2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
全5件 (5件中 1-5件目)
1

たくさんの温かい励みになる コメント、メッセージ、メール、電話、手紙、言葉・・・たくさんの方から いただき、本当に 感謝するばかりです。心より お礼申し上げます。 ありがとうございました。 恨みとか そういうものは ありませんが、書きたい事が 山ほどあります。書き留めておきたい事が まだまだあります。しかし‥ たくさんありすぎて、なかなかまとまらず 日が過ぎていくだけ。 皆さんの応援が 書く励みとなっています。途中ですが、ポチっと お願いいたします!m(__)m↓ ↓ たくさんの方のご協力のおかげで ランクアップしています。この場を借りまして・・・ 本当にありがとうございます 父が亡くなった10月が終わる。早いな。 こんなにも 父を好きでいたとは・・・ 自分でも驚き。恋人が去ってから その存在の大きさに気付く といった感じ?私は、父が46歳の時に生まれた 三女 (4人目の末っ子)。そういえば、主治医も看護師たちも 私のことを 「三女さん」 と呼んでたっけ。。。 「三女さん」って! 普通に返事してたけど、、。ちなみに 姉たちも 「長女さん」、「次女さん」、 兄もやっぱり 「長男さん」・・・・。この父が 母に 「産んでくれ」 と言わなければ、私はこの世に誕生しなかった。母が 42歳 と高齢出産なので、 周りから反対されていたそうだ。そう、私が今ちょうど その 42歳 ! 今から産んで、育てていくって・・・ ほんとに母って凄いと感じ、感謝の気持ちが よりいっそう増すばかり。「神様からの授かりものだから」 と、小さな命を生かしてくれたのが 父である。 父が 入院中に 「この世に生んでくれて ありがとう!」 と言ったら、父は照れまくって 「お母さんに言ってあげてくれ~」 と目じりを下げていたっけ。だから、この自分の命 大切にしたい。 しなくては。 するぞ。 今日は、この辺で・・・。 ※ハロウィンの画像は、自粛します、、。
2008.10.31
コメント(10)

前回 の続きです。 父は、入院中に 誕生日を迎えた。 私の書いた色紙、父は 棺の中で胸に抱いて持っていってくれた。母と私は ほんとは記念に置いておきたかったんやけど・・・ 看護師たちが 「今日 お誕生日なんですね、おめでとうございます♪」 とか言ってくれたら 父も喜ぶかと思って 書いて持って行ったが・・・「置いてあること自体気付きませんでした・・・」 ですと”看護”って・・・ いったい何を見て 何をすることなんだろうか。”完全看護”って・・・ いったいどこまでお任せすればいいものなのだろうか。何かを頼めば 面倒くさそうに態度にも顔にも出ていたから、入院中の父は ナースコールを 怖がってまったく押せなかった。かといって、看護師たちが気をつけて様子を見てくれている事も 残念ながら‥ なかった。そして‥ 父の誕生日には、既に 院内感染していた と思われる。そして‥私たち家族の居ない時は、ほとんど放置されていたようだ。 少しでも多くの方に見てもらうために!応援クリックの ご協力お願いいたします!m(__)m↓ ↓ たくさんの方のご協力のおかげで ランクアップしています。この場を借りまして・・・ 本当にありがとうございます 子供も孫もみんな 遠方か仕事があって、父にはかわいそうな事をしたが、いつも付き添いが居たわけではなかった。まさか死亡するとは思っていなかったし、基本は完全看護で付き添いは要らないという決まりがある。母は 肺疾患で 身体障害の認定が下りた状態、付き添いが出来る体ではない。土日に姉たちに連れられて面会するのがやっとだった。父は、母を 一途に愛し、愛し、愛し抜いた。「お母さんと 離れ離れで居るのなら、生きてても仕方ない」「家に帰りたい。 お母さんのところに帰りたい。」ベッドの上で 母のことを想い、心配し、ため息ついては 涙ぐんでいた。 いつも 散歩で父に歩調を合わせてくれた愛犬にも ずっと会いたがっていた。「何かにくるんで 連れて来てくれないか」こんな無茶な要望をした事もあったが、結局会えないままになってしまった。ずっと あれが食べたい、これが食べたい、何が飲みたい と 言っていた。だから 父の前では 飲食物の話題はもちろん、見せる事も禁止にしていた。「床ずれが痛い・・・」 とすごく訴えていた。 何もしてくれてなかった。最期には、足のかかとにまで 出来ていた。 1ヶ月半で あそこまで床ずれするものなのか??? 足のむくみがひどくて、私がいくといつも足をマッサージして取っていた。「きょんのマッサージは最高や。 気持ちいい、ありがとう。」元気な時にしてあげてなかった自分を反省するばかり。 10月12日(日) 朝5時半頃 父 危篤の連絡が入ったこの日はちょうど 私の出入りしている老人介護施設での 文化祭ボランティア2日目だった。それどころではなくなり、相方と直ちに病院へ!な ん で ??? 危篤って・・・ な ん で ???この想いが 頭の中をずっと ぐるぐるぐるぐる 巡っていた。病室に入ると、主治医が 「脳死しました」 と 冷めた顔と声で言う。心拍停止が5分~15分あったので・・・ という 曖昧な説明 があった。信じられない私は、とにかく父の大好きだった足のマッサージを始めた。すると、5分くらいしてから 父が呼吸を始めた!誰もが驚いたが、主治医は目をまん丸にしていた。「あれ? おかしいなぁ。 脳死したはずなのに・・・。 あれ~???」「この方の生命力、すごいですねぇ。 ビックリしてます(汗)」ビックリは、この主治医。 自分の診断にかなりの自信があったのか? すんごいショックを受けていた。が、ショック受けてる場合か! すぐにやる事あるだろうが!!!生命維持装置を外してもらった。もうこの時点で 父の身体は 本当にボロボロになっていた。スーパーじいちゃんの生命力に賭けて、そして もう余計なものは外して 楽にしてあげたかった。 最初の頃、管を外した父を 病院側は 「凶暴者扱い」した。針も管も何もかも下手くそで痛かったと 後で父が話してくれた。「この方の凶暴さには ほとほと困るんですよねぇ・・・」 主治医がよく私に愚痴っていた。一度だけ、行かなくていいのに勘違いしてトイレにひとりで行った事があったようだ。父は管(バルーン?)で尿を出していた看護師に嫌な顔をされるし、夜勤中で申し訳ないからと 気遣ってひとりで行ったと 父は話してくれた。これで、ボケ老人扱い・・・。多量の睡眠薬での幻覚症状、口腔内の極度な乾燥で言語に負担。これは、年寄りでなくても 起きる症状ではないか? 意識が戻らない父、それでも12日はまだ少し反応があった。時々声も「あ・・・」と出ていた。私はずっと痛がっていた足指の固くなったところを中心に ほぐし続けた。奇跡を信じて!それと もうひとつ・・・ ごめんな。 お父さん、ごめんな。 思うことがあって、実家へはここ1年くらい ろくに帰っていなかった。父がずっと私に足をほぐしてほしかったのを知りながら。 だから 父の足から どうしても離れることが出来なかった。12日の夜は 姉が、13日の夜は 私が 泊まり込んだ。これまで2F(二世帯住宅)に住む姉、一緒に居る兄が大変だったから せめて自分に出来ることといえばこれくらいしかなかった。なので 私はしばらく病院から仕事に行こうと段取りしていたところだった。 父とふたりきりになると、私は父の頬に顔をつけていろんな話をした。返事がないのが寂しかったが、ずっと話しかけた。心配ばかりかけてきたこと、反抗ばかりしてきたことなどを謝り、大好きだったこと、この世に生んでくれたこと、育ててくれたことにお礼を言い、時間の許される限り しがみついて甘えた。 抱きしめた。2年半前に奇跡の生還をした時、手術直後にもうろうとした中で父の大きな手は 私の頭を 撫でてくれた。あったかいやさしい顔と手だった。 一生忘れられない。 10月14日(火) 午前1時30分(実際は1時20分) 父 永眠父の最期を看取ったのは、この私だった。両手の大汗を丁寧に拭いて、最後 足を触った瞬間に すべてが止まった---。 奇跡は起きなかった---。
2008.10.24
コメント(24)

どうか・・・ 持って行き場のない やるせない気持ちを このブログに綴らせてください。。。ホリスティック医学を学んでいる(ホリスティックセラピストである)私は、西洋医学を目の当たりにした。「顔・表情・心(の声)を見ない病院」 で、父を失った・・・・。ベッドの上で毎日、恐かったやろう。 心細かったやろう。苦しかったやろう。守ってあげられへんかった・・・ お父さん、ほんまに ごめん。。。 10月14日(火) 午前1時30分 父 まさか! の 「永眠」 死 因 : 院 内 感 染入院したのは、「腸閉塞(ちょうへいそく)」だったけれど、半月で完治していた。主治医が何度も「完治しています」と言っていた。しかし、病院の書いた 『死亡届』の”死因”欄には、 「腸閉塞」 と書かれてある。。。。。 少しでも多くの方に見てもらうために!どうか、応援クリックご協力お願いいたします!m(__)m↓ ↓ これが 『父の運命』 だと言われれば それまでだけど、あまりにも 無念。最初は、大きくて綺麗で設備が整っていていい病院か と思っていた。最初は、たくさんの若い看護師ばかりで活気があっていいかも と思っていた。が! 茶髪・厚化粧・やる気のなさ・感情むき出し・笑ってごまかす・適当すぎ・不潔感‥ そして 何もかもが ずさんで不衛生‥主治医も他の医師も 言っていることが常にバラバラ、何を聞いてもハッキリしない。「よくわかりません」 「何でだろう」 「もう歳ですからね」 「様子を見ましょう」これがダメならこっち、あれがダメならこっち・・・ 次々と薬が使われる。 どんどん薬漬けになっていく父。からだ中 穴だらけ、管だらけ、アザだらけ。見る見るうちに 父は どんどんどんどん 痩せ衰えていった。「きょん、このままこの病院に居たら 殺されてしまう。 助けてくれ・・・!!」父が私にそう言った時には、既に 院内感染になっていた。私たち家族も この病院からすぐにでも出して 助けてあげたかったが、菌を持っているため 受け入れてくれる病院がない!どうしてあげる事もできなかった。主治医や看護師に意見することしか出来なかった。 9月1日 腸閉塞で某大学病院へ入院 (3件目の病院) ・以前に同じく「腸閉塞」で入院した病院は、緊急オペのため受け入れてもらえなかった。 ・運ばれた病院も設備が整わないため、また別の病院へ運ばれた。9月10日 小腸手術 ・高年齢のため、本人も家族も手術はしないで欲しいとお願いしていたが、 「手術しないと退院できない」と言われ、仕方なく承諾、ほぼ強行だった。 ・小腸を20センチほど切った。 本当に切らなければいけなかったのだろうか? ・口の中が極度の乾燥で舌がひび割れ、言語が難しくなっていく。 (何度お願いしても、看護師たちが気がついて口を湿らすことはしてくれなかった)9月13日 何故か 傷口がパックリ開き、化膿&悪化 → 再手術 ↑ この時点で、私たち家族は 病院に対して 「不信感」 を抱き始める。 ・手術した次の日から 寝たきり予防で「歩く練習」をしていたが、父は嫌がっていた。 看護師の雑で乱暴な扱いが恐かったようだ。 父が看護師に怯えていた原因のひとつ。「腸閉塞が完治しました。 そろそろ食事を摂りましょう。 転院も手続きします。」そんな矢先・・・9月26日 MRSA菌が体内から発見される ・家族に何の連絡もなく 個室に移されていた(隔離)。 ボケ防止のため 個室を希望せずにいた。差額を請求されたが、こちらは断固拒否! ・結局、楽しみにしていた飲食は延期となり、また点滴、薬漬けの日々に戻る。 完全に 私たち家族は、病院を信用できなくなっていた。転院させたくても、菌を持っている限り どこも受け入れてくれない と病院は言う。父を どうしても助けたくて 教えてもらったところに問い合わせをしてみた。保健所 は、「MRSAは常在菌だから 弱っているお年寄りでは仕方ないでしょうね」と。医療相談窓口 は、「その病院は苦情が多いのよ。 病院に伝えておきますね~」と。だめだ、こりゃ。 問い合わせしただけ無駄だった、何の解決にもならず。そうこうしているうちに・・・父は、あっという間に 簡単に 恐れていた 「肺炎」 をおこした。40度以上の熱、白目をむいてガタガタ震えて様子がおかしいのを 私が発見。そんな父をたったひとりで病室に放っていた看護師にここで、私はとうとう キレた!「プロとして 恥ずかしくないのか!! 初心に戻って!!」「この病院に ”愛” を感じた事がない!! 顔、表情、心の声を見て!! 」「謝るなら、今からすぐ どの患者にもやさしくしてあげて!! 」「この散らかってる医療器具やファイル、ゴミなど今すぐ整理して!! 」直立不動になった看護師数名、20代のリーダーと30代の婦長も謝るばかり。それでも次の日、針のついていない注射器や医療ゴミが いつものように病室の床に落ちていた。そう、この病院は ゴミが落ちていて当たり前。 散らかっていて当たり前。手の消毒している看護師を見たことがない。 特に 「衛生意識」を学校で叩き込まれた私にとって、病院(外科病棟)なのに 「不衛生」であることが すっごく気になっていた。そして次の日、主治医が えらい剣幕で私にくって掛かってきた。(担当医)「看護師から聞きましたが、私の治療に文句を言ったそうですね!」(私)「怒ってらっしゃる意味がよくわかりませんが‥ 自分たちの落ち度は報告されてませんか?」(担当医)「私の悪口を言っていたとしか聞いてません!」(私)「看護師さんが ・・・・・・・・・・」(担当医)「も、申し訳ありませんでした!! まったく聞いてないし 知りませんでした!!」34歳の 頼りない主治医は 電話の向こうで 必死に謝っていた・・・・・。 文字数に制限があるため~ つ づ く ~
2008.10.22
コメント(24)

キンモクセイの香りが漂い始めた 今日この頃。みなさま、ごきげんよう わたくし・・・あの 帯津(おびつ)Dr.先生から 合格証をいただきました もちろん、帯津先生が 送ってくれたワケじゃないですがね(笑) おめでとう、私! 皆さまの応援が、書く励みとなっています☆今日もポチポチっと クリックお願いたします!↓ ↓ 生活習慣病予防指導士が最終目的なので、この予防士は 途中経過なんてな、ちょっとカッコつけてみた(笑)とにかく・・・ ひと安心や (ほっ)とは言ってられない。次の指導士、目指します !が、しかーし!試験が 3月15日。 私の誕生日 そして 確定申告締切日(もうええか?笑) 毎年恒例の旅行の計画をしている。 あいたたた日程を ずらすしかないんかな。。。 一緒に学んだ仲間たちからは、急に連絡が来ていない。もしくは、まったく話題に入っていない (^_^;)私がもしかしたら落ちてるかもしれないと 気遣ってくれてる気がする・・・(笑)だから、私も そのままにしてある (あははは)はよ、このブログ見て~ ところで・・・ みんな、受かってるかな・・・???(^_^;)
2008.10.06
コメント(16)

10月も よろしくお願いいたします♪ 今、うちのトイレは 『ソフトバンク塾』 と化している。 ドラッグストアになかなか行けてなくて、トイレットペーパーのストックが とうとう切れてしまった、、。先日たまたま ソフトバンクショップの前を通った時に配っていた。ショップに入るワケではないからと断ったが、気持ち良くくれた。で、とりあえず 使わせてもらうこととなった。なるほど‥ こういうことだったか。洗脳される人、居るかもな・・・(笑) 皆さまの応援が、書く励みとなっています☆今日もポチポチっと クリックお願いたします!↓ ↓ この楽天ブログも いろいろと便利に進化している (たぶん)。お気付きでしたか? いちばん上の ありのままで え~やんか~。 のタイトルのところ。高さが増えてます! (180ピクセル:参考までに)そう、高さを変えられるようになりました。基本の設定>>デザイン設定>>詳細設定(上級者用)>>タイトルの設定 で変更できます (0~480ピクセル) それから、トップページに出ている たくさんの広告。ブログトップに記載されている内容に関連性の高い と思われる広告が自動的に表示されるそうなだから私の場合は、アロマセラピー関連、老人介護関連の広告が多いとの事・・・。無料ブログやから仕方ないのはわかるけど、この広告、邪魔やなぁ。。。 (本音) 次は、楽天フォト容量がいっきに 20GB!! (これまでは 50MB)画像をよく取り入れてる私には、ずっと待ち望んでいた機能実は、フォトの容量がだんだん少なくなっていたから 嬉しい~~♪が! 有料・・・ 月100円やけど・・・ 取るよねぇ~。 あとは、・画像(写真)の取り込みが 簡単になった。・日記を書き込む際も、高機能になった。絵文字がもっと種類増えれば 嬉しいなぁ。私って、欲深い女 です ・・・
2008.10.04
コメント(6)
全5件 (5件中 1-5件目)
1
![]()
![]()
