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写真嫌いの奥が珍しく素直に写っています。左が姉さん、中央がお母さん、右端が奥です。姉さんなんて相当な美人だと思う。お母さんも然り。奥もまぁそこそこ美人だと思う。お母さんにしたら一番の宝なんだろうなぁ~と思う。自分はというと、82歳の母を一人きりにしている。お金も十分あるし、俺みたいな馬鹿が顔を出さない方が幸せかな・・・とも思う。ひとつも良い事してやれなかった。親不孝の限りをしてしまった。自分の母は、自分の事をどう思っているんだろうか・・・母に対してした事なんて、一つも良い事はない。きっと『あの子さえいなければ…』と思っているかも知れない。そのくらい色んな事をした。40年以上前は、常習飲酒運転。まぁそれは当時はOKだったからいいとしても、あっちこっちで飲みまくり、金を使いまくりだった。そんな自分が塾を始めたのは、昭和56年9月。金は無い。人は無い。の船出だった。今思えば、親父さんが、『塾なんてやったって、大した金にならん。やめとけ。』と言ったのも分からんでもない。でも、税務署が来るまでになった。理由は大手は別として、『双葉さんの売上が群を抜いていたので。』だった。あの頃の売上は5600万円位あった。余分な事まで書いちゃいました。始末は『奥を大事にしたい。』です。
2016年07月31日
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まぁ、この『やくざっぽい』のが私です。でも自分のありのままはこれなんです。塾の先生らしくないと批判したけりゃいくらでもどうぞ…と思っているし、いちいち真面目なことばっかりやりたきゃやれ…ですね。私なんていなくても塾は廻ると思うけど、時々変なトラブルもあります。自分は用心棒みたいなものだなぁ~と時々思います。まぁ、それはそれでいいな…と思っています。村松歳蔵一家の末裔の小生は、義と理を貫徹したいと思います。やっぱしヤクザなんでしょうね。。。
2016年07月31日
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昨晩、杉山さんを塾が終わったあとの9時45分発の大阪行きのバスに乗れるように沼津駅の北口ロータリーまで送りました。『何しにいくんだね?』には、『掃除とかしなくちゃ、それくらいです。』と言っていた。『掃除なんか自分でやってるだろうが…』と思ったけど、振り返れば、自分の大学生時代にも、父母・妹達が来てくれて助かりました。男の一人暮らしなんて、女の一人でもいなけりゃどうにもならない。半分は『身辺チェックか?』とも思ったが、大阪大学の学生の航希に、そんな事があるとは思えない。先ほど電話で本人と話した。『大学は楽しいか?授業は難しい?自炊している?彼女は出来たか?』なんて、くだらない質問をしてみた。結果は、『大学は楽しいです。授業はまぁそれなりに。自炊は今のところしています。彼女は出来ません。』100%の答えだったと思います。まぁ一番いいのは、女がいない事ですね。小学校の入学式当日に、『学校なんて行ったて意味はない!!』とランドセルを肩から外して投げつけた航希とその母、杉山さんに、『塾長感服賞』を2万円進呈します。
2016年07月30日
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2016年07月30日
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人間なんて食べてなきゃ駄目だな…とつくづく思います。昨日の夕食は天ぷらがメインで、塾のまかない食はナスの炒め物とかチャーハン、赤ウィンナー、コロッケなど。まかない係は杉山先生です。ちなみに今夜、塾が終わってから深夜の高速バスで大阪の航希君の所へ行ってくるそうです。8時間かかるそうです。母は、頑張っちゃいますね。
2016年07月29日
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自宅マンションの通路で弱っていたクワガタ虫の『クワちゃん』です。トウモロコシが好物のようです。タッパーで『放し飼い状態』です。24日?に救助しました。逃げないんです、こいつは。。。なかなか可愛いな~もう5日もタッパーマンション暮らしです。
2016年07月28日
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今日から、極力早め(目標は午前10時前・杉山さんより1分でも早く)です。 杉山さんには夏期個別指導の設定やら、各種書類の作成を一手にやってもらっていて反省。自分はPCなんかは足元にも及ばないけど、トイレ掃除や書類の印刷、書類や段ボールなどの片づけ、送迎車の洗車などでがんばりたいと思います。目標は、杉山さんより1分でも早く塾に入る事です。◆2016夏期集中個別指導はこちらです◆◆7/26の夜の時点で905時間を受け付けました。ご希望であれば送迎車もご利用いただけます。◆塾長・村松の日誌です ◆副塾長・杉山の日誌です◆体験授業について ◆送迎バスについて
2016年07月26日
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ここ数日、何人かの外部生との面談をしています。はっきり言って成績は芳しくない生徒が多い。でも自分だって、中1の数学なんてボロボロだった。怒ってばかりの女の先生で、数学の授業がとてつもなく苦痛だった。なので勉強する気になれなかった。まぁ中1なんて子供だったし、先生に反発もできず我慢していただけ。でも中2の数学の先生に、ちょっと出来ると褒めてもらえた。男の先生だから、そんなに丁寧な言葉じゃなかったけど、『おっ!!村松、できてるじゃないか!!いいぞ!!』な~んて言われて嬉しくて調子に乗って勉強したのを覚えています。大学の数学科を専攻するようになれたのも、あの中2の時の数学の担任・金刺先生のおかげだと思う。あの時、あの先生に出会わなかったら、『数学が苦手な村松』のままだったかも知れません。おかげで会社を辞めてから35年近く塾もできました。今も数学が苦手、英語が苦手…なんて思っている中学生はおそらく沢山いると思います。でも、そんなのはちょっと努力すればどうにでもなるんじゃないか?と思っています。昨日、保護司会の方がお見えになりました。自分より5つ上の方でした。『沼津東から大学に行きましたが、沼東での最初の数学のテストの点数は3点でしたね。とんでもない点数でした。まぁそれから頑張って、最後には上から数えた方が早いとこまで行きましたね~』と。勉強なんて、そういうものだと思います。生徒募集も、夏期講習生の募集もしていますが、あまり今の成績の事には拘っていません。拘るのは、本人になんとかしたいという気持ちがあるか?と、親への感謝の気持ちがあるか?の2つです。この2つがない生徒は、いくらお金を積まれてもお受けできません。夏期個別指導の設定担当は、杉山美幸です。杉山も同じ考えです。長女は今、小学校の講師、長男は大阪大学、次女は沼津高専。本人も沼津高専卒です。まぁ子供さんたちも優秀だった。ある意味、羨ましい家庭だな…とは思いますが、自分が杉山を副塾長にしたのは、彼女の能力と人間味を買ったからです。いくら頭が良くても、それだけじゃあ学校の先生も、塾の先生も駄目だと自分は思っています。『笑顔で接する』『励ます』『叱る時は叱る。大人の考え方を教えてやる』『生徒の心を聴いてやる』この4つがないと駄目なんだと思います。入塾・夏期をお考えの保護者様の目に留まれば幸いと思います。塾長 村松芳範
2016年07月22日
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成績の振るわなかった塾生&講習生へ。『負けて勝つ』は敗戦国の日本のNHKのドラマだった。でも興味深く見入りました。祖父の晩年の言葉には、『たかが戦争に負けたくらいで、アメリカの言いなりになるのはおかしいと思う。』自分の耳にこびりついているのは、『たかが戦争に負けたくらいで…』の言葉。明治生まれの男の強さが凝縮されている。幼稚園から小学校の低学年まで、何回も聴かされた、あの『たかが戦争に負けたくらいで…』は、自分の性格に深く影響したと思います。人生なんて良いことばっかり、ありはしない。勉強が思うように行かなくて苦しんでいる生徒も多くいる。でも、2を3に、3を4になら出来るのではないかと思う。4を5に持ってくのは大変かも知れないけど、十分可能ではないかと思う。杉山さんと、そういう話をしたけど、あの人は珍しい人で、『私は、勉強が趣味でした。』と言いきっていた。『だって部活もやったけど、所詮は部活じゃないですか?勉強で頭角を出せた方が絶対いいなって思いましたよ。。。』まぁ勉強が趣味は後にも先にも杉山さんしかいない。そうでなければ、副塾長になんてしていません。今回、もし悪い評価をもらった生徒には、『こんちきしょう』と、発奮して貰いたいと思います。
2016年07月21日
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20年位前にテレビのインタビューで聴いた言葉。アフガニスタンの戦争で、タリバンの兵士が発した言葉に、『最後の血の一滴まで闘う。』と言うのがあった。戦争なんて最後の外交交渉であるには間違いないけど、この人達すごいな…と思ったのを覚えている。塾生にあっても、そういう気持ちで高校進学に臨んでもらいたい。まぁ、極端と言えば極端なのだけど、命を賭けてるな…と思った。高校入試程度で亡くなるのは滅多にない。『あと数ヶ月の闘いだと思って頑張ってもらいたい。』率直な想いです。
2016年07月20日
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昨日の『塾長・村松の日誌』の方では、『親なんて損な役回りだ。。。』と書きました。まぁうちは息子しかいないので、『父の日のプレゼント』は長男が保育園の時に作ってくれた、折り紙でのプレゼントくらいしかない。テレビの『父の日のプレゼント』のコマーシャルなんて見てると、半分羨ましい時もある。でも、あれらが生まれてきてくれた時、本当に、『これで俺の息子たちを残せた。いつ死んでもいい。』そう思えた。なんと表現したらいいのかよくわからないが、『これで俺が生まれて来た証拠は残ったぞ。。。』みたいな感じだった。まぁ子供が生まれて、『いつ俺は死んでもいい。』というのはおかしいけど、そのくらい嬉しかった。七五三もクリスマスも、あちこちの旅行も経験させてもらった。高校・大学のお金払いも経験させてもらいました。ということで、『親は損な役回りだな。。。』は撤回させて貰って置きます。◆2016夏期集中個別指導はこちらです◆◆塾長・村松の日誌です ◆副塾長・杉山の日誌です◆体験授業について ◆送迎バスについて◆検定試験受付中です
2016年07月19日
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奥と結婚したのは昭和61年の5月3日だったので、丸30年が経った。杉山さんは平成2年4月1日入社。もう塾歴26年が経った。自分が塾を始めたのは昭和56年9月1日。24歳だった。奥も杉山さんも強くなったなぁ。。。家にいても塾にいても、厳しい目に監視されてる感じ。奥に『お前が死んじゃったら、俺も後をくっついて行くよ。』と言ったら、『やめて~ついて来ないで~。いつもお前が死んだら、俺どうすりゃいいんだって言うけど、いつだって私の言う事なんて聞いてくれないじゃん。好き勝手にやれていいじゃないの~食事の支度とか、洗濯とかは自分でやってね。料理も洗濯も出来るじゃない?』と言われた。まぁずいぶん好き勝手にお金も使ったので頭はあがらない。杉山さんには昨日、『親父さんも亡くなってしまって、今は専属は俺と杉山さんだけになっちゃったね。俺が死んじゃったらどうする?』と聞いたら、即座に返答があった。『私は、平気ですよ。』と。 『え…それって俺が死んでも塾をやってくれるって事?』には、『ええ。そのつもりでいますよ。それなりにやりますよ。』と。あっさり言われ頼もしいような、寂しいような複雑な気分です。杉山さんが沼津高専を卒業と同時に入社された時に、父は言った。『新卒の人を採るからには、ちゃんとしてあげなくては駄目だ。』だから中小企業退職金共済や、厚生年金、健康保険等も整えた。国民年金、国保なら事務所の負担金は驚くほど安い。自分がいくらでも給与として取れただろうに、父はそういう事はしなかった。『お前は従業員の人を大切にしろ。それが巡り巡ってお前を守ってくれると思うぞ。』 母も高齢になり、あと何十年も生きれるとは思えない。自分も然り。 数年前には、『大腸ポリープ』の簡単なはずの手術が、まさかの『緊急オペ』になってしまい、奥は『この人は、帰って来れないかも知れないと覚悟した。。。』と言っていた。看護師だから妙に説得力があった。 当の自分は術後1日目、2日目だけは、かなり苦しかったけど、3日目からは点滴棒を2本持って、ヨロヨロしながら喫煙場所まで行ったり来たりしていた。まさか奥が自分の死を覚悟していたとは思わなかった。 まぁそんな事もあって、『遺言書』も書いた。奥にはお金の少しも残してあげなきゃ、亡くなられた義父との約束が守れない。生命保険の類はすべて奥に行くように、いくらもない現金も奥に行くように書いた。長男・次男が文句を付けるとも思えない。塾の土地・建物は無償で杉山さんに貸すように書いた。奥と何年か前の三島大社の初詣の最中に、『俺が死んだら、塾はどうなるのかな?俺は、杉山さんがやるっていうならタダで貸してやって欲しいさ。でも、出来ないってなったら仕方ないから売れ。出来ればやって欲しいなぁ。。。俺と親父さんで一緒に仕事をしたとこだし、親父さんが植えてくれた最後の記念のアメリカハナミズキも植えてあるからね。。。』には、『いいと思うよ~。杉山さんがやってくれたらいいわね~』だった。女の人の生命力には完敗です。以上。
2016年07月09日
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IMG_1036 IMG_1027 IMG_0610 IMG_1072 IMG_1303IMG_1144奥と結婚したのは昭和61年の5月3日だったので、丸30年が経った。杉山さんは平成2年4月1日入社。もう塾歴26年が経った。自分が塾を始めたのは昭和56年9月1日。24歳だった。奥も杉山さんも強くなったなぁ。。。家にいても塾にいても、厳しい目に監視されてる感じ。奥に『お前が死んじゃったら、俺も後をくっついて行くよ。』と言ったら、『やめて~ついて来ないで~。いつもお前が死んだら、俺どうすりゃいいんだって言うけど、いつだって私の言う事なんて聞いてくれないじゃん。好き勝手にやれていいじゃないの~食事の支度とか、洗濯とかは自分でやってね。料理も洗濯も出来るじゃない?』と言われた。まぁずいぶん好き勝手にお金も使ったので頭はあがらない。杉山さんには昨日、『親父さんも亡くなってしまって、今は専属は俺と杉山さんだけになっちゃったね。俺が死んじゃったらどうする?』と聞いたら、即座に返答があった。『私は、平気ですよ。』と。 『え…それって俺が死んでも塾をやってくれるって事?』には、『ええ。そのつもりでいますよ。それなりにやりますよ。』と。あっさり言われ頼もしいような、寂しいような複雑な気分です。杉山さんが沼津高専を卒業と同時に入社された時に、父は言った。『新卒の人を採るからには、ちゃんとしてあげなくては駄目だ。』だから中小企業退職金共済や、厚生年金、健康保険等も整えた。国民年金、国保なら事務所の負担金は驚くほど安い。自分がいくらでも給与として取れただろうに、父はそういう事はしなかった。『お前は従業員の人を大切にしろ。それが巡り巡ってお前を守ってくれると思うぞ。』 母も高齢になり、あと何十年も生きれるとは思えない。自分も然り。 数年前には、『大腸ポリープ』の簡単なはずの手術が、まさかの『緊急オペ』になってしまい、奥は『この人は、帰って来れないかも知れないと覚悟した。。。』と言っていた。看護師だから妙に説得力があった。 当の自分は術後1日目、2日目だけは、かなり苦しかったけど、3日目からは点滴棒を2本持って、ヨロヨロしながら喫煙場所まで行ったり来たりしていた。まさか奥が自分の死を覚悟していたとは思わなかった。 まぁそんな事もあって、『遺言書』も書いた。奥にはお金の少しも残してあげなきゃ、亡くなられた義父との約束が守れない。生命保険の類はすべて奥に行くように、いくらもない現金も奥に行くように書いた。長男・次男が文句を付けるとも思えない。塾の土地・建物は無償で杉山さんに貸すように書いた。奥と何年か前の三島大社の初詣の最中に、『俺が死んだら、塾はどうなるのかな?俺は、杉山さんがやるっていうならタダで貸してやって欲しいさ。でも、出来ないってなったら仕方ないから売れ。出来ればやって欲しいなぁ。。。俺と親父さんで一緒に仕事をしたとこだし、親父さんが植えてくれた最後の記念のアメリカハナミズキも植えてあるからね。。。』には、『いいと思うよ~。杉山さんがやってくれたらいいわね~』だった。女の人の生命力には完敗です。以上
2016年07月09日
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自分には二人の息子がいる。もちろん二人とも可愛いが、長男は最初の子供と言う事で格別に可愛がった。『気をつけ!!!』 『礼!!休め!!』なんてのも、よくやった。長男は海外出張が多い。でももしもそこでテロにでもあったら、自分は必ず復讐しに行くと思う。きっと勝てなくて、殺されると思うけど、それでも行くと思う。
2016年07月05日
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息子よ。必ず生きて帰って来いよ。。。『しっかり勉強しろと言って育てた。』 平成元年、2年と長男、次男は生まれた。本当に嬉しかった。『俺はいつ死んでもいい。』とさえ思った。小学生の頃はあまり勉強の事は言わなかったけれど、中学生からはシビアな目で見ていた。きっと、『うるさい親父だな。。。』と思っていたと思う。高校を卒業すると大学進学で家を出る。どこにでもある話で、自分もそうだった。大学を出て、就職したのは外資系の会社。競争率200倍。良い会社に入って良かったなぁ。。。と思っていたけど、本当に良かったのかなぁ…と時々思う。毎回、毎回、海外出張の度に、『必ず生きて帰って来い。』なんてメールするのも、どこかおかしい気がする。『死んで花見が咲くものか。。。』の気分です。 次男は中高一貫の学校の先生をしているが、これはこれで似合わない気がする。あれは体力勝負の自衛隊とか、警察関係の方が似合っていると思う。 今回、浜松出身の酒井夕子さんが命を奪われた。命を落とすのと、命を奪われたのは決定的に違うと思う。交通事故に巻き込まれたなら命を落としたと思う。でも今回のは、命を奪われたと思う。ご遺族の方々には哀悼の意を捧げます。
2016年07月05日
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平成24年10月2日に亡くなった親父さんとは、塾の仕事を31年間一緒にやってきた。昭和56年9月に『塾なんて儲からないからやめとけ。』という親父さんの制止を振り切って強引に開塾した。 結果は親父さんの言う通りになった。生徒は集まらない、給料に窮する。支払いに窮する。大学卒業までは湯水の如くお金を使っていた。仕送りの最高は一ヶ月で45万円。35年前の45万は今の60万円以上の価値はあったと思う。若かったから飲んで食べて遊び廻ってでの出費。『極楽トンボ』そのものだった。でも、いくら馬鹿でも『大学でたら親に迷惑はかけられない。』と思っていたが、世の中そうそう甘くはない。 金の力には勝てなかった。結局300万円貸して貰って数年を過ごした。ボールペン1本、鉛筆1本を節約した。学生時代はそんなこと全くした事がなかった自分が、『金がない』事を思い知らされた。いつのまにか親父さんと同じ事をしているなぁ…と思う。平成5年の時だったと思うが、お金が廻らなくなった時があった。さすがに疲弊して、『俺、もう塾を閉めるよ。。。お金も廻らない。もう疲れた。』 その時の親父さんの言葉は、『芳範、われが一生懸命やったのは分かっている。700万や800万の金で、ビッコをひくな。その金は俺がなんとでもしてやる。だけどな、覚えてろよ、借金してでも金は払え。それが信用だぞ。忘れるなよ。』だった。親父さんは亡くなってしまった。前のように喧嘩も出来ない。事務所の親父さんの部屋は、最後に来た9月26日?のまま。親父さんと自分とは、亡くなろうが、生きていようが、すぐ身近にいる気がしてならない。
2016年07月03日
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