エイヒロの「エイさんぽ」

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2024.05.17
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テーマ: 民謡(14)
【民謡のふるさとを行く】「相馬民謡」


こんにちわ、エイヒロです。
「エイさんぽ」では8日間かけて相馬市、南相馬市を歩きました。相馬地方になぜ多くの民謡が生まれたのか、そのヒントに触れることができればと思ったからです。
今回は相馬の数々の民謡について個人的な思い出を交えてお送りします。



○新相馬節
上の写真は、相馬~新地間で撮ったものです。初代鈴木正夫さんが新地にいた頃、中村の堀内秀之進先生のところに、この道(かどうかわかりませんが)を通い、あの新相馬節が生まれたことを思うと感慨深いものがあります。
この曲は、私が師匠吾妻栄二郎の伴奏をした時に、伴奏中に音のズレを調整できずムチャクチャ怒られたことを思い出させます。

○相馬二遍返し
相馬民謡の中で、最初に覚えた唄です。昔、天明天保の飢饉の際に当時の人口12,3万だったのが4,5万に減り、人口回復策として相馬家が主に越後~北陸方面へ移民の勧誘を行ったそうです。その際に宣伝歌としてこの曲を唄い広め成果を収めたそうです。

○相馬土搗唄
私が、後にも先にもただ一度全国大会へ出場した時の唄で、今でも大好きな唄です。この時は緊張のあまり足まで震えてしまい、もうあのような経験はしたくありません。



○相馬流れ山
上の写真は、本陣山から見下ろした野馬追祭場です。この時思い切り小声で唄ってしまいました。(出だしだけ・・・そこしか知らない)
草刈機械を使って作業している様子が伺えますが、昔は実際に野馬を追っていたそうです。となると会場整備は誰がやっていたのでしょうか。相馬家の人?近隣の農民?手当は?途方もない広さと思いますが、もしかしたらこの唄が生まれたのは、この人たちが草刈作業の合間に空を見上げて唄ったのがきっかけではないか(ある意味皮肉交じりに)と想像してしまいます。



○相馬盆唄
かつて発表会をしていた頃、そのフィナーレを飾った曲です。
この唄は、大飢饉の後に荒廃した民衆の心を元気づけようとして相馬家の家臣が作ったという説があります。とすれば「道の小草」でさえ口にせざるをえないで死んでいった人たちへの鎮魂歌のように思えます。

さて、相馬地方になぜ多くの民謡が生まれたのか?(あくまで私見ですが)

相馬家は相馬重胤さんが下向してから明治維新まで五百何十年も領主であり続けましたが、普通は制度疲労等になるところです。
だからということではありませんが、「かわらないので人が好く」「なびく木萱に花が咲く」「花は相馬で実は伊達に」といったセリフは民衆の相馬家に対する皮肉と聞こえなくもありません。あるいは、逆の立場で言うと相馬家の自身に対する自嘲、自虐とも聞こえます。
このことは、殿様と民衆とが言いたいことが言える比較的風通しの良い関係だったことを意味すると思えます。

結論ですが、この地方には唄好きの人(民衆も相馬家も)が多かった、また音楽を楽しむ条件である自由と寛容さがあったから、と思います。

「エイさんぽ」の序盤において、千葉県柏市の重胤さんの墓所へ参った時に、いつかこの地を訪れることができればと思いましたが、こういう形で実現できて、これまた感慨深いです。あとは、双葉地域の復興を願うばかりです。





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最終更新日  2024.05.17 00:00:13
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