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サッカーに詳しい人から見れば、常識なのだろうが、「ときどき、サッカーファン」としては、今やってるユーロカップは、まるで、芸術のように面白い。繰り出される「技」が、素人目にもスゴイ。・狙ったところにボールを出し、・その意図を汲んで、画面の外から突然走りこんできて、・それをものすごいスキマを通してパスし、・受けた選手が、とてつもなく遠いところから、ホンの小さな身体の動きで、高速の長距離シュートを正確に打つ走る速度も、ボールも、「速い」。そして、両チームの「意図」がきっと、きっちり、「形」になるからであろう(ボール・身体ともにコントロールできている)、「チームの戦法」がよくワカル。長く正確なパスを出して、走りこむチーム、あえて手前で相手を引き寄せながら、両サイドにボールを振りながら、ジワジワと進めた後、突如、牙をむくチーム。見た試合は、スウェーデンVSオランダ。昨夜録画したものを今日午前中観たのだが(それまであらゆるニュースを見ないようにして)、本当に、スゴイものを見せてもらった。Jリーグでも、昔のサッカーのことを考えると、もう別次元のように鮮やかで面白いのだが、こういう「スーパー」なレベルを見せ付けられると、やっぱり、違いを感じる(もちろん仕方ないのやけど。どこの国で見ても代表レベルなんやし)。で、連想したのが、例えば、NHK交響楽団 と ベルリン・フィル。N響も、今では、すっかり国際級で、ナマはもちろん、FMやTVでも十分に楽しめるし、特に不満も崩れも無い。ただ、ベルリン・フィル(が本気で好調だったら)が思いっきり演奏してるのと、少しだけ「なにか」が違う。どちらが感動するか、というと、もちろん、どちらも、「そのときによる」。巧い方がいつも感動するとか、偉いとかではない。ただ、プロとしての余裕・地力は、やはり、まだ違うようだ。NHK交響楽団とか東京都交響楽団は、といっても、本当にトップクラスのオーケストラなので、ベルリン・フィルと比べたらともかく、国際的にも誇れるレベルなのだが、例えば、大阪フィルのように、例えば録音だけでシビアに聴くと、技術水準の面では、正直気になる…というレベルのオーケストラでも、例えば、ナマでは、一生記憶に残るほどの感動を与えてくれることは十分ある。それは決して錯覚ではなく、ナマの「そこ」にあるものの「真実」なのだが、これもまた、Jリーグのナマを見た折の、驚きと感動に通じるものがある。TVで観たら、平凡でフツーのプレーでも、もちろん、自分の近くの平面で見ればもう完全に「超人的」な「技」なのである。そして、「今、そこで、人が」生み出しているという「出来事」その迫力は、映像などからの情報と「比較」できるものではない価値がある。彼我の違いと、各々の価値、そういうものを、サッカーの試合を見て、オーケストラのことを連想しながら思った。しかし、平日は、録画してても、結果知るまでに観られないので、ユーロはつらい…。もうあとちょっとやけど。
2004.06.27
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大阪の「川」は大概、汚い川が多い。まず水がとても汚い。そして、そのことを、好ましく思う方はほとんど居ないと思うが、大半の「大阪人」は、「大阪の川が汚いのは仕方ない」と思っているフシがある。しかし、いったい、何故、川は汚いのだろうか? 汚いのはアタリマエなんだろうか?「川」には、いわゆる水源から流れてくる「河川」や、道頓堀などの「運河・掘割」やらがあるが、いずれにせよ、どこからか、水が流れ込み、どこかへ(大抵は海へ)流れ出すのが、「川」。だから、池と違って、実は「常時汚い」状態を"維持"するには、「常時(または極めて頻繁に)汚し続ける」"必要"がある。つまりは、「大阪の川が汚い」ということは、「大阪では、川に、常に汚い水を流し続けている」ということになる。(この際、自転車などの固形物の投棄は、一旦おいておく(後述))そう、「自然に」川は汚れないし、「一旦汚れたら、二度ときれいにならない」ものでもない、それどころか、「日々汚し続けていて」、初めて「汚い川」が「維持」される。さて、冒頭にも言ったように、漠然と「川がきれいなほうがよい」というのは、「愛」「まちづくり」「アメニティ」「住民参加」「世界平和」と同様、ほぼ「万人が賛成」することなので、大阪府知事も、「川を愛する連続イベント」(=よう判らんけど、大体こんなことやったはず…)を「公約」にしたり、先ごろは、いかにも勇ましく、「市民参加のゴミ拾いボランティア活動!」とか記者会見でおっしゃっていたようだ。 (余談ながら、ボランティアやNPOも"行政""政治家"にとって「流行」のようだ)さて、本当に、大阪府知事は、大阪の川をきれいにしようと、思っているのだろうか。責任ある知事として政治家として行政として。それとも、ウケる話題を繰り出しただけなのだろうか?ここでは、大阪府知事の評価を決めたり、裁いたりするのは本旨ではない。本当に、「川」をきれいにする方法(道)はある…と、この「会見」を「反面教師」にして思い至ったので、それを提示してみようというのが、本旨である。まず、役割として、「川をきれいにする」ことへの行政の役割や責任は大きい。市民や企業の負担や責任も前提とするにせよ、その仕組みをつくるのは行政の仕事である面も大きいだろう。(参照=「柳川掘割物語」)そして、本気で、「川をきれいに」しようと思うのなら、問題は「川が汚い」という現象・原因は何か?そして、その最も効果的な方法な何か?ということが、重要である。大阪の川に、汚水が流れ込んでいるというのが根本的な現象・原因。ではどこからか? ・汚水の下水がそのまま川へ流れ込む ・汚水と雨水を合流させる下水管を採用していると、 大量降雨時はあふれた汚い水がそのまま川へ流れ込むということのようだ。これにプラス、 ・工場&農家等が、コッソリ、川へ汚水を流しているというのもあるかもしれない。とすれば、「川をきれいに」するための、最も効果的、かつ、必要なことは、「川に汚水を流さない」=「(雨水と汚水を分けて扱う)下水の整備を行う」ことだろう。工場・農家などの不正な排水が、多いのならば、コレにプラス、「取り締まり」が要る…。(もちろん、処理場の負担を減らすために、普通の家庭・企業・農家の排水に 気を遣うことも大事だが、大量の人間が集まるのが「都市」である事実は直視すべき。)実際、大阪の下水の整備状況は、実はかなり地域によっては悪いそうだ。下水がソコソコ整備されている地区も多いのだが、洪水対策=雨水対策を優先させたこともあり、汚水がイザとなるとタレ流しになるところが多い &家や工場から、下水の幹線まで管をつなげず、近場の川へ流しているところも多いということらしい。「市民」に対して「女性知事らしさ」をアピールするには、「川を汚している元凶を断つために、下水を整備します」というよりも、「市民参加のイベント」を言うほうがカッコいいのだろうが(それを良いと、市民が思うのなら、仕方ないか…)心から川をきれいにしたい のなら、大阪府知事は、「下水を整備します」OR「下水工事の大切さをわかってください」と言う必要がある。ちゃんと説明してないから、「下水工事」=「掘り起こし」=「典型的役所の土木工事」というイメージ…そんなイメージと闘って「女性知事らしくない」ことは言いたくないのかもしれないし、そもそも、本気で、大阪の川がきれいになる とは思ってないのかもしれない。では、どのような道筋で、「川をきれいに」しようというプランを、大阪府知事は考えて、発言しているのだろうか?または、知事の周りの役人は・・・。イベントで??ゴミを捨てない、「景観の可能性(歴史・文化含む)」へに"気付き"もとても大事だが、顔を背けたくなる匂いの川をそのままにして、汚い水につかってゴミを拾うボランティアの姿をTVで映して、「川を愛しましょう」「川沿い景観を美しく」と言っても、リアリティも実感も湧きにくいはず。「水が気持ちよくキレイ」なら、ゴミを捨てる際の心理的抵抗は格段に大きくなるはず。「価値」を認めた上で捨てる…のだから。「価値」「価値観」は、「具体的」なモノに根ざすものとしなくては、長続きもしないし受容もされない。「景観」もおのずと「良さを活かす(商売でも住宅でも)」ようになるハズ。選挙公約の「住民参加イベント」をシブシブ有能なお役人がテキトーに企画して何千万円もかけてやるより実があり、かつ継続的である。たまたま、大阪府知事を例に出したが、特に恩もうらみもない、ただ大阪市の住民としては、大阪市長か府知事以外の「首長」を選べないし、また「川」に関心をお持ちと公言なさってるので、あえて、「記者会見」のご発言をきかっけに論じてみた。ホンマに「川がきれいに」なったら、ホンマに「街を大事に」思うように、今よりはなる・・・とホンマに思ったので。責任ある政治家の発言と意思なのなら、本気で向き合ってとりくんでいただけるとありがたい。もちろん、市民が、本気で考えて、役所にモノを言って行くのも(究極は投票だけど)、とても大事と思う。今日は、ささやかなそんな「意見表明」のつもり。 ただし「運動」の道具として、知事や役所を「ワルモノ」に責めるネタにするのなら、 「川」を利用して人気とりをしようとしてる(ように今のところ見える)大阪府知事を笑えない…。政治的立場によらず、本気で街を川を大事に思い、モノを良くするための指摘としたい…。僕自身、サラリーマンをしながらなので、結局、この日記くらいしか動きようがない。本当に素朴で、フツーで、具体的な役所へのニーズって実はこのように一杯あると思うのだが。府庁か市役所か知らないが、目安箱(嗚呼"お上"!!)でもあるのかな?PS「汚い水が流れ込む」のは、もちろん、県外(府外)の上流からもあるので、そういった府県とのホンキの調整も、政治家として必要なことは言うまでもなく、逆にただ単に「大阪の川が汚い=大阪府や大阪の行政が悪い」と単純化して責めるのは、本旨ではない。モノの現象・理由と、具体的な対策 を、考えられたら、そして専門の助言が出し合えたら、本当に良いと思って書いたもの。大阪府知事の支持者の方には、少し不愉快な表現もあったかもしれないが、逆に、知事へ助言してくださるとありがたい。ホンマに、素朴に、大阪の川をきれいに、そして街をきれいにしようと思っていただけるのなら…。
2004.06.20
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「組曲」も有名だが、「組曲」は、いきなり「いかにもバレエ」らしい「情景」から始まる (=「いかにもクラシックらしい」と言えば「運命="ジャジャジャジャーン"」的意味 (X_X;)で)こともあり、かなりの「気恥ずかしさ」を憶えないでもない曲(&判りきってる曲のように思う曲)なのだが、実は、驚異的な名曲ぞろい。とくに「全曲」で。いわゆるロックやポピュラーでも、シングルはともかく、アルバム1枚の全部が素晴らしい水準ということは稀だが、 (ファンにとってはいずれも捨てがたいにしても & 自分で作曲しない人は事務所が強ければかなり「最強」を維持できるが…)、クラシックも例外ではなく、特に「バレエ音楽」は、必要な長さ(大概長い=大量の曲を作曲する必要がある)・筋書き(場面)なども求められる上、いざ演奏される状況を想像すれば、当然ながら「踊れるテンポ」で演奏せざるをえない(=踊り手の都合が優先される=作曲家として自由なテンポがとりにくい)、というようなことからか、結構「スキルで埋める」という感じの曲になりがちな気もする。といっても「バレエ音楽が水準が低い」という意味ではなく、基本は「踊りとセットで楽しめるように出来ている…」ということなのだが。しかし、チャイコフスキーのこの曲は、2時間半以上に亘るにもかかわらず、次々と美しかったり、楽しかったり、悲しかったり、カッコよかったり、多彩なメロディと響きが惜しみなく続く。組曲版でも、そのカッコ良さと多彩さの一端は判ると思うが、全曲版では、冒頭から「組曲」の「情景」のように、「いきなり、むせび泣き、やがて号泣する」ようには始まらない。全曲版は、「つぶやくように、ささやくように」始まり、聴き手と一緒に、快活に「動き出す」。そんな曲が、冒頭の曲。 まずは「昼」「光」の世界の始まり。(本当に、印象的で美しいオーボエのソロから始まり、徐々にアンサンブルが加わり、全奏へ)「ものがたり」の最初としても、また、舞台の最初としても、これほどのものは、そう無い気がする。それから続く曲の数々は、どれも旋律の美しさにあふれていながら、リズム・響きと多彩な変化とアイデアに富み、本当に飽きさせない。一度聞いたら忘れられないような曲が一杯。(ついでに言えば、映画・アニメ・CMなどでも色々使われてるので、聞き覚えのある曲も多いと思う)音楽だけで(舞台無しでも)、空前絶後の音楽体験ができる。作曲家の「才能」「アイデア」が惜しみなく、展開されつづける。チャイコフスキーは、あまりにも、耳になじみ、魅力的なメロディを作る天才だったために、晦渋で思わせぶりで大層な曲にならず、「娯楽作」として魅力的な曲がとても多いので、ともすれば、「通俗作曲家」的に扱われる傾向もあるが(シューベルトも多分そんな傾向がある)、旋律の天才であるばかりでなく、響き(オーケストレイション=管弦楽法)の天才でもあり、舞台の天才でもあったように思う。今聴いているCDは、オーストラリアが生んだイギリスのバレエ指揮の名人ジョン・ランチベリーが振ったもので、「舞台風(テンポのとり方や盛り上げ方などが)」の演奏であるととも、とてもリズム感が鋭く聴いていて気持ちいい。ただ輸入版でしか手に入らないことは良しとしても(極めて安価だが)、「2枚のCDに合わせるために、情景を含む3曲を省略してます」という「注意書き」が、CDを買って中をあけたバイオの中に書いてあるとうシロモノなので(レーベルはEMI)、消費者としてはオススメしかねる。とくに曲に興味を持たれた方には。まず1組目を探すなら、まあ録音が良くて(古くなかったら)、上手なオーケストラのものなら、どれでも楽しめるハズ。ただ2組目を探しておられる方は一度お試しされるのもよいかもしれない。フィルハーモニアというオケは、上手なのか、それほどでもないのか、ハッキリしないところもあるのだが、良くも悪くも、指揮者の意図と性格を、そのまんま、反映させた演奏が出来る(実はコレはコレでスゴイこと)オケのようだ。本当に、心浮き立ち、元気になれる曲 から、心に沁み込んでなきたくなる曲など、次々としかも「脈絡」を持ちながら、現れてくる。しかも、多彩で変化に富むため、興奮も、沈潜も、過度にどちらかのみには陥らず、適度なストレッチと燃焼にもなるところも、魅力か…。そんなこともあって、今日は、無性に聴きたくなって、昨日録画したERも見ずに、聴き入っている。PS:このランチベリー、今コレを書くときにちょっと調べたら、昨年、亡くなっていた。結構高齢になっても元気で、東京の新国立劇場には常連格で来演してたそうだが。大阪ではナマを聴く事もなく終わってしまった(もともとバレエの良きファンでは無いので言う資格ないが)。本当に、舞台向き、バレエ向きという感じの音楽を作る人だった。さぞかし、具体的で明確な指示を、オーケストラの奏者に出していたのだろうと想像がつく。その意味では、自分も「プロ」として(分野はまったく違い、こちらはフツーのサラリーマンだが)共感できる「プロ」だったと思う。合掌
2004.06.15
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今まで、日記にしろなんにしろ、ただ、「欄」に書き込むだけだったのですが、あまりに、行間がつまって見にくいこともあり、また、ほかの方々のものが、ずいぶん、きれいだったり、読みやすかったりするので、HTMLを少しかじって、過去の読みにくい日記も、行間を調整してみました。内容は、時点時点のことですから、修正してませんが。「変更」では、新規通知は出ないと思ってたのですが、テーマ別のラインアップには出てしまうようです。題名に純粋に興味を持っていただいてお立ち寄りいただいた方はともかく、異様に思って、お越しいただいた方、どうもすみませんでした。
2004.06.13
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今日は、久々に文楽劇場に行った。通常興行ではなく、「文楽鑑賞教室」で、義太夫&三味線&人形の解説コーナー付きのもの。演目も、まず紹介がてら、人形裁きと三味線や義太夫それに鳴り物の表現が判りやすく面白い「伊達娘恋緋鹿子」から"火の見櫓の段"、「八百屋お七」が火の見櫓に登るという「動き」としてダイナミックな場面。(八百屋お七 は、上方落語の中でも、「覗きからくり」のネタとして出てきたりするので、昔は誰でも知ってた話のようだ。昔といっても、印刷文化・全国文化が発達する明治期のことかもしれないが、江戸・上方では、文楽・歌舞伎・落語などを通じて、いろんな文化の共有が進んでいたのかもしれない。)次は、登場人物が多彩で賑やかでコミカルな演出も可能な(ストーリーそのものは冷酷&非人間的な面も…)「菅原伝授手習鑑」から"寺入りの段""寺子屋の段"。テレビでは全然伝わらないが、実演で見る文楽は、人形がまるで生きているようで、しかも、仕草や型が本当に「格好良い」。歌舞伎の「型」「見得」は主に、これらの人形の型を模倣することから始まったということだが(定説かどうかは知らない)、まさに納得できる。フォルム化されたリアルさ。誇張された写実。そして、義太夫の言葉も「言葉の力・面白さ」そのものを楽しんでいるかのよう…。「言文一致」の結果、日本語が一方で捨ててしまった「粋」の世界がしっかりある。これも、家でTVを見るのでは、なかなか伝わらない(これは僕がTVを集中して見てないせいかも)。そして、もちろん、三味線と義太夫が合わさると、それは「ミュージカル」でもある。それらを支える、「演じる技術」は「タタキあげ」のトレーニングのようでいて、実にシステマティックな役割分担がなされている。「主遣い(頭と右手)」が、「足遣い」と「左遣い」に指示(サイン)を出すことにより、アドリブも自由に出来る、「足遣い10年・左遣い10年」と言われるのは、伊達ではなく、そうした細かく多彩な指示を覚え、かつ表現として見につけるための期間とのこと、ある程度は「下積み」的要素もあるのかもしれないが、確かに、人形の動きを見ていると、3人で遣っているとは到底思えない名技。舞台で「演じる」ことの力と蓄積を実感した舞台だった。(作品そのものの感想はまた別途・・・)そんなことを思い帰宅したところ、TVで放映していたのが「トニー賞」の授賞式。ミュージカル中心に、まあ云わば順番に賞を発表していくわけで、大半のミュージカルは(リバイバルは別だが)日本では見ることはまだ出来ず、近日にも見られないものなので、特に関心を持ってみたわけではなかったのだが、ノミネート作からのものを中心に演じられる、プレゼントの合間合間のパフォーマンスの数々は、一目見ただけで、ないし、一聴しただけで、まさに「耳目をそばだたしめる」もの。歌・声の力(コーラスもソロも)、ダンスの鮮やかさ、ステージングのカッコよさ、司会やプレゼンターのコメント、客席(といってもノミネートされた人達だが)との当意即妙のやりとり、もう理屈ぬきで「スゴイ」。「舞台」というものを知り尽くし、「舞台」を楽しむ文化が力を持っている世界で、まさに腕に覚えのある数あまたの人間がもてる力を最も効果的に披露する。そんな「舞台」の力 を、まざまざと思い知った。「屋根の上のバイオリン弾き」のパフォーマンスもあったのだが、以前TVで観た(ファンの方には申し訳ないが)「日本版 屋根の上のバイオリン弾き」のコーラスや歌唱が、普段歌っておらず、踊ってもない方たちの集まり…であることが前提であるかのような上演だったのとは、まったく異なり、声・歌唱が充実しているし、動きも含め舞台が「フォルム」を形作っていた。「日本語の発音」が西洋歌唱に対して不利であることもあり、単純に比較できないし、比較することの意味はないのだが、(そして例えば四季のようにミュージカル上演を前提としたトレーニング積んでいる劇団も育っているが)たまたま、日本でも超有名名作ミュージカルとして上演されているものなので、その差異が、象徴的な気がした。 (「だから日本版は価値が無い」というわけではなく楽しめるポイントが異なるということ…とご理解ください。)ミュージカルに限らず、「舞台」を楽しむ、「舞台」の力を受け止める、そして、「舞台」を演じる力を育て積み上げる、そういう文化が、日本でも、復活していけばよいと、「文楽」→「トニー賞」と、東西の舞台の粋を見て、つくづく思った一日だった。遠くのそして近くの「可能性に気づく」ことは、とても大事でかけがえのないことのようだ。PS:授賞式の中で追悼コメントがありましたが、グレゴリー・ハインズ氏、昨年、亡くなっておられたんですね。 合掌
2004.06.12
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もう2年も前に買っていたのだが、今まで、封をきっていなかった。今日、無性に聴きたくなって、とうとう取り出した。この曲は、チェリビダッケをナマで聴いた最後の曲。実演で衝撃を受けた同じ組み合わせで録音を聴くことはどうしても躊躇する。記憶がゆがめられるような怖さがある。(しかし、いずれ思い出したいということもあり、 値下がりした折に、買ってはいた。)録音で聴く音は、記憶のものよりも遅かった。(記憶のものも、相当遅い印象だったが)この録音は、来日より3年後のものだから、実際、さらに遅くなったのかもしれないが。録音と実演の違いは、山岳写真と山登りの差があるが、とはいえ、久々にチェリビダッケのブルックナーに再会できたという印象で、記憶の中の実演のことを、思い出させてくれる。実演では(ブルックナーの場合)、響きをひとつひとつ、用意して、それぞれの音の初めから終わりまで、完全に響かせていた。テンポは、その「結果」。本能的な興奮や、勢いを、あえて拒否し、オケと一緒に確かめて、積み上げる、そんな演奏だった。「指揮」も、リズムや流れをつくるという指揮ではなく、「そう、その響き、さあ、次の響きに移ろう」というような確かめる「指揮」で、それが、そのまま音になる。「フレージング」も、通常の意味のフレージングというよりも、そうした「音の積み重ね」そして「音の"移り変わり"そのもの」という性格が強かった。実演でも、初めから、「遅いテンポ」は予想していたものの、曲が始まる最初の音から、まず、普通の「流れ」からの想像を超えた遅いテンポに驚かされた。 (その意味では今日録音を聴いたときは、予想を超えていただけに、 ある意味、追体験をできたわけだが。)ものすごいフォルテッシモになっても、そして、ピアニッシモでも、「響き」が崩れない。 「崩れない」という守りの意味ではなく、全員が音量のイメージを共有し、イメージどおりの音量で、共有するイメージの響きを生み出し、つみあげていく、という、ちょっとやそっとではありえないレベルの演奏だった。(これは例えば、ヨッフム=ドレスデンの同じ曲の演奏(こちらは録り直しのきくスタジオ録音なのに)とはまったく対照的。ただ良い悪いとか優劣ではなく「目指してる音楽」が異なる。)実演では、オケのメンバーおよび指揮者を目の当たりにしている状態で、音が聞こえてくるので、こうした音・音楽は「必然」の出来事として聴くことができるのだが(舞台&聴衆とも互いに緊張しているが)、録音として家で座って(または寝転んで)ということになると、例えば、数分前までTVCMが流れていたりするという状態でもあるわけで、なかなかこうした「非日常」の音楽(というか、音響体験)は「家庭で楽しむ」ことに似合わない面があるのかもしれない。我が家でも、隣との間に薄い壁1枚でTVの音量も気をつける、という状態なので、今日のような休日の昼間位しか聴くのは難しいし。以前書いたように、もちろん、聴く音量ひとつでも印象は異なってしまう。そうしたことも、改めて思い起こされたものの、久しぶりに、懐かしい場面が蘇ってきた。そんなCDだった。このCDを聴く場合は、「ブルックナーの交響曲8番」を普通に聴こうとする目的よりは、ブルックナーの交響曲8番の演奏の可能性を聴き取ろうとしたいときに聴くのが良いように思う。この演奏に限らずだが、「(聴き手が)何を聴き取ろうとするか」ということと「(演奏者が)その演奏により創ろうとしているもの」の幸せな出会いやタイミングは、奥深いものだと思う。そして、また、この演奏に限らず、一度聴いて「キライ」「ピンとこない」と思ったものでも、時を経て聴きなおすと、ピンと来ることもあるかもしれない・・・。
2004.06.05
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今、BS2で、ERの解説番組(座談会)やっていて、山本晋也監督が、さすがに製作のプロならではのコメントや、「本当のお医者」の方の解説が興味深いです。ところで、「ふたりっ子」「オードリー」「ハンドク(堤幸彦のシュールな演出が印象的)」で有名な脚本家、大石静さんが出演されてます(; ;)。好きな方には申し訳ないのですが、僕は彼女のドラマは好きになれないのです。ストーリーを動かすために、キャラを走らせるタイプの脚本で、必要ならば極端なキャラを連発するタイプの脚本なので、「ひと」が感じ取りにくいことが多いもので。だから皮肉なことに、よく出来たマンガをドラマ化した作品では、手際の良さが光る…という気がします。つまり、複雑なストーリーでもちゃんと「判る」ように描けるのですから、「手腕」は大したものであることを認めるに吝かではありません。で、このERについての座談会、大石さんは、日本の脚本家として、自負がおありなのは当然ではあるのでしょうが、「日本ではスタジオが狭いから・・」とか、「私も書くとき、お医者さんと大分お話しますよ」とか、ほぼ同格になろうとするご発言やら、他の方が、日本の傾向と比較した発言をすると、「あなたは日本のドラマを余りごらんになってない」とか、まあ、確かに「消費者」が好きなことを言うのと違って、「プロ」としては、皆が「ER」をホメまくると、つい「私だって」と言いたいこともおありなのだとは思うのですが、正直、見る者としては(「僕は・・」ですが)、「ER」と例えば「ふたりっ子」「オードリー」の将棋や映画に携わる人々についての取材のリアリティや人物・人格の描写、また「ハンドク」から堤幸彦演出の特徴を取り去った場合のリアリティを考えれば(好き嫌い別にしてそれぞれ個性を発揮した作品とは思いますが)、まったく次元が違う・・・というのが正直な(素人の)感想です。(だから「価値が無い」という意味ではないけど)「プロ」としてはプロなりに、その「差」を判った上での発言をしてほしいなあと思ってしまいました。判っておられるけれども、つい張り合ってしまったという位のそれこそ人間的なことではあるのでしょうが。山本晋也カントクは、その点、「プロとして等身大」の目線で見て、具体的に関心し、具体的に特徴を話してくれたいたので良かったです。こんな風な過酷な印象をもってしまったのではあるけど、実は、トンデモない話し方をされたでもなく、きっと、普通に話しをナマで聴けば、こんな負の感情は生まれなかったのかもしれません。もしかしたら、TVは「裁く」心理が働くのかもしれません。ご本人が、視聴者側の認識する「実態」とズレたところで、「勝とう」とする(様に僕には見えた)姿勢が、強調される機械とも言えるのかもしれません。(コレも観る側の好みや彼女の作品への評価によって、大きく変わることですが。)大石さんについては、僕にとっては、「ひと」を見つめて寄り添って描くという点を重視なさらず、興味もお持ちでない作風にお見受けするので、ストーリーのためにキャラクターを動かすタイプの作品しか知らないのですが、先にも述べたように、マンガ原作のストーリーのしっかりしたものでは、複雑なストーリーや人物関係でも「わかるように」的確に描く手腕はお持ちですし、僕の好みではないものの、一定の質の作品を「量」をこなされる方でもあるので、こうした場に出られることも、また、プライドを持った発言をされることも、妥当な立場の方である…と僕も思っている・・・ということは、末筆ながら、ご本人の名誉のために書き添えておきます。ただ、僕の印象は、上に書いたとおり、良い印象はもてませんでした。ER特集ということで、ドラマと医療のプロの話を勝手に期待したということもあるかもしれません。明日は「ホワイトハウス」特集です。これは平野次郎さんも出るので楽しみ。デーブ・スペクターさんが少し心配?杞憂となることを・・・。
2004.06.01
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