれるのか、ワクワクし、驚き、感服しながらのひと時だった。もう、これでおなか一杯。ありがとう。といったところでのアンコールは、「フィガロの結婚」序曲。これは、「管楽器を吹いたこと無い人」でもハッキリ判るほどの、「超絶技巧」を見せ付けた、猛スピードの演奏。でも、やはり、「簡単そう」に聴こえる。音量もテンポも自由自在のホルンの「刻み」(旋律の背景で)のタンギングだけとっても、実は、考えられないほどの技巧。音の跳躍が自在であるとか、超高音域の音をピアニッシモで入ったとか、そういったことは、「当然のことのよう」である。イチローにも、ジダンにも、例えられるかもしれない。「簡単そう」なのだった。これもまた、原曲の「良さ」を、別の角度から光をあてた演奏となった。テンポの選び方もまた、オーケストラではありえない、かつ、木管五重奏の音色と音量の特性を活かした(といっても普通は不可能な)テンポだった。「ああ、フィガロ!!!」今でも、そう思えるほどだった。もう1曲のアンコールは、作曲家の名前が聴こえなかったが、「タランテラ」(たぶん)。もう、5人で楽しみつつ、最後のしめくくりだった。オーケストラでもそうだが、よく「アンコールせずに、メインの曲で終わったほうがよかったな…」と思わされることも多いのだが(演奏の水準がガックリ下がる場合が多い)、昨夜は違った、最後まで、高い水準の、しかも、最後の曲まで、5人の持つ、さまざまな音楽の可能性の新しい面・違った面をしっかりと、誠実に、自信に満ちて、楽しげに、見せてもらった。ナマの演奏は、たとえばオーケストラも「生身の人間」が行うものであるが、「本来、儚い、生身の人間が、これほどまでの演奏をするとは!」と驚くほどの水準に至る演奏は、残念ながら、関西のオーケストラではほぼ聴けない。NHK交響楽団や、以前、横浜で聞いた東京都交響楽団(都響)は、時折、そういった時を現出させることの出来る「スーパーオーケストラ」の水準まで達しているが、(そこまで、築き上げるには、並々ならぬ、多くの人たちの努力と意思があってのことだろう)大阪と言わず、日本全体でも、オーケストラ演奏として、そこまでの精度は求めにくい。 (だから、オーケストラはダメというのでなく、オケにはオケの、それも、中級オケでもまたナマの楽しみは一杯あるのだが)しかし、以前、ナマでアルバンベルク弦楽四重奏団を聴いた時も思ったのだが、余りにも、目の前の、「4人のひと」、今回なら「5人のひと」が、出す「音」が、「世界」を作り上げるという「出来事」には、「ひと」として、驚嘆してしまうし、儚い「人」という存在が、一方で、ものすごい存在なのだとも、心から思わされる。昨日の場合、フェニックスホールという、ステージ(というより「段」)の高さも20センチ位の「ひとつの部屋」のようなホールで、すぐ傍で、顔も指も唇も間近に見ながらの演奏だとほとんど、「仲間」が演奏してるのを聴くような位置関係だから、余計に、すごさを、感じた。しかもその「すごさ」は、「あっち」と「こっち」の彼我の差というよりも、「ここで、起こってること」の「すごさ」なのだった。一生忘れられないようなコンサートというのは、歳をとってくるとあまり無くなって来るが(中学・高校くらいのころのコンサートは、一回一回が今でも思い出されるが)昨日は、久々に、そんな体験ができた。これほど、神業といっていい、しかも、フツーに聴いてもとても楽しいコンサートが特に話題にもならず、大阪で行われ、終わっていくのかと思うと、不思議な気がする。もちろん、これはたまたま僕がクラシック音楽を好きだというだけのことなのだが、この世の中には、本当に身近で、自分の知らない「すごいこと」(良い意味で)が、起こっているのだな とも思った。ただ、知らず、軽んじたり、悲観したり、ということが、多いけれども。とにかく、感謝 の一夜だった。アフラートゥス木管五重奏団の5人には、心からお礼を言いたい。本当にありがとう。バボラクがベルリンに行ったので、演奏機会は減ったかもしれないが、ぜひとも、素晴らしいアンサンブルを、また、聞かせてもらいたい。また、日本へ(できたら大阪へ)来て、5人の元気で明るい表情と、並外れた音楽を聴かせてほしい。それまで、お元気で。
2004.07.01
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