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1月、猫が死にました。そして欠航。2月、新空港に行きました。テオヤンセンも行きました。3月震災。また妹に子供生まれた。4月空港5月シーギリア登頂。6月人権の学習。7月お山公園再挑戦。8月ビシュケクで警察にやられました。9月マジューロ行きました。10月東北行きました。11月魚の研究しました。12月家を買いました。それに友達も亡くなってた。それでは、良いお年を。(とりあえず、プランA,B,Cで旅行計画立てたので、あとは実行あるのみ!アフリカ目指しているので応援して下さい。今からパッキング。あと3時間で出発。)
2011.12.27
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要約;ミジンコ買った。要約;不能要約;国鉄の切符をなくしたと思ったら、なくさないように靴下に挟んでいた。ババ抜きをするのも、道路の中央をチンチン電車が走るのも、国語の勉強でした。要約;4時半におきて、寝なおして6時におきて比叡山に行き、延暦寺は子供は入場料無料で、聖徳太子や桓武天皇が150円で、お化け屋敷に行って、バイトのお化けにジャカシーと怒られたのも国語の勉強でした。そしたら成績あがりました。あとは、国語の勉強です。
2011.12.26
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レイクパレス。確かここまで着くまでに一晩バスに乗ったのだが、草履がなくなったのであった。シティパレス。中産階級のお宅訪問 冷蔵庫があることに驚いた。洗濯場。一人だけ15歳ぐらいの女の子がいて、上半身裸でびっくりした。ちちまるだしで、下を向いた。フェスティバル。次の日、街角で主催者と会うと、非常に喜んでくれて、自転車をこかせて、私に握手を求めてきた。良く来てくれたありがとう。と。チットルガルウダイプルから4時間このとき、日帰りの限界は4時間だなと思ったのだが、それが破られるのは、20年の月日をまたぎ、上海日帰りとか、宮古島や石垣島とかまで待たねばならなかった。小学校の遠足、足元で、貧富の差を感じた。学校に人数分写真を送った。勿論、返事はなかった。脅威の九階建て(上まで真っ暗な中登れます)
2011.12.25
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ジャンシーを経て、夜中、列車でデリーへ。早朝、インドのオールドデリー駅を出ると、予定通り、駅前にたむろするリキシャーワーラー(人力車夫)が数人寄ってきた。外国人は外国人価格があるのも仕方のない。皆、結託談合して一律価格を口々に叫ぶのも、まあ、しようがない。その中で、一人高杉晋作似の若者が、ウインクし、ガムチャ(万能布)をフラリと肩に回した。皆の言値より一ルピー安く行くことをいとも簡単に承諾した。同業者の揶揄には、余裕の照れる様な笑顔で半分無視するのが印象的であった。明日のジョーの力石徹の様に目をつぶって口の両脇だけが上に上がった。ガムチャでサドルを拭き、「人の心をちょいっと揺さ振るコツは知ってるぜ」という様な顔をして、ペダルを漕ぎ始めた。四キロ離れたニューデリー駅で、私は交渉値に二ルピーをプラスして渡した。彼は「してやったり」とした笑顔で、お金を持った手を上に挙げた。列車は行き先によって、出発駅が違う。大都市では外国人は専用事務所で切符を取ることができるのだが、この時は、少しでも同化してやる、といった浅はかな意地を持ってして、列に並んだ。一時間並び、順番が回ってくる。「今日は満員で無理だな。あの列に並びなさい」あの列に並んで、約一時間。「そっち行きの切符は売ってない」「仕方ない、長距離バスで行くか」妙にあっさり引き下がった私は地図を頼りにバススタンドを目指した。が、道に迷い、二時間後、何故かオールドデリー駅前に来てしまい、早朝の振り出しに戻る。今度はオートリキシャー(三輪バイクのタクシー)で行くことにしたが、途中、交渉値と違うことをいいだし、喧嘩を始め、途中で降りて、そこまでの料金払う払わないで三十分間、言い合いをする。はっきりいってかなり疲労度が高まってきていた。どこで降りたか分からないが、見渡すと銀行を見つけ、そろそろ両替しなければならないことを思い出し、銀行に入る。こちらの銀行員は横柄な方を多数見かけるのだが、彼も例には漏れていなかったようだった。「現金は駄目駄目。トラベラーズチェックだけしか受け付けないけんね」といい、「おい、机の上にバナナを置くな」と注意され、「パスポート」と仏頂面で怒鳴られ、パスポートに挟んであった使用済み航空券の裏の広告をしげしげと眺め、「おい、この電気剃刀はいくらぐらいするのだ。おまえは持っていないのか」と質問され、「ところで、インドはいい国だろう。我々は何でも持っている。映画製作本数世界一だ。それに…」とお国自慢が始まった。「そうね。原爆だって持ってるもんね」と皮肉のひとつでもいってみたが、「そうだ」と逆に自慢され、オンステージを引き伸ばす結果に終わってしまっただけだった。結局、百ドル両替するのに一時間を要したのであった。そこからリキシャーに乗り(これは無事に)、バスステーションまで辿り着き、ラジャスタン州ジャイプル行きの窓口を見つけ出して切符を買おうとしたが、「うーん。その切符の販売は二時間後だからね」と優しくいわれ、その近くのベンチにへなへな座り込む。バスのクラクションがキチガイの様に、常に同時に鳴り響いていて、こちらも気が狂いそうになる。靴磨きセットを担いだ子供が何人か、お客を探してうろうろしている。そのうちのひとりが、新聞を読んでいた隣のおっさんの靴を勝手に磨き出した。おっさんは特に怒る様子もなかったが、一度も子供に視線をやらず、新聞を読み続けたままポケットから一ルピーを出して、子供の足元に落とした。次に子供は、私の足元を見たが、表情を変えず、また次の客を探して歩き始めた。私は、草履だった。二時間が経過し、窓口に行くと、担当が変わり「何だ。その切符は売ってないぞ」といわれる。デリーに着いてから八時間が経過していた。もう、笑うしかなかった。そして数秒は笑ってみたが、この状況を打破すべく、私は窓口で大きく宣言した。「ジャイプール行、スーパーデラックスシート一番高い奴、一枚」切符は難なくとれ、一時間後、指定された番線に行き、バスに乗り、余裕のまま、念のため、隣のインテリ風おじさんに切符を見せて確認すると、インテリ風おじさんは驚愕し、「これは違うバスだ」と大声で叫び、バス中が愕然となり、バス内の有志数人がバスを手分けして、手分けして探し始めてくれた。バスはあった。私は何度もお礼をいい、バスに乗り込んで、一分少々でバスは出発した。車内では、一人の女性を兄弟で奪い合うといった内容の踊りアクションありのインド映画が上映された。「インド映画は世界一面白い」といった銀行員の顔を思い出し、「私は貧しいインド人達に、束の間でも夢を与え続けているのよ」といったインドの名女優スリデビのことばを思い出していた。ピンクシティと呼ばれるジャイプルには夜遅く到着した。しかしピンクシティーの別名を取りますが、街中の建物がピンクといいながら、ドドメ色。砂漠に入る都市。1日貸切リキシャー。2ルピー+昼ごはん。リキシャワーラーのオームさん、片目であった。ジャイプルイン前ジャンタルマンタル(天文台)まったく訳が分かりません。シティパレス(1階は博物館)アンベール城 郊外10キロの山上にある。知り合ったヒトの単車で出かける。ヒトを信じないというのは難しく、親切なヒトで、最後までお金も受け取らないし、疑っていた自分を恥じました。ハワマハル(風の宮殿)は幅のない建物。奥行き5メートルぐらいか。
2011.12.24
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忘年会の最後は、故震災橋ワタルとその一味での晩餐会となり、内容はすっかり忘れた。心斎橋の近況といえば、仕事でニューヨーク行ったこと、リアル郡山ハルジ氏の近況動向ぐらいで、その部下の話題といえば、レーラダックに行ったということぐらいで、いつの間にか家に帰ったのであった。忘年会シーズンも終わり、今から旅行の計画を立てます。日記を書く暇がありません。年賀状を書く暇も寝る暇もありません。
2011.12.23
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子供オカマから大人オカマまで引き連れて市民プールに行きました。「オマイら全員そろってオカマやなかいあ!」というと・・・特別に部屋でファッションショーが始まりました。オエーでした。オカマとヘテロのカップルもあります。ダンス教室に行ったら、ほらやぱーり、オカマ紛れコンドル、ははは。でも、オカマには感謝、私のジーンズも、洗濯してくれる、勿論無償だ。その代わり、市民プール連れて行った。自宅でバンド練習するが、ライブ会場はトンドだ。え、オカマ?レズ(トムボーイ)が紛れてます。てな感じで、フィリピンやタイがやたらオカマが多いというわけではなく、多分市民権を得ているだけだ。多分。それは、多分10~20人に一人だと思う(気がついていないヒト含む)
2011.12.22
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高校時代の現代国語のH先生は、ある授業で、インドのカジュラーホにあるエロチックなミトゥナ像の写真集を持ってきて、「現代の性のタブーの厳しいインドでは考えられないぐらい昔は大らかだったんです」と説明した。翌年、私は、インドのカジュラーホからH先生に影響を受けて(嘘)ここに来ましたよ、とH先生宛に高校に絵葉書を送った。カジュラーホは村で列車は通っていないのに、観光地なので飛行機が飛んでいる。オジヤも食った。基本ドミトリーしか泊まらずのインドだった。ここはお湯が出た。広い芝生の上で昼寝する。結局、2泊3日で、2回も訪問する。首飾り(ダイヤモンドというが、偽物まるだし)270ドルの言い値を暇だったので、1時間半ぐらい交渉して15ドルで手を打つ。チャリンコ借りて、(時間制)ポツンと存在する群以外の寺院にも行ってみる。ダンスフェスティバルが夜にあり、見に行き、そのあと、サーカスもあったので見に行った。大きな野外会場でインコが綱渡りしていて、見えにくく、皆、シーンとしていた。祭りのために村全体が停電となる。夜の帰り道、蛍が飛んでいた。
2011.12.21
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ブッダの悟りの開いた地は、ベナレスから乗り合いタクシー。Dhamekh stupaMulgandha kuti vimaバラーナスの近郊、サールナート。乗合いタクシーの運転手に声をかけられて、乗り込むと、定員いっぱいになるまで、タクシーは出発しなかった。野菜を大量に持ったおばさんや子供と一緒で、ブディスト四大聖地の一つに向かうという雰囲気ではなかった。実際サールナートは村であって、記念公園らしき芝生の広場に、そう大きくもないストゥーパ(仏塔)が二つあり、私も芝生に座り、静かにリスの動きを見たり、鳥のさえずりを聞くことぐらいしかすることがなかった。ここは、仏陀が初めて説法した時、相手は人間五人の他、鹿等の動物もいたという。そんな雰囲気が二千年を超えた今でも何となく感じることができる。それは、そういう地だからという錯覚かも知れないし、地面のパワーが特に強いのかも知れない。同じ様に分からないのが、日本やタイ(でさえ)「仏陀のことば」をじっくり読むのは集中力が必要で、しんどい作業なのだが、インドでは不思議にすっと読めてしまう。地のパワーか、私の感傷のためか。そうやって、芝生で寝転んでいると地元高校生らしき集団が話し掛けてきて、冗談なのか本気なのか、私の荷物を勝手に詮索しだして、盗むような仕種をする。「俺はまだ、悟っていないんだ。所有の精神がまだ抜けないんだ」と情けなく呟き、「それにしても、ここは聖地なるぞ、この地で盗みとは何たることだ」と叫んだ。集団は、気分が高揚し、蜜柑の皮や牛の糞を私目掛けて投げつけてきた。空気は悪かった。私は退散した。痩せ我慢いっぱいに、歩いて退散した。
2011.12.20
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忘年会が今週は3回予定されており、牛飲馬食は体に良くないので、通風だけでなく、全般的に注意したいと思う所存というか、次の日も仕事なので、しんどくなりたくない年頃。体内に入ったプリン体が尿酸になり、血管で結晶になったので痛いといわれてきたので、プリン体を含む食べ物を控えようということを言われてきて、確かに、私も、好きでないものは都合よく控え(というか食べず)、好きだけど、干ししいたけや一夜漬けの開き魚は控えてきた。 しかし、どうも、腑に落ちなかったのは、飲みすぎたら足が痛くなるというものでも、ちょっと、プリン体の多いものを食べたらヤバイ状態になるというのではなく、おおよそ、仕事が暇になって、気が抜けたときになるのだ。気が抜けたらカクっとくるからなと思っていたが、どうやらそうではなく、5月とか、なんかそういう季節の変わり目が多いようで、仕事柄、3月や9月に比べて仕事が落ち着いてくる頃だったということが分かった。 どうやら、プリン体を外部から取るのを減らせば体内で作られ、食べ物で採れば体内で作られるのが減るということがわかってきて、結局食事とはあまり関係ない(採りすぎや飲みすぎは別として)ことが判明した。だからといって、さあ、じゃあ、食べまくるぞ、肉!魚の開き!とか別に思わないけど、学問は進化して今までの常識がちょとずつ変わるってことだよね。そういえば、中学生までは、運動中、水を飲むな!と根性論がはびこっていたよな。子供の頃は、日光を浴びてビタミンなんちゃらを採れ!とか言ってたけど、今じゃあ、日光浴だめだよね。今でも、リゾートにいくと、西洋人が甲羅干しになっているけど、うわあと思いながら、寒い国のヒトだったら、不足しているのかね、とも思う。(科学的根拠なし)
2011.12.19
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火葬場は川のほとりにむきだしにある。沐浴場でのできごと。何か夜中まで少年船頭が安くてよかったので、頼んだらパワーなく無茶遅い。これは、児童虐待ちゃうか。あ、俺がか。それで、もうオール貸せ!と俺が漕いだ。何せこの少年の発する言葉は「OK?」のみでOKとでもいおうものなら直ぐ岸に戻ろうとする。(結局、夕方パワー船頭の下、対岸の不毛地帯に行く)ガンジス河(=ガンガー=河という意味なので、かわかわなんだけど。サハラも同じ)沿いにある建物に横線が引いており、雨季の水平線位置を表す。OMロッジへの路地には、牛が1匹放たれ、いつもボーとしている。沐浴場(ガート)の階段で、大人しそうで信用性があると判断した私は、パスポルテから所持金からカメラからを預け、対岸まで泳いで行く、私の今後の人生は会って10分程度の彼に託された。彼は持ち逃げせず、よく泳ぎますねと、帰ってきた私を汚いものを見るようにつぶやいた。しかし、私自身はガンガーの河によって清められ、来世が嘱望された。ガンジス河の橋から結局3回行ったヴァラナシ
2011.12.18
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リキシャ。オートリキシャーや自転車リキシャでなく、ほんもんの人力車はアジア広しといえ、カルカッタだけであった(観光用除く)。何せ雨季には、水はけの悪いカルカッタ、膝ぐらいまで年が水浸しになり人力が頼りとなってた。 列車の切符。購入したもののコーチナンバーが読み取れません。くオベロイ近カルカッタ 特別にスゴイ街デモ風景もありました。チョーロンギー通り。チョーロンギー通りを眺めるヒト。カルカッタ動物園に行きました。子供大道芸人車はオールアンヴァサダーだった。 知るヒトぞ知るモダンロッジ。サダルストリート入口付近。サダルストリート。スケボー物乞いさん。
2011.12.17
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イスラエルで買ったら安い。5分の1だ。昔、そういえば石鹸か洗剤って議論があったなあ・・・、ちょっとヒステリックな。ねずみに洗剤かけて、死んだとか、そりゃあれだけかけたら死ぬだろうなあという写真だったなあ。しかし、洗剤ちっともなくならないなあ。もう2年は買ってないよ。 しかし石鹸は良く、洗剤は良くないというのはもう廃れたし、同じようなものだよと世間が認識したというか、ただ飽きただけなのかも知れない。当初、洗剤が出た頃は良くないものもあったのかもしれないのだが、企業の宣伝もあってか、必要以上に洗剤を使っていたというのはあるだろう。ババババーと入れて。石鹸が自然で、洗剤は石油だってのも、そもそもおかしく、石油も自然から採ったもので、どちらも精製している。発売された時期が違うということで、目のカタキにされてしまったのか。洗剤を使うと肌が荒れる人もいるだろうが全員ではなく、どちらかといえば体質の問題だろう。なんだか、いつの時代もスケープゴートがいるのだなあ。そういえば、10年ぐらいまで環境ホルモンってのがあったなあ。結局犯人探ししたけど、環境ホルモンってみつからなかったよなあ。俺も、あのときも、怪しいなと思っていたよ。環境ホルモンで魚がメスがオスに変わるとか・・・。小学校のときに、習ったのになあ、オスメスが自然界では転換することがあると(高等動物はそりゃないけど。ヒトやサルが転向することはあっても)。今は、とりわけ温暖化関連とかリサイクル関連だよねえ。多分イーパイ間違いとか意味のないことやってんだよなー。ひとつだけ挙げておくと、小学生のときに、習わなかったかな、草木は夜には二酸化炭素出すって。そういえば、史上最大の雨量ですとかいいつつ、またマスコミも、何かおかしなこといってるな、史上最大の雨量って、多すぎるなあ、と思って調べてみたら、やっぱ、観測地での雨量のことだったわ。昔の観測地は都道府県に1箇所とかで、今は、はあ、観測地増えただけジャン。まあ、小学校のときは成績優秀だったので、今でも小学生知識を総動員すれば、世の中のインチキちょきし分かるものだよ。ね。まあ今じゃ、小学生にも嘘ついてるかも知れないけど。マスコミだって絶対、学者にも取材してて本当のこと分かっているはずなのに。煽りたいだけか、そんなことニュース性がなくて面白くないじゃんか。嘘教えられたら子供もショックだよ。マスコミも学者も、分からんことは分からんしか仕方ないじゃん。大人になってインド行って、道聞いて、分からんのに、100パーセント自信もって、道案内してくれるような親切で自尊心の強い人間も困ったものだわ。関係ないけど。
2011.12.16
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大学に入学すれば、あとは、ニヤニコ人生。年間15単位ほど取得すれば、順調に卒業の道をましぐら。大学1年から完全週休3日制を導入した私は、その日からもう寝たきり学生となり、日々勉学に勤しんだ。大学2年もぶっちぎっていったのだが、どうやら1時限目は、大変厳しいというか、起きることができないというハプニングとなり、大きな声では言えないが、週5コマも授業に出ていた。最終的には140単位ぐらい、ずばっと、取得したという按配。15単位というのは、表にすればまあまあ悲しいものだ。不合格科目は案外少なく、試験自体を受けていないという実態もあり。学生時代は、そうやって、いじけて、山篭りしたり、日本から消えたり、現実逃避にまっしぐら。しかし、今は、フツーの生活を送っている。
2011.12.15
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昭和の時代でした。春は潮干狩りだが、春の海は割と寒い、が、そこは子供、元気なんである。小学生だった俺は、小学生共(=ご学友)があさりだの蛤だのと、定番(=しょぼい)貝を熊手でせっせと掘り起こす姿を尻目に、塩を持ち出し、ヤリガイ一徹の、変わった貝取るスーパーヒーロ(=気色悪い貝とっとる)であった。マテガイはそう簡単には取れないが塩を穴に吹き込むだけで簡単に採れるのである。お懐かしいこちらはお懐かしい。神戸では4年の秋の遠足が京都、5年が奈良というのは、まあ、定番で、20代の頃、奈良の会社の先輩を神戸のラウンジに連れて行って、空いていて女性数人に「え、奈良から来たのですか?鹿のいるとこですよね」とか「ああ、小学生の遠足でいくところね」とか「大仏」とか言われて、先輩は神戸が嫌いになった。その後地震があって神戸に社員が自主的に義捐金してたが、彼だけはしなかった。いつもお別れ遠足してたんだなあ。そういう言い方覚えてなかったよ。小学校は小1のときに100周年で、仲良し滑り台(=ジャイアントスライダー)ができたが、20年後ぐらいには取り壊された。ハンガリー舞曲
2011.12.14
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「あんたの荷物ダンボールに3つぐらいあるけど、持って帰らんと捨てるで」と言われ、成績表が出てきたので、写真に取っておくが、成績表の中でも、私も大人になって、どないやねん、と自信なく思うのであった。小学校4年の1,2学期でできなかった整理が3学期が終わる頃には普通になった。それから、多分、すぐ努力して欲しいに転向したに違いない。コロッケも一気に食べましょう。もっと学習に対して意欲を持てほしいです。今なら、もっと生きることに対して意欲を持って欲しいですと森先生に書かれるだろう。森先生美人だったけど、自分で美人といっていたので、凄いなあ。中2 気持ちを絵や版画、彫刻に表すことができる・・・難しい課題だ。小学校3年から自主、責任感、創意工夫、根気強さ、情緒安定、公正さ、公共心、協調、礼儀、などを求められる社会は大変だ。というか、このあたり、大人になるほど、失われていくものもあるような気がするなあ。落し物係頑張りましたか?風紀委員、保険委員、庶務委員、テニスクラブ、卓球クラブ、スポーツゲーム、英検4級、ペーパークラフト部、陸上部、何かと、中学生時代ってのは忙しかったんだな。鼻血出るわ。どうやら図工については、発案力はあるが、いざ作ると、雑であり、色彩感が悪いということが、判明するも、大人になったら、発案力も消え、生き方が雑になったぐらいだ。中2のテスト総評。すげ、トラストがトランス状態になったり、カルテルがカクテルで酔っ払ったりまるで、大人じゃん。労働災害を労災でなく、災害か、それもまあ間違ってないよね。高校生時代だけ成績良かった。小学校5年で苦手だったのは、歌唱と歌の創作ぐらいで、あとは得意だったといえるだろう。ボール投げと版画と楽器演奏が得意でしたが、絵の具の使い方と気持ちをこめて歌うことができないので、画家とミュージシャンには向いてなかったみたい。小2の段階で。人の気持ちが分からず、ノートにきちと描けないので作家も向いてなかったみたいです。九九がいえたり、意図電話得意だったので、数学者や科学者向きでしたね。小2の段階で。スポーツ選手にも向いていたようです。小2の段階で。小1では給食を早く食べるのチャンピオンで、そのため大統領といわれてました。それにブランコの動き方ができるようになった様です。誰か休んだ人いませんか・・・ハイ、5回ブチリなりました。注意されたことは、チャイムの音を先輩が知らせてくれたそうです。覚えてます。チャイムが鳴ったのに気がつかず、外で遊んでいたら、教室から6年生が、「もう休み時間終わったぞ」と言ってくれて走って教室に戻ったのである。今思っていること・・・ふくはらくんが変です。
2011.12.13
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手は全て(筆記、箸、工具、パンチ等)右利きなのだが、風任さんの日記でいろいろパーツはそうでもないと思った。耳は、左耳聞き。でもこれは電話機を首に挟みながらメモを取れるように左耳聞きに矯正されたのかも知れない。しかし、子供の頃から、長電話はオートライティングしていたので、右手を使っていたので左耳利きだ。足は、クラウチングスタートするとき、左を後ろにもっていき、蹴って走ったので、やっぱり左足利きだ。目は射撃ゲームでは左目で見ていたので左目利きだ。何故か左目のほうが、右目より10倍ぐらい視力がいいというのもあるが、ライフルを持つと左手で引き金をひく。鼻と口は、まあ平等だ。バットは左も右も同じなので両腕利きだ。ちなみに自由自在に右にも左にも回って見えるぜ、しかし、これは、実際は利き脳とは関係ない。ちなみに、実生活ではちょっと右脳寄りみたいな感じだね。あまり意味があるとは思えないが、これやってみたら右より70パーセントでした。後ろに落ちるには両利きでした。
2011.12.12
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ナショナルスカウトホステル 日本人会食堂 フィリップチュー タンジュンピナン コパンガン クタ プランバナン ブキティンギ パダン料理 ジュライホテル
2011.12.11
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私ではなく、親が駅近くの家の契約をするに当たり、スーパーアドヴァイザーとして同席した。今の家には、最寄り駅から歩いて25分、道は狭く、オールドニュータウンとして、徐々に住人も減りつつあり、というか、若い者は出て行き、車の所有台数も減っていき、近所のスーパーが廃業になり、老人がひっそり住むエリアになりつつある。老人は都会に住まないといけないという私の熱心な考えと、親の、そのとおりだという気持ちが合致し、家を探すこと2年、ようやく、それなりの家が見つかり、今の家どうするねん的なことも、売るに安すぎるな、でも、もう潰れるかも知れないな、そしたら隣の家に迷惑かけるかもしれないので、早めの処分が必要となる。同級生の近所に住む父や母が何人かボケはじめ、あの人ぼけてねえ、とかあの人介護にはいってねえ、という噂を親から聞きつつ、今買った家も、私たちももう20年もすればこの世から消えるのだから、あんたどうするかまた考えときよ、といわれつつ、まあ、多分、妹が一時帰国したとき専門の家になるのだろうかねえ、と思うのであった。仲介業者は、私の鋭い質問されるのでは、と突然現れた息子にびくつきながら、へなちょこに契約終了。来年引越しして、毎日、歩いてパチンコ屋にいったり、駅裏の海を散歩したり、シチーライフを満喫すると意気揚々であり、まあ、よかったじゃん、ということでヨロシ。
2011.12.10
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卒業してから、何回会いましたか。最後に会ったとき、「そうえば、自分の友達のH元気にしてるの」というと、急に顔が曇り、昨年癌で亡くなったと告げた。原因は知らないが、まさか、次は自分だったとは。癌と分かり、亡くなるまで10ヶ月。でも、何年も会ってないから現実味が薄い。同年代でも、何人か死んだ。そういえば、子供時代から学生時代に知ったような有名人も随分死んだ。誰でもそうだが、体にガタが多少来ても、精神的には年を取ったような感覚がない。
2011.12.09
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この前、おかしな人を描いたので、ちょっメモっておこう。何度か、マルクスがエンゲルスの援助を受けながら、お手伝いさんをはらませたことを描いたが、その思想的弟子ともいえるヘーゲルも同じ。下宿崎の女主人を妊娠させてしまう。 マッカーサー。超マザコン。日本に来たときは、もう70歳ぐらいだったが、結婚したのは60前だ。50代に10代の女性の恋に破れる、というか、どこでもおかんがついてきて、おかんが死んでやっと結婚した(できた)。ケチつけチャンピオン中原中也。太宰に「おまえどん花が好きだい?」太宰「うーん、もものはな」中原「けっ、だからオメーは・・」そこから乱闘騒ぎ。島村藤村は昔書いたことがあるが、家族を餓死させている。兄の娘をはらませる。パリに3年もせれで逃亡する。エジソンは天才だ。エジソン研究所は、社員は不眠不休、何か作れ!自分ができるものだから誰でも限界まで働くことができると思ったようだ。いまでいうブラック企業だ。まあ、しかし、何をしてもいいいが、結果がでなければ首だ。バッハ。ケチ。小林一茶、セクス回数を記録。ところで、全然関係ないが、また年末が忍び寄り、どうも寒いところにいっちゃうと空いているというメリットはあるものの、記憶に残りにくい、どこいったっけ、という悪影響も及ぼす。別にどうでもいいのに、冬に行ったチュニジアやポルトガルはいいところだったのに、ブルガリアやハンガリーは単に寒いところだったというイメージになっている。いろいろ計画せななあそろそろと思いながら、今を持って思っているだけだ。最近、どこかいこうと検索しても、自分のサイトが示されたりなんかして、まったくのカックンだぜ。
2011.12.08
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身分制度というのは、どこでもあると思いきや、小さな部族単位では、結構なかったりするらしい。すぐ隣が違う部族が住むような人類学者がないて喜ぶフィールドがパプアニューギニアだ。こういう横社会って何だろう。権力者が命令すれば、身分ができるという単純なものでもなかろう。よくいわれるように、食事を支配するものかが権力を握り、持つもの持たないものを作り出したというのは、昔からよく聞く。ニューギニアの部族の指導者は、その時の優秀なものがなるとされており、一代限りで世襲は禁止されている。部族単位はせいぜい500人までだそうだ。結局、人が多すぎたら、何らかの区別をしたくなるのだろうか。多分、この500人というのを守ったのかも知れない。部族の戦争も一人二人戦死者が出れば終わり、奴隷にすることはなかった。つまり急激に人口を増やさなかったのだ。そうなのかも知れない。でも、単位がでかくなりすぎたら、駄目ねえ。ところで、身分制度を強化した秀吉、自分の出自の農民に厳しくあたったのか。まあ、結構ズブズブやったみたいけど、太閤検地。ちなみに、徳川家康、デブ。デブすぎて、甲冑がつけられなかった、でも健康オタクやったらしいじゃん。まあいいけど。
2011.12.07
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4月に亡くなってました。
2011.12.06
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何回行ったら気が済むねん、といいたいところだが、大人になってから初めて行き、感動した。無料なのだ。無料というところに感動したところに、大人になっちまったんだなと思う。そして、駐車場も無料である。1回目は、家族旅行である。浦富海岸 に泳ぎに行った帰りに寄った。親父が居眠り運転してガードレールにぶつかった、という辛苦の思い出がある、と書いたところで、冬に行ったことを思い出して、違うということに前行を書き終えたときに気が着いた。手元に写真はないが、写真に写った自分の姿を思い出したのであった。城之崎温泉に泊まったんだと思うのだが、そのあたりは思い出せないが、写真にはアジダスのヤッケを着ていて、中学校の帽子をかぶっているので、多分中1である。中学校は国際都市神戸市らしく、全員強制丸刈りで、何か分からんけど、私服のときも学生帽をかぶっていたのであった。2回目は、高校1年のときの夏季野外合宿であった。神鍋高原に2泊して、1泊がテント泊であった。ああいうときは話が止まらず先生にテントを揺らされるというもんだ。そのときも行きにここに寄ったのだが、そのとき知り合ったヤツが、大学に入ってから、虎キチになって、頭を虎という文字に剃ったという風の噂を聞いた。まあ、ずっとあとで、聞いた話であるが、私も高校では優等生だったのに、いきなりインドに行って頭がおかしくなったという噂をされていたようだ。ちっともおかしくないのに、当時はインドに悟りを開きにいったように言われていて、10代で悟りを開くなんて、みんなみんな甘い甘いの世界であった。書きながら思い出したけど、1泊目に肝試しみたいなのがあって、くじ引きでクラスの男女ペアになって暗い道を歩いていくのだが、その女の子が「○○さんが好きっていってるよ、付き合って欲しいって」という話をされ、何だか学年のマドンナと付き合うことになり、男性陣の多くの敵を作ったのもこの日であった(1年も続かなかったけど)。3回目は、大学1年のときであるが、またこれが思い出せず、駅から渡し舟で渡ったということだけを覚えている。多分青春18切符であろう。ここが地磁石が逆になっていることを1920年代に発見した日本人学者は、昔、地球のNS極が逆やったということを唱えたが、それが世界的に普通のことになったのは1960年代以降である。そういえば、中学校ぐらいのとき、地球滅亡(人類滅亡)のひとつに、突然NS極逆転説(地軸逆転説)というのがあったなあ。そして、今回、過去3回見たことや、道順、何から何まで覚えておらず、うっすらと、こんな感じの六角形の石が段々にあったなあということだけであった。しかし、4回目というのは、いずれも、通り道的要素が大きいわけで、豊岡や、城崎まあそっち方面のついでコースだからなのだろう。次、行くことがあるとしたら、また2、30年後だな。 香美町 蟹祭り1 香美町 蟹祭り1 香美町 魚の剥製博物館1 香美町 魚の剥製博物館2 香美町 餘部 日高町 植村直己記念館 豊岡 カバン自販機 玄武洞 豊岡 玄さん
2011.12.05
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大学の後輩に武器商人Kがいる。広島からの帰りに、ちょっと実家(大阪)に寄るというので飲みに行った。周りから見ると、悲惨を絵に描いたような人生を謳歌しているがその後新展開はあったのか。まずそもそも、広島から深夜バスで来て、これからも深夜バスで東京に帰るという。それも3500円という激安ぶりである。そもそも、仕事で来ているというのに、そういうのは、ありなのか、社長は新幹線で広島呉基地に行ったらしいが、彼は東京広島バスである。その点を問いただすと、経費節減です、とのことであった。自分で経費節減して差額をポケットにナイナイするのではなく、そのまま申請するのである。横に一緒に会合に参加したもう一人の後輩Sが、「トイモイさんなんか、ヨルダンからイスラエルまでの80キロを飛行機でいくぐらいだぞ」とあまり比較にならない比較を露呈していた。 まだ家庭ではキッチン配管のぬめりを週1回掃除させられているのか、再度確認したところ、最近では、毎日夕食を作っていることが判明した。最初は週1回だったのですよ、それが嫁にどんどん押し付けられ、ついに2年連続収入も抜かれ、夕食係りになってしまいました。今年も収入抜かれたら、世帯主交代させられます、とのことであった。そして唯一の味方であった実娘(小5)からもついに、嫌われつつあり、それでも、無理矢理、娘と義姉の娘を連れて土曜の午前中、カヌーで川下りに行っても、全然漕いでくれず、お客様状態だそうである。仕事面でも、仕事場である両国から、市谷、呉、沖縄、三沢、佐世保、なども行きつつ、ロサンゼルス(何か分からんが真の社長がいるらしい)やシアトル(ボーイング社)にアメリカも行くが、交渉はうまくいかず、帰国して、ふと朝目が覚めると、去年年末であるが、顔面神経痛となり、顔が半分動かなくなってしまい、ステロイド治療で治したそうである。勿論、突然ではなく、前日、ストローでジュースを飲んだら、左端唇からジュースをこぼして、おかしいと感じていたらしい。ちなみに、話は割りと大きく、ボーイング787の何か競争にも、三菱グループに順調に敗退し、まあ、軍需だけでなく、民間にも貢献しようとしているんですよ、と平和が一番とかいいながら、新宿行き夜行バスに乗るべく帰って行ったのであった。しかし、私もうまれて初めて、ノースロップ・グラマンとかロッキード・マーチンとかエアバス、ボーイングの話を人としたような気がした夜であった(日記には何度か書いてるけど)。P.S.メールが来て、深夜バス乗り遅れ、カプセルホテルに泊まったとのこと。
2011.12.04
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私生活から何まで聖なる人というのは、それは、多分、人間ではない。でも人や世間は、完璧を求める。夢を壊さないでくれとバッシングするのやろうか。それとも、一般人は別にそれはそれ、専門の成果は専門、と思っているのに、マスコミが金になるから面白おかしく報道するだけなのだろうか。少なくとも、私は、それでいいじゃんと思う。最近ではタイガーウッズ、ゴルフうまけりゃ、人格者でなくてもいいじゃん。松尾芭蕉もチャップリンも60,70歳超えてからセクスに目覚めて週に何回もしたり10代と結婚して子供生ませたりしても、功績は変わらないじゃん、キリストかニートであっても、マルクスがニートであっても、ダーウインがニートであってもいいじゃん。(ダーウインは親の財産を資産運用してたからニートというより投資家か)毛沢東がセクスマシンでもいいいじゃん(まあこの人の場合は、直接的感背的にも人を殺しすぎたから、歴史に出ないほうがよかったのにね)、カラヤンが音楽以外に金の話しかしなかったってそれでいいじゃん、まさにタイガーマスクだよ、強ければそれでいいんだ。まあ、さすがに、キング牧師とか、やりすぎがスキャンダルに仕立て上げられ、えらい目にあったり、伊藤博文も移動中にやたりして明治天皇から叱られるといったこともあるが。ま、でも功績残せば、直接の知り合いは困るけど、ほとんどの人間には関係ないよね。ところで、こうやって書いたのは、マハトマガンジーである。親父の危篤中、2階で我慢できず妻とプライしていたため死に目に会えなかったのは愛嬌としても、晩年、裸の女性に、「ベッドをあたためておくように」といい、ぴったりひっついて眠っていたようである。ガンジーおまえもか・・・別に政治しっかりやってれば、何もいわんけど。
2011.12.03
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ほとんどの人間が、自分と同様、いや違うな、自分は随分、生き方テンション低い、いや違うな、上昇気流低い、方向が横ばいなのに対して、世の中には、どこからこんなにパワーが出てくるねんという人がいっぱいいて、恐らくテレビなんかででてくる人はそうなんだろう。毎日テレビに出たり、仕事を作り出したり、波を引き起こす人たちがいる。昨日、浄化剤であるピュアの話をしたが、ネットではでてこない。これではなかった。テレビドラマでピュアというのがあったのはご存知だろうか。勿論私は知らなかったが、そういった社会の隠蔽された部分をドラマ化しているプロデゥユーサーの講演会を見た。内容は、同和の人と結婚して、カミングアウトして、世に問い続ける自分の話なんだけど、涙も流しながら、話しておられて、何でこの人は生きるパワーがこんなに強いのだろうか、その主張より、その熱意が人に伝わっていくというのが分かる。今まで、何だか分からないけど、講演会には何度も見たが、存在感あるねえ。驚きのひとつは、人間同じ時間しかないのに、何故こんなにまで大量な(仕事)量をこなせるのかということだった。何で説得力があるんだろう、その言葉の饒舌さ。そして、飽きない根性。何度でも何度でも同じ人、違う人に伝えていく力。
2011.12.02
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カルカッタに着いた日からマーケット内にある最安値1.5ルピー(当時20円)のカレーを食べ、そこに浄化できるピュアというものを日本から持ってきていて、数滴垂らすと、店主にLSDかといわれるほど牧歌的な時代であった。そのカレーの味は覚えているけど、まずい、というか、20歳の私には、何でもかんでも辛くて仕方なかった。それでも、腹を壊さず、サダルストリートで文句を言われながら、その後1ヶ月の旅行を続けた。カレーは辛くてもう駄目だった。でも翌年、全然平気になってて、ウメーウメーって食ってた。バナナやマンゴー、なんだか、小さな食パンに生の紫オニオン乗せて食って、何か変な飲み物飲んだり、変なことして、甘いの御菓子ばかり食ってカレーを途中から食べなくなっていた。最後に、デリーでスパイスの効き過ぎたカレーを数人だ食べて、一人だけウメエウメエと食べ続け、私を含む他は辛すぎて途中で断念したのだが、そのうちの一人の女性が、完食する彼に、ついていこう!と確信したのであった。(5年ぐらい続いた) 翌年、またインド再訪したのだが、気がかりなのは、またあの辛い食生活のことだった。しかし、それ以上にインドに行きたかったから行ったのだが、私の舌は、知らない間に1年の間に急に大人になっていったのであった。うまい。カレーがうまい。どうしちまったんだ。今は、辛すぎるのも食べることはできても、そこまで我慢してまで辛くすることもないだろうと、ほどほどにしている。(たまに実験はするけど)
2011.12.01
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