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今夏も恒例でニセコでティンパパ、ティンママと過ごしましたが、ティンコ♂の姿はありませんでしたでも、それは寧ろ喜ばしい事なのでした大学院を卒業し聴覚検査士に合格し研究職としての勤務で長期滞在ができないからでした幼い頃、片耳に補聴器を着け、「大きくなったら、お耳の不自由な人の役に立つ仕事をしたい」と話していたのですが、ティンコ♂は努力で、見事合格したのでした。ティンママは「そんな立派なこと言う筈はない」と一蹴しましたが本当であったことが、立証されました昨秋は「バアバに会いに行くって、ティンが日本に行ったよ」とティンママからLINEがあり、会えた時、小岩駅の改札口でハグされたのでした会えないことは残念ですが、喜ばしい事と受け止めました今度は、何時会えるか分かりませんが…もう一度会えるまで生きていたいと思っています
2024.09.25
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漂白剤に浸してもシミが取れず毛羽だってしまった白いタオル…捨てようか?と思いましたが、雑巾にすることを思いつきました昔のように… 暇なんだし、キッチン拭いて、もっと汚してから捨てても遅くない100均でキッチンダスターを買いササッと拭いてはポイでゴミでしたお膳ぶきん 台所ぶきん 畳ぶきん 廊下ぶきん お便所ぶきん ETC・・・子供の頃には、何枚もの雑巾を置いていました 今よりエコだったかも
2024.09.19
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8月5日から9月5日までニセコでティンパパ・ティンママと過ごしました。ティンコ♂は学業を終え、聴覚検査士として勤務しているので来日できず、チョット淋しかったのですが…羊蹄山を懐かしいと感じたり北国の 夏は短く 紫陽花と コスモス共に 群れ咲き乱れ毎夏 訪れる地ですが 涼しいから→暑くはないのねと表現したいと思う程温暖化を肌で感じました。クーラーを取り付けていらっしゃるお宅も多く見かけました宅配をお願いした荷物の片付け、空にした食材の買い出しに、高齢と闘いながら奮闘している日々です
2024.09.09
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短歌は講師に酷評されました先ず羊蹄とは何なのか解からないと植物の育成法らしけどってどう検索なさったのかな 私がお聞きしたかった「蝦夷富士と書き替えたらどうですか」お答えは無言カナ文字が多かったのもお気に入らなかったようで入門は失敗でしたね
2024.06.27
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空白期間が永くなっております。久しぶりの更新です。情報も受け身だけになってしまいました何か発信しないと、心も老いると分かりながら、何をしたら良いのか考えあぐねて何年も過ごしてしまいました。区のレクチャーシリーズに「短歌」を見つけて指導を受けて見ようと入門登録をしました。まだ発句させて頂いておりませんがウオーキング ノルマ 二日で 六千歩 前に左に 羊蹄を見るどう添削されるでしょうか
2024.05.10
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またまた、久々の更新です。WBC優勝で時の人と礼賛されている栗山英樹監督ですが、侍ジャパンの監督に就任された時の記者会見では、大谷翔平さんを招聘するかを聞いた記者はいても、栗山監督が二刀流の育ての親であることに触れた記者はなく「何と不勉強な」と腹立たしく感じました。こんな一文を見つけて嬉しかったものです。日本の北海道日本ハムファイターズのヒデキ・クリヤマ元監督も評価に値すると思います。基本的には、彼が二刀流に挑戦させたのです。投手だけでなく、打者専念でもありません。野球を愛するファンへのなんて素晴らしい贈り物になったのでしょうか!前々回、栗山監督が現役時代からのファンで神宮球場に通い詰めたことなどを書きました。選手としては1984年~1990年までが現役で、私たち一家が千駄木に住んでいた時期と重なるのは3年程度。通った回数は、記憶してると思っているほど多くないのかも知れません。今回二刀流の大谷翔平の原点が栗山監督であったことが多数報道され胸のつかえがおりて嬉しく思っています。栗山監督・大谷翔平選手 ありがとうございました
2023.03.22
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1941年、ハワイ パールハーバー攻撃(宣戦布告前とも)でアメリカとの戦争が始まりました、元々、日本は資源に乏しく、豊かな国ではありませんでした。外交交渉に失敗し欧米等から石油などが輸入停止され、資源を求め東南アジアに進出しました。最初は戦果がありましたが、次第に守勢に転換するようになりました。今では死語になったかも知れませんが『質素』に暮らすことが美徳とされていました。庶民の暮らしは、より『質素』にならざるを得ませんでした。戦費の拡大でした。多くのお金が戦費に消えたのでしょう。子供心に日々生活が逼迫されていくのを感じていました。連夜、空襲警報が発令され、爆撃機B-29による焼夷弾の投下で燃えさかっているであろう東京の空が、赤く染まっているのを浦和(現さいたま市)の家の庭の防空壕から見ていました。1945年8月6日:広島。9日:長崎に原子爆弾投下。今に続く核爆弾です。15日終戦(敗戦)10才でした。私の中では、それらの記憶が何故か8月に集約されているのですそれで8月は嫌いです!!引用自ら被爆しながら多数の被爆者を治療、救済した永井博士が残した足跡と著作は、人類の“負の遺産”である原爆投下の第1級の証言記録である。称えた歌も歌い継がれています。『長崎の鐘』です。こよなく晴れた 青空を 悲しと思う せつなさよ うねりの波の 人の世にはかなく生きる 野の花よなぐさめ はげまし 長崎のああ 長崎の鐘が鳴る召されて妻は 天国へ 別れてひとり 旅立ちぬ かたみに残る ロザリオの鎖に白き わが涙 なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る
2022.08.14
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栗山英樹さんが侍ジャパンの監督に就任されました現役時代からファンでしたプロ野球唯一の国立大学出身だったからでしょうか?千駄木に住んでいた頃、家族で頻繁にヤクルトスワローズのファーム神宮球場のナイターに通いました Mrs.サマンサはシュレッダーで紙吹雪を作り、ティンママは応援団の近くに…日ハムの監督をされていた時、ニセコ→札幌球場へ出向き監督姿も拝見しました。侍ジャパンの監督ご就任を嬉しく思っています。今を時めく大谷翔平さんの二刀流を認め育てメジャーに送り出したのは、栗山英樹さんです大谷翔平さんについてこんな一文をみつけました。日本の北海道日本ハムファイターズのヒデキ・クリヤマ元監督も評価に値すると思います。基本的には、彼が二刀流に挑戦させたのです。投手だけでなく、打者専念でもありません。野球を愛するファンへのなんて素晴らしい贈り物になったのでしょうか!侍ジャパン優勝できますように… 子弟対決を楽しみ…と思ったら、記者団から「イチロー選手の時のように大谷翔平さんを招聘されますか?」答えは無言でしたが久しぶりの対面が出来ればいいなと思います。
2022.08.01
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ホントに久々の更新ですコロナは、いつ完全に終息するのでしょうか3回目のワクチン接種を終えていても、マスク…アラ隠しになるので、まっ いいや当分続けましょう。家族は全員3回目のワクチン接種を終えましたが…私は3回とも副反応もなかったのですが、Mrsサマンサは、2回目接種後に39度の発熱で3日欠勤しました。Mr.nanも2回目接種後に帯状疱疹を発症し、3か月痛みに耐えながら通勤していました。これも副反応の一種だと発表されたのは大分後のことで発症当時は医師も知る由も無かったと思われます。3回目接種では二人とも副反応はなく一安心。ティンコ一家はロンドンなので、日本より早く接種も終えて一家副反応なしとのことで家族の接種は一区切りです。ロシアがウクライナに侵攻し、日々にロシア軍の残虐性が報じられ心が痛みます。報道番組のコメンテーターが『命が大事。直ぐに降伏すべきだ』と発言していました。何となくですが違和感をかんじました。早く降伏する例を挙げ、日本が「もっと早く降伏すれば、例えば、沖縄戦とか広島、長崎の犠牲もなかったんじゃないかと思います」と言いました。当然反論もあり「日本の場合、自分から戦争を始めて、アメリカに物凄く反撃を食らったという事。今回ウクライナには何の非もないのにロシア側から侵攻された。早く降伏すべきだというのは道義的に問題のある議論」と日本とウクライナの置かれた立場の違いが指摘されていました。命は大事です。同時に監視や抑圧のない社会で生きることも担保されなければならない筈です・1945年敗戦の時は10才でしたが、大人たちの表情が和らいだことが記憶に残っています。物不足もあったでしょうが、自覚はなくても官憲の監視や抑圧があったのではないかと。どんな時代でも戦争を起こすのは、専制政治か軍事政権です。昭和16年に戦争を始めた”時の”日本の首相は東条英機陸軍大将でした。 洗濯機は68才で頸椎椎間板ヘルニアを発症した時、屈まずに腰を下ろして家事作業をするようにと、医師の指導を一緒に聞いていたティンママが買ってくれた物です。今回はMrsサマンサが手配してくれました。配送センターに『引き取っていただく物は、ドラム式のかなり大型で重いので、ヨロシク』と連絡しておきました。入ってくるなりマットをクルクルと広げ台車を運び入れあっという間に外へ。5キロ対応なので小型で可愛くて
2022.05.02
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早くも松の内が過ぎました。今年もポツリポツリと更新していきたいと思っています。年末は歌番組が多くなりますね。『テレサテン 歌声は永遠に』を観ました。1995年没なのに、今でも時折 放映がありますね夫も大好きでした。それを知ったティンパパが贈ってくれました。”何日君再来”を中国語で覚えようとしたのは何年前のことだったでしょうか?歌詞カードを紛失して大失態でしたCDプレーヤーを買って聞き直すのも有りかなと年越しそばを一緒にとMrs.サマンサに誘われて嬉しく帰宅してから一緒に観ていた番組の続きを…寺尾聰さんの”ルビーの指輪”に間に合いました。年始:もまたMrs.サマンサ宅へ日本でのお節はお取り寄せ 上品な薄味で美味しかったロンドンでのお節は手作り。よくできました イギリスの日の出 ティンママがyou tubeに上げた中からJoss Bay Beach Kent UK
2022.01.09
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『此処は何処なんだろう?何処に居るんだろう?』見慣れない風景に戸惑って不安と恐怖感にオロオロしながら歩き回っている・・・こんな夢で目が覚める夜が度々あります。実体験ではそこまで迷ってしまったことはないのですが強迫観念があるのでしょう。加齢による脚力の衰えをカバーしようと、1日3000歩歩くことを目標にしていますが、途中、目印になる寺社や工場・マンションを覚えておくことを心掛け、そこまで戻れば引き返せると安心感をもって歩き続けられます。神社にも参拝する方がいいですよね!!ニセコ滞在中は、お宅の表札や駐車している車の色、標識が目印になりました。 Mr.nanもティンパパも方向音痴だとMrs.サマンサもティンママも言っています人の顔を覚えづらいのは相貌失認・失顔症など病名もあるようですが、あまり深刻に感じてはいなくて、強迫観念もありません。特徴のある方、出会いが衝撃だった人は1回でOK 引っ越して来たばかりの時ゴミ置き場で「生ゴミを、そのまま入れてないだろうな?」点検らしい男性に居丈高に言われました。後に自治会長と知りました。「自治会長がそんなに偉いのか」不快感は消えず、何処で見かけても、後ろ姿でも認識できます両隣のご主人は道で出会ったら分からないかも。とにかく棟内・敷地内で出会った方には挨拶の言葉を欠かさないことを心掛けながら暮らしています。
2021.12.10
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道を歩いていたら、向こうから自転車のお爺さんが、すれ違いざまに「ババア」と言いながら通り過ぎました。一瞬 昨今この手のお爺さんに頻繁に出会いますバス停に並んでいたら、「バラバラに立ってるんじゃねーよ。馬ー鹿」と怒鳴りながらMrs.サマンサ…ライフ(スーパー)で、カートをおいて品選びをしていたおばあさんに大声でキレてるジジイがいたよ。「通らせて」と一言いえば済むこと。大声のあなたの方が、余っ程迷惑です。共通点は、着る物・履物に、全く気を使っていないこと。バスに乗り合わせる同年代の方たちとは明らかな差があります。『人と触れ合うのはイヤ。でも寂しい』寂寥感が嫌がらせに走らせるのかなと…ご本人は嫌がらせをしている自覚は無いのでしょうか若い日からの生活スタイルが見える気がするのは、私の思い上がりでしょうか「キレるジジイ」で検索ををかけると、ビックリするほど多くの事例が出てきます。スーパーで見かけるお爺様は、皆さん未だにレジ袋。エコバッグの時代です。男性の(恐らく)一人暮らしってわびしそうですね。お爺様方ゴメンナサイ。
2021.11.19
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エントランスホールのポストに、大手通販の郵送商品が押し込まれていました。注文した記憶がないので何 宛名は確かに私だけど…とにかく中を確かめなければと開封。タブレットでした。私じゃないよ~ 納品書が入ってないので注文情報は”0”早速、Mrs.サマンサ・ティンママ3人組どうしたらいい返信は『注文履歴』を調べて間もなくティンママから「ゴメン。ティンパパだわ」これで第1の狂騒はthe end。10月に帰国したばかりで、当面、来日の予定はないだろうから送ってあげようとへ~~ 「送れません」と渡されたのが 同時に『国際郵便マイページ パソコン版の使い方』パンフレットもくれました。トライしてみるか?読んでいくと『パウチ請求』との項目があり専用パウチとは専用パウチとは作成した送り状を郵便物に張り付けるために必要な袋です。請求していただくことで、無料でご自宅等までお届けいたします。到着までに5営業日ほどかかりますので(以下略)そこまでやるか「Oh NO」この経緯をティンママに報告した訳ではありませんが、ティンママが「送らなくていいわよ。2月か3月に行く時まで保管しておいて」と一件落着しました。考えてみれば当然ですよね。簡単に送れれば、違法薬物等のやりとりも増えることに…わたし的 狂騒は終わり タブレットは利用されないまま、今 わたしの手元に
2021.11.07
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後 何回 逢える???かなと 行くべきでは無かったと非難を受けるかもイギリスでワクチン接種終了後、来日し、2週間の過酷な隔離期間を経たティンコ♂一家と9月にニセコで合流。7月2日に2回目の接種を終えた私。玄関脇に紅輪蒲公英(コウリンタンポポ) 月見草 コテージの縁の下に蛍草。 北海道では紫陽花とコスモスが同じ季節に 何処を走ってもコスモス・コスモス・・・ 一日3000歩。アップダウンの道を歩くと決めて Freedom Innの前までは、急な上り坂。後は下り坂。自動車通り沿いの標識で右折し細かなアップダウンを歩いて、目標達成。 9月も下旬になれば、チラホラ紅葉も
2021.10.22
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1ヶ月半も更新しないままになってしまいました。コロナ禍で、ワクチンは7月2日に2回目の接種を終えて、少し安心したのですが、自粛を強いられた日々に閉塞感は否めず、無気力になっていました。明日は終(敗)の日です。翌日から周囲の大人たちの大きく変わった言動を見聞きして「政府のいう事は信用出来ないんだ。自分の判断で生きられるようになろう」と決めた謂わば原点の日との思い入れがあるので、8月15日は意識してしまうのです。86才の今日まで大過なく生きてこられたのも、大きな判断ミスは無かったのだと自画自賛。原点の日の思い出を『自分史エッセイ』から抜粋・削除・添削してみました。日本が負けた日。その日は『田舎(母の実家)』にいた。祖父母と並んで、正午にラジオで玉音放送を聴いた。 毎夜、空襲があり、母と弟たちと『田舎』に避難して、翌朝、家に戻るのだが、私だけは、そのまま居続けることが多かった。何故なのか?庭から見る里山の景色に魅せられていたのだと、今にして思い当たる。空襲が途絶えた日が何日か続いた。「おばあちゃん。空襲ないねえ。アメリカは逃げたのかなぁ」家の前の道で、晴れた夏空を見上げながら呟いた記憶。8月15日は、月遅れのお盆で、伯母や従弟は『里帰り』していて、祖父母と三人だけだった。伯父も「天皇陛下の放送があるので、正午にラジオを聞くように」と言い残して出かけた。早めに昼食を済ませた。東向きの家は、真夏の陽射しが差し込むこともなく、裏の竹藪から吹き込む風は涼しかった。当時は「天皇陛下」と口にするときは、初めに「畏れ多くも」と、枕詞のように言わなければならなかったし、聞いた人も、立っていれば「気をつけ」の姿勢をとり、座っていれば正座に直った。だから、この時も当然、祖父母と並んでラジオに向かって正座した。正午。甲高く、浮世離れのした口調で『玉音』が流れ始めた。聞き終わっても、何が話されたのか、どんな内容だったのか、少しも分らなかった。『堪ヘ難キヲ堪ヘ、忍ヒ難キヲ忍ヒ』だけ分ったので、これからもこの状態を続けていって欲しいと言うのだと思った。天皇陛下が、自ら国民に呼びかけたのだから、生半可な我慢では済まされないのだと思った。『太平ヲ開カムト欲ス』と、続いていたことは、後になって知った。よく聞き取れなかったし、聞き取れていたとしても、その言葉の意味が、戦争を止めることだとは、4年生の私の理解の域を越えていた。8月も半ばを過ぎると、夕方は涼風が立つ。父がやってきた。祖父母は、昼間の放送は、何だったのかと、真っ先に訊いた。「日本は戦争に負けたんです。戦争は終わったんです」淡々と言った。新聞は取っていないし、滅多にラジオも聴かない祖父母の家で、私はその時まで、原爆投下も知らなかった。「広島と長崎に『新型爆弾』を落とされて、軍人もさすがに『もうアメリカには敵わない』と思ったんでしょう」これから先どうなるのかと、尋ねる祖父母に「日本は、まもなくアメリカに占領されるでしょう。どういうことになるのか、私にも分りません。何かあったら知らせに来ます」「アメリカ軍は、来ると思いますが、戦争をしに来る訳ではないですから、家を焼かれたり、殺されたりすることはないでしょう」祖父母は、ホッと安堵の表情を浮かべた。「とにかく、もう空襲はないですから、今夜から、明るく電気をつけても大丈夫ですよ」祖父母が納得したところで、私に「そろそろ帰ろうか」と、言った。自転車の荷台で、父の背に掴まりながら、好きだった里山が心からも遠ざかっていく気がした。今までの『生きる姿勢』の原点になった日なのだが、思い出は断片的になっている。
2021.08.14
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ティンママが『2年近くニセコの家を閉めたままなので帰国する』ラインしてきました今回はコロナ禍でスンナリとはいかず手続きが複雑になりました。今から進めても帰国は8月中旬以降になると、、、先ず日本国籍を証明するために戸籍謄本が必要だと。イギリスから請求すると凄く手間暇がかかり、ホトホト手を焼いたそうで、詳細を送信して来ましたが(省略)「やるっきゃないでしょ」とは言ったものの手助け出来ないかとアレコレ検索。戸籍がある江東区の出張所で近いのは駄目だ委任状に押す印鑑はティンママが持ってる”諦めかけた時、検索に引っ掛かたったのが『直系親族は委任状不要』ヤッター最後はアナログで区役所に「私が親族である証明には何が必要ですか?」「年金手帳と保険証です」→バス10分→新宿線8分→徒歩0分)待ち時間30分で交付して頂きました。からEMS便で発送しました。ティンママの喜び様は半端なかった帰国後2週間の隔離期間があるので、ニセコに入れるのは早くても8月中旬だろうと。「お母さんも来なくちゃ駄目だからね」と言うけど、北海道が首都圏からの流入を許可するか?永住権を獲っても日本国籍にこだわるティンママ。英国籍のティンパパは今回はビザが必要だと…ティンコ♂は9月から大学院生に。大学の卒業式は実施されないかも知れないと全ては今後のコロナ状況次第ですね
2021.06.30
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元来、外出好きではないので、自粛もあまり苦になっていないと思っていましたが、用事が出来て出かけると、買い物が多くなっているようで Tシャツ・パンツ・マット・キャミソールetc 自覚はなくても、やはり外出自粛はストレスになっているのでしょうか?Tシャツ・パンツ類は総入れ替え状態 古いTシャツは切り刻んで、使い捨て汚れ拭きにして断捨離ワクチン不足も、ようやく解消されたようで、ロンドンでいち早く2回終えたティンパパ・ティンママ。夏休みで大学の寮から帰省したティンコ♂も1回目と・・・80才の義妹からの📞。2回目も副反応無しだったそうで7月2日、2回目の私も大丈夫かな?Mr.nanは1回目。翌日、腕が上がらなかった Mrs.サマンサは日時未定ながら職場接種。みんな何とかなっています
2021.06.16
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コロナワクチンを接種しようと、混乱が起きるほど人が集まってしまう一方で、若いかたの中に 「ワクチンは打たない」「若者はかかっても軽いし」「痛いから厭だ」等々…知っていますか?? 軽く済んでも、味覚障害や抜け毛に悩まされる後遺症は若者に多いことを。コロナにかかるのは あなたの自由ですが~「ワクチンは打たない」自由は有っても、そのことで他の人に 「感染させる自由」はない筈です。若者がは見ないなら、誰かSNSで「ワクチンを打とう」 と発信してくれませんか 来年11月から、年収200万以上の後期高齢者医療費の自己負担が1割→2割に引き上げられると。 1割だと申し訳ないほど安価過ぎます。私の場合、月一度の内科の診察・投薬で医院が500円、 薬2種類30日分380円。リハビリ通院で、骨粗鬆症予防の注射、超音波で刺激マッサージ、 理学療法士さんのマッサージで210円×4週。カルシウム剤4週分480円。計2200円です。2割負担で倍になっても、家計を圧迫することはありませんが、長期入院なら負担は増えますね満開になりました。土が酸性なんですね
2021.06.08
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敷地内植込みの紫陽花が咲き始めたので、浴室出窓の100均の花も…生け花の心得が無いので → コロナワクチンの大規模接種が始まりました。初日、混乱もなく良かった結構苦労して30日13:00に予約出来ていたのですが、直後、かかりつけ医にも予約が出来て、”大規模”の方はキャンセルしました。1回目6月11日、2回目7月2日。集団接種では、1回目接種が終わった時点で、2回目の接種日を知らせるとのことですが、かかりつけ医では電話予約で1・2回目の日時を教えてくれて、「両日とも来院できますか?」と親切な対応でした。皆さんに較べて、早いのか遅いのか21日で86才になりました。目覚めてラインを開くとMrs.サマンサとティンママからお祝いでも、 加齢と共に外見が見苦しくなっていくと感じます。自分を許せなくなることが、過去にもありました。記憶にあるのは、膝丈スカートが、ハイヒールが不釣り合いだと感じた時 締め付けられるのが嫌で家では1年中素足です。こんな順序で季節で履き替えていますが、昨日つま先が出てみたら爪が汚いリッチネイルを塗ってマニュキュアしてみようか
2021.05.25
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この区には『ジュニア訪問員事業』政策があり、中学生が受け入れ家庭を訪れ、話をするなど友好を深めることを目的としています。3年前から参加させていただいています。『7~9月に、月1回程度家庭を訪問し交流する』3年前は、リラちゃん・ミクちゃん・ひかりちゃん。一昨年は、ミクちゃんが続けてきてくれました。前回何か気に入ったことがあったのでしょう ユイちゃん・栞ちゃんと対面しました。ユイちゃんが自己負担5万円で夏休みに、2週間イギリスに留学すると話してくれました。good timingでした。この日の夜ティンママが帰国しホテル泊。翌日来宅することになっていたので「聞きたいことがあったら、会って聞いてみる?」ティンママも快諾してくれ、連絡すると付箋だらけの旅行誌を抱えてやってきました。2時間くらい話していたでしょうか?ティンパパにまでしたり…「パブには是非行ってみて! 18才以上の人が一緒なら入れるから・・・」 お土産を持ってお礼に来てくれましたパブにも行けたとのこと惜しいことに昨年はコロナ禍で訪問中止。今夏、不確定ながらタブレット使用で実施して見ようかと、受け入れ可否の打診がありました。勿論、即OKしました。どうなることか?ユイちゃんが参加した留学は「青少年の翼」事業と言い、平成元年に個人の寄付から発足し名称や内容を変遷・拡大・させながら、区が運営の一切を行っています。江戸川区はこの基金を活かし、平成15年、中学・高校生を海外に派遣する「青少年の翼」事業を新たにスタートしました。現在も、その善意は広く受け継がれており、平成23年からは「次世代を担う青少年の成長のために」と、京葉鈴木記念財団から毎年多大な寄付をいただいています。平成27年には「青少年の翼基金」に名称を改め、未来へ夢を描く青少年を後押ししています。基金で運営される「青少年の翼」は、江戸川区の青少年が海外で異なる文化や雄大な自然に触れ、世界の人々との交流を通して、「国際人」としての意識を持ってもらうことが大きな目的です。
2021.05.08
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紛れ込んでいた本が2冊出てきました。平成9年3月発行 岩井(現 坂東)市役所総務部発行『限りない教訓 戦争体験記』広報誌で募集した市民の手記です。農業が主だった地方なので、戦時中も割と穏やかであっただろうと想像していたのですが、巻末に掲載されていた15名×28ページの戦没者名簿には衝撃を受けました。もう1冊は『想い出の記』(平成十九年八月)。夫の同級生で、昭和三十年から、お父上の跡をつがれ開業医として生涯を出生地で全うされた方です。お父上と同様”片田舎の農村の医者”を貫かれたと想像します。何度かお会いしたこともあり、温厚な方だとお見受けしました。ご自宅とは別棟の書院の欄間の所々に桟が折れており、いわゆる『戊辰岩井戦争』時の刀傷であることが研究会によって立証されたと、、、故人になられたので無断ですが 開戦間もない昭和十八年四月十八日には早くも東京には空襲があって、水戸高校入学二十日目にその中の1機らしいB-29を公園を散歩していて目撃したとか この頃は戦勝ばかり報道され、香港・シンガポールなどを占領していました。余談ですが、ティンパパが香港に赴任していて、訪れた時「ここは、日本軍が作った砲台の跡だよ」とティンママが説明してくれたことがありました。辺地なので、直接、空襲を受けることは無くても、三月十日東京大空襲の日に帰路のB-29が使い残した1トン爆弾20発を落とし、死傷者が出て、深夜、父上が往診に出かけたとのこと。貴重な記録を読ませていただきました。2冊を夫の仏壇に置き、お水とお線香を上げて供養しゴミ袋ではなく封筒に入れて廃棄させていただこうと思っています。
2021.04.24
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本題の前にロンドンの桜を 家の庭でお花見バーベキューしたとティンママからLINE 高齢の一人暮らしが考えるのは、Mrs.サマンサとティンママの後始末の負担を少なくすること着る物の整理は、ほぼ終わりましたが捨て過ぎて、セーター4枚買い足しました昨年の誕生日「お母さんが火を使わないと、私も安心だから」とIHヒーターをプレゼントされ使えなくなった鉄製・ステンレス製の鍋を数個。燃えないゴミ収集日にyogibo Mrs.サマンサから、ホワイトデー・母の日・誕生日を纏めたと。 快適
2021.04.11
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日曜日、で出会ったのは、戦中・戦後を扱った番組でした。再放映のNHK『澪つくし』最終週。銚子市が壊滅した空襲で夫や家・家業の醤油工場を失ったヒロインが息子に「誰よりも早く『戦争をしてはいけない』と言える人になりなさい」との台詞を書いたのは、脚本家ジェームス三木氏。同じ1935年生まれでした。『なかにし礼×阿久悠 昭和歌謡ライバル物語 ~名曲はこうして誕生した』なかにし礼さんは、満洲国の牡丹江省牡丹江市(現在の中華人民共和国黒龍江省に生まれ、敗戦で全てを失い、、苦難の旅の末、日本に帰り着いたそうです。この記憶が作詞で多くの作品を生みました。壊滅したニシン漁への愛惜が込められた”ニシン御殿もオンボロロ オンボロロ”生涯、失われたものへの記憶を忘れようとはなさらなかったのでしょう。気になった番組でした。森村誠一氏は、敗戦の前日、空襲を受けた埼玉県熊谷市で、生まれ育った街が一夜で焼け野原に。近くの川で初恋の人が川に浮かんでいるのを見つけて引き上げようとすると、お父さまが「止めとけ‼引き上げると、すぐ腐る」と止められたことが、今でも、ぱっと頭に浮かぶと。(引用)作家になろうと決めたのはこのときです。この光景を、将来、本に書き記したいと痛切に思いました。その時の光景は、今でも、ぱっと頭に浮かびます。その日の正午、爆撃を運よく逃れた家のラジオから玉音放送が聞こえてきた。「難しい言葉だから何を言っているかはわからなかったけど、近所の大人たちはみんな泣いてましたよ。でも、親父は平気な顔をしていました。だから戦争が終わったとわかりました。ぼくはうれしかった。これから好きな本が好きなだけ読めるなと思いました」6年生だったと。下線の部分は、はからずも10年前『自分史エッセイ』に同じことを書いていましたが、”この光景を、将来、本に書き記したい」と森村氏。戦争をしては駄目と言わせたジェームス氏。生涯、記憶に残していた、なかにし礼さん。「厭な時代のこと、聞きたくないよ」「終わったことじゃん」「後向いても仕方ないよ」などを予想して、沈黙していた私。何か出来たことがあったのでしょうか 誰が植えたか? 風に乗ってきたか?
2021.04.02
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家の近くの遊歩道が終わり信号を渡るとユニクロがあります。片道2000歩です。平日の午前中で空いていることを確かめウロウロして、子供用マスクを見つけましたAIRismマシンウオッシャブル(ネット使用)、接触冷感、BFE・花粉99%、UV90%カットの謳い文句。小顔用を使っていましたが、それも少し大きめでした。スーパーの店頭で子供用を見つけて着用すると「マスクって、こんなにピタッと密着するんだ」と…グレーの無地。ボンドに楊枝をつっこみ100均の花びらを→快適 道端に可憐なお花紐が切れて取れてしまいました。器具を取り替えなければなりません「男手が必要な時は、いつでも言ってください」とおっしゃってくださるお宅も何軒かありますが高所の作業だし、お怪我でもされてはと、管理人さんに相談に行きました。「やってみるよ」と気軽く脚立とドライバーご持参で5分後に。管理人さんの本来の仕事範囲ではないようですがお願いすればお手伝いくださる方も多いようです。引っ越して、部屋数が少なくなったので余っていた器具と取り替えていただきました。感謝です 緊急事態宣言が解除されても、自粛はしなければ感染するかも知れません人通りの少ない歩道でお花見。往復3000歩。
2021.03.26
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”語り継ぐ”と言う名目で、不自由で貧しかった時代を書いてきましたが、これは私の人生のほんの一部分に過ぎません。5年後(1950年)の朝鮮特需を契機に、日本は経済発展を続け、高度成長期・バブル経済と物質的には豊かさを増していきました。1964年には終戦後20年を待たず、オリンピックを開催する国力を持ちました。子育ても。娘たちは青春を。豊かさの中で過ごしました。次女はイギリス留学し帰国することなく、国際結婚まで…ハーフの孫のばあばです。日本語はあまり話せません。大学生になった今も、呼びかけは「ばあば」会話はyouです。ズックと呼ばれた通学用の靴は、たまに学校に配給され、籤引きで当たらなければ、下駄ばきで通学した。四六時中履いているから、下駄の歯は直ぐに減ってしまう。“歯継ぎ”さんで、減った下駄の歯を足してもらう。鼻緒を父のネクタイを利用して作る。ネクタイを鼻緒の幅に切って縫い、表に返す。芯は麻紐。表地と芯の間には、薄く綿が入っていてような気がする。鼻緒をすげる手さばきも、回を重ねると鮮やかになっていった。お洒落な鼻緒の下駄は自慢だった。下駄となれば、親指と他の指が割れていなくては履けない。そして、足袋が必需品となった。これも手作りした。掛布団や、かいまきの襟の別珍と呼ばれる綿ビロードが表地。裏地は父のワイシャツや小さくなった私のブラウスなど。底は帯芯を利用していた。コハゼは、古い足袋から大事に取っておいたものを使う。家族用、客用を問わず、掛け布団の襟がはがされた。弟たちは、黒い別珍。私はえんじ色。母は自分用に何処からか、紺色の別珍を調達してきた。「ここが一番大変なのよ。」底布を縫い合わせる時だ。布が厚くて、針が通りにくそうだった。サイズの呼び方は文(もん)
2021.03.17
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防空頭巾は通学のとき、結び紐のところで、二つ折りにして、肩から斜めがけにして登校した。戦時中、空襲時に火災や落下物などから、主に頭部を保護するためと、頭髪に火がつくことを、防ぐために作られた頭巾。特に、女性や子供に、着用されたとのことだ。布地・綿入りのため、完全に火を防ぐことは困難だったので、空襲時は水に濡らしてから、着用した例もあったという。しかし猛火の中、命を守ってくれるほどの防具にはならなかった。頭巾には「名札」は必ず縫いつけ、内側に「お守り」を縫い付ける人もいたと言う。頭巾をかぶって、逃げ回らずに済んだ私は幸運だったが、失われた多くの命に合掌。母は、父の粋な縞模様の丹前から、自分と弟たち用に。私用は、母の若い頃の銘仙の着物から、防空頭巾を作った。丹前の中綿も、そのまま利用された。銘仙は今、時代を超え再び復刻されるような「色鮮やかさと、大胆な模様」が特徴の絹織物だが、用途は普段着で、お手伝いさんの一か月分のお給料が、銘仙1反分と、ほぼ同じだったそうだ。当時、近所の小母さま方で、中年以上の人には、和服姿が多かった。母は洋服を着ていたが、若い時は和服を着ていた時代だったのだろう。物資不足が深刻になり始めると、いろいろな物を手作りした。次回、下駄・鼻緒・足袋
2021.03.13
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3,11 10年の報道を見ていると語り継ぐことが大切だと実感します。こんな事書くのも何かの役に立つのでしょうか?大切なお米を食い荒らす悪い虫です」「栄養がたくさんあります」と、言われ、引率されてイナゴ取りに行った。『田舎』から更に4キロ弱歩いた見沼田圃だ。農薬はなく害虫駆除は人力で行われのだ。これも“銃後の協力”なのだ。稲穂という稲穂にイナゴが群がるように止っていた。竹筒に布を結わえ付けた袋を持って、捕ったイナゴ入れていく。とり逃がすとイナゴは、初秋の秋空に飛び立っていった。袋がいっぱいになるのに、そう時間はかからなかった。見沼田圃は、現在、行政が保全に力を入れているようで『散歩道マップ』が発行されたり、イベントも多く開催されているとのことだ。残して欲しい風景である。見沼田圃のホームページ見沼たんぼってなに? (minumatanbo-saitama.jp)翌日の夕飯に、イナゴを茹でて甘辛く煮付けたものが出た。羽と飛び足はもいであるが、イナゴの形はそのまま残っていて気味が悪い。口に入れると足のギザギザが喉に刺さる感じだった。そして、ひと言「ねえ。これってイナゴのウンチも一緒に食べてるんでしょ」「一晩おいたから、ウンチは残ってないはずよ」と、母。でも、みんなシーンとなり箸をつけなくなった。母はガッカリした顔になった。 見沼田んぼ いなご→→→→→→ 今ではお金を払って買います。前回のズイキ(芋茎)は、母が子供の頃も食されていたそうで、美味しい味付けだった。やむなく食べていた食材だが、今はイナゴは佃煮。芋づるはおひたしやキンピラ。ズイキは煮物・酢の物として食べられているようだ。それは、たまに食べるだけで、その上、調味料の質もよくなっているから美味しいと感じるのだろう。食料自給率が40%(2018カロリーベースで37%)に満たない国で、輸入が止まれば、再びこんな食生活を強いられるかも。戦中はもちろん、戦後もしばらくの間、粗食が当たり前だったから、こんな食生活にも耐えられたのだろうが、美食に慣れてしまった昨今では、とても我慢出来ないと思う。
2021.03.11
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3年生だった。戦局も不利になってきていて、小学生にも無理難題が押し付けられていた。通っていた学校では、豚を飼い始め、餌は、生徒が自宅から残飯を運ばされた。食量不足は、日常だったので、生徒一人が持って来る量は、ほんの一握りでしかなかった。馬の「かいば」供出と称して、1週間に500匁(2キロ弱)、草を刈って持参するように、先生から言われた。干し草にして軍馬に供するのだそうだ。浦和の空き地や、道端の草は、瞬く間に一本も見られなくなった。日曜日に、足を棒にして、歩き回っても、2キロの草など採れるわけはなかった。ドングリを学校に持っていくことも、課題の一つだ。粉砕し、食用にするそうだ。級友は、お寺や神社の境内を探したり、郊外の里山まで出掛けていた。土曜日になると、一人でバスに乗り、リュックを背負って、『田舎』へ出掛けた。祖母が、ドングリ(樫の実)を拾っておいてくれるので、それを受け取りに行ったのだ。晒しの袋一杯のドングリは、かなりの重さだった。一泊し翌日の午後、重くなったリュックを背負って帰った。何回も繰り返すうち、白い晒の袋は、ドングリのアクで茶色になった。、毎回、先生に褒められたが、自分で拾ったものではないことに、後ろめたさを感じた。何も持参しなくても、罰則はなかったが、無理難題な話だ。これが、小学生への“命令”だっだ。 こんな物も食べました。 どんぐり(樫の実) ずいき(芋茎) 芋がらのきんぴら(現在)
2021.03.08
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衣食住と言いますが、この時代、私の周囲では『住』の不足はありませんでした。『衣』は配給制度で、たやすくは買えませんでしたが、古着の仕立て直しなどで、何とか着まわしていたようです。困ったのは『食』です。こんな飽食の時代がくるなんて、想像もできませんでした。食糧不足が深刻になり、全ての品目の絶対量が不足した。麦・大豆・ジャガイモ・サツマイモ・アワ・稗などが米の代わりとして配給された。ご飯に麦をまぜて炊くようになり、米と麦の割合もだんだん麦の方が多くなっていった。”ご飯“が食べられるのは、まだマシだった。ほどなく“代用食”と称して、1日1食は、ジャガイモ・サツマイモ・カボチャなどで済ませなくてはならなくなった。隣近所の家では庭木を抜いて、畑を作りはじめた。最初は野菜だったが、イモ類を植えた家もあった。「うちでも、家庭菜園作ろうよ」と言ってみたが、父は「素人の作った野菜なんて、おいしくない」と反対し、花壇には相変わらず、チューリップやヤマユリを植えていた。代わり庭の隅に畳3畳ほどの鶏小屋を作った。祖母を通じて、農家から雌の鶏を3羽買い、卵を取ることにした。生垣の根元のハコベを摘んでは餌箱へ。イモ類の皮、粟・稗も飼料になった。“ご飯”には、さまざまな物が混ぜられた。麦・大豆・ジャガイモ・サツマイモ・アワ・稗など。 大麦 枝豆→→実らせ大豆 高粱大豆ご飯は冷めると、大豆が硬くなった。ジャガイモは米粒大に刻んでご飯に混ぜられた。これが、一番抵抗なく食べられた。サツマイモは、今はおいしい品種を混ぜて炊き、薄い塩味をつけて、ご馳走として食べられるが、戦中のガリガリの芋では、無理やり喉に流し込むしかなかった。穀類では、真っ赤なコウリャン(高粱)までが配給された。家では、お米に混ぜられることはなかった。鶏の飼料になった。銃後:戦場の後方。直接戦闘に携わっていないが、間接的に何かの形で戦争に参加している一般国民。「参加させられて」でしょ?日中戦争以降、主に商工省を中心として1938年(昭和13年)4月に公布された国家総動員法の制定をきっかけに広く生活必需品が配給制になったことが知られている。配給する品目等は、1940年4月24日に設置された価格形成中央委員会で決定され、同年6月1日以降、米、味噌、醤油、塩、マッチ、砂糖、木炭など生活必需品10品目について順次、配給切符制が導入された。(引用)
2021.03.03
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空襲や灯火管制が無くなり、ノホホンとした気持ちで登校した。が、学校の雰囲気は一変した二学期の始まりだ。真っ先にさせられたことは、教科書を墨で消すことだった。今まで、正しいと教えられてきたことは間違っていたと…不適切と思われる部分を、先生の指示で墨汁で塗りつぶした。先生は、これからは“民主主義”の時代だから、当然なのだと言う態度。戦争が終わって、まだ二週間しか経っていない。その間に何が変ってしまったのか。「今まで教わってきたことは、何だったのか」“皇民教育”から百八十度の転換。一学期までの教育を、否定する先生たち。報道の姿勢も一変した。国営放送でさえ、敗戦翌年の2月から、ラジオで『英語会話教室』をCome, come, everybody.How do you do, and how are you?Won't you have some candy,One and two and three, four, five?Let's all sing a happy song,Sing tra-la la la la(証城寺の狸囃子のメロディで。今も暗記している) 放送するなど、新聞もラジオも手のひらを返した報道に終始した。新聞に「自戒を胸に報じる」との記事があり、戦争を煽るような報道への悔恨と自戒に接することが出来、いくらかホッとした。四年生、10才の少女は混乱した。「今度は、アメリカ一辺倒だ。国家や、政府や、大人が言うことは、信用できない」との思いは、消し去ることは出来ず、『何事も、自分で考えることが出来るようにならなければ』と思った。この考えを、私の人生の原点と位置づけ、その後を生きてきたつもり???次回からは、何を食べ、どんな服を着ていたか?・・・もう暫くお付き合いください。
2021.02.26
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こんな悍ましい標語やハリガミとお別れです。三年九ヵ月続いた戦争が終わった。身内で戦死したのは、伯父一人だけだった。家も焼かれず、幸運に恵まれたと思う。新聞やテレビで多くの人々の戦中戦後の体験を見聞きした。自分は本当にヌクヌクと暮らしていたのだと知らされた。何代も住み続けている、祖母と近隣との繋がりが、配給制度だけでは不足する食料をどれほど補ってくれただろうか。燈火管制をしなくてよくなって、眠くなるまで、枕もとのスタンドを点けて、本を読めるようになった。 父は「一億玉砕」「神州不滅」「竹槍を持って最後の一人まで闘え」などの世相に迎合しなかったと感じていた。戦争に負けたことを、悲しむでもなく、かと言って、戦争が終わったことを、有頂天に喜ぶでもなく、それまでと変らなかった。家の雰囲気が、ご近所とは少し違うなとは何となく思っていた。例えば、何処の家にも掲げられていた、昭和天皇・皇后の『御真影』が私の家には無かった。「いま、日本は苦戦していますが、最後の最後は、神風が吹いて、必ずアメリカに勝つのです」と、学校で教えられても不安で、「ねえ。神風って本当に吹くの?」何度訊いても、返事を返してくれない無言の父であった。それは将来を見通す“眼”や“勘”を持っていたのか、他界してしまった今は、確かめようもないが、敗戦後、ガラリと態度を変えた他の人たちのようには、変らなかった父は、私にとって救いであったような気がしている。八月末、パイプをくわえ、サングラス姿で、厚木に降り立ったマッカーサーの写真を、新聞で見たときは、正直『カッコイイ』と感じ、「こんな人たちと戦ったんだ。これが“鬼畜米英“??と、不思議な気がした。
2021.02.21
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その日は『田舎』にいた。夏休みで、好きな『田舎』に滞在していた。従弟も学令になって、一緒に遊ぶことも無くなっていたが、近くの里山を歩くことが楽しくなっていた。里山:原生的な自然と都市との中間に位置し、集落とそれを取り巻く二次林、それらと混在する農地、ため池、草原などで構成される地域。正午にラジオを聞くようにと、伯父が言い残して出かけた。空襲が途絶えた日が何日か続いた。「おばあちゃん。空襲ないねえ。アメリカは逃げたのかなぁ」家の前の道で、晴れた夏空を見上げ呟いた記憶。伯母や従弟たちは、月遅れのお盆の里帰りしたらしく、祖父母と私の三人、早めに昼食を食べた。祖父母と並んで、正午にラジオで玉音放送を聴いた。七十五才(10年前)になろうとする今までの“生きる姿勢”の原点になった日なのに、その日の記憶は、断片でしか思い出せない。東向きの家は、真夏の陽射しが差し込むこともなく、裏の竹やぶから吹き込む風は涼しかった。 『田舎』の家の記憶(画像資料)当時は、「天皇陛下」と口にするときは、初めに「畏れ多くも」と、枕詞のように言わなければならなかったし、言った人も、聞いた人も、立っていれば「気をつけ」の姿勢をとり、座っていれば正座に直った。だから、このときも当然のように、祖父母と並んでラジジオに向かって正座した。正午。甲高く、浮世離れのした口調の『玉音』が流れ始めた。聞き終わっても、何が話されたのか、どんな内容だったのか、少しも分らなかった。『堪ヘ難キヲ堪ヘ、忍ヒ難キヲ忍ヒ』だけ分ったので、これからもこの我慢の状態を続けていって欲しいと言うのだと思った。天皇陛下が、自ら国民に呼びかけたのだから、生半可な我慢では済まされないことになったのだと思った。『太平ヲ開カムト欲ス』と続いていたことは、後になって知った。よく聞き取れなかったし、聞き取れていたとしても、その言葉の意味が、戦争を止めることだは四年生の私の理解の域を越えていた。八月も半ばを過ぎると、夕方は涼風が立つ。父が迎えにやってきた。祖父母は、昼間の放送は何だったのかと、真っ先に訊いた。「日本は戦争に負けたんです。戦争は終わったんです」淡々と言った。新聞は取っていないし、滅多にラジオも聴かない祖父母のもとで、私はその時まで、原爆投下も知らなかった。「広島と長崎に『新型爆弾』を落とされて、軍人もさすがに『もうアメリカには敵わない』と思ったんでしょう」この先どうなるのかと、尋ねる祖父母に「日本は、アメリカに占領されるでしょう。それから先、どういうことになるのか、私にも分りません。何かあったら知らせに来ます」「アメリカ軍は、来ると思いますが、戦争をしに来る訳ではないですから、家を焼かれたり、殺されたりすることはないでしょう」祖父母はホッと安堵の表情を浮かべた。「とにかく、もう空襲はないですから、今夜から明るく電気をつけて大丈夫ですよ」祖父母が納得したところで、私に、「そろそろ帰ろうか」と言った。自転車の荷台で、父の背に掴まりながら、心の中の『田舎』が遠ざかっていく気がした。その時、私から『田舎』が消え、訪れることも無くなった。れんげ たんぽぽ すみれ 山百合 雑木林 暗い樫の木の森 竹林の葉音・・・
2021.02.15
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朝礼のとき、校長先生が、「地方に親戚がある人は、疎開することを考えるよう、お家の人に話してください」と、話すようになっていた。東京では、前年から三年生~六年生の「学童疎開」が実施されていて「強制疎開」「集団疎開」などの言葉も聞かれるようになっていた。何人かは疎開して行き、反対に浦和に疎開してきた子も何人かいたが、学校全体でどうこうするまでの事態は起こらなかった。防空壕が出来た次の日から、人ではなく、荷物の疎開が始まりました。夕方、荷車を引いて男の人が3人来て何日か、箪笥・客布団等々を、祖母が手配してくれた”本家”の蔵に預かって貰うと運び出しました。家の中がガランとしました。そのために、川崎と世田谷で罹災した二家族に部屋を貸すことになり、世田谷の三人家族との葛藤ともめ事が絶えない、不愉快な日々を過ごすことになるなど予想もできませんでした。学校へは相変わらず、「警戒警報」のたびに、行ったり帰ったり。「再登校できなかったときは、この漢字を十回ずつ書いていらっしゃい」「このページの計算問題をやっていらっしゃい」と、宿題攻めになった。昼間のうちに済ませてしまわないと、夜は電灯が暗くて何も出来なくなる。 『学童動員』のお達しもあった。検索すると、『小学生が工場の手伝いをした』『近隣の農家の作業の手伝いに学校から連れていかれた』など記述されている。近くに工場も農家もない私の学校は、“別所沼開墾“農作業に何度か連れて行かれた。沼の周囲を畑にするのだが、沼の周辺なのでぬかるんでいて、歩くだけでも一苦労。鍬を手にする環境になかった四年生の女の子に何が出来たと言うのだろうか。しかし、「もっと深く耕さなければ駄目」「畝が曲がってる。まっすぐに掘りなさい」先生の容赦ない声が飛ぶ。「やってみせて」心の中で反発した。今は「別所沼公園」として整備され、ホームページには、周辺を含むこの開墾で、減少したり、絶滅した種もあると記されているが、当時は、そうしなければ食べることが出来なかったのだろう。戦争の終焉が近いなど知る由もありませんでした。
2021.02.11
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校門の少し手前から、班長の6年生が「歩調~とれッ」と号令をかける。手と足を、直角にあげて、左右足並みそろえて1・2・1・2・・・ 校門に先生が立っている。班長「かしら~右(左)」先生は敬礼。校庭中央で「ぜんた~い止まれッ」足踏み2回で止まって「気をつけ」の姿勢。「奉安殿に向かい最敬礼ッ」「なおれ」中央へ向き直り、二宮尊徳の石像に礼をして、「中向け~中ッ」「解散ッ」そして、昇降口へと散っていく。こんな登校校風景だった。小さな兵隊さんじゃないか?何となく違和感が・・・一国の経済活動に国家が統制・干渉を行う統制経済政策は、太平洋戦争の始まりとともに戦時統制が強化され、すべての産業、労働力が国家の統制下におかれた。(引用資料)この時期に制定(改定)された法令をならべてみると主なものだけでも次のようになる。1938年「国家総動員法」「電力管理法」1939年「国民徴用令」「米穀配給統制法」「賃金統制令」「地代家賃統制令」1941年「生活必需物資統制令」「農業生産統制令」1942年「食糧管理法」「日本銀行法」全ての物資はこれ等の通帳・切符を持たないと買えませんでした。組替えがあって、担任の先生も変った。市立高等女学校を卒業したての女の先生。師範学校出の教員ではなく、教員資格を持たない『代用教員』と呼称されていた。当時、やっかみ半分の“徴用のがれ”という言葉が流行っていた。国が、軍需工業の労働力を確保するために、国家総動員法・国民徴用令・女子挺身勤労令などで、女性軍需工場など戦争遂行体制に動員したのだが、工場勤務を嫌がる人が、コネを頼って、楽な仕事にありついいることを指していた。女性の代用教員はその最たるものだとの陰口は子どもながら、何度も耳にした。こんな暮らしが、何時まで続くのかな?
2021.02.06
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東京都は、1944年(昭和19年)11月24日以降、106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲(下町空襲)を指す。3月10日の空襲だけで、罹災者は100万人を超えた。当時の新聞報道では「東京大焼殺」と呼称されていた。 (wikipediaより)昭和20年初頭:「東部軍管区情報 敵B29の編隊は護衛の艦載機多数を伴い御前崎東方海上400キロを西進中。帝都侵入の公算大と認む。」空襲時、市中ではサイレンを鳴らして警報を知らせた。初期は6秒吹鳴3秒休止を10回、後に、4秒吹鳴8秒休止を10回。空襲が激化すると4秒吹鳴8秒休止を5回となった。空襲警報解除はサイレン吹鳴を連続1分間。後に3分間。(資料引用)空襲が始まるのは大抵夜になってからだった。その前に『警戒警報』が発令された。母は弟二人を乳母車に乗せ、私は母の袖を掴み、4キロの夜道を『田舎』に避難し、一泊する。翌朝、学校に間に合うように、祖父が自転車で送ってくれた。家には父と父の末妹が『消火要員』として残っていた。「防空壕を掘れって、棟梁(母の長兄)に頼まれた」と、3人の男の人がやって来た。父の希望で、裏木戸に近い一角に、布団が2枚敷けるほどの広さで、大人が座っても頭が着かない深さに穴が掘り下げられた。杭と板で土留めをし、天井になるところは、丸太や角材などを渡し、厚い板を敷いて掘り出した土が被せられた。天井の端を切り取って、蝶番をつけ、人一人が出入りできる入り口が作られた。夕方になって、伯父が様子を見に来た。「警戒警報から、間がなく空襲になって、おらっちまで来られねえときは、これにへえれや(入れ)や。一時しのぎにはなるべえ」何度か母と弟たちと防空壕に入った。いつもと違う雰囲気に、ワクワクするような気もした。浦和は爆撃の目的地ではないと、父は言う。時々、布団から起き上がっては、“怖いもの見たさ”で、入り口を開けて、姉弟かわるがわる夜空を飛ぶB29を見上げた。赤羽の高射砲陣地からの探照灯が、交錯して交わり、ひときわ明るい菱形を作る。銀色の光の中に捉えられたB29は、銀色に輝いて神秘的に見えた。2才のヒトも、その名を覚え、回らぬ舌で「ビーニージーク(B29)」と言った。高射砲の発射音が聞こえるが、敵機の高さには届かなかった。やがて、東京の空が赤く見え出すと、風のない夜でも、上昇気流が発生して風を呼び、被害が拡大されていくのだった。3月10日の東京大空襲の記憶で3年生は終わっています。
2021.02.02
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3年生になりました。開戦から2年余を経て、当初は優勢だった戦況も、徐々に悪化して、国民の生活は物不足で暮らし難くなっていました。太平洋戦争年表によると、1944(昭和19)年は、2月17日 米軍、トラック島を空襲。6月15日 米軍、サイパン島に上陸。6月19日 マリアナ沖海戦始まる。10月12日 台湾沖航空戦。10月24日 レイテ沖海戦始まる。3年生になる前の春休み。「2年生の教科書、全部出して」母が言った。当時、教科書は有料だった。多くの家庭では、兄姉から弟妹へ使いまわして、家計の節約に当てていたが、年子の数は、そんなに多くはない。2・3年は、各家庭で眠っていた。私の家だって 弟が使うまでには5年取って置くことになる。そんな教科書を活用するのが、目的だったらしい。隣近所が、学校からの指示の班分けで1学年下の子に使わせ、紙や出版費用を節減しようと“お上”の意向らしかった。母が言うには、成績の良い子の教科書からもらい手がついたそうだ。私は長女なので、それまでお下がりの教科書を使ったことがなかった。母が持ち帰った教科書は、誰が使った物なのか知る由もなかった。開いてみると、漢字には読み仮名が振ってあり、算数の教科書は答えが書き込まれていた。私は「こんな汚いのやだ」と、不機嫌になった。父が丁寧に書き込みを消して、表紙にはカバーをかけてくれた。私の教科書をもらってくれた子は、何の書き込みもないことが、嬉しかっただろうか。参考にならないと、ガッカリしただろうか? 3年生になると、男女別に組替えされ、女子だけの組になった。先生は、師範学校出の先生で「先生」と呼ぶのがピッタリの雰囲気だった。放課後のお掃除も、上級生にやってもらうのではなく自分たちの教室は、自分たちでやるようになった。大人扱いされているようで嬉しかった。級長・副級長も決められた。選挙ではなく、先生が任命した。1学期の級長のMさんは、絵に書いたような模範生。予習復習をきちんとやっていて、国語は漢字の読みがノートに書いてあった。算数だけでなく、音楽も習字も図工も全て評価は優。漢字書き取りなど、形にしなければならない宿題以外、家で勉強道具を開いたことのない私とは大違い。「あしたから次の題に入ります。家で読んでいらっしゃい」と、言われても、読んだか読まないか、先生が把握できない宿題はパスだ。物不足も徐々に深刻になり、習字の時間、練習のときは、新聞紙を半紙の大きさに切った上に書き、半紙はお清書だけにしか使えなかった。「ほしがりません。勝つまでは」の標語のもと、国民生活は困窮していった。慰問葉書を書かされる11月24日、 マリアナ基地からB29約70機東京を初空襲。
2021.01.28
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前回、伯父のことを冷たく戦死しました。と書きました。否、そうとしか書けませんでした。身内の誰よりも可愛がってくれ、何か書きだしたら止まらなくなってしまうと思いました。ヤマユリから始めて、昔話を書いてきましたが、自分史を読み返してみて、今では考えられない時代の体験を知っていただくのも有かなと思い、少しずつアップして見たいと思います。入学した前年の12月8日に『大東亜戦争』が開戦していた。 ♪国民学校一・二年生 元気で学校うれしいなあ 国民学校一年生 ♪ボクラ少国民 勝チ抜クボクラ少国民 天皇陛下ノオンタメニ 死ネト教ヘタ父母ノ 赤イ血潮ヲ受ケ継イデ 心ニ決死ノ白襷 駆ケテ勇ンデ突撃ダ 遊びでは大将の子が、学校では小さくなっていて、それはそれで面白かったが、学校で話しかけてくることはなかった。「遊びと学校は区別する」それが男の子のやり方だったのだ。校門を入ると、校庭の両端に、奉安殿と二宮尊徳の石像があり、昇降口を入る前に、それぞれに一礼しなければならなかった。教室には、一段高い教壇があり、生徒がそこに上がるときは、やはり一礼だ。中央の教卓で、先生は生徒を見おろす構図だ。先生の後ろ頭上には、宮城(皇居)の写真。『“皇国民”としての道徳が重視され…』とあるように、国の全ては天皇のものとの教育になっていた。授業は、好奇心や知識欲をガッチリ受け止めてはくれなかった。なぜ、奉安殿の中の写真や、宮城の写真、石の像に礼をしなければならないのか?イザナギノミコトと、イザナミノミコトが、海の中へ鉾を降ろし、掻きまわして、引き上げ、その鉾先から、したたり落ちた土が日本の国土になった。その子の天照大御神の子たちが、国を治めることになったのである。など神話を歴史として、日本は神の国だとして教えられても、鉾先から、したたり落ちたの土が日本の国になったなど、非科学的な話には疑問を持った。しかし、それを口に出さない分別は持ち合わせていたようだ。『田舎』へのバス。木炭車と呼ばれ、度々故障で動かなくなった。乗客は「またエンコかよ~と。*天照大御神ーアマテラスオオミカミ…
2021.01.22
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江東区深川から浦和(現さいたま市浦和区)へ引っ越したのは、やがて幼稚園入園の年齢になった頃で、母の実家が4キロほど離れた郊外にあり、私たちはここを『田舎』と呼ぶようになりました。『田舎』は母の父母・母の長兄と奥さん・私より3才年下の男児(引用エッセイの従弟)独身の次兄の6人暮らしでした。前回のカブトやクワガタを取りに行けたのも、子どもでは届かない高さにいる虫たちを次兄が、抱き上げて取らせてくれたからでした。彼は戦死しました。 入園し春の遠足の直後に、猩紅熱(しょうこうねつ)を発症し、40日間隔離入院させられたのだ。父の仕事は順調だったらしく、生活に余裕があったようで、入院中、専任の看護婦さんをつけてくれた。矢島さんと言った。後の話だが、退院してきたら、カタカナとひら仮名が読めるようになっていて、「矢島さんに感謝した」と、父は言った。そんな父の気持ちの現われだろうか、その後も、矢島さんは、度々、家に遊びに来るようになり、助産婦の資格も持っていて、母が末弟を自宅出産できたのも、彼女の助けによるものだ。入院は思いがけない縁を作った。字を覚えた私は、幼稚園のお絵かき、お歌、お遊戯に飽き足らなくなって、登園拒否を起こした。「幼稚園はつまらない」「そうだろうな」父は納得してくれた。父が買ってきてくれる本を、何度も読み返して過ごしたが、飽きると、近所の子供たちと外で遊んだ。「あらぁ、今日は幼稚園に行ってるんじゃなかったの?」近所の小母さんたちは、皮肉まじりに言った。そんな言葉が、いつしか母の耳に入り、「幼稚園に行かないのなら、外で遊んじゃ駄目」と、禁止令がだされた。弟は五才も年下で、家に遊び相手はいない。三才下の『田舎』の従弟の方が、まだ、ましだった。近隣に遊び相手がいない彼は、私が行くと、大喜び。纏わりつかれなくなる伯母にも歓迎された。自分の家より居心地がよいという訳だ。入院生活で、他所に泊まることにも馴れて、夜寂しくて泣くこともなくなり、大手を振って、『田舎』に居続けた。と言う次第です。 文脈から考えると『国民学校』にいっていたと思います。1年生になった時から、時間があれば、一人でバスに乗って行き来していましたので…私の『田舎』好き、『田舎』通いは1945/8/15まで、続きました。浦和駅からバス10分の降車バス停、吉祥寺。天台宗の中心的寺院の一つとされる。ティンパパのBirthday。リクエストのティンママの手作りケーキ
2021.01.18
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埼玉県所沢市の産廃処理業者の女性社長さんが、20年の歳月をかけ、里山を蘇らせヤマユリを咲かせたと言う番組(ヤマユリ咲きほこるゴミ処理場)を観ていて、自分が初めてヤマユリを見た時の衝撃を思い出しました話は飛躍しますが、2009/11~2010/5まで『自分史執筆講座』に通い、5才から敗戦を向かえた10才までをエッセイ風に書き40部製本して友人や知人に読んでいただきました。その中に山百合と出会った時のことを書きましたが、以来ヤマユリは最も好きな花になりました。前夜、伯父とカブト虫を取ったのとは、反対側の里山へ行った。小川の上の橋を渡って、田圃を2枚越えたところだ。あちこちに、ヤマユリが大きな花をつけて、群れて咲いている。手折ろうとしたが、茎は太くて折れてくれない。春に見る、れんげ、たんぽぽ、すみれなどとは、段違いに華麗な花だ。なんとしても、摘み取ってみたくなり、家に飛んで帰り、「おばあちゃん。鋏か包丁かして」「なんに使う?」「ヤマユリを切るの」「危なくて、子どもにゃ貸せねえ」祖母は、自分が鋏を持って、ついてきてくれた。「咲きかけのほうが長持ちする」と、半開きの蕾を多く、開いている花は、少なめに取り「粉(花粉)が飛ぶから、下向きに持て」と、丁寧に解説をしながら、“戦利品”を手渡してくれた。昼食を済ませると祖母が言った。「カブトが死なねえうちに、花が枯れねえうちに、今日はけえれ」 虫かごと、油紙に包んでもらったユリを、大事に抱えて帰路についた。家では、父がヤマユリに大喜びで、以後、時間を見つけては、4キロの道を自転車で里山の球根を掘り出しに出かけた行った。そして、家の庭で毎年、大輪の花を見ることが出来るようになった。祖母が「今日はけえれ(帰れ)」と言うほど長く、ここ母の実家に滞在したかの事情は次回書きます。
2021.01.13
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晴れ晴れとした気持ちで「おめでとうございます」とは言えない新年ですが、ともかく令和3年、2021年を迎えました。締め切りを5日に控えて、三が日は執筆に専念したいと、Mr.nanの希望を、快く受け入れ31日に、一日早く「おめでとう??」~でおせち慣例:支払いは私。検索・注文・盛り付け・接待:Mrs.サマンサ。今年は海鮮おせち。蟹・海老・鮑・帆立・数の子・イクラ etc…突然、Mr.nanが「『なます』って魚編なんですよ」「大根と人参で魚は入ってないのに?」実家の母は、氷頭をいれていて、美味しかったことを今でも覚えていますが検索、鱠です。「nanちゃんのそんなこと知ってるところ、いいのよね~」Mrs.サマンサ。でも締めは年越しそばティンママからおせちを手作りしたとLINE ティンパパは焼き魚は食べないって聞いてたけど・・・日本を離れて30年。良さを見直したのかノスタルジーなのか免許を持つ人を捜して、生け花や着付けを習い、手作りお節か・・・がんばれ
2021.01.02
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ティンパパ・ティンママ・ティンコ♂からカード。泣かされる添え書きが…65才以上は『不急不要の外出自粛』から『特別警報』発出で、家で”ながら見”で漬け『武漢脱出の舞台裏』コロナ発祥の地とされる武漢から、邦人800余人を日本に帰国させた事業?。こんなに多くに人が関わったのかと驚き周到な準備、半ば優先的といえる5便を発着させた外交努力に敬服でした。『うまれてくれてありがとう』ダウン症の30才になった青年が、幼い頃から憧れていた世界的なダンサーと、そのチームと共演を果たすまでの17年間の記録お気に入りの駅ピアノ・空港ピアノ・街角ピアノ。今回は沖縄コザ・ミュージックタウン街角ピアノ。以下引用 2020年10月、1台のピアノが置かれた。コロナ禍でも挑戦を続ける仲良し中学生。娘のためにピアノを始めた父親。半年ぶりにピアノを弾いた浪人生。結婚式の思い出の曲を弾く教師。ピアノの全国大会の受賞曲を弾く大学生。沖縄方言で日本の名曲を歌う男性… 兎追いしあの山 小鮒釣りしかの川 夢は今もめぐりて・・・クラシックや欧米の曲は一曲も無くて、沖縄の方々の郷土愛の深さを感じ、あの焦土となった敗戦当時の画像を思い出しまた週一で出かけるリハビリ。医院の受付に大好きなトトロの置物グッズが3個ティンコ♂が3才の時、雫石のホテルで一緒にDVDをみてからファンに。スキーに興じる両親から、ティンコ♂を預かった時、英語版で観たのですが、何となく理解できて…誰とも会わず、話もしない毎日ですが、あまり苦にもならず、娘たちとは3人組のラインで互いの無感染を確かめつつの日々です。
2020.12.26
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後期高齢者医療費負担額が、年金受給額200万円以上の受給者は、1割から2割に引き上げられるとNEWSが・・・金曜日は医院をハシゴしてしまいました内科は診療費490円。薬代400円。計890円。月1回。午後整形外科。骨粗鬆症の注射・超音波・マッサージで220円。週1回。月4回として880円。合計1770円。これくらいで済んでいる時は1割から2割に引き上げで、負担が倍になっても、別に「いいや」と言っていられますが、何年?か先に衰え病んだら医療費で家計が圧迫されるかも介護費用まで2割負担になることがありませんように私にとって身の回りの物は、軽いことが第一条件です。掛け布団も例外ではありません。薄い羽毛布団だけで、暖かさは電気敷き毛布で。暖房のために、エアコンを使うことはありません。PC作業には掛け毛布だったものを使い回してひざ掛け代わりに使っていました。所が、なんと同じ日に敷き掛け両方が通電しなくなってしまいました急遽、敷き毛布と、確かめもせず『USBひざ掛け』を購入しました。このひざ掛け、帰ってから、取説を見ると、『USB充電器やUSBバッテリーは付属していません。お客様ご自身ご用意ください。』検索してもどれを買ったらいいのか、見当がつきません再び、販売店へ出向いてみましたが販売店名入りのジャケットのオジサマに聞きました。第一声が「家に延長コードある?」「あります」「じゃあ、充電器やバッテリー買わないで、コンセントに延長コード差して、そのコードに、これを繋いで使えば、いつでも使えて、一々充電する必要ないよ」お陰様でたった500円の追加出費で、使用に漕ぎ付けました。団地の落葉樹。桜はすっかり葉を落とし、カエデだけが紅々と。
2020.12.13
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12月になったので、浴室の出窓の花をポインセチアにしました。100均で造花を買いあさり、季節の変わり目に取り替えています5月に緊急事態宣言が解除されてから、週に1・2度、Mrs.サマンサと食事をしていたのですが、涼しさと共にコロナ感染者数が増え始めたので、11月22日に、しばらく会うのを止めようと話し合いました。週明けに”都知事から”不要不急の外出を控えて”発言があり、追い打ちをかけるように”65才以上は家で自粛”そんなこんなで、目下の同居人は2体とも、もう50年以上住みついています。毎日の無事を、Mrs.サマンサ・ティンママ3人組のラインに報告するのが唯一の日課。とは言え、時には出かけなければならない時もあります。マスク着用で『アラ隠し』の眼鏡が曇ります。「曇らないレンズってありますか」「曇り悪いってのはあるけど、全く曇らないってのはないよな」いろいろ話して、たまの外出時にしか使わないと言うと「そんなら、買う程のことじゃないな。曇り止めを吹き付けてティッシュで延ばせばいいよ」帰り際に背中に『レンズの裏表に吹き付けてティッシュで延ばして拭き取るんだぞー」商売っ気なし。このチャンスに断捨離に精を出しますか
2020.12.04
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点字図書館の『点訳指導者』講習とテストに合格し、初めて依頼された冊子です。全く違う厳しい『世の中』が存在することを知らされ、 ”日本のどこかに私を待ってる人がいる~” 上から目線で点訳をしていた私は金槌で頭を叩かれた思いがしました。今はピッタリの言葉がありますね。NHK「チコちゃんに叱られる」ボーっと生きてんじゃねーよ!!50代になって、対面で視覚障がいの方と接することになって、この思いは一層強くなりましたどなたも、しっかり・懸命に生きていらっしゃいました。Oさんは、全盲ですが、生保の正社員。都立高校に通うお子様のPTAの会長さんでした。点字で書かれたPTA会報を墨訳させていただき、教育界の問題を知りました。Aさんは歌舞伎ファンでプログラムをお持ちになるのですが、演目の読み方には不案内でご迷惑をかけたこともあります。Sさんは(前項「般若心経」)落語ファンです。毎月、楽日に寄席にいらっしゃるので演目を読みます。他の日に行くと、「もぎり」から楽屋に連絡が入り、演目を変える配慮がされるとのこと。そんな迷惑かけられないよ。ハンディキャップを持つ方が身近にいると、双方が優しくなれるのですね。自分は如何に”ボーっと生きて”いたことかを思い知らされた7年間でした。点訳はしてあげるものではなく、させて頂くもの。行きついた思いなのに~~ある日、『点字と縁を切らなければ前へ進めない』との思いに取り憑かれ、用具や文書などを一切廃棄してしまいました~~2年経った今は、ただボーっと生きています。反省 無意識の内に何か身に着いたものはある筈と自画自賛・・・点字図書館の『点訳指導者』が唯一『資格』らしきものだったのですが、今、点訳者と名乗るには国家資格が必要になったようです。点字技能師とは点字に関する知識と技術を持った方を点字のスペシャリストとして、厚生労働省が認定する資格です。
2020.11.21
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母が 認知症になった時、わたしも同じDNAを持っているんだと漠然と不安をいだきました。何かで『手と頭を使うとボケない』と読んだか聞いたか記憶していました。市報で『点字講習会』が開催されることを知り、『手と頭を使うな!』と応募しました。これが点字との出会いです。講習会の初日、講師のY先生の第一声は「点字を続けるなら、頭の上にピピッとアンテナを張っておきなさい・・・」でした仙台市・川内市。どちらもセンダイシです。点訳ソフトでは、どう点字にしてくれるでしょうか職場の地名辞典は両手で抱えなければ運べないほど大型で重い物でした。ソフトにこれが全部登録されていたでしょうか手書きや6点入力でも、点訳者が疑念を持たずカワウチシと入力してしまえば、何人かの校正を経て、初めて目に留まることになります。村=ムラ?・ソン? 町=マチ?・チョー? 女川=オナガワ〇 オンナガワ✖ 『疑念があれば調べる』は鉄則ですが、頭上アンテナで知っていれば、誤点訳も防げます。ソフトで点訳したら、こんな訳をしてくれました なんだ百三番地=モモゾー□・ハンチ✖ 103・ハンチ〇(記号は数府、マス空けなし) ↑濁点 ↑数府 ↑濁点 Y先生とは、亡くなられるまで賀状の遣り取りをさせて頂きましたが、毎年『点字を続けてくださってありがとうございます』が冒頭の書き出しでした。長々と書き続けましたが、次回で終わりにしたいと思っています。
2020.11.12
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「般若心経、また出しといてよ」とSさん。お仏壇に毎日般若心経を唱えるそうです。話し合いを重ね、経典のフリガナに合わせて、点訳の長音表記に反しても、Sさんが唱えやすいように何度も推敲の末のSさん専用のファイルです触読していて、点字が薄くなり読みにくくなるとこの要求が出てきます。点字プリンターで打ち出して渡します。プリンタは最初は高価で個人で所有することは無理で、主に公共施設に置かれるだけでしたが、今では小型化され、個人で所有できるとBさんがで話してくださいました。6点入力が出来るパソコンの機種があります。画像が分かりにくいのですが、SDFとJKLを6点に対応させています。便利な機能で原稿を眼で追いながら、同時に手が点字タイプで覚えた複数のキーを同時に押して点字入力が出来ます。原文を漢字変換しながら入力し、点訳ソフトにかけるより何倍も速いのです。ここまでは、私の20年以上前のお話です。けれど現在でも『点訳は出来ますが、点字は読めません』の発言は変わっていないようで、Bさんや後輩などが職場でこの言葉で苦労しています。あえて言わせていただけば、それは点訳ではなく『点字変換』です。点字を読む勉強をなさってください。面倒な分かち書きなどまで分かってくださいとは言いません。点字を読めるように努力をなさっていただきたいと思います。6点の組み合わせで、かなに置き換える点字構成は、考案者のご苦心が分かる、本当に素晴らしいものです。
2020.11.07
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Mrs.サマンサと に行って来ました。校正で面倒なことは凹面・凸面の両面を読めるようになることだけではありません。濁点・半濁点・数字符などを書き落としてしまうと、マス目が1マス多くなるので、続く文節以降も(少なくとも行末までは)潰して書き直すことになり、かなり面倒な作業なのです。この大変な作業を一挙に解決してくれたのが、パソコン点訳です。点訳ソフトが考案され、無料開放されました。墨字の文章を入力し点訳ソフトにかけると、点字に変換してくれます。校正も墨字表記ですることが出来ます。当時、所属していた点訳グループに、お一人パソコンを扱うお仕事をされていらしゃった方が指導してくださることになり、当面、パソコンを持っている人から取り組むことになりました。「間違えても指1本で打ち直せばいい」と気の緩みが出てしまうのも仕方ないのでしょう。フロッピーに保存、複数部を打ち出すことが出来るます。ほどなく点字・点訳にふれることなく、いきなりパソコン点訳に取り掛かった人たちが出てきました。「点訳は出来ますが、点字は読めません」異口同音に堂々と発言されるのを聞いて、『それは点訳ではなくて点字変換だろうが』心の中で毒づきました。Bさんも先日ので「『点字が読める人が欲しい』と申し入れても職場の誰も分かってくれない」とおっしゃっていました。私が定年退職する時も、『読める』後任者が見つからず、1年定年延長になりました。後輩からも毎年『読めない』後輩の仕事を押し付けられると年賀状に愚痴が、、、具体例を持ち合わせていないので、記すことが出来なくて画期的なパソコン点訳ですが、様々な問題もあるようです
2020.11.05
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お昼前、嬉しいサプライズ。Mrs.サマンサがお手製の餡かけ焼きそばを「出前で~す」と 届けてくれました ロクもいっしょでした。点字の形も、分かち書きもマスターしました。点訳に取り掛かれます1行32文字。右から左へ書きます。16行で1ページです。書き終わりました書けたのは凹面です。人間のすることですから、必ず何か所かは間違えてしまいます校正をします。間違えた所を点消し棒で潰して、書き直しますが、当然、凸面を見ないと潰せません凸面は左から右へ読みます。点訳者は、殆どの人が触読(指で触って読む)は出来ません。目で読むしかないのです。点訳者は先ず、書く面(凹面)を覚えてしまいます。凹面で間違えを見つけても、凸面が読めないと、何行目の何マス目と数えてから直すという非効率な時間を費やすことになります。効率を上げるために、凹凸両面を読みこなすのは、結構、時間が必要なのです 書いた面(凹面) 読む面(凸面)触読は指の皮が柔らかくないと無理だと言われています。中途失明の方のご苦労が思いやられます。
2020.10.31
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木曜日午後8時からTBSにプレバトと言う番組があります。俳句のコーナーで、採点・添削されますが、講師の夏井いつき先生が、添削される時、しばしば、文法の話をなさいます。「文法か?いっとき夢中になって勉強したな!」点字は、カナ文字(表音文字)だけで成り立っているため、正しく読み・理解するために、文章には「分かち書き」というルールがあります。文節の間に区切りとして空白(マス空け)を挿入するものです。文節は、意味がわかる一番小さな単位の区切りのことです。文節に区切るには、「ネ」や「ヨ」を入れて自然な場所で区切ることがポイントです。「そっか。そっか」『秋は木々が色づきます』アキワ□キギガ□イロヅキマスと分かった気になっていると、『係る文節と受ける文節』「なんだ??こりゃあ」「ください」は「くださる」という敬語動詞の命令(依頼)形です。「閉めて/ください」の文節の数は2つですが、この場合「連文節」と言い、複数の文節で1つの働きをしています。【連文節の例】「わかって/ほしい」「やって/おく」「話して/みる」 共通点は前の文節が「~て」の形になることです。 また、「ほしい」「おく」「みる」も「欲しい」「置く」「見る」という本来の意味からは離れています。地道に文法を勉強し直すのが結局 近道なのかも? で~ さもないと、いつまでも ↑お世話になり、能率がアップしないことになります。書き上げてもthe endではないのです。校正という「かなり」面倒な作業をしなくてはなりません。
2020.10.24
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18日、スマホに『秋華賞 牝馬ディアリングダクト3冠達成』と表示が。。。文字サービスの勤務が金曜日に当たると、競馬新聞をお持ちになる方がいらっしゃいました。主目的は、ご自分のテープに、競馬新聞の音訳を録音し持ち帰られること。土・日の9~11レース、計6レース分を読みます。例えば、京都、11レース、菊花賞G1芝3000外回り。4枠7番ディープインパクト 57 牡3才 武豊と読み、前5走のうち、直近の2走の記録と、別掲されている調教記録を読む。これを書くと、長くなるので省略。「どう読んでもいいですよ。分かりますから」と言われるが、略語も実況アナウンサーが使用する言葉に、結びつき易い読み方をと思い、こよなく馬を愛し、競走馬への愛惜と、お仕事の一部でもある、Mr.nanに助けを乞うた。まぁ娘婿だから免じてと、迷惑承知で「WCはウッドチップ」「武豊の弟の幸のフルネーム」人名は正確に読まないと。トクガワ ヨシノブとトクガワ ケイキは違う将軍だと思っていたと、聞いたことがあったので、ここは正確にと。「美坂路は、美しい坂道ではなく、ミホハンロ」美浦ね。「じゃ栗はリットウ(栗東)か?」悪戦苦闘。これで予約時間90分の内、約60分経過。結果を訊くことはしない。6点の組み合わせは63通りあると言っても、あ行ア イ ウ エ オと符号類を覚えれば 規則性を理解して6点内へ加点すればいいので、難しいことではありません。点字を書くのも、点字版で1点ずつ書くか、点字タイプで1文字ずつ書くことも出来ます。人差し指・中指・薬指で。薬指は力が弱いので、点が薄くならないように要注意。こちらの方が新しい型。肘を張らずに書けそうです。これからが問題。表記法『分かち書き』をマスターしなければ点訳は出来ないのです。
2020.10.21
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